京都市美術館で開催されている「ゴッホ展」を見てきました。
画家を夢見ていた子どもの頃ゴッホの画集に親しんだこともあって、期待に胸膨らませて入場しました。しかし、小品や習作が多く、ヒマワリや糸杉などゴッホらしい燃えるような作品がなかったので見応えはイマイチ。
「空白のパリを追う」というサブタイトルどおり、ゴッホの歴史を理解するにはいいかも知れませんが、「ゴッホ展と銘打つにはちょっとな~」という感じでした。
ただ、鳥好きとして注目すべき展示がありました。『ヤマウズラが飛び立つ麦畑』という作品。
ミュージアムショップで買った絵ハガキ(麦畑の上の黒い影がヤマウズラ)
資料によると、この作品を所有していた義妹(弟・テオの未亡人)が、描かれている鳥をヒバリと思い込んでいたため、当初は『ヒバリが飛び立つ麦畑』というタイトルだったものの、その後、自然愛好家が鳥の大きさや頭が黒いこと、低く飛ぶ習性などから「ヤマウズラ」と同定し、それ以降現在のタイトルになったとのこと。
ご丁寧に、作品の横にはヒバリの剥製とヤマウズラの剥製が展示してありました。
ヨーロッパではヒバリのさえずりが「天上から聞こえてくるロマンティックな声」と認識されていて、未亡人もその先入観からヒバリと思い込んだそうです。私にはヒバリのさえずりがロマンティックとは思えませんが、ヨーロッパのヒバリは声が違うのでしょうか。
面白いことに、ゴッホはもう一つ似たような作品を残しています。今回の展示にはなかった『カラスのいる麦畑』。
こっちの方がゴッホらしいですね(画像はパブリックドメイン)
ところが、この作品に描かれている鳥がカラスである根拠はなく、遺族が公式に認めているタイトルも『黒い鳥のいる麦畑』。展示会や画集によって「カラス」と表記されたり、「黒い鳥」と表記されているようです。
孤高の画家が描いた鳥に後世の人たちが振り回されているわけです。本人にすれば、ヒバリだろうがヤマウズラだろうがカラスだろうが、「無用な詮索をするな!」というところでしょうけどけどね~。
画家を夢見ていた子どもの頃ゴッホの画集に親しんだこともあって、期待に胸膨らませて入場しました。しかし、小品や習作が多く、ヒマワリや糸杉などゴッホらしい燃えるような作品がなかったので見応えはイマイチ。
「空白のパリを追う」というサブタイトルどおり、ゴッホの歴史を理解するにはいいかも知れませんが、「ゴッホ展と銘打つにはちょっとな~」という感じでした。
ただ、鳥好きとして注目すべき展示がありました。『ヤマウズラが飛び立つ麦畑』という作品。
ミュージアムショップで買った絵ハガキ(麦畑の上の黒い影がヤマウズラ)
資料によると、この作品を所有していた義妹(弟・テオの未亡人)が、描かれている鳥をヒバリと思い込んでいたため、当初は『ヒバリが飛び立つ麦畑』というタイトルだったものの、その後、自然愛好家が鳥の大きさや頭が黒いこと、低く飛ぶ習性などから「ヤマウズラ」と同定し、それ以降現在のタイトルになったとのこと。
ご丁寧に、作品の横にはヒバリの剥製とヤマウズラの剥製が展示してありました。
ヨーロッパではヒバリのさえずりが「天上から聞こえてくるロマンティックな声」と認識されていて、未亡人もその先入観からヒバリと思い込んだそうです。私にはヒバリのさえずりがロマンティックとは思えませんが、ヨーロッパのヒバリは声が違うのでしょうか。
面白いことに、ゴッホはもう一つ似たような作品を残しています。今回の展示にはなかった『カラスのいる麦畑』。
こっちの方がゴッホらしいですね(画像はパブリックドメイン)
ところが、この作品に描かれている鳥がカラスである根拠はなく、遺族が公式に認めているタイトルも『黒い鳥のいる麦畑』。展示会や画集によって「カラス」と表記されたり、「黒い鳥」と表記されているようです。
孤高の画家が描いた鳥に後世の人たちが振り回されているわけです。本人にすれば、ヒバリだろうがヤマウズラだろうがカラスだろうが、「無用な詮索をするな!」というところでしょうけどけどね~。
鳥しか考えられなかった私は了見が狭いです(笑)。
下の絵も、カワウにも見えるし、コウモリにも見えるし、カラスにも見えます。いずれにしても、ゴッホは写実的に描いたわけではないので、種類にこだわることはないんでしょうけど。
鳥にはそれぞれ色形が違う上に独特の行動様式があるので、ヤマウズラのほうは、後の人がヒバリではないと意義を唱えて変わったということは、ゴッホはヤマウズラをしっかりと見て描くことができたということなのでしょうね。
カラスのほうはカラスだと思いたいです、ハシボソガラス(笑)。
そういう説を主張している美術研究家がいるんですね?
鳥だとするとカラスにしか見えないですが、コウモリなら納得できますね。