みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

悲しみが喜びに

2012年10月02日 | ヨハネの福音書
ヨハネの福音書16章16-33節


 小さな庭に植えた柿の木がずいぶん大きくなりました。けれども、どのように剪定(せんてい)してもお隣の敷地にかぶってしまうので、昨日の午後、思い切ってしまいました。切ったのです。ついでに、桃の木もばっさり。
 植えた妻にいじわるしているようなのですが、お隣に配慮して断行。きっと妻は悲しかったと思います。

 「もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます」ということはさらに弟子たちの当惑と悲しみに輪をかけます。「みことばの光」が解くように、彼らの頭は今のことでいっぱいなのです。
 けれども、時を支配されるイエスは、弟子たちの目を将来に向けさせます。この箇所でイエスは「時」ということばをがたくさん用いておられます。
 その時が来たら、悲しみは喜びに変わる、いや喜びで満たされる。その時が来たら、わたしの名によって父に求めるようになる。あなたがたが見捨ててわたしを一人残す時が来る。

 「今が大事だ」とよく言われます。けれども、今しか見えない、いや、今をさえよく見えない私たちは、なかなか将来に目を向けるということができないでいます。聖書を読む、イエスの名によって神に祈るのは、今しか見えないで悲しみに沈む私たちに、間違いなく輝かしい将来を見る機会だとも言えます。

 世にあっては患難があるとは、この時の弟子たちの近未来についての預言です。しかし、そこと突き抜けた所に輝かしい勝利が待っているのだから平安を持てるのだと、イエスは弟子たちをことばによって支えておられるのです。

 


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