現在、企画化の案件が2件。体験できたことや、気付いたことの断片の書き出し整理。企画化まではいかないが、整理しておくべきことが1件ということで、今とにかく書き出すことを始めている。昨日は茅ケ崎で福島県の民主党県会議員の講演会があり、今日から夏期講習も始まる。相変わらず授業は「おまけ」であるが、普段より生活の隙間が少ない。レポートのピッチがあがらないことは、お許し願いたい。
また、日記の空白部分や、ペットレスキューの講演会レポートも書き残している。これは順不同となるが分散して併記していく。ブログは記録でもあるので、見にくいとは思うが、これもまたお許し願いたい。
今回は、訪問の印象の断片から書こうと思う。
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台風6号の接近の影響…訪問は7月18日(月)夜~22日(金)4泊5日で大船渡・陸前高田を歩いてきたのだが、この間ずっと進度の遅い台風6号の影響を受けて、晴れても時間が短く、雨は水曜日夕方から霧雨が降ったが、全般は薄曇りで、夏の日射を避けられてよかった反面、出慣れていない証拠で半袖しか用意していなかったため、朝夕重ね着しても寒いという予想外の展開となった。夜中、宿を抜け出し、周辺を散策という具合には行かなかった。
***
岩手県交通の路線バスのこと…地元の常識は来訪者には無愛想でしかないこと。今回出発と帰路はけせんライナーの夜行バスを利用した。車中2泊である。私はけちけち旅行をするので夜行バスを利用する。新幹線を利用する柄ではないと思っている。出かけるときは関西方面だったため、岩手県交通は初めてだったが、座席は設計上の想定身長を超えているため、首が疲れ、足が伸ばせないで窮屈だった。座席数はゆとりがあったが、車内の照明を走り出すとすぐに消灯してしまうのには閉口した。携帯にメモを取り、メールを書くのも、持ち込んだ新書を開くのもためらわれた。関西方面の他社夜行バスと様子が違い、寝る以外なく、懐中電灯なども周囲に迷惑な状態は堪忍して欲しかった。
また乗客だが空席があり、学生、フリーター風の方や、英語圏の体験旅行者(バッグパッカーまで行かない中途半端な感じ)で占められており、地元帰りの若い女性と私が年配者ということになり、いわゆる災害ボランティア風の同行者がいないのは、時期を逸しているか、皆さん車を調達して現地に行っているかのように思えた。いやいや新幹線だという思いは現地に着いて、閑散とした避難所や、市役所、ボラセンなどを見て、時期を逸しているのだと知った。いや、私は被災救援期後の活動を探るためにきたのだから、それは当然ではあるのだが。
岩手県交通の便の少なさには悩まされた。しかも中・長距離バスが定時に来ないだけでなく、バス停が生き残り分しかなく、時刻表などの情報はインターネットに頼らざるを得なかった。3日目、「陸前高田ドライビングスクール」で仙台からの便で大船渡に移動しようと1時間前からバス停で待ち続けていたが、定時から更に30分経ってもバスが来なかった。結局、タクシーを呼んで移動したが、便を選べば無料区間(後述)を5千円かけて移動することになった。ハプニングを考えて所持金はゆとりを持たせていたが、池袋まで帰れてしまう料金が飛んでいくのが虚しかった。被災地の災害ボランティアの場合、大概無理して拝み倒して車に便乗させてもらうのだが、その相手がいないのではどうしようもなかった。とにかく、ひと気が少ないのだ。
最終日も出発を陸前高田においていたが、その「サンビレッジ高田」は山中の体育館を避難所に使っていたが避難所を撤退、周辺に街灯も無く、時々通る車も夜には途絶えてしまう。隣の「ドライビングスクール高田」までは4km弱あり、周辺には人家が無いので闇の中で3時間半を過ごさなくてはならなかった。若い頃、四国や岩泉周辺の鍾乳洞内泊体験をしてきたが、ここで前回のようにバスが来なかったら携帯電話の圏外、どうしようもなくなってしまう。
携帯のスポットの場所を探し、不安定な電波状態で盛岡の予約センターに電話を入れた。ここも17時までなのでゆとりが無かった。券をセンター・営業所に持ってきて一度解約し、買いなおせという指示に、マニュアル人間臭を感じて抗議。被災後無人化している山中の停留所に3時間半、客を待たせるつもりかというが、電話が不安定なので切れてしまった。再度かけ直して、幸い同じ職員が応答に出てリセットにはならなかったが、談判5分。上司の確認を取るとの言葉でまた電話が切れた。再度賭けなおすが話中が入り、終業時間3分前にやっと話が成立。延長差額料金250円支払って、大船渡側から乗ることが出来た。ところがこれは、目的地に着くとき、1駅延長して大船渡に降りたときは、延長料金が400円だった。なんとも不統一な話なのだった。ここは最終の鳴石団地発立根行の無料バスに乗って、移動できたが、飛び乗ったバスは仙台発の有料バス、ところが災害ボランティアとわかり、大船渡のひと駅、無料にしてくれる状態だった。とにかくバスの運行が不安定。私のように歩きで来ている者は見かけなかったのは当然なのだろう。地元すら無料バスは高齢者と通学の学生だけ。車社会なのだった。
岩手県交通は行き先表示が小さな掲示板を挟んであるだけなので、私のように弱視者には全く見えなかった。バスの仕様が正面・側面・後面表示のバスに慣れている感覚からすると、実に不親切で、特に側面表示がないのには慌てさせられた。運転手に声を張り上げて確認しないと行き先がわからない。そこに方言の壁があって思うように会話が成り立たない。一日数本の路線が多いバスを間違えたら終わりの感覚が何回も襲ってきて悩まされた。手を振らないと下車する客がいないと素通りしてしまう。行動がこのバスで制約されてしまった。予想されていたことではあるのだが。
被災復旧まで近距離(?)路線バスは無料だった。フリー昇降区間も多く、そのためかバス停がほとんどない。支柱が折れ曲がったままだったり、とにかく時刻表が不親切だ。せめてインターネット検索ですべてわかるようになっていて欲しいが、検索で時刻表がすべてわかる状態ではない。中・長距離バスは通過してしまうバス停もあって、事前調査が不可欠。地元の人もバスを利用しないので、質問しても民宿すら到着時間を知らなかった。
***
道を聞いてはいけないということ…大船渡は盛駅の周辺など、シャッター通りではあるが商店街が残っているが、陸前高田側はいわゆる商店街が流されて復活しておらず、ローソンやマイヤという大手スーパーの仮店舗が出来て間もない状態という具合に市の格差が大きく、陸前高田側は昼間の歩行者も少なかった。大船渡側は避難所が7月いっぱいですべて仮設住宅に移る状況下にあり、以前大きな避難所を抱える陸前高田とは様相が違っていた。
このため、陸前高田で道がわからなくて、たまに出会う人にはすべて声をかける選べない状況だったのだが、民間の人は自分は地元の者ではないと言ってくれるが、事務員風、または警官は信用できなかった。市の社協ボラセンは「ドライビングスクール高田」のバス停を下ってすぐの場所にあるのだが、広い敷地の駐車場に災害ボランティアの車が止まっている先入観があったので通り過ぎていた。更に下っていくと、T字路に出るのだが、被災地は、あちこちの交差点の信号が破壊されたり機能しなくなっているので、交通警官が出ている。ふたつの質問をした。ひとつは市の社協・ボラセンの場所、もうひとつは市役所仮設庁舎の場所だった。
回答は、市役所は「むこう」、社協は「こっちだ」、だった。大阪府警のパトカーが止まっていたことに後で気付いたのだが、この警官は大阪からの応援部隊の所属で地元ではなかったのだった。社協についてから混乱した話をしたが、「社協」そのものが何かを知らないことが多いから警官はやめておいたほうがいいというのだった。社協方向なる方向に歩いていくと車道両脇に人家が無くなり、明らかに予備調査情報と異なっていた。15分ほど歩いた道を戻り、交通警官に再度質問。案の定「社会福祉協議会」の略とは知らず、「社会主義?」と聞きなおす始末で、バス停そばに人家があるから、そこで聞いてくれとの話で、県外からの応援部隊だと知った。なんとその人家が社協だったのだ。30分は完全にロス。
社協で話し込んで、市役所の仮設庁舎の場所を教えてもらったが、交通警官の「むこう」は真反対だった。もとの庁舎方向を地図確認でもして覚えたのかなと善意で解釈していたが、そのあとがいけなかった。市役所の電話交換のガイドさんに電話で道を聞いた。油断したのだが今、市の社協からそちらの仮設庁舎に向かおうとしているのだがと質問し、T字路を曲がったあたりにいるという話に、180度逆に来ており、しばらく行くとローソンの仮営業所があるので、そのあたりで再度ひとに聞いて欲しいと指示された。社協から歩いて20分が過ぎた。社協の職員の方の説明では「すぐ」というので、田舎の「ちょっと先」はひと山越えた先だった経験もあるので、半信半疑で歩いてきた。更に歩いていくと再開して間もないシェルのGSがあった。そこで笑われた。180度逆だよと。ローソンの辺りには市役所はないよといわれて脱力。30分は歩いている。またもとの振り出しに戻る状態なのだった。両側はがれきの撤去された被災地の荒地であり、T字路に戻ったとき時計は16時40分を過ぎていた。
陸前高田については、教育福祉関連課は仮設庁舎側と聞いていた。市役所機能が分散しているからか、教育福祉関連課へと確認を取った上の話なので衝撃だった。私自身も遠野の社協の車から道を聞かれており、よそ者だらけなのだと知った。しかし、地元の若い方、小学生や乳幼児は、小学生の通学時以外は全く出会わなかった。悔しいが20日は大船渡側に約束があったので、陸前高田は最終日21日までお預けとなった。
***
ソフトバンクはだめなのか…被災地なので携帯電話が使えないところが多いだろうと予測して出かけた。しかしそれは半分当たっていて、半分はずれていた。陸前高田のドライビングスクール周辺は無事だったが、サンビレッジの山中はスポットが出来てしまい、少し動くと携帯は圏外になってしまった。大船渡市も意外なことに盛駅前は圏外?警察署前も圏外?おかしいと思っているとサンリアというスーパー前も圏外だが、粘っていると急に感度の柱が立った。事態が納得できた。被災後応急システムで復旧させているのだろう、回線容量が少ないのだ。だからオーバーしたとき、圏外表示でユーザーを遮断しているのだとわかった。これは中継局が少ないための遠距離受信によるスポット現象とは違う状況だった。しかし民宿で聞くと、「ドコモだ、絶対」という話。連絡が取れると思ってはいけない。現に綾里の民宿周辺は全く入感しない完全圏外だった。翌日中小企業の方と会う約束の電話が遮断されてしまった。被災した荒地は返って遠方受信のスポットが立つ。見通しがいいからだ。
***
街の安全のこと…大船渡の港湾地域、いわて生協から入り江沿いに太平洋セメント工場の周辺を歩いた。小さな段差があって、片目の私にはその遠近感(奥行きがわからない)があって、大きなザックを担いだまま、2回転倒してしまった。みっともないが、現実は現実。薄暗闇の駐車場をまたいでツルハドラッグに突進したら突然金網がたちはだかって衝突とか、ろくなことをしていないが、街灯の無い街を歩けば、更地になった被災地の道路側は、排水口のコンクリート板があちこちではずれている。なかには土の詰まったマンホールが口を開けていることもあって、むやみに自転車を送っても事故を起こすのではないかと気になった。しかしそれは私がよそ者であることを実証しているようなものだった。更地の近くは走らないという常識が出来上がっているのだった。道路整備は、がれきの撤去に集中しており、人家の周囲は道路の修復をしているが、更地は後回しになっていた。夕闇が降りれば全くの闇。20時を過ぎれば商店街すら真っ暗なのだった。大手スーパーのサンリアは18時閉店。それ以降はツルハドラッグや薬王院チェーンの薬局兼コンビニしか店がない。
しかしこれは「安全」といえるかわからないが、大小の便意は、やはり用心したほうがいい。喫茶店やコンビニが圧倒的に少なく、17時以降、早朝の便は盛駅の公衆便所が役に立った。私の場合、片膝を粉砕骨折して復活させたハンデを持っているので、腰より高いところに登れなかったり、駆け足が出来なかったり、しゃがむことができなかったりする。つまり和式トイレは使えず、洋式でも座面が低いタイプは立ち上がるのに苦労する。そのために田舎に行くと、洋式便器が少なくて(寒川でさえ、公衆トイレが壊れていることが多いので、地獄の街となる。コンビニのみが頼りとなる。)ここの駅前トイレは手入れが行き届いており感謝している。転んだのも、この足の障碍が残ってふんばれないからだが、案外大事なことなのだ。
しかし私が利用した障碍者用トイレは、自動化しており照明のスイッチが無く、部屋に入ると明りが換気扇とともに作動する。しかしその後のセッティングが悪く、しゃがんだときの便座の圧力センサが感応後、しゃがんで1分もたたないうちに照明が消えてしまう。闇の中の排便となる。尻を浮かせしゃがみ直すと、また点くのだ。つまりつい照り消えたりしながら幽霊屋敷状態で排便することになる。すぐそばでタクシーの運転手さんが待機しているので、気が気ではなかった。
***
荷物置き場のこと…分厚いザックを背負って現地入りしたが、得意のコインロッカーがない。やむなく食堂に入ったとき、女将さんに相談した。しかし気まずそうにして断られてしまった。震災以降様々なボランティアがやってきては食堂を利用し、荷物を置かせて欲しいと頼まれた。ところが1週間経っても取りに来ないひともいて迷惑した。マナーを疑るのは悪いと思うが、預からないと決めているというのだった。ちょっとした理由で、お寺さん周りをしたが、ボランティアの宿泊所請負ったところもあるが、柱や床が傷だらけになってしまったという。家が流されている状態で、その位のことは我慢すべきというひともいるがお寺は檀家さんの物。私有物ではないので、一段落した今、ボランティアさんの荷物置き場にはしたくないし、紛失の責任も負えないといわれた。なんらかの形で地元の方のところに一時的に置かさせてもらうことが一番だが、細心の心遣いを忘れずに。私は事情を話して、駅裏商店街のあるお店に頼み込んだ。道で出会った方と話しているうち、預かってくれることがいつの間にか決まっていた。これは助かった。
説教臭くなってきたので、この辺で一度区切ります。
また、日記の空白部分や、ペットレスキューの講演会レポートも書き残している。これは順不同となるが分散して併記していく。ブログは記録でもあるので、見にくいとは思うが、これもまたお許し願いたい。
今回は、訪問の印象の断片から書こうと思う。
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台風6号の接近の影響…訪問は7月18日(月)夜~22日(金)4泊5日で大船渡・陸前高田を歩いてきたのだが、この間ずっと進度の遅い台風6号の影響を受けて、晴れても時間が短く、雨は水曜日夕方から霧雨が降ったが、全般は薄曇りで、夏の日射を避けられてよかった反面、出慣れていない証拠で半袖しか用意していなかったため、朝夕重ね着しても寒いという予想外の展開となった。夜中、宿を抜け出し、周辺を散策という具合には行かなかった。
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岩手県交通の路線バスのこと…地元の常識は来訪者には無愛想でしかないこと。今回出発と帰路はけせんライナーの夜行バスを利用した。車中2泊である。私はけちけち旅行をするので夜行バスを利用する。新幹線を利用する柄ではないと思っている。出かけるときは関西方面だったため、岩手県交通は初めてだったが、座席は設計上の想定身長を超えているため、首が疲れ、足が伸ばせないで窮屈だった。座席数はゆとりがあったが、車内の照明を走り出すとすぐに消灯してしまうのには閉口した。携帯にメモを取り、メールを書くのも、持ち込んだ新書を開くのもためらわれた。関西方面の他社夜行バスと様子が違い、寝る以外なく、懐中電灯なども周囲に迷惑な状態は堪忍して欲しかった。
また乗客だが空席があり、学生、フリーター風の方や、英語圏の体験旅行者(バッグパッカーまで行かない中途半端な感じ)で占められており、地元帰りの若い女性と私が年配者ということになり、いわゆる災害ボランティア風の同行者がいないのは、時期を逸しているか、皆さん車を調達して現地に行っているかのように思えた。いやいや新幹線だという思いは現地に着いて、閑散とした避難所や、市役所、ボラセンなどを見て、時期を逸しているのだと知った。いや、私は被災救援期後の活動を探るためにきたのだから、それは当然ではあるのだが。
岩手県交通の便の少なさには悩まされた。しかも中・長距離バスが定時に来ないだけでなく、バス停が生き残り分しかなく、時刻表などの情報はインターネットに頼らざるを得なかった。3日目、「陸前高田ドライビングスクール」で仙台からの便で大船渡に移動しようと1時間前からバス停で待ち続けていたが、定時から更に30分経ってもバスが来なかった。結局、タクシーを呼んで移動したが、便を選べば無料区間(後述)を5千円かけて移動することになった。ハプニングを考えて所持金はゆとりを持たせていたが、池袋まで帰れてしまう料金が飛んでいくのが虚しかった。被災地の災害ボランティアの場合、大概無理して拝み倒して車に便乗させてもらうのだが、その相手がいないのではどうしようもなかった。とにかく、ひと気が少ないのだ。
最終日も出発を陸前高田においていたが、その「サンビレッジ高田」は山中の体育館を避難所に使っていたが避難所を撤退、周辺に街灯も無く、時々通る車も夜には途絶えてしまう。隣の「ドライビングスクール高田」までは4km弱あり、周辺には人家が無いので闇の中で3時間半を過ごさなくてはならなかった。若い頃、四国や岩泉周辺の鍾乳洞内泊体験をしてきたが、ここで前回のようにバスが来なかったら携帯電話の圏外、どうしようもなくなってしまう。
携帯のスポットの場所を探し、不安定な電波状態で盛岡の予約センターに電話を入れた。ここも17時までなのでゆとりが無かった。券をセンター・営業所に持ってきて一度解約し、買いなおせという指示に、マニュアル人間臭を感じて抗議。被災後無人化している山中の停留所に3時間半、客を待たせるつもりかというが、電話が不安定なので切れてしまった。再度かけ直して、幸い同じ職員が応答に出てリセットにはならなかったが、談判5分。上司の確認を取るとの言葉でまた電話が切れた。再度賭けなおすが話中が入り、終業時間3分前にやっと話が成立。延長差額料金250円支払って、大船渡側から乗ることが出来た。ところがこれは、目的地に着くとき、1駅延長して大船渡に降りたときは、延長料金が400円だった。なんとも不統一な話なのだった。ここは最終の鳴石団地発立根行の無料バスに乗って、移動できたが、飛び乗ったバスは仙台発の有料バス、ところが災害ボランティアとわかり、大船渡のひと駅、無料にしてくれる状態だった。とにかくバスの運行が不安定。私のように歩きで来ている者は見かけなかったのは当然なのだろう。地元すら無料バスは高齢者と通学の学生だけ。車社会なのだった。
岩手県交通は行き先表示が小さな掲示板を挟んであるだけなので、私のように弱視者には全く見えなかった。バスの仕様が正面・側面・後面表示のバスに慣れている感覚からすると、実に不親切で、特に側面表示がないのには慌てさせられた。運転手に声を張り上げて確認しないと行き先がわからない。そこに方言の壁があって思うように会話が成り立たない。一日数本の路線が多いバスを間違えたら終わりの感覚が何回も襲ってきて悩まされた。手を振らないと下車する客がいないと素通りしてしまう。行動がこのバスで制約されてしまった。予想されていたことではあるのだが。
被災復旧まで近距離(?)路線バスは無料だった。フリー昇降区間も多く、そのためかバス停がほとんどない。支柱が折れ曲がったままだったり、とにかく時刻表が不親切だ。せめてインターネット検索ですべてわかるようになっていて欲しいが、検索で時刻表がすべてわかる状態ではない。中・長距離バスは通過してしまうバス停もあって、事前調査が不可欠。地元の人もバスを利用しないので、質問しても民宿すら到着時間を知らなかった。
***
道を聞いてはいけないということ…大船渡は盛駅の周辺など、シャッター通りではあるが商店街が残っているが、陸前高田側はいわゆる商店街が流されて復活しておらず、ローソンやマイヤという大手スーパーの仮店舗が出来て間もない状態という具合に市の格差が大きく、陸前高田側は昼間の歩行者も少なかった。大船渡側は避難所が7月いっぱいですべて仮設住宅に移る状況下にあり、以前大きな避難所を抱える陸前高田とは様相が違っていた。
このため、陸前高田で道がわからなくて、たまに出会う人にはすべて声をかける選べない状況だったのだが、民間の人は自分は地元の者ではないと言ってくれるが、事務員風、または警官は信用できなかった。市の社協ボラセンは「ドライビングスクール高田」のバス停を下ってすぐの場所にあるのだが、広い敷地の駐車場に災害ボランティアの車が止まっている先入観があったので通り過ぎていた。更に下っていくと、T字路に出るのだが、被災地は、あちこちの交差点の信号が破壊されたり機能しなくなっているので、交通警官が出ている。ふたつの質問をした。ひとつは市の社協・ボラセンの場所、もうひとつは市役所仮設庁舎の場所だった。
回答は、市役所は「むこう」、社協は「こっちだ」、だった。大阪府警のパトカーが止まっていたことに後で気付いたのだが、この警官は大阪からの応援部隊の所属で地元ではなかったのだった。社協についてから混乱した話をしたが、「社協」そのものが何かを知らないことが多いから警官はやめておいたほうがいいというのだった。社協方向なる方向に歩いていくと車道両脇に人家が無くなり、明らかに予備調査情報と異なっていた。15分ほど歩いた道を戻り、交通警官に再度質問。案の定「社会福祉協議会」の略とは知らず、「社会主義?」と聞きなおす始末で、バス停そばに人家があるから、そこで聞いてくれとの話で、県外からの応援部隊だと知った。なんとその人家が社協だったのだ。30分は完全にロス。
社協で話し込んで、市役所の仮設庁舎の場所を教えてもらったが、交通警官の「むこう」は真反対だった。もとの庁舎方向を地図確認でもして覚えたのかなと善意で解釈していたが、そのあとがいけなかった。市役所の電話交換のガイドさんに電話で道を聞いた。油断したのだが今、市の社協からそちらの仮設庁舎に向かおうとしているのだがと質問し、T字路を曲がったあたりにいるという話に、180度逆に来ており、しばらく行くとローソンの仮営業所があるので、そのあたりで再度ひとに聞いて欲しいと指示された。社協から歩いて20分が過ぎた。社協の職員の方の説明では「すぐ」というので、田舎の「ちょっと先」はひと山越えた先だった経験もあるので、半信半疑で歩いてきた。更に歩いていくと再開して間もないシェルのGSがあった。そこで笑われた。180度逆だよと。ローソンの辺りには市役所はないよといわれて脱力。30分は歩いている。またもとの振り出しに戻る状態なのだった。両側はがれきの撤去された被災地の荒地であり、T字路に戻ったとき時計は16時40分を過ぎていた。
陸前高田については、教育福祉関連課は仮設庁舎側と聞いていた。市役所機能が分散しているからか、教育福祉関連課へと確認を取った上の話なので衝撃だった。私自身も遠野の社協の車から道を聞かれており、よそ者だらけなのだと知った。しかし、地元の若い方、小学生や乳幼児は、小学生の通学時以外は全く出会わなかった。悔しいが20日は大船渡側に約束があったので、陸前高田は最終日21日までお預けとなった。
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ソフトバンクはだめなのか…被災地なので携帯電話が使えないところが多いだろうと予測して出かけた。しかしそれは半分当たっていて、半分はずれていた。陸前高田のドライビングスクール周辺は無事だったが、サンビレッジの山中はスポットが出来てしまい、少し動くと携帯は圏外になってしまった。大船渡市も意外なことに盛駅前は圏外?警察署前も圏外?おかしいと思っているとサンリアというスーパー前も圏外だが、粘っていると急に感度の柱が立った。事態が納得できた。被災後応急システムで復旧させているのだろう、回線容量が少ないのだ。だからオーバーしたとき、圏外表示でユーザーを遮断しているのだとわかった。これは中継局が少ないための遠距離受信によるスポット現象とは違う状況だった。しかし民宿で聞くと、「ドコモだ、絶対」という話。連絡が取れると思ってはいけない。現に綾里の民宿周辺は全く入感しない完全圏外だった。翌日中小企業の方と会う約束の電話が遮断されてしまった。被災した荒地は返って遠方受信のスポットが立つ。見通しがいいからだ。
***
街の安全のこと…大船渡の港湾地域、いわて生協から入り江沿いに太平洋セメント工場の周辺を歩いた。小さな段差があって、片目の私にはその遠近感(奥行きがわからない)があって、大きなザックを担いだまま、2回転倒してしまった。みっともないが、現実は現実。薄暗闇の駐車場をまたいでツルハドラッグに突進したら突然金網がたちはだかって衝突とか、ろくなことをしていないが、街灯の無い街を歩けば、更地になった被災地の道路側は、排水口のコンクリート板があちこちではずれている。なかには土の詰まったマンホールが口を開けていることもあって、むやみに自転車を送っても事故を起こすのではないかと気になった。しかしそれは私がよそ者であることを実証しているようなものだった。更地の近くは走らないという常識が出来上がっているのだった。道路整備は、がれきの撤去に集中しており、人家の周囲は道路の修復をしているが、更地は後回しになっていた。夕闇が降りれば全くの闇。20時を過ぎれば商店街すら真っ暗なのだった。大手スーパーのサンリアは18時閉店。それ以降はツルハドラッグや薬王院チェーンの薬局兼コンビニしか店がない。
しかしこれは「安全」といえるかわからないが、大小の便意は、やはり用心したほうがいい。喫茶店やコンビニが圧倒的に少なく、17時以降、早朝の便は盛駅の公衆便所が役に立った。私の場合、片膝を粉砕骨折して復活させたハンデを持っているので、腰より高いところに登れなかったり、駆け足が出来なかったり、しゃがむことができなかったりする。つまり和式トイレは使えず、洋式でも座面が低いタイプは立ち上がるのに苦労する。そのために田舎に行くと、洋式便器が少なくて(寒川でさえ、公衆トイレが壊れていることが多いので、地獄の街となる。コンビニのみが頼りとなる。)ここの駅前トイレは手入れが行き届いており感謝している。転んだのも、この足の障碍が残ってふんばれないからだが、案外大事なことなのだ。
しかし私が利用した障碍者用トイレは、自動化しており照明のスイッチが無く、部屋に入ると明りが換気扇とともに作動する。しかしその後のセッティングが悪く、しゃがんだときの便座の圧力センサが感応後、しゃがんで1分もたたないうちに照明が消えてしまう。闇の中の排便となる。尻を浮かせしゃがみ直すと、また点くのだ。つまりつい照り消えたりしながら幽霊屋敷状態で排便することになる。すぐそばでタクシーの運転手さんが待機しているので、気が気ではなかった。
***
荷物置き場のこと…分厚いザックを背負って現地入りしたが、得意のコインロッカーがない。やむなく食堂に入ったとき、女将さんに相談した。しかし気まずそうにして断られてしまった。震災以降様々なボランティアがやってきては食堂を利用し、荷物を置かせて欲しいと頼まれた。ところが1週間経っても取りに来ないひともいて迷惑した。マナーを疑るのは悪いと思うが、預からないと決めているというのだった。ちょっとした理由で、お寺さん周りをしたが、ボランティアの宿泊所請負ったところもあるが、柱や床が傷だらけになってしまったという。家が流されている状態で、その位のことは我慢すべきというひともいるがお寺は檀家さんの物。私有物ではないので、一段落した今、ボランティアさんの荷物置き場にはしたくないし、紛失の責任も負えないといわれた。なんらかの形で地元の方のところに一時的に置かさせてもらうことが一番だが、細心の心遣いを忘れずに。私は事情を話して、駅裏商店街のあるお店に頼み込んだ。道で出会った方と話しているうち、預かってくれることがいつの間にか決まっていた。これは助かった。
説教臭くなってきたので、この辺で一度区切ります。