日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

その日は月曜日だった

2019年08月06日 | 生活・ニュース

 小倉の空が曇っていたから史上2個目の原爆が長崎に投下されたという。もしも、74年前の今朝の広島の空が曇っていたら広島は助かったのだろうか、いや、広島とは別の街が破壊されただろう。みたび核兵器は使われることがないよう大方の人が願っている。しかし、最近の核を巡る動きに恐れを抱いている。 

 8月は黙祷する日が6日の広島原爆の日、9日の長崎原爆の日、14日の岩国駅前大空襲の日、15日の終戦記念日の4回ある。戦争のことは、何度か防空頭巾を冠り防空壕へ退避したこともあったが記憶は薄れていく。ただ、広島の原爆投下時の閃光(ピカ)と続いて聞こえた地鳴りのような音(ドン)と振動だけははっきり覚えている。 

 74年前の8月6日、その日は月曜日だった。広島市中心部の家庭、学校、官庁、商店、工場、会社、銀行等など、日曜日明けのそれぞれの朝があった。屋外には建物疎開で作業中の多くの生徒たちがいた。しかし、一瞬の灼熱と強烈な爆風で街は死の街と化した。それは、教えられ、聞かされ、原爆資料館で目にして、その恐ろしさを私は体中に留めている。

 何十回も見て来た「広島市原爆死没者慰霊式 並びに平和祈念式」のTV中継。大方の人が願う核のない世界への道のりが遠いことを毎年感じる。ここ数年、平和宣言の内容が市民の真の思いと距離感があると感じていた。今年は「核兵器のない世界への一里塚となる核兵器禁止条約への批准・署名を政府に求めた」ことは進歩した。これが核問題解決の前進に寄与することを願う。
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