きょう(5月3日)、5月1日に訪ねた演海村や田邊園村の近くの林市村で、陳玉勤さん(85歳)、陳玉理さん(1935年生)に話を聞かせてもらいました。
陳玉理さんの弟(海北二と呼ばれていた。理玉理さんは海北一)は、対岸の文昌の秀田村に養子にいったが、そこで日本兵に殺されたそうです(秀田村虐殺については、紀州鉱山の真実を明らかにする会企画・制作『(ドキュメンタリー)日本が占領した海南島で 60年前は昨日のこと』(2004年)、紀州鉱山の真実を明らかにする会編『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』(2005年5月)25頁、紀州鉱山の真実を明らかにする会制作『〈写真集〉日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(2007年2月)8~9頁、およびこのブログの2007年2月14日の「日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究3」などをみてください)。
陳玉勤さんと陳玉理さんに話を聞かせてもらったあと、陳嘉興さん(1953年生)に、1938年に日本軍に焼き殺された近親者の墓碑に案内してもらいました。この墓碑に、わたしたちは2004年12月19日に王琨章さん(演豊鎮辺海村委会下山村)と王運章さん(演豊鎮辺海村委会龍江村)に案内されてきたことがありました。
陳嘉興さんによると、この墓碑は、ベトナムのサイゴンでコーヒー栽培をしていた二人の叔父が建立したものだとのことでした。
墓碑のまえで陳嘉興さんの話を聞いていると、黄秀仙さん(1913年~1943年8月11日)のお孫さん(陳玉武さん。1965年生)とその連れ合いさんが来て、黄秀仙さんについて話してくれ、黄秀仙さんの住んでいた林市村の家に案内してくれました。
黄秀仙さんは、1929年に結婚して林市村に住んだが1939年9月に中国共産党に加入し林市村婦救小組副組長になりその後抗日運動をすすめたが1943年8月11日に演豊の長寧宁村附近で日本兵に殺害されたとのことです。
午後4時ころ、海口市瓊山区紅旗鎮昌洽村に行き、呉学漢さん(1930年生)に話を聞かせてもらい、日本軍が住民を殺害して現場の跡に案内してもらいました。わたしたちが10年ほどまえに昌洽村で話しをきかせていただいた林紹富さんは数年前に亡くなられていました(『〈写真集〉日本の海南島侵略と抗日反日闘争』29頁をみてください)。
佐藤正人
陳玉理さんの弟(海北二と呼ばれていた。理玉理さんは海北一)は、対岸の文昌の秀田村に養子にいったが、そこで日本兵に殺されたそうです(秀田村虐殺については、紀州鉱山の真実を明らかにする会企画・制作『(ドキュメンタリー)日本が占領した海南島で 60年前は昨日のこと』(2004年)、紀州鉱山の真実を明らかにする会編『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』(2005年5月)25頁、紀州鉱山の真実を明らかにする会制作『〈写真集〉日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(2007年2月)8~9頁、およびこのブログの2007年2月14日の「日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究3」などをみてください)。
陳玉勤さんと陳玉理さんに話を聞かせてもらったあと、陳嘉興さん(1953年生)に、1938年に日本軍に焼き殺された近親者の墓碑に案内してもらいました。この墓碑に、わたしたちは2004年12月19日に王琨章さん(演豊鎮辺海村委会下山村)と王運章さん(演豊鎮辺海村委会龍江村)に案内されてきたことがありました。
陳嘉興さんによると、この墓碑は、ベトナムのサイゴンでコーヒー栽培をしていた二人の叔父が建立したものだとのことでした。
墓碑のまえで陳嘉興さんの話を聞いていると、黄秀仙さん(1913年~1943年8月11日)のお孫さん(陳玉武さん。1965年生)とその連れ合いさんが来て、黄秀仙さんについて話してくれ、黄秀仙さんの住んでいた林市村の家に案内してくれました。
黄秀仙さんは、1929年に結婚して林市村に住んだが1939年9月に中国共産党に加入し林市村婦救小組副組長になりその後抗日運動をすすめたが1943年8月11日に演豊の長寧宁村附近で日本兵に殺害されたとのことです。
午後4時ころ、海口市瓊山区紅旗鎮昌洽村に行き、呉学漢さん(1930年生)に話を聞かせてもらい、日本軍が住民を殺害して現場の跡に案内してもらいました。わたしたちが10年ほどまえに昌洽村で話しをきかせていただいた林紹富さんは数年前に亡くなられていました(『〈写真集〉日本の海南島侵略と抗日反日闘争』29頁をみてください)。
佐藤正人