スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

スピノザ主義とスピノザの教え&十全な原因と精神

2006-07-31 22:31:41 | 哲学
 スピノザ主義では能動的であることが肯定され,受動的(反動的)であることが否定されるので,キリスト教に限らず,あらゆる宗教とスピノザ主義には相容れない部分があるわけです。しかしこのことは同時に,ひとりの人間がスピノザ主義者としてあろうとするそのあり方にもはね返ってくるのです。つまり,たとえばもしもエチカでスピノザがいっていることを頑なに守ろうとするなら,これは反動的であるといえるわけですから,ある意味で,スピノザ主義とはほど遠い立場であるということになるのです。もちろんそれは,反動的な立場としてはよりましな立場とはいえるでしょう。しかしそれは,スピノザ主義者であろうとする者が目指すところではないような気が僕にはするのです。スピノザ主義者であること,あるいはスピノザ主義者になるということは,僕の目標のひとつなのですが,それは途方もない目標であるように感じられて仕方がありません。
 明日は福井記念の決勝ですので予想します。並びは森田ー山崎ー有坂の北日本,松岡ー市田の近畿に高木,吉田ー合志という西の混成ラインに坂本で3分戦。北日本と近畿がそれぞれ二段駆け態勢で,激しく先行争いをしそうなのであえて吉田選手◎を狙います。この場合は合志選手が相手。もちろん山崎選手○や市田選手▲が勝つ展開も大いに考えられ,それぞれ有坂選手と高木選手△が相手となり,高木選手の方が逆転する可能性は僅かながら高いとみます。

 十全な原因および部分的原因と人間の精神の関係は次のようになります。もしも人間の精神が十全な原因となってその人間の精神のうちにある観念が生じるなら,この観念はその人間の精神の本性を構成する限りでの神のうちにあることになりますから,これは十全な観念です。一方,人間の精神が部分的原因となってある観念がその人間の精神のうちに生じる場合には,この観念はその人間の精神の本性を構成するとともに,さらにほかのもの(ほかの部分的原因)の観念を有する限りで神のうちにあることになるので,これは混乱した観念であるということになるのです。つまり,人間が十全な観念を有するためには,自分の精神の本性によって完全に説明できるような観念を形成しなければならないのです。
 最後は関係のない方向に進みましたが,とりあえず第一部公理五はこれで終りにして,明日から簡単にまとめます。観念論に関してはこのまとめから除外しますが,またいずれ立ち返る機会があるものと思います。とりあえず,観念とはその対象を撮影した写真のようなものではないということだけは,常に理解しておく必要があると思います。
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キングジョージ&第三部定義一

2006-07-30 22:23:08 | 海外競馬
 現地時間の29日に行われたキングジョージ。
 ハーツクライは2番手のHurricane Runをマークするように3番手を進み,道中で先に動いたElectorocutionistを先に行かせて4番手に控え,2頭の外へ持ち出すと直線ではこれらを交わして完全に先頭に立ったのですが,残り150メートルほどで脚色が鈍り,最内に入ったHurricane Runと,2頭の間に入ったElectorocutionistに差し返され,残念ながら3着となってしまいました。
 結果論ですが,仕掛けるのが少し早かったようです。直線入口辺りでの手応えはハーツクライが最もよかったのですが,これがあてにならないのがヨーロッパの競馬の特徴で,あちらの強い馬は,騎手のアクションに長く反応して最後まで諦めない馬が多いのです。ただ気になったのは,レース終了直後に,勝ったクリストフ・スミヨンと,2着のフランキー・デットーリが握手をしていたこと。レース後に健闘を称え合うのはよくあることですが,今回は負かしたのが日本の馬ということで,邪推したくもなります。ヨーロッパのこのぐらいのレースでは,日本人の騎手が乗った方が日本の馬は勝ちやすいかもしれません。
 なお,イギリスでは動物愛護の観点から馬に多くの鞭を入れることが禁じられていて(個人的にはばかげたルールと思っています),このふたりは処分を受けています。
 もう1点,ハーツクライの敗因として考えられるのは,ここがドバイ以来の休み明けであったという点。順調に使われていた馬とそうでなかった馬の差が,最後の頑張りに出たとも考えることができます。過去のデータというのはあまりあてになりませんが,このレースは休養明けの馬は苦戦する傾向にあったのも事実ではあります。

 十全な原因causa adaequataは第三部定義一で定義されています。
 「ある原因の結果がその原因だけで明瞭判然と知覚されうる場合,私はこの原因を妥当な[十全な]原因と称する。(Causam adaequatam appello eam, cujus effectus potest clare, et distincte per eandem percipi.)これに反して,ある原因の結果がその原因だけでは理解されえない場合,私はその原因を非妥当な[非十全な]原因あるいは部分的原因と呼ぶ」。
 ここで明瞭判然clare, et distincteとといわれているのは,十全にと解釈して構いません。そして僕は,妥当な原因ではなく十全な原因の方を用い,また,十全な原因の対義語としては,部分的原因causa partialisを用いることにします。ある結果の原因というのは必ずしも単独であるとは限らないので,部分的原因というのが生じます。たとえば,AからXが生じる場合,AはXの十全な原因ですが,AとBからXが生じる場合には,AとBはそれぞれXの部分的原因といわれるのです。
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はるかマニア&原因の十全性

2006-07-29 21:13:00 | NOAH
 フリーといいながらNOAHにしか参戦しないレスラーにSUWA選手がいます。で,最近この人がはるかマニアと書かれたTシャツで入場していました。プロレスの世界でハルカマニアといえば,これはハルク・ホーガンのファンを意味するのですが,いまさらSUWA選手がそんなことをアピールするわけはないですし,何より平仮名です。何のことかと訝しく思っていたのですが,今年引退した永源遙さんのマニアという意味でした。高山選手の復帰戦となった武道館大会では,第1試合で永源さんの好敵手だった百田光雄選手と対戦。ここに永源さんのシンボルであったピンクのタイツで登場し,永源さんがセコンドにつきました。試合はマイティ井上レフェリーにもちょっかいを出しながら勝ったのですが,試合後,なおも百田選手を攻撃しようとしたところ,永源さんに足をすくわれてしまい,井上レフェリーと合わせて3人に袋叩きにされてしまいました。
 今晩(正確には明日未明),いよいよハーツクライがキングジョージに出走します。今年は6頭と少頭数。最大の強敵はフランスのHurricane Run。あと,Electrocutionistという馬も強いですが,こちらはやや距離が微妙です。今回は応援なので予想はしません。競馬は日本が世界のトップクラスにある数少ないスポーツのひとつです。

 知性の秩序に従って人間の精神のうちにある十全な観念が生じるとき,対象の不要性とともに,もうひとつ僕が重要だと思うのは,原因の十全性とでもいうべき事柄です。たとえば,直線の運動によって円が生じるとき,直線はそれ自体で運動するわけではないので,そのように直線を運動させるのは純粋な知性作用で,すなわち,この観念を有する人間の精神以外の何ものでもないのです。つまり,ある人間の精神のうちに十全な観念が生じるときには,この十全な観念の原因はその人間の精神のみであって,それ以外の何かではありません。これを神との関係で考えれば,ある人間の精神の本性を構成する限りで,ある観念が神のうちにあると説明することが可能であり,ここからこの観念が十全な観念であることが理解できます。そしてこれを逆に考えれば,もしもある観念が,ある人間の精神だけを原因としてその人間の精神のうちに生じるなら,その生じた観念は必ず十全な観念であるということになるでしょう。
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王位戦&矛盾と実在

2006-07-28 22:18:14 | 将棋
 王位戦の第二局は先手の羽生王位が制して2連勝,この対戦は2年連続ですが,昨年とは逆の展開になりました。居飛車対振飛車の相穴熊というのは序盤が難しく,ましてこの将棋は早い段階で角交換となったので,封じ手の辺りではすでに形勢に差があったと思われますが,僕の力では分かりません。その後,佐藤棋聖の攻めに羽生王位が反撃するという進展で,先手が角銀交換の駒得になった上,先手の金が2枚とも玉の守りについたのに対して,後手の金は1枚が4筋方面の守備のために玉から離れてしまったところでははっきりと先手が優勢となった感じで,そのまま押し切りました。第三局は,8月3日と4日に指されます。なお,第一局に関して,僕の記事だと後手の羽生王位が一方的に攻め勝ったような印象ですが,実際には,封じ手で佐藤棋聖が名人戦から離れた後しばらくは,厳密には先手の佐藤棋聖の方が有利ではあったようで,正確には後手の逆転勝ちです。
 明日から福井記念が始まります。決勝は8月1日です。

 形相的に考えた場合に,本性に矛盾がないものと本性に矛盾があるものの相違は,単に各々が客観的に(観念として)考えられた場合に,前者が真(真の観念)であり,後者が偽(誤った観念)であるにすぎないというわけではありません。むしろこの相違は,十全な観念と混乱した観念の相違と同様に,前者が有であるのに対して,後者は無であるという関係にあります。したがって,知性の秩序に従って概念される十全な観念の対象が形相的に実在するように,形相的に本性に矛盾を含んでいないようなものは,どんなものでも実在するということになります。逆にいえば,形相的に実在するどんなものにも,それに固有の,矛盾を含まない本性があるということになるのです。よってこれとは逆に,もしもあるものの本性に矛盾が含まれている場合には,それは実在しない(実在することができない)ということになります。
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退院&本性の矛盾

2006-07-27 21:55:01 | NOAH
 NOAHのホームページによると,今日,小橋建太選手が無事に退院したようです。まずは一安心といったところでしょうか。で,この間の記事について少し補足しなければならないことがあります。
 まず,小橋選手の腫瘍が悪性(ガン)であるかどうかについて,開腹しなければ分からないとしたのですが,小橋選手の受けた体腔鏡手術というのは,開腹手術とは異なるのですね(王監督の手術と同様のものでしょう)。つまり,その方法で腎臓を全摘した後の病理検査で,正確にガンであると判明したものと思われます(もちろん外見がガンであると思われたから摘出したのでしょうが)。そして,この手術に時間が掛かったのは,小橋選手は通常の人よりも筋肉がかなり多いために,患部に到達するのに時間を要したためのようです。退院までの期間が少し長かったのも同様で,通常の場合よりも手術のために開けた穴が塞がるのにそれだけ時間を必要としたようです。
 見舞った秋山選手によると,手術跡は,ごく小さく,復帰後はタイツで隠れるほどのものだそうです。ただ,あったものがなくなったわけで,そう簡単に復帰というわけにもいかないでしょうし,今回は転移はありませんでしたが,再発するおそれもありますから,慎重にいってほしいものと思います。

 ハーツクライのイギリス遠征の特設ブログが立ち上がりましたのでご紹介しておきます。

 昨日忘れてしまいましたが,今日から王位戦の第二局が始まっています。後手の佐藤棋聖が向飛車で相穴熊になっています。

 形相的に事物の本性に矛盾があるというのは,次のようなふたつの場合です。
 ひとつは角のある円というような場合で,もうひとつは翼のある馬のような場合です。どう異なるかといえば,前者の場合には僕たちは想像する(表象する)ことさえできませんが,後者の場合には想像はできるというだけです。
 この理由は僕たちが角と円を別々に表象(表象は常に混乱した観念です)することはできますが同時に表象することはできないのに対し,馬と翼の場合には別々にも同時にも表象し得るという点にあります。しかし,円の本性の中に角を肯定する要素がないのと同様に,馬の本性の中には翼を肯定する要素はありませんから,どちらの場合も本性に矛盾を抱えているという点では違いがありません。
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ニーチェとスピノザ・対立&矛盾

2006-07-26 22:33:09 | 哲学
 ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの哲学に対するスピノザの影響というのは否定し難いものがあり,それゆえふたりの哲学にはいくつかの近似性がみられるわけですが,ニーチェのスピノザ哲学の評価というのは辛口の部分もかなりあって,決定的に対立していると思われる部分もいくつかあります。
               
 このうち,代表的であると僕が考えるのは次の2点です。
 まず,スピノザは『エチカ』の第五部定理三二系で,神への知的愛Amor Dei intelletualisというのを持ち出しますが,ニーチェはこの愛に対して,運命愛というのを強調します。この乖離は両者の因果論についての考え方に源があり,ニーチェは因果論というのを,スピノザ自身も否定した目的論の変種であるとみなしているのです。
 もう1点は,『エチカ』の第三部定理六でスピノザがconatus(コナトゥス,努力という訳が与えられています)という概念を人間の本性essentiaを示すものとして採用するとき,ニーチェはこれを反動的であるとみなし,力への意志という概念を対立させます。この対立の源泉をどこに求めるかは難しいのですが,僕は,スピノザがたとえばある人間の知性intellectusというものを,十全な観念idea adaequataと混乱した観念idea inadaequataの両者から成立しているものとみなす限りにおいては,意志voluntasが知性を超越することはないと考えているのに対して,ニーチェは,知性を超越し得る何らかの意志が存在すると考えているのではないかと理解しています。

 ある人間が,知性の秩序ordoに従って矛盾なく十全な観念を有する場合には,この観念の対象ideatumが形相的にformaliter実在すると考えていいわけです。
 では,矛盾がないとはどういう事態を意味するのでしょうか。この場合には,十全な観念は同時に真の観念idea veraであるということが理解の助けになるのです。ここから,十全な観念とその対象は本性の秩序が一致するということが導けるので,ある十全な観念を有するということを,その観念自身を形相的に考えた場合(観念の観念idea ideaeという観点からこの観念をみた場合)には,ある事物を十全に認識するということは,第一に,この観念の対象となっている事物の本性を理解するということであることが分かります。
 したがって,ある観念に矛盾があるというのは,形相的に考えれば,ある事物の本性に矛盾があるというのと同じことです。そして,もしもある事物の本性に矛盾が含まれれば,そうしたものは実在し得ないのは明らかですから,ある矛盾を含む観念(混乱した観念)というのは,非実在的な観念であって,無であると考えて構わないのです。
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ベビーフェイスとヒール&第二部定理一一系

2006-07-25 21:56:17 | NOAH
 プロレスにはベビーフェイス(善玉)とヒール(悪玉)という概念があります。団体によってはこの概念を大いに利用する場合もありますが,NOAHの場合にはそれはありません。ただ選手個人のファイトスタイルとか,その奥に垣間見える人間性の部分においては,この概念がまったく無効というわけでもないのです。
               
 高山選手が復帰に向けたインタビューの中で,こういう機会でなければ小橋選手とタッグを組むことはないと発言していたのはこの意味です。小橋選手というのは典型的なベビーフェイスタイプのレスラーであり,その色が高山選手にはそぐわないのです。
 ふたりの出会いは全日本プロレス時代に遡り,そのとき高山選手は同じUWFインターの垣原選手とともに参戦しました。その後,高山選手は全日本の大森選手とノーフィアーを結成したのですが,そのことについて高山選手は,もしも自分が全日本の選手と組むなら秋山選手だと思っていたという主旨のことを言っています。秋山選手の色は高山選手に合うんですね。そして垣原選手はむしろ小橋選手と組んだ方がいいとも言っています。確かに垣原選手というのも,ベビーフェイスの色をもつレスラーでした(すでに引退)。つまり高山選手のこの考えは,随分前からのものだったのです。

 ここで第二部定理一一系を紹介します。
 「この帰結として,人間精神は神の無限な知性の一部である,ということになる」。
 神の無限知性というのは,思惟の属性の絶対的な本性から直接的に生じる思惟の様態のことで,自然のうちに形相的に存在するすべての事物を神の身体と考えた場合の,神の精神に該当すると考えていいでしょう。
 で,人間の精神がこれの一部であるのは当然なのです。なぜなら,無限の知性であるからにはそれ以外の一切の知性,いい換えれば観念の総体によって限定され得ませんが,もしもある人間の精神が無限知性に含まれない,つまりその一部ではないなら,無限の知性はその人間の精神によってまさに限定されますから,無限であることができなくなってしまうからです。
 そこでここから今度は,もしもある人間の精神のうちに知性の秩序によってある十全な観念が生じるなら,この十全な観念は,神がこの人間の精神の本性を構成する限りで十全であるということになりますから,僕たちの精神のうちにあるどんな十全な観念も,神の精神のうちにある十全な観念と完全に同一であるということが帰結されます。したがって,僕たちの精神のうちにある十全な観念がある場合には,この十全な観念の対象が形相的に実在するということが,いい換えれば,人間が矛盾なく概念することができるものであればどんなものでも,その対象が形相的に実在するということが,このことからも導かれるのです。
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レギュラーメンバー&十全な観念の対象

2006-07-24 22:17:32 | 名馬
 今日はレギュラーメンバーという馬を紹介します。
 この馬は3歳時に盛岡のダービーグランプリ,4歳時に川崎記念と記念すべき第1回のJBCクラシックと,GⅠばかりで重賞を3勝した馬です。で,この馬の母がシスターソノという馬なのですが,この馬はロジータの初仔にあたります。つまりレギュラーメンバーはロジータの孫,カネツフルーヴからみると甥にあたるわけです(競走馬の世界では,子どもとか孫とかいう場合を除けば,近親関係は母系でのみ表現します)。
 つまりロジータというのは,単に子どもの世代だけでなく,孫の世代からもこのような活躍馬を出しているわけで,これもこの馬が名牝とされるひとつの所以です。というのは,ここからこの血統がさらに枝葉を広げていく大きなきっかけとなるからです。

 十全な観念とこの観念の対象は同一個体です。
 そしてここで大事なことは,そうであるからには,一方が他方に対して一切の優越性をもたないということです。したがって,平行論の帰結として,どんな形相的な事物にもその客観的な事物(観念)があるということになるのですが,これとちょうど逆に,もしもある事物が客観的に(観念として)十全に(矛盾なく)あることができるのであれば,この観念の対象は形相的にも実在するということになるのです。
 つまり形相的に実在するどんなものにもその観念があるのですが,矛盾なく概念することができるようなどんなものも形相的に実在するのです。
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キリスト教の教え&対象の不要性

2006-07-23 22:11:35 | 哲学
 これもニーチェとの近似性のひとつになりますが,スピノザの哲学では能動的であることが肯定され,受動的(反動的)であることが否定されます。ところで,一般に宗教というものは,信者にその教義を守ることを教えますから,信者の側からすると,ある宗教を信じるということは受動的であるということになります,したがってこの意味では,別にキリスト教に限らず,すべての宗教はスピノザ主義と相容れないということになるでしょう。しかし,スピノザによれば,人間が受動的でないということは実は不可能であり,それどころか,ある人間を受動的にさせるような外部の力というのは,ひとりの人間の力を無限に凌駕するのです(第四部定理三~六)。そしてこのとき,たぶん,同じ受動的であるとしても,よりましな受動状態というべきものがあって,キリスト教の教えを守るという受動状態は,スピノザからしてみれば,受動状態としてはよりよいものであると思えたのだと思います。これが,前に紹介したエピソードの理由であろうと僕は考えています。

 人間の精神のうちに知性の秩序によって十全な観念が生じるとき,僕には重要であると思えることがふたつあります。そのうちのひとつが対象の不要性です。直線はそれ自体で運動するものではありませんから,円の観念に関連付けられる直線の運動というのは,完全に純粋な思惟作用です。したがって,この仕方で人間の精神のうちに円の十全な観念が生じる場合には,別に円が形相的に存在していなければならない理由がありません。それどころか,人間は,形相的に存在している円というものをまったく知らないとしても,この運動する直線という思惟作用のみで,円の十全な観念をもつことが可能なのです。観念は対象がなくても考えることができるというのは,具体的にはこういったことを意味しているのです。
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サマーナイトフェスティバル&知性の秩序

2006-07-22 22:20:14 | 競輪
 今晩のサマーナイトフェスティバル,注目の並びは村本選手が北日本追走,兵藤選手が北日本分断(山崎選手と競り),中部は浜口選手が前で位置を決めずにということになりました。
 先行したのは稲垣選手でしたが,4番手を取った佐藤選手が早めの捲り。バックで完全に捲りきったのですが,番手を取った兵藤選手が離れたために,稲垣選手の後ろを回った市田選手が飛びつき,4コーナーでは佐藤,市田の後ろに内が金田,外に兵藤という態勢。結局,直線で佐藤選手を捕えた市田選手が優勝,佐藤選手が2着に粘り,3着は兵藤選手でした。
 優勝した福井の市田佳寿浩選手は早くから期待されていた選手でしたが,ビッグ(GⅠ・GⅡ)はこれが念願の初優勝となりました。
 それより2着の佐藤友和選手。豊橋記念のときもびっくりだったのですが,ここでも2着に食い込んでくるとは…。まだ新鋭といっていい選手ですが,将来がかなり有望です。

 1本の直線があります。この直線の片方の端は固定されていて,もう一方の端だけが左右どちらかに運動するなら,この直線の運動によって円が形作られます。そこでもしも,これがこのようにことばの上でではなく,また実際に紙の上にでもなく,純粋に知性作用として人間の精神のうちに生じるとすれば,このようにして形成される円の観念こそ,円の十全な観念なのです。
 もちろん直線はそれ自体で運動するものではありませんし,また自然のうちに現実的に形相的なものとして存在するどの円も,このような仕方で形成されるというわけではありません。にも関わらず,これは円の十全な観念であり,もっといえば,人間の精神のうちに円の十全な観念があることができる唯一の仕方なのです。そしてこれが,物体に一般の秩序とは異なる知性の秩序の代表的な一例です。
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スパーキングサマーカップ&写真

2006-07-21 23:07:02 | 地方競馬
 不良馬場で行われたスパーキングサマーカップ,先手を取ったのはカイジンクンでしたが,馬場状態を考慮すると,それほど速いペースでの逃げとはなりませんでした。2番手につけていたトキノフレンチが3コーナー過ぎに先頭に立つと,これをマークするように3番手を進んでいたイシノダンシングも追うように進出,この時点で後続は離れてしまい直線は2頭の叩き合いかと思ったのですが,イシノダンシングが楽に抜け出して快勝,離れた2着にトキノフレンチ,さらに離れた3着には後方から追い上げたコアレスデジタルが入線しました。結局,ある程度の実績をもつ馬より,ここ最近の好調馬や未知の魅力が感じられた馬の上位独占。こういうレースの馬券戦術のセオリーではありますが,競馬って難しいです。
 明日はサマーナイトフェスティバルの決勝です。夜の開催なのでまだ並びの情報がありません。おそらく,佐藤選手と山崎選手の北日本,稲垣選手,市田選手,金田選手の近畿は並ぶでしょう。中部は一丸選手,浜口選手で中団追走,兵藤選手と村本選手がそれぞれ単騎なので,北を追走するか分断にいくかです。ふたりとも追走するなら山崎選手▲でしょうが,ここはあえて市田選手◎と稲垣選手○を狙ってみます。あと兵藤選手△の差し脚。

 スピノザはよく,観念はキャンバスに描かれた絵のようなものではないといういい方をします。現代の我々には,写真の比喩の方がもっと分かりやすいでしょう。観念とは,断じて対象を撮影した写真のようなものではないのです。なぜなら,あるものの写真というのは,撮影されるそのあるもの(写真の対象)がなければあることができませんが,観念はこれに反して,対象などなくてもあることが(考えることが)できるものだからです。確かに僕たちは観念を写真のようなものと考えがちで,だからそれが対象をより明瞭判然と映しているほどその観念が真理に近いと思い込んでいるのですが,それは誤りです。僕が前に,ある観念が真理であることを証明するのは真の観念ではなく十全な観念であるといったのは,こういう理由からです。観念の真理性は観念に独自の秩序,いわば知性の秩序によって判定されなければならないのです。
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現在形&スピノザの観念論

2006-07-20 23:01:33 | NOAH
 16日のNOAHの日本武道館大会で,僕が個人的に最も注目していたのはむしろセミファイナルの力皇・森嶋組と丸藤・KENTA組の試合でした。この4人はそれぞれキャリアが6~8年で,大相撲でそこそこの地位までいったので入門が遅れた力皇選手を除くと20代ということで,NOAHの未来形といういわれ方をするのですが,僕はもう十分に現在形であると思っていますし,仮に未来形であるのだとしても,その未来は近未来だろうと思います。僕が観た(テレビでですが)印象だと,この日は丸藤選手がやや精彩を欠いていたという感じではありましたが,それでもそれぞれが持ち味を十分に発揮して,好内容の試合となりました。結果は,30分で時間切れ引き分けというやや消化不良なものだったのですが,それにも関わらず,試合終了と同時に観客から拍手が起こっていたことがそれを証明していると思います。
 明日は川崎でスパーキングサマーカップがあります。こういうレースははっきりいって難しい。一応インターセフォー◎を中心に推しますが,マズルブラスト○や上がり馬のトキノフレンチ▲も差がなさそうだし,イシノダンシング△とコアレスデジタル△にも魅力を感じます。さらに距離が短そうですがチョウサンタイガー△だって侮れず,とても絞りきれません。
 それから今年で2回目となるGⅡのサマーナイトフェスティバルが,今年は函館で明日からの開催です。これは2日制で,初日は全9レースが予選で,1着の選手のみが翌日の決勝に進出するという厳しいシステムです。

 スピノザの基本的な立場は唯物論的です。しかし,スピノザの観念論を純粋に唯物論的な観点から解釈すると,それはそれで大きな誤りを引き起こすと思います。スピノザはよく観念は思惟の様態であるということを強調しますが,それは,観念が思惟の様態であるからには,それはたとえば物体が延長の様態として有するのと同じだけの実在性を有しているという意味なのです。つまり,スピノザの立場が唯物論的であるのは,ある精神が認識し得るものが,その精神を構成している観念の対象の属性と共通な属性に限られるとされるからであって,別に物体が有で観念は無であるというわけではありません。ある物体の観念は,その物体が有であるといわれるのと同様の意味において有であり,つまり同じだけの実在性を有すると理解しなければなりません。
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高山復帰戦&スピノザの立場

2006-07-19 21:42:07 | NOAH
 16日のNOAHの日本武道館大会で,高山選手が復帰しました。プロレスラーというのはそれが商売であるとはいえ,対戦相手を殴ったり蹴ったりしなければならないわけです。普通に考えれば,いかに試合の中とはいえ,他人の顔面を思い切り殴ったり蹴ったりするのは,意外と難しいことなのではないかと思います。全日本プロレス出身のレスラーは,比較的それをわりきってこなしているように思うのですが,今回は相手が脳梗塞からの復帰ということで,三沢選手も秋山選手もいつもよりやりにくかったとは思うのですが,観客の方が静まり返ってしまうくらいの攻撃をみせてくれました。最後もエメラルドフロウジョンからリストクラッチ式のエクスプロイダーという連続攻撃で高山選手を沈めて,プロレスラーとして最高の祝福をしたのではないかと思います。しかしそれより驚いたのは放送の解説が北斗晶だったこと。まあNOAH中継では鬼嫁キャラは封印気味ではありましたが,解説とは日本テレビも思い切ったことをします。この日は小橋選手の代役の佐々木選手のほかに,健介ファミリーの中嶋選手も参戦していて,何かの布石なのかと思ったら,佐々木選手は実は左の眼を骨折していたということで,しばらく休養に入るようです。このケガは,確か以前に三沢選手も見舞われたもので,問題なく復帰できるものと思います。

 平行論に依拠したスピノザの観念論は,確かにそれ自体で展開はします。ただし,第一部公理五から第二部公理五を導いたときの結論である,人間の身体は物体であるから,人間の精神は観念あるいは自分の精神を別にすれば物体だけを認識するというのは,逆にいえば,人間が自分の精神以外に認識するのが物体だけであるのは,その人間の精神を構成している観念の対象である人間の身体が物体だからであるということになります。そしてこのことは,人間だけに妥当であるだけでなく,すべてのものに妥当なので,ある精神が認識し得るものというのは,この精神を構成する観念の対象に依拠するということになりますから,スピノザの観念論がいかにそれ自体で展開するといっても,スピノザ哲学の中には純粋な観念論というものはなく,立場としては唯物論に近いということになるのだろうと思います。
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ハーツクライ&唯物論と観念論

2006-07-18 21:24:42 | 海外競馬
 ダンスインザムードとアサヒライジングがキャッシュコールマイルとアメリカンオークスに遠征したのは今月の初めでしたが,今度はハーツクライがイギリスに向けて旅立ち,すでに現地で調整を開始しています。出走するのは現地時間29日のキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス(長い名前なので今後はキングジョージと略します)というGⅠ。その名前からも類推できるように,イギリスではかなりの伝統と格式をもっていて,ヨーロッパの競馬関係者の感覚では,日本の馬が勝つことなどあってはならないようなレースかもしれません。ハーツクライは昨年の有馬記念でディープインパクトに勝った後,今年はドバイシーマクラシックを勝ち,ここはそれ以来のレースで,GⅠ3連勝,また海外GⅠ2連勝を目指します。芝の中・長距離はヨーロッパの馬が強く,ここも強敵が何頭か出走しますが,十分に実力を発揮できれば勝ててもおかしくないでしょう。なお,ハーツクライの状況に関しては,JRAのホームページのJRAからのお知らせというコンテンツでほぼ毎日,何らかの情報がアップされます。また今回はラジオNIKKEIの実況が中野アナウンサーということなので,特設のブログが立ち上がるかもしれません。もしそうなったらまたお知らせします。

 ここで少し哲学の伝統的な話をします。哲学の世界では唯物論と観念論というのがよく対立する立場で登場します。スピノザ哲学は平行論なので,唯物論も観念論もどちらも独自に展開します。つまり原因と結果の連結と秩序は同一なのですが,観念論は観念の対象がなくてもそれ自体で展開しますし,逆に唯物論は唯物論で観念の助けを借りなくてもそれ単独で展開していくのです。ただ,僕の知る限りでは,純粋にそれ単独で展開していくような観念論にあっては,平行論に依拠したスピノザの観念論ほどうまくできている観念論もないように思えます。
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マーキュリーカップ&第二部公理五の内容

2006-07-17 19:41:00 | 地方競馬
 マーキュリーカップは,好位の内につけていたクーリンガーが,直線でも内から抜け出して快勝しました。勝ち馬より少し前の外にいたグラッブユアハートが2着,勝ち馬の後ろから外を追い上げたレマーズガールが3着。
 順番は違いましたが予想の上位3頭による決着で,意外に人気がなかったクーリンガーが勝ったので,思いのほか配当もつきました。クーリンガーはこれで重賞は6勝目ですが,そのいずれもがGⅢ。要するにある程度のメンバーになると強いけど,それ以上だと敵わないというタイプの典型的な馬です。ただ,実力よりは人気にならないタイプの馬でもあり,馬券的にはむしろありがたい馬といえると思います。

 第二部公理五は,そのまま公理として成立するかは僕も疑問に思いますが,言明されている内容自体は正しいです。いい換えれば,公理としては成立しなくても,定理として証明することは可能です。そしてその場合の鍵となるのが,ここでテーマにしている第一部公理五なのです。すなわち,もしも互いに共通点がないものが互いに互いを認識し合うことができないのだとすれば,逆にあるものが認識することができるものは,思惟の様態を別にすれば,そのあるものと共通点を有するものだけであるということになります。
 ところで,人間の身体は延長の個物(物体)ですから,人間が認識することができるものは,思惟の様態を別にすれば,物体だけであるという第二部公理五が,ここから帰結されるのです。したがって,人間の精神を構成する観念は,物体の観念か,そうでなければ観念の(厳密にいえば観念だけでなく,何らかの思惟の様態の)観念であるということを,一般的にいうことは,別に間違ったことではないということになります。
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