2020/10/28 記
------------------
10/28
母に美容院に行くように勧めて予約を取らせた。何のことはない、旧友との再会に、松戸の特養に行くので、母の見守りを美容院にまかせようという魂胆だ。明日の金曜日に予約がとれた。
政治活動から身を引いて、家業のスーパーを継いでいた奴だ。早稲田にいたが、私のように内ゲバのあおりを食らって通学できなくなって、私は間をおき転学したが、彼はすぐに経理系の専門学校に移り、家業を継いだ。私は二足も三足ものわらじをはいて、あがくように時を駆け抜けたが、彼は実直に商いの道を進んでいた。私はやれることは、やり尽くしておきたいと思い、彼は中途半端な転身を良しとしなかった。
20年も間があると、何を話したらいいのかと、この歳になって迷っている。お子さんはいるのだろうか。怯えている私が可笑しい。
本連載の70年代、私はある新左翼の党派に入り、発想の粗っぽさに呆れて、地味だが多様性に寛容な党派にうつり腰を据えた。
社会新報のバイトや、救対センター補佐、議員秘書のおまけのようなことをしつつ、塾屋や三文予備校の非常勤講師をしたり、科学映画下請けのようなことをしていた。時代の香りは感じられたものの、私の的を射ていなかった。結局は「ひとの人生の個別性と孤立と、その共有を阻む差別」を自覚して共有できる仲間をさがしていたのだとわかる。
私と同じ世代との経験の差は(高校生への関わりはしていたが)私の活動基盤はいわゆる学生運動ではなく、地域教育活動や、労働運動(^^)だったこと。ゆえに、ここでもまた、その場には私の内省的課題との共通項がなく、識字や水上生活者と夜間中学や、のちの青い芝支援という差別と貧困を含む領域に関わりつつも、それは、病弱や介護と異端排除について、取り組みに正面から触れてくる活動に出会うことはなかった。
私はのちに、障がい者活動との出会い、不登校・引きこもり支援活動との出会いに、近似の活動を見出すのだが、ここには当事者活動と、子育て活動という新たな壁が交流を阻んでいた。
私が連絡を取った旧友は、別々の出会いによるもので、ひとりは当時の党派活動の関係者で、安田講堂の関係者と私をつないでくれた教員の卵、もうひとりは永山則夫支援の当時学生、最後が総評系専従と学生をやめて、家業を継いだ男だ。私とは、社文会館で出会ったのがはじめ。
-----------
10/29
朝、念のために特養に電話をかけ、面会可能か確認した。見事に断られた。コロナ対策である。しかし職員との直談判で、開ける道もあるはずと、松戸に出かけることにして、無茶だが、面会、やらせてもらいますと家族に電話。
松戸駅から、いっそと、タクシーを拾い時間を稼いだ。しかし、ホームは門前払い、無念。東海道線で品川駅をすぎた頃、ならばと、妻の☆さんが仲介してくれたのだ。
(面会は次回)