みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

悪者の死を喜ばない

2012年10月25日 | エゼキエル書
エゼキエル書33章1-16節


 イタリアで、2009年に300人以上が亡くなった地震を巡って、専門家たちが有罪判決を言い渡された、と報じられていました。発生前に群発地震があったが、「大地震は起こりそうもない」と専門家による検討会が結論づけていたので、多くの犠牲者が出たのだというのが判決の理由のようです。
 この判決に、科学者たちは「これでは我々は何も言えなくなる」と反発を強めているとあります。

 起こるか起こらないかわからない事件や災害について予知するのは難しい、と思います。けれども、間違いなく起こることについては、その情報を手に入れたものは、関係のある人々に警告しなければ、それこそ罪に問われます。
 この章の前半には、警告すべき見張り人の責任が問われています。

 この時、イスラエルは絶望していました。「罪を犯したのだから、もうダメだ」と思っていたのです。ところが神は、そのようには民をご覧になっていなかったのです。
 「わたしは誓って言う。?神である主の御告げ?わたしは決して悪者の死を喜ばない。…」罪を悔い改めるならば、神は彼らを赦して生かそうと約束しておられるのです。
 ここに神のご愛と、罪を犯した者へのあわれみのまなざしが注がれています。

 警告とは、人を恐怖に陥れるためのものではなくて、生かすために届けられるもの。それゆえ、見張り人の責任は重い、のです。

   


むなしい慰め

2012年10月24日 | エゼキエル書
エゼキエル書32章17-32節


 朝のウォーキングでの一コマ。昨日の雨と風で金木犀(キンモクセイ)のじゅうたんができていました。Photo
 この花は甘い香りを振りまいていますね。金木犀の名前の由来を調べてみたら、樹皮の様子が犀(サイ)の皮膚に似ており金色の花を咲かせるからだそうです。学名がおもしろい。「オスマンツス・フラグランス・オウランティアクス」というのです。「オスマンツス」というのはギリシャ語の「香りのする花」という意味、「フラグランス」は「良い香りのする」、「オウランティアクス」は「橙黄色の」という意味なのだそうです。学名を並べると、「香りのする花・良い香りのする・橙黄色」というのですから、案外単純に名前がついてしまうのですね。

 ユダが頼りにしていたエジプトを、主は「地下の国に下らせよ」「下って行け」とお命じになるというのが32章の後半。そして、地下の国にはかつて隆盛を誇っていた国々がすでに下っていたというのです。アッシリヤ、エラム、メシェク、トバル、エドム、シドンの名前が出て来ます。これらはかつて地上では「恐怖を巻き起こした者たち」、つまり、縦横無尽に力をほしいままにしていた国々だったということです。

 心に留まったのは「パロは…慰められる」という31節のことば。この慰めとは何なのでしょうか。「ああ、地下に下ったのは我々だけではなかったのだ」ということでしょうか。それは、むなしい慰めのように思えます。
 それとともに、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」という伝道者の書の終わりのことばを思い起こしました。



悲しんで歌う

2012年10月23日 | エゼキエル書
エゼキエル書32章1-16節


 毎朝、妻は孫を抱き、聖歌を歌って聞かせます。孫の名前とある聖歌の歌詞とがフィットしているので、その聖歌を孫の「テーマソング」として歌い続けているのです。妻の腕の中で、孫は静かに聞いています。
 歌は、私たちの生活の隅々にしみこんでいるように思います。ただ、駅の発車チャイム、私はベルでいいと思うのですがねぇ。音楽を何かの合図に使うのはどうなのかしら、と思うのですよ。

 この章は、エジプトへの哀歌。強大なエジプトが、周囲の予想に反してもろくも崩壊していく様を見て、関わりのあった諸国に哀歌を唱えよ、と主がエゼキエルによって与えられたことばです。
 とくに、エジプトを頼りにしていたユダにとって、エジプトが滅びることは希望がなくなったということでした。エゼキエルとともに捕囚の地バビロンにいたユダからの民は、遠くで起こっている出来事を聞いては一喜一憂していたものと想像できます。その中には、「エジプトが助けてくれる」「エジプトが頼りだ」という者が少なからずいたことでしょう。

 けれども、頼みの綱が滅びると主は預言者によってお語りになるのです。彼らにとっての哀歌とは、希望がついえてしまったためものでもあったのです。昨日も書きましたが、それはそのまま、「ユダよ。滅びてしまうようなエジプトに頼らずに、わたしに頼れ」と主が招いておられるということなのです。

 哀しみの中で自己憐憫に陥っている者に、主を見上げるように声をかけ続けているのが哀歌だとも言うこともできます。

  




エジプトに頼るな

2012年10月22日 | エゼキエル書
エゼキエル書31章


 日曜日には、平塚の教会に伺いました。礼拝の後で、「デボーションセミナー」が持たれ、話をさせていただきました。聖書同盟が発行している「神のと豊かな交わり」をもとに、より豊かなデボーションとなるようともに学び合いました。Photo
 セミナーでは実際に昨日の箇所である30章を読み、教えられたことを分かち合いました。豊かな分かち合いだったと思います。
 「神との豊かな交わり」は有益な本です。お薦めします。

 エジプトへの宣告が続きます。
 きょうの箇所ではエジプトの隆盛がレバノンの杉にたとえられています。
 高さにおいても枝振りにおいても、レバノンの杉がたとは比べられないほどの見事さであったように、エジプトは当時、他にはない力を誇っていました。けれども、その繁栄と力は、レバノンの杉が豊かな水がもたらすものであるように、実は主が与えられたのです。
 ところが、エジプトは高ぶりました。それゆえ、主はエジプトにさばきを下されるのです。

 ところで、エゼキエル書ではどうしてエジプトへの言及が長く続くのでしょうか。
 それは、ユダ王国末期、主がユダとエルサレムをさばくために用いられたバビロンに対峙するために、ユダの最後の王ゼデキヤが頼ったのがエジプトだったからです。

 エジプトへのさばきの宣告は、裏を返せば、「ユダよエジプトに頼るな。わたしに頼れ」という、主なる神の招きのメッセージなのです。

 だれに頼るか、…いつも問われています。



わたしが主であることを

2012年10月20日 | エゼキエル書
エゼキエル書29章


 今週からしばらくの間、土曜日にはイベントが続きます。きょうは「ふれあい福祉健康まつり」が開催されます。行田のぞみ園ではこのためにたくさんのケーキやクッキーを用意していました。快晴の下でどんなイベントになるか、楽しみです。
 朝歩きの町には、11月2日に公開される「のぼうの城」のポスターが至る所に貼ってあります。何と言っても地元ですから、熱心さが違います。映画と言えば「希望の国」という作品が今日から公開されます。たくさんの人に観てほしい、です。

 29章にはエジプトへのさばきの宣告。
 「川は私のもの。私がこれを造った」と豪語するエジプト。しかし主は、「自分の川の中に横たわる大きなわに」を鉤にかけて、そのうろこにすべての魚をつけて釣り上げてしまうとおっしゃいます。政権末期のユダがバビロンに対抗するために望みをかけたエジプトは弱く折れやすい「葦」にすぎなかったのです。

 この章に多く見られるのは「わたしが主であることを知ろう」との主のことば。
 「みことばの光」の「考えよう」には、「きょう、自分の周りの社会のことや、世界情勢について知る機会があるだろうか。その時、そこに神である主がおられ、働き、導いておられる」とあります。
 日本だ、中国だ、韓国だと、私たちは毎日、目に見える国や企業、人が世界を動かしているかのように錯覚します。
 しかしここには、たしかに見えない神がいて働いておられるのです。
  
  


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