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湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

10/13 私の生育歴から見える世界は、個的なものにすぎないのか

2020-10-14 05:51:00 | 地震津波災害ボランティア

2020/10/13 

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高知の農業体験をした@@君の母親から、富士通IT系のソフトハウス(古いのかな、この言い方。富士通の孫請けらしい。)のバイトをしつつ、専門学校の準備をしているという。親からの近況報告だった。

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「コロナ禍下の要援護者支援の防災活動ランダムメモ」を書いているうち脱線し、自分の生育歴の体験につながる「不登校・引きこもり」への取り組みの動機を書いていた。ただ「不登校・引きこもり」の課題は時代によって内容がかなりちがっている。私が当事者として、その渦中にいた1960年代後半は、強烈な競争社会の中の受験教育への批判の形をとって、教育の歪みを生徒が内部告発することで、受験体制批判と教育内容の批判が入り混じって活動が拡がっていた。今のように「いじめ」や、「知識習得の文化的価値低下」が前面にでるのではなく、「画一化」「知識習得の社会階層的二極化」が取り上げられていた。


ところが私の個別体験は、かなり異なっていた。重症病歴から「私はいつかいなくなる」という死と人生の一回性を自覚した特異な小学生であったことから、生()を棚上げするような、「目の前にぶらさげた"にんじん"を追う馬」のような「蜃気楼を追う人生」の学習を背後に秘めた受験学習論に、違和感をもっていた。現在を繰り返し未来へ投機、否定していく。未来の希望する職と豊かな家庭取得のための学びとなり、学びは手段化する。それへの違和感は、それを語れる他者不在の異邦人のようだった。


私の身の回りの死にゆく病気の知人や、場面緘黙の子らは貧乏故にいじめられ、私が見るに見かねて負け戦覚悟の仲裁にはいり、双方から疎まれた不思議(地域には""があり、場面緘黙の子はその出身の、かつ母子家庭の子であったことが後にわかった。そういうリアルから、中学からの受験扇動が空疎に響いたこと。呼吸不全から体育実技免除だったが、成績は学年一番はキープしていたため、いわゆる進学層に分けられて、与えられた分類では私は価値観の違う集団にいたという、迷子のような存在だった。「私はいつかいなくなる」という発見は私の喉元につかえたままだったのだ。

 

父の仕事は異動が多く、東京で商売をしている祖父母を残して、国内を転々とした。その中で比較的長くいたのが、名古屋だった。転校するたびにおきまりの転校生いじめに晒されたが、成績が学年3位以内だったため、いじめは手加減された。私は小学一年生のとき、入院で1年留年していたので、それを論拠にした優等生集団からのいじめの方が陰惨であり、犬の糞や雑巾をなめさせられた経験もあった。それをクラス担任が叱ったが、ハーフの子と片親の子の弁護をする叱り方であって、私はそこにいなかった。そんなこともあり、学校は腰掛け程度の価値となり、当時通っていた私塾が開放していた文庫が私の居場所になった。私は理系の本しか読んでこなかったが、ここには児童文学、小説、絵本もあった。学校が終わるとここに来て、1年後には文庫の大半を読み終えていた。この体験が、知識観の元となり、私の私塾開設の原風景となった。知識は内容においてネットワーキングしており、多数の人の営みの産物であることを知った。


(つづく)

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