湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

7/27 母の東部病院通院に連れ添いつつ/県の災害ボラ関連をまわる

2011-07-27 09:24:03 | 引きこもり
2011/07/27 記
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母の東部病院通院に連れ沿う。母の脊椎のレントゲン検査の結果が出ていた。いつも思うのだが、紹介状や診療データを持ち込んでも、どうして一から調べなおすのだろう。しかもその症状の疑いは晴れているものを繰り返したどりなおさねばならない虚しさは、こうたらい回しの結果を聞くたびに苛立たしさも感じてしまう。結局脊椎すべり症を疑るなら整形外科に行きなさいと、判断責任を私たちにふって、今度はむず足症候群の質問。これもいくつかの病院で否定されてきた。患者と話すのではなく、診断チャートをたどることだけに診察が集中しているように思えて、ここも長く通うところではないと母と話していた。抗てんかん薬に使われる薬を飲み始めてから、母は日中の眠気に活動量が大幅に落ちている。その訴えも、素通りしたようだ。

母をタクシーに乗せ自宅に送り、私は駅に送迎マイクロバスに乗って移動し図書館に向かった。

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5日の被災地巡回をしたので、貸し出し期限の書籍が溜まっていた。茅ケ崎と横浜の分をバッグにいれたが4冊はみだした。ホームレス関連の書籍と災害ボランティア関連・社会的企業関連の書籍が大半。これを返しつつ、横浜で県の関係者と会い、夜の相模大野校の夏期講習補佐役(取り出し指導)をこなしてきた。

私の知り合いは、引きこもり関連、就労支援関連、障がいサポート関連、ホームレス関連と教育と福祉関連に偏っており、あの訪問しても誰も応答しないで目をそらす嫌な雰囲気の県ボラセン災害本部以外、県サポでは直結するところがなかった。茅ケ崎のことは茅ケ崎でとふられそうだが、東日本大震災 支援・情報ステーションにも人材探しで立ち寄ることにした。

ボラセンでは予想通りの初対応のような応対に呆れ、県庁に移動して商工労働部の知人を訪ねたが、配転されていて、移転先は全く関係の無い課、ちょっと席をはずしてもらって入れ知恵してもらった。「まあ、そうですね」という感触。感謝。

支援・情報ステーションに立ち寄っても、もっぱら私の話を聞くだけで終わる状態で時間切れ。2階の災害対策支援担当部支援調整課まで足を伸ばせず、次回回しで終わった。茅ケ崎の関係者まわりは、骨つぼを私に託した陶芸家の東魚さんのところに、骨つぼを返しつつ話をしてきただけ。(アポなしで変な時間帯にすみませんでした。)東魚さんの大船渡行きは、私の報告で延期となった。

しかしまとまった相談が出来ない。日が過ぎていくことに唇をかんでいる。

第二企画(陸前高田側の中小企業主と連携する支援)は今夜ラフスケッチを完成させる。


夜間傾聴:橋本2君(仮名・なにか久しぶりの感じだ)

p.s.陸前高田の単身者仮設住宅、山の中。


(校正2回目済み)

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7/26 企画のラフスケッチを持ちながら、協力要請の巡回中(続)

2011-07-27 08:13:00 | 引きこもり
被災地を歩いてきた期間、我が家にいくつかの郵便物が届いていた。その中には、私が訪問した先から早々と参考資料を送って下さった方もいらし、協力してくださった方へのお礼のメールを時間の隙間に書いては送っていた。

その届いたメールには、陸前高田・大船渡とも大きな転換期に入っていることを示す内容が描かれていた。三陸の海岸線3県をフォローする河北新報や、岩手県をエリアとする岩手日報の部分抜粋が参考資料として添えられていた。

大船渡では仮設住宅が、陸前高田では避難所と仮設住宅の課題が「生活コミュニティの解体と保護再生」をめぐって第二幕が始まっていた。

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茅ケ崎の駅前で夕食の買い物をしていると、数年前、茅ケ崎市との協働事業提案をしていた頃、企業コンサルタントの立場から参加されていた**さんと出会った。私は買い物を家に届けるのを諦めて、コインロッカーに詰め込み、この方とコーヒーを飲んだ。出勤時間が迫っていたのであまり時間は取れなかったが、災害ボランティアを始めていることを話した。

その方は直接災害ボランティアを市民活動の形でされているわけではなかったが、職務上震災の影響を意識せざるを得ない状況にあると話されていた。第二幕への転換期という私の話は、地元行政の膨大な復興予算からも長期戦を強いられるので、現地から離れた場からの支援は無理という思いでいたが、民間交流へという流れに乗せた支援は盛り上がらないけれどありうるなという感想をいただいた。

また連絡させてもらうことを告げて別れたが、彼は別のヒントを感じたらしく動き出すようだ。ただ、私のような社会運動の形ではないだろう。心当たりのある方に紹介してくださるとのことで、お願いしてきた。

相模線の時間も迫っていたので、母に夕食は遅くなるので、つなぎになにか軽食を食べておいて欲しいとメールした。

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気仙沼を実家に持つ方が今回高卒検定を受ける。一ノ関の病院から都内の病院に転院治療を受けている家族は相模原に定住を決めていた。貯蓄を食いつぶしての生活だけに、緊迫感が漂っていた。

授業の中で、私の三陸訪問の話は途中、塾生の待ったなしの発言に中断された。実際、現地から避難されてきた家族がいる方が入っている関連も有って、私の長い話に待っていられず、意見を入れてきた。こういう雑然とした雰囲気が実は議論が本物である証しだと私は思っている。

私は3月12日から、被災した印刷所を駆使して号外を作り配布した東海新報の地域密着記事に熱意を感じている。それで4か月分のバックナンバー130部弱を決意して買って、我が家に送ってもらっていた。読み始めた中で塾生にも見せたかった新聞を数日分持参していた。新聞を開くと教壇にそろぞろと席を立った塾生が覗き込みにやってきた。学齢期の子どもとは違う大人が固まると暑苦しいものだ。始めてみる地方紙のローカルな広告記事を指差しては脱線して、大声は出さないが騒ぎとなった。

受験日が迫る教室の雰囲気では全くない教室の雰囲気の中で、気仙沼の彼が板ばさみのように見えて、すぐに解散させて、授業に戻ったのだが、すでに遅し、授業時間はたちまちのうちに過ぎていた。こういうとき、私は地元の講師ではない限界のようなものを感じてしまう。専任の**さんにつないでおくから、今日の質問は**さんにするようにと伝えて授業を終えた。給料泥棒と叱られないのが相模原の塾のラフさというか、いいところだと思っている。相模大野校では絶対に出来ない。

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母はいつもと同じ、孤食への文句をしっかり聞かせてくださった。暖めるだけの献立にしておいたので遅い夕食は過ぎにできたが、相模原ではなく茅ケ崎に教室を開かせろという難題には閉口した。私の塾を閉じたのは資金難だけではない。塾で起きたことへの責任をもって塾を閉じたのだからだ。

早くも、先ほどの脱線授業の余波で傾聴専用電話に電話が入ってきていた。本来の危機の淵に立つ相談と切りわけるために、私の私用携帯にかけなおすように指示したが、専任の**さんがパンクしたらしい。

第二企画の仕出し弁当屋さん経由のギフトの話を書きはじめている。しかしこれは複数の企画を持ち歩かない方がいい。第一企画のプリント増刷のため、真夜中の不審者よろしく、15分ほど歩いた先のコンビニに向かった。


夜間傾聴:相模原の社会人クラスのふたり
     大森君(仮名・傾聴にあらず、ただいま)

p.s. 画像は大船渡の入り江沿いにて撮影

(校正1回目済み)

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