京都は千年の間日本の都でしたから、その間に建てられたり、焼失して再建された宮殿や神社仏閣、屋敷、住宅の数は膨大です。その用材は、紀州や中国、四国、九州方面からは瀬戸内海→大阪湾→淀川→鴨川というルートで運ばれました。
そして、丹波地方(京都の北)の木材は保津川を通じて筏で運ばれました。その保津川の筏を復活させようというプロジェクトが始まったというので、亀岡まで足を伸ばして見てきました。
(亀岡駅前には保津川百景のジオラマが設置してあります)
現在は、亀岡から京都の嵐山まで船で観光する「保津川下り」しか残っていませんが、昔は最盛期で年間60万本もの材木が筏で運ばれたそうです。京都だけでなく、さらに下流の伏見城や大阪城の造営にも貢献したとか。
保津川は嵐山からは桂川、さらに大阪方面では淀川と名前を変えますが、その流域には「梅津」など津(=港)のつく地名がいくつかあります。それは筏の中継地の名残りだそうです。
(若い筏士たちが慣れない竿さばきで下っていきます)
保津川大橋の上で待っていると、6連の筏がゆったりと流れてきました。この日は約3kmのテスト運行ですが、昔は曲がりくねった保津川の急流を筏士たちが巧みに竿を操って京都まで木材を運んだわけです。
60年ぶりの復活と言うものの、木材運搬のための実用的な復活ではなく、生存する元筏士が3名になったため、その伝統技術を継承しようというプロジェクト。終了後に本部テントへ出向いて聞いたら、樹種は前の5連がスギ、最後の1連がヒノキで、1連につき材木が11~12本組んであるとのこと。
以前は、1連に20本以上の丸太を組んで12連の筏を連ね、1乗で250本から300本の材木を運んだそうです。明治40年には約3,000乗の筏が下ったという記録が残っています。
現在はトラックで運んでいますが、川の流れを利用して木材を運ぶというのはエネルギーも要らないし、一度にたくさん運べるし、今でもけっこう実用的じゃないかなと思えました。
そして、丹波地方(京都の北)の木材は保津川を通じて筏で運ばれました。その保津川の筏を復活させようというプロジェクトが始まったというので、亀岡まで足を伸ばして見てきました。
(亀岡駅前には保津川百景のジオラマが設置してあります)
現在は、亀岡から京都の嵐山まで船で観光する「保津川下り」しか残っていませんが、昔は最盛期で年間60万本もの材木が筏で運ばれたそうです。京都だけでなく、さらに下流の伏見城や大阪城の造営にも貢献したとか。
保津川は嵐山からは桂川、さらに大阪方面では淀川と名前を変えますが、その流域には「梅津」など津(=港)のつく地名がいくつかあります。それは筏の中継地の名残りだそうです。
(若い筏士たちが慣れない竿さばきで下っていきます)
保津川大橋の上で待っていると、6連の筏がゆったりと流れてきました。この日は約3kmのテスト運行ですが、昔は曲がりくねった保津川の急流を筏士たちが巧みに竿を操って京都まで木材を運んだわけです。
60年ぶりの復活と言うものの、木材運搬のための実用的な復活ではなく、生存する元筏士が3名になったため、その伝統技術を継承しようというプロジェクト。終了後に本部テントへ出向いて聞いたら、樹種は前の5連がスギ、最後の1連がヒノキで、1連につき材木が11~12本組んであるとのこと。
以前は、1連に20本以上の丸太を組んで12連の筏を連ね、1乗で250本から300本の材木を運んだそうです。明治40年には約3,000乗の筏が下ったという記録が残っています。
現在はトラックで運んでいますが、川の流れを利用して木材を運ぶというのはエネルギーも要らないし、一度にたくさん運べるし、今でもけっこう実用的じゃないかなと思えました。
確かにエネルギー問題という点では有効ですね。
観光名物にもなるでしょうし。
こうしたことも伝統の技が失われつつあるんですね。
国や自治体ももっと積極的に補助などしないものかなと・・・
府としては京都の嵐山まで流したいそうですが、まだ京都市と調整ができていない、と言ってました。
でも、そのうちに観光資源として育てて嵐山までつながるのではないでしょうか。