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樹樹日記

じゅじゅにっき。樹木と野鳥に関する面白い話をご紹介します。

彦根城

2011年05月19日 | 木造建築

しばらく前、仕事で日本の城を調べる機会がありました。そこで驚いたのは、建築時期が集中していること。天正8年(1580)から慶長5年(1600)の20年間に、姫路城、大阪城、松本城、二条城、熊本城など主要な城が18も築造されています。私が調べた35基のうち半分がこの時期に建てられているのです。

着工から竣工まで45年かかるでしょうから、当時の日本はお城の建設ラッシュだったわけで、ものすごい量の木材が消費されたはずです。「全国の良質なヒノキやケヤキが伐採され尽くしたのではないか」とさえ思えます。

そんなことから城郭建築に興味が湧いたので、連休中に彦根城を見学してきました。日本には昔のままの天守を有する城が12残っており、彦根城もその一つ。しかも、姫路城、松本城、犬山城と並ぶ国宝。築城400年のキャラクターとして生まれたのが「ひこにゃん」です。

 

 

 

しかし、彦根城はリサイクルで建てられたので、木材をあまり消費していません。理由はもちろんエコではなく、経費節約でもなく、きわめて政略的。

この近辺には石田三成の居城であった佐和山城をはじめ豊臣方の城があったので、それらを解体して西軍の残党の勢力を削ぐことが主な狙い。しかも再利用すれば早く築城できるという一石二鳥です。

考えたのは徳川家康。関ヶ原で軍功を上げた徳川四天王の一人・井伊直政に近江を与え、天守は大津城から、多聞櫓は佐和山城から、西の丸三重櫓は小谷城から移築したそうです。

 

 

石田三成の居城から移築した多聞櫓

 

下の写真は多聞櫓の柱ですが、カンナではなくチョウナではつった凹凸跡があります。カンナがなかった室町~戦国時代に築かれた佐和山城の木材をそのまま使ったのではないでしょうか。

 

 

 

城にはドラマがあって、特に姫路城の歴史は波乱万丈です。築城以来大きな戦さを経験せず、また明治維新で新政府軍と一触即発の状態に陥りながらも戦闘を回避。また、明治6年の廃城令で競売にかけられたものの、落札者が放置したために権利を失い、城のまま残りました。

さらに、多くの城が空襲で焼失する中、姫路城に着弾した焼夷弾は2発とも不発。姫路の町が焼け野原になったにもかかわらず城だけは残りました。そうした幸運が重なって、日本初の世界遺産になったわけです。

 

 

Himeji Castle 11 by Shadowgate

 

現在は平成の大改修で外観が隠れていますが、そういうドラマを知るとよけいに姫路城を見に行きたくなります。

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蔵王堂の柱

2011年04月21日 | 木造建築

平日、仕事をサボって調整して吉野に出向いた目的は、ヤマザクラ見物のほかにもう一つありました。金峯山寺(きんぷせんじ)の蔵王堂に使われている木材を見ること。

1年ほど前、蔵王堂の柱にはナシやツツジなど多様な木が、しかも自然木のまま使われているという情報をキャッチし、「これはぜひ見に行かなければ」と思っていました。同じ行くなら桜の季節にしようと、1年間待っていたのです。

蔵王堂の案内板には、「堂内の柱は全部で68本あり、一本として同じ太さのものはなく、すべて自然木を素材のまま使用している。材質も様々で、杉、桧、欅などの他に梨やツツジの柱もあり一定しない」と書いてあります。

 

 

蔵王堂は国宝

 

寺院建築の特に柱はヒノキを使うのが普通で、ナシやツツジを使うのは極めて珍しいです。残念ながら撮影禁止で写真をお見せできませんが、蔵王堂の内部を拝観すると、古びた柱に「神代杉の柱」とか「梨の木」と表示してあります。

しかし、ツツジは柱にするほど太くはなりませんし、お寺に質問すると「ツツジの原種」と答えるそうですが、不可解です。アセビやネジキ、シャシャンボなどツツジ科の中にはけっこう大きくなる樹もありますが、直径1mもの柱に使える巨木があるとは思えません。

帰宅して調べると、ツツジと伝わる柱を奈良女子大学の教授が調査したところ、チャンチンだったそうです。中国原産のセンダン科の樹木で、日本の野山には自生しません。おそらく中国から寄進されたのでしょう。いずれにしても柱の樹種としては異例です。

 

 

 

横手に廻ると、上の写真のように1本だけ白っぽく変色している柱がありました。材質が異なるために、長年の風化の過程で他の柱と違う色になったのでしょう。

また、下の写真のように上の方が少し細くなったり、曲がった柱もありました。自然木をそのまま使ったからでしょうか。

 

 

 

ヒノキをはじめスギ、ケヤキはお寺や神社、お城などに用いられるので強度や耐久性は実証済みですが、ナシやチャンチンには柱に用いるほどの物理的な特性があるのでしょうか。その点でも気になる建造物です。

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林業界の女性パワー

2011年02月10日 | 木造建築

民主党政権は「2020年までに木材の自給率50%」という目標を掲げています。現在が25%程度ですから、倍増しようというわけです。雇用対策という側面もあって、林業を成長戦略の一つに位置づけて100万人の雇用創出を目論んでいます。 

それを実現するため、昨年末に「森林・林業再生プラン」を策定しました。その委員会の座長を務めた岩手大学の教授を囲むシンポジウムが京都で開催されたので行ってきました。

 

シンポジウム「日本林業再生の道PartⅥ」

 

私は林業の素人ですが、教授の話を聴いていていろいろ疑問が湧きました。例えば、「適切な森林施業を行う仕組み」として「伐採、更新のルールの明確化」が上げられていますが、「そんなことがまだ決まっていなかったの?」と驚きました。今までの農林行政は何をしていたのでしょう。

もう一つは、「このプランも絵に描いた餅に終わるだろうな」という感想。確かな根拠はありませんが、あまりにもいいことづくめで、シナリオが楽観的過ぎると思いました。例えば、「木造建築の担い手となる人材の育成」が掲げてありますが、市場のニーズがないのに人材だけ育成してもしょうがないでしょう。

シンポジウムには教授のほかに、木材会社の専務、建築家、琵琶湖の森づくりを進めるNPO代表が参加しました。3人とも女性です。木材会社の専務も政府のプランに疑問を持ったらしく、けっこう厳しい突っ込みを入れていました。

その一方で、それぞれの実績を知って頼もしい思いもしました。女性専務はコストダウンを図るために新しい苗植え器を導入したそうですし、建築家は需要に限界のある住宅に代って今後は工場など産業施設を木造化するべきだと提案し、実際に木造の工場を作っていました。NPOも消費者と山主をつなぐさまざまな取り組みを実行しています。

 

 

間伐材で建築中の工場

 

何よりも、林業の世界でこんなに女性が活躍していることが頼もしかったです。政府のプランには少々疑問が残りますが、木材自給率50%や雇用創出は誰もが願うこと。女性パワーに期待しましょう。

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檜皮葺

2010年12月23日 | 木造建築

京都には神社や寺院がたくさんありますが、その建物の屋根の多くはヒノキの樹皮を使った檜皮葺(ひわだぶき)です。現在、日本全国に檜皮葺の建築物が約730棟あり、そのうちの2割、150棟が京都市内にあるそうです。

 
京都御所の建春門の桧皮葺。分厚くて立派

しかし、檜皮を採取する原皮師(もとかわし)や檜皮葺師が減少し、伝統的な建築物の保存や補修が難しくなったため、京都市はその後継者を育てるための拠点をつくりました。長ったらしい名前ですが、「京都市文化財建造物保存技術研修センター」。清水寺のすぐ近くにあります。
2階には檜皮葺のサンプルや資料が展示され、一般の人も見学できます。私が訪れた時は、1階の部屋で職人さん風の若い衆が実習していました。

 
普通は見上げるだけの檜皮葺が手で触れられます

神社や寺院の本体はヒノキで造られていますから、日本の伝統的建築物は上から下までヒノキということになります。ヒノキの皮を屋根に使うことを誰が最初に思いついたのか知りませんが、その発想の柔軟さに敬意を覚えます。

 
130kgの檜皮

 もともと伝統的な建築物は瓦葺が主流で、付属的な建物だけが檜皮葺だったそうですが、上の御所の門のように軒先を分厚く見せる技法が考案され、屋根が曲線を描くようになってから主要な建物にも採用されるようになったとのことです。
記録では、比叡山にあった崇福寺(廃寺)の金堂や三重塔などが檜皮葺だったことが確認されていて、その建築年は633年。奈良時代以前から檜皮葺が使われていたわけです。
1400年も続いてきた伝統技法を21世紀で途絶えさせないために、このセンターで若い後継者が育って欲しいですね。

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世界最古の建築木材

2010年10月25日 | 木造建築
奈良の元興寺(がんごうじ)というお寺の屋根裏で世界で最も古い現役の建築木材が発見され、「屋根裏探検」という面白い説明会が催されました。
このお寺の前身は飛鳥時代に建てられた日本初の仏教寺院である飛鳥寺。710年の平城遷都に伴って現在地に移築され、元興寺と名前を改めたという経緯があります。公開された禅室は国宝です。
土日の予約が満杯で平日しか残っていなかったのですが、国宝のお寺の屋根裏に公然と侵入できるチャンスはもうないでしょうし、何よりウッドウォッチャーとしては「世界最古の建築木材」を見逃すわけにはいきません。仕事の合間に出かけてきました。


元興寺の禅室


屋根裏

長い歴史の中で何度か修理されたらしく、飛鳥時代、白鳳時代、鎌倉時代、そして昭和の木材が混在して使われています。鎌倉時代以前は現在の平ガンナはなく、槍ガンナやクワみたいなチョウナで削り取っていましたから、梁や柱の表面に凹凸が残っています。


凹凸が残るチョウナの跡

で、お目当ての「世界最古の建築木材」は下の写真。頭貫(かしらぬき)と呼ばれる部材で、年輪年代測定法によって590年頃に伐られた木材であることが判明しました。樹種はもちろんヒノキ。


590年頃に伐採された世界最古の現役木材

世界最古の木造建築物は7世紀末に建てられた法隆寺ですが、それよりも100年ほど前に建てられたお寺の部材が再利用されて残っているわけです。飛鳥寺の建立年は不明ですが、『日本書紀』に用材を590年に伐採したことが記されているそうで、それが裏付けられたわけです。
他にも、639年(白鳳時代)に伐採された大梁も現役建築材として頑張っていました。


こちらは白鳳時代の大梁

1400年も前のヒノキが今でも建築部材としてお堂を支えているのです。柱として使われる場合と、梁や貫として使われる場合では、耐久性や強度の劣化状態が違うでしょうが、建築材としての木の優位性を物語っています。
手の届かない位置にあったので叶いませんでしたが、撫で撫でしてやりたい気持ちでした。
昭和の修理の際に左官職人が手慰みにコテで壁に描いた鶴も残っていました。絵心のある粋な職人がたくさんいたのでしょうね。


コテで描いた鶴の絵

余談ですが、受付でヘルメットと懐中電灯を渡されました。「ちょっとオーバーじゃないの?」とナメていましたが、屋根裏で梁に思い切りヘルメットをぶつけてしまいました(笑)。


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樽の用途

2010年09月02日 | 木造建築
宇治で最も大きなお寺・万福寺の龍興院という塔頭に、何故か酒樽を再利用した庵があります。
障子窓があり、戸を開けると中は畳敷で、天井には鮮やかな花の絵が描いてあります。多分、お坊さんが瞑想するための部屋なのでしょう。高さも直径も2mくらいある大きな樽だからこそ、庵として使えるわけですね。



この酒樽よりはるかに巨大な、高さも直径も9mという世界一の樽が大分県にあります。ある醤油メーカーが建造したもので、ギネスにも認定され、その樽で仕込んだ醤油を「木樽世界一醤油」として販売しています。
日本酒の樽はスギ材ですが、その世界一の樽はカナダ産の樹齢400年以上のヒバを使い、クギを使わずに造ってあるとか。樽を製作した会社のホームページを見ると、帝国ホテルや羽田空港の受水槽も造っています。いずれも、直径10~12m、高さ4~5mの巨大な樽。
大規模施設の貯水槽は金属製か樹脂製だろうと思っていましたが、こんな場所でも木が活躍しているんですね。他の素材よりも熱伝導率が低く保温性・保冷性に優れていること、廃棄後にリサイクルできることが大きな要因のようです。


酒樽の庵の内部

万福寺にはもう一つ、酒樽を再利用した庵があります。精進料理の店になっている塔頭・白雲庵の庭に酒樽の茶室があり、「自悦堂」という立派な名前も付いています。


白雲庵にある酒樽の茶室・自悦堂

千利休が建てた待庵はわずか二畳だそうですが、それよりも狭いわけです。このお寺に2つも酒樽の庵があるのは、おそらく近くに酒処の伏見があるからでしょう。
いずれも、閉所恐怖症の方には耐え難い空間でしょうが…。
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一畳敷

2010年08月02日 | 木造建築
松浦武四郎をご存知ですか? 幕末に日本全国を旅した探検家で、伊能忠敬や間宮林蔵によって輪郭線だけ測量済みだった蝦夷地の内陸部を調べて地図を作成し、「北海道」と名づけた人物だそうです。
武四郎は晩年、東京の神田に住まいを設け、その隣にわずか一畳の書斎を建てました。しかも、8年の歳月をかけ、日本全国のお寺や神社の古材を集めて。
その書斎を再現し、地図や著作物を公開する「一畳敷展」が大阪のINAXギャラリーで開催されているので見てきました。


(提供/INAXギャラリー 撮影/中里和人)
 
上の写真は実物の書斎を撮影したもので、INAXの許可を得て掲載しました。会場には3面を写真パネルで囲んだ原寸大の部屋が再現してあります。また、どこの部材がどこの寺社から寄せられたのかも示してあります。
例えば、奈良・吉野にある後醍醐天皇陵の鳥居の古材を柱に使ったり、伊勢神宮の遷宮で取り替えられた木材を桁に使っています。
その他、京都の大徳寺、建仁寺、東福寺、奈良の法隆寺、三重の熊野神社、広島の厳島神社など著名な寺院や神社からも古材が寄せられ、鴨居や敷居などに再利用しています。宇治の平等院からも取り寄せていて、正面左の棚板に使われているそうです。
北は宮城県から南は宮崎県まで古材の出所は91ヵ所。それだけ武四郎のネットワークが幅広かったということでしょう。木材の樹種は明示してありませんが、ほとんどがヒノキだと思います。


武四郎が作成した北海道の地図

わずか一畳の空間ですが、寺社建築に使われる最高級の木材を全国から集めたわけですから、贅沢この上ない書斎です。死後は一畳敷を壊してその木材で亡骸を焼き、遺骨は大台ケ原に埋めて欲しいと遺言したそうですが、貴重なのでそのまま残され、現在は国際基督教大学の構内に保存されています。
会場に再現された一畳敷に座ると、何故か気持ちが落ち着きます。1日中は無理でしょうが、読書や書きものにはちょうどいいスペースです。


石狩平野でのスケッチ。下はヤマセミ、上はアカショウビンかな?

そう言えば、私は浪人時代に3畳の部屋で生活していました。押入れもないので、衣服は壁に吊るし、布団は畳んで片隅に置くという狭小な居住空間でしたが、けっこう快適でした。
一畳敷展の詳細はこちら
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和洋折衷

2010年07月15日 | 木造建築
同志社大学の創始者・新島襄が住んでいた家が京都市のほぼ真ん中、京都御所の横に残っていて、大学が管理しながら公開しています。
明治11年(1878)に竣工した寄棟造りの木造2階建て。外観はいわゆるコロニアル風ですが、中には純和風の箱階段があったり、かと思えば2階に広いベランダが設けられているという、非常に面白い和洋折衷です。


外観はコロニアル風


和室に机を置いた新島襄の書斎


箱階段

台所は土間ではなく木質フローリング。流し(シンク)も木製。多分、水に強いヒノキかコウヤマキでしょう。その左にカマドがあり、右には井戸もあります。建築史の知識はありませんが、一般民家の中に井戸があるというのは珍しいのではないでしょうか。


手前からカマド、流し、井戸

2階の寝室は畳敷きの上にベッドが2台置いてあります。ベッドに慣れていない妻のために低く作ったそうです。


高い方が新島、低い方が妻のベッド

驚いたのはトイレ。伝統的な和式ではなく、ベンチに座るように造られています。「日本初の洋式トイレ」と言われています。


日本初の洋式トイレ

もう一つ驚いたのはセントラルヒーティング。台所の熱源からパイプが各部屋に配管され、熱気を送っていたのです。朝鮮半島にはオンドルがありますが、当時の欧米の住宅にセントラルヒーティングがあったのでしょうか。


2階の寝室にあるセントラルヒーティングの吹き出し口

考えてみると、私自身も学生時代は4畳半の和室に机を置いていましたし、以前は畳の上にカーペットを敷いてベッドを置いていました。日本人の暮らしは多かれ少なかれ和洋折衷ですね。
この家は新島襄自ら設計したという説もあるようですが、欧米での生活が長かった新島がその知見やアイデアを盛り込んで、日本の大工さんといっしょに造り上げたというのが実情でしょう。
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日本最古の民家

2010年06月21日 | 木造建築
日本最古の木造建築は法隆寺の本堂と五重塔で、607年に建築、670年に再建されたもの。世界最古の木造建築でもあります。では、「一般民家で日本最古の建物があるのか?」と言うと、あるんですよ、これが、神戸の山奥に。
前回ご紹介した神戸市立森林植物園を下見した際、寄り道して行ってきました、通称「千年家」と呼ばれる箱木家住宅を見に。


箱木家住宅の外観

もともとは数十メートル離れた川沿いに建っていたのですが、ダム建設のため1977年に現在地に移築され、国の重要文化財として保存されています。
806年(平安時代)に建てられたという記録も残っているそうですが、移築時の解体調査で室町時代後期の建築と発表されました。1450~1500年頃でしょうか。
しかし、柱の松材を放射性炭素年代測定で測ったところ1283~1307年(鎌倉時代後期)に伐採された木材であることが判明したそうです。ということは、古い木材を再利用して、室町時代に建てたということかな?


鎌倉時代後期に伐採された木材(柱)

内部に入ると、広い土間にカマドやナガシや馬屋があり、板張りの部屋が3つあります。柱も床も時代に磨かれて黒光りしています。
黒澤明の『七人の侍』に登場する村人たちの家のような、暗くて、重くて、ワラや草の匂いがしてくるような空間。ほとんど色を感じさせないモノクロの世界が、「日本最古」を実感させてくれます。


囲炉裏のある客間(おもて)


食事する部屋(だいどこ)、奥が寝室(なんど)

建築当初から残っている部材は6本の柱、桁、梁、貫など。柱や床板に凹凸があるのは、当時はまだ台鉋が使われておらず、チョウナと呼ぶ道具ではつって仕上げたためです。


縁側の板も凹凸があります

移築されるまで箱木家のご家族が住んでおられたそうですが、多分この母屋ではなく、江戸時代に建てられたという横の離れでしょう。現在は近くの新しい家に住まれ、現当主が入場の受付や民芸品販売を担当されています。
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大極殿

2010年05月20日 | 木造建築
平城遷都1300年で盛り上がっている奈良に行ってきました。
主な目的は大極殿。3年前、まだ工事中に訪れたときもご紹介しましたが、文化庁が原寸で復元した巨大木造建築です。
工事期間9年、総工費180億円という一大プロジェクト。その半分以上の98億円が木材調達費だそうです。


(復元された平城京の大極殿)

奈良県の林業地・吉野のヒノキを使ったという情報と、輸入材(ベイヒバ…北米産ヒノキ)を調達したという情報が入り混じっていますが、私は後者だと思います。
現在の日本にこんな巨大建築をまかなうヒノキの大木はないはずで、同じ奈良の薬師寺金堂の再建にはタイワンヒノキが、現在再建中の興福寺金堂にもアフリカ産の木材が使われています。
いずれにしても木材だけで98億円というのは信じられない額。今なら多分、事業仕分けで廃止されるでしょう。
建物の規模は、間口44m×奥行き19.5m×高さ27m。当時はこの巨大な木造建造物の中で、天皇の即位や元旦の儀式、外国使節の謁見など国家的なセレモニーが行われたわけです。
実は、遷都のメモリアルイヤーに復元された大極殿がもう一つあります。京都では平安遷都1100年の記念事業として、明治27年に大極殿が復元されています。それが、現在の平安神宮。


(平安京の大極殿=平安神宮の外拝殿)

平城京の大極殿と異なるのは、屋根が1層であること。また、こちらは原寸ではなく、8分の5に縮小されています。そのサイズが間口33m×奥行き12mですから、原寸なら53m×19m。奈良の大極殿よりもやや大きかったわけです。
もう一つの相違点は、奈良の大極殿が当時とほぼ同じ場所に建てられたのに対して、京都の大極殿は離れた場所に再建されたこと。実際の場所である都心部(千本丸太町あたり)に建てる計画でしたが、用地買収に失敗して現在の場所(岡崎地区)に変更されたそうです。
また木材調達の面でも、明治時代なら輸入材に頼らなくてもよかったでしょうから、こちらの大極殿は国産材のはずです。


(平安京大極殿は復元後すでに115年)

平城遷都1300年祭は今年の11月まで続く一大イベント。一方、平安遷都1100年では京都三大祭の一つ「時代祭」が始まり、内国博覧会も行われましたから、イベントの規模としては京都の方が大きかったようです。
それにしても、京都は遷都1100年、奈良は遷都1300年。1200年とか1500年ではなく、中途半端なメモリアルイヤーに大事業が行われるんですね。
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