スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

天皇賞&納骨

2010-10-31 19:01:36 | 中央競馬
 台風の影響で昨日の東京競馬は明日に順延となりましたが,今日の第142回天皇賞は予定通りに開催されました。
 ペルーサが1馬身ほど出遅れ。好発はオウケンサクラも外からシルポートが制し,3馬身ほどの差をつけての逃げ。アーネストリーは4,5番手,ブエナビスタは中団,それをマークするようにシンゲン,後方2番手にペルーサといった位置取り。前半の1000mは59秒1。典型的なミドルペース。
 ブエナビスタはほとんど外に出すことなく馬群の中を追走。直線に入ってもどこが開くかを待っているような絶好の手応え。アーネストリーが少し外に出した隙を突いてそこに進路を取り,追い出されると抜け出し,最後は騎手が後ろを振り向くほどの楽勝。進路の取り方に苦労したように見えましたが,坂上から一気に伸びたペルーサが2着で3着はアーネストリー。ごく順当な結果といえるでしょう。
 優勝したブエナビスタは5月のヴィクトリアマイル以来の大レース5勝目。おそらく日本の現役最強馬で,勝利自体は順当といえるもの。これまで牡馬相手の大レースは勝てていませんでしたが,ここで勝利したことにより,戦績に一層の箔がついたといえるでしょう。父はスペシャルウィークで母はビワハイジ。祖母はアグサン。buena vistaはスペイン語で絶景。
 鞍上はベルギー産まれ,フランスを主戦場としているクリストフ・スミヨン騎手。日本での大レース,また日本馬に騎乗しての大レースは初勝利。管理している松田博資調教師はヴィクトリアマイル以来の大レース制覇で天皇賞は初勝利。

 9月中の出来事でこれ以外に書いておくべきことがあるとしたら,祖母,母の母を老人ホームに入れることにしたということでしょうか。のことがあって母は肉体的にも精神的にも大変でしたし,それ以前と同様の十分な介護ができなくなっていました。伯母はアメリカに住んでいてそうたびたび来日するというわけにはいきませんし,すぐ近くのアパートに住んでいる叔父も仕事がありますからいつでも面倒をみることができるというわけではありません。それならばホームに入れた方が,こちらも安心だし祖母にもよいのではないかということになりました。もっとも,こうした話し合いには僕は参加したわけではなく,母と伯母と叔父,要するに祖母の子どもたち3人で決めたことです。母はいろいろと探したようですが,家から車で10分ほどのところに入れる場所があったので,そこに決まりました。そのための手続きがあり,これは9月16日に,母と僕でその老人ホームに行っています。なお,これはあくまでもまだ事前の手続きということであり,実際に祖母が入所することになるのはもう少し後,10月11日の予定でした。
 9月20日。この日が父の49日法要。法事を済ませた後に納骨しました。すでに説明しているように,父は末子相続という形で家を継いでいますから,父自身の両親,すなわち僕の祖父と祖母が入っている墓に納めることができました。なお,墓は名義が本人ですと入れないのですが,名義上は父の長兄になっていましたので,そのあたりの手続きは不要でした。ただ,この長兄,僕からみれば伯父になりますが,形としては分家独立していますので,すでに別の墓を確保しています。よって父が入った墓の名義に関しては,この伯父から僕へと変更する予定になっています。
 ところで,9月20日というのは彼岸の最中です。墓地の関係者はこの時期の納骨にはやや難色を示していました。彼岸中の納骨は異例なのだそうです。ただこの日に納骨できないと100か日まで遺骨を管理しておかなければならず,それはそれで大変なので,僕たちの希望としてこの日に執り行いました。今年は残暑が厳しかったですが,この日は曇りがちでそう暑くならず,その点ではよい日取りだったと思います。そして,この日のうちにすませておいてよかったと,後に別の理由から思うようになりました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

漱石のドストエフスキー評&歯科検診

2010-10-30 00:53:11 | 歌・小説
 『明暗』がドストエフスキーから多大なる影響を受けているということについては,僕はやはり否定し難いと思います。しかし,あるものから影響を受けるということと,そのものを高く評価するということは異なるということも事実でしょう。したがって,夏目漱石がドストエフスキーから大きな影響を受けて『明暗』を執筆したのだとしても,直ちに夏目漱石がドストエフスキーの小説に高評価を与えたとはいいきれないわけです。はたして漱石はドストエフスキーをどのように評価していたのか。僕は現在はこのふたりの作家以外には小説というものを読まないということもあり,これはとても気になるところです。そこで今度は,その点について少し考えてみたいと思うのです。ただしここでは,漱石によるドストエフスキーに対する直接的な言及ではなく,あくまでも『明暗』を手掛かりにすることにします。
                        
 『明暗』において社会主義者呼ばわりされる小林の口からドストエフスキーの名前が出てくるのは,わりに早いうちです。『明暗』は百八十八まで書かれて未完となりましたが,この場面は三十五です。小林はまず次のように言っています。
 「露西亜の小説,ことにドストエヴスキの小説を読んだものは必ず知っている筈だ。如何に人間が下賤であろうとも,又如何に無教育であろうとも,時としてその人の口から,涙がこぼれる程有難い,そうして少しも取り繕わない,至純至誠の感情が,泉のように流れ出して来る事を誰でも知っている筈だ。君はあれを虚偽と思うか」。
 これは新潮文庫版の文章です。ことばを発しているのは小林。文中で君と呼びかけられているのは主人公の津田です。
 小林はここでは津田がドストエフスキーの小説を知っているという前提に立って話しているといえますが,作中では津田はドストエフスキーを読んでいないという設定になっています。したがってこの問いに対する返事も「僕はドストエヴスキを読んだ事がないから知らないよ」という実に素っ気ないもの。しかし,この一方の熱さと他方の素っ気なさの中に,漱石のドストエフスキーに対する評価というものが見え隠れしているように僕には感じられるのです。

 僕の日々の生活自体は徐々に以前のように戻っていきましたが,の死に伴ってこなさなければならない手続きというのはかなり多くありました。その大部分は母がやりましたが,いくつかは僕も手伝いましたので,そういう意味ではむしろ以前よりも忙しくなったといえるかもしれません。月が変わって,9月となり,3日にI歯科に出掛けました。来るように言われていた定期検診です。
 この日も飛び込みでしたが,問題なく受けられました。以前にここには3人の人がいたといいましたが,ひとりは歯科医,ひとりは歯科助手,そしてもうひとりが歯科衛生士だったようです。通っている間ずっとこの歯科衛生士が治療を行っているシーンを僕は目撃したことがありませんでしたので,僕は単なる事務員と勘違いしていたわけです。
 最初にI先生が僕の歯を診察。とくに問題はないということでしたし,僕自身もどこかに痛みを抱えていたというわけではありませんでしたから,あとは歯石を取るというおなじみの作業だけで終了しました。そしてこのとき,歯科衛生士がこの作業を始めたのです。というか,僕は歯の治療中はずっと目を閉じていますから,確かに歯科衛生士が始めたということはできませんが,少なくとも僕が目を閉じるとき,僕の傍らにいたのは歯科衛生士だけでしたから,僕は歯科衛生士が治療を行っているものとずっと思い込んでいました。ところが,治療の終了を告げられて僕が目を開けたとき,そこには歯科助手の方がいましたのでちょっと驚きました。この日,I歯科に着いたのが11時頃。家に戻ったのは12時頃で,飛び込みでしたから少しの待ち時間もあり,実際に僕が治療のための椅子に座っていた時間は30分あるかないかくらいだったと思います。その間に治療の担当者が変わっていたのか,あるいは最初から歯科助手の方が治療していたのかは分かりませんが,担当が変わったような気配は感じませんでしたから驚きがあったというわけです。助手の方は以前に通っていたときにも治療を受けたことがあります。
 次の定期検診も3ヶ月ほど経過したらとのこと。したがって12月中にはまた行くことになろうかと思います。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ローレル賞&エピソード

2010-10-28 13:23:08 | 地方競馬
 木枯らし1号も吹き,夜の競馬もだいぶ厳しくなってきた印象ですが,昨晩の川崎競馬場では第10回ローレル賞がありました。
                         
 最内のエリーフラッシュの先導。カイルア,ソニア,デリス,ピーチマキアートと続き,マルヒロブライティはその後ろ。オリークックは前半は控える形に。前半の800mが49秒7。出走馬のレベルからすれば超ハイペースでしょう。
 エリーフラッシュは向正面,カイルアも3コーナー過ぎで一杯。自然とソニアが先頭に立ち,その外にマルヒロブライティが並び掛ける形で直線。競り合う2頭の外から向正面に入って漸進してきたオリークックがあっさりと捕え,2馬身の差をつけまずは快勝。内のソニアを競り落としたマルヒロブライティが2着を確保し3着にはソニア。
 優勝したオリークックはこれが5戦目。鎌倉記念では牡馬を相手にかなりいい内容の4着。ここは牝馬限定でしたので順当な勝利といういい方が可能かと思います。ただ,レースのレベルはかなり凡庸な感が否めず,今後も活躍していくためには自身の成長も必要となるのではないでしょうか。ドーナツの原型はオランダうまれで,オランダ人はそれをオリークックといっていたそうです。
 騎乗した大井の坂井英光騎手は先月のトゥインクルレディー賞以来の南関東重賞制覇。管理している大井の荒山勝徳調教師とともにローレル賞初勝利となりました。

 最後に,次のことを書き記しておきます。
 北部斎場での遺体を焼いている間,治療が不可能になった父が退院した後は,自宅にもみなと赤十字病院にも毎日見舞いに来てくれたT先生と長い時間にわたって話す機会がありました。実はT先生の奥さんも,現在は回復されていますがかつて乳癌に見舞われたことがあったのです。そしてその際には抗癌剤治療も行ったとのこと。その副作用にはひどいものがあったそうです。
 当初の父のスケジュールの中には抗癌剤治療がありました。ただ,父の場合はこの治療は,癌の治癒を目的としたものではなく,生きる時間を少しでも長くするという目的で行われる筈だったものでした。奥さんの副作用を目の当たりにしていたT先生の話では,もしもそういう目的での抗癌剤を用いる治療であるなら,それを行って少しの間だけでも生きながらえるか,それともそれができずに早く死んでしまうか,どちらがよいかということは一概にはいえないかもしれないとのことでした。もちろん抗癌剤を使用することによる副作用の症状というのには,個人差というものもあるでしょう。ただ,少なくともT先生の奥さんに関しては,その副作用というものが,T先生にそう思わせるほどひどかったのです。
 よく知られるように,抗癌剤を用いますと髪の毛が抜けます。T先生の奥さんはそのことをひどく気に掛け,鬘を買いに行きたいと言ったそうです。T先生はそんなことはどうでもいいのではないかと思ったそうなのですが,買いに連れていきました。しかしその車中で,やはりこれも副作用のひとつなのでしょう,嘔吐してしまったそうです。T先生はなぜそんな思いをしてまで鬘を買わなければならなかったのかが分からないと言っていました。
 僕は後にこのエピソードを別の形で思い出すことになりました。それについてはまた後で,詳しくお話しすることにします。父の大腸癌に関する記述はとりあえずここまでとして,本来の糖尿病共生記という枠組みに戻し,また時系列でこの後のことを書いて行くことにしましょう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竜王戦&レッツゴー

2010-10-27 19:03:50 | 将棋
 渡辺明竜王の先勝で開幕した第23期竜王戦七番勝負の第二局。
 羽生善治名人の先手で相矢倉▲3七銀△6四角から先手が最も攻撃的な手順に出る定跡に。
                         
 普通は△1五同歩でしょうが△3七銀。▲3九飛と引いたところで△1五歩と手を戻しました。対して▲6四歩△同角として▲1五香。この組み合わせ手順は新構想だったようです。△同香は当然でしょうが▲6五銀と角取りに打ったのに対し△2六銀成としたところで封じ手。
 相矢倉の戦いというのは攻め続けられるならば多少の駒損は相殺できるケースが多いので,ここは優劣は分かりませんが,勝ちやすいか勝ちにくいかでいえば,後手は相当に勝ちにくいような印象を受けました。
 後手の指し方は入玉含みと思っていたのですが,2日目に入って9筋で戦いを起こし,攻め合いに出ました。やはり一方的に攻められては駒得が生きないという判断だったのではないかと思います。
                         
 ここで先手の▲8四同馬は驚きの一手。入手した桂馬を4六に打って攻めましたが,ここは後手玉の上部が手厚くなっているので先手もかなり駒を渡さなければいけない形。とくに飛車を切らなければならなくなったのが痛かったように思います。
                         
 ここで△5九飛と打ち込みましたがこれだけで先手玉はずいぶんと危険な形。この局面自体,まだ難解であるように思いますが,すでに後手の勝ち筋に入りつつあるのではないでしょうか。この後,先手も厳しく詰め寄っていきましたが,わずかに届かず,後手の勝ちとなっています。
 渡辺竜王が連勝。竜王戦では驚異的な強さをみせていますので,防衛に大きく近づいたといっていいのではないでしょうか。第三局は来月10日と11日です。

 話は祖母,の母が死んだときのことに遡ります。祖母が死んだのは1992年10月末。この週のうちに通夜と葬儀を終えると,週末の中央競馬は秋の天皇賞でした。
 僕は当時は大学4年。祖母が死んだという事情を知らなかった友人から電話があり,その天皇賞の馬券を買いに行こうという誘いがありました。当時,この友人からはよくこうした誘いがあり,その場合はこの友人が車を出し,馬券を買った後でカラオケなどに行って遊ぶというのが恒例でした。ただ,父とは違って祖母は競馬はやりませんでしたから,喪に服すというのでもありませんが,何となくそんな気になれず,このときの誘いは断りました。するとその友人は,参考にしたいからと言って,どの馬がいいと思うかと尋ねてきたのです。
 このときの天皇賞は,トウカイテイオーが人気になることが確実でした。ただ,休み明けということもあり,僕は危うい気がしていましたので,別の馬の名前を2頭あげたのです。それがレッツゴーターキンという馬とムービースターという馬でした。ご存知の方もいらっしゃるでしょうが,このときの天皇賞はまさにこのときに僕があげた2頭が外を追い込んで決着したのです。レッツゴーターキンという馬は,大レースはこの天皇賞を勝っただけ,種牡馬としても大した成績は修められず,名馬には違いありませんが,超一流馬というのとは違います。ただ,このことがありましたので,僕の記憶には強く印象付けられている馬だったのです。
 そこでこの週の関屋記念の出馬表を見ていますと,レッツゴーキリシマという馬がいました。レッツゴーキリシマとレッツゴーターキンは,ただレッツゴーで始まるというだけで,ほかには何の関係もありません。それでもやはり気になりました。しかもこの馬,このときは北村宏司騎手が乗ることになっていましたが,実は僕の父の名前というのは,字こそまったく違いましたが,北村騎手と同じだったのです。
 これもご存じの方がいらっしゃるでしょう。この関屋記念はレッツゴーキリシマが逃げ切って優勝しました。そう多くないレッツゴーで始まる馬名の馬の活躍は,僕にとっては特別な記憶として残っていくでしょう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千葉記念&骨壷

2010-10-26 19:01:01 | 競輪
 2週連続して500バンクでの記念競輪。今日は千葉記念の決勝(動画)でした。並びは鈴木-岡部の福島,牛山-神山-後閑の関東,岩本-海老根の千葉,永井-村上の中部近畿。
 村上が出ていきましたが外から上昇した鈴木を入れて福島が前受け。中部近畿,千葉,関東という周回。牛山が動く気配をみせなかったので残り2周のホーム過ぎに先に岩本から上昇。バックで鈴木を叩くと,千葉ラインに続いた牛山が打鐘から発進して先行。千葉,福島,中部近畿で一列棒状に。バック前から岩本が捲って出るとバックでは捲りきって先頭。やや離れた海老根が神山の牽制をかいくぐると3コーナーからさらに発進。鈴木がこれに乗る形となり,直線で差し切って優勝。マークの岡部も続いて福島のワンツー。3着には神山。
 優勝した福島の鈴木謙太郎選手は6月の別府記念以来となる記念競輪2勝目。メンバーは今回の方がはるかに強力で,ここでの優勝はさらに自信になるでしょうし,また,初優勝がフロックではなかったということの確かな証明。結果的にいうと前受けできたのが展開的に有利になった大きな要因となりました。そういう意味でいうと村上は鈴木を入れさせなかった方がよかったかもしれません。

 通夜,葬儀と合わせておよそ300人ほどの方に参列していただき,滞りなく終えることができました。もしもひとつ,失敗だったといえることがあったとすれば,それは骨壷のことです。通夜と葬儀の施主は母でした。こういう場合,一般的には,火葬場に向うときには施主が位牌を持ち,火葬場からの帰りには遺骨を持つということになります。ところが,選んだ骨壷があまりに重すぎまして,母には持つことができません。ということで,母には遺影の方を持ってもらい,僕が遺骨を持つことになりました。それから僕は思うのですが,骨壷というのは重さとは関係なしに,もう少し大きくてもいいのではないでしょうか。遺体を荼毘に付した後は,火葬場の係の人が遺骨を骨壷に入れていきますが,その際に,そのままでは入りきらないので骨壷に入れた遺骨というのを潰します。の場合もそうでしたし,僕もこの年齢ですから,こうした場面に立ち会ったのは今回が初めてではありませんが,以前にも何度かそうした作業を目撃していました。あるいはそうした経験があるという方もあるのではないでしょうか。あれは遺族としてはあまり気分のいいものではないと思います。
 遡りますが父の最期を看取ったのが8月4日の水曜日。この日は王位戦の第三局が指された日。さすがに盤に並べて詳しく検討するような気力はありませんでした。この日のエントリーは今になって読むとどことなくさらっとした感じがしますが,実はこうした影響があったわけです。通夜は6日の金曜日で,この日もブログを投稿していますが,これは事前から用意されていたもの。そして7日の土曜日に葬式を行ったわけです。
 翌8日が日曜日でした。父の趣味のうち,最後までやっていたのが競馬だったということもあり,僕はこの日は馬券を買いに行きたいと思っていました。常識からすれば不謹慎なことだと思う方もいらっしゃるでしょうが,僕はむしろその方が父に対する追悼になるような気がしたのです。僕は現在は競馬新聞は買わず,JRA発表の出馬表を馬券の検討材料にしています。そこで7日の晩もそれを見ていたのですが,その日のメーンレースである関屋記念に,気になる名前の馬が1頭出ていました。しかしなぜその馬が気になったのかを説明するためには,時計の針をもっとずっと前に戻さなければなりません。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菊花賞&帰宅

2010-10-24 19:07:00 | 中央競馬
 アクシデントとはいえ,今年もダービー馬が不在となってしまった菊花賞
 これまでのすべてのレースで逃げていたコスモラピュタがここも逃げました。カミダノミ,ビッグウィーク,ビートブラックといったあたりが追走。ローズキングダム,トウカイメロディ,ヒルノダムールの人気どころは中団から。最初の1000mは61秒0。今日の馬場状態も考慮すればミドルペースかもしれません。ただ,コスモラピュタは途中からはかなりラップを落としているにもかかわらず,大逃げのような形になりましたから,集団は極端なスローペースだったと思います。
 カミダノミは早い段階で脱落。直線に入ったところでもコスモラピュタはかなりのリードを奪っていましたが,早めに動いたビッグウィークが徐々に差を詰めていき,最後は抜け出して優勝。外からかなりの末脚を発揮したローズキングダムが2着で,3着には先行したビートブラック。
 優勝したビッグウィークは前々走で1000万を勝ち,神戸新聞杯では離されたものの3着に入って出走権を確保。瞬発力では2着馬と差がありますが,今日は早めに行ってその部分をカバーしました。したがって好騎乗が第一の勝因と考えられます。純粋な能力はローズキングダムの方がまだ上かもしれません。祖母はデイリー杯を勝ったタニノブーケで,伯父に新潟記念を勝ったタニノボレロと神戸新聞杯を勝ったタニノクリエイトの兄弟。
 好騎乗が光った川田将雅騎手は昨年のJBCスプリント以来の大レース制覇。管理している長浜博之調教師は一昨年のエリザベス女王杯以来の大レース制覇。菊花賞は揃って初勝利。
                         

 通夜と葬儀の日程が決まりました。もちろんの遺体は一旦は自宅に運ぶのですが,受け入れるための準備を家でしておく必要がありましたので,母はそこで家に戻りました。遺体は当然ですが霊柩車で運びます。葬儀屋はふたりいまして,同乗できるのは遺体というか柩の横にひとりだけということでしたので,僕が一緒に帰りました。家に着いたのは1時前だったと思います。なお,遺体はやはり暑い盛りということもあり,腐乱する恐れがあるということでしたので,この日の夜のうちには式場の安置所の方へ移しました。
 昼から夕方にかけて,親戚や友人,また近所の方なども次々とやってきまして,おかしな表現ですが家の中は賑やかでした。しかしそうした方たちも続々と帰り,また父の遺体も安置所の方に移されると静かになります。それから夕食となったわけですが,さすがに寂しい食卓でした。父が入院しているときは僕と母と妹の3人で夕食を摂るということは普通のことでしたし,このとき,祖母はまたショートステイに出ていましたが,アパートに住んでいる叔父も一緒で4人だったのですが,やはり寂しさというのは隠せないものがありました。よく,食事も喉を通らないという表現がなされます。僕はこれは慣用句のようなものだと思っていたのですが,人間には実際にそういうことがあるということがよく分かりました。実はこの日の昼食も家に帰ってから摂ったわけですが,そのときはそうでもなかったのです。たぶんそれは,大勢の人がいる中だったからなのでしょう。食餌療法は糖尿病治療のひとつであり,とくにインスリン注射をしている場合には,過食は禁物ですが減食もよくありません。この日の夕食は僕にとって,無理に流し込むという感じでした。ただし,実際にはこうした経験をしたのは2度目。みなと赤十字病院のО先生に呼ばれ,父の総ビリルビンの値が悪いので,治療が不可能になったことを告げられた日の夕食も,同様だったのです。もっともそのときは,僕自身の口からこのことを父に告知しなければならないということになりましたので,父がいなくなってしまうことに伴う寂しさというのもあったでしょうが,ある種の緊張感も交じっていたのかもしれません。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エーデルワイス賞&日程

2010-10-23 11:37:11 | 地方競馬
 毎年のことながら北海道勢とJRA勢の力の比較に悩まされるエーデルワイス賞(動画)。今年は一昨日の開催でした。
 JRAのウッドシップの逃げ。トサミズキ,リアライズノユメ,マツリバヤシと続き,マニエリスムは中団,クラーベセクレタは後方。前半の600mは35秒2。これはミドルに近いくらいのハイペース。
 直線に入ると前の2頭が脱落し,リアライズノユメが先頭に。そのまま楽々と後ろとの差を広げていき,3馬身の差をつけレコードタイムで圧勝。直後にいたマツリバヤシが2着で,さらに5馬身離された3着にはやはりその後ろにいたフロレアル。
 優勝したリアライズノユメは5走目の前走で未勝利勝ち。ずっと芝を使っていましたが,血統からは確かにダートの方が向きそうです。レコードが出るような馬場で,軽快なスピードを生かしたという感じの勝利ですので,距離が延びていくことに関してはやや不安もあるかもしれません。
 騎乗したのは福永祐一騎手で管理しているのは森秀行調教師。エーデルワイス賞は両者とも初勝利です。

 人が死ねば,まず遺族としてやらなければならないことは,通夜であり,葬式であるということになります。実は父の母,祖母は本門仏立宗という,日蓮宗の一宗派の熱心な信者で,生前は少なくとも月に1度はお寺に通っていました。祖母の死後,これは長女,つまり父の長姉が継ぐ形になり,この伯母の死後は,この日も父の最期を看取った五女,父の最も下の姉が継いでいました。こうした事情から,このお寺との関係というのは現在でも続いていますので,この方面での心配というのは皆無でした。一方,葬儀には段取りというものも必要で,そのために葬儀屋の手を借りるということになりますが,このお寺の信者の中には葬儀屋がいまして,伯母がこの人に連絡を取ってくれました。この人はKさんという人で,連絡を受けるとすぐに霊柩車で病院の方へ駆けつけてくれました。
 問題となったのは通夜と葬儀の日取りです。夏の暑い盛りだったこともあり,僕たちはあまり葬儀との間隔を開けたくはありませんでした。ただ,葬式の後には遺体を荼毘にふすということが必要で,それは火葬場で行うということになります。つまり火葬場の予定が詰まっていれば,それだけ待たなければならないわけです。Kさんの調査では,8月7日の午後1時ごろであれば,空きはあるとのこと。実はこの日は友引でして,暦からいえばあまり葬式を行うには相応しい日ではなかったのですが,これを逃すとかなり待たなければならないとのことだったので,僕たちはその日でOKを出しました。通夜は葬式の前夜ですから,6日が通夜,7日が葬式ということになったわけです。
 横浜市にはいくつか火葬場がありまして,僕たちの家から最も近いのが久保山斎場。ただし,久保山斎場というのは友引の日はお休みということ。空きがあったのは北部斎場という,東名高速の横浜インターに近いところ。一方,通夜と葬式を行う式場は久保山斎場のごく近くということで,ややアンバランスなことになりましたが,これは仕方ありません。時間についてはお寺の方にも都合がありますので,そちらとも相談の上で決定しました。ここまで,まだ病院にいる間に決めることができたので,そんなに苦労はしなかったといえると思います。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新人王戦&父の最期

2010-10-22 18:16:55 | 将棋
 プロの矜持とアマの執念が真向から対峙した第41回新人王戦決勝三番勝負第三局。
 振駒で阿部健治郎四段の先手に。加來博洋アマの作戦は角交換の後,△4四角▲8八角と打ち合っておいての阪田流向飛車。中央志向で玉を薄く構えたのに対し,先手が穴熊に潜ろうとしたところで後手から開戦。
                         
 この仕掛けが成立していたのかどうかは分かりません。ただ実戦の進行は,先手が▲9九玉と入る暇がなく,したがって▲9八香は無駄な一手になりましたので,仕掛けた価値は少なくともあったと判断していいのではないかと思います。もっとも,そうなったのは先手がそういった受け方をしたからだともいえるわけで,攻めたのは後手でも,将棋の主導権は先手が握っていたと考えることはできるかと思います。実戦は,先手が後手の飛車を捕獲するという展開になりました。
                         
 後手としてももう足は止められません。△5五歩と突き▲4六歩△5六歩▲同歩。そこで△5八歩と打ち,▲同飛に△6七銀(第3図)と食いついていきました。
                         
 実戦の進行から分かるように後手の攻め駒は常に3枚。これは細いので先手は受けきりを狙うのかと思いましたが,最後はさすがにプロという寄せを繰り出しました。
                         
 ここで▲7三銀と捨てました。駒を渡すので怖い手。△同玉▲7一飛に後手は駒を使わずに△8二玉。以下▲8一金△9三玉▲8二角△9四玉に▲9六歩が端玉には端歩の決め手。鮮やかに決めた先手の勝ちとなっています。
 阿部健治郎四段が優勝。間違いなく将来が有望な棋士で,これは阿部四段の実績の始まりにすぎないのではないかと思います。

 そのうちに,どうもの呼吸が完全に止まっているように感じられました。この日,父の呼吸がそれまでよりも荒く感じられたといいましたが,呼吸と次の呼吸との間隔も,通常の人間よりも長く感じられていました。それで呼吸自体もそれだけ大きく,音を立てていたのですが,その音が立たなくなってしまったのです。母もそれに気付いたようで,僕に尋ねましたので,僕もどうやら止まっているようだと答えました。僕はベッドの右側にいましたが,ナースコールのスイッチは左側にあり,そちら側にいた母がそれを押して看護師を呼びました。すぐに看護師がやってきて,父の状態を確認。やはり呼吸をしていないようだということになり,S先生に連絡。ほどなくS先生がやってきて,父の脈と瞳孔を確認。父の死を僕たちに告げました。8月4日,午前10時25分のことでした。看取ったのは僕と母,一番下の姉と長兄の奥さんの4人でした。僕は今でもこの頃の父に,はっきりとした時間感覚というものがあったというようには考えてはいませんが,はからずも8月4日というのは,父が自分自身の死の予告というものをした当日のことでした。
 10時25分というのは,あくまでもS先生が確認した時刻のことです。実際に父の生と死の境目というものがあったとすれば,それはもう少し早い時間のことだったでしょう。ただ,見守っていた僕たち4人のうちだれひとりとして,それがいつであったのかは分かりませんでした。つまり父は眠りから死へと,いわばごく自然のうちに移行していったように感じられます。すなわち,少なくとも傍目からすれば,一切の苦しみというものを感じずに生の終焉を迎えるということになったわけで,死に方ということからすれば,大変に幸せな,それ以上は望むべくもないものであったかもしれません。
 この後,父は死化粧をするために別の部屋へ運ぶということになったのですが,まだ運ばれていく前に,次兄夫婦が到着しました。ふたりは本当にタッチの差で父の臨終に間に合わなかったということになります。長兄も戻り,また,こちらに入院してからも連日にわたって見舞いに来てくれていたTさんも来ました。そして僕たちは,現実的に父の死というものを迎え,今後の予定というのをはっきりと決めなければならなくなったわけです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

倉敷藤花戦&呼び出し

2010-10-21 19:57:48 | 将棋
 第18期倉敷藤花戦三番勝負第一局。対戦成績は里見香奈倉敷藤花が4勝,岩根忍女流二段が6勝。関西所属同士ですが東京将棋会館での対局でした。
 振駒で岩根二段の先手に。この両者ならば当然のように相振飛車。相三間飛車で両者浮飛車,後手が早めに8筋に転換しました。
                         
 ▲8六歩とは突きにくいようなので,▲8六角を限定させる意味はあったかもしれません。しかし△6四銀▲3九玉△7四歩と仕掛けていきましたので,そういう読み筋だったのでしょう。ただ▲同歩△7五歩▲7八飛△7四飛(第2図)となった局面は,あまり効果的ではなかったかもしれません。
                         
 実戦はここから一旦は囲い合い,再び後手から仕掛けていきましたが,やや無理な動きだったようで非勢に。その後,二転,三転としたように見受けられますが,最後は先手が勝っています
 岩根二段が初タイトルまであと1勝。第二局は例年通り倉敷開催ですが,今年は11月2日です。

 翌8月4日の朝,8時過ぎにみなと赤十字病院から電話が入りました。出たのは母ですが,それはの血圧が低下し,呼吸も間隔が長くなっていて,いよいよ危険な状態に入ったと思われるという知らせでした。このとき,僕は朝食を目前にしていました。すぐに駆けつけるべきところでしたが,何しろインスリン注射した場合には決まった量のエネルギーだけは摂取しなければなりません。そういうわけで,まず母が妹を連れて病院に向いました。
 僕はまだ外出できるような服装でもありませんでしたから,食事のほかに着替え,もちろん戸締りなどもして家を出たのは8時半過ぎだったでしょうか。なかなかタクシーが見つからなかったために少し歩いたりもしましたが,9時前には病院に着きました。このとき病院にはまだ母と妹だけ。ほどなくして前日も見舞いに来ていた伯母と,父の長兄夫婦が到着。妹は仕事へ行くという意志をみせましたので母が送っていき,伯父も仕事で病室を後にしました。伯父の職場はこの病院のすぐ近くだったのです。
 父の様子は前日に眠っているときとほとんど変わりありませんでした。強いていうなら1回1回の呼吸がやや深くというか荒くなっているようには思えました。僕は父の傍らで右手を握っていました。父の手は冷たかったのですが,僕は見舞いに来ればこうして手を握っていて,そのときも冷たかったですから,これ自体にとくに驚きはありませんでした。
 母が不在の間に緩和ケア病棟での主治医となったS先生が回診に来ました。このとき父は鎮痛剤,要するに麻薬のほかに睡眠薬も投与されていたようで,眠っているのはその影響ということも考えられるので,また眼を覚ますかもしれないと言われました。
 妹の作業所も病院からそうも離れてはいませんから,母もすぐに戻りました。僕が入院した病室と同様に,父の右手側にはパソコンがあり,それでテレビも視られるようになっていました。つまり僕が座っていた側にテレビがあったわけです。このときは大リーグ中継が流れていて,たぶんエンジェルスの試合だったと思うのですが,さすがによく覚えていません。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

TCKディスタフ&喪服

2010-10-20 20:39:40 | 地方競馬
 笠松から2頭,兵庫から3頭の遠征馬を交えて争われた第7回TCKディスタフ
 やや注文をつけるような感じでエロージュの逃げ。枠入りをやや嫌がっていたハーミアもレースではスムーズに外の3,4番手。テイエムヨカドーを挟むようにザッハーマインが内の6番手。最初の800mは50秒7でこれは明らかなスローペース。
 ハーミアはよい手応えで外を上がっていき,直線入口では逃げるエロージュを射程圏に。楽なペースで逃げた筈のエロージュが意外に早くばてたこともあり一旦は先頭に立ちましたが,直線で外に持ち出されたザッハーマインの脚色がよく,ハーミアに抵抗を許さず2馬身半の差をつける快勝。ハーミアが2着で,ハーミアマークから一番外を伸びたテイエムヨカドーが3着。重賞級3頭による決着で,意外と配当がつけた感があります。
 優勝したザッハーマインは園田デビュー。その後JRAに移籍。そしてこれが船橋に転入しての初戦。園田時代の成績からJRAでももっと活躍できると個人的には思っていたのですが,1000万は勝ったとはいえそれほどでもありませんでした。ただ,牝馬同士であれば重賞でもいい勝負ができる筈の馬で,いきなりこの快勝ですから,これからがこの馬の真価を発揮する時期になるのではないかと思います。
 鞍上は大井の的場文男騎手で,3月のマイルグランプリ以来の南関東重賞制覇。管理することになったのは船橋の出川克己調教師で,このレースは両者ともに初勝利です。

 が死ぬことになれば,当然ながら通夜,葬式を執り行うことになります。そしてそのときはやはり当然ながら喪服を着るということになります。永久欠番になった友人や伯父をはじめとして,僕ももうこの年になっていますから,通夜や葬式,あるいは法事などに参列した回数は数知れずあり,喪服も持ってはいたのですが,それは厚手の冬用のものでした。もちろん夏に出席したこともあったわけですが,そう滅多にあることではありませんから,夏場でもそれを着用し続けていたわけです。
 だから僕もはじめは今回もそれでいいと単純に思っていました。しかしよく考えてみれば,この暑い盛りに父が死ぬということになれば,ただその通夜と葬式を夏場に行うということにとどまらず,来年以降の法事もまた暑い盛りに巡ってくるわけです。そう考えれば,これを機に夏用の喪服を用意しておいてもいいかなと考え直すようになったのです。父がまだ生きているうちから不謹慎な話だといわれればその通りではありますが,使うということはほぼ確定していましたので,時間があった8月2日の午後に横浜,というのは横浜駅周辺のことをここでは指しますが,出掛けて行って喪服を作りました。
 翌8月3日は午後に時間がとれましたので,みなと赤十字病院まで父の見舞いに行きました。といっても,僕が病院に到着することができたのは午後3時半前くらいだったでしょうか。母が妹を迎えに行く時間が迫っていまして,僕も一緒に行きましたので,父の側にいることができたのは20分弱くらいだったと思います。僕が着いたとき,父は眠っていました。わざわざ起こす必要もありませんからそのまま見守っていただけだったのですが,帰り際に父は目を覚ましまして,一言二言ですが話をしました。このときは本当にごく短いものでしたので,会話としては完全に成立しました。非常に他愛のない,挨拶程度のものではあったのですが,結果的にいいますとこれが父と僕との間に交わされた最後の会話ということになりました。母もそれで帰ったわけですから僕と同様。ただ,この日は父の一番下の姉,つまり父が最後の入院をしたときに来てくれた伯母と,父の長兄,こちらはみなと赤十字病院のО先生から父が横行結腸癌であることを告げられたときに同席してくれた伯父が見舞いに来ていまして,僕たちが去った後も残っていましたから,その後で何らかのことばが父の口から発せられたということはあったかもしれません。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熊本記念&危篤

2010-10-19 19:38:01 | 競輪
 長い直線が特徴的な熊本記念の決勝(動画)。並びは武田-稲村の関東に渡辺-江守の南関東が続く東日本,菅原-松岡-合志-西川の九州で池田は単騎。
  前受けは武田。これを打鐘前のバックで菅原が叩き,池田も続きました。菅原は前には出たもののペースを落としたため武田も引けなくなり粘る構え。ホームに入ると西川が上昇,菅原の前に出てインを斬るとそこから菅原が発進。西川もうまく4番手に入り直し,武田が6番手の一列棒状に。バックから武田が捲っていきましたが前に届くかというところで松岡が番手から発進。松岡マークの合志が直線で差し切って優勝。松岡も2着に残って地元のワンツー。追い込んだ武田が3着。
 優勝した熊本の合志正臣選手は一昨年6月,やはり地元の熊本記念以来の記念競輪優勝で通算3勝目。西川のイン斬りはおそらく当初から想定していた作戦のひとつだったのでしょう。そういう意味では九州勢,あるいは地元勢の強い結束力がもたらした優勝であったといえるのではないかと思います。

 母は連日にわたって午前中から病院に通っていましたから,の状況に関しては僕も母から聞いていました。この頃はもう眠っている時間が多くなっていたようです。しかしこの日,僕が妹と病院に着いたとき,父は目を覚ましていました。それで僕も少し話をしたのですが,短い会話であれば成立しましたが,長い話になりますと,もう父は論理的に物事を喋るということができる状況ではなくなっていました。また,呂律もうまく回らないようになっていまして,ことばを正確に聞き取るということだけでもなかなか大変でした。よってこの日は僕は随分と父と話はしたのですが,父の言いたかったことの半分も正確には理解できていなかったのではないかと思います。
 緩和ケア病棟に移動して新しく主治医となったS先生によりますと,この時点で父は危篤とのことでした。というか,僕はこの時点ではまだこのS先生には会っていませんでしたので,母がそのように言われていたとのことです。これはこの日に帰ってから母に教えられたことなのですが,僕はびっくりしました。というのも,僕のイメージにおいては,危篤というのは意識不明の状態を指すものと思い込んでいたからです。しかしこのとき父は,単に覚醒していただけでなく,話をしたわけです。その内容は僕にとっては不分明なものではありましたが,少なくとも話をして何かを僕に,あるいはそのときその場にいたのは僕だけではありませんでしたから,僕たちにというべきでしょうが,伝えようという明確な意志があったと考えられるわけです。実際に僕は話をしたというだけではなくて,話をしている父の表情や仕種も見ていたわけで,何かを必死に訴えかけようとしているということだけは間違いなかったのです。そういう状態でもこれを危篤と表現するということに,僕は驚いたというわけです。
 その危篤ということばには驚いたわけですが,しかしその危篤のまま父の状況はその後の数日は変わりませんでした。これが7月31日の土曜日でしたから,8月を迎えることができたわけです。病室は冷房が効いていますから父は知らなかったかもしれませんが,今年の夏は暑かった。それで僕はもしも間に合えばやっておこうと思っていたことを実行しました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コーフィールドカップ&検査結果

2010-10-18 11:49:05 | 海外競馬
 オーストラリア競馬最大の祭典は来月2日のメルボルンカップGⅠ。今年の阪神大賞典を勝ったトウカイトリックはこのレースを目指して渡豪。まずは現地時間16日,コーフィールド競馬場でのコーフィールドカップGⅠ芝2400m(動画)に出走しました。
 実際に出走したのは18頭。外から2頭目の枠のトウカイトリックは発馬でやや出負け。最初の直線で中団近辺まで上昇するもコーナーで外を回らされまた位置取りを下げました。向正面で少し上がり,3コーナー過ぎから外を回って前に取りつきにいき直線。進もうとしたところで前に入られるような形となり,やや内目に立て直し,それなりの伸びはありましたが特筆すべきほどのものでもなく,12着という結果に終わりました。
 この馬はトップクラスとは差がある馬。ただ,おそらく生粋のステイヤーで,2400mでも短いのではないかと思われます。オセアニアは短距離はかなり強いですが,長距離はそれほどでもありませんので,さらに距離が延びる本番ではもう少しよい競馬をすることが可能かもしれません。

 この日も検査のオーダーと結果が記された詳細情報をもらったわけですが,前回,5月24日のときに少し気になった糖定性と尿クレアチニンについてだけは書いておきましょう。
 まず糖定性ですが,この日は+4。前回が+1だったわけですから,さらに尿糖の濃度が増したということだと思います。実はこの日も前日に体重測定をしてこの日の検査に臨んだのですが,47.5㎏と減っていました。前述したように体重と尿糖との間には相関関係があるらしいのですが,図らずもそれを証明するような結果となったわけです。なぜ尿糖が出ているのかは僕には分かりませんが,ただМ先生はこの日もこのことについては一切言及しませんでしたので,これくらいの数値ならば心配ないということなのかもしれません。
 一方,尿クレアチニンの方は50で,やや増加していました。僕は明らかに痩せ型の人間ですので,この数値があまり高くなるということは考えられず,前回のように下限値ぎりぎりではなくなったという意味では,よい結果だったといえるのかもしれません。
 なお,これ以外の検査結果に関してはこの日も気になるところはありませんでした。
 この日からいつでも父を見舞いに行くことができる状況にはなったものの,この1週間というのは僕の方にいろいろとやらなければならないことがあってみなと赤十字病院には行くことができませんでした。その中には銀行回りもありまして,とりあえず,事前に父の口座から移せるものだけは移し終えることができたのは29日の木曜日でした。
 31日の土曜日の午後に,病院にいた母から電話がありまして,病院に来てほしいとのこと。父は妹に会いたかったようです。というのも,実は妹は父が21日に病院に入ってから,1度も会いに行っていなかったからです。というか,妹は病院にはひとりで行くことができませんでしたから,母や僕が連れて行かなかったという方が正しいでしょう。ダウン症の妹が死を間近にした父を見てどう思うのか,少し心配なところがあったからです。しかし父が会いたいと言っているのですから,僕が連れていきました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋華賞&診察

2010-10-17 19:43:45 | 中央競馬
 日本競馬史上3頭目の牝馬3冠がかかった第15回秋華賞
 アグネスワルツの逃げは予想された展開のひとつ。ただ,思われた以上に後続との差を広げていきました。2番手以降はある程度まで馬群が凝縮しての競馬で,アパパネは中団から。前半の1000mは58秒5ですからこれ自体はハイペースでしょうが,飛ばしたアグネスワルツのものですから,実質的にはミドルからスローに近い流れだったと考えることもできるかと思います。
 京都競馬場の内回りはややトリッキーなコースですが,アパパネは構わず外を進出。ほかの馬との力の違いを見せつけるような形で快勝。1986年のメジロラモーヌ,2003年のスティルインラブに続く史上3頭目の牝馬3冠達成。馬群を縫うように追い込んだアニメイトバイオが2着で,好位内目から一旦は先頭に立ったアプリコットフィズが3着と,関東馬が上位を独占しました。
 優勝したアパパネオークス以来の大レース4勝目。前の3冠馬2頭は2歳チャンピオンとはいいきれない面もありましたので,ここまでの実績ではその2頭を上回っているといういい方もできると思います。レース振りからはあまり強さを感じていませんでしたが,その中では今日が最も強い内容だったと思います。父はキングカメハメハ,Apapaneはハワイに棲息する鳥の名前。
 騎乗した蛯名正義騎手,管理している国枝栄調教師ともにオークス以来の大レース制覇で,秋華賞は初勝利です。

 いつもの通院の日と同様に,この日も午後3時からの診察でしたので,その時間まで緩和ケア病棟の病室にいて,1階の診察室へ戻りました。
 この日のヘモグロビンA1cは6.9%。若干ではありますが,前回の微調整を施した5月24日の通院時よりも改善していたわけです。この数値は,正常とされる値よりは高いのですが,М先生によれば,Ⅰ型糖尿病の患者であれば,このくらいでも十分であるというような話でした。したがってこの日はインスリン療法に関する処置は何もありませんでした。よって次の通院との間隔も2ヶ月。したがって9月27日になる筈でしたが,やはりこれもその前の週の9月20日が敬老の日で休診という理由でしょう,10月4日と1週間ですが伸びることとなりました。
 ところで,この日は血糖値が高かったのです。292㎎/㎗。М先生にインスリンを注射しましたかと尋ねられてしまったような値です。もちろん注射を忘れるというようなことは絶対にないのですが,どういうわけかまれにこういう数値が出ることがあるのです。あくまでも一時的なものであって,たとえばこの日も夕食前にはまだ少し高かったですが,就寝前にはほぼ平常な値に戻っているように,早ければ次に計測したときにはもう安定しているということもよくあります。毎食前に注射するのはヒューマログという超速効型のインスリンで,これは注射をすると15分くらいで効果が出始めて,2時間もすれば効果がピークに達するということになっているのですが,どうもときに,この効果の出始めるのが遅くなることがあるようです。あるようですというのは,僕自身の感覚的なもの。血糖値が高くなっているときは,高くなっているということが身体的感覚によって分かります。食後1時間くらいのときにそういう感覚が生じるのは分かりますが,たとえばそれが3時間後くらいに出てくるということもまれにあるのです。注射はしていますからまったく効かないというわけではなく,打つ部位によっては効果が出始めるのが少し遅くなる場合があるのかもしれませんし,あるいは食べたものによって,血糖値の上昇が急激であったり緩やかであったりするという差異の影響なのかもしれません。いずれにしろ理由は分かりませんが,この日はたまたまそういう日にあたってしまっただけで,一時的なものですので,僕自身はさほど心配していませんでした。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竜王戦&どす黒い尿

2010-10-15 18:45:03 | 将棋
 保持しているタイトルの格からいえば将棋界最高峰の一戦といえる第23期竜王戦七番勝負第一局。対戦成績も10勝10敗の五分。
 振駒渡辺明竜王の先手。羽生善治名人の横歩取り△8五飛。後手の陣形に隙ありとみた先手が速い段階で端から開戦。香車を吊り上げて角を打ったのに対して後手も角を打っての受け。その角をひとつ引かせたところで先手は角を切り,取った金で角を奪い返したところでようやく1日目が終了。封じ手は当然ながら金を取り返す手。対して▲5六角と打ち,1二に成り込みました。そこで△2三歩。以下,先手が攻め,後手の受けという展開が続き,先手の飛車が成り込んだところでようやく後手に手番が回りました。
                         
 ここから△5六歩▲4八銀△7六歩。そこで▲5一龍と取りましたが△7七歩成に▲同金で攻守が完全に交代。△6五桂▲2一龍△3四玉▲2三銀△4四玉まで決めて▲7一龍と金にひもをつけつつ7筋に効かせたのが第2図。
                         
 ここで△2五角と王手しましたが,▲3六銀△4六角▲4七金というのが屈強な受け方で,後手の攻めが続かなかったようです。最後は後手が自ら将棋を壊すような指し方を選んで意表の投了。先手の勝ちとなりました。
 渡辺竜王が先勝。第二局は26日と27日です。

 食事を終えて部屋に戻り,今度は代わって母が食事に。したがってその間はこの部屋に僕とのふたりきりになったわけです。21日に入院してからは父はもう部屋のトイレにも行かれないという状況になっていましたので,大人用の紙パンツをはいていました。もちろん人工肛門を開設していましたから,便の方は出ませんのでこれは尿専用です。しかし父は排泄には自分なりのこだわりというものがあったようで,そこに排尿するということはなく,必ず尿瓶を用いていました。これは死ぬまでずっと変わりませんでした。といっても,自分で尿瓶を使うということはできませんでしたので,看護師の介助を受けてではありました。この頃の父は牛乳を好んで飲んでいましたが,200mlのパックでも1度にすべてを飲みきるということはできませんでしたので,排尿の回数自体はきわめて少なかったようです。実際,排尿のためにナースコールで看護師を呼ぶということはなく,看護師が回診などのために部屋を訪れたときに用を足すだけですんでいたようです。
 そしてこの僕と父がふたりきりの状況のときに,看護師がやってきまして,父は排尿しました。布団を掛けてしますから排尿の瞬間は見えませんが,部屋にはトイレがありますから,尿瓶に溜まった尿を看護師が捨てに行くわけです。そのときの父の尿の色を見て僕はびっくりしました。赤というよりはもっとどす黒い血の塊のような色だったからです。父の尿がいつ頃からこんな色になったのかは僕は知りませんでした。自宅滞在中は父は自分でトイレに行っていましたから,父自身は知っていたのかもしれませんし,あるいは入院後にこうなったのであって,自分でも知らなかったのかもしれません。ただ,看護師はとくに不思議そうな顔もせずに片付けていましたので,このときの父の状態からすれば,それがなにゆえにこんな色になったのかは僕には分かりませんが,ごく自然に考えられることだったのでしょう。僕はこのことを母には話したのですが,この時点では母もこれを知りませんでした。この日から付き添う時間が長くなりましたので,後には尿を見る機会があり,やはりその色には驚いたようです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

共同通信社杯&緩和ケア病棟

2010-10-14 14:10:09 | 競輪
 今年の共同通信社杯秋本番は奈良競輪場を舞台に戦われ,3連休最後の11日が決勝でした。並びは新田-山崎-伏見-斉藤の北日本,武田-飯嶋の茨城栃木,川村-小倉の西日本で園田が単騎。
 スタートは飯嶋が取って武田の前受け。川村が3番手に続き,園田を挟んで主力の北日本勢は6番手から。残り3周から新田が上昇すると,バックでは叩いて北日本勢が前に。園田が切り替え,引いた武田が6番手,川村は8番手。このまま新田が緩めることなくいったので後ろは動けず。残り1周になると早くも山崎が番手から発進。武田もようやく捲り上げたものの3番手前後で一杯。直線から踏み込んだ伏見が突き抜けて優勝。マークの斉藤が2着,3着も山崎で北日本の上位独占。
 優勝した福島の伏見俊昭選手は昨春の風光る以来のビッグ9勝目。ここは北日本団結の勝利以外の何物でもありません。賞金ランクでのグランプリ出走圏内に届いていなかったので,賞金を上積みさせようということでこういった走行になったようです。そのように配慮してもらえることも,またその配慮に確実に応えることも,実力の証なのではないでしょうか。

 実をいうと,この日に個室から別の病室へ移動するということは,先週末のうちに決まっていたことで,僕自身もそれは知っていました。しかし何時頃に移動することになるのかは知らされていませんでしたので,とりあえず入院した病室に行ってみたというわけです。看護師に声を掛けられて,すでに移動がすんでいるということを教えられました。移動先は2階で,それは僕も知っていました。看護師に2階のどの部屋かを尋ねましたが,それは看護師も把握していませんでした。
 移動といっていますが,厳密にいますとこれは転院という扱いでした。そのために主治医もこの日からS先生という女医に代わっています。同じ病院の同じ建物の中にあるところでしたが,このときに父が移動したのは緩和ケア病棟という,治癒の見込みがない患者のために終末医療を施す病棟だったのです。実際のところ,父は最初からこの病棟に入院すべき患者であったのですが,入院をした7月21日の時点ではこちらに空きがなかったので,とりあえず7階に入院したというのが本当のところだったのです。僕は実はこの病棟の病室に空きが出るということは,利用している患者のうちのだれかが死ぬということであるというように解釈していましたので,先週末の段階で空きが出るから移動することが可能になるということを知らされたときにはかなり不思議な気がしていました。しかしパンフレットを読んでみますと,たとえばこの病棟を一時的に利用するというような患者もいるようで,そうした患者が退院するというケースはあるようです。
                         
 この病棟はすべて個室です。病棟に入る手続きも一般病棟と比べるとやや煩雑になっていますが,それをすませて父の部屋に入ると母がいました。実をいいますと僕が7階の病室に行ったとき,これは見舞い時間外でしたから厳密にいえば規則違反だったのですが,この病棟は見舞い時間の規制というのがなく,24時間いつでも可能でした。このために母は,これより後は,妹を職場まで送っていくと,そのまま午前中から病院に行くようになりました。
 僕は父の顔を見て,父が望んだので少しばかりマッサージをして,一旦は昼食のために1階の食堂へと向いました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする