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スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

将棋大賞&カード

2025-04-02 15:12:35 | 将棋トピック
 2024年度の将棋大賞が昨日,発表されました。
                          
 最優秀棋士賞は藤井聡太竜王・名人。名人防衛,棋聖防衛,王位防衛,王座防衛,竜王防衛,棋王防衛,王将防衛,NHK杯優勝。年度の初めにタイトルをひとつ失いましたが,ほかはすべて防衛しましたので当然の受賞。2020年度,2021年度,2022年度,2023年度に続き5年連続5度目の最優秀棋士賞。
 優秀棋士賞は伊藤匠叡王。叡王奪取,順位戦昇級。残りひとつのタイトルを奪取しましたからこれも当然。2023年度に続き2年連続2度目の優秀棋士賞。
 敢闘賞は永瀬拓矢九段。王座挑戦,王将挑戦,名人挑戦。この部門は棋戦をふたつ優勝した丸山忠久九段との争い。3つという点の方が高く評価されたということでしょう。2019年度以来となる2度目の敢闘賞。
 新人賞は岡部怜央五段。順位戦昇級。棋戦優勝はありませんでしたが,記録部門で最多対局賞,最多勝利賞,連勝賞と3つを獲得したことが評価されました。
 記録部門の勝率1位賞は服部慎一郎七段。藤本渚六段が17連勝で岡部五段と共に連勝賞を受賞しています。
 最優秀女流棋士賞は福間香奈女流五冠。女流王位防衛,清麗防衛,女流王座防衛,倉敷藤花防衛,女流王将挑戦,白玲挑戦,マイナビ女子オープン挑戦。まだ戦われている女流名人戦を含め,すべてのタイトル戦に出場。出産に伴う不戦敗もあってのものですから当然でしょう。2009年度,2010年度,2011年度,2012年度,2013年度,2015年度,2016年度,2017年度,2018年度,2019年度,2020年度,2021年度,2022年度,2023年度に続き10年連続15度目の最優秀女流棋士賞。
 優秀女流棋士賞は西山朋佳女流三冠。マイナビ女子オープン防衛,女流王将防衛,白玲防衛,女流王座挑戦,女流名人挑戦,女流王位挑戦。不戦勝での防衛もありましたがこちらも当然。2021年度,2022年度,2023年度に続き4年連続4度目の優秀女流棋士賞。
 女流棋士最多対局賞は加藤桃子女流四段で53局。
 升田幸三賞は3手目に☗6六角と上がる形の向飛車で佐藤天彦九段。
 名局賞は伊藤叡王が奪取した叡王戦第五局。
 女流名局賞は白玲戦第一局
 名局賞特別賞はNHK杯の藤井竜王・名人と増田八段の準決勝。最後の方で後手に一失あったために,先手玉が5一まで入って逆転した将棋です。

 12月25日,月曜日。総講がありましたのでお寺に行きました。
 12月28日,木曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。この日が年内の最後の出勤日でした。年末年始を家で過ごすようにするための迎えでした。
 12月30日,土曜日。22日に本人確認のために信用金庫に出向いて,ついでだったのでカードを作ったといいましたが,作ったカードをその場で受け取ったという意味ではありません。この日に簡易書留で送付されました。
 2024年1月3日,水曜日。妹をグループホームに送りました。翌日が年明け最初の出勤日でしたので,この日のうちにグループホームに送っておいたものです。
 1月5日,金曜日。О眼科に眼科検診に行きました。この日は網膜症の検査のほかに,緑内障の進行度合いを調べるための視野の検査も実施しました。どちらも変化はありませんでした。
 この日の午後に,リフォーム会社が訪問してきました。これは懸案事項を解消するためのものです。懸案というのは下水管のことです。以前,隣家のSさんが引っ越した後,その家を解体して新築の工事をしているときに,僕の家の下水管が詰まってしまい,水道業者に高圧洗浄をしてもらったことがありました。そのときに,下水管が平行になってしまっているために,水が流れにくくなっていることが原因であると指摘されました。このときはまだ隣家が工事中でしたから,物理的にそれを直す工事をすることができなかったのですが,いつまでもそのままにしておいたのではまたいずれ同じことが生じるでしょう。なので下水管に傾きをつける工事をしたいと思っていたのです。ただ,下水管自体が古くなっているということも同時に指摘されていましたので,もしそうであれば下水管自体を新しいものに交換することも必要だと思われました。これらの工事を翌日から執り行うことになっていたので,その事前の準備としてこの日のうちに業者が来訪したものです。外の下水管だけでなく,室内の下水管も診断してもらうため,床下にも入ってもらいました。それらのうち,トイレの下水管は新しいものにした方がよいだろうとのことでしたので,その工事もすることにしました。
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証言 羽生世代&純化

2025-02-15 11:41:46 | 将棋トピック
 『証言 羽生世代』は講談社現代新書から2020年12月20日に発売されたもので,著者は将棋記者の大川慎太郎。大川は『不屈の棋士』を出版した後に,講談社の担当者から羽生世代を中心とした本の提案を受けていました。2018年の竜王戦に羽生が敗れたとき,この機会に棋士たちの証言を集めておいた方がよいと大川も思い,講談社のPR誌である『本』の2019年8月号から連載を開始。その後の情勢の変化,というのは主に藤井聡太の活躍ですが,そうしたことのために大川が書いた部分には修正があるとのことですが,ほとんどの部分は騎士へのインタビューになっていますから,内容に変更はないとしてよいでしょう。
                            
 大川が棋士へのアポイントメントを取り始めたのは2019年4月になってから。16人の棋士がインタビューに答えていますが,これはすべて大川がオファーを出した棋士だとみられます。このうち羽生善治へのインタビューだけはオンラインで行われ,他の15人は対面でのインタビューです。
 大川が選出した16人は,まず先行世代として谷川浩司,島朗,森下卓,室岡克彦の4人,同世代として藤井猛,先崎学,豊川孝弘,飯塚祐紀の4人,後輩として渡辺明,深浦康市,久保利明,佐藤天彦の4人。そして羽生世代の中心となる佐藤康光,郷田真隆,森内俊之,羽生善治の4人で,これは第1章から第4章まで,この順番の記述になっています。
 ここでは参考のために,実際にはどういう順番でインタビューが行われたかを示しておきます。
 最初にインタビューを受けているのは豊川です。2019年4月上旬となっていますから,大川がアポイントを取り始めてすぐです。5月下旬に藤井と郷田。8月初旬に島,上旬に佐藤康光。10月中旬に渡辺。11月上旬に森内,中旬に森下。2020年に入って2月上旬に谷川,下旬に深浦。6月初旬に室岡と飯塚,下旬に先崎。7月初旬に久保。8月下旬に佐藤天彦。羽生へのインタビューが最後でこれは2020年9月初旬です。

 僕の考え方を先回りして説明しましたので,吉田の考察に戻ります。
 吉田によれば,属性attributumは雑多な考え方,それこそ眼鏡属性というようないい方が基本に忠実であるといえるような使われ方をしていたのですが,17世紀に入ってから哲学的に属性の概念notioが純化されました。いうまでもなくこの純化に貢献を果たしたのはデカルトRené Descartesです。デカルトはあらゆる精神的実体に備わる本質的な特性として思惟Cogitatioを,そしてあらゆる物体的実体substantia corporeaに本質的に備わる特性として延長Extensioを示し,この思惟と延長だけを属性として認めました。デカルトは基本的に動物のことを,精神mensをもたない自動機械automa spiritualeとみなします。したがって人間以外の動物は延長の属性Extensionis attributumの様態modiということになります。延長というのは空間的な広がりを意味します。たとえばあるネコが年齢とともに色が白っぽくなったとしても,あるいは事故で1本の脚を失ってしまうというようなことがあったとしても,ネコがネコであることに変わりはないのですが,空間的な広がりをもたないネコというのはあり得ません。いい換えれば空間的な広がりを欠いてしまえば,ネコはネコであることはできなくなってしまうでしょう。つまりネコがネコとしてある,ありとあらゆる特性は,空間的な広がりなしにはあることも考えるconcipereこともできないということになります。したがってこの空間的な広がりを意味する延長は属性であるとデカルトはいいました。すなわちネコとは,物体的実体の属性である空間的な広がりが,ネコという形態を帯びているという意味になり,この意味においてネコは物体的実体のあるいは延長の属性の様態であるということに,デカルトの哲学のうちではなるのです。
 スピノザは基本的にこの考え方を引き継いでいるといえますが,決定的な相違があります。それは第一部定理一四にあるように,実在する実体がDeusだけであるとスピノザが主張している点です。いい換えれば神以外には実体は存在しないのですから,デカルトが規定しているような精神的実体とか物体的実体といった実体が存在するということは認めません。そして実在する実体が神だけである以上,あらゆる属性は神の本性essentiaを構成することになります。
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藤井聡太はどこまで強くなるのか&ふたつの意味

2024-06-22 20:36:18 | 将棋トピック
 『藤井聡太論 将棋の未来』を書いた谷川浩司が翌年に出版した藤井論が『藤井聡太はどこまで強くなるのか』です。こちらも前のものと同じく,講談社+@新書から出版されました。翌年といいましたが,前のものが2021年5月の出版で,こちらは2023年1月です。僕が翌年といったのは,谷川によるあとがきが,前者は2021年4月で後者は2022年12月になっているからです。
                                        
 こちらの本の副題は「名人への道」です。つまり藤井はまだ名人は獲得していません。このときは竜王,王位,叡王,王将,棋聖の五冠でした。順位戦はA級で,この後に挑戦者決定戦を制して挑戦権を獲得。名人を奪取することになるのはご承知の通り。名人奪取の前に棋王を獲得し,名人を奪取した後には王座も獲得。先日叡王を失陥しましたが,全冠制覇を達成しました。
 副題から分かるように,この本は名人戦に焦点を当てています。谷川は藤井が名人を獲得するまで,最年少で名人を獲得した棋士でした。この本が書かれている頃は藤井はA級で名人への挑戦権を争っていて,挑戦者になる可能性がありました。もしも挑戦して名人を奪取すると,谷川の最年少記録が更新されることになります。そういう時期であったからこそこうしたものが書かれる意義があったといえるでしょう。もちろん名人戦に焦点を当てているということは,谷川自身が戦った名人戦のことも書かれていますし,谷川以前の名人戦のこと,また谷川と藤井の間のことについても書かれています。
 一方,タイトルから分かるようにこれは藤井聡太論でもあります。ですから藤井はまだ名人にはなってなかったわけですが,藤井についても多くのことが書かれています。2021年4月に藤井聡太論を書き終えて,2022年12月にこちらが書き終わっているわけですから,谷川の藤井に対する見方が大きく変わっているわけではありませんが,いくらかの変化があります。また,第四章では藤井に勝つための戦略という観点からの記述があり,こちらは藤井に対抗しようとする棋士に焦点を当てたものとなっています。

 スピノザは書簡五十の冒頭で,ホッブズThomas Hobbesの国家論と自身の国家論の相違について,自然権jus naturaeという観点から説明していました。それは具体的には,ホッブズは自然権を国家Imperiumのうちにそのまま残していないけれど,スピノザはそれをそっくりそのまま残しているということです。自然権をそっくりそのまま国家においても残すということが何を意味しているのかということは,ここまでの國分の説明から明瞭になるでしょう。それは,自然権は人間に与えられている力potentiaと過不足なく重複しているので,国家においてもそれ自体でそれを制限することはできないし,それ以上のことを要求することもできないということです。つまりここにはふたつの意味が含まれているといえるでしょう。過不足ない力を不足させることもできないし増大させることもできないというふたつの意味です。
 たとえば陸の上を自由に歩き回ることができるひとりの人間と,水中を自由自在に泳ぎ回ることができる一匹の魚がいると仮定しましょう。社会societasの法lex制度は,その人間が歩き回る力をそれ自体で制限することはできません。もちろんそれを罰するということはできますし,一方でこの人間はそういう力を自然権として与えられているからといって常に歩き回るというものではありません。しかしこの力が与えられているのであれば,その力自体を制限することができないのです。また,この人間が魚のように自由に水中を泳ぎ回るような力を付与することはできません。法制度がそういう権利をその人間に与えるということは論理上はできますが,現実的にそのような力を与えることはできません。したがって,もしそうした権利を行使するようにその人間に要求するとすれば,それは無理なことを要求していることになります。なのでそうしたことを要求することは現実的にはできないということになります。
 ここではひとりの人間が陸の上を自由に歩き回ることができるという仮定で説明しましたが,現実的に存在する人間に与えられている力すなわち自然権は,いうまでもなくこれだけに留まるものではありません。そうしたすべての自然権あるいは力に,ここで説明したことがすべて妥当するのです。
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将棋大賞&経緯の推測

2024-04-12 19:40:18 | 将棋トピック
 1日に2023年度の将棋大賞の受賞者が発表されました。
                                        
 最優秀棋士賞は藤井聡太竜王・名人。叡王防衛,名人奪取,棋聖防衛,王位防衛,王座挑戦,奪取,竜王防衛,王将防衛,棋王防衛。棋戦は日本シリーズ優勝。これはほかに選びようがありません。2020年度,2021年度,2022年度に続き4年連続4度目の最優秀棋士賞です。勝率1位賞も受賞しています。
 優秀棋士賞は伊藤匠七段。竜王挑戦,棋王挑戦,叡王挑戦。最優秀棋士が突出しているため,優秀棋士賞は票が割れました。永瀬拓矢九段との争いでしたが,竜王戦と叡王戦の挑戦者決定戦の結果が影響したように思います。優秀棋士賞は初受賞。最多対局賞と最多勝利賞も受賞しました。
 敢闘賞は丸山忠久九段。銀河戦優勝。ここも永瀬九段との争い。銀河戦の本選での直接対決で勝ったというのもあるでしょうが,敢闘賞というのはよく頑張ったという主旨があり,永瀬九段に対してよく頑張ったというより,50代で銀河戦を優勝した丸山九段はよく頑張ったという意味合いの方がやや強かったということかもしれません。敢闘賞は初受賞。
 新人賞は藤本渚五段。加古川青流戦に優勝。新人王戦は決勝で負けましたが,伊藤七段と最多勝利賞を受賞していますからこれは当然の選出でしょう。
 記録部門の連勝賞は15連勝の佐々木大地七段。
 最優秀女流棋士賞は福間香奈女流五冠。女流王位防衛,清麗防衛,白玲挑戦,倉敷藤花防衛,女流王座防衛,女流名人挑戦,奪取。八冠のうちの五冠を占めていますから当然でしょう。2009年度,2010年度,2011年度,2012年度,2013年度,2015年度,2016年度,2017年度,2018年度,2019年度,2020年度,2021年度,2022年度に続き9年連続14度目の最優秀女流棋士賞。
 優秀女流棋士賞は西山朋佳女流三冠。清麗挑戦,女王防衛,倉敷藤花挑戦,女流王将防衛,白玲防衛。こちらは残る三冠の覇者ですからやはり当然。2021年度,2022年度に続き3年連続3度目の優秀女流棋士賞。
 女流最多対局賞は加藤桃子女流四段でした。
 升田幸三賞は伊藤匠七段。棋王戦第一局などの,角換わり相腰掛銀の後手番で持将棋を目指す定跡の確率が評価されました。将棋AIとプロの将棋は持将棋の規定に相違がありますが,その相違を突いた定跡ですので,AI時代を象徴するような受賞といえます。
 升田幸三特別賞は村田顕弘六段。村田システムによる受賞。王座戦本選の反響が大きかったのでしょう。AI時代に個人の名が入る作戦を創作したのは素晴らしいと思います。
 名局賞は王座戦挑戦者決定戦。タイトル戦を差し置いての受賞ですから,よほど高く評価されたということになります。
 女流名局賞は白玲戦の第二局。両者は2023年度にタイトル戦で17局を戦いました。その中で最も内容が優れていたという評価を受けたのがこの一局だったということです。
 名局賞特別賞は王座戦第四局。これは痛恨の一着があった将棋ですが,世間に対する反響はきわめて大きなものがありました。その点が考慮されての特別賞でしょう。

 僕とは異なり,國分はステノNicola Stenoが過剰な信仰心を抱いていたとみていましたから,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausにも改宗を迫ったであろうといっています。
 チルンハウスはこのときも『エチカ』の手稿をもっていたのですが,それがステノの手に渡りました。ここにどういう経緯があったかは分かりませんが,推定を試みます。
 チルンハウスはライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizにこの手稿を見せてもよいかという打診をスピノザにしています。したがって,もしもそれを読むのにふさわしい人物がいるなら,それをその人に読ませてもよいと思っていたのは間違いありません。チルンハウスはこのときもステノのことをそのような人物だと思い,しかしスピノザはもう死んでいたのでその可否を問うことができず,自分の判断でステノに手稿を渡したところ,その手稿がチルンハウスの手に戻ってこなかったということは,考えられないことではありません。ただ,ステノが國分がみるように,チルンハウスに改宗を迫るような人物であったとしたら,そのような人に手稿を読ませるのは危険であると判断した可能性が高くなりますから,このケースは考えにくくなります。また,僕がみるように,改宗後のステノが,過剰な信仰心を抱いていた人物とはいえなかったとしても,改宗者には違いないのですから,やはりチルンハウスは手稿を読ませるのは危険であると判断しそうに思えます。とくにステノはこの年のうちに司教となって,プロテスタントのルター派が優勢であったドイツに移り,カトリックの布教活動に従事してそのまま死んでいます。このような経歴を考えれば,ステノはこの時点でカトリックの内部でそれなりの地位を占めていたと考えることができるわけで,そうであるならなおのことチルンハウスは手稿をステノに渡してしまうことの危険性を高く見積もれたのではないかと思うのです。
 したがって,チルンハウスが自主的に手稿をステノに渡したという可能性は低いのではないかと僕は思っています。むしろステノがチルンハウスがそれを携えているということを知っていて,何らかの画策をしてチルンハウスから奪い取った,あるいは騙し取ったという可能性が高いのではないでしょうか。
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藤井聡太論 将棋の未来&理性の地位

2024-03-15 19:04:33 | 将棋トピック
 十七世名人の谷川浩司は藤井聡太について多くを語っています。その1冊が『藤井聡太論 将棋の未来』です。これは2021年5月19日に講談社@新書から発売になったもの。「おわりに」のところで二〇二一年四月と谷川は書いていますので,原稿はそのときまでにできていました。説明するまでもないでしょうが藤井は現在はすべてのタイトルを保持していますが,谷川がこれを書いた時点では棋聖と王位の二冠でした。つまりそのときまでに書かれた藤井聡太論であって,現時点ではまた谷川は藤井に対して別の見方をしている部分もあると踏まえる必要はあるでしょう。このことは谷川自身がいっていることでもあり,「はじめに」の中で谷川は,現時点での私なりの藤井聡太論を展開していくといっています。それは同時に,藤井の将棋が進化していくのと並行して,谷川自身の藤井聡太論も進化していくであろうということを,その時点で谷川が意識していたということでもあるでしょう。たぶん谷川は藤井の将棋がさらに進化していくであろうということについては,ある程度の確信をこの時点で有していたのだろうと僕は思います。
                                        
 谷川は本書の目的として,藤井聡太という巨大な才能の謎に迫ることを通して,トップ棋士がもつ能力を明らかにしつつ,将棋の現在と未来を展望することをあげています。ですから,藤井聡太論と銘打たれていますが,藤井のことだけが集中的に語られているわけではありません。谷川は自身と藤井の共通点として,中学生のうちに棋士になり,詰将棋を愛好して創作もするという点をあげていますが,そうした観点から谷川自身のことも語られますし,羽生善治をはじめほかの棋士について語られる場面もあります。将棋の現在と未来の展望が目的ですからそれは当然のことであって,藤井聡太論を含む将棋論であるとみた方がよいかもしれません。他面からいえば,藤井聡太があまりにも巨大な才能であるがゆえに,藤井聡太について論じていくことが,将棋そのものについて論じることと相通ずる部分があるということです。
 谷川のように大きな実績を残した棋士が,藤井について考察し,その見解を表明するということは,それだけで大きな意義があることだと僕は思います。学術の世界では先輩が後輩の偉大さについて語るということはきわめて稀といっていいのですが,将棋界にそういう風土があることは,僕たちにとって幸いなことだと思います。

 繰り返しになりますが,フーコーMichel Foucaultは,デカルトRené Descartesやスピノザが真理veritasの探究を始めるときに,それを強い決意decretumと共に開始したのは,そうした強い決意が,狂気を自身から引き剥がすために必要だったからだと指摘しています。他面からいえば,狂気から身を引き剥がすことが,デカルトやスピノザの時代においては重要なことであったとフーコーは指摘しているわけです。
 ここでフーコーがいっている狂気を,どのようなものと解するべきであるのかということははっきりとは分かりません。國分はこれを,理性ratioに対立する状態と解しています。僕は『狂気の歴史Histoire de la folie à l'âge classique』は読んでいませんが,フーコーの全体的な主張からすると,このような解釈は恣意的なものではなく,それが指摘されている文脈において正しいか正しくないかは分かりませんが,少なくともフーコーの全体的な思想から俯瞰してみれば,ひどく誤った解釈を國分がしているということはあり得ないのであって,むしろフーコーの主張に沿ったものであるといえると思います。
 狂気が理性に対立するものであるとすれば,狂気から身を引き離すために強い決意が必要であったということは,理性がもっている地位は,狂気が有していた地位と比較したときに弱小であったということになります。つまりフーコーがここでいいたいのは,デカルトやスピノザの時代は,理性というのが確たる地位を獲得していたわけではないのであって,このような強い決意と共にあるのでなければ,簡単に崩れ去ってしまうようなものであったということであり,デカルトは『方法序説Discours de la méthode』で,スピノザは『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』で,揃って強い決意を述べているということが,この時代の理性の地位が弱小なものであったということを示しているということなのです。
 理性の地位は,この時代に比べれば現代では確実に強力になっているといえます。そしてそれに比較すれば,狂気の地位はきわめて弱小化しているのであって,排除されるべきものとすらみられているといえるでしょう。デカルトやスピノザは人びとの理性観あるいは狂気観の変貌に大きな影響を与えているといえるかもしれません。とくにデカルトの場合にそれは妥当しそうです。
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棋士の勝負哲学&国家の合倫理性

2023-06-23 19:23:01 | 将棋トピック
 『透明の棋士』の著者である北野新太の,「報知新聞の北野です」と同様に.棋士の記者会見でよく耳にするのが「朝日新聞の村瀬です」というフレーズです。北野が朝日新聞に転職したことによって,このふたりは現在は同僚になっています。その村瀬信也の著書が『棋士の勝負哲学』です。
                                        
 昨年1月に幻冬舎から出版されました。僕がもっているのは第二刷ですが,1月25日に発行されたものが2月10日に増刷されていますから,発売直後の時点で当初の見込みより好調な売れ行きだったということでしょう。
 村瀬が21人の棋士について記したもの。6つの章に分けられています。
 第1章は「藤井聡太という天才棋士の異次元の強さ」で,この章は藤井聡太竜王・名人だけです。
 第2章は「最強棋士だけに見える前人未到の世界」。ここは渡辺明名人と羽生善治九段のふたり。
 第3章は「時代を築いたトップ棋士の新たな戦い」。佐藤康光九段,森内俊之九段,谷川浩司十七世名人の3人です。
 第4章は「勝負師たちの苦悩と矜持」。木村一基九段,藤井猛九段,先崎学九段,深浦康市九段,久保利明九段,山崎隆之八段の6人です。
 第5章は「若き将棋指しの不屈の闘志」。豊島将之九段,永瀬拓矢王座,佐藤天彦九段,広瀬章人八段,斎藤慎太郎八段,佐々木勇気八段の6人と里見香奈白玲の7人です。
 第6章は「語り継がれるレジェンドの勝負哲学」。米長邦雄永世棋聖と加藤一二三九段のふたりです。
 この21人は,村瀬自身が日々の取材をする中で,とくに書きたいと感じて選抜されています。もともとは連載コラムをまとめたもので,そのコラムのための取材もされています。著書はそのコラムにさらに手が加えられています。

 国家Civitasにとって合倫理的であるということが何を意味するのかといえば,国家を構成する市民Civesが融和することによって,あたかも国家が個物res singularis,第二部定義七でいわれている,多数の個体がすべてある結果effectusに対する原因causaとして,個々の活動actioにおいて協力するような個物になるということです。現実的にはこのことはきわめて困難なことといわなければなりませんが,国家の最高権力者の合倫理性は,国家がこの方向へと進むことを目指すことにあるのであって,これに反するようなことは非倫理的といわなければなりません。そこで,もしも国家の最高権力者が,自分の子どもへの愛amorのゆえにその子どもを権力の中枢に抜擢するということがあるとすれば,それは国家を構成する市民の一致や融和を齎すよりは,亀裂とかあるいは最高権力者自身への政治的信頼の失墜という方向へ向かわせるでしょう。よってこのようなことをする最高権力者は,子どもを愛するという意味では合倫理的であったとしても,国家の最高権力者として合倫理的であるかといえばそういうわけではなく,むしろ非倫理的であるといわなければならないのです。ですから,僕は愛は一般的に合倫理的な感情affectusであるといいますが,個別の愛によって個別の人間に対して親切をなす人間が,全面的に合倫理的であるということを肯定しているわけではなく,その人間のその個別の愛だけでなくその他の事情を考慮すれば,その人間自身は非倫理的であるという場合があるということは認めます。
 僕はここで具体的事例として示した例を,この最高権力者Aの,子どもであるBに対する愛が,市民に対する愛を抑制ないしは除去するという仕方で解します。少なくともAのBに対する愛が,Aの市民に対する愛と同じ程度であるならば,Bに対しても市民に対しても同じだけの親切をなそうとするのですから,Bだけを権力の中枢に抜擢するということは生じ得ない筈だからです。もちろんAは,当初から市民に対する愛を有していなかったという場合がないわけではないのであって,僕の解釈は一面的であるかもしれませんが,たとえその場合であっても,Bに対する愛が市民に対する愛を抑制していることは間違いありません。
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将棋大賞&仮説

2023-04-12 19:33:08 | 将棋トピック
 2022年度の将棋大賞が3日に発表されました。
                                        
 最優秀棋士賞は藤井聡太竜王。叡王防衛,棋聖防衛,王位防衛,竜王防衛,王将防衛,棋王挑戦,奪取。名人挑戦。日本シリーズ,銀河戦,朝日杯将棋オープン,NHK杯と出場できる棋戦ですべて優勝。文句のつけどころがない成績で当然の受賞。記録部門の最多勝利賞と勝率1位賞も受賞しています。2020年度,2021年度に続き3年連続3度目の最優秀棋士賞です。
 優秀棋士賞は渡辺明名人。名人防衛。名人という大きなタイトルを防衛したことでの選出になりました。2005年度,2008年度,2010年度,2011年度,2015年度,2018年度,2020年度,2021年度に続き3年連続9度目の優秀棋士賞になります。
 敢闘賞は羽生善治九段。王将挑戦。実績としては永瀬王座の方が上でしょうが,大きな話題を提供したという点が大きかったと思います。1987年度,1991年度に続く32年ぶり3度目の敢闘賞になります。
 新人賞は服部慎一郎五段。新人王戦優勝。記録部門の最多対局賞も受賞しました。
 残る記録部門の連勝賞は18連勝の渡辺和史六段でした。
 最優秀女流棋士賞は里見香奈女流五冠。女流王位防衛,清麗挑戦,奪取,白玲挑戦,奪取,倉敷藤花防衛,女流王座防衛2009年度,2010年度,2011年度,2012年度,2013年度,2015年度,2016年度,2017年度,2018年度,2019年度,2020年度,2021年度に続き8年連続13度目の最優秀女流棋士賞です。
 優秀女流棋士賞は西山朋佳女流三冠。女王防衛,倉敷藤花挑戦,女流王将挑戦,奪取。女流名人挑戦,奪取。記録部門の女流最多対局賞も受賞しました。2021年度に続き2年連続2度目の優秀女流棋士賞。
 名局賞は王将戦第二局。女流名局賞は女流王座戦第五局。名局賞の特別賞は朝日杯将棋オープン2回戦の藤井聡太竜王と増田康宏六段の将棋。終盤で後手の玉が延々と逃げ続けた一局です。

 協同してひとつの個物res singularisを構成する個体の数が多くなればなるほど,いい換えればあるひとつの個物が複雑になればなるほど,そうした個物一般とこの個物あるいはあの個物といわれるような個物との一般性のレベルの差は大きくなるだろうと僕は考えています。僕はあの人間あるいはかの人間といわれる人間と人間に共通する本性essentiaによって規定される人間の間にある一般性のレベルの差は,あのティラノサウルスあるいはこのティラノサウルスといわれるティラノサウルスとティラノサウルスに共通の本性によって規定されるティラノサウルスとの間にある一般性のレベルの差よりも大きくなるといいましたが,それはこの理由によっています。人間というひとつの個物を構成する個体の数はティラノサウルスを構成する個体の数よりも多く,その分だけ人間の方がティラノサウルスよりも複雑な個物であることになり,なので個々の人間と人間一般との間の一般性のレベルの差は,個々のティラノサウルスとティラノサウルス一般との間にある一般性のレベルの差よりも大きくなると僕は考えるのです。
 そしてこれは仮説としてではありますが,このことが各々の共通概念notiones communesの間でも成立すると考えるのです。すなわち僕たちが構成する人間一般の共通概念,これは人間に共通の本性を認識するcognoscereことによって構成される共通概念ですが,こうした共通概念は,ある知性intellectusが形成するティラノサウルス一般の共通概念と比べたときに,同じようにある個物に共通する本性によって構成される異なった個物の共通概念であるという点では一致しますが,だから一般性のレベルが同じレベルにあるというのかといえばそういうわけではないのであって,より複雑な個物である人間に共通する本性よって構成される人間の共通概念の方が,一般性のレベルが高くなるのではないかと思っています。あるいは同じことですが,人間の共通概念よりもティラノサウルスの共通概念の方が,より明瞭判然とした共通概念であるのではないかと思っているのです。
 これはあくまでも仮説です。そして人間に共通の本性が何であるのかとかティラノサウルスに共通の本性とは何かも大きな課題になるでしょう。
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透明の棋士&倫理学と政治学

2022-06-25 19:14:34 | 将棋トピック
 2002年に報知新聞に入社し,2010年ごろから同社で将棋を担当する記者として仕事をしていた北野新太が,今年の3月31日に報知新聞を退社するということをTwitterで告げたのは,僕にとっては残念な出来事でした。「報知新聞の北野です」というのは,たとえば棋士の記者会見などで必ずといっていいほど耳にするフレーズで,それに続く質問は優れたものが多いと感じていたからです。優秀な記者が将棋の取材から離れることは,将棋界にとっての損失だと僕は思うのです。ですから翌日の,朝日新聞に入社したというTwitterでの告知は,驚きであると同時に喜びでもありました。報知新聞はスポーツ新聞の中では将棋の記事は手厚いですが,一般紙である朝日新聞とは比べるべくもなく,むしろ北野の記事を目にする機会は増えると思えたからです。
                                        
 その北野が2015年に出版したのが『透明の棋士』です。17編の短編のエッセーからなるもので,この本のために書き下ろされたのは最後の17編目だけです。ただ,北野が書いたものをまとめて読めるという点では,価値ある1冊といえるだろうと思います。
 コーヒーと一冊,というシリーズのひとつです。コーヒーと一冊というのは,文字通りにコーヒーを飲みながら読むということであって,コーヒーを飲んでいる間に読み終えることができるという意味でもあります。前述したように17編の短編ですから,実際に1杯のコーヒーを飲んでいる間に読了できるというものではありませんが,分量は多くありません。北野自身があとがきに該当する部分で,とても薄い本であって,何かを伝えることができたとは思わないという意味のことをいっています。とはいえ,分量があれば何かは確実に伝わり,少なければ伝わらないというものではありません。読めば少なくともどこかしらで伝わる何かが必ず含まれているといっておきましょう。

 先述しておいた『スピノザ『神学政治論』を読む』の中では,スピノザの哲学で目指すものとスピノザの政治的実践との間の乖離の理由が,次のように説明されています。上野によれば,スピノザはエチカすなわち倫理学とポリチカすなわち政治学を異質なままにしておくのです。国家Civitasの論理からすれば,市民Civesは自己の権利jusの下にあるのではなくて,国家の権利の下にあります。しかし現実的に存在する人間は,理性ratioに従っている限りでは,たとえ国家の法に服していたとしても,判断においては自由libertasであって,自己の権利の下にあるのです。ここには明らかな乖離があるようにみえますが,スピノザは弁証法的に綜合しようとしないのです。要するに上野は,スピノザにとって倫理学と政治学は異質なもので,綜合する必要がないものだとみているのです。ただし,綜合する必要がないというのは,そのままにしておいて相反するわけではないという意味でもあるでしょう。
 僕は以前はこの路線でスピノザの倫理学と政治学,あるいは倫理的目標と政治的目標の乖離を考えていました。現在でも上野がここでいわんとしていることは理解できますし,間違っているとは思いませんが,少し違った視点で考えています。それは,スピノザの倫理的目標と政治的目標の間には,実際にはここでみられているほどの乖離はないのではないかという視点です。
 まず,倫理学と政治学との間に明確な関係があるということは前提としなければなりません。スピノザの『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』は,匿名とはいえ実際に出版された書物です。『エチカ』は未出版ですし,おそらく『神学・政治論』が発行された時点では,『エチカ』は現行の形態にはなっていませんでした。他面からいえば,現在の『エチカ』が完成形であるとすれば,『神学・政治論』が出版されたときには『エチカ』は未完成でした。なので『神学・政治論』の本文の中で,『エチカ』の文章に直接的に訴えるということは不可能だったのです。
 これに対して『国家論Tractatus Politicus』は未完です。それはスピノザが書き終える前に死んでしまったからです。ということはその時点では『エチカ』は現在の形であったことになります。
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最大の課題&健康と病気

2022-05-28 19:19:57 | 将棋トピック
 谷川の辞任が突然のことであったため,佐藤の新会長の就任も突然の事態ではあったものの,それは既定路線から外れるものではありませんでした。そのときに被害者であった三浦が,佐藤の就任を許容した,もっといえば好ましいこととも受け取れるような表現で発言したのも,谷川が辞任する決意を固めた時点で,おおよその流れが将棋連盟の中で決定していた,個々の棋士の胸の内で決定していたということを証しするひとつの事実であったのかもしれません。
                                        
 これ以降は現在まで佐藤が会長を続けているわけですが,河口が記したような棋士間での評価というのは,現在でもあまり変わっていないようです。今期の叡王戦の第一局について解説したコラムの中で勝又清和は,将棋連盟の現況は佐藤のおかげというようないい方をしていますし,先崎学も先日のtweetで,棋士一同が佐藤に感謝しているというようなことを呟いています。僕は将棋連盟の現況を佐藤ひとりのおかげであるということはできないだろうと思っていますし,とりわけ藤井聡太の出現という強い追い風なしにそれを語ることはできないだろうとも思っていますが,女流棋戦の増設スポンサーの増加はともかく,将棋会館の移転という長年にわたっての大きな課題に目途を立てたのですから,棋士の間での佐藤の評価が概ね変わっていないであろうことは,容易に推測できますし,むしろその評価が高まっていたとしてもおかしくはないだろうと思います。
 一方で,だから大きな課題が残っているとも思うのです。いうまでもなくそれは,佐藤の後継者はだれになるのかということです。米長から谷川,そして谷川から佐藤というのは,既定路線であったわけです。しかし佐藤の次の会長に関しては,既定といえるような路線が定まっているようには僕には思えないのです。もちろん佐藤は予定していたよりも早くに会長に就任したのですから,予定よりも長きにわたって会長を務めることになるのだろうと推測されます。とはいえ谷川の辞任が突然であったように,予期せぬことが起こる可能性は0ではないのです。早期に佐藤の後継者を育成するということがは,実は今の将棋連盟の最大の課題なのではないでしょうか。

 『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』で具体的に示されている例を用いるなら,理性ratioに従って神Deusを愛しまた隣人を愛する者は敬虔pietasです。これと同様に,聖書の教えに従って神を愛しまた隣人を愛する人も敬虔です。しかし,徳virtusという観点からみるならこうはいえません。理性に従って神を愛しまた隣人を愛する者は有徳的であることになりますが,聖書に従って神を愛しまた隣人を愛する者は,有徳的であるとはいわれ得ず,無力impotentiaであるといわれなければならないのです。
 なお,こうしたことをいうためには,現実的に存在する人間は,能動actioによっても受動passioによっても同じ行為をするに至る場合があるということが成立しなければなりません。これについては第四部定理五九を参照すれば十分でしょう。この定理Propositioは,現実的に存在する人間が能動によってなすすべての行動を,受動によってもなすことがあるということを示すものではありません。しかし,受動感情によって決定されるすべての行動は,理性に従っても決定され得るのであれば,少なくとも受動によっても能動によっても同じ行動に決定される場合があることは明白でしょう。そしてその場合に,その行動が能動によって決定されるのであれば有徳的であるといわれ,受動によって決定されている場合は無力であるといわれるのです。
 ふたつめの解釈上の注意点は以上になります。もうひとつありますので,そちらの説明に移ります。
 現実的に存在する人間の身体humanum corpusの状況について,第四部定理二〇は,身体が健康であるなら有徳的で,身体が何らかの病気に罹患しているなら無力であるといっているというように解する余地があると思います。何らかの病気に罹患している身体は,自己の有を維持することを放棄している身体であって,健康である身体は,それに対していえば自己の有を維持することに努めている身体であるとみることができるからです。ですがこの定理が示しているのはそのようなことではありません。つまりスピノザがここでそのようなことをいっているのではないという点に,解釈上の注意を要すると僕は考えています。
 第三部定理六により,現実的に存在するどのようなものも,自己の有を維持することには努めますsuo esse perseverare conatur。
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既定路線&生産性

2022-05-20 19:14:34 | 将棋トピック
 米長は佐藤に直談判されたということは明かしていますが,そのときの心情については何も吐露していません。会長である自分に対して意見してきたことを不快に感じたかもしれませんし,逆にほかの方法ではなく一対一の場で自身の考えを伝えてきたことを好ましく思ったかもしれません。ただ,米長がそのときにどのように感じていたのだとしても,米長は自身の後継者は谷川であると考えていたのですし,遅くとも谷川が理事になってからは,自身の病気のこともあり,谷川が会長になった後のことまでは考えていなかっただろうと推測されます。なので,佐藤が将棋連盟の会長として相応しいかどうかということについては,晩年は何も考えていなかったであろうと僕は思います。
 谷川は自身の後継者に佐藤を指名することになりましたが,これは既定路線であったと考えられます。2012年に佐藤は王将を獲得しましたが,その直後に書かれた河口俊彦の文章の中に,佐藤には羽生や森内とは違った将来があって,それは棋士仲間からの信望が絶大であるために会長候補であるという主旨のことが記述されています。米長が死んだのはこの年ですが,このときにはまだ存命でしたので,米長が会長の時点です。河口はおそらく何年かすれば佐藤は会長になるだろうといっています。河口は米長の病状がどれほど深刻であるかということは知らないで書いている筈で,もしかしたらそれは米長の次の会長という意味であったかもしれません。ただ,河口はこのような文章を記述して,それを公開しても構わないと思っていたのは間違いありませんから,米長が会長であった時代に,すでに佐藤が会長候補であるとみられていた,それは河口にだけでなく,多くの棋士にそう目されていたことは確かだといえるでしょう。ですから,谷川が会長職を辞さなければならなくなったとき,佐藤を後継に指名したのは,確かに既定の路線だったのです。本当は谷川はもっと長きにわたって会長を続けるつもりでいたでしょうから,まだ佐藤を理事職に就ける必要はないと思っていたのでしょう。もしも谷川が,何らかの事情で近いうちに後継者が必要だと思っていれば,佐藤は理事になっていた筈です。

 フロムErich Seligmann Frommが示唆している自己関心と良心の間にある関連性とは,ごく簡潔にいうなら,自己関心が高いほど良心が働き,自己関心が低くなるほど良心が働くことが困難になるということです。このときフロムは文脈の中で,自己関心を生産性という語に置き換えています。フロムがいう生産性というのは,スピノザの哲学でいう能動actioと意味合いが一致すると解して間違いありません。つまり人間は,能動に傾くほど良心が働くのであり,受動passioに傾くほど良心が働くことは困難になるというようにフロムはいっていると解して差し支えありません。もちろんこれは関連性なのであって,能動が良心の原因causaとなるということでは必ずしもありません。むしろその逆もまた真verumなのです。つまり,現実的に存在する人間は,良心が働くほど能動的であることができ,良心が働かない場合は受動に隷属するのです。
                                        
 ここでフロムが,社会的に一致した道徳的目標があるということを前提していたことを想起しなければなりません。その目標がどのようなものであったにせよ,良心の働きを能動と関連させるのであれば,このフロムの主張はスピノザの哲学と一致をみることができるからです。なぜなら,精神の能動actio Mentisというのはスピノザの哲学では理性ratioの働きactioを意味しますが,第四部定理三五にあるように,人間の現実的本性actualis essentiaは理性に従っている限りでは一致するからです。したがって,道徳的目標がどのようなものであったとしても,一致してその目標への道を進むことになるでしょう。それに対して,第三部定理三四にあるように,受動状態においては人間は対立的であり得ますから,その目標がどのような目標であれ,各人が一致してその目標に向かって進むということはできないでしょう。
 さらにここには,もうひとつ重要なことが含まれています。それは,良心が働いているか働いていないかということが,人間が能動に傾いているか受動に傾いているか,あるいは同じことですが,第三部定義二により,ある人間のなす事柄に対してその人間が十全な原因causa adaequataとなっているかそれとも部分的原因causa partialisとなっているのかということに帰せられるとフロムがみている点です。ここにある特徴があります。
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直談判&原則論

2022-05-11 19:23:20 | 将棋トピック
 米長が棋士とコンピュータソフトが公開の場で対戦することを禁じた後,最初のイベントとして開催されたのが,当時の竜王であった渡辺明とコンピュータソフトとの対戦でした。2007年3月21日のことです。
 このときは渡辺が対局しましたが,米長は本当は佐藤康光をコンピュータソフトと対戦させたかったようです。佐藤は1秒に1憶3手読む,という異名があり,それはコンピュータが1秒に1億手を読むなら,ということとの対比です。つまりこうした異名を持つ佐藤がコンピュータソフトと対戦すれば,エンターテイメントとして盛り上がるだろうと米長は考えたのです。それで実際に佐藤にその打診をしました。
                                        
 打診を受けた佐藤には,プロ棋士,それもトップクラスの棋士とコンピュータソフトが対局をするということについて,米長が軽く考えているようにみえていたようです。そこで打診については断った上で,自分の考えを米長に対して一対一で詳しく説明しました。こうした事実があったということは,米長自身が後に明かしていることです。米長はこのときのことを,佐藤にこんこんと説教をされた,というようにいっていますが,米長というのは独特の表現をすることが多々あるので,これもそのうちのひとつだと解しておいた方がよいでしょう。ただ米長と佐藤がこの件に関して,それなりの時間をかけて一対一で話し合ったのは間違いない事実です。
 プロ棋士がコンピュータソフトと対戦することをイベントとして開催することについては,棋士の間でも一致した意見があったわけではなく,しかしこのイベントに関しては対局を断った佐藤の尽力によって,将棋連盟がまとまって盛り上げることになり,それが佐藤が棋士間での信頼を集める要因になったという話もありますが,これは事実であるのかどうか,僕には確かめようがありません。ただ,会長であった米長と直談判をしたのですから,佐藤のことを信頼に足る人物だとみなした棋士がいたとしてもおかしくありません。なのでこのときの一件は,後に佐藤が新会長に就任するにあたって,意外と大きな出来事であったという可能性は否定できないでしょう。

 僕が定義した良心の呵責conscientiae morsusの反対感情としての歓喜gaudiumは,自己満足acquiescentia in se ipsoと自己愛philautiaを分けて考えたとき,自己満足の一種であるなら推奨されますし,自己愛の一種であるなら推奨されません。ではどのような歓喜がこの場合の自己満足の一種となり,どのような歓喜がこの場合の自己愛の一種となってしまうのかを,もう少し具体的に検討してみます。
 他人の悲しみtristitiaと自分の悲しみを結びつけるような感情affectusは,スピノザの哲学では原則的には推奨されるのでした。それは,自分の悲しみの原因causaが他人の悲しみにある場合には,人間は自分の悲しみを除去あるいは減退させるために,その他人の悲しみを除去あるいは減少させるように行動するという現実的本性actualis essentiaを有しているからです。これと同じように,他人の喜びlaetitiaと自分の喜びとが結びついているような感情は,スピノザの哲学では原則的には推奨されることになります。人間の現実的本性は,悲しみを忌避しまた除去あるいは減少させるように人間を動かすのと同様に,喜びを希求しまた促進させるようにも人間を動かす本性であるからです。したがって,自分の喜びの原因が他人の喜びであると確知される限り,その人は自分の喜びをさらに増進するために,その他人の喜びを促進するように行動する現実的本性を有しています。これは,この事態だけでみれば,他人を喜ばせるように行動するということですから,敬虔なpius振る舞いであるということになります。よってこの種の感情,喜びのうち,他人の喜びが自身の喜びの原因,少なくとも主たる原因となっているような感情は,スピノザの哲学では原則的には推奨されます。そして,ここで考察している歓喜というのは,自分が他人に与えた,あるいは与えたであろう利益の観念ideaを原因として伴った喜びであり,この利益というのは感情としていうなら喜びにほかなりませんから,まさに他人の喜びが自分の喜びの原因となっているような感情なのです。なので原則的には,この種の歓喜というのはスピノザによって推奨されることになります。いい換えれば,この種の歓喜というのは,人と人とを融和させるような感情であることになります。
 ただこれは原則論で,例外もあり得ます。
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後継者&推奨されない受動感情

2022-04-24 19:01:27 | 将棋トピック
 米長の死の要因となったのは前立腺癌でした。前立腺癌を罹患していること,そしてそのために放射線治療を受けているということは公表されていました。米長はそれでも会長職を続けたのですから,任期中は生きていられると思っていたのかもしれません。ただ,それほど多くの時間が自身に残されているわけではないということは理解していたでしょう。棋士たちを二分するようなことを,やや拙速とも思えるやり方で推進していったことには,そうした米長の感覚が影響していたのかもしれません。少なくとも谷川を理事にして自身の近くに置いたことと,米長が前立腺癌を罹患していたこととの間には,明らかに関係があったと僕は推測します。米長は自身の後継者,いい換えれば次期会長が必要であるということを,明確に意識していたのだと思います。
 谷川は本来であればもっと長きにわたって会長職を務める筈でした。だから後継者のことなどは考えていなかったでしょう。ただ谷川自身が佐藤を指名したように,もしも谷川がそれを考えていたとすれば,佐藤であったことになります。ただ佐藤が谷川と同じように理事になって谷川のそばで学ぶということがなかったのは,谷川にはすぐに後継者を育成しなければならない理由がなかったからにすぎなかったからだといえるでしょう。他面からいえば,何らかの理由で,自身が会長職にとどまることができないという意識が谷川のうちにあれば,その時点で佐藤は理事になっていたでしょう。
 米長は会長であった頃,棋士が公開の場でコンピューターソフトを相手に将棋を指すことを原則的に禁じました。これはそういう場で棋士が負けてしまうことのダメージを避けてしまうためであると同時に,コンピューターソフトと棋士との対局が,将棋連盟の利益になると米長が認識したからだったと思います。先に棋士が負けてしまうと利益にならなくなりかねませんから,このふたつの理由は連関しています。

 スピノザの哲学のうちでは,人間の現実的本性actualis essentiaに反し,かつ非道徳的であるような感情affectusであっても,スピノザによって推奨されている感情があるということは,ここまでの説明から理解することができました。スピノザは敬虔pietasであること,いい換えれば人と人とが対立的にならないことを推奨するのですから,スピノザはそのために有益であるような受動感情は,悲しみtristitiaでも推奨することになるのです。
                                   
 これに対して,スピノザがまったく推奨しない受動感情というのも存在します。ある種の受動感情は,必然的にnecessario人と人とを対立させる,いい換えれば人を敬虔であることをできなくします。あるいは同じことですが,人間が理性ratioに従っていたなら絶対に行動しないようなことに向かわせる一連の受動感情があるのです。当然ながらスピノザはそうした感情については推奨しません。第四部定理四系によって,そうした感情を禁じるということはないにしても,とくに避けるべき感情といわれることになります。
 その代表的なものが第三部諸感情の定義二八の高慢superbiaです。この感情は喜びlaetitiaですから,人間の現実的本性には反しません。しかし定義Definitioから明白なように,観念ideaとしてみた場合は混乱した観念idea inadaequataであり,したがって現実的に存在する人間が高慢という感情を感じるときには,必然的に働きを受けています。よって非道徳的です。そしてこの高慢は第三部定理二六備考で狂気といわれています。つまりこの感情は,人間が理性に従って振る舞うのとは正反対の行動に向かわせるのです。また人と人とを対立させます。このことも高慢の定義から明らかなのでとくに説明するまでもないでしょう。そしてそれが理解できれば,スピノザがこの感情を徹底的に否定するのも当然だといえます。
 悲しみに属する感情のうちでスピノザがとくに否定的な評価を与えるのは,第三部諸感情の定義七の憎しみodiumに属する感情です。これをスピノザが推奨していないのは,第四部定理四五系二から理解することができるでしょう。また憎しみが人と人とを対立させるということは,第三部定理三九から明白であるといえます。ですから憎しみに属する一連の感情をスピノザが推奨しないのは当然です。
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課題&道徳的感情

2022-04-15 19:14:10 | 将棋トピック
 女流棋戦の増設,スポンサーの増加,将棋会館の移転の目途と,佐藤が新会長になってからの体制は,過去に類をみないほどといっていい大きな仕事を次つぎと成し遂げました。というか,この体制は現在も継続しているのですから,成し遂げつつあるといった方がいいのかもしれません。ただ,僕は課題がないというわけではないと思っています。最後にそのことについて示して,この連載を終了させることにします。
 佐藤は,前の会長であった谷川が,無実であった三浦九段に対して処分を下したために,谷川の指名を受ける形で会長となりました。つまりこれは急遽の出来事であって,このときの状況から佐藤が新会長に選出されたことからしても,いずれは佐藤が会長になったのだろうと思われますし,谷川にも佐藤にもそういう意識はあったと僕は推測しますが,その時期に佐藤が会長に就任することは,予定外であったのは間違いないでしょう。
 谷川の前の会長は米長でした。米長は佐藤とは異なり,会員である棋士の全面的な支持を受けていたとはいえなかったと思います。成し遂げた大きな仕事はふたつあって,ひとつは将棋連盟を公益社団法人に移行させたことで,もうひとつは名人戦の主催を毎日新聞単独から,毎日新聞と朝日新聞の共催にしたことです。このうち,後者は毎日新聞に名人戦を単独で主催させ続けるかという形で会員の間で投票となり,それが否決される形で共催となったのですが,このときの票数は僅差でした。会員が二分されてしまったのは,ことの性質上は止むを得なかったともいえますが,その体制が必ずしも全面的には支持されていなかったことと同時に,それにもかかわらず事前の調整が不足していたことが大きく影響していたと思われます。
 米長は,自身の後継者として谷川を指名。このために自身が会長のうちから谷川を理事にしました。つまり谷川は米長の後の会長になるべく,事前に会長の近くで仕事をしていたわけです。米長は会長職のまま死にましたので,谷川が会長に就任したのも,予定よりは早かったかもしれません。ただそれは既定路線であって,米長の次の会長が谷川になるということは,棋士内部だけでなく,外部の関係者も承知していたといっていいでしょう。

 スピノザの哲学で良心の呵責conscientiae morsusが非道徳的なことであるとされているのは,一般に悲しみtristitiaが非道徳的であり,良心の呵責は悲しみの一種であるからです。このときに気を付けておいてほしいのは,この道徳は,能動actioと受動passioという観点から発生しているということです。したがって,悲しみはスピノザの哲学ではみっつとされる基本感情affectus primariiのひとつで,その悲しみの反対感情が喜びlaetitiaであるからといって,直ちに喜びが道徳的である,あるいは同じことですが,喜びの一種とされるすべての感情が道徳的であるといわれるわけではないのです。第三部定理五九は,能動的である喜びと欲望cupiditasがあるといっていますが,すべての喜びと欲望が能動的であるといっているわけではありません。つまり,受動的な喜びもあれば受動的な欲望もあるわけです。その限りでは喜びも欲望も非道徳的なことになるのであって,それが能動的である限りにおいて,道徳的であるといわれるのです。
                                    
 たとえば第三部諸感情の定義一二の希望spesや,第三部諸感情の定義二八の高慢superbiaは,基本感情としては喜びの一種です。希望に関しては定義Definitioの中でそのようにいわれていますし,高慢は第三部諸感情の定義二八説明から分かるように自己愛philautiaの特質とされていて,この自己愛というのは第三部諸感情の定義二五の自己満足acquiescentia in se ipsoのことであって,それは喜びの一種です。しかるにこのふたつの感情については,その定義それ自体から明らかなように,観念ideaとしてみた場合には混乱した観念idea inadaequataであって,それは第三部定理一によって受動です。なのでこれらの感情は喜びであっても必然的にnecessario非道徳的とされることになります。一方,必然的に能動とされるような感情はありません。したがって,それ自体で道徳的であるとされる感情があるわけではないのです。ですから,良心の呵責は非道徳的なことであるとされるのですが,何らかの道徳的な感情が前もってあるのではありません。感情は能動的である限りにおいては道徳的であり得るのであり,良心の呵責は能動的ではあり得ないので,それ自体で非道徳的であることになります。そしてすべての悲しみと,ある種の喜びおよび欲望は,それ自体で非道徳的であることになるのです。
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将棋会館の移転&自分への憤慨

2022-04-09 19:14:03 | 将棋トピック
 女流棋戦の増設スポンサーの増加は,佐藤が新会長となってからの体制の実績といっていいでしょう。このほかにもうひとつ,この体制は大きな実績を残すことに成功しました。それが東西の将棋会館の移転に目途をつけたということです。
 将棋会館は東西,東京都内と大阪府内にあります。棋士は基本的に将棋会館で公式戦の対局を行いますから,これはプロ棋士にとって欠くべからざる建物だといえます。ただ,どちらの将棋会館も,建物が老朽化していたため,建て替えないしは移転が長年の懸案となっていたのです。この懸案の解決の目途を立てたのですから,これは確かに大きな実績なのです。
 長年の懸案だったのになかなか解決できなかったのはふたつの問題があったからです。ひとつは移転するのであればどこに移転するのかということであり,もうひとつは移転するにせよ建て替えるにせよ,その資金をどのように調達するのかということです。他面からいえば,懸案に目途を立てたというのは,このふたつの問題を解決したということです。
 東京将棋会館は,棋戦のスポンサーとなっている不動産会社の協力を得られることになりました。関西将棋会館は,将棋で町おこしをしようという自治体の協力が得られることになりました。これで移転先の問題は解決されました。資金に関しては,返礼品を用意しての寄付でその一部を賄うという方法を採用。これは継続中なので,完全に解決できたというわけではありませんが,少なくともこのような方法で資金の調達を目指すという方法を提案し,かつ実践したというのは,実績あるいは成果のひとつであるといっていいでしょう。
 もちろんこうしたことのすべてが可能になったのは,佐藤が会長になって体制が一新されたからだということに還元できるわけでなく,佐藤が会長に就任した頃から目に明らかな追い風が吹き始めたことを抜きには考えられないでしょう。ただ純粋になし得たことという観点だけでみるなら,今尾の将棋連盟の体制は,過去に類をみないほどの大きな仕事をした,あるいはしているといえるかもしれません。

 僕はもしも良心の呵責conscientiae morsusを感情affectusとして定義するのであれば,自身がなしたあるいはなすであろう害悪の観念ideaを原因causaとして伴った悲しみtristitiaとするのがいいのではないかといいました。この観点からいって,『エチカ』の第三部諸感情の定義の中で定義されている感情の中で,最もそれに近いのは,意外に思われるかもしれませんが,第三部諸感情の定義二〇の憤慨indignatioであると思います。この感情は,害悪の観念を原因として伴っているからです。この憤慨は,定義Definitioの中で直接的にそのようにいわれているわけではありませんが,他人に対して向かう感情です。それが自分自身に対して向かうと,良心の呵責ということになるのではないかと僕は思うのです。他面からいえば,良心の呵責というのは,自分自身に対して向かう憤慨であるといういい方が可能なのではないでしょうか。
                                      
 良心の呵責と憤慨の類似性をいうためには,スピノザの哲学の観点からひとつだけ注意しておきたいことがあります。憤慨は,憎しみodiumの一種として定義されていますが,憎しみは第三部諸感情の定義七から分かるように,悲しみの一種です。ですから,僕がいった良心の呵責も憤慨も,同じように悲しみであるという点では変わるところはありません。ただ,憎しみというのは外部の原因の観念 idea cause externaeを伴った悲しみのことをいうのであり,僕がいう良心の呵責は外部の原因の観念を伴っているわけではありません。伴っているのは自分がなしたあるいはなすであろう害悪なのですから,それは外部に対していえば内部だからです。ですからこの意味での良心の呵責は悲しみの一種であっても,憎しみの一種ではないのです。他面からいえば,憎しみというのは外部に向かう感情なので,内部には向かいません。つまり自分で自分を憎むということは,スピノザの哲学では語義矛盾となるのです。とはいえ,自分で自分を憎むというのは,文法的にはあるいは慣用的な表現としては成立します。ですから,僕がいう良心の呵責を,自分で自分を憎むことの一種であると理解しても,間違いであるというわけではありません。ただスピノザの哲学では,そのようないい方は成立しないのだということは,理解しておいてください。
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将棋大賞&類似感情

2022-04-08 19:28:22 | 将棋トピック
 2021年度の将棋大賞が1日に発表されています。
                                        
 最優秀棋士賞は藤井聡太竜王。棋聖防衛,叡王挑戦,奪取。王位防衛。竜王挑戦,奪取。王将挑戦,奪取。記録部門の最多対局賞と最多勝利賞も合わせて受賞。文句なしでしょう。2020年度に続いて2年連続の最優秀棋士賞。
 優秀棋士賞は渡辺明名人。名人防衛。棋聖挑戦。棋王防衛。これも当然。2005年度,2008年度,2010年度,2011年度,2015年度,2018年度,2020年度に続き2年連続8度目の優秀棋士賞。
 敢闘賞は菅井竜也八段。銀河戦朝日杯将棋オープンに優勝。タイトル戦に出場しないでの受賞は珍しいケースかもしれません。同じようにふたつの棋戦で優勝し,王位に挑戦した豊島九段の方が上だったような気もします。敢闘賞は初受賞。
 新人賞は伊藤匠五段。新人王戦に優勝。記録部門の勝率一位賞も受賞。これは妥当なところでしょう。初受賞。
 残る記録部門の連勝賞は渡辺和史五段でした。
 最優秀女流棋士賞は里見香奈女流四冠。女流王位防衛。女流王将挑戦,奪取。倉敷藤花防衛。女流王座挑戦,奪取。マイナビ女子オープン挑戦。これも当然。2009年度,2010年度,2011年度,2012年度,2013年度,2015年度,2016年度,2017年度,2018年度,2019年度,2020年度に続き7年連続12度目の最優秀女流棋士賞。
 優秀女流棋士賞は西山朋佳女流二冠。女王防衛。白玲獲得。女流王位挑戦。こちらも当然。この年度が初の受賞対象でした。
 記録部門の女流最多対局賞は伊藤沙恵女流名人。
 升田幸三賞は千田翔太七段。角換わり戦における☖3三金型の後手早繰り銀が受賞対象になっています。
 升田幸三特別賞は序盤のエジソンという異名で数々のアイデアを披露し,近々の引退が決まっている田中寅彦九段。
 名局賞は藤井竜王が奪取した竜王戦の第四局。
 女流名局賞は女流名人戦の第二局でした。

 『短論文Korte Verhandeling van God / de Mensch en deszelfs Welstand』では良心の呵責conscientiae morsusが後悔poenitentiaの同類感情とされていました。後悔は『エチカ』でも定義されています。第三部諸感情の定義二七です。そこでは,僕たちが自由な決意decretumによってなしたと信じる行為の観念ideaを伴った悲しみtristitiaが後悔といわれています。このとき,自由な決意によってなしたということは,字義通りに積極的に解する必要はありません。僕たちが何かある行為をなして,後にその行為を表象して悲しみを感じたときに,もしもその行為をなさないことも可能であったと表象されるなら,僕たちは後悔するとスピノザはいっているのです。他面からいえば,ある行為について,自分はその行為をなすこともできたしなさないこともできたと認識した場合には,僕たちはその行為を自分の自由な決意によってなしたと判断しているということです。
 良心の呵責が,この意味での後悔の類似感情であったとして,その場合にはおそらく自由な決意であるかどうかということはあまり関係ありません。むしろそのある行為が害悪を伴っているかいないかということが重要なのであって,そこに害悪が伴っている場合には,この種の後悔は良心の呵責といわれると理解するのが適切だと僕は考えます。したがって,『短論文』でいわれている良心の呵責が,『エチカ』でいわれている後悔の類似感情であるということは可能だと思います。しかし『エチカ』でいわれている良心の呵責,すなわち第三部諸感情の定義一七でいわれている落胆conscientiae morsusについて,それは後悔の類似感情であるというのは僕には難しいと思えます。少なくともこの場合の良心の呵責すなわち落胆は,事前にそれと関係する希望spesおよび不安metusという感情がないならば,現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちには発生し得ない感情affectusですが,後悔の方はそのような感情であるとはいえないからです。よって『エチカ』で定義されている良心の呵責が,『エチカ』でいわれている後悔の類似感情であるとはいえないでしょう。したがってスピノザは,良心の呵責が後悔の類似感情であるという点については.『短論文』のときと『エチカ』のときで,考え方を改めている,あるいはそれぞれの感情を見直しているといっていいと思います。
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