2011/07/01 記
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昼過ぎ、橋本からの帰りに、平塚の父の入所している老健に立ち寄る。8日の七夕見物の打ち合わせと、父の生活上の諸費の支払いを兼ねていた。訪問時には寿司のような生ものや塩辛く柔らか目の煎餅などを持っていく。給食では出てこない、味の濃い食品が好まれるからだ。
しかし寿司と言っても、実際は数個。となるとなかなか上等のものはなかなか持っていけない。肝心の店が回転寿司を除くと見当たらない。加えてこれらの寿司屋は持ち帰りを嫌がる。鮮度と握り具合が厄介で、型崩れしてしまうからだ。おのずと回転寿司や食品売り場のパックの寿司になってしまう。この寿司は鮮度保持剤などで、しゃりの粘性を高めて型崩れしないようにしている。醤油もたまりなど使っていない。しかし少量パックがあるので、つい、このパックを買って、老健に出向くことが多くなる。
老健に着いた時、母から電話が入ってきた。8日、母のペインクリニックの治療が決まったから、午前中用件を入れないで欲しいと念を押すものだった。母に午後からの父の七夕見学の段取りを確認に老健に来ているのだと話すと、母の言葉が止まった。案の定、父のことを忘れていたのだ。この年齢独特のドライさというか、若い頃の父の高圧的な性格から見きりをつけているような女性のしたたかさを感じて、こちらも応答に困ってしまう。両親の顔ではなく、連れ合いの女性の顔が覘くからだ。連れ合いを失った者としては、突然の奇妙な孤独感を感じてしまう瞬間だが、ひとは他者と重なる意識のなかを生きていることを感じさせられる。父の姿は近未来の私の姿かもしれないという意識の仕方のことだ。
母の受診先は藤沢市内なので、午前中母に連れ添い、辻堂か茅ケ崎の駅前で母を路線バスに乗せれば、その足で平塚に向かうことが出来るので、時間的にもなんとか出来る。母に了解した旨の応答をし、今夜は南部浩一郎氏の講演会を聞きに出るので、軽く食事をしておくようにと、やんわりと母の「孤食」批判を先手を打ってかわしたつもりでいた。遅い時間はダンピングのもとなので、食事はしないと語気の強まった応答が返ってきて電話が切れた。曾祖母のころからの介護である。父は5人目、母はとどめの6人目である。終わりきるための介護と考えると、生に連れそうことへの私のこだわり、他者への命の希求のようなものが見えてくる。全うする、閉じるためではなく、生きることへの関係の中に私はありたいという願望のようなものだ。唾液を飲みこんで、無理矢理拳を開いて老健の事務室に飛び込んだ。全くゆとりのないしょうもない話である。
結局、打ち合わせは大きな進展は無かった。平日なので男の参加は少ない。ただ老健集合ではなく、平塚の市民センターで車椅子のままの父が乗せられたマイクロバスを待ち受けて、合流することになる。男手の必要も、どうやらボランティアさんの確保が出来たので必要ないとのこと。列を作って見学する形にして自由行動の時間を取らないことで、人員不足を解消すると話を聞いていたが、今回は少し状態が緩和されるような話となった。
諸費の支払いを済ませて、父のいる認知症フロアに向かう。老健はただの仲介となる他社サービスの支払いは自動引き落としというわけにはいかない。老健の立替え分を支払うことになるからだ。領収書をポケットにねじ込んで父に会う。ポケットに隠した菓子を出せと、父と同じテーブルを囲んでいる、私にとっては兄程度の年齢の方に、突然菓子を要求された。私を職員と間違えていた。ベッドの方においてあるよ、もう夕食だから、後で食べようねと嘘をつく。職員がいたら怒られてしまいそうな嘘である。ここも「夕食が近いから」>「後でベッドで」という順を崩しては通じない。理由を先に持ってくると意識が追ってこれないのだ。悲しいが流儀というか経験の世界なのだ。しかし配置が変わり、隣のテーブルにいらした方が父の隣に引越してきたのだった。
父は中空を眺めていた。日本画のようなつかみ返された空間、様式を手がかりに大きく再構成された抱え込まれた自然空間のような濃密な空間ではなく、父のいる空間は寝入りばなに体験するような、私(し)が溶け出したようなまどろみの空間の中に父はいた。眠いのではなく、疲れに引き込まれている風に見えた。
声をかけると、突然視線を私に向けて「下に行くのか」と父は私に応答した。どんでん返しの舞台のように、父は突然意識の世界に帰って来た。この問いかけは、父が私をわかっていることを示していた。しかしいつもの父とは違い、酔ったもののように、身体が意識とは別に弛緩し溶けだしていた。様子がおかしいので、フロアのセンターに立ち寄って話を聞いた。父は持病の便秘で今朝苦しんで排泄を済ませて疲れているとのことだった。我が家の2階すべてを使った父の部屋は1年経った今も扉を閉ざしたままだ。窓を開けて空気を入れ替えているが、父との激戦の後は今も階段を吹き降ろしてくる風が匂う。清拭などでは落ちない排泄物の匂いを連想していた。そのころと比べると、父の体から動き(活力)が消えうせた。
理由がわかったが、3~4人ずつ車椅子のままテーブルを囲むようにグループ管理が行われているが、以前父の隣にいた方の認知症が進み、日によって昏睡状態になってきたので、センターに一番近いテーブルのグループに代わったのだと言う。ただ父にとっては片言でも話をすることの出来る、職員以外の方だったので、父の話し相手は職員だけになってしまったという。これはこわいことだ。しかし父に会いに毎日通うことは出来ない。看護師さんに、声かけを頼んで車椅子をエントランスホールに下ろした。
父の入れ歯はもとに戻っていたが、寿司に手をつけなかった。悪かったと謝る父は認知症の状態の改善が読み取れた。配慮は高級な精神の活動だ。七夕の話をするがどうも乗らない。父は耳が一層遠くなったが、話が伝わっていないというわけではない。何か気になることを抱えている風だった。便通だろうと予測して話しかける。当たりだった。父は社会性からおむつの排便を嫌がっているというより習慣的な不快感が以前から強かった。紙おむつを持っていくからと言ってもそれは受け入れないのだ。外に行くという緊張の中の不安が父にはあった。
結局父をもとのテーブルまで戻して帰って来たのだが、8日の七夕企画の退色は留めおくことが出来ず。憂鬱を抱えて平塚に戻った。
認知症に困ったのは曾祖母と父だけだった。しかし眼差しという意志が時々現れる父はきっと軽症というのだろう。母に夜食の弁当を買い込んで、私の食事を急ぎ、飯を掻き込んで、茅ケ崎市役所分庁舎5Fの講演会会場に10分ほど遅刻して飛び込んだ。
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南部浩一郎氏の講演は「支援が必要な子どもへのかかわり術」という療育の基本認識の講演だった。10年ほど前と異なるのは、自閉症スペクトラムの発想の受け入れ、療育対象に高機能の方が位置づけられたことだ。私が係わってきた子たちとは年齢層が違うが、不登校・引きこもりの子(?)たちの背景に重なることの多かった軽度発達障がいを伴う子たちとの接点が浮かんできた。観客の多数を占める保母さんや幼稚園や小学校の先生の発達に係わる視座と親御さんの養育の視座との境界に私は位置している。しかし、訪問の激減から学齢期の方の個別の接点は失われて3ヶ月を経ている。自分もまた彼らとの会話に癒されていたことを感じている。
南部氏の講演は教員研修のような印象を受けていた。むしろQ&Aの方が面白いと思っていたのだが、質問は出なかった。火付け役のつもりで、絞り込まれていない質問をした。「(教育という場にあって、)家庭生活の日々の変化をどう取り込んで対応しているか、その経験的なかかわり事例があれば話して欲しい」と頼んだ。授業集団のなかの個々の子をどう受け止めていくかという話なのだが、南部氏は自分の療育の場を想像されたようで、話がかみ合わなかった。火付け役としても失敗してしまった。いつも観客からの質問は低調。遠慮気味なのだが、滑ったなとの反省。
この会場には、なかなか会うことの出来なかった何人かの方と会うことが出来た。災害ボランティアとの関連は明らかにずれている。陸前高田行を7/18~22としたことを伝えることが出来た。ただペットレスキューの支援活動も、サービス発注型支援を組み立てることも、予想外の困難がある活動であり、その辺の認識と見通しのことについて話したい方も同席されていた。しかし基本は協力は求めても足手まといにはならないという基本姿勢を貫くためにも、私は地元のみやげを持たずに陸前高田・大船渡に行くことに決めた。それでそのまま帰宅したのだが、民間交流(対話)を生み育てるという観点を私は鍵と思っているので、その橋渡しとなる性格を持った企画を探り出してくる。
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家に戻ると橋本3君の件で、相模原の塾から何回となく電話が入っていたという。母は塾も市民活動もへったくれも、息子の家事労働の手抜きの黒幕と思っている。庭の芝の乾燥枯れの始末で業者を入れたが、そのおかげで外出できなかったと文句を言っていたが、私には昼に会ってきた橋本3君のことが気になっていた。塾へと連絡を取ると、塾長は帰ってしまったが、橋本3君の親御さんと何か怒鳴りあっていたという。余計不安になって、予備情報なしで橋本3君の御宅に電話。また彼が窃盗と間違われた件で、飛田がすぐに対応しなかったという怒りだった。私が父の老健にいた時間だった。母が情報を止めていたのだった。
スーパーの棚の商品タグが落ちていたので直したというのが彼の言い分。それを見咎めた店員に手を上げてしまった。もう何度も同じことを繰り返していることなのだが、親御さんは働いているため、貰い下げに出向けなかった。そのとき私が間に入ることが多かったのだが、今回は応答がないと、塾長に文句を言いにきたらしい。経過を説明し謝罪。親御さんも追い詰められているからだ。塾長が仲裁に入ったので、警察沙汰にならずに済んだが、後で塾長から電話があり、タグを取り付けるのに商品棚おろしをやってくださったという。いつもの「きちんと直した」なのである。ここ数日、彼の指導を続けなければならなくなった。
母は自分が悪者にされていると思ったのか、買ってきた弁当に手をつけずに寝室にこもってしまった。家族はふたりになると依存性が高まる。それが子どものような行動につながってくるのだが、18日からの東北巡回が心配になってきた。
夜間傾聴:なし
(校正1回目済み)
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昼過ぎ、橋本からの帰りに、平塚の父の入所している老健に立ち寄る。8日の七夕見物の打ち合わせと、父の生活上の諸費の支払いを兼ねていた。訪問時には寿司のような生ものや塩辛く柔らか目の煎餅などを持っていく。給食では出てこない、味の濃い食品が好まれるからだ。
しかし寿司と言っても、実際は数個。となるとなかなか上等のものはなかなか持っていけない。肝心の店が回転寿司を除くと見当たらない。加えてこれらの寿司屋は持ち帰りを嫌がる。鮮度と握り具合が厄介で、型崩れしてしまうからだ。おのずと回転寿司や食品売り場のパックの寿司になってしまう。この寿司は鮮度保持剤などで、しゃりの粘性を高めて型崩れしないようにしている。醤油もたまりなど使っていない。しかし少量パックがあるので、つい、このパックを買って、老健に出向くことが多くなる。
老健に着いた時、母から電話が入ってきた。8日、母のペインクリニックの治療が決まったから、午前中用件を入れないで欲しいと念を押すものだった。母に午後からの父の七夕見学の段取りを確認に老健に来ているのだと話すと、母の言葉が止まった。案の定、父のことを忘れていたのだ。この年齢独特のドライさというか、若い頃の父の高圧的な性格から見きりをつけているような女性のしたたかさを感じて、こちらも応答に困ってしまう。両親の顔ではなく、連れ合いの女性の顔が覘くからだ。連れ合いを失った者としては、突然の奇妙な孤独感を感じてしまう瞬間だが、ひとは他者と重なる意識のなかを生きていることを感じさせられる。父の姿は近未来の私の姿かもしれないという意識の仕方のことだ。
母の受診先は藤沢市内なので、午前中母に連れ添い、辻堂か茅ケ崎の駅前で母を路線バスに乗せれば、その足で平塚に向かうことが出来るので、時間的にもなんとか出来る。母に了解した旨の応答をし、今夜は南部浩一郎氏の講演会を聞きに出るので、軽く食事をしておくようにと、やんわりと母の「孤食」批判を先手を打ってかわしたつもりでいた。遅い時間はダンピングのもとなので、食事はしないと語気の強まった応答が返ってきて電話が切れた。曾祖母のころからの介護である。父は5人目、母はとどめの6人目である。終わりきるための介護と考えると、生に連れそうことへの私のこだわり、他者への命の希求のようなものが見えてくる。全うする、閉じるためではなく、生きることへの関係の中に私はありたいという願望のようなものだ。唾液を飲みこんで、無理矢理拳を開いて老健の事務室に飛び込んだ。全くゆとりのないしょうもない話である。
結局、打ち合わせは大きな進展は無かった。平日なので男の参加は少ない。ただ老健集合ではなく、平塚の市民センターで車椅子のままの父が乗せられたマイクロバスを待ち受けて、合流することになる。男手の必要も、どうやらボランティアさんの確保が出来たので必要ないとのこと。列を作って見学する形にして自由行動の時間を取らないことで、人員不足を解消すると話を聞いていたが、今回は少し状態が緩和されるような話となった。
諸費の支払いを済ませて、父のいる認知症フロアに向かう。老健はただの仲介となる他社サービスの支払いは自動引き落としというわけにはいかない。老健の立替え分を支払うことになるからだ。領収書をポケットにねじ込んで父に会う。ポケットに隠した菓子を出せと、父と同じテーブルを囲んでいる、私にとっては兄程度の年齢の方に、突然菓子を要求された。私を職員と間違えていた。ベッドの方においてあるよ、もう夕食だから、後で食べようねと嘘をつく。職員がいたら怒られてしまいそうな嘘である。ここも「夕食が近いから」>「後でベッドで」という順を崩しては通じない。理由を先に持ってくると意識が追ってこれないのだ。悲しいが流儀というか経験の世界なのだ。しかし配置が変わり、隣のテーブルにいらした方が父の隣に引越してきたのだった。
父は中空を眺めていた。日本画のようなつかみ返された空間、様式を手がかりに大きく再構成された抱え込まれた自然空間のような濃密な空間ではなく、父のいる空間は寝入りばなに体験するような、私(し)が溶け出したようなまどろみの空間の中に父はいた。眠いのではなく、疲れに引き込まれている風に見えた。
声をかけると、突然視線を私に向けて「下に行くのか」と父は私に応答した。どんでん返しの舞台のように、父は突然意識の世界に帰って来た。この問いかけは、父が私をわかっていることを示していた。しかしいつもの父とは違い、酔ったもののように、身体が意識とは別に弛緩し溶けだしていた。様子がおかしいので、フロアのセンターに立ち寄って話を聞いた。父は持病の便秘で今朝苦しんで排泄を済ませて疲れているとのことだった。我が家の2階すべてを使った父の部屋は1年経った今も扉を閉ざしたままだ。窓を開けて空気を入れ替えているが、父との激戦の後は今も階段を吹き降ろしてくる風が匂う。清拭などでは落ちない排泄物の匂いを連想していた。そのころと比べると、父の体から動き(活力)が消えうせた。
理由がわかったが、3~4人ずつ車椅子のままテーブルを囲むようにグループ管理が行われているが、以前父の隣にいた方の認知症が進み、日によって昏睡状態になってきたので、センターに一番近いテーブルのグループに代わったのだと言う。ただ父にとっては片言でも話をすることの出来る、職員以外の方だったので、父の話し相手は職員だけになってしまったという。これはこわいことだ。しかし父に会いに毎日通うことは出来ない。看護師さんに、声かけを頼んで車椅子をエントランスホールに下ろした。
父の入れ歯はもとに戻っていたが、寿司に手をつけなかった。悪かったと謝る父は認知症の状態の改善が読み取れた。配慮は高級な精神の活動だ。七夕の話をするがどうも乗らない。父は耳が一層遠くなったが、話が伝わっていないというわけではない。何か気になることを抱えている風だった。便通だろうと予測して話しかける。当たりだった。父は社会性からおむつの排便を嫌がっているというより習慣的な不快感が以前から強かった。紙おむつを持っていくからと言ってもそれは受け入れないのだ。外に行くという緊張の中の不安が父にはあった。
結局父をもとのテーブルまで戻して帰って来たのだが、8日の七夕企画の退色は留めおくことが出来ず。憂鬱を抱えて平塚に戻った。
認知症に困ったのは曾祖母と父だけだった。しかし眼差しという意志が時々現れる父はきっと軽症というのだろう。母に夜食の弁当を買い込んで、私の食事を急ぎ、飯を掻き込んで、茅ケ崎市役所分庁舎5Fの講演会会場に10分ほど遅刻して飛び込んだ。
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南部浩一郎氏の講演は「支援が必要な子どもへのかかわり術」という療育の基本認識の講演だった。10年ほど前と異なるのは、自閉症スペクトラムの発想の受け入れ、療育対象に高機能の方が位置づけられたことだ。私が係わってきた子たちとは年齢層が違うが、不登校・引きこもりの子(?)たちの背景に重なることの多かった軽度発達障がいを伴う子たちとの接点が浮かんできた。観客の多数を占める保母さんや幼稚園や小学校の先生の発達に係わる視座と親御さんの養育の視座との境界に私は位置している。しかし、訪問の激減から学齢期の方の個別の接点は失われて3ヶ月を経ている。自分もまた彼らとの会話に癒されていたことを感じている。
南部氏の講演は教員研修のような印象を受けていた。むしろQ&Aの方が面白いと思っていたのだが、質問は出なかった。火付け役のつもりで、絞り込まれていない質問をした。「(教育という場にあって、)家庭生活の日々の変化をどう取り込んで対応しているか、その経験的なかかわり事例があれば話して欲しい」と頼んだ。授業集団のなかの個々の子をどう受け止めていくかという話なのだが、南部氏は自分の療育の場を想像されたようで、話がかみ合わなかった。火付け役としても失敗してしまった。いつも観客からの質問は低調。遠慮気味なのだが、滑ったなとの反省。
この会場には、なかなか会うことの出来なかった何人かの方と会うことが出来た。災害ボランティアとの関連は明らかにずれている。陸前高田行を7/18~22としたことを伝えることが出来た。ただペットレスキューの支援活動も、サービス発注型支援を組み立てることも、予想外の困難がある活動であり、その辺の認識と見通しのことについて話したい方も同席されていた。しかし基本は協力は求めても足手まといにはならないという基本姿勢を貫くためにも、私は地元のみやげを持たずに陸前高田・大船渡に行くことに決めた。それでそのまま帰宅したのだが、民間交流(対話)を生み育てるという観点を私は鍵と思っているので、その橋渡しとなる性格を持った企画を探り出してくる。
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家に戻ると橋本3君の件で、相模原の塾から何回となく電話が入っていたという。母は塾も市民活動もへったくれも、息子の家事労働の手抜きの黒幕と思っている。庭の芝の乾燥枯れの始末で業者を入れたが、そのおかげで外出できなかったと文句を言っていたが、私には昼に会ってきた橋本3君のことが気になっていた。塾へと連絡を取ると、塾長は帰ってしまったが、橋本3君の親御さんと何か怒鳴りあっていたという。余計不安になって、予備情報なしで橋本3君の御宅に電話。また彼が窃盗と間違われた件で、飛田がすぐに対応しなかったという怒りだった。私が父の老健にいた時間だった。母が情報を止めていたのだった。
スーパーの棚の商品タグが落ちていたので直したというのが彼の言い分。それを見咎めた店員に手を上げてしまった。もう何度も同じことを繰り返していることなのだが、親御さんは働いているため、貰い下げに出向けなかった。そのとき私が間に入ることが多かったのだが、今回は応答がないと、塾長に文句を言いにきたらしい。経過を説明し謝罪。親御さんも追い詰められているからだ。塾長が仲裁に入ったので、警察沙汰にならずに済んだが、後で塾長から電話があり、タグを取り付けるのに商品棚おろしをやってくださったという。いつもの「きちんと直した」なのである。ここ数日、彼の指導を続けなければならなくなった。
母は自分が悪者にされていると思ったのか、買ってきた弁当に手をつけずに寝室にこもってしまった。家族はふたりになると依存性が高まる。それが子どものような行動につながってくるのだが、18日からの東北巡回が心配になってきた。
夜間傾聴:なし
(校正1回目済み)