歴代誌第一 23章24−32節
日曜日の夜は激しい雷雨。私たちの体験を超えた自然の激しさや繊細さ、大きさや細やかさに神の創造を覚えることがありますね。主がヨブに語りかけたことばを思いました。
「だれが、大水のために水路を通し、いなびかりのために道を開き、人のいない地にも、人のいない荒野にも、雨を降らせ、荒れ果てた廃墟の地を満ち足らせ、それに若草を生やすのか。」ヨブ記38章25−27節
これまで、幕屋を解体し、運び、また組み立てていたレビ人の働きは、エルサレムに神の宮が完成するとともに必要がなくなります。それでは、彼らも必要がなくなるのかというとそうではないということを、ダビデは伝えます。レビ人は、祭司であるアロンの子らを助け、神殿の庭、脇部屋、きよめて聖なるものとすることに関する主の宮の奉仕をするようになります。そして祭司についての細々(こまごま)とした指示も続きます。
奉仕について、続けることの必要を覚えるとともに、時とともに変わっていくこともあるのだということを考えることばです。
ブログの読者の中には、日曜日ごとに教会で礼拝をしている方もおられるでしょう。教会にはそれぞれ、礼拝式の形式や順序などにおいて長い間守り続けているものがあるのだと思います。なじんでいることとは違う礼拝に参加して戸惑ったり、感動したりするということもあり、次にはどちらがよいのか…と比べることへと進むかもしれません。
自分たちが守り続けたものを大切にするとともに、決してそれを絶対のものだとしないということが肝心なことではないかと、考えました。