父の体調が崩れている。昨日はホームに連絡を取り、休みに入る直前のケアマネさんと話すことが出来た。ショートステイを始める時期にきているのではという意見。当人の沽券もこのままでは貶められるばかりだということも考えるべきだという点では納得がいく。家にいれば、茶の間で眠っているか、過剰なカロリーの食事を摂取するばかりだから、そういう面でも、生活の管理の整っているホームの方がいいだろうということだった。
しかし宗教団体の集まりが週3回入っているために、翌日帰りとするとその日に集まりがあることになり、それが理由で父が外泊を拒否することは目に見えていた。集まりが夜の日もある。このときは、集まりの後というわけにもいかない。他の日も、ホームの巡回時間と微妙にずれてしまう。この件で、父をはずして宗教団体の父の送迎者と話す必要があった。本来私はその宗教が間違っていると思っている。しかし、それを生きがいとしている父からそれを取り上げることも善しとは思わない。すでに20数年、その一線を守る形で過ごしてきた。祖父母の末期の介護の際、祖父母にした行為は許せないものがある。しかしその父が、介護をうける立場にあって、その祖父母のことに責任がとれる精神を失っている。なんとも虚しい話だが、同じことをだからといって行う根拠にはならない。それを容認した人たちと話すのは、正直言ってたまらない思いがある。
ケアマネさんはホームに話を引き継いでくれるというが、ホームの短いお盆期間休みに入るケアマネさんを待てないほど緊迫している状況ではないので、休み明けに日程調整に入ることになった。
どんな屈強な人物もやがては亡くなる。この厳然とした事実の中に私たちの生はある。しかしこのことは、生の虚しさの論拠にはならない。また逆に生の輝きを論じる根拠にするには飛躍がある。カードの裏表のような相の中に、私たちの生は存在している。その論理は個人を生の体現のようにとらえているが、私たちはひとと共に生きている存在なのだといことが丁寧に排除されている。この辺に鍵がある。
私は不登校する子や、引きこもる青年たちと出会い、出汁殻のような状態に置かれているが、長いお付き合いの多い夜間傾聴の青年たちと話すとき、出汁殻になってはいない。論理の正しさや、肉体の強靭さに頼って強さを語ることは愚かだ。ひとをなにもとらえていないからだ。私は君とその背後にある揺れ動く人々がいるから、生きていくことに価値を感じて生きている。正確には「価値を感じる」は「生きる」の条件にすること自身が、人生を価値の奴隷にしてしまう意味でおかしいのだが、私は自死を選ぶ根拠を持たないし、特別な他を超え出でるような生の根拠も持たないし、持とうとも思わない。君が苦しみ搾り出すように語る言葉が、柔らかな言葉が行き交う関係に至ったとき、私はそれを嬉しく思う。だからきっと傾聴という辺境の会話に身を置くのだと思う。
一回性の生の論理や、一期一会の生の磨き上げを排除しようとは思わない。しかし来世にすべてを託すような、生に取り組むことの放棄には賛同しない。よく私と私たちを見つめれば、喜怒哀楽に揺れ動き響きあっている私たちの姿が見えてくるはずだ。私の友人のM君は絶望の「底つき」と呼んでいたが、私は絶望の帳の向こうに外があると思っている。それをひとりで探れとは言わない。君は切り離されているだけで、つながらない惑星のような個ではないからだ。この絆のもつれを解いていく作業は相手と共に解く必要がある。社会は固定的で、タイトな価値観を強要して来るように見える。関係を切断し、日干しにしていく残酷さを持っているように見える。しかし「社会」を「人々」と読み替えたとき、それが同じだろうか。
私と母が受けた傷は父の介護拒否の論拠にならないのは、響き合う人間ということを封じることになるからだ。肉親としての父というとらえ方に立てば、もうすでに情は枯れている。この表明が復讐なのだと思う。恐ろしいことではある。
夜間傾聴:なし(閑古鳥)
(校正1回目済み)
しかし宗教団体の集まりが週3回入っているために、翌日帰りとするとその日に集まりがあることになり、それが理由で父が外泊を拒否することは目に見えていた。集まりが夜の日もある。このときは、集まりの後というわけにもいかない。他の日も、ホームの巡回時間と微妙にずれてしまう。この件で、父をはずして宗教団体の父の送迎者と話す必要があった。本来私はその宗教が間違っていると思っている。しかし、それを生きがいとしている父からそれを取り上げることも善しとは思わない。すでに20数年、その一線を守る形で過ごしてきた。祖父母の末期の介護の際、祖父母にした行為は許せないものがある。しかしその父が、介護をうける立場にあって、その祖父母のことに責任がとれる精神を失っている。なんとも虚しい話だが、同じことをだからといって行う根拠にはならない。それを容認した人たちと話すのは、正直言ってたまらない思いがある。
ケアマネさんはホームに話を引き継いでくれるというが、ホームの短いお盆期間休みに入るケアマネさんを待てないほど緊迫している状況ではないので、休み明けに日程調整に入ることになった。
どんな屈強な人物もやがては亡くなる。この厳然とした事実の中に私たちの生はある。しかしこのことは、生の虚しさの論拠にはならない。また逆に生の輝きを論じる根拠にするには飛躍がある。カードの裏表のような相の中に、私たちの生は存在している。その論理は個人を生の体現のようにとらえているが、私たちはひとと共に生きている存在なのだといことが丁寧に排除されている。この辺に鍵がある。
私は不登校する子や、引きこもる青年たちと出会い、出汁殻のような状態に置かれているが、長いお付き合いの多い夜間傾聴の青年たちと話すとき、出汁殻になってはいない。論理の正しさや、肉体の強靭さに頼って強さを語ることは愚かだ。ひとをなにもとらえていないからだ。私は君とその背後にある揺れ動く人々がいるから、生きていくことに価値を感じて生きている。正確には「価値を感じる」は「生きる」の条件にすること自身が、人生を価値の奴隷にしてしまう意味でおかしいのだが、私は自死を選ぶ根拠を持たないし、特別な他を超え出でるような生の根拠も持たないし、持とうとも思わない。君が苦しみ搾り出すように語る言葉が、柔らかな言葉が行き交う関係に至ったとき、私はそれを嬉しく思う。だからきっと傾聴という辺境の会話に身を置くのだと思う。
一回性の生の論理や、一期一会の生の磨き上げを排除しようとは思わない。しかし来世にすべてを託すような、生に取り組むことの放棄には賛同しない。よく私と私たちを見つめれば、喜怒哀楽に揺れ動き響きあっている私たちの姿が見えてくるはずだ。私の友人のM君は絶望の「底つき」と呼んでいたが、私は絶望の帳の向こうに外があると思っている。それをひとりで探れとは言わない。君は切り離されているだけで、つながらない惑星のような個ではないからだ。この絆のもつれを解いていく作業は相手と共に解く必要がある。社会は固定的で、タイトな価値観を強要して来るように見える。関係を切断し、日干しにしていく残酷さを持っているように見える。しかし「社会」を「人々」と読み替えたとき、それが同じだろうか。
私と母が受けた傷は父の介護拒否の論拠にならないのは、響き合う人間ということを封じることになるからだ。肉親としての父というとらえ方に立てば、もうすでに情は枯れている。この表明が復讐なのだと思う。恐ろしいことではある。
夜間傾聴:なし(閑古鳥)
(校正1回目済み)