最近は秋祭りの言葉が少なくなった。変わってフェスタ、地域振興、ふる里興しなど子供のころの素朴な呼び名が少なくなった。神輿や掛け行灯などに変わり、いま賑わいの中心行事に地区名などを冠した「よさこい踊り」、若者主体の賑やかな踊りが賑わうという。
子供のころのまつり。我家の来客へのメイン料理は角寿司だった。今は「岩国寿司」として観光岩国の食の一翼を担っている。寿司を作る手順は同じだが、最後の押さえに大きな違いがある。押さえが利いた寿司は具の中までその味が浸みこんでおりうまみが違う。
蓮根、人参、牛蒡、椎茸など具の味付けをする母の姿は朝から忙しそうだった。寿司味を決める「酢」の味付けには神経を使ったそうだ。夕食のあと5升の飯に酢をまぶす。ウチワで扇ぎながら冷ますのは子供の役目だった。この冷ますことが酢を落着かせる大切なことだったと最近知った。いい仕事をしていたのことになる。
1段目の寿司飯を敷く。父の手から落ちる具は、白いキャンバスに書いたように散らばっていく、あの技は今も記憶にある。最後に錦糸卵をのせてひと段が終わる。緑濃い芭蕉の葉を仕切りとしてのせて2段目に移る。白い飯と芭蕉葉の緑のコントラストは美しかった。
寿司桶一杯は5段重ねになる。これからが最後の仕上げ。米の入った1斗缶をのせて一晩おく。
翌朝、全体重をかけて父が切り分け、もろぶたに並べる。よく締まった切口は陶器のように艶やかだった。120個ほどが並んだ様子は錦絵の様でもあった。
客は寿司がメインの田舎風な料理を食べ、母の包んだ角寿司を土産に持ち帰る。終戦後間もなくの親戚が集まる親元の光景だ。上座に座る祖父母の嬉しそうな姿は穏やかだった。
「父の作る寿司は美味しい」と親戚は褒めた。母はこれが不満だったようだ。「私が味付けなどすべて済ませ、お父はそれを並べるだけ」と母が家内に話したことがあったそうだ。長男の嫁でも当時は親戚の前では口に出来なかったのだろう。
近くの氏神様の秋の大祭が近づいた。境内までの石段に献灯のあかりがともった。夜目には遠く星の世界にでも通じるのではと思わせる神秘な空間が出来ていた。間もなく太鼓の音が聞こえるだろう。
(写真:境内まで続く幻想的な灯)