みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

主のことばに背いた神の人

2020年05月21日 | 列王記第一

列王記第一 13章11−34節

それは、主のことばに背いた神の人だ。」 列王記第一 13章26節

 5年近く住んでいますと、ご近所とも顔見知りになります。公園では散歩中のお隣のご夫婦と会い、帰り道は斜向かいの方とあいさつを交わしました。

 13章後半の出来事は、読んでいて何ともやり切れない、もやもやとした気持ちになります。ヤロブアム王のところに神のことばを届け、不思議を行ったユダからの神の人は、ヤロブアムの勧めを「神の命令ゆえに」という理由で頑として断ったのに、ベテルに住む老預言者の誘いを一旦は同じ理由で断りながら、結局は受け入れた、帰り道獅子に殺されてしまうのです。

 なぜこの人は、老預言者の誘いに気を許したのでしょうか。18節の「私もあなたと同じく預言者です」ということばでしょうか。ミッションを果たし最も大きな難関を越えたこの人に、「同じ預言者です」との誘いが心の箍(たが)を緩めさせたのかもしれません。

 さらに、ミッションを果たしたこの人がなぜ殺されなければならないのかという疑問が湧きます。それに対しては、26節の「主のことばに背いた」ということばで説明するしかないように思います。

 さらに、老預言者のことも引っかかります。彼と神の人とのかかわりは次のように整理できるでしょうか。

 1.息子たちから神の人がしたことを聞く。

 2.神の人に追いつき、一緒にパンを食べてくれるよう願う。

 3.固辞した彼をだます。

 4.自分にあった主のことばを神の人に告げる。

 5.殺された神の人の亡骸を自分の墓に納め、悼み悲しむ。

 老預言者がこの人を招きたいと願ったのはその働きに心動かされたからでしょう。だましてまで…ということには彼の落ちぶれた姿を見るように思います。しかし神は、彼に語るべきことばを授けるのです。しかもそのことばは、自分がだましたために神の人が受けなければならない結末。彼は、この出来事の一切を通して、預言者としての在り方に気づかされたのではないでしょうか。

写真:バルトロメ・エステバン・ムリーリョ「善き羊飼い」シュテーデル美術館


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