スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

理想を現実にする力&葬儀

2018-08-11 16:41:21 | 将棋トピック
 将棋関連の書籍のレビューはこれが7冊目。2017年4月に発売された佐藤天彦の『理想を現実にする力』です。
                                     
 理想を現実化するためには,自分の力によって実現することが可能なことを自分の理想として掲げなければなりません。すなわち標題にある理想を現実にする力というのは,自分にとって実現できる事柄を自分の理想とする力のことです。つまり先に理想を掲げてそれを現実化することではなく,実現することが可能なことを自分の理想とすることが,理想を現実にする力の正体です。佐藤はこのことをよく弁えた上で,どのように対処をすれば,自分にとって現実化可能なことを自身の理想とすることができるのかということを綴っていきます。そしてそうした事柄を理想とすることができれば,あとはそれに向って努力するだけです。この努力は必ず報われるでしょう。つまり,理想を現実にする力とは,現実化可能なことを理想にする力であると同時に,必ず報われる努力をする力であるともいえます。佐藤は服飾や家具,音楽といった事柄にも造詣が深く,使用される例は将棋ばかりではありません。たぶんこの本は純粋なハウツー本としても十分に成立していると思います。
 ただ僕が驚いたのは,佐藤が示している考え方が,あまりにスピノザの哲学と親和的であるということでした。少なくとも第一部公理三とか第一部公理四は,佐藤が物事を考える上での基軸になっています。おそらく佐藤はスピノザの哲学のことなどは何も知らないでしょうし,スピノザという名前さえ知らないかもしれません。しかしスピノザの哲学が実践を伴うものであり,かつスピノザの思想に則した実践を行う者こそがスピノザ主義者なのだというのであれば,佐藤はたぶんスピノザ主義者です。そして佐藤に限らず,この種のスピノザ主義者というのは,数多くではないにしても,確かにこの世界のうちに存在しています。たとえその人がスピノザを知らないのだとしても。

 1月21日,日曜日。この日が従兄の葬儀でした。式場は同じ瀬谷ですから,僕は相鉄で瀬谷に向い,そこから歩きました。その後,マイクロバスで北部斎場に行き,そこで従兄を火葬しました。北部斎場は僕の父を火葬した斎場です。その後で再び瀬谷の式場に戻り,初七日の法要を執り行いました。前日の夜と同様に,この日も僕は父のすぐ上の兄に自動車で二俣川まで送ってもらいました。
 また,この日に伯母はロサンゼルスに帰国しました。翌日からは再び母が夕食の支度をするようになりました。洗濯機を回して洗濯物をとりあげること,そして取り込んだ洗濯物を畳むことは,母はかなり後まで続けることができました。
 1月22日,月曜日。妹を作業所に送りました。この日は送っている途中で小雪がちらつくような天候になり,とても寒かったです。ただ,昼過ぎからは大雪になりましたので,まだ幸いでした。妹は降雪時に歩くことを怖がりますので,もしもっと早くから本格的な雪となっていたら,この日はお休みにしたかもしれません。
 1月23日,火曜日。前週の通院のときに主治医に指示されていた合併症の検査の日でした。医師は診察のときには僕に対してみっつの検査を指示しましたが,その日の会計を済ませたときに同時に出てくる次回の診察の予約票によれば,実際に行われる検査はよっつありました。それらの検査は予約時間があり、最も早いものが自律神経の検査で,午前11時となっていました。ただ,前日の雪の影響が残ってバスがやや遅れてしまったため,僕が病院に着いたときにはその時刻を少しばかり過ぎていました。
 検査はいずれも中央検査室で行われます。なので予約票を所定の機械から印字したら中央検査室に直行しました。すると窓口の担当者が,超音波の検査はすぐできるので,まず最初にそれを受診するようにと指示しました。これは本来の予約時間では午後2時半になっていたものです。これは頸動脈に超音波を当てて血管を調べる検査です。11時25分にはこの検査は終了しました。
 再び受付に戻ると,今度は神経伝導の検査ができるから,それを受けるようにという指示が出されました。
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将棋大賞&第四部定理四五系一

2018-04-06 19:17:41 | 将棋トピック
 2日に2017年度の将棋大賞が発表されました。
                                     
 最優秀棋士賞は羽生善治竜王。棋聖防衛,竜王挑戦,奪取,名人挑戦。堅調な成績とはいい難いのですが,竜王を奪取したことにより現時点で可能なタイトルのすべての永世ないしは名誉の称号を獲得し,国民栄誉賞を受賞したことも考慮に入れられたものだろうと思います。1988年度,1989年度,1992年度,1993年度,1994年度,1995年度,1996年度,1998年度,1999年度,2000年度,2001年度,2002年度,2004年度,2005年度,2007年度,2008年度,2009年度,2010年度,2011年度,2014年度,2015年度に続き2年ぶり22度目の最優秀棋士賞。
 優秀棋士賞は菅井竜也王位。王位挑戦,奪取。王位戦で羽生竜王を圧倒したことが評価の対象となったものでしょう。同じように王座を奪取した中村太地王座より勝利数や勝率で上回っていた分,こちらが選出されたということだと思います。初受賞。
 敢闘賞は豊島将之八段。王将挑戦,A級プレーオフ進出。豊島八段は間違いなく大活躍したのですが,タイトルは獲得できませんでしたし棋戦の優勝もありませんでした。こうした棋士がタイトル獲得や棋戦優勝をした棋士を差し置いて選出されるのはどうかと個人的には思います。敢闘賞は初受賞。
 新人賞は藤井聡太六段で,特別賞も合わせて受賞しました。朝日杯将棋オープン優勝。藤井六段は記録四部門の最多対局賞,最多勝利賞,勝率1位賞,最多連勝賞をすべて受賞。最優秀棋士賞でもよかったと思いますが,すぐに獲得することになるのだろうと思います。当然ながらいずれも初受賞。
 最優秀女流棋士賞は里見香奈女流名人。女流王位防衛,女流王将防衛,倉敷藤花防衛,女流王座防衛,女流名人防衛。これは当然の受賞。2009年度,2010年度,2011年度,2012年度,2013年度,2015年度,2016年度に続き3年連続8度目の受賞。
 優秀女流棋士賞は伊藤沙恵女流二段。女流王位挑戦(決定は昨年度),女流王将挑戦,倉敷藤花挑戦,女流名人挑戦。いずれも跳ね返されてしまいましたが,こちらも当然の受賞でしょう。初受賞。女流最多対局賞も初受賞となっています。
 升田幸三賞は青野照市九段と佐々木勇気六段が,横歩取りの先手番での作戦で受賞しました。故人の大内延介九段は振飛車穴熊で升田幸三賞の特別賞を受賞。いずれも初受賞。
 名局賞は竜王戦第四局。そうそうお目にかかれない寄せの手順と僕自身が書いた将棋なので納得です。
 名局賞特別賞は2局で,ひとつが朝日杯将棋オープンの決勝。あの☗4四桂は見事な一手でした。もう一局が竜王戦6組ランキング戦で牧野光則五段と中尾敏之五段が指した420手という持将棋局。これは空前絶後の手数になるだろうと思います。

 僕が排他的思想を産出しやすい感情affectusとして憤慨indignatioをあげたことの説明はこれですべてです。ただ,第四部付録第二四項においては,憤慨が否定される理由として興味深いことが示されていますので,これも検討しておきましょう。
 この項でスピノザが無法律といっているときの法律lexは,当然ながら法治国家における法を意味しています。よってスピノザはここでは国家Civitasとか社会といった観点から憤慨を否定していることになります。法治国家における法は公平なものでなければならないのは事実です。文脈では,憤慨は公平の外観を帯びているけれど不公平な感情であるとスピノザが考えていることは明らかで,だから憤慨は否定されなければならないというように読解するのが適切かもしれません。ただ,法lexというのは同時にその法の下に暮らす市民Civesにとって社会正義でなければならないのも事実でしょう。実際にこの項は正義justitiaについても言及しているのですから,スピノザが憤慨に関して述べている部分を,憤慨は公平の外観を帯びているけれども,社会正義に反するような感情であるといっていると読解したとしても,そう大きな間違いを犯しているとはいえないでしょう。公平であることと不公平であることのどちらが社会正義に適っているかと問われれば,大抵の人は公平であることだと答えるであろうからです。
 よってスピノザは,憤慨は社会正義に反する,いい換えれば社会悪,社会においては悪malumであるといっていることになります。スピノザは第四部定理四五で憎しみodiumは善bonumではないといった後,その直後の備考Scholiumで憎しみを人間に対する憎しみに限定すると明言しています。これを踏まえて第四部定理四五系一では次のようにいわれています。
 「ねたみ,嘲弄,軽蔑,怒り,復讐その他憎しみに属しあるいは憎しみから生ずる諸感情は,悪である」。
 この配置からすれば,第四部定理四五は必ずしも人間に対する憎しみに限定されていないから,悪であるとはいわれずに善ではあり得ないといわれ,その後で人間に対する憎しみに限定されたから,それは善ではあり得ないという弱いいい方ではなく,悪であるという強いいい方になったともいえそうです。
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不屈の棋士&迷信家

2018-01-22 18:58:23 | 将棋トピック
 将棋関連の書籍のレビューの6冊目は,2016年7月に講談社現代新書より発売された,観戦記者としても活躍中の大川慎太郎が書いた『不屈の棋士』です。タイトルからイメージするのは難しいかもしれませんが,トップ棋士へのインタビュー集で,そのインタビューの内容は,コンピュータの将棋に特化しています。つまり棋士がコンピュータの将棋にどのように対応しているのかを大川が質問しているということです。
                                     
 発売直前の2016年5月,第1回の電王戦で山崎隆之八段がポナンザに連敗しました。そして昨年は佐藤天彦名人もソフトに敗れ,電王戦は2回で幕を閉じることになりました。インタビューは当然ながら発売より前にされています。ただし,山崎八段だけは電王戦で敗北を喫した後の短いインタビューも収録されています。これでみれば分かるように,コンピュータがはっきりとした形で棋士を上回っていく段階でのインタビュー集です。この書籍の価値が高いのは,そうした時期に実施されたインタビューの中で,棋士,それもトップ棋士が,どういう考えの下にどのような仕方でコンピュータの将棋と向き合っていたのかということが,明白になっているという点です。後世に残る歴史的資料としての価値も高いと僕は考えています。
 棋士といえどもそれぞれで,コンピュータに対する考え方の相違は,僕が思っていたよりはずっと大きかったです。とくに山崎八段が,コンピュータを将棋の研究に使う際に,どのようなソフトを入手することができるのかという点で棋士の間に差異が出ていて,それは不平等であるという主旨の発言をしているのですが,こうした考え方というのは僕が想像することすら難しいものでした。
 一応,大川自身が棋士の態度を分類して章分けしています。第1章は最強棋士として羽生善治と渡辺明。第2章がコンピュータ先駆者として勝又清和,西尾明,千田翔太。第3章がコンピュータに敗れた棋士として山崎隆之と村山慈明。第4章がコンピュータとの対決を望む者として森内俊之と糸谷哲郎。第5章がソフトに背を向ける者として佐藤康光と行方尚史。あとがきの中に再び山崎へのインタビューがあります。
 章分けは便宜的なものと僕は感じました。手許に残し,もっと時間が経過した後にまた読んでみたい1冊です。

 地獄への不安metusあるいは恐怖metusに関しては,アルベルトAlbert Burghは植え付けられてしまったのであり,この意味では被害者です。書簡七十六でスピノザはアルベルトに厳しいことばも述べていますが,そのことは理解していたと思います。ただ,植え付けられた不安あるいは恐怖がアルベルトにとってはあまりに強大なものであったがゆえに,それはすべての人間に共有されるべき感情affectusとみなされました。第四部定理六三備考で,この場合でいえば不安あるいは恐怖を植え付けた側の迷信家が,ほかの人びとをも不幸にしようとしているといわれているのには,このような意味も含まれていると解しておくのがいいでしょう。この結果,アルベルトは書簡六十七をスピノザに送り付け,スピノザに対する排他的感情および排他的思想を露にしたのです。
 アルベルトは家族に対しても似たような態度をとったと思われますが,スピノザの場合についていえば,これは一対一の関係です。そしてその根源となった感情である不安ないしは恐怖が,地獄に対するものであったということは,実はあまり関係ありません。備考Scholiumは迷信家ということで,宗教的なものを匂わせているといえますが,不安あるいは恐怖を煽ることによって人びとを悪malumから逃れさせようとするのは,すべからく迷信家の態度であるといっていいでしょう。実際にこの種の感情を植え付けることによって高額の商品を買わせるとか,老後の金銭面での不安に乗じて投資をさせるといった詐欺行為は現実的に存在します。この場合は詐欺を行う者はそれが詐欺だと理解した上で行うわけですから,迷信家と名付けるのには語弊があるでしょう。しかしそうした行為が人びとを不幸に陥れているというのは明白であると思います。備考で迷信家が行っているとされている行為は,こうした詐欺行為に類するとスピノザはいっているのです。
 したがって,こうした行為は単に宗教的指導者がなすものと限定されるわけではありません。たとえばある国家の指導者が仮想の敵を立て,その敵に対する不安あるいは恐怖を国民に煽るなら,その指導者は国民を不幸に陥れている迷信家ないしは詐欺を働く者と何ら変わるところはないのです。
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将棋大賞&ふたつの帰結

2017-04-03 19:35:26 | 将棋トピック
 3月31日に2016年度の将棋大賞が発表されました。
 最優秀棋士賞は佐藤天彦名人。名人奪取,叡王戦優勝。最優秀棋士賞は初めての受賞です。
                                     
 優秀棋士賞に羽生善治三冠。棋聖防衛,王位防衛,王座防衛。羽生三冠は最優秀棋士賞の常連で,優秀棋士賞は2006年度,2012年度,2013年度に続き3年ぶり4度目になります。
 敢闘賞は久保利明王将。王将挑戦,奪取,A級へ再昇級。2000年度と2008年度に受賞があり,8年ぶり3度目の受賞。
 新人賞は矢代弥六段。朝日杯将棋オープン優勝。将棋大賞初受賞です。
 最多対局賞は千田翔太六段と佐々木勇気五段で65局。
 最多勝利賞は千田翔太六段で48勝。
 勝率1位賞は斎藤慎太郎七段と青嶋未来五段が.750で分け合いました。斎藤七段はこの部門で2015年度に続く連続受賞です。
 連勝賞は豊島将之八段と青嶋未来五段の12連勝。青嶋五段は12連勝を2度達成しています。
 最優秀女流棋士賞は里見香奈女流名人。女流王位防衛,女流王座挑戦,奪取,女流王将防衛,倉敷藤花防衛,女流名人防衛2009年度,2010年度,2011年度,2012年度,2013年度,2015年度に続き2年連続7回目の受賞。
 女流棋士賞は上田初美女流三段。女流名人挑戦,マイナビ女子オープン挑戦。2012年度以来4年ぶり2度目の受賞。
 女流最多対局賞は室谷由紀女流二段の40局。2年連続2度目の受賞。
 升田幸三賞は千田翔太六段。
 名局賞はA級順位戦8回戦の佐藤康光九段と深浦康市九段の一戦。AbemaTVの将棋チャンネル開局当日に生中継されたA級順位戦一斉対局4局のうち一局。僕も観戦していましたがあまりにも面白くて終局の1時17分まで視聴してしまいました。深浦九段は2007年度と2010年度に受賞していて3度目,佐藤九段は2009年度に受賞があり2度目の受賞となります。
 名局賞の特別賞は女流名人戦第五局。
 近いうちに現役引退となるであろう加藤一二三九段が特別賞と升田幸三賞の特別賞をダブル受賞しています。

 第二部定理四九証明の内容から,ふたつのことが理解できます。
 ひとつは,観念ideaが存在するとき,その観念の内容を肯定したり否定したりする思惟作用が同時に存在するのですが,そうした思惟作用をスピノザは意志作用volitioというということです。つまりスピノザの哲学でいう意志voluntasとは,精神mensをして何かを希求させたり忌避させたりするような決意のことをいうのではありません。観念が観念である限りにおいて必然的に含んでいなければならないような,何事かを肯定しまた否定する力potentiaのことが意志といわれるのです。
 このような思惟の様態cogitandi modiのことを意志というのは不自然と思われるかもしれませんが,僕は必ずしもそうは思わないです。たとえば本を読むという観念を肯定することと本を読むことを希求することは同じことですし,逆に本を読むという観念を否定することと本を読むことを忌避するということは同じことだと考えるからです。ただ一般にはそうした決意が行動の原因であると思われているのに対して,スピノザはそうした決意は観念そのものを異なった観点から把握したものであり,したがって決意と行動の間には因果関係は存在しないといっているだけなのです。つまり意志という思惟の様態を,それ以外の事柄との因果関係を捨象してそれだけでみるなら,その様態が有している力というのは,一般的にそうみられている力と何ら変わるところはないといえます。
 もうひとつ,個々の観念と個々の意志作用が同一の思惟の様態を異なった観点から把握しただけにすぎないのであれば,一般的に知性intellectusと意志もまた同一であるいうことが帰結します。よってスピノザは第二部定理四九系としてこのことを示しているのです。これはその証明Demonstratioにもあるように,知性というのが個々の観念の集積であり,意志というのが個々の意志作用の集積であるということから明白だといえるでしょう。したがって,人間の精神mens humanaが自動機械automa spiritualeであるということと,知性と意志が同一であるということは,個別の事柄を示しているようでいながら,何ら関係を有していないというわけではないことになります。
 この証明のうちにはもう少し検証を要することも含まれます。
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決断力&証言の対象

2017-02-27 18:59:42 | 将棋トピック
 久しぶりに将棋関係の書籍を紹介します。5冊目は羽生善治の『決断力』です。
                                     
 著者が羽生善治という本は数多く,僕にとっては玉石混淆なのですが,最も推奨できるのが現在のところではこの『決断力』です。
 帯を読むと正しい決定を下すための指南書のようになっているのですが,この本はそれを直接的に教えるものではありません。むしろ本の題名にあるように決断を下すことを人間の力と把握し,その力の源泉がどこにあるのかを多角的に検討した内容です。
 将棋は先行きが見通せなくても手番であれば何か指さなくてはならないルールになっています。先行きが見通せないのは人間の知性が有限であるからであり,また時間の制約があるからです。そういう場合でも次の一手を決定しなければならず,その決定こそが決断であって,それを下す力が決断力です。したがって,それを下せばどういう結果が出るか分かっているような決定は決断ではありません。いい換えれば決定を下すときに,それが正しい決定なのか正しくない決定であるかが判然としていない場合の決定が決断なのであり,決断力というのはそういう場合に決定を下す力のことです。
 ここから理解できるように,決断力というのは将棋の指し手を決定するときに限定して要請されるような力ではありません。僕たちの日常生活の中でも,その決定を下すことによってどういう結果が待ち受けているのかは判然としていないという場面は往々にして存在するからです。そしてそのときに,それを決定する力の源泉がどういったところにあるのかを多方面から検討することによって,よりよい決断,すなわちよい結果を得られやすい決断を下すことが,より多く可能になるでしょう。ですから,この本はどのようにすれば正しく決断できるのか,正確にいえば正しく決断する可能性を高めることができるのかということを,それ自体で直接的に指南するものではありませんが,間接的には有益であるといえると思います。

 スぺイクはおそらく日々の生活に追われ,スピノザの哲学的思想を詳しく知ろうとする欲求をもつ余裕がありませんでした。そしてスピノザは自身の哲学的見解を多くの人びとに伝えようとすることについて禁欲的であったと思われます。よっておそらくスピノザが自身の思想をスぺイクに対して詳しく語ることはしなかったと推定されます。そもそもスピノザはフェルトホイゼンLambert van Velthuysenに対する反論の中で,自分の生活態度をみれば無神論者でないことをフェルトホイゼンは理解するだろうといっています。スぺイクは実際にそれを見る立場にあったのですから,自分が無神論者ではないということをスぺイクは分かっているとスピノザは思っていたでしょう。そして実際にスぺイクはスピノザのことをそのように認識し,それによってスピノザを敬愛し尊敬もしたのだと僕は解します。要するに自分の思想が無神論に至るものではないということをスピノザはその思想を詳しく語らずとも,態度によってスぺイクに対して示すことができたのであり,スピノザにとってはそれで十分であったのだろうと僕は思います。
 したがって,スぺイクがスピノザを称えようとする場合に,それをスピノザの思想と絡めて説明することはできなかっただろうと僕は解します。なのでスぺイクはそれを,スピノザの日々の生活態度とだけ関連させて説明したのだと思います。そしてこのことはリュカスJean Maximilien Lucasの伝記の場合にも同様なのですが,リュカスがスピノザの生活態度がキリスト教の教えと相容れるものであったということについてはほとんど説明していないのに対して,スぺイクがそのような説明もしている理由は,取材者がコレルスJohannes Colerusであったということに起因しているのではないかと僕は思うのです。リュカスが自身の手による伝記の読者をどのような人と推定していたのかは分かりませんが,少なくともルター派の説教師であったコレルスのような,宗教色あるいはキリスト教色の強い人間だけを想定していなかったということだけは確かだと思えます。対してスぺイクは,自身で伝記を書いたのではなく,コレルスの取材に対して証言したのです。つまりスぺイクはコレルスだけを念頭に話しているのです。
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不自然な離席と合理的説明&配慮の相違

2016-10-20 19:36:52 | 将棋トピック
 竜王戦の挑戦者変更の一件に関して,僕が何をどう判断し,また何を判断しないかについて明らかにしておきます。
 僕が判断材料にするのは三点だけです。第一に,三浦九段が対局中に不自然な離席をするという指摘が複数の棋士からあったということです。第二に,三浦九段は離席は身体を休める目的だったと説明していることです。第三に,聴取ではその弁明が非合理的と認定されたことです。
 僕は弁明が非合理的な離席についてはふたつのケースを想定します。ひとつはある手を指したら離席し,次の手を指したらまた離席するという行為が継続的に行われる場合です。身体を休めるなら一度に多くの時間を使用する方が合理的です。もうひとつは相手が指すまでは着席し,自分の手番になると離席するという行為が恒常的に行われる場合です。身体を休めるなら自分の持ち時間だけでなく相手の持ち時間も使用する方が合理的です。
 もしふたつのケースのどちらも行われていなかったなら,弁明が合理的ではないと僕は判断しません。その場合には処分したこと自体が不当であると判断します。
 逆にふたつのうちのどちらか,あるいは両方が行われたのだとすれば,僕はコンピュータによる援助の有無と無関係に三浦九段には非があると判断します。なのでこのケースでは処分することは正当であると判断します。ただしそれは棋士という職業に対する僕の職業観に由来します。援助がなければいつどのように離席してもよいというのはひとつの考え方として成立し得ると僕は認めます。また,正当な疑惑を抱かせたというだけでは内部的に処分するのも不当であるという考え方が成立することも認めます。しかしその相違は職業観の相違に由来しますので,その点については僕は争いませんし判断も変更しません。
 ただし,上述の処分することが正当であるというのは,年内の出場停止が妥当であるという意味ではありません。最も軽い,たとえば厳重注意のような処分は少なくともされるべきだという意味です。このケースでどのような処分が妥当かは僕は判断しません。同様に三浦九段が援助を受けていたか否かも判断しません。
 休場届の不提出が処分理由なら,その処分は不当だと僕は判断します。これは将棋界に限らず,休場届は提出されて初めて受理するべきものであるからです。いくら休場するという意志を表明していても,届けを提出する前に出場することに気持ちを変えたからといって,その変心を咎めるのは不当です。
 僕は三浦九段が休場の意志を表明したという点は判断材料とはしませんでした。それは聴取した側がそう受け止めただけで,三浦九段はそんな意志を表明したつもりはないというケースもあり得ると判断したからです。
 三浦九段が休場の意志を表明したというならなら,その場で休場届を提出させるべきであったというのが僕の判断です。なのでもしもその要求をしなかったなら,聴取した側に不手際があったと僕は判断します。
 実際に三浦九段に休場の意志があり,その場での休場届の提出要求もあり,三浦九段がその場での提出を拒んだ場合にのみこの判断は変わり得ます。翌日午後3時までの期限を設けて提出を求め,かつそれが提出されなければ処分するということを合わせて伝達したのなら,不提出による処分も正当であると判断できます。ただしそのすべての条件のうちどれかひとつでも欠けていたなら,これによる処分は不当であるという判断は変わりません。また,正当である場合でも,処分内容が妥当であるかを判断しないのは,離席のケースと同様です。

 プラドはアムステルダムのシナゴーグから慈善金を受け取っていました。これはプラドが経済的に困窮していたことの証といえます。一方,スピノザは,年によって金額の上下がありますが,税金を納めています。正確にいえばある時点まではスピノザの父親が納めていて,父親の死後は貿易商を継いだスピノザが支払うようになったというべきかもしれません。裕福であったとまでは確定できないまでも,暮らしていくために余裕がなかったということはあり得ないとみることができます。
 プラドは1655年にアムステルダムのシナゴーグの一員となりました。最初の破門宣告が1656年だったとすれば,ユダヤ人以外のオランダ人の知り合いはあまりいなかったであろうと推測できます。プラドは医師であったようなのですが,それまでの経歴からオランダ語が達者だったとは思えないので,オランダ語しか話せないであろうアムステルダム在住のオランダ人を治療することはままならなかったように思います。それはプラドの困窮の一因になっていたかもしれません。
 一方,スピノザはまだ父親が生きていた頃から貿易業に携わっていました。そのために非ユダヤ人とも知り合う契機が多かったろうと思えます。実際に,イエレスJarig Jellesとかシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesとは,スピノザが破門される以前から友人であったと思われます。また,これはオランダ人とはいえませんが,ファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenとも同様です。そしてファン・ローンJoanis van Loonもまた,親しく交際していたとはいえないまでも,間違いなく知り合いでした。
 これらの事情を総合するなら,プラドはシナゴーグを離脱すればそれだけで生きていくのが難しいと考えられるのに対し,スピノザはたとえシナゴーグを離脱したとしても,生きていくことが可能であったと考えられるのです。よってシナゴーグの指導者たちが,プラドに対しては破門を宣告すること自体がシナゴーグからの離脱の防止に有益であっても,スピノザに対してはそうではないと判断する合理的な理由があったことになります。だからスピノザには別の手段,年金という賄賂が用いられても,プラドにはそういう配慮がなされなかったのだと僕は解します。
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竜王戦&金銭欲

2016-10-15 19:14:49 | 将棋トピック
 第29期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負は三浦弘行九段が丸山忠久九段を2勝1敗で降しました。しかし三浦九段は今年の7月以降の対局で終盤での離席が目立ち,指し手の決定にコンピュータの援助を受けているのではないかという疑惑が浮上。今月11日に日本将棋連盟常務会による聴取が行われました。三浦九段は援助を否定したものの,常務会は納得いく説明が得られなかったと結論。三浦九段は疑惑を受けては将棋を指せないので休場を申し出,連盟側は翌12日午後3時までに休場届の提出を要求。しかしそれが提出されなかったため,連盟は12月31日まで三浦九段に出場停止の処分を科しました。それが援助によるものなのか,離席すなわち援助を疑わせる行為によるものなのか,それとも休場届の不提出によるものなのかは判然としません。再調査は行わないそうですから,三浦九段の出方にもよりますが,処分はとりあえず最終的なものと理解しておいてよいでしょう。
 三浦九段が対応を考慮する時間があまりに短かったと思いますが,竜王戦は第一局が今日から指されることになっていたので急いで結論を出す必要があったためでしょう。第七局の2日目が12月22日なので,12月31日までの処分となったものと推測します。
 連盟の理事は現役棋士が多数を占めます。おそらく聴取に参加した筈ですし渡辺竜王も同席していた模様。つまり三浦九段は他棋士を納得させる説明ができなかったことになります。また,こうした処分を下せば三浦九段個人だけでなく連盟にも打撃は及びます。それでいて処分を決定したのですから,援助について何らかの裏付けがあるとみるのが合理的な判断です。ただしこうした合理的判断が日本将棋連盟という組織に適用可能であるという確信は僕にはありません。
 棋士同士の対戦で援助を排除するという方向性,またそれを棋士の倫理観に委ねないという方向性を現在の連盟ないしは理事会が強く有しているのは昨今の事情から確実で,その方向性に関しては僕は支持できます。ただ組織的に有される確固たる信念は,疑わしい存在を疑わしいという理由だけで排除する要因となり得ることもまた一面の真理であるといわなければならないでしょう。
 規定では決定戦で敗れた丸山九段が挑戦者になるそうです。丸山九段はこの決定には個人的に賛成しかねるとコメントしています。これは援助を受けていない者を処分することに反対とも,援助を受けた者に対する処分が軽すぎるので反対とも,両極端な解釈が可能です。あるいは援助の有無がうやむやなままの処分に反対とか,短時間での急な決定に反対,また決定戦で負けた自分が挑戦することに反対など,それ以外にも様ざまな解釈できるので,真意は不明です。ただし七番勝負に出場するということは受け入れるとのことで,正式に挑戦者に決定しています。丸山九段の竜王戦七番勝負出場は第25期以来4年ぶりです。

 スピノザはシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesからの資金援助を辞退しています。また,フリースの死後,フリースが遺言で命じておいたスピノザに対する年金は受け取りましたが,フリースが命じた額より減額しています。また,ハイデルベルク大学教授への就任を打診されたとき,いわれるままに哲学正教授の座に就いていたなら,名誉だけでなくそれなりの収入も約束された筈ですが,それも断っています。ですからスピノザは金銭に対する欲望cupiditasはさほど大きくなかったとみることができます。
 もちろんこうした欲望というのは,第三部諸感情の定義一にみられるように,受動状態における人間の現実的本性actualis essentiaです。ですから第三部定理五一により,それはそのときどきに応じて変化するものであるということは考慮に入れておかなければなりません。しかしスピノザの姿勢が一貫したものであったとみる限りにおいては,年金を送るというシナゴーグサイドからの和解案にスピノザが応じなかったというのはひどく不合理な話ではないといえます。そしてそれは史実であったと僕は判断します。
                                     
 これでみれば分かるように,シナゴーグとスピノザとの間に解決しなければならない対立が生じたときに,和解することに躍起になったのはシナゴーグの側であって,スピノザの方にはそんな気はまったくなかったというような解釈が生じても不思議ではありません。破門の前後の経緯をこのように解釈している典型がドゥルーズGille Deleuzeです。『スピノザ 実践の哲学Spinoza : philosophie pratique』では,ラビたちは和解の成立を望んでいたらしいけれども,スピノザは悔悛することを拒絶し,自身の側からシナゴーグとの訣別を求めたのだとされています。
 ただし,シナゴーグの構成員の中に思想的な問題が生じたとき,何らかの解決策を探るということは,スピノザの場合に特有のことではなかったようです。そのことはドゥルーズも承知の上で書いていますし,『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,ユダヤ人共同体の指導者たちが,スピノザをシナゴーグに踏みとどまらせるために粘り強い説得をしなかったということは高い確率で考えられないとされています。年金はそういう手段のひとつであったと考えておくべきでしょう。
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将棋大賞&数学的実例

2016-04-04 19:35:15 | 将棋トピック
 1日に2015年度の将棋大賞が発表されました。
                                    
 最優秀棋士賞は羽生善治名人。名人防衛,棋聖防衛,王位防衛,王座防衛,王将挑戦,朝日杯将棋オープン優勝。タイトル数を増やすことこそできなかったものの,保持していたものは完全防衛で当然の受賞。1988年度,1989年度,1992年度,1993年度,1994年度,1995年度,1996年度,1998年度,1999年度,2000年度,2001年度,2002年度,2004年度,2005年度,2007年度,2008年度,2009年度,2010年度,2011年度,2014年度に続き2年連続21回目の最優秀棋士賞。
                                    
 優秀棋士賞は渡辺明竜王。竜王挑戦,奪取,棋王防衛。実力からすると物足りない気がしないでもないのですが,羽生名人に次ぐ活躍だったのは間違いないと思います。2005年度,2008年度,2010年度,2011年度に続き4年ぶり5度目の優秀棋士賞。
 敢闘賞は佐藤天彦八段。王座挑戦,棋王挑戦,名人挑戦。記録部門の最多対局賞,最多勝利賞,連勝賞を獲得。王座か棋王を獲得できていれば,優秀棋士賞の可能性もあったかと思います。記録部門を除くと2009年度の新人賞以来2度目の将棋大賞受賞。
 新人賞は斎藤慎太郎六段。順位戦C級1組で昇級を決めた以外,棋戦での目立った活躍はありませんでしたが,勝率1位賞を獲得して佐藤八段の記録部門独占を阻止しました。記録部門も含めて将棋大賞初受賞。
 最優秀女流棋士賞は里見香奈女流名人。女流王位挑戦,奪取,女流王将挑戦,奪取,倉敷藤花挑戦,奪取,女流名人防衛。休場からの復帰で復活の年になりました。2009年度,2010年度,2011年度,2012年度,2013年度に続き2年ぶり6度目の最優秀女流棋士賞。
 女流棋士賞は室谷由紀女流二段。マイナビ女子オープン挑戦を決め,女流最多対局賞も受賞しました。将棋大賞初受賞。
 升田幸三賞は富岡英作八段。これは2009年か2010年に指された角換り腰掛銀の富岡流によるもので,この戦型の戦後同型があまり指されなくなったことに大きく影響しています。
 名局賞は渡辺棋王が防衛を決めた棋王戦の第四局。名局特別賞に棋王戦挑戦者決定トーナメントの羽生名人と阿部健治郎六段の一戦。角換り相腰掛銀から後手の阿部六段が3三に銀を上がらず桂馬を跳ねて攻めに使い,勝った将棋です。

 推論によって論証された神の存在を実感するとき,僕は単に第二種の認識cognitio secundi generisによって神が存在することを知ったというだけでなく,第三種の認識によって神が存在すると認識したのではないかと思えます。すなわちスピノザが第五部定理二三備考で,知性によって理解する事柄を想起する事柄と同等に感じるといっていることの意味は,第二種の認識によって認識した事柄を,第三種の認識によっても認識するということではないかと思うのです。
 スピノザは第三種の認識がどういう認識であるかを説明するために,比例数を例示しています。具体的にどんなものか示しませんが,スピノザが例として数学を使用しているのは,もしかしたら意味があるかもしれないと僕には思えます。というのは数学というのは実在的有を対象としているのでなく,理性の有を対象としているといえる面があるからです。いい換えれば純粋に認識のみを扱っているといえる面があるからです。そして数学的な論証においても,僕は神の実在と同じような実感を抱くことがあるのです。
 (a+b)²=a²+2ab+b²という公式が数学にはあります。この公式が正しいという論証方法はいくつかあると思いますが,僕にその正しさの確信を抱かせるのは,一辺がa+bという長さの正方形が平面上にあるとき,この正方形の面積は,同様に平面上にある一辺がaの正方形ひとつ,縦がaで横がbの長方形ふたつ,一辺がbの正方形ひとつの面積を足したものと等しいという論証です。この論証によって僕は(a+b)²=a²+2ab+b²という公式が正しいということを確信します。a+bなどという長さが実在するわけはありませんから,このことは僕の精神のうちでのみ生じているといっていいでしょう。そしてこの確信を抱くことによって,僕はもはや先述の論証なしで,(a+b)²=a²+2ab+b²は正しいと知ることができるのです。他面からいえば,(a+b)²という式が何を意味しているかを知るのです。スピノザが提出している例と異なりますが,スピノザがそれで示そうとしている第二種の認識と第三種の認識の相違から,これは第三種の認識だと僕には思えます。
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将棋大賞&最終結論

2015-04-03 19:28:46 | 将棋トピック
 1日に第42回将棋大賞が発表されました。
 最優秀棋士賞は羽生善治名人。名人奪取,棋聖防衛,王位防衛,王座防衛,棋王挑戦朝日杯将棋オープン優勝。2014年度の実績は断然で,当然の選出でしょう。現行制度になった第33回以降では,33回,35回,36回,37回,38回,39回に続き3年ぶり7度目,それ以前も含めると20度目の最優秀棋士賞獲得です。
                         
 優秀棋士賞には糸谷哲郎竜王。竜王挑戦,奪取。棋界最高峰のタイトルを獲得したのですから,これも順当といえるでしょう。優秀棋士賞は初受賞。
 敢闘賞は郷田真隆王将。王将挑戦,奪取。新たにタイトルを獲得したのが羽生名人と糸谷竜王のほかには郷田王将だけということを考えれば,これも妥当でしょうか。現行制度下では第39回以来3年ぶり2度目,通算では5度目の敢闘賞。
 新人賞は千田翔太五段。王位リーグ紅組優勝,順位戦昇級,昇段。棋戦優勝はなかったのですが,受賞しておかしくない戦績であるとはいえると思います。
 記録部門は最多対局賞が豊島将之七段。最多勝利賞と勝率1位賞が菅井竜也六段,連勝賞が横山泰明六段でいずれも初受賞となっています。
 最優秀女流棋士賞は甲斐智美女流二冠。女流王位防衛,倉敷藤花防衛。一般棋戦でも2勝しています。女流棋士の中から選出されるということであれば,当然でしょう。初受賞。
 女流棋士賞は香川愛生女流王将。女流王将防衛。一般棋戦では3勝。こちらも女流棋士の枠内での選出なら当然。ただいずれ問題化するのではないかと懸念されます。初受賞。
 女流最多対局賞は清水市代女流六段で第38回,39回に続く3年ぶり3度目の受賞。
 升田幸三賞は数々の新機軸を編み出している菅井竜也六段。塚田スペシャルの塚田泰明九段が升田幸三賞特別賞を受賞。共に初受賞。
 名局賞は王座戦第五局。羽生善治王座はこの賞ができた第34回,35回,36回,40回,41回に続き3年連続6度目,豊島将之七段は初。名局賞特別賞に新人王戦の2回戦。343手という超長手数の将棋でした。

 喜びの半減という例は,ただ論理的に説明をするという目的だけのための仮定です。現実的にそうしたことが生じることはないでしょう。ただ,この論理的帰結として,現実的に存在する人間は,喜びをそして悲しみを感じるそのたびごとに,現実的本性を変化させているということを明瞭に示していることは間違いありません。喜びや悲しみの量的変化が起こるということは経験的事実であり,その量的変化が生じる原因は,喜びおよび悲しみを感じることによって,質的変化が生じているからだとしか説明できないからです。
 ある喜びを感じることが,次に喜びを感じるときの量的変化の原因となっています。これはつまり喜びを感じた時点で,現実的本性に質的変化が生じていることの証明です。これはどんな小さな喜びでも,すなわち他人からは表象され得ない喜びの場合にも成立します。つまり程度問題です。いい換えれば,現実的本性の変化が大きいか小さいかの問題に還元できます。そしてこれと同じことが,喜びだけでなく,悲しみの場合にも成立します。ですから「人が変わる」という慣用表現が実際に,つまり真理として意味している暗黙の前提というのは,現実的に存在する人間が,喜びを感じ悲しみを感じるごとに,その人間の精神の現実的本性が変化するということなのだといえるのです。いい換えれば,ある喜びを感じる以前の人間と,その喜びを感じた後の人間は,たとえ同一人物であると措定できるとしても,現実的存在としては様態的に区別することが可能な別の人間であるということなのです。これが喜びを感じまた悲しみを感じるたびごとに生じるのですから,最終的な結論として導き出せるのは,様態的区別が可能な無数の同一人物が存在するということになります。
 これで,人間のある行為の原因に関わるスピノザの説明を考察していく際に,放置しておいた事柄の探求は完了しました。そこでここからは,ライプニッツの世界観において,人間の行為がどのように説明され得るのかということを考えていくことにします。これを考えることによって,真偽不明というライプニッツの規定の具体的な意味も明らかにすることができます。
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羽生善治論&モナドと属性

2015-01-11 19:27:18 | 将棋トピック
 四冊目は加藤一二三の『羽生善治論』。2013年4月10日に角川書店より発行。僕が持っているのものには同年4月25日再販とあります。これは重版とは違って,何らかのミスを手直ししたものと思われます。
                         
 副題に“「天才」とは何か”とあります。つまり本書の意図は,羽生の「天才」について多角的に分析しようというもの。分析自体が成功しているか否かは各々の読者が判断するところでしょう。多角的であることは間違いありません。
 加藤の著書を読んだり,映像を見たりした経験がある方にはお分かりでしょうが,加藤は基本的に自分自身について語ることを好みます。本書も羽生論ですが,随所で加藤自身のことも語られています。また,映像から判断する限り,加藤は常に躁状態にあるのではないかと感じられる人物です。それは文章になっても同様。たとえば自戦記のようなものでも加藤の文章はハイテンションで,早口でまくしたているという趣があり,それもこの本でも同様です。
 本の意図は,単なる羽生論ではなく,羽生の「天才」論です。こういう場合に,だれが「天才」について論述する資格があるのかということが問題となるでしょう。この本が優れているのは,確かにそのような問題があるということに加藤自身も気付いていて,具体的な「天才」論に入る前に,加藤自身がその資格を有しているということを論証している点にあります。結論からいえば,それは加藤自身もまた「天才」であるということ。つまり「天才」は「天才」を語る資格があるという前提からの論述です。よってこれは「天才」による「天才」論です。このように断言して構わないのは,「天才」とは何であるのかということを,加藤がきちんと定義づけているからです。
 これでみれば明らかなように,これは羽生論といより加藤による「天才」論であるという側面の方が大きくなっています。つまり加藤がどういう事柄を「天才」と解し,加藤が解する「天才」がどう羽生に表出されているかが示されているといえるでしょう。

 個々の属性に関連する第一部定義六の名目性については,そのように把握しておけば安全であるという以上の意味はありません。別にそれが実在的にもこの定義に含まれているのだと考えたとしても,そんなに大きな過ちを犯していることにはならない筈だからです。というのも,絶対に無限な実体というのが必然的に存在しなければならないのであれば,無限に多くの属性もまた必然的に存在するのであって,個々の属性というのはこの無限に多くの属性の中からだけ抽出され得るのであり,それ以外に何らかの属性が存在するということはあり得ないからです。このこと自体は第一部定義六説明から明白だといわなければなりません。神に比重を置くならば,このゆえに神は自己の類において無限といわれるのではなく,絶対に無限といわれなければならないのです。よって,個々の属性の第一部定義六における名目性と実在性について,僕は争うことはしません。ただ,少なくとも名目的には,無限に多くの属性が存在するということが前提されているということだけ示すことができれば,これから後の考察にとっては十分です。そしてこの点について異論が出るということはないでしょう。
 ライプニッツの規定のスピノザの形而上学への置き換えの可能性は,この点に着目するのでない限り,不可能ではないかと僕は考えています。つまりライプニッツが無限に多くのモナドの実在を主張している点と,スピノザが無限に多くの属性の存在を主張している点に着目し,これを一致させるような形で,ライプニッツの形而上学をスピノザの形而上学に当て嵌めるのです。
 スピノザの形而上学では,無限に多くの属性が神という実体の本性を構成します。ライプニッツはモナドについては形而上学的には実体であるという意味のことをいっていて,たぶん属性をどのように規定するのかはスピノザとは異なっているものと思われるのですが,スピノザの哲学では実体と属性の区別が理性的区別であると考える限り,無限に多くの実体が神という「唯一」の実体の本性を構成すると考えて,表現上は変であっても,矛盾を来すとまではいえないと考えて構わないと僕は思います。
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島研ノート 心の鍛え方&処方の継続

2014-09-22 19:00:48 | 将棋トピック
 三冊目は島朗の『島研ノート 心の鍛え方』。2013年3月28日,講談社より刊行。僕が持っているのは翌月発行の第二刷。売れ行きが好調だったので,早々の増刷となったものでしょう。わりと早い段階で入手していたことになりますが,この本に関しては読もうか読むまいか逡巡がありました。高橋和女流三段が強く推薦されていたのに後押しされて購入したものです。
                         
 島研は将棋界では有名な研究会。メンバーは島九段のほかに,羽生名人,森内竜王,佐藤九段。中心はこの3人についてですが,他の棋士も部分的に登場します。
 中心を貫いているのはふたつの点。ひとつは心が将棋を指すということ。つまり指し手には精神のありようが反映されるということ。これはひとりの人間としての精神を意味します。冒頭で東日本大震災に触れられていますが,当時の棋士の指し手に乱れが生じても,それを責めるのは酷であるという主旨のことが書かれています。他面からいえば,だからよい将棋を指して勝つためには,だれよりも強い精神に鍛えていくことが必須です。題名が意図しているところはこのことだといえるでしょう。
 もう一点は,将棋には王道というものがあるということ。将棋界は,限られた人数で長期間にわたって戦い続け,トータルで勝者を決めます。その勝者になるためには,この王道を踏み外してはならないというのが島の考え方。当初から道に迷っているようではトップに到達するべくもありません。また,途中で道を踏み外すとすれば,それはトップに立つこと,トータルの戦いで勝者の側に立つことを放棄することに等しいのです。
 中心になっている3人についてですが,島との関係が三様にあるというように描かれています。羽生,森内,佐藤のそれぞれの描写に異なる筆致があるように僕は感じました。それはおそらく,島の3人に対する関係性が表出しているものだと推測します。
 ジャンルを問わない著作としてもこれは名著だと思います。将棋関係の著作と限定するなら,屈指の名著のひとつでしょう。将棋ファンを問わず,できるだけ多くの人に読んでもらいたい本です。

 6月16日,月曜日。こども医療センターへの通院。予約は午後2時半。僕はこの日も長者町。午後4時過ぎには戻っていたのですが,母と妹はなかなか帰って来ず,18時過ぎにようやくの帰宅となりました。ここ最近よりは予約時間が遅くなっていましたから,帰りも遅れること自体は想定していましたが,これほどとは思っていませんでした。母によれば,診察の開始が遅れに遅れ,午後4時頃になってしまったとのこと。しかもその後で採血の指示をされたそうです。この採血は貧血の状況を確認するため。結果はすぐには出ませんから,朝に1錠の処方はこれまでと同じように継続されることに。話を聞くだけでも,何だか無駄に時間を掛けさせられたという感が残りました。
 6月17日,火曜日。妹がショートステイへ。南区内の施設で,1泊でした。先月は2泊の空きがなかったのでショートステイに行かなかったのに,この月は1泊なのに利用したというのは不自然ですが,これには理由があります。作業所で予約してくれたショートステイは2泊で,それが16日から。しかし16日は通院があるので,こちらから断ったものです。つまり本来なら2泊のものを,こちらの都合で短縮したものでした。前日は作業所を休ませましたので,事前に荷物を預けておくことができなかったため,当日の朝に迎えの支援を要請しました。翌日の帰宅時にも,送りの支援を利用しました。
 6月21日,土曜日。ガイドヘルパーを利用。この日はカラオケではなく,新杉田でのボーリングでした。
 7月4日,金曜日。作業所のレクリエーションで,午前中がボーリングでした。これも杉田ですので,母がボーリング場の方へ送りました。
 7月5日,土曜日。土曜出勤。ワールドカップの開催期間中で,フランスとドイツの試合の模様をビデオで観戦したそうです。妹はサッカーなどを観戦しても何も分からないでしょうから,それほど面白くはないと推測します。ただこのときは,利用者を二組に分け,一方がドイツを,他方がフランスを応援するという趣向にしたようです。妹はドイツを応援して,勝ったことも理解していました。
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頭脳勝負&出っ歯

2014-09-08 19:15:25 | 将棋トピック
 将棋関係の書籍の紹介の第二弾は渡辺明の『頭脳勝負』。2007年11月10日、ちくま新書として発刊。僕が所有しているのは第一刷なので、発行直後に購入したものです。
                         
 選手と同様の身体能力を有さない人間がプロスポーツを観戦するのと同様の仕方で、棋士と同様の知的能力を有さない人間が将棋を観戦してもよいというコンセプトを前提に、そこにどのような楽しみ方があるのかを、観戦されるプロの立場から解説するという内容。おおよそプロ棋士の著作としては異色の内容で、意欲作といえると思います。
 僕が圧巻に感じたのは、自身の実戦の観点から解説した第四章。
 第19期竜王戦七番勝負第三局は、最終盤で絶妙手を指して勝った将棋。その手を指す前後の自身の精神の動きが克明に記されています。また、相手のおそらくは無意識の呟きを、どのように解したのかも説明されています。
 第78期棋聖戦五番勝負第四局は、偉大なる悪手が指された将棋。その手が指されたときの驚きの様子、▲7五角という応手を選んだ理由、それに対する相手の雰囲気が、昼食休憩を挟んで明らかに変化したのを感じたこと、休憩後の3手目に考えていなかった手を指され、その変化の理由を理解したことなどが赤裸々に語られています。
 これらから理解できるのは、著者である渡辺二冠の将棋観は、盤上の駒の戦いであると同時に、駒を動かす人間同士の戦いであるという点を重視していること。あるいは少なくとも、この当時はそうであったということです。最近の渡辺二冠は、僕にも分かりやすく新しいスタイルの確立に取り組んでいます。ことによると将棋観にも変化が出るかもしれません。若き日の渡辺二冠の将棋観を示す著作としての記録的価値も、この本には含まれていると思います。

 外見を気にしないのが昔からであったかというと,そうではありません。僕は歯並びが悪いのです。いわゆる出っ歯というやつ。僕にとってこれはコンプレックスのひとつでした。少なくとも高校に入学した頃はそうでしたから,その当時は外見を気に掛けていたことになります。コンプレックスという意味ではこの当時が一番ひどく,たとえば電車の中で笑い声がしたりすると,自分の容姿が笑いの対象になっているのではないかと疑ってしまうほどでした。今から考えればそれこそ僕自身が笑ってしまうような被害妄想ですが,僕にも確かにそういう時代というのはあったのです。
 いつからかは分かりませんが,学生生活を送るようになった頃には,それはコンプレックスではなくなっていました。なので僕が外見に気を使わなくなり始めたのも,その頃だったといえそうです。面白いもので自分で気にしなくなりますと,相手も気にならなくなるようでした。当時のアルバイト先の同僚からは,歯並びが良いと言われたことがあったくらいです。どこをどう見ているのかと言いたくなりますが,当人が思っているほど他人は当人のことを見ているわけではないということは,一般的に妥当するのかもしれません。
 2月28日、金曜日。妹が卒業した養護学校の保護者の会というのがありました。これは書くのは初めてかもしれませんが,概ね3ヶ月に1度ほど開催されているもの。といっても正式な会合ではなく,保護者の同窓会のようなもので,単なる昼食会です。都合がつけば母は参加していて,この日も出掛けて行きました。
 3月4日,火曜日。妹が2泊3日のショートステイへ。南区内の施設を利用。この月のショートステイの利用が,定例よりも早まったのは,この後,母と妹の渡米が予定されていたためでした。
 6日に妹は帰り、翌7日の金曜日に,施設で賛美礼拝という行事が開催されました。これは母も参加しています。午前中は利用者による演劇。50年前から現代までの歴史劇だったということです。妹は東洋の魔女を演じたとのこと。ただ,イエスの生誕劇と同様で、事前に説明があったからそう理解できたようです。
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将棋大賞&必要な論理

2014-04-03 19:34:51 | 将棋トピック
 2013年度の将棋大賞の発表が1日にありました。
 最優秀棋士賞は森内俊之竜王・名人。名人防衛,竜王挑戦,奪取。七大タイトルのうち,上位のふたつを独占。対戦相手が現在の三強と目される残りのふたりなので,順当な選出といえるでしょう。2003年度以来10年ぶり2度目の最優秀棋士賞。
 優秀棋士賞は三強の残りふたりから羽生善治三冠。棋聖防衛,王位防衛,王座防衛,王将挑戦,A級順位戦優勝,朝日杯将棋オープン優勝。渡辺二冠との比較ですが,タイトル数が多く,王将戦は負けたものの,棋聖戦と朝日杯で勝っていますので,これも順当といえるように思います。このカテゴリーでは2006年度2012年度に受賞歴があり,2年連続3度目。記録部門の最多対局賞と最多勝利賞も受賞。
 敢闘賞は郷田真隆九段。挑戦者決定戦で3敗というのは,このクラスの棋士としては確たる実績とはいえないでしょうが,最後にNHK杯を優勝。この点が評価の最大のポイントとなったものだと思います。現行制度になったのは2005年度からで,以降だと2011年度以来2年ぶり2度目の敢闘賞。
 新人賞は大石直嗣六段。C級2組順位戦で全勝。しかしNHK杯で準決勝まで進出し,途中で羽生三冠を破った点がこの評価に繋がったものと推測します。
 ほかの記録部門は,勝率1位賞が村山慈明七段,連勝賞は永瀬拓矢六段。
 最優秀女流棋士賞は里見香奈女王・女流名人・女流王座。女王奪取,女流王座挑戦,奪取,女流名人防衛。こちらは三大タイトル総なめですから当然でしょう。2009年度,2010年度,2011年度,2012年度に続き5年連続5度目。
 女流棋士賞は甲斐智美女流二冠。女流王位奪取。倉敷藤花挑戦,奪取。複数のタイトルを獲得しているのでこれも自然。2010年度以来3年ぶり2度目。
 女流最多対局賞は香川愛生女流王将でした。
 升田幸三賞は松尾歩七段。横歩取り△5二玉型に最脚光をあてたことが評価の対象。
 名局賞は第61期王座戦五番勝負第四局の千日手指し直し局で,同部門の特別賞がA級順位戦最終局の三浦・久保戦。後者の将棋は囲碁将棋チャンネルの中継で観戦していましたが,一局の将棋であんなに遅い時間になったというだけで驚きです。

 原因と媒介というふたつの内在性に,何らかの関連性があるとみなすのであれば,当然のことながら今度はそれを正当化するような論理が構築されなければなりません。延長の属性の場合でいうなら,延長の属性が個々の物体に対して内在的原因でありかつ最近原因であるということと,延長の属性の間接無限様態である不変の形相を有する全宇宙が,内在的に媒介することによって,個々の物体が生起するということの間の,整合性を構築するような論理が必要であるということです。
 僕は朝倉流の論証を用いることによって,不変の形相を有する全宇宙の媒介によって諸物体が生起するということの意味を示しました。この点については,必ずしも朝倉流の論証を経ずとも帰結するとしておきます。というのは,諸々の物体がその内部で生成したり変化したり消滅したりしても,それを全宇宙という視点からみた場合には,その形相にも本性にも何らの変化ももたらされないということは,僕が部屋の内部でどんな行動をしようと,部屋の現実的本性も現実的形相も変化しないということと同様の過程で証明が可能であるからです。したがって運動と静止という延長の属性の直接無限様態から,全宇宙の存在が必然的に帰結するなら,その全宇宙の存在というものが不変の形相を有するということは,帰結しているといえるからです。ただそれは,全宇宙の存在が朝倉流の論証を検証する過程において,演繹的に帰結したのに対して,同じ全宇宙の存在が,それ以前には無限に多くの物体が存在しなければならないということから帰納的に帰結していたという相違があるだけだといえます。
 整合性を保つ論理の構築のための最大の問題点の所在は,延長の属性に対して内在的であるということと,間接無限様態に対して内在的であるということの間には,ある決定的な亀裂があるように思われるという点にあります。延長の属性は翻訳すれば物体的実体なのであり,間接無限様態は無限であるとはいっても実体ではなく様態だからです。つまり,実体に内在的であるということと,様態に内在的であるということを,同時に主張できるような論理が必要なのです。
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順位戦回顧&第一部定理一三系

2014-03-15 19:52:43 | 将棋トピック
 第72期順位戦は13日に全日程が終了しました。
 A級展望で最有力と評した羽生善治三冠が優勝し,名人戦の挑戦者に。終ってみれば2位に2勝の差をつけ,今年度も悠々のトップでした。屋敷伸之九段と谷川浩司九段が降級。
                         
 B級1組は展望で,前期は不甲斐ない成績であったと書いた広瀬章人七段と阿久津主税七段が揃って昇級し,八段に昇段。A級でどこまでやれるのか楽しみです。最注目だった豊島将之七段は頭はねの3位でしたが,すぐに昇級できそうです。A級経験者の高橋道雄九段と鈴木大介八段が降級。
 B級2組は有望株とした4人のうちのふたり,佐藤天彦七段と村山慈明六段が昇級で村山六段は七段昇段。この両者もいずれはA級を狙える棋士だと思います。
 C級1組は名前を出さなかった佐々木慎六段と糸谷哲郎六段が昇級。もっとも,若手精鋭の中には入ります。期待した阿部健治郎五段の負け越しは意外でしたし,残念でした。
 C級2組は澤田真吾五段,佐々木勇気四段,大石直嗣六段が昇級し,名前を出した佐々木四段は五段昇段。あとのふたりは同門で,やや変わった将棋を指す印象があり,この将棋でどこまでいくのかは楽しみです。

 第一部定理一三には系があります。
 「これらの帰結として,いかなる実体も,したがってまたいかなる物体的実体も,それが実体である限り,分割されないことになる」。
 『エチカ』の多くの系は,この帰結として,という文章から始まっています。ところがこの系はそうではなく,これらの帰結として,といわれています。この点に関しては岩波文庫版の訳者である畠中尚志が注釈しています。それによれば,この系は第一部定理一三からだけでなく,第一部定理一二からの帰結事項でもあるということです。スピノザが非意図的に,これらの帰結,という筈がないと僕は考えます。するとスピノザ自身の定理や系の配置の意図から察して,畠中が注釈している内容は妥当であろうと僕は解します。
 第一部定理一三証明のうちに,スピノザの戦略性があるかもしれないと僕がいったのは,その訴訟過程により,この系が帰結するようになっているからです。第一部定理一三は絶対に無限な実体をその考察対象に据えていますが,絶対に無限ではなく,自己の類において無限である実体を同じような対象と据えたとしても,成立するような内容となっているからです。
 次に,この系では物体的実体といわれていますが,自己の類において無限であると考えられるような物体的実体が実在するということをスピノザが認めているわけではありません。この直後の第一部定理一四は,実在する実体が神だけであるということを主張しているからです。よってここで物体的実体といわれているのは,いわば名目的な実体なのであり,実在的に解そうとするならば,この物体的実体は神であると理解しなければなりません。ただしこのことは第一部定理一四に進んでから『エチカ』では明らかになるという順序になっているのは事実です。
 僕が物体的実体というのを,神の延長の属性と翻訳しておいたのは,この部分で何らかの混乱を引き起こさないように用心しておくためでした。ただし,属性attributaに関してそれが分割可能であるかどうかを問うことは,デカルトにとってもスピノザにとっても問題とはなっていません。スピノザがここで物体的実体といったのは,明らかにデカルトの哲学を射程に入れていたからだといえるでしょう。
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羽生 「最善手」を見つけ出す思考法&差異の所在

2014-03-11 19:11:32 | 将棋トピック
 将棋関係の書籍も紹介していきましょう。ただ,僕は現在は指しませんので,入門書や詰将棋も含め,戦術に関する本は読みません。なのでそういった類の書籍の紹介はありません。また,このシリーズは敬称略でいきます。第1回は保坂和志の『羽生 「最善手」を見つけ出す思考法』です。
                         
 光文社知恵の森文庫の1冊。初版の発行は2007年6月。僕が所有しているのは翌月発行の第3刷。ただしこの本は,1997年に朝日出版社から発行された『羽生 21世紀の将棋』を文庫化したもの。それがすべて収録されている上に,文庫化にあたってのまえがきと茂木健一郎の解説も収録されていて,価格はこちらの方が安価です。まだ手にされていない方は,こちらの文庫本を購入することをお勧めします。
                         
 保坂の手法は,羽生の自戦記をテクストとして読解することによって,羽生の将棋観を明らかにすることです。ですから指し手の解説などはありません。文芸評論の方法に近いものであり,将棋関連の書籍としては際立った異色作といえるでしょう。解説の茂木は,これは「将棋の本」ではないと断言しているくらいです。
 保坂が注目する大きな点は,羽生の自戦記は事実の積み重ね,いい換えれば実際に指された手の集積を中継しているようではないということと,一読した限りでは羽生自身が先手か後手かが分かりにくいということです。保坂が出す結論についてはここでは明示しませんが,これらを手掛かりとして,羽生に独特といえる将棋観,あるいは勝負観を帰結させています。
 保坂の結論が正しいのかどうかはだれにも,おそらく羽生にすら分からないのではないかと僕は思います。ただ,シリーズの第一弾にこの本を選んだのは,少なくとも僕が読んだ将棋関連の書籍の中で,最も面白かったものは何かと問われたならば,迷わずにこの本をあげることができるようなものだからです。

 スピノザがデカルトの神の定義を認めないように,デカルトもまたスピノザの神の定義である第一部定義六を認めないであろうと僕は判断します。そしてデカルトがスピノザの神の定義を認めないということと,スピノザがデカルトの神の定義を認めないということの間には,意味の上で大きな差異があるだろうとも判断します。スピノザはただ,神が最高に完全であるということは,神の定義の要件を満たしていないというだけで,それが真理ではないとはいいません。しかしデカルトは,神が絶対に無限であるということは,認められないであろう,いい換えればそれを虚偽ないしは誤謬とみなすであろうと思われるからです。
 神が絶対に無限であるとしたら,少なくとも思惟によって認識し得る属性に関しては,そのすべてを神に帰す必要が生じます。ある特定の属性は神の本性を構成しないとするならば,そのことによって神が絶対に無限であることは不可能になるからです。そしてデカルトは物体的実体が存在するということは認めました。それはスピノザの哲学に翻訳したならば,延長の属性が存在することを認めているのと同じことだと僕は理解します。しかしデカルトは,物体は少なくとも思惟によって分割可能であるから,物体的実体は完全性を欠くものであり,ゆえにそれは神の本性を構成しないと考えました。つまり延長の属性は神の属性ではないと主張しているのと同じことであり,そうであるなら神が絶対に無限であるということはないということになります。
 一方,スピノザは絶対に無限であるという本性から最高に完全であるという特質が帰結すると考えているのですから,神が最高に完全であるためには,その前提として神が絶対に無限である必要があると主張していることになります。そしてそのためには,延長の属性が神の本性を構成しなければならないのです。
 これでデカルトとスピノザの差異の所在がよく分かります。デカルトは神が最高に完全であるためには,延長の属性が神の本性を構成してはならないと考えました。スピノザは逆に,神が最高に完全であるために,延長の属性が神の本性を構成しなければならないと考えたのです。
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