スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

伊藤園お~いお茶杯王位戦&純粋な能動

2024-05-31 19:19:38 | 将棋
 昨日の第65期王位戦挑戦者決定戦。対戦成績は渡辺明九段が13勝,斎藤慎太郎八段が6勝。
 振駒で渡辺九段の先手。相掛りから9筋の位を取った先手が横歩も取る将棋。欲張った指し方のように思えましたが,後手の齋藤八段から咎める手段がなかったようで,先手の作戦勝ちだったのではないでしょうか。
                                        
 第1図で☖8六歩☗同歩☖2九飛と攻め合いにいきました。ただ☗3八銀☖8九飛成☗7九金☖8六龍となったときに☗1一角成と取られ,☖3三桂に☗8七歩と打たれました。
                                        
 取ると☗8八香があるので引き上げるほかありませんが,攻め合って勝つのは見込めなくなってしまいました。第1図は後手が駒得をしていますので,すぐに攻め合いにいくのではなく,手数を伸ばしていくような指し方が求められていたようです。
 渡辺九段が勝って挑戦者に。王位戦七番勝負は初出場。第一局は7月6日と7日に指される予定です。

 ねたみinvidiaに駆られて相手を打ち負かそうと活動するのであれ,金銭欲に駆られて収入を得るための活動をするのであれ,活動をしている当人の力potentiaがまったく表示されていないわけではありません。しかしより多く表示されているのは,前者の場合でいえばそれほどまでに当人をねたませる相手の力であり,後者の場合はそれほどまでに当人を欲望させる金銭nummusの力です。このために,ねたみも金銭欲も能動actioとはいわれずに受動passioといわれることになるのです。すなわち,どのような作用を現実的に存在する人間がするのであれ,その作用をより多く表示している力が,当人の力であればそれはその当人の能動であるのですが,その当人の力ではなく何らかの外部のものの力である場合は,受動であるといわれます。よって,その作用がどれほど活発に,あるいは同じことですが活動的にみえるとしても,そのことはその当人の能動であるか受動であるかを決定するような材料とはなりません。つまりそのような方法で能動と受動を判断することはできませんし,もしもそのことで能動と受動を判断するのであれば,能動を受動と,受動を能動と,誤って判断する場合が生じることになるでしょう。
 第三部定義二は,僕たちが僕たち自身の作用の十全な原因causa adaequataとなっている場合が能動で,僕たちが僕たち自身の作用の部分的原因causa partialisである場合は受動であるといっています。ただ,受動の場合はともかく,僕たちにとってこの意味での純粋な能動というのはほぼ存在しないと考えておいた方がよいでしょう。僕たちはほとんどの作用について,部分的原因として作用するのですが,僕たち自身はその部分的原因の一部を構成します。そのとき,ほかの部分的原因に対して自分自身の力がより多く表示されているのなら,それは僕たちにとっての能動であって,たとえ僕たちが常に部分的原因の一部を構成していたとしても,他の部分的原因が表示する力に凌駕されているなら,それは僕たちの受動であると解しておくのがよいと思います。第三部定理一は,それを十全な観念idea adaequataと混乱した観念idea inadaequataに関連付けていますが,僕たちの精神mensのうちには,Xの十全な観念とXの混乱した観念が,同時に存在し得るのです。
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ラジオNIKKEI盃若潮スプリント&表示

2024-05-30 19:17:49 | 地方競馬
 昨晩の第4回若潮スプリント。沢田騎手が4レースで落馬し,腸骨骨折などの傷を負ったためモノノフブラックは野畑騎手に変更。
 ゲートの中で何度か立ち上がっていたエイムフォーエースは発馬でも1馬身の不利。大外からオーソレリカが瞬く間にハナに立っての逃げ。2番手にスピネーカーとエドノフェニックスとリノディスティーノ。5番手にモノノフブラック。2馬身差でトーセンヴィオラとギガース。8番手にザイデルバストとフクノフードゥル。2馬身差でヘリアンフォラ。11番手がエイムフォーエースとなり最後尾にビッグショータイム。前半の600mは35秒5のハイペース。
 3コーナーでは2番手がエドノフェニックスとリノディスティーノの併走となり,3馬身差でギガースが4番手に上昇。2馬身差で後退したスピネーカーとモノノフブラックが併走。直線に入るとリノディスティーノは脱落しエドノフェニックスが単独の2番手に。その外からギガースが差してきて2番手に上がると,フィニッシュにかけて逃げ粘るオーソレリカを追い詰め,最後は差し切って優勝。逃げ粘ったオーソレリカが半馬身差で2着。3番手となったエドノフェニックスの外からモノノフブラック,ザイデルバスト,ヘリアンフォラの3頭が並んで追い込んできて3着争い。真中のザイデルバストが5馬身差の3着で外のヘリアンフォラがアタマ差で4着。モノノフブラックが半馬身差で5着。
 優勝したギガースネクストスター東日本以来の勝利で南関東重賞3勝目。距離が短縮して苦しんだ感はありましたが,速力を生かして軽快に逃げたオーソレリカを,58キロを背負いながら捻じ伏せたのは底力の証明で,この距離でもこのメンバーなら力が抜けていたということでしょう。レースのしやすさという観点からは,もう少し距離があった方がいいのではないでしょうか。母の父はジャングルポケット。祖母がダイヤモンドビコーで3代母がステラマドリッド。Gigasはギリシア神話の巨人族のひとつ。複数形はギガンテス。
 騎乗した船橋の森泰斗騎手プラチナカップ以来の南関東重賞61勝目。若潮スプリントは初勝利。管理している船橋の佐藤裕太調教師は南関東重賞13勝目。若潮スプリントは初勝利。

 この國分の指摘は,僕がこれまでに考察したことと関連させることができます。それは,フロムErich Seligmann Frommが『愛するということThe Art of Loving』において,スピノザの哲学について指摘していたことです。フロムはそこで,自分の外部にある目標に向かって邁進する人は,活発に活動しているようにみえ,椅子に座って沈思黙考する人は逆に不活発にみえるけれど,スピノザの哲学においては前者が受動passioであり,後者が能動actioであるという意味のことをいっていました。ここでも活発にみえるかそうでないかということは,その人が能動状態にあるか受動状態にあるかということと無関係であるということがいわれているのであり,これは國分がこの部分で指摘していることと同じであるといえるでしょう。
                                        
 國分はここではねたみinvidiaという,悲しみtristitiaの一種である感情affectusを例として指摘していますが,こうしたことは悲しみとだけ関係するのではありません。たとえば過度な金銭欲avaritiaを満たすためあくせくと働く人は,活発に活動しているようにみえるでしょう。金銭欲は欲望cupiditasの一種ですから,これは悲しみとは無関係です。しかし國分のいい方に倣うのであれば,この活動をより多く表示している力potentiaは,それほどその人間の欲望を満たそうとする金銭の力である,もっと正確にいうなら,その人が表象している金銭の力なのであって,その人自身の力ではないということになるでしょう。その活動をより多く表示しているのが,その人が表象している金銭の力であるのならば,その活動はその人の能動ではなくて受動なのです。
 第四部定理四系でいわれているように,現実的に存在する人間は常に何らかの受動に隷属しています。國分が,その力を表示しているといわずに,より多く表示しているといっているのは,このことと関連しています。すなわち,現実的に存在している人間は,自分の力だけを表示するということはありません。ただ,外部の力よりも自分の力をより多く表示するということはあるのであって,その場合はその人間の能動といわれるのです。逆にいえば,たとえねたみや金銭欲によって活発に活動するときも,活発している当人の力がまったく表示されていないというわけではありません。
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戸主&活発

2024-05-29 19:00:36 | 歌・小説
 『夏目漱石『心』を読み直す』の第Ⅲ章で,先生が下宿した先の事情が,当時の民法と関連付けて説明されています。そこから,先生が下宿を開始した時点では.,こうした状況が特異なものであったことが分かります。
                                         
 この下宿は,先生の手記では奥さんといわれている,戦争未亡人の家屋でした。戦争というのは日清戦争です。つまり,日清戦争で夫を失った未亡人が,それまで暮らしていた家を売った上で,新しく購入した家屋です。そこに,奥さんとお嬢さんが一緒に暮らしていて,このふたりはおそらく遺族年金で生活していたのですが,それでは心もとないからということで下宿人,といってもそれはお嬢さんの結婚相手を同時に意味していたわけですが,そうなり得る下宿人を探し,そこに先生が舞い込んだのです。
 ところが,奥さんがこのように戸主としていることができたのは,日清戦争が終わって少し後までであったそうです。正確にいうと,1898年までだったそうです。日清戦争が終わったのは1895年ですから,3年後ということになります。1898年までは明治民法典という法律の下,奥さんのような未亡人が戸主になることは許容されていたのですが,明治民法典は1898年に廃止され,新しい明治民法が制定されました。この明治民法の下では,家督を相続するのは基本的に長男であり,長男が死んだ場合は次男という具合に,戸主である男の男の子だけが戸主となることができました。したがって女は未亡人であろうと子どもであろうと,戸主になることができなくなっていたのです。
 『それから』でも民法の規定というものを意識して漱石は小説を書いたものと思われます。したがって『こころ』の場合もそれと同様であったのでしょう。実際に『こころ』が書かれたのは1914年であって,明治民法が制定されてから16年が経過しています。したがってこの時期には女の戸主というのは存在しなかったか,存在していても明治民法典のうちに許容されいたごく少数になっていた筈です。だから奥さんが戸主になっていることが,読者には不自然に感じられたかもしれません。しかし日清戦争の未亡人であった奥さんは戸主になれたのであり,この設定は法的にも成立するのです。

 同じく第4章3節で,國分はねたみinvidiaという感情affectusについて分析しています。これは,スピノザの哲学における能動actioと受動passioの関係を説明するための一例です。この説明はスピノザの哲学を理解するために有益だと思いますので,詳しく紹介します。
 第三部諸感情の定義二三で示されているように,ねたみは憎しみodiumの一種とされています。憎しみというのは第三部諸感情の定義七から分かるように,悲しみtristitiaの一種です。つまり,第三部諸感情の定義三により,より大なる完全性perfectioからより小なる完全性への移行transitioを意味します。ねたみという感情が負の感情であるということ,いい換えれば否定的な感情であるということについては,特段の説明は不要だと國分はいっていますが,それと同時に,あらゆるねたみが,なぜより大なる完全性からより小なる完全性へと人を移行させる感情であるのかということについては,説明が必要であると國分は指摘しています。というのは,現実的に存在する人間は,ねたみの感情をばねにすることによって,熱心に何事かに取り組むということがあり得るからです、僕も現実的に存在する人間にそのようなことが生じることがあるということについては,國分に同意します。しかしこうした活動は,より大なる完全性からより小なる完全性への移行というより,より小なる完全性からより大なる完全性への移行という方が相応しいのではないでしょうか。少なくともその人間はその事柄については熱心に取り組むのであって,これはその人が活発に活動していることになると思われるからです。
 國分もまた,実際にそういうことが生じること自体についてはあり得ると認めています。しかしいかにその活動が活発であるようにみえるとしても,それは受動であるといいます。なぜなら,活発にみえるその人の活動が何を最もよく表現しているのかといえば,それは活発に活動するその人の力potentiaなのではなく,その人にそれほど活発に活動させるほどのねたみを感じさせた相手の力であるからです。すなわち,完全性の移行というのは,あるいは能動と受動というのは,単に現実的に存在する人間が活発に活動しているかいないかということとは無関係なのです。
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返信の推測&慣性の法則とコナトゥス

2024-05-28 19:14:31 | 哲学
 書簡三十三には返信がありません。これは見つかっていないだけかもしれませんし,スピノザが書かなかったのかもしれません。その内容がどのようなものになるかは,推測するしかありませんので,試みてみます。ただしこれは,オルデンブルクHeinrich Ordenburgがユダヤ人の動向について尋ねている事柄に限定します。
                                        
 ユダヤ人の帰還に関しては,スピノザは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の中で,いずれはユダヤ人は再び建国するであろうということをいっていますが,これは将来的なことであって,スピノザが生きている時代にそのようなことが起こるとはスピノザは考えていなかったと思います。この部分はすでに探求したように,ユダヤ人は国家Imperiumを失った後でもユダヤ人としてのアイデンティティを失わなかったということの帰結としていわれているのであり,すなわちユダヤ人はこれからもユダヤ人としての儀式を継続していくだろうし,それが継続していくのであればいずれは再建国も夢ではないだろうというような意味だと僕は考えています。
 一方,アムステルダムAmsterdamのユダヤ人がこのことをどのように受け止めているのかということは,スピノザはよく分からなかったのではないでしょうか。スピノザはユダヤ人共同体からは追放されていましたし,追放した側のユダヤ人たちは,スピノザとの接触を禁じられていました。スピノザの方も積極的に交流するつもりはなかったでしょうから,この時点でスピノザと交流があったアムステルダム在住のユダヤ人というのは皆無であった筈です。もちろんスピノザの友人の中には,アムステルダムでユダヤ人と交流をもっていた人がこの時点でもまだいたでしょうから,そうした友人を通じてユダヤ人たちのことがスピノザに伝わるということがまったくなかったとは思いませんが,それでも帰還について具体的にどのように考えているのかということがスピノザに伝わっていたとは思えません。ですからこのことについてはスピノザは噂としては聞き及ぶことがあったとしても,何か具体的に答えることができたとは思えないです。ですからスピノザはオルデンブルクのこの質問に対しては,確たることは答えられなかったと僕は考えています。

 『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』で慣性の法則がコナトゥスconatusとされていることによって,なぜ現実的に存在する個物res singularisがコナトゥスを有するということになるのかということについては,國分の説明をみていきましょう。
 ある個物が現実的に存在するということは,その個物を生成し,存在させる方向へ諸々の原因causaが一致して働きをなしたからです。このことは個物が自己原因causa suiではないということから明白といわなければなりません。しかるにこの働きは,外部からそれを妨げる原因が与えられない限りは,慣性の法則によってその状態を維持しようとします。このことは第三部定理四と一致しているといえるでしょう。したがって個物は現実的に存在している以上は,存在し続ける方向へとpotentiaが働くのです。もちろん現実的に存在する個物は,ほかの現実的に存在する諸々の個物の影響を多様な仕方で受けますから,存在し続ける方向へと働く力自体は変化するといわなければなりません。このことは現実的に存在する個物の実在性realitasは,より大なる実在性からより小なる実在性へも移行するし,より小なる実在性からより大なる実在性へも移行することもあるということで,かつもし外部の力が現実的に存在するある個物のコナトゥスを完全に凌駕してしまえば,その個物は存在することをやめてしまうでしょう。すなわち,現実的に存在する人間についていえば,人間は喜びlaetitiaを感じることもあれば悲しみtristitiaを感じることもあり,たとえ悲しみを感じるとしてもそれは実在性すなわち完全性perfectioなのであって,かつ,外部の力に凌駕されてしまうなら,その人間は死んでしまうであろうということです。この人間の例からして,國分がいっていることが成立していることはよく理解できると思います。
 したがって,現実的に存在する個物は,必ずいつか現実的に存在することをやめることになるのですが,現実的に存在することになった以上は,その存在を持続するdurare方向へと働く力を,自然界には慣性の法則があるというのと同じ意味で,有していることになるのであって,かつ現実的に存在している間はその力すなわちコナトゥスをもち続けることになるのです。
 この部分の考察はここまでです。
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ロイコン&傾向

2024-05-27 19:34:00 | 血統
 オークスを勝ったチェルヴィニアの輸入基礎繁殖牝馬は3代母のハッピートレイルズという馬です。その母のロイコンも輸入されていますので,ここではロイコンを起点とする一族の活躍馬を列挙していきます。スカーレットインク,プロポンチスと同じファミリーナンバー4-dの一族。
                                        
 ロイコンは1991年に産駒を受胎したまま繁殖牝馬として輸入されました。それ以前の産駒は1頭が競走馬として,3頭が繁殖牝馬として輸入されています。
 繁殖牝馬として輸入された1頭がハッピートレイルズ。この馬が1989年にアイルランドで産んで競走馬として輸入されたのがシンコウラブリイでした。シンコウラブリイは引退後は繁殖牝馬に。産駒には2001年の中京記念を勝ったロードクロノス。孫に2009年の新潟2歳ステークスと2010年の関東オークスを勝ったシンメイフジ,2019年にアルゼンチン共和国杯を勝ったムイトオブリガード。曾孫にも2019年のチャレンジカップを勝ったロードマイウェイがいます。
 やはりアイルランドで産まれ,競走馬として輸入されたシンコウラブリイの3つ下の半弟がタイキマーシャル。1997年にエプソムカップを勝っています。
 ハッピートレイルズはこの後で繁殖牝馬として輸入されました。2頭目の産駒が牝馬で繁殖牝馬となり,2005年のセントライト記念と2007年の京成杯オータムハンデキャップを勝ったキングストレイルを産んでいます。
 タイキマーシャルの6つ下の産駒がハッピーパス。2003年に京都牝馬ステークスを勝ちました。繁殖牝馬となったハッピーパスは,2010年に札幌2歳ステークスと東京スポーツ杯2歳ステークスを勝ったコディーノと,2016年にフローラステークスを勝ったチェッキーノの母になっています。チェルヴィニアはこのチェッキーノの産駒で,ひとつ上の半兄が昨年の新潟記念を勝っている現役のノッキングポイント。またコディーノのひとつ上の半姉が繁殖牝馬として2022年のフィリーズレビューを勝っている現役のサブライムアンセムの母になっています。
 ハッピートレイルズの5つ下の半妹はロイヤルブライド。1994年にアメリカで産んだ産駒が1997年のアルゼンチン共和国杯を勝ったタイキエルドラドで,1996年にアメリカで産んだ産駒が2000年に函館スプリントステークスを勝ったタイキトレジャーです。
 タイキトレジャーのひとつ下の半妹も競走馬として輸入。繁殖牝馬となり,孫に2022年のプロキオンステークスを勝っている現役のゲンパチルシファーがいます。
 遡ると1957年にアイルランドで産まれたAzurineに至ります。タイキシャトル,2014年のNARグランプリの年度代表馬に選出されたサミットストーン,2008年に東京オータムジャンプを勝ったタイキレーザー,2002年のJRA賞の最優秀2歳牝馬に選出されたピースオブワールドは,いずれもAzurineの孫のMuffitysの子孫。ロイコンとMuffitysは従姉妹になります。

 この部分をスピノザの哲学におけるコナトゥスconatusの説明に利用することには,利点があると僕は考えています。慣性の法則は自然界の一般の法則であって,コナトゥスもまたそれと同様に理解されなければならないということが理解できるからです。すなわち,コナトゥスというのは通常は努力と訳されるラテン語なのであって,だから『エチカ』の岩波文庫版でもそのように訳されています。ところがそれは,思惟Cogitatioを示すわけではないのですから,僕たちがコナトゥスを有するということは,僕たちが自己の有esseに固執しようとする,意志voluntasをもって固執しようとするということではないのです。努力と訳してしまうと,僕たちのコナトゥスがそのように理解されてしまうおそれがあるでしょう。畠中は,『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』で当該部分を訳すときには,努力ではなく傾向という訳語を与えています。これは,ある物体corpusが何らかの運動motusへの傾きを有し,それを妨げる原因causaがない状態のことを運動への努力というのは日本語として不適切であって,日本語として成立させるために,運動への傾向という訳語を与えたからです。しかし,実際には現実的に存在する個物res singularisの現実的本性actualis essentiaであるといわれるコナトゥスも,努力と訳すよりは傾向と訳す方が適切なのです。つまり現実的に存在する個物は,自己の有に固執するperseverareことに努力するというより,現実的に存在する個物は自己の有に固執する傾向を有するといった方が,スピノザの哲学におけるコナトゥスを正しく理解できると僕は考えます。コナトゥスとは,物理学的にいえば,慣性の法則に属するものなのであって,努力するとか努力しないかといったこととは関係なく,現実的に存在するすべての個物に備わった傾向なのです。
 國分がこの点に注目したのは,コナトゥスの理解のために有益であったと僕は思います。國分は『スピノザの方法』においても,『デカルトの哲学原理』を利用することによって,デカルトRené Descartesの方法論とスピノザの方法論とを比較し,スピノザがデカルトの方法の何に不備を感じたのかを明らかにすることによって,スピノザの独自の方法論を明らかにしようとしました。このような手法は有効だといえるでしょう。
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東京優駿&慣性の法則

2024-05-26 19:20:31 | 中央競馬
 日本ダービーの第91回東京優駿。メイショウタバルは左後ろ脚の蹄の底の内出血で出走取消となり17頭。
 エコロヴァルツが逃げました。2番手にシュガークン。3番手はダノンデサイルとジャスティンミラノ。5番手にシックスペンス。6番手はジューンテイクとゴンバデカーブース。8番手はシンエンペラー。9番手はダノンエアズロック。10番手はサンライズジパング。11番手はレガレイラ。12番手はショウナンラプンタ。13番手はコスモキュランダ。14番手にビザンチンドリームとアーバンシック。16番手にミスタージーティー。最後尾にサンライズアース。最初の1000mは62秒2の超スローペース。
 向正面で最後尾のサンライズアースが外を上昇。3コーナーからはエコロヴァルツ,シュガークン,サンライズアースの3頭が雁行となり,そのまま直線に。この3頭の後ろはダノンデサイルとジャスティンミラノの併走。直線に入るとサンライズアースが一旦は脱落し,エコロヴァルツとシュガークンの競り合いとなったところ,エコロヴァルツの内に進路を取ったダノンデサイルと,シュガークンの外に進路を取ったジャスティンミラノが競り合う2頭の前に。そこからは内のダノンデサイルの伸び脚が優り,ジャスティンミラノを突き離して優勝。ジャスティンミラノが2馬身差で2着。ジャスティンミラノの外から追い込んだシンエンペラーが1馬身4分の1差で3着。
 優勝したダノンデサイルは京成杯以来の勝利。皐月賞は競走除外だったので,実質的には重賞連勝での大レース制覇。このレースは皐月賞の上位6頭はいずれもチャンスがあるとみていました。ダノンデサイルは皐月賞には出走できなかったのですが,未勝利を勝った直後に出走したラジオNIKKEI杯2歳ステークスは皐月賞で5着だったシンエンペラーから僅差の4着で,勝った京成杯の2着は皐月賞で4着だったアーバンシックですから,皐月賞の上位6頭と同等の力量があったということでしょう。差をつけて勝ちましたが,枠順や展開の利があってのものなので,そこまで明瞭な能力差があるというわけではないのではないかと思います。上位馬は能力が拮抗していて,勝ったり負けたりを繰り返していくことになるのではないでしょうか。父はエピファネイア。Decileは㎗のdの部分の完全形。
 騎乗した横山典弘騎手は2018年のJBCレディスクラシック以来の大レース制覇。第76回,81回に続き10年ぶりの日本ダービー3勝目。管理している安田翔伍調教師は2021年の東京大賞典以来の大レース6勝目。日本ダービーは初勝利。

 第三部定理七の論証Demonstratioは成功していると僕は考えますが,ただそれは,コナトゥスconatusが現実的本性actualis essentiaであることを証明しているだけです。もちろんこの定理Propositioはそのことをいっているので,それでいいのですが,現実的本性としてのコナトゥスがなぜ各々の個物res singularisにあるかは何も説明していません。実際にこの定理は,もしコナトゥスが現実的に存在する各々の個物にあるのであれば,それは各々の個物の現実的本性を構成するであろうというようにも読めるのであって,実際にそのような現実的本性が各々の個物にあるということを説明しているとはいえないでしょう。
                                         
 そこで國分は,現実的に存在する個物に,実際には國分は現実的に存在する人間にと限っていますが,これは同じことなので相違を気にする必要はないのでそのまま進めますが,なぜコナトゥスがあるのかということを,別の観点から説明することを試みています。別の観点というのは,実際にコナトゥスに触れている第三部定理六および第三部定理七とは無関係といえる観点です。
 『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第三部定義三は,運動への傾向を説明しています。これは思惟Cogitatioのことではなく,物質部分が運動へ傾く位置にあって,何らかの原因causaによって妨げられなければ,ある方向へ赴いているであろうという意味だとされています。これは物理学の用語でいえば,慣性の法則といわれるものであって,運動している物体は,その運動を妨げる原因がない限り運動し続けるということを,ここでは運動への傾向という語で表しているのです。
 この運動の傾向というのは,新潮文庫版で畠中が訳注を入れているように,ラテン語ではconatus ad motumです。つまりここでコナトゥスという語が使用されているのです。つまりスピノザは,慣性の法則を説明するときに,コナトゥスという語を用いているのです。國分はこの点に着目しています。スピノザが,これを思惟のことではないといっているのは,運動への傾向というのが,その運動をしようとしているということではないということをいいたかったためで,単に運動に傾く位置にあり,それを妨げる原因がないということにすぎないといいたいのです。
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戸口の雑感⑱&積極的論証

2024-05-25 20:22:46 | NOAH
 戸口の雑感⑰でいったように,戸口が新日本に移籍した直接の契機は,新間寿に会ったことでした。全日本を退社することになった戸口は,ジャンボ・鶴田にそのことを伝えました。鶴田はそれなら自分も辞めるといって,辞表を用意して戸口に見せたそうです。これについては,鶴田は役員だったから辞表が必要だったと戸口は言っていますので,戸口は辞表のようなものは出さずに全日本を辞めたということでしょう。戸口と全日本の間には,少なくともすぐに戸口が新日本プロレスに出場するには契約上の問題があったようですが,それは新間が解決したといっています。おそらく違約金が新日本プロレスから全日本プロレスに支払われたのでしょう。
 新間は,この頃に鶴田とも極秘裏にあったと明かしています。新日本プロレスはできるなら戸口よりも鶴田を引き抜きたかったのではないかと思います。鶴田を引き抜いた方が,全日本プロレスの打撃は大きかったであろうからです。どういう経緯があったか定かではありませんが,鶴田は結局は全日本プロレスに残り,仕事を続けました。
 でいったように,この時期は日本テレビが全日本プロレスに社長を送り込み,鶴田がリング上のエースになり,ブッカーも務めることを目指していました。ですから日本テレビから鶴田に対し,全日本プロレスに残るように慰留があったことは考えられます。天龍の雑感⑩で,天龍は鶴田と共に全日本プロレスの社長から小切手をもらったといっていますが,時期はともかく話としては辻褄が合います。
 鶴田はブッカーの仕事はやったことがありませんでしたから,日本テレビの要望には思い悩みました。それで佐藤昭雄を頼ったのです。佐藤昭雄が全日本プロレスのブッカーを務めることになったのは,これが契機となっているようです。ですから,このことに思い悩んで鶴田が全日本プロレスを辞めようと思ったというわけではありません。佐藤がブッカーを務めるようになったのは,戸口が辞めた後のことだったからです。ですから戸口がいうように,鶴田が本当に辞表を書いていたのなら,それとは別の何らかの理由があったということになるでしょう。
 戸口の雑感はこれで終了です。

 僕の考えでは,第三部定理四だけで第三部定理六を論証するのは不十分です。あるものを滅ぼすものはあるものの本性essentiaには含まれないということでそのあるものが自己の有esseに固執するperseverareことを論証するのであれば,ある積極的な事柄を論証するために,消極的な材料を用いていると考えられるからです。すなわち,もし現実的に存在するある個物res singularisが自己の有に固執することを論証するのであれば,そのものが自己の有に固執することを積極的に論証するべきであって,そのためには,そのものを滅ぼすものがそのもののうちには含まれないというだけでは十分ではないと僕は考えるのです。たぶんスピノザもそのことには気が付いていて,だから第三部定理四と共に第三部定理五に訴求したのだと思われるのですが,第三部定理五から,現実的に存在する個物が自己の存在existentiaを除去しようとするものに対抗するということが出てくるのかということは疑問です。ただしそれが帰結させられるのであれば,第三部定理六の論証Demonstratioは成功しているといえるでしょう。少なくとも,自己の存在を除去するものが現実的に存在する個物のうちに含まれてなく,かつ自己の存在を除去しようとするものには対抗するのであれば,現実的に存在する個物は自己の有に固執しているといえると僕は考えます。ただそこには疑問な点も含まれていますから,國分がいっていること,すなわちスピノザは現実的に存在する個物がコナトゥスconatusを有するのはなぜかということを十分に説明しないと指摘している点には,一理あると僕は思うのです。
                                   
 それでは続いて第三部定理七の証明Demonstratioを改めて確認しておきましょう。
 最初にスピノザがいっているのは,現実的に存在する個物はその本性を原因causaとしていくつかの結果effectusを生じさせるということです。これは第一部定理三六に訴求することができます。
 そして,そうしたことはすべてDeusの本性によって決定されているのであって,他面からいえば,神の本性から決定されていないような結果を本性を原因として生じさせることはできません。これは第一部定理二九に訴求することができます。
 スピノザがいっているのはほぼこれだけですが,これは成功しています。
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女流王位戦&第三部定理六証明

2024-05-24 19:06:22 | 将棋
 飯塚市で指された昨日の第35期女流王位戦五番勝負第三局。
 福間香奈女流王位の先手で5筋位取り中飛車。後手の加藤桃子女流四段が超速銀で対応し,6筋で銀が向かい合ってから駒組。先手が銀冠,後手が左美濃になりました。
 この将棋は後手が8筋を突破しにいったときに先手が7九に角を打って受け,この角の威力で先手が1筋の突破に成功。後手はこれで悲観してしまったようです。確かにすでに後手が苦しくなっていたと思いますが,諦めなければならない局面ではなかったようにも思えました。
                                        
 ここで後手は☖3三同桂と取りました。
 ここから先手が☗5四歩☖同歩☗3四歩☖同金☗6五歩☖5三銀☗5五歩☖同歩☗5四歩☖同銀と攻めたのは流れるような手順。後手としてもいいなりになるほかありませんでした。
                                        
 ここまで進んでしまうと☗5七角と出て☗7五角を狙う手が厳しい上,☗9七角も狙いとして残って先手が勝勢です。第1図で☖3三同銀と取ると☗2三成香とされますが,そこで☖4二玉としておけば,実戦のように先手が一方的に攻めて勝つのは難しく,どこかで受けに回る必要が生じそうなので,苦しいとはいえ後手もまだ戦えたのではないでしょうか。
 3連勝で福間女流王位が防衛第23期,26期,27期,28期,30期,31期,32期,33期,34期に続く六連覇で通算10期目の女流王位です。

 國分は,現実的に存在する個物res singularisにはコナトゥスconatusがあるということを,スピノザは十分に説明していないと解しています。それは,これらの事柄を論証するにあたってスピノザがなしている論証Demonstratioに,いくらかの不備がある,誤りerrorという意味での不備ではなく,説明不足という意味での不備が含まれていると解しているということでしょう。そこで,実際にスピノザがどのような訴訟過程をもってこれらを証明しているのかということを,改めて確認しておきましょう。
 第三部定理六の証明Demonstratioは以下のようになっています。
 まず,個物はDeusの本性を一定の仕方で表現するexprimere様態modiです。これは第一部定理二五系に訴求することができます。
 次に,神の本性と神のpotentiaは同じです。これは第一部定理三四に訴求することができます。よって,神の本性を一定の仕方で表現するということと,神の力を一定の仕方で表現するということは同じです。このことから,個物にはある力があるということが理解できます。これにより,第三部定理六の証明に必要なのは,スピノザがコナトゥスを力とみなしていることだと分かります。
 さらにスピノザは,現実的に存在するある個物の存在を除去するようなものは,その個物の中には含まれていないといいます。これは第三部定理四に訴求することができます。そして最後に,現実的に存在する個物は,自己の存在を除去しようとする者に対しては対抗するといい,これを第三部定理五に訴求します。ここまでの訴求とは異なり,このことを第三部定理五に訴求できるのかということについては,僕は疑問を有します。第三部定理五は,たとえばAがBを滅ぼし得る限りにおいて,AとBが相反する本性を有するのであって,この限りにおいてAとBは同じ事物の本性を構成することができないといっているように解せるのであって,BがAに対抗するということがこのことからいえるようには思われないからです。
 第三部定理四は,現実的に存在する個物は,それ自身によってではなく,ほかのものによって滅ぼされるといっていて,ここには確かに,たとえばAを滅ぼすような本性はAのうちにはないということが含まれているといえると思います。
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狂人と聖人&ホメオスタシス

2024-05-23 19:11:34 | 歌・小説
 『生き抜くためのドストエフスキー入門』の第一章で,『罪と罰』の中で,ソーニャがラスコーリニコフが聖書の一節を読み聞かせる部分に触れています。これは『罪と罰』の第四部4節のプロットで,新約聖書のヨハネによる福音書の中の,ラザロの復活といわれる部分です。
                                        
 読み聞かせの前にラスコーリニコフは,ソーニャのことをバカな女だ,狂信者だと思い,それを何度も腹の中で繰り返します。その後にラスコーリニコフが新約聖書を発見し,当該部分を読むようにソーニャに依頼します。この聖書はソーニャの聖書ですが,ソーニャがリザヴェータからもらったものでした。リザヴェータというのは,ラスコーリニコフが金貸しの老婆を殺したときに,その場に居合わせたためにやはりラスコーリニコフによって殺されてしまった女です。そしてソーニャは,殺されたリザヴェータは神様に会うだろうとラスコーリニコフに伝えます。するとラスコーリニコフは,ソーニャだけでなくリザヴェータもばかな狂信者であって,伝染病のように自分もばかな狂信者になってしまうのではないかと思います。
 ここで狂信者といわれているのは,実際には神がかりに近い意味なのだと佐藤は指摘しています。つまり,狂信者というと単に狂人というような意味に受け取ることができますが,ロシアでは狂人といわれるような人間は神との繋がりをもつことができる特殊能力をもっているとみなされることがあり,したがってダブルスタンダードかもしれませんが,そこには聖人というような意味が含まれているのだそうです。つまりこの部分は,ラスコーリニコフはソーニャおよびリザヴェータを狂人と思っていて,自分も狂人になってしまうのではなかと恐れていたという意味があるのと同時に,ソーニャもリザヴェータも聖人であって,自分も聖人になってしまうのではないかと恐れていたという意味合いも含まれているのです。よってここには,自分は聖人などにはなりたくないというラスコーリニコフの思いが含まれていると佐藤は指摘しています。
 狂人になりたくないと,聖人になりたくないでは,受け取る意味合いが異なるでしょう。そしてラスコーリニコフという人間のキャラクターとして,ここは後者の意味合いの方が強いのではないかと思われます。

 欲望cupiditasと意識conscientiaに関連する考察はここまでですが,この考察は,人間の現実的本性actualis essentiaと大きな関係をもっていました。第三部定理七にあるように,個物res singularisの現実的本性は,自己の有に固執しようとするコナトゥスconatusとされています。考察の中で指摘しておいたように.これはすべての個物に適用される現実的本性で,人間も現実的に存在する個物のひとつであるという点で,この現実的本性が適用されるのです。ですから,國分も欲望と意識を巡る考察の中で,コナトゥスに触れています。その中で,スピノザがいっているコナトゥスをどのように理解するべきかということを國分は説明しています。この説明に関して,その部分だけを抽出して,僕の方から加えておきたいことがあります。
 第三部定理六に関しては,現代の生理学でいわれるところのホメオスタシスの原理に近いものと理解して不正確ではないと國分はいっています。ホメオスタシスというのは生物に特有の原理で,第三部定理六というのは,現実的に存在するすべての個物に妥当する定理Propositioなので,ホメオスタシスよりは広きに渡ります。なので生物に限定していえばというように國分はいっていて,そのことは間違いないものと思います。ただ僕は,現代の生理学でいわれるホメオスタシスというのを,『エチカ』の第三部定理六でいわれていることを,生物に適用した原理であるというように解する方が自然であると思います。もちろんこの原理は,スピノザの哲学を念頭に置いて構築された原理ではないでしょうが,自然科学の原理というのはそれを支える形而上学というのが必ずあるというように僕は考えていて,現代の生理学の一部は,スピノザの形而上学によって支えられているというように僕は解するからです。
 ただし,なぜ現実的に存在する個物は自己の有に固執しようとするのかということ,あるいは同じことですが,なぜ現実的に存在する個物にはコナトゥスがあるのかということについて,スピノザは十分に説明していないと國分はいっています。十分であるかないかというのは受け取る側の観点なので,この指摘は正しいとも正しくないとも僕にはいえませんが,そういわれる面があるのは事実です。
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プラチナカップ&ターニングポイント

2024-05-22 18:58:49 | 地方競馬
 第7回プラチナカップ
 ボンディマンシュは立ち上がって2馬身の不利。ツーシャドーが逃げて2番手にアランバローズ。3番手にブルベアイリーデとポリゴンウェイヴで5番手にアマネラクーンとブンロート。2馬身差でジャスティン。3馬身差でティーズダンクとサヨノグローリー。2馬身差でスマートセラヴィー。3馬身差でボンディマンシュ。最後尾にカジノフォンテンという隊列。最初の600mは35秒7のハイペース。
 3コーナーからツーシャドーとアランバローズが雁行。コーナーで一旦はアランバローズが前に出たのですが,また内のツーシャドーが盛り返しました。4馬身ほど離れた3番手にアマネラクーンが上がり,その外のサヨノグローリーが4番手に。直線に入ってもツーシャドーとアランバローズの競り合いが続き,外からアマネラクーンも差を詰めていき,3頭が並ぶようにフィニッシュ。外のアマネラクーンが差し切って優勝。ツーシャドーがクビ差の2着に粘り,アランバローズがアタマ差で3着。大外のサヨノグローリーは4分の3馬身差で4着。
 優勝したアマネラクーンは南関東重賞初制覇。浦和の1400mを中心に走ってきた馬で,これまで24戦して16勝。南関東重賞では勝てていなかったのですが,この条件であればいつ勝ってもおかしくないと思っていました。今日は前の2頭の競り合いに乗じたところはありますが,この条件であればこれからも大きく崩れることはないと思います。ただ,年齢的にこれ以上の上積みは難しいでしょう。祖母は2001年にさきたま杯と兵庫ゴールドトロフィーを勝ったゲイリーイグリット
 騎乗した船橋の森泰斗騎手クラウンカップ以来の南関東重賞60勝目。第1回,3回に続いて4年ぶりのプラチナカップ3勝目。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞66勝目。第2回以来となる5年ぶりのプラチナカップ2勝目。

 第三部諸感情の定義一のように,与えられたその各々の変状affectioによってあることをなすように決定されると考えられる限りにおいて,ということをつけ加えれば,精神mensが自身の欲望cupiditasないしは衝動appetitusを意識し得るということが出てくるのです。
 これをつけ加えなければならなかったのは,いい換えれば欲望の定義Definitioのうちに欲望する人間の精神mens humanaが自身の欲望を意識し得るということを含めなければならなかったのは,國分が指摘しているように,スピノザの哲学における定義の要件に関係していると思われます。國分はこの定義は,定義されているもの,この場合でいえば欲望の特性である,欲望は欲望する人間によって意識されるものであるということを,定義そのものから導き出すことができる,発生的定義の模範的な例であるとしています。これに対して,第三部定理九備考でいわれている,意識される限りでの衝動であるという欲望の定義は,発生的定義に対していえば,名目的定義なのです。つまりそれは,欲望という語をこのような意味で用いますという宣言にすぎないのであって,その宣言が,第三部諸感情の定義一において,発生的定義あるいは実在的定義に書き換えられているのです。國分はこの定義は,『エチカ』の中にあるいくつかのターニングポイントのひとつであるといっていたわけですが,これがターニングポイントであると國分がいうことの具体的な意味になります。
                                        
 國分もいっているように,このターニングポイントには意識conscientiaというのが決定的な関与をしています。これは,発生的定義となるようにスピノザが含ませたかったことが,この定義の中に,欲望は欲望する人間の精神によって意識され得るということを含めることであったといっていることから明白であるといわなければなりません。ですから,スピノザは人間の本性natura humanaと意識を明確に関連付けようとしているのです。他面からいえば,人間の現実的本性actualis essentiaである欲望を,人間は意識することができるということは,スピノザにとっては重要なことであったのです。第三部諸感情の定義一は,人間は自身の現実的本性を意識し得る,あるいは意識するということを,その意味として含んでいるのです。
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現在と未来&第三部諸感情の定義一説明

2024-05-21 19:10:36 | 哲学
 支払いの例から分かるように,第四部定理六四第四部定理六六は両立します。すなわち,悪の認識は混乱した認識cognitioであり,それは理性ratioによる認識ではあり得ないのですが,僕たちは理性に従うのであれば,より大なる未来の悪malumよりもより小なる現在の悪を欲望することになるのです。このことをどのように論理づけていくかが課題です。
                                   
 まず,課題の中で,わりと簡単に片づけられることをあげておきましょう。
 第二部定理四四系二にあるように,ものを永遠の相aeternitatis specieの下に認識するpercipereということは理性の本性natura Rationisに属します。よって,もしも理性が悪を認識するということがあるのなら,それがいつ与えられる悪であるのかということは関係ありません。ですから理性は単に大なる悪よりは小なる悪を欲望するのであって,それが現在の悪であるのか未来の悪であるのかということは関係ありません。つまりここでいわれていることのうち,その悪が未来に関係するか現在と関係するかということは,条件としては無視することができます。逆にいえば,理性は大なる悪よりは小なる悪を欲望するというだけで,未来の大なる悪よりも現在の小なる悪を欲望するということは帰結するのです。このことは,第四部定理六五でいわれていることなのであって,すなわち第四部定理六五でいわれていることが真verumであるのなら,第四部定理六六でいわれていることも真であるということが帰結するのです。よって,第四部定理六五は,ふたつの悪を理性が認識するということを前提としていますので,これがなぜ第四部定理六四と矛盾しないのかということを解決することができれば,第四部定理六六と第四部定理六四の間にあると思われる矛盾も解消されます。
 そこでここからは,第四部定理六五が,どのようなことを前提としていわれているのかということを考えていくことにします。

 第三部諸感情の定義一によれば,欲望cupiditasとは,与えられる各々の変状affectioによって,現実的に存在する人間が何事かをなすように決定される限りにおいて,人間の現実的本性actualis essentiaであるとなっています。したがって人間の現実的本性は,受動状態においてという限定をつけなければなりませんが,人間を何事かをなすように突き動かす力potentiaといえます。この力は第三部定理九備考でいわれている衝動appetitusにほかなりませんし,第三部定理七でいわれているコナトゥスConatusにほかなりません。したがってこの定義Definitioは,同じく第三部定理九備考でいわれている,欲望は意識を伴った衝動であるCupiditas est appentitus cum ejusdem conscientiaということを,否定しているわけではないことは理解できるでしょう。
 第二部定理二三は,現実的に存在する人間の精神mens humanaが,自身の精神を認識するcognoscereのは,その人間の身体humanum corpusが外部の物体corpusによって刺激されるaffici観念ideaを通してのみであるといっています。他面からいえば,僕たちはこの様式を通してしか自分の精神を認識しないのです。第三部諸感情の定義一が,各々の変状について言及しているのは,なぜ人間が自身の欲望を認識できるのかを示すことよって,第三部定理九備考でスピノザがいっていたことの妥当性の根拠を示すためであったと國分は指摘しています。確かに第三部定理九備考は,その全文を通して,人間の身体が外部の物体から刺激を受けるafficiこと,およびその刺激を受けた身体の観念を形成するということには触れていません。一方,第三部定理九は,人間が自己の有に固執していることと自己の有に固執していることを意識していることを等置しているように解釈できますが,なぜそのように解釈することができるのかということはまったく示していません。これらを合わせて考えるならば,この國分の指摘には一理あるといわざるを得ないでしょう。
 このことはスピノザの説明からも明白です。スピノザは,欲望を,人間があることをなすように決定される限りで人間の本性であると定義することができたけれどもそうしなかったことについて,次のように説明しているからです。
 「だがこの定義からは(第二部定理二三により)精神が自己の欲望ないし衝動を意識しうるということは出てこない」。
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能登半島支援・五稜郭杯争奪戦&第三部諸感情の定義一説明

2024-05-20 19:08:33 | 競輪
 昨晩の函館記念の決勝。並びは松井‐郡司の神奈川に佐藤,古性‐三谷‐東口の近畿,岩津‐棚橋の岡山で小倉は単騎。
 三谷がスタートを取って古性の前受け。4番手に岩津,6番手に松井,最後尾に小倉で周回。残り2周のホームを出てから松井が上昇。バックで古性の前に出て打鐘。ここで松井がペース駆けに持ち込んだので,古性は引かずに郡司の内での競りを選択。必然的にその後ろも三谷と佐藤で競り合い。この競り合いの影響で佐藤の後ろに続いていた小倉が落車。古性と郡司の競りは残り1周のバックの入口まで続き,ここで古性が番手を奪取。郡司は東口を阻んで三谷の後ろに。さらに佐藤との競りで三谷が苦しくなり,古性の後ろが郡司になりました。岩津はバックで自力で発進しましたが,これは不発。直線は番手を奪取した古性が松井を差して優勝。逃げた松井が1車身差で2着。三谷からは離れましたが郡司を追って外を追い込んだ東口が半車輪差で3着。
 優勝した大阪の古性優作選手は3月の松山記念以来の優勝で記念競輪11勝目。函館記念は初優勝。このレースは松井が先行1車だったので,どのような先行をするかがまず焦点。前受けの古性を叩いてすぐにペースを緩めましたから,ラインでの決着よりも自身の優勝を強く意識した走りになりました。2着には残っていますので,悪くはなかったと思いますが,番手を古性に奪われてしまったのは誤算だったでしょうから,ペースを緩めるにしても,ラインで出きってからにした方がよかったかもしれません。あるいは後ろが競っているなら,ペースアップするのをもっと遅い段階にするという策も取れたのではないでしょうか。松井のペース駆けになっては古性も優勝のチャンスが少なくなるでしょうから,番手に飛びついたのがよい判断であったと思います。

 第三部の最後に第三部の中で論じられてきた感情affectusを定義するにあたって,第三部定理九備考と一転して第三部諸感情の定義一のように欲望cupiditasを定義した理由は,スピノザ自身が説明しています。これはこの定義Definitioの後の説明に書かれているのですが,この説明はとても長いものですから,ここでは必要なことを簡潔にまとめます。
                                   
 スピノザは,欲望を意識された限りでの衝動appetitusといったのですが,衝動自体は意識されようとされまいと同一の働きactioをなします。いい換えれば,ある衝動が意識されたからといって,その衝動が別の衝動に変化することはありません。このために,欲望と衝動との間の差異というのは,それが意識されるかされないかという点にのみ存するのであって,それを排除すれば衝動と欲望は同一です。もしもある衝動は必ず意識されてある衝動は絶対に意識されないというならば,衝動と欲望の間に差異を求めることは可能です。必ず意識される衝動だけを欲望といい,そうではない衝動は欲望といわずに衝動といえばよいからです。ですが実際はそのようになっているわけではなく,ある衝動が意識される場合もあれば意識されない場合もあります。なので衝動と欲望は,それが意識されるのかされないのかという相違があるだけであって,事実上は同一のものであるという結論になります。
 このために,もしも欲望を衝動によって定義してしまうと,衝動は欲望と変わるところはないのですから,欲望を欲望によって定義することになってしまいます。これでは欲望に限らず,ものの定義になり得ません。だからスピノザはここで欲望を定義するにあたって,それとは別の仕方での定義を模索したのです。そのことについてはこのようにいわれています。
 「欲望を,我々が衝動,意志,欲望または本能という名称をもって表示する人間本性の一切の努力をその中に包含するような仕方で定義しようとつとめた」。
 このような意図をもって定義されているのが,第三部諸感情の定義一であるのです。國分はこの欲望の定義について,『エチカ』のうちにいくつかあるターニングポイントのひとつであるといってよいと指摘しています。なぜなのかを検討していきましょう。
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優駿牝馬&残余の部分

2024-05-19 19:10:50 | 中央競馬
 オークスの第85回優駿牝馬
 ショウナンマヌエラが前に出たのですが,その外に持ち出したヴィントシュティレが競りかけていき,向正面に入るあたりで3番手との差が6馬身くらいに。向正面に入ってからヴィントシュティレの方が前に出て,そのままショウナンマヌエラとの差を広げていきました。3番手はタガノエルピーダとランスオブクイーン。4馬身差でクイーンズウォーク。6番手にラヴァンダ。7番手はミアネーロとアドマイヤベル。9番手にステレンボッシュ。10番手にチェルヴィニアとサフィラ。12番手にパレハ。13番手にコガネノソラ。14番手にライトバック。15番手にエセルフリーダ。16番手にサンセットビューとホーエリートで,最後尾にスウィープフィート。最初の1000mは57秒7の超ハイペース。
 3コーナーでヴィントシュティレのリードは5馬身。ショウナンマヌエラを挟んで5馬身差でランスオブクイーンが単独の3番手に。ここから前が止まったこともあり,相対的にランスオブクイーンが勢いよく追い上げていくことになり,直線の入口では単独の先頭に。ランスオブクイーンは前をいく馬たちの外だったので,この馬の内外から後方に控えた馬たちが追い上げてきました。抜け出たのはランスオブクイーンの内のステレンボッシュとランスオブクイーンより外を回ったチェルヴィニア。この2頭が後ろを離しての優勝争いとなり,外のチェルヴィニアが制して優勝。ステレンボッシュが半馬身差で2着。ランスオブクイーンを含めた3頭の3着争いは大接戦。ランスオブクイーンのすぐ外のライトバックが1馬身4分の3差で3着。その外のクイーンズウォークがクビ差で4着。ランスオブクイーンがハナ差で5着。
 優勝したチェルヴィニアはアルテミスステークス以来の勝利。重賞2勝目で大レース初制覇。アルテミスステークスはかなりの能力を示しての優勝で,そこからぶっつけとなった桜花賞でも期待していました。結果的に桜花賞は大敗に終わってしまったのですが,それは状態が万全ではなかったということなのでしょう。これが本来の実力であると思われますので,今年の3歳牝馬はこの上位2頭と,NHKマイルカップに回ったアスコリピチェーノの3頭が,他に対して上位であるということでいいと思います。母の父はキングカメハメハ。母は2013年にフローラステークスを勝ったチェッキーノで祖母は2003年に京都牝馬ステークスを勝ったハッピーパス。ひとつ上の半兄は昨年の新潟記念を勝っている現役のノッキングポイント。Cerviniaはマッターホルンの山麓にある集落の名称。
                                        
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手はホープフルステークス以来の大レース制覇。第78回,79回,83回に続く2年ぶり4度目の優勝牝馬制覇。管理している木村哲也調教師はホープフルステークス以来の大レース10勝目。優駿牝馬は初勝利。

 部分的に同意するというのは,欲望cupiditasから衝動appetitusを差し引いた残余の部分が意識conscientiaであるという点は,僕は理論上はそうであるとしかいいようがないと考えるからです。実際には衝動は意識されるということをスピノザは前提としているというように第三部定理九は読解することができるわけですから,欲望から衝動を差し引いた部分が人間の精神mens humanaのうちに残余の部分として残るというようには,スピノザは考えていないと僕は考えるのです。だから第三部定理九備考にあるように,スピノザは衝動もまた人間の現実的本性actualis essentiaと認めているのではないでしょうか。ただし,僕は意識を観念の観念idea ideae一般と解し,観念を無意識と解しているのですから,実際に現実的に存在する人間が,自身の衝動のすべてを意識するというようには考えません。つまりスピノザがいっていることの解釈を離れ,僕の見解opinioに寄せていうなら,確かに國分がいっている通りになると思います。一方,人間の特徴が自身を突き動かす力potentiaを意識しているという点であるという点には,僕は同意します。スピノザはまさにそのようにいっていると考えるからです。ただし僕は,現実的に存在する人間が,自身を突き動かす力すなわち衝動のすべてを意識していると考えているわけではありません。
 次に國分は,第三部定理九備考で欲望についていわれていること,すなわち意識された限りでの衝動であるということが,第三部諸感情の定義一では異なって定義されていることの理由を検証しています。すでにいったように,第三部諸感情の定義一の欲望は,第三部定理九備考で欲望についていわれていることよりも衝動についていわれていることに近似した内容になっています。そしてなぜそのようになっているのかということは,僕は平行論の同一個体という観点から説明しましたが,ここからはそれを國分がどう説明しているのかということを検討していくことにします。
 まず最初に踏まえておかなければならないのは,第三部諸感情の定義というのは,第三部の最後に記述されたものです。したがってこれは,第三部の全体を通して論じられてきた諸々の感情affectusについて,それらをリスト化したものであることになります。
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アルペンローズ&現実的本性と意識

2024-05-18 19:22:56 | 血統
 天皇賞(春)を勝ったテーオーロイヤルの輸入基礎繁殖牝馬は祖母のアルペンローズです。母がバラダの半妹に当たる同一牝系でファミリーナンバーA4
                                        
 海外で2戦して未勝利だったのですが,繁殖牝馬として輸入されました。アルペンローズの生年はノーリーズンと同じですから,たぶんノーリーズンの活躍が輸入の契機になったものと思われます。
 日本では11頭の産駒を産みました。重賞の勝ち馬は出ていませんが,重賞2着馬は出ています。
 この11頭のうちの6頭が牝馬。そのうちの5頭は繁殖牝馬となってすでに子孫を残していますので,牝系は広がっているところ。現時点で最も成功したのが2008年にマンハッタンカフェとの間に産まれた牝馬。この馬が2017年に産んだのが,2021年のみやこステークス,2022年のマーチステークスと帝王賞,2023年のかしわ記念帝王賞と大レースを3勝している現役のメイショウハリオ。テーオーロイヤルはメイショウハリオのひとつ下の半弟となります。
 それ以外に重賞の勝ち馬は出ていませんし,南関東重賞の勝ち馬も出ていません。北海道で昨年の栄冠賞を勝ち,今年のネクストスター北日本も勝っている現役のストリームは,2011年にアルペンローズとディープスカイの間に産まれた牝馬の産駒です。牝系は広がっている途上ですから,まだ活躍馬が出てくる可能性もあるでしょう。

 第三部定理九は,僕たちの精神mensは自己の有esseに固執しているということだけをいっているのではなく,同時にそれを意識しているといっています。なぜそのようにいえるのかといえば,僕たちの精神が自己の有に固執していれば,僕たちの精神はそれを意識しているということをスピノザは前提しているからだと思います。ですから,単に自己の有に固執するperseverareことが精神の現実的本性actualis essentiaであるとすれば,それが現実的本性であるということを僕たちは認識するcognoscereのです。よってこの場合は,少なくとも僕たちの精神の現実的本性は,明確に意識conscientiaと関連付けられているといえるでしょう。もっとも國分は,スピノザは人間の本性natura humanaを説明するにあたって,意識という概念notioを必要としたのだという主旨のことをいっていて,このことは僕には肯定し難いものを含んでいます。別に意識という概念を必要としていたわけでなく,意識されようと意識されまいとそれが人間の現実的本性であるということはスピノザは認めていて,いい換えれば欲望cupiditasであろうと衝動appetitusであろうとそれが人間の現実的本性であるということをスピノザは認めていて,それがある場合には衝動といわれ,ある場合には意識を伴ったものとしての欲望といわれるというようにスピノザはいっていると僕は解するからです。國分のいい方に倣えば,現実的に存在する人間を突き動かす力potentia,これが衝動ですが,それは人間の現実的本性なのであって,しかしそのことを僕たちは意識するので,意識された衝動である欲望は,衝動が人間の現実的本性であるといわれるのと同じ意味で人間の現実的本性といわれているのであり,僕たちを突き動かす力のほかに僕たちの意識を,僕たちの本性を規定するために必要としていたわけではないと僕は考えます。
 國分は自身の説をさらに敷衍して,人間の本性は欲望であり,欲望が意識を伴った衝動であるのなら,欲望から衝動を差し引いた残余の部分が意識なのであって,人間の特徴は,自らを突き動かす力を意識している点にあるといっています。ここでなぜ人間の本性といわずに人間の特徴といっているのかは僕には分かりません。僕はこの主張については部分的に同意するといっておきます。
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アグネスフローラ&衝動と欲望

2024-05-17 19:12:51 | 名馬
 東京プリンセス賞を勝ったフェルディナンドの4代母はアグネスフローラです。
 3代母がヘザーランズ。母は1979年のJRA賞の最優秀3歳牝馬に選出されたアグネスレディー
 デビューは2歳の12月。このレースを勝つと年明けの特別戦も勝利。さらにエルフィンステークス,当時はオープン特別だったチューリップ賞も勝って4連勝。この成績で桜花賞に出走すると見事に勝利。初の重賞制覇を大レースで達成しました。オークスはエイシンサニーの2着。しかしこの後で故障を発症して発症してしまったために,そのまま現役を退くことになりました。秋は走れなかったもののJRA賞の最優秀3歳牝馬に選出されています。
 繁殖牝馬となって大きな結果を残しています。3頭目の産駒が牝馬で,この馬の子孫からは2019年にラジオNIKKEI賞を勝ったブレイキングドーンが出ています。フェルディナンドもこの牝馬の子孫です。
 4頭目の産駒はアグネスフライト。2000年に京都新聞杯を勝って出走した日本ダービーを勝っています。
 アグネスフライトのひとつ下の全弟はアグネスタキオンです。
 自身が大レースを勝った上で,産駒が2頭も大レースを制しました。日本を代表する名牝の1頭といっていいと思います。

 これでみれば分かるように,國分が衝動appetitusは人間の本性natura humanaではないと解しているのであれば,その点は明確に誤りerrorであると僕は解します。一方で,スピノザが衝動も欲望cupiditasも同じように人間の本性としていることについては,矛盾があるとは思いません。というのは,第三部定理九備考でスピノザが欲望は意識される限りでの衝動であるというとき,スピノザはこの意識conscientiaを無意識との対比で解しているわけではなく,認識される限りでの衝動であるというのと同じ意味でいっていると僕は考えるからです。したがってスピノザは,意識されない衝動,あるいは同じことですが認識されない衝動があるということは認めていると思われるのですが,この点はここでは注目しなくても構いません。欲望が認識される限りでの衝動であるというのは,欲望とは衝動の観念ideaであるというのと同じです。つまり衝動がXであるなら,欲望はXの観念なのです。
                                   
 第二部定理七によれば,観念と観念対象ideatumの原因causaと結果effectusの連結と秩序ordo, et connexioは一致します。すなわちXとXの観念は同一個体です。つまり衝動と欲望は同一個体なのです。スピノザは衝動を人間の身体humanum corpusとも人間の精神mens humanaとも関連付けているわけですが,欲望が認識される限りでの衝動とされているのであれば,このことは衝動が身体的な衝動であろうと精神的な衝動であろうと同じことです。だからスピノザは第三部定理九備考で衝動についていっていることを,第三部諸感情の定義一では欲望についていうことができたのです。Xが人間の受動的な現実的本性actualis essentiaを構成するのであれば,当然ながらXの観念も人間の受動的な現実的本性を構成するからです。
 僕は平行論を採用しますからこのように説明します。しかしもしも同一説を採用するなら,このように考える必要すらないといえるでしょう。人間の現実的本性が衝動で衝動の観念が欲望とみなされるのであれば,単に衝動と欲望は同じことのふたつの側面であって,それがある場合には衝動といわれ,別の場合には欲望といわれるというだけの差異があることになるからです。
 次に,スピノザが人間の本性を意識と関連付けていることについては,たとえ衝動が人間の本性でも僕は否定しません。
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