みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

だれの前に立つか

2020年05月28日 | 列王記第一

列王記第一 17章

私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。」列王記第一 17章1節 

 「みことばの光」の詩篇を1冊にして発行することについて以前に書いたかと思います。本文の編集を終えたので、校正をお願いするために執筆者の先生に送りました。1月に病を得て今は左指でタイプしておられるとの一文が返信にあり、胸が詰まりました。

 「やってきました17章!」というのは大げさですが、本書17章以降にはエリヤが登場します。オムリの子どもで北王国イスラエルの王となり「彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行った」アハブ王に対峙する預言者として、神はエリヤを遣わされたのです。

 エリヤの登場は劇的です。突然アハブ王の目に現れて、この国に数年の間は露も降りずに雨も降らないと宣言するのです。1節の「私が仕えている」は、「私が前に立っている」ということばです。この宣言の後のエリヤの行動にも目が留まります。

 彼は常に主のことばによって動きます。主が「こうせよ」と言われたらそのように行動し、「ああせよ」と言われたらそのように動きます。そして、彼が動いたところには神のみわざが用意されています。預言者は、神のことばをそのままだれにでも語る者であるとともに、神のことばを聴き、語られたことばに従う者であることを、エリヤの歩みを読むたびに思います。

 自分はだれの前に立っているか、本来はだれの前に立つべきなのだろうか…。

*ヨハン・ゲオルク・トラウトマン「ラザロの復活」(シュテーデル美術館)


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