みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

悲しんで歌う

2012年10月23日 | エゼキエル書
エゼキエル書32章1-16節


 毎朝、妻は孫を抱き、聖歌を歌って聞かせます。孫の名前とある聖歌の歌詞とがフィットしているので、その聖歌を孫の「テーマソング」として歌い続けているのです。妻の腕の中で、孫は静かに聞いています。
 歌は、私たちの生活の隅々にしみこんでいるように思います。ただ、駅の発車チャイム、私はベルでいいと思うのですがねぇ。音楽を何かの合図に使うのはどうなのかしら、と思うのですよ。

 この章は、エジプトへの哀歌。強大なエジプトが、周囲の予想に反してもろくも崩壊していく様を見て、関わりのあった諸国に哀歌を唱えよ、と主がエゼキエルによって与えられたことばです。
 とくに、エジプトを頼りにしていたユダにとって、エジプトが滅びることは希望がなくなったということでした。エゼキエルとともに捕囚の地バビロンにいたユダからの民は、遠くで起こっている出来事を聞いては一喜一憂していたものと想像できます。その中には、「エジプトが助けてくれる」「エジプトが頼りだ」という者が少なからずいたことでしょう。

 けれども、頼みの綱が滅びると主は預言者によってお語りになるのです。彼らにとっての哀歌とは、希望がついえてしまったためものでもあったのです。昨日も書きましたが、それはそのまま、「ユダよ。滅びてしまうようなエジプトに頼らずに、わたしに頼れ」と主が招いておられるということなのです。

 哀しみの中で自己憐憫に陥っている者に、主を見上げるように声をかけ続けているのが哀歌だとも言うこともできます。

  




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