スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

エンプレス杯&第二部定理六

2007-02-28 22:21:26 | 地方競馬
 エンプレス杯
 はっきりとした逃げ馬が不在でしたが、トーセンジョウオーが先手を奪いました。これをフサイチパンドラとクインオブクインが追い、レマーズガールは4番手。サウンドザビーチが6番手で、発馬が悪かったペディクラリスは後ろから3・4番手。かなりスローペースでしたが、わりと縦長に。長い向正面の中ほどからペディクラリスが外を進出。サウンドザビーチはこれを先に行かせ、レマーズガールは一緒にいこうとしたと思うのですが、スピードが上がりません。3番手まで進出したあたりでトーセンジョウオーもペースを上げ、これにフサイチパンドラもついていき、ペディクラリスはそこで一杯。結局、前をいった2頭が抜け出してのマッチレース。船橋のトーセンジョウオーが逃げ切って優勝。
 南関東転入後はこれが初勝利。重賞は4勝目ですがGⅡは初めて。川島正行調教師、内田博幸騎手のコンビはグランプリカップのプライドキムと同じ。内田騎手は金盃も勝ちましたので、2月の南関東の重賞全レース制覇となりました。母系はスカーレットインクの一族です。
 フサイチパンドラのような馬は、楽勝するか惨敗するかが大概のパターンで、2着は意外。能力的にはすべてを出し切ってはいないという印象です。
 やや離された3着は一番外から伸びてきたサウンドザビーチで、レマーズガール、ペディクラリスまであまり差がなく入線しました。

 第三部定理二を論証するためには第二部定理六が不可欠になりますので、証明の前にこちらを。
 「おのおのの属性の様態は、それが様態となっている属性のもとで神が考察される限りにおいてのみ神を原因とし、神がある他の属性のもとで考察される限りにおいてはそうでない」。
 この定理でスピノザが意味しようとしていることはおおよそ次のようなことと思います。
 XというAの属性の様態(ここでは個物を念頭におきます)があるとします。するとこのXは、第一部定理一五により、神によって存在と作用(この場合は存在だけを考えるだけで十分です)に決定されます。しかしこのとき、XがAの属性の様態であることに注目するなら、いい換えれば、XがAという属性が一定の仕方で変状した様態であることに注目するなら、Xの原因が神であるといっても、その神を第一部定義六でいわれている絶対に無限な実体と考えずとも、単にAの属性と考えるだけでよいということです。
 この第一部定義六により、神は無限に多くの属性によってその本性を構成されるわけですが、ある様態の原因としての神を考える場合には、そうした仕方で神を考える必要はなく、ただひとつ、その様態が属している属性だけを考えれば十分なのです。
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準備委員会の反発&第三部定理二

2007-02-27 22:24:15 | 将棋トピック
 新法人設立準備委員会によると、日本将棋連盟(理事会)は、要望を出した後で、女流棋士全員に手紙を送付したそうです。今日はこの手紙の内容について。ここで最も僕に重要と思えるのは、女流棋士が一致して独立するなら棋戦の管理と運営を引き渡す用意があるとしている点。手紙という私的なものですが、文書の形でこういう言質を取った意味は少なくないように思えます。引き渡す、ではなく用意があるといういい方は微妙ですが、おそらくこれは棋士総会の議決が必要なので、はっきりとはいえないのでしょう。準備委員会は、この手紙の後半部分について、女流棋士の結束を乱そうとしていると感じたようです。もちろん、そうした効果があるということは否定できないでしょう。ただ、僕も流れで書いたような決着を望みますが、そうなると決まったわけではなく、そうならない場合もあるでしょうから、そういう場合にはどうするかということを考えておくのは、そんなに不自然なこととは思えません。女流棋士が二派に分かれるというのがこの場合の最悪のケースと思いますが、そういうケースになってしまった場合については、準備委員会側も考えておくことだけはしておいた方がいいように思います。また、そもそも女流棋士が結束して行動するなら、この部分は何の意味ももたないのです。ですので、この手紙に対してこれだけ強く反発するというのは、やはり理事会に対する不信感とか怒りといった感情の方が先走っているように思えてなりません。僕は女流棋士が連盟から独立すること自体は賛成で、この点では準備委員会を支持しますが、こと、現状の理事会と準備委員会との対立という観点だけに着目する限りでは、双方が感情的に他方を非難しているように思え、残念ながらどちらも支持する気にはなれないのです。
 明日は川崎でエンプレス杯。岩手のサイレントエクセルが取消で12頭。レマーズガール◎が勝つと思います。相手はまずサウンドザビーチ○で、あとトーセンジョウオー△、ペディクラリス△。僕は軽視しますがフサイチパンドラが圧勝というケースもあり得るでしょう。

 責任という概念が一般的にはどのように考えられているかをみていく前に、人間の意志が自由なものであると僕たちが思っているとしたら、スピノザからすればそれは第一部定理三二により誤解であるわけですが、もうひとつ、よくある誤解の方を先にみておくことにします。それを示しているのが第三部定理二。「身体が精神を思惟するように決定することはできないし、また精神が身体を運動ないし静止に、あるいは他のあること(もしそうしたものがあるならば)をするように決定することもできない」。ここでは、人間の身体が人間の精神をある思惟作用に決定することができるかどうかということは問題ではなく、人間の精神が人間(自分)の身体を運動や静止に決定できないということが重要になります。なぜなら、ある人間の意志作用というのはその人間の精神のうちに含まれるような思惟の様態であるのに対し、人間がある行為をなすというのは、その人間の身体のある運動にほかならないからです。したがってこの定理からみれば、人間の意志はその人間自身の行為を決定することはできない、いい換えれば、人間の意志は自身の行為の原因(第三部定義一の、十全な原因と部分的原因のどちらの意味でも)ではあり得ないということになります。つまり、人間の意志が自由なものであると考えることが誤りであるのと同様に、もしも人間が自分の意志によって自分の身体を動かし得ると考えるなら、スピノザの立場からはこれも誤りであるということになるのです。
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将棋連盟の要望&責任論の発生

2007-02-26 22:02:39 | 将棋トピック
 流れの話と前後しますが、2月14日付で、日本将棋連盟から新法人設立準備委員会に対して4つの要望というのが公開されています。今日はこの要望について考えます。まず4ですが、これには法律上の議論がおそらくは不可欠で、棋士は法には疎いでしょうから専門家である弁護士を交えるというのは妥当でしょう。2は、女流棋士は棋士として一人ひとりが独立しているというのが僕の考えの前提ですが、現実的に中学生や高校生もいますので、そういった棋士の保護者にも十分な説明をするということは必要だろうと思います。3は、棋界は師匠がいなければ入門できない仕組みになっていますから、その観点からはやる意味はあるでしょう。ただし、これはやったところで問題解決のために前進できることかどうかは微妙なように思います。1は正直なところ僕には意味不明です。もしも準備委員会ではなく、女流棋士会との話し合いを望むという意味なら、準備委員会が女流棋士会とは相対的に(この相対的という意味もよく分かりませが)独立していると認めているわけですから、独立の問題について話し合う意味はないと思われます。一方、もしも仲間として話し合いたいという要望なら、それが何を想定しているのか僕には分からないです。ここからは、連盟(理事会)と準備委員会との話し合いが険悪な雰囲気にあるのだろうということが推測できるだけです。連盟は同委員会を敵対者のようなものとみなしていて、怒りとか不信感のようなものに満ち溢れ、この委員会とは話し合いたくないといっているだけのようにも思えます。そしてもしもこの推測が正しいのであるなら、話し合いの進展を阻害するのはむしろそうした感情そのものではないかと思えます。

 確かにこの第二部定理三二から、スピノザの哲学、あるいはエチカにおける責任論の問題が発生してくるのです。これはむしろ一般論的な考え方になるのですが、意志というのはその意志された内容を行為するということを伴っています。あるいはある人間がなす行為の原因としてその人間の意志が措定されるのです。したがってこの一般論に従えば、人間の意志が自由なものではなく強制されたものであるということは、取りも直さず、人間の行為は自由なものではなく強制されたものであるということを帰結させるのです。一方、責任という概念が一般的にはどのように考えられているのかということについては、また後に詳しく考察してみるつもりですが、簡単にいって、もしも人間がなすすべての行為が強制されたものであるなら、逆のいい方をすれば、もしも人間のなすすべての行為について、その人間はそれ以外の行為をなすことが不可能であったということを認めるならば、人間は自分のなした行為に対して責任を負うことができないように思えますし、また逆に、ある人のなした行為に対して責任を追及するということができなくなるように思えます。極端な例をいえば、たとえある人間が殺人という行為をなしたとしても、その行為が強制されたものであるなら、どうしてその人間がその殺人という行為に対する責任を負うことができるのでしょうか。
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東西王座戦&第一部定理三二証明

2007-02-25 22:27:36 | 競輪
 東西王座戦。2レースなので簡単に。まず西。小嶋選手の前受け。小野選手は周回中は競らずに5番手から。打鐘から8番手の村上選手が上昇し抑えて先行態勢に。小野選手も一緒に上昇し、浜口選手の外で競り。さらにホームでは3番手を内で山田選手、外で小嶋選手の取り合いになったのでかなりごちゃつきました。ここから小嶋選手が発進。村上選手も合わせようとしましたが現状の力の違いで小嶋選手があっさり捲りきってバックでは先頭に。番手は小野選手が奪い、浜口選手はインに切り込みましたが村上選手に閉められそこまで。加倉選手が離れたので3番手に村上選手。結局、抜け出した前の2人での争いとなり、小嶋選手が小野選手の追撃を凌いで優勝。小野選手が2着で3着に村上選手でした。優勝した石川の小嶋敬二選手は四日市記念優勝、静岡記念準優勝でここは完全優勝。今年は期待できそうです。続いて。前受けは白戸選手。佐藤友和選手が3番手で神山選手はその番手の有坂選手の外併走。残り2周のバックで有坂選手が一旦下げ、神山選手の外へ。周回中の動きはこれだけで、白戸選手が流れ先行。バックで佐藤友和選手が発進すると力の違いであっさり捲りきりました。番手は神山選手が奪いましたが、渡辺選手に絡まれ、白戸選手がはまる形に。しかし白戸選手は力が残っていなかったので、直線に入る前から渡辺選手も踏み出しました。しかし佐藤友和選手が余裕を持って振り切り優勝。渡辺選手が2着で、神山選手がゴール線目前で渡辺選手にハウスする感じで落車してしまい(4着入線)、後方からの捲りになった岡部選手が3着に届いています。優勝した岩手の佐藤友和選手は奈良記念に続いて連続優勝。ホップ・ステップとGⅢ、GⅡと来たので、次のGⅠ日本選手権でも注目です。

 第二部定理三二は、意志が思惟の様態であることに注目し、これを第一部定理二八に訴えることによって証明されます。しかし、僕はここではなぜ意志が思惟の様態であるのか、とくにそれが神の意志と考えられる場合に、神の意志はなぜ神の絶対的本性に属さずに思惟の様態であるのかをスピノザはきちんと説明するべきであると考えていますので、この証明自体には不満を感じます。けれども、ここで責任論について考えていく場合には、当然のことながら僕は人間の責任ということについてを前提としていますので、人間の意志が、第一部定義七でいわれる意味で自由ではなく強制されたものであることさえ証明できれば十分なので、ここでの考察についてはこの証明で十分であると思います。なお、このことはこのように論理的な方法で証明できるのみではなく、たとえば老人に席を譲る場合などの例から、経験的にも明白であると僕は考えています。これについては反論もあると思われますが、出来事の一回性という観点から考える限り、少なくとも人間の意志については、強制されたものであると考えるのが妥当で、この定理は正しいと思っています。
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棋王戦&第一部定理三二の意味

2007-02-24 22:20:13 | 将棋
 棋王戦五番勝負第二局。互いに角道を開けた後、先手の森内棋王は飛車先、後手の佐藤棋聖は9筋の歩を伸ばして▲7八金。これを見て後手は四間飛車に。先手は飛車先の歩を交換しました。ここまでは王座戦第三局と同じ。羽生王座は△6二玉でしたが、佐藤棋聖は角交換して飛車をぶつけると、森内棋王は飛車交換。第一局以上に派手な序盤になりました。この後、互いに自陣飛車を打ち、21手目の▲5六角と引いた局面で昼休み。僕はここから観戦したのですが、上述のそれまでの手順は驚きでした。この局面、先手は飛車先が直通していることと一歩を取れそうなこと、後手は端を詰めていることと角を手持ちにしていることが主張といえそうです。その後、先手は歩得を果たして右銀を縦歩棒銀の要領で3六に繰り出し、後手は2筋の傷を消してから再び四間飛車に振って美濃囲いへ。31手目の▲6八玉としたのが2時半頃で、残念ながら観戦はここまで。ただこの局面、後手が2度も飛車を振った(こういうのは僕は初めて見ました。きわめて珍しいと思います)関係から手損をしている感じで、玉は囲えているもののいかにも立ち遅れていて攻め味に乏しい感じがしました。それが影響したかどうか分かりませんが、73手目の▲3四銀成の只捨てから▲6三角成の角切りという、結果的に角の丸損の強襲が決まり、森内棋王が1勝を返しました。終了局面だけをみても、どうも一方的な将棋だったように思えます。これで1勝1敗。ついでに通算成績も24勝24敗。このふたりはどこまでいってもいい勝負のようです。第三局は3月10日です。
 明日は東西王座戦が決勝。まず西。中部は別れて小嶋-浜口と山田-山口。村上-前田の近畿。小野-加倉-紫原の九州は小嶋の後ろで番手戦。ここは小嶋選手◎が中心。山田選手○を相手に浜口選手▲と小野選手△。続いて。こちらも北日本は別れて、佐藤友和-有坂-佐藤慎太郎と岡部-斎藤、神山-飯嶋の地元栃木、白戸-渡辺の南関東。こちらは佐藤友和選手◎に期待。有坂選手○を相手に、岡部選手▲と渡辺選手△。

 これで第一部定理三二の意味が明らかになったと思います。つまり、意志というのは、あるいは一般的な意志は個々の意志作用の総体のことですから、意志作用というのは、それ自身の本性によって存在と働きに決定される自由なものではなく、むしろ、それ以外の外部の原因によって存在と作用に決定されるという意味の、強制されたものであるということです。もっとも、僕たちの普通のことばの使い方からすれば、この場合には意志とか意志作用自体を主語に置くのではなく、むしろそうした意志作用の主体となるものを想定して、そうした主体を主語に考えるべきかもしれません。したがってこの場合には、この定理の意味というのは、ある意志作用というのは、それがどんな意志作用であると仮定しても、この意志作用をする主体の本性の必然性から生じる自由なものではなく、むしろその主体とは別の外部の原因によって生じる強制されたものであるということになります。もちろんこのとき、この主体というのは、人間であろうと三角形であろうと、あるいは神であろうと同様であるということになります。なお、このことに関しては、スピノザがここで意志というとき、どのような意味の思惟の様態としてそれを想定しているのかという観点から、僕には別の疑問があるのですが、これは今回の責任論とは無関係ですので取り扱わず、いずれ別の機会に考察してみたいと思っています。
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女流棋士の独立の経緯&第一部定義七

2007-02-23 23:15:55 | 将棋トピック
 先日の新法人設立準備委員会の声明に、これまでの経緯が詳しく記されています。一方の当事者からのものですが、事実関係には間違いのないところと思います。これによると、契機は将棋連盟の米長会長からの助言であったということで、これがなければこうした動きがすぐに生じたかどうかは分かりませんが、声明では「自分達のことは自分達で決めたいと切に願っている」とされていますから、原因で推測したことはそうも遠くはなかったように思います。
 声明の中で昨年の3月にまず助言を受けたのは、米長会長によれば中井六段と石橋四段だったようで、4月には少なくとも女流棋士会に所属するすべての棋士にはこれが伝えられていたと考えられます。その後、制度委員会の発足を受けて12月の女流棋士総会で、独立するという方向に進むことが議決されました。この議決には,古河二段は棄権したそうですが、ほかの棋士は分かりません。ただ、準備委員会の委員になった棋士たちは賛成したのだろうと推測されます。
 ただ、この議決が12月、また、独立の可能性がすべての棋士に伝えられたのが昨年の4月だったことを考えると、独立の目途を今年の4月に設定したのは早急すぎたという感が僕にはあります。連盟からの提案であったこと、独立に賛成した棋士が圧倒的多数であったことがこの時期を設定させたのかもしれませんが、これだけのことですからあまりに時間が少なすぎたように思えてなりません。もちろんそんなことをいっても、もう動き出してしまったわけですから仕方がないわけで、最善の結果はすべての女流棋士が将棋連盟から円満に新法人に移行することだと僕は思いますから、その結果のための最良の方法を見つけ出してほしいと思います。なお、一部の棋士が独善的に拙速にことにあたっているという批判もあるようですが、これは女流棋士にとって重大な転機ですから、慎重になる人もいれば、逆に張り切って働く人もあるでしょう。当事者の外部からみれば、それが拙速と受け取られるのはある意味では自然なことで、こうした批判というのはあまりあたっていないし、また気にすることもないだろうと思います。

 明日は棋王戦五番勝負第二局。佐藤棋聖が後手でどんな作戦でくるでしょうか。

 第一部定理三二を正しく理解するためには、そこでスピノザが自由libertasとか必然的necessariusということについて、何を意味しようとしているのかをきちんと把握しておくことが必須です。以前に第一部定理三二系をテーマとしたときの繰り返しになる(この第一部定理三二の系Corollariumなのですから当然といえば当然ですが)感もありますが、ここでもう一度、第一部定義七を振り返ることにします。
 「自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる」。
 これでみれば分かるように、スピノザは僕たちが普通はそう考えるように、意志と自由が直結した概念notioであると考えるのではなしに、自由と本性が関連した概念である、あるいは、あるものはそのものの本性naturaによって自由であるか自由でないかが判断されると考えています。これはよくよく誤らないように注意しなければなりません。
 なお、あるものはそのものの本性の必然性necessitas(法則)によって自由であるといわれますので、必然的というのを自由の反対概念に用いるとややこしくなるおそれがあります。そこで僕は、自由の反対概念には、必然的ではなく強制coactusの方を用いることにします。
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レディースオープン&第一部定理三二

2007-02-22 22:29:14 | 将棋
 このブログのスタイルの説明です。
 レディースオープントーナメント決勝三番勝負第三局。
 改めて振駒で先手になった里見香奈女流一級はいつものように中飛車。矢内理絵子女流名人は左美濃、先手も銀冠と持久戦になりました。
 仕掛けの前で千日手も懸念されましたが先手から打開して開戦。71手目で角交換になった後、74手目に☖5九角と打って後手が優位に立ったようです。局後のインタビューによると里見一級もここで非勢と思ったようですが、決定的な悪手となったのが77手目の☗1五歩と端攻めに出た手。これを咎められ、結果的に端から逆襲される形となってしまい、著しく形勢を損ねました。ここからかなり先手は頑張ったのではないかと思うのですが、その部分での差が大きすぎ、逆転には至らず矢内名人の優勝となっています。
 かなりの注目を集めた棋戦で、新しいヒロインの誕生を期待する雰囲気が大きかったのではないかと思うのですが、そういう中で第一人者としての貫禄を見せた矢内名人は立派であったと思います。里見一級としては大魚を逸したという感もありますが、ここまで進出してきたのがフロックでないということは明白で、すぐにまた大きなチャンスを得るのではないでしょうか。なお、里見一級は今日付けで初段に昇進ということです。

 明日から宇都宮で東西王座戦。昨年までは東西別々でしたが、今年からは一括開催です。

 これまでこのブログでは、『エチカ』の中のあるひとつの定義Definitioや公理Axioma、あるいは定理Propositioや系Corollarium、備考Scholiumを挙げて、それをテーマとして扱っていました。これは、あとで振り返るときに便利であるという意味があり、今回もそうすることにしたいのですが、ここで扱おうとしている責任論ということ自体については、スピノザは『エチカ』の中では何も言及していないのです。そこでこれについては僕が任意に設定するということにしますが、そういった部分としてはいくつか考えられるところでもあります。
 ただ、今回は、単に『エチカ』において責任という概念notioはあり得るのか、またあり得るとすればそれはどういったものなのかということだけではなく、そもそも、なぜ『エチカ』においてそうしたことが問題として生じてくるのかということも合わせて考察していきたいと考えていますので、そのための取り掛かりになる個所という意味で、第一部定理三二をテーマとして設定することにします。
 「意志は自由なる原因(causa libera)とは呼ばれえずして、ただ必然的な原因とのみ呼ばれうる」。
 もちろんここでは責任論について考えていくわけですから、このテーマ設定自体は暫定的なものであるといえなくもないのですが、確かに『エチカ』においてこのことを考えていかなければならない発端となっているのはこの定理であるように思います。
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金盃&責任論

2007-02-21 21:37:44 | 地方競馬
 このブログのスタイルの説明です。
 金盃。ここはどうしても逃げたいというタイプの馬が不在で、メイプルエイトかマズルブラストの先行と予想していましたが、意外にもチョウサンタイガーの逃げとなりました。前半の1000メートルが62秒8。ミドルペースではありますが、そういう馬が逃げたわりには早めだったとは思います。人気を分けたパーソナルラッシュとボンネビルレコードはほぼ中団の同じような位置からのレース。ところがパーソナルラッシュは向正面から3コーナーに入ろうかという段階では早々と手応えをなくしてしまい、馬群から置かれ気味になってしまいました。直線に入るまであまり動きのないレース。直線の入口では5・6番手まで上がっていたボンネビルレコードが、馬場の中央から抜け出し、最後はさらに後ろにいたコアレスハンターにやや差を詰められたという感はありますが、優勝しました。8月のサンタアニタトロフィー以来の勝利。主戦の的場文男騎手が馬に蹴られて重傷を負ったため、今日は内田博幸騎手に乗り換わっていましたが、何も問題ありませんでした。パーソナルラッシュを除けば実力上位は明らかで、順当な勝利といえそうです。コアレスハンターは、かつては東京大賞典GⅠで2着したほどの馬で、このレースも過去に2勝していますが、10歳にしてこの末脚は立派といえるでしょう。パーソナルラッシュの敗因(8着)はよく分かりません。ただ、このように訳の分からない大敗を喫することが多いタイプの馬ではあります。
 明日はレディースオープントーナメント決勝三番勝負第三局。もちろん勝った方が優勝ということになります。

 ずっと気にはなっていたものの、ずっと放置したままになっていたコメントがあります。このひろきさんのご質問ですが、僕はなぜ人間には自由意志はないのか、また、自由意志がないということは責任をとらなくてもよいということになるのではないかという、二段構えのものであると理解しましたので、お答えしたような解答となったわけです。実際にはひろきさんは、責任うんぬんについて質問したかったわけではなく、なぜ僕が人間には自由意志がないと考えるのかということについて疑問を抱かれだけのようではありますが、しかし、人間に自由意志がないと考えることが、人間が自分自身のなした行為に対しての責任を放棄するということに直結するのではないかということは、確かに看過することができないような問題なのではないかと思います。そこで今日からは、この責任論というのを巡って考察をしていきたいと思います。もちろんこれはこのブログの主旨から照らし合わせて、スピノザの哲学、なかんずくエチカにおいて人間の責任という概念はあり得るのか、また、あり得るとすればそれはどのようなものであるのかということを考えていくわけですが、僕自身に関していえば、責任という概念については、スピノザの哲学だけでなく、ニーチェやフーコーからも何らかの影響を受けているということだけ、最初にいっておきます。
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第二部定理九系の援用についての弁明

2007-02-20 22:00:27 | 哲学
 個人的にある質問を受けました。これが哲学に関係していましたのでここで答えます。これは長くなりますし、またちょうどきりもいいところですので、昨日の予告通り、今日はテーマの方は1日お休みにして、明日から新しいテーマに入ります。
 質問の主旨は次のようなものでした。僕は第二部定理三八証明の過程において、第二部定理九系を援用しましたが、定理九系は観念の対象の中に生じる現象についての系であって、共通概念は、いわば観念の対象の中にある要素なので、これを援用するのは誤りではないかということです。
 実際にスピノザは定理三八の証明には第二部定理一一系を用いていて、定理九系には訴えません。そしてもしも定理九系をエチカにおいて論証されている通りの意味に理解するなら、確かにこの指摘は妥当なもので、僕の定理三八の証明方法は無効であるということになると思います。ただ、この場合にも、定理三八は少なくともスピノザがそうしているようなやり方では証明が可能なわけで、そちらの証明方法を採用するならば、この定理の内容が正しいことは明らかですから、第二部定義二の考察そのものは有効であろうと考えます。
 しかし、僕がこの過程において定理九系を援用したのには、僕なりの理由というものがあります。僕は定理九系の内容について、エチカで論証されているのとは異なった観点から解釈しているのです。というのは、定理九系というからにはこれは第二部定理九から直接的に帰結する筈なのですが、僕にはどうもその論証が正しくないように思われるのです。なぜなら、定理九から定理九系が帰結するためには、定理九系で観念の対象の中に起こることといわれていることの原因が、観念の対象そのものであるということ、かつそれは第三部定義一でいう十全な原因であるということが前提されていなければならないとしか僕には思えないのですが、これを無条件に前提することはできないのではないかと僕は疑問を抱いているのです。
 たとえば、Aというものがあって、このAがBと何らかの関係をすることによってAの内部にある変化Xが生じると仮定します。このXというのは明らかにAの中に起こることだと僕は思うのですが、同時に、このXはAとBが関係することによってのみ、その必然的な結果としてAの中にもたらされるわけです。するとXに対してAは十全な原因ではなく部分的原因であるということになります。またこのXの観念を神と関係づければ、第一部公理四からして、Xの観念はAの観念を有する限りでの神のうちにあるのではなく、Aの観念と共にBの観念をも有する限りでの神のうちにあるということになるのではないかと思うのです。そしてこうしたことを認めなければ、人間身体が外部の物体と関係することによって、人間精神が事物を表象する、すなわちある混乱した観念を有するということが説明できなくなってしまうように思います。このゆえに僕は、定理九系は定理九から直接的に帰結することはないと考えているのです。
 しかし一方で、第二部定理七を実在的に解釈した場合には、定理九系でいわれている内容のうちには、なお保持するべきものがあるようにも僕は思います。というのは、Aというのが形相的にあって、このAの中にある固有の事柄としてXがあるなら、この形相的なAの秩序と連結はAの観念の秩序と連結に同一というわけですから、Aの観念の中にはやはり固有の観念としてXの観念があるということになるからです。そしてこの場合には、Xの観念はAの観念を有する限りで神のうちにあるというべきであって、Aとほかのものの観念を有する限りでの神のうちにあるという方が不自然だと思えるからです。したがって、この観点から考えた場合には、定理九系は有効だと思うのです。
 つまり、僕は定理九系は定理九から帰結するのではなく、定理七に訴えることによって論証されるべきだと考えています。そして定理七というのは、スピノザがそうしているように、まず認識論的に第一部公理四から帰結するのです。したがってここで核となってるのはこの公理四で、定理九系を定理九から論証する仮定で、この公理四によって僕には不具合が生じるように思えますので、やはり定理九と定理九系でいわれていることの間には、観念の対象の中に起こることというのをどのように解釈するべきかという問題は残っているものの、少なくともそれを常識的なことばの使われ方から判断する限りでは、ある隔たりがあるとしか考えられません。
 僕が定理三八の証明の過程で定理九系を援用したのは、僕が定理九系をこのように解釈しているからであって、もしも定理九系がこのように定理七から論証されるべきだと考える場合には、それが対象の中に起こることといわれようと、対象の中にあらかじめあると仮定されるような要素だと考えようと、とくに差異が生じるものではないと思うのです。

 明日は大井金盃。ここはパーソナルラッシュ◎とボンネビルレコード○の首位争いと思いますが、これではつまらないのでマズルブラスト△かチョウサンタイアー△を絡めます。
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奈良記念&第二部定義二まとめ③

2007-02-19 20:42:15 | 競輪
 昨日の奈良記念決勝(動画)の回顧です。飯嶋選手がSを取って峠選手の前受け。佐藤選手が3番手で5番手に中村選手。大塚選手は周回中は競らずに最後方追走。残り2周から大塚選手はインを上昇し、佐藤選手の番手の有坂選手と競る形に。バックから中村選手がかまし気味に発進し、打鐘過ぎに近畿4人で先行態勢。峠選手が5番手を確保し、大塚選手は7番手まで追い上げ、佐藤選手は8番手。中村選手はまったく流さなかったので、ホームはほぼ一本棒で通過。これは前での争いになったと思われたのですが、バックから佐藤選手が捲っていくと、ほぼだれからの牽制も受けなかったこともあって、このスピードが最後まで衰えず、結局、前をいく7人の選手をすべて捲りきっての優勝となりました。佐藤選手マークの有坂選手は追走で一杯。中村選手の番手の大井選手が2着で、峠選手は動けなかったのですが、飯嶋選手が追い込んで3着に入りました。優勝した岩手の佐藤友和選手は、現在の競輪界を席巻しつつあるといえる競輪学校88期の若手選手のひとりで、24歳。記念競輪はこれが初優勝ですが、これからも回数を重ねていくでしょう。昨年のサマーナイトフェスティバルでも2着になっているように、ビッグにも手が届くクラスの選手だと思います。ここは前を回った自力型3人のうちでは力量最上位で、展開的には絶望的ともいえる位置でしたが、ある意味では当然の優勝といえなくもないかもしれません。市田選手の動きがちょっと中途半端だったような気がします。

 本性の定義に事物がなければ本性はあることも考えることもできないということをつけ加えることの妥当性は、第二部定理三七証明されている共通概念から考えることができます。なぜなら、もしもある知性のうちに十全な観念として共通概念があるなら、その知性はそれによって、共通概念と本性のそれぞれの特徴となるべきことを知ることができるからです。そこで最後の問題は、一般に人間精神のうちに共通概念はあるかどうか、またあったとしてそれは十全な観念であるかどうかということになるのですが、まず、第二部自然学①補助定理二(岩波文庫版上巻111ページ)により、人間精神のうちに共通概念はあります。そして第二部定理三八により、それが十全な観念であるということも証明されるのです。このゆえに、スピノザによる事物の本性の定義である第二部定義二は妥当であるということになり、僕もこれが完全な事物の本性の定義であると考えているのです。
 第二部定義二はこれで終了です。明日はこれに関連して個人的に受けた質問に答えることにして、新しいテーマは明後日から開始する予定です。
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フェブラリーステークス&第二部定義二まとめ②

2007-02-18 21:07:46 | 中央競馬
 第24回フェブラリーステークス
 外目の枠からダイワバンディットがハナを奪い、これをトーセンシャナオーやオレハマッテルゼなどが追っていく展開。偶然かもしれませんが、芝の競馬で活躍してきた馬たちが馬群を引っ張るというレースになりました。シーキングザダイヤ、サンライズバッカス、ブルーコンコルドは中団の後方よりの位置から。前半の800メートルは46秒6で、これはハイペースとはいえないと思いますが、ミドルペーストしては速い方なので、悪くはない位置取りであったと思います。
 直線に入ると馬群が大きく横に広がりました。どの馬も抜け出すのに苦労していましたが、これを尻目にこれらの馬群のさらに外に進路を取ったサンライズバッカスが絶好の手応えから追い出すと弾けるような伸び。内からサンライズバッカスのさらに外に出したシーキングザダイヤがこれを目標に追われたのですが、こちらは伸びを欠いてしまいました。スムーズに馬群を捌けなかったブルーコンコルドはさらに外に持ち出し追い詰めてはきましたが時すでに遅し。結局、1馬身半の差をつけてサンライズバッカスが優勝しました。
 優勝したサンライズバッカスはずっと善戦を続けていましたが、勝利となると一昨年の秋の武蔵野ステークスGⅢ以来。GⅠはこれが初勝利。騎乗した安藤勝己騎手は昨秋のマイルチャンピオンシップ以来のGⅠとなります。
 2着のブルーコンコルドは、やや脚を余してしまった感もありますが、最後は左へ左へと進もうとし、サンライズバッカスの内に入ってきていて、左回りは右回りに比べると、少し適性を欠くのかもしれません。それでも3着のビッググラスには2馬身半の差をつけていて、高い能力は示したと思います。シーキングザダイヤは9着。勝てないまでも大崩れはしないというタイプの馬で、この大敗は不可解。敗因は分かりませんが、今日はやや太かったとは思います。

 一般論からのふたつの帰結は、どちらも誤りです。
 このうち、様態は神がなくてもあることも考えられるという後者の場合については、おそらく少しの論争になることもなく、それが誤りであると認められるでしょう。一方、様態の本性には神の本性が属するという前者の場合は、これが誤りであることを示すいくつかの方法があるのですが、たとえばエチカにおいては第二部定理一〇において、人間の本性には実体の本性は属さないとされています。ところで、人間が様態であって神が実体であるということは明らかですから、この定理が証明されることによって、少なくとも様態の本性に神の本性が属するということを一般的にいうことはできないということが明らかで、したがって誤りであるということになります。したがって、一般論による本性の定義は誤謬であるということになります。
 しかし、本性がなければ事物はあることも考えることもできないということ自体は間違いではありませんので、あとはこの内容を生かしつつ、しかし一方で不条理な帰結を回避するために、本性の定義に何を加えればいいかということが問題となってくるわけです。
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女流棋士会独立の原因&第二部定義二まとめ①

2007-02-17 20:44:18 | 将棋トピック
 女流名人戦第一局のときに少し書いた女流棋士会日本将棋連盟から独立する動きがあるということについて、今日はまずその原因となっていると思われることを考えていきます。名人戦の毎日新聞の契約案が否決されたときに、将棋連盟は内部に矛盾を抱えているという意味のことを書きましたが、女流棋士の立場というのはそのひとつです。将棋連盟というのはプロの四段以上の棋士、および引退棋士によって構成されています。女流棋士というのはプロには違いありませんが、将棋連盟の正会員ではないのです。このために、年金等の福利厚生の面において不利な立場にあり、これを何とかしたいという動機があったとしても不思議ではないように思います。一方、将棋の棋戦というのは、たとえ女流棋戦であっても、将棋連盟が主催者を探して契約します。したがって、正会員でない女流棋士は、この契約交渉には直接的に参加できません。しかしそれだけではありません。実際の契約交渉は、連盟の理事会が代表して行うわけですが、この理事というのは将棋連盟の会員の中から選挙によって(無投票の場合もあるでしょうが)選ばれます。ですので、女流棋士というのは理事に立候補できないばかりか、理事選挙の投票権すら与えられていません。つまり、女流棋士は、自らの棋戦の契約については、間接的にすら関与できないシステムとなっているのです。この現状を打破したいという思いがあったとしても、やはりそれは不思議ではないように思います。もしもこの独立の原因というのを、女流棋士の内部に求めるのであれば、これらふたつのことが大きな要素であろうと思われます。
 明日はフェブラリーステークス。ここは3頭の上位争いと考えます。順番をつければまずブルーコンコルド◎、ついでシーキングザダイヤ○、そしてサンライズバッカス▲ですが、無理せずにボックスで。
 奈良記念も決勝。並びは佐藤-有坂の北日本、峠-飯嶋の関東、中村-大井-市田-前田の近畿で、大塚は前田と競るようです。軸という意味で市田選手◎から。大井選手○、有坂選手▲、佐藤選手△を絡めて。

 ここで第二部定義二をテーマとした意図は、この定義に何らかの疑問があったからというわけではありません。むしろ僕自身はこの定義を事物の本性の定義として完全なものと考えているのですが、一方で、確かにこの定理は多くの人がそれが本性の定義と考えるであろう一般論とは異なっていて、事物は本性がなければあることも考えることもできないというだけでなく、本性は事物がなければあることも考えることもできないということが加えられています。。また、この定義はこれまでの考察の中で何度か取り上げましたし、そうであるなら、おそらく今後も利用する機会が多くあるでしょう。それなら、ここで時間を掛けてこのスピノザによる本性の定義の妥当性について考えておくことが、長い目で見た場合には、このブログにとってもプラスに働くであろうと判断したのです。さて、まずこの妥当性を考えるためには、一般論の定義には問題点があるということから始めなくてはなりません。簡単にこの問題点をいえば、それはこの一般論からは、様態の本性に神の本性が属するということか、そうでなければ様態は神がなくてもあることも考えることもできるということの、どちらかのことが必然的に帰結されてしまうということでした。
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王将戦&第二部定義二の妥当性

2007-02-16 23:02:50 | 将棋
 王将戦七番勝負第五局。封じ手(50手目)は△7五同銀。ここから後手の羽生王将が猛攻、それを先手の佐藤棋聖が受けるという展開が延々と続きました。攻め損ないがあったのか、もともとの攻めが無理であったのか判然としない部分はありますが、先手の玉が敵陣を目指して遁走。僕がアクセスしたのは132手目、△7四歩と打った局面でしたが、ほぼ先手玉の入玉が確定している上に、後手が持駒なしでしたので、先手の必勝ではないかと思えました。以下▲9三玉△7五歩▲6五龍と進み、ここから△6四香▲7五飛△8二金で龍を取りにいくのかと思っていたら△7三馬。しかし先手は▲6三龍と自ら切って寄せにいきました。断続的にではありましたが、ずっと観戦していたのですが、将棋はここからまだまだ続き、途中は持将棋になるのではないかと思いました。しかし、193手目の▲6六金が決め手だったのではないでしょうか。これは△同龍でただなのですが、すると▲4五角成△4三玉に▲5五馬の王手龍取りで終了。本譜は△3六龍でしたが、▲3七歩以下、守備の要ともいえたこの龍が取られる形となっては大勢が決しました。207手という長手数で佐藤棋聖が1勝を返しこれで2勝3敗。第六局は3月6日と7日に指されます。

 これで第二部定義二が一般に事物の本性の定義として妥当であること、また、ここで僕がこれをテーマとした意図である、僕がこの定義が完全であると考える理由を、僕は僕にできる方法で明らかにしたつもりです。最後に問題として残った、事物の本性の定義から、一般論から帰結する誤謬を解消するために、事物がなければ本性はあることも考えられることもできないということ(定義二の後半部分)を付け加えるということの妥当性についても、人間の精神のうちには少なくともひとつの共通概念があり、かつ、この共通概念は十全な観念であるがゆえに、十全な観念の特性として、僕たちはそれがあらゆる事物の本性を構成するということがあり得ないということを知ることができ、このゆえに、単に本性がなければ事物があることも考えることもできないということが妥当であるということだけでなく、逆にその事物がなければその事物の本性はあることも考えることもできないものなのであるということを、十全に知ることができるのです。
 このテーマは今日で終りとします。明日から簡潔にまとめます。
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女流名人戦&第二部定理三八証明

2007-02-15 22:20:58 | 将棋
 女流名人戦五番勝負第二局。矢内理絵子女流名人の先手で、後手番・中井広恵女流六段の一手損角換り模様の立ち上がりでしたが、矢内名人が7手目に▲6六歩とこれを拒否。早く(3手目)に▲2六歩と突いてある形でしたが、相矢倉になりました。僕の印象だけかもしれませんが、矢内名人は女流棋士の中では最も序盤戦術に長けていて、この将棋も、組み上がった段階では先手がやけにうまくやったように思いました。神崎七段によると、36手目の△5五同銀が疑問手だったようです。これはたびたびいっていることですが、プロ将棋の相矢倉というのは難しく、一方が作戦勝ちを収めたとしても、大抵は激しい攻め合いになります。この将棋もそう。98手目、△6五銀と歩の頭に出る鬼手も飛び出し、本当に先手が優勢を保っていたのかどうか、僕には分からないです。解説だと101手目の▲6八桂が悪手で、ここから逆転ということのようですが、この局面は▲6七玉と逃げるより▲6八桂と打ってみたくなる感じがしますので、実際には先手が優勢といっても、この段階では微差だったのではないでしょうか。ともあれ、中井六段が勝って1勝1敗。改めて三番勝負です。第三局は3月5日。これは中国での対局です。
 王将戦も相矢倉になりました。こちらは先手の森下システム。封じ手局面の▲7五歩は、後手の攻めを呼び込む可能性がある、ちょっと怖い手のように思います。

 ここでは第二部定理三八を次のように証明します。すべての物体に共通の事柄をXと仮定し、ある人間Aが何らかの外部の物体と刺激し合う(ある物体的接触をする)ことによって、この人間(身体)Aと外部の物体に共通の事柄であるXの観念が、A(の精神)のうちに形成されるとします。いい換えれば、Aが一般性の最も高い共通概念を持つわけです。さて、ここで第二部定理九系に訴えれば、このXは、人間Aの身体のうちにある要素ですから、Xの観念は、Aの身体の観念、すなわちAの(人間)精神の本性をを構成する限りでの神のうちにあるということになります。ところで、Aの精神の本性を構成する限りでの神とは、Aの精神に変状した限りでの神の思惟の属性のことですから、要するにこれはAの精神そのもののことであるということになります。つまり、神がAの精神に変状したと説明される限りで、このXの観念は神のうちにあることができるわけです。そこで、第二部定理七系を援用すれば、この系の意味の中には、神のうちにある観念はすべて十全な観念であるということが含まれていますから、このXの観念も十全な観念であるということが分かります。したがって、Aの精神のうちにあるXの観念は十全な観念であり、また、こうした観念(共通概念)については、Aは必然的に十全に認識するということになるのです。
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ドストエフスキー&第二部定理三八

2007-02-14 20:33:18 | 歌・小説
 ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの哲学をよく効く薬に喩えたとき、ニーチェは他者を批判するときに辛辣な文章表現をするという意味のことを書きました。これはマルクスKarl Heinrich Marxを読んでいても僕が感じることで、もしかするとドイツ語に特有の要素なのかもしれません。それはともかくとして、そんなニーチェですが、例外的に何人かについては、ほとんど手放しといってもいいほどに評価しています。そのうちのひとりがドストエフスキー。
              
 僕は中学の終りか高校時代から本格的に読書をするようになりました。そしてその当初は、ほとんど小説ばかりを読み漁りました。ドストエフスキーでいえば、『白痴』と『貧しき人びと』はその頃に読んでいます。ほかにトルストイなどのロシア小説も読みましたが、ロシア小説というのは、比較的に長い上に、登場人物が多く、さらにその名前も日本人には馴染みの薄いものばかりで、さらに登場人物たちが互いに互いをニックネームで呼び合うという調子で、読んでいる途中でだれがだれだか分からなくなってしまうのです。けっしてつまらないとは思いませんでしたが、僕には荷が重過ぎると感じていました。
 その後、学生時代のある時期から、僕は読書といえば学術書のようなものばかりを読むようになり、小説にはほとんど手を出さなくなりました。そうした中でスピノザを読み、またニーチェを読むようにもなったのですが、ほとんど他人を褒めることをしないニーチェがこれだけ評価するのだからと、またドストエフスキーを読んでみることにしました。現在でも僕は、小説はふたりの作者を除くとまったく読みませんが、ドストエフスキーはその例外的なふたりのうちのひとりとなっています。

 明日は女流名人戦五番勝負第二局。中井女流六段としては1勝を返しておきたい一局です。

 王将戦七番勝負第五局は初日。こちらは個人的にはもう後のない佐藤棋聖の一踏ん張りに期待です。

 奈良記念も始まります。静岡の渡辺晴智選手は地元ではなくこちらに出場。2着続きに終止符を打てるでしょうか。

 人間精神mens humanaのうちにある共通概念notiones communesが十全な観念idea adaequataであるということを示すために、第二部定理三八を取り上げることにします。
 「すべての物に共通であり、そして等しく部分の中にも全体の中にも在るものは、(Illa, quae omnibus communia, quaeque aeque in parte, ac in toto sunt)妥当にしか考えられることができない」。
 妥当にしか考えられないというのは、十全に概念されるという意味ですから、この定理Propositioが、共通概念が十全な観念であるということを示しているということは間違いなく、また、意味の上では問題となるところはほかにはないと思います。
 なお、ここでは、議論の展開上で、少なくともひとつの共通概念が僕たちの精神のうちに実在するということを確証するという必要に迫られ、たったひとつで十分であるという理由によって、最も簡単だと思われる第二部自然学①補助定理二を援用しました。これは共通概念の一般性でいえば、これ以上は一般性の高い共通概念はないという種類の共通概念で、そのために、一般性の高い共通概念の十全性を示すという観点からこの第二部定理三八に訴えています。しかし、一般性が低い場合でも共通概念が十全な観念であるということには違いはありません。これは次の第二部定理三九でスピノザが触れています。僕はそちらについては取り上げませんが、それについても、人間のうちにある精神を神Deusのうちにある観念に関係づけるという方法で、この第二部定理三八と同様に証明することができます。
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