スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

宇都宮ワンダーランドカップ&第五部定理四二備考

2016-05-31 19:08:27 | 競輪
 熊本地震被災地支援の宇都宮記念の決勝。並びは早坂‐佐藤の北日本に橋本,和田‐石井‐五十嵐の南関東,金子‐園田の西日本で矢野は単騎。
 スタートを取ったのは佐藤で早坂の前受け。4番手に金子,6番手に和田,最後尾に矢野の周回に。まず残り2周のホームから和田が上昇。矢野も続きました。バックで南関東勢は早坂を叩き,金子が矢野の位置を狙いに行くような動きから外に出て,和田を叩いて打鐘。引いた早坂がすぐさま巻き返していくと叩かれた和田も発進して先行争いに。1コーナー付近で早坂がかましましたが,橋本が離れてしまったので北日本のふたりで前に。和田を捨てて石井が3番手に上がりましたが佐藤とは少し差が開く形に。これは佐藤が有利かと思いましたが,3コーナーから仕掛けた金子に乗った園田が,佐藤と石井の中を割って強襲すると突き抜けて優勝。北日本から離れてバックでは最後尾だった橋本が,前にいた矢野の内から園田を追い,佐藤とほぼ並んでのフィニッシュとなり1車身差の2着は写真判定。佐藤が2着で橋本が微差の3着。
 優勝した福岡の園田匠選手は昨年7月に寛仁親王牌を優勝して以来のグレードレース制覇。記念競輪となると2010年11月に松坂記念を勝って以来の3勝目。宇都宮記念は初優勝。ここは南関東が折り合った並びになったので,先行争いも予想はされました。その場合は金子の出番が大いに考えられたところ。実際に先行争いにはなったものの,わりと早い段階で早坂が制し,自力に転じた石井との間が開いたので,展開的には恵まれたというものにはなりませんでした。それでも金子が仕掛けましたので,そのスピードに乗って直線は強烈な伸び脚を発揮。鮮やかすぎたという感じもしなくはないのですが,番手の佐藤も早坂が早くからいっている分,さほど余裕が残っていなかったということなのでしょう。

 第三部定理五七,あるいは第四部定理三二第四部定理三三が,自分がされて嫌なことは他人にするな,という主張が倫理的規準となり得ないことを端的に示しています。規準というからには統一的なものでなくてはなりません。いい換えれば万人に妥当するのでなければなりません。しかし何を嫌と感じるかというような受動状態においては,現実的に存在する諸個人の本性essentiaはまちまちです。なのでそれは統一的見解ではあり得ず,万人に妥当する規準たり得ないのです。もう一度いいますがこのような主張はきわめて自己中心的であり,かつ自分の現実的本性actualis essentiaが不変であるという幻想を伴っているのです。
 このように考えると,もし倫理的規準が成立し得るなら,それはどういったものでなければならないのかも明らかだといえるでしょう。人間の現実的本性が一致するのは第四部定理三五にあるように,人間が理性ratioに従うという場合です。すなわち精神の能動actio Mentisによって「考えるconcipere」という営みをすることが,まずその第一の規準になるのでなければなりません。
                                     
 ただし,これは論理的にはそうであるということです。僕は現実的に存在する人間にとっての倫理の規準が統一できるということに関しては,不可能であるとはいいませんがきわめて悲観的です。そしておそらくスピノザ自身もそう考えていただろうと思います。第五部定理四二備考の最後の一文,すなわち『エチカ』の最後の一文はこう書かれています。
 「たしかに,すべて高貴なものは稀であるとともに困難である(Sed omnia praeclara tam difficilia, quam rara sunt.)」。
 これは『エチカ』でスピノザ自身が記述した事柄全般に到達することについての言及です。つまりスピノザは自身が記したことに人が到達するのは稀であると考えていたといっていいでしょう。このことはいくつかの点からも確かめられると思います。
 たとえばスピノザは人が「敬虔pietas」であることができるなら,それは能動actioに依拠しようが受動passioに依拠しようが構わないと考えていました。だから理性によって敬虔であるということだけを評価するのではなく,「服従obedientia,obsequium,obtemperantia」という受動によって人を敬虔にする聖書を,「服従の条件」を満たすものとしてスピノザは肯定したのです。
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作品内作者&嫌なことという規準

2016-05-30 19:19:13 | 歌・小説
 リーザが撲殺された場面でふたつの欲望の代行があったということ,すなわち記者はミニ・スタヴローギンであったことを確認するためには,記者にはリーザに対する秘めたる殺意があったということを証明しなければなりません。しかしこのためには,再び『悪霊』の小説の構造に留意しておかなければなりません。『悪霊』を執筆したのは記者であって,物語の中の登場人物のひとりなのです。
                                     
 このように執筆者が規定されている小説を,ここでは作品内作者による小説と仮にいっておきます。たとえば『こころ』は作品内作者による小説であるということになります。このとき,『こころ』と『悪霊』を比較すると一目瞭然なのですが,『悪霊』では作品内作者という機能が明らかに失敗しています。少なくとも部分的にはまったく成立していません。
 作品内作者が書いたのであれば,それはその作者が知っていること,あるいは知り得たことだけで作品が成立していなければなりません。『こころ』ではこの点に関する破綻というのは何もありません。しかも作者が知り得たことだけが書かれていて,知り得なかったことは何も書かれていないということが,かえって作品の深みを増していると僕には思えます。「奥さんの呼びかけ」の場面のように,『こころ』にもいくつかの亀裂は含まれていますが,それは作品内作者という手法の採用とは無関係の部分です。
 ところが『悪霊』の場合にはそうではありません。たとえばリーザは撲殺される直前に,スタヴローギンと密室でふたりで会っていますが,その場面での会話が仔細に記述されています。記者はすべてが終った後で,『悪霊』を書き始めた筈です。そのときにはリーザは殺されていたし,スタヴローギンも自殺していました。ですから密室での会話は記者には絶対に知り得なかったと僕は解します。だから記者が作品内作者である以上,記述できなかった筈なのです。これは解明されなければならない矛盾です。

 現実的に存在するどの人間も,他人の完全性の移行の仕方,いい換えれば他人が喜びを感じるのか悲しみを感じるのかということは,想像の範囲の中にしかすぎません。他面からいえば僕たちはそれを確実に認識する,十全に認識するということは不可能なのです。どんな現象を老化というかということは別にして,僕が老化現象というものを,人間の完全性の移行という観点から考察するよりも,現実的本性の変化という観点から考察する方が優れていると考える理由がここにあります。たとえば耳鳴りがするようになるという身体現象は,耳鳴りがしない身体から耳鳴りがする身体へとその人間の身体の現実的本性が変化したということです。本性の変化と完全性の移行は観点の相違に帰着するので,それは完全性の移行であるということ自体が誤りであるとは僕はいいませんが,現実的本性の変化が十全な認識であるのに対して,完全性の移行は,それがどのような移行であるのという観点に着目する限り,十全な認識ではあり得ないからです。
 倫理的規準として,よく自分がされて嫌なことは他人にもするな,という主旨のことがいわれます。ですがスピノザ主義の立場からすれば,それは倫理的規準などにはなり得ません。まず第一に,自分がされて嫌だから,それは他人がされても嫌であるとは限らないからです。僕はまずこの観点から,このような倫理的規準を主張する人びとは,きわめて自己中心的であると考えます。こういう人びとは,往々にして自分が感じるように他人も感じると思い込み,自分とは違って感じる人間のことを否定する傾向を有するからです。
 第二に,自分がされて嫌なことというのは,常に一定ではありません。かつては嫌だったことが後には嫌ではなくなるということもあり得ますし,逆にかつては何でもなかったことが後には嫌になるということも生じ得ます。したがってこのような規準を主張する人は,自分は常に一定で,確固たるものであるという幻想を抱いているのです。なのでこうした人びとは,他人の現実的本性がたびたび変化すると表象すると,そういう人を気まぐれというようなことばで否定する傾向を有するのです。
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東京優駿&他人の喜びと悲しみ

2016-05-29 19:20:14 | 中央競馬
 第83回日本ダービー
 マウントロブソンはダッシュが鈍く後方。16番からの発馬だったブレイブスマッシュは発走後の直線を真直ぐに走って馬群に寄せていかなかったため,結果的に取り残されることになりました。先手を奪ったのはマイネルハニーで向正面に入るあたりで3馬身ほどのリード。単独の2番手にプロフェット。2馬身ほどで3番手はアグネスフォルテ。ここから5馬身くらいの差が開きプロディガルサン。2馬身差でエアスピネル。3馬身差でアジュールローズとここまではかなり縦長。この後ろ,2馬身くらいでサトノダイヤモンド,マカヒキ,ディーマジェスティ,ヴァンキッシュランの4頭はほぼ一団という隊列に。最初の1000mは60秒0のスローペース。
 縦長の隊列も徐々に解消されていき,2番手と3番手は入れ替わって直線に。まずプロディガルサンが前の3頭を捕えて先頭に出るとその外からエアスピネル。サトノダイヤモンドがエアスピネルの外から追ってきて,2頭の間にさほどの間隔はなかったように思えたのですが,サトノダイヤモンドは右にもたれたようで,この間を突いたマカヒキがエアスピネルを交わして先頭に立つと,進路を譲ったような格好となったサトノダイヤモンドがまた巻き返し,この2頭が馬体を並べてフィニッシュ。写真判定に持ち込まれましたが,制していたのは先んじていたマカヒキ。ハナ差の2着にサトノダイヤモンド。直線入口で勝ち馬より先に動き,外に出されて伸びたディーマジェスティが半馬身差で3着。
 優勝したマカヒキは弥生賞以来の勝利で大レース初制覇。弥生賞まで3連勝,そして皐月賞が2着でしたから優勝候補の1頭。持ち味は強靭な末脚で,結果的に皐月賞は勝負を度外視したようなレースに。今日はこれまでより前目に位置しました。こういうレースで結果を出したのは大きな収穫だったと思います。ただ今年の上位勢は全体的にレベルが高いですから,勝ったり負けたりを繰り返しながらよいライバル関係を長く継続していくことになるのではないでしょうか。僕は事前のレースを見て迎えるダービーは今回が30回目ですが,ダービー馬に相応しいと思える馬がこんなに多く揃って出走していたのは初めてです。父は第72回を制したディープインパクト。全姉に一昨年の京都牝馬ステークスと昨年のCBC賞を勝っている現役のウリウリ。Makahikiはハワイの祝祭。
                                     
 騎乗した川田将雅騎手は昨年の宝塚記念以来の大レース制覇。日本ダービーは初勝利。管理している友道康夫調教師は昨年のNHKマイルカップ以来の大レース制覇。日本ダービーは初勝利。

 僕たちは自分の喜びや自分の悲しみを認識することはできます。しかし他人の悲しみや他人の喜びを認識することはできません。これは第二部定理一三から明らかです。というのはある人間の精神の現実的有を構成する観念の対象がその人間の身体であるということは,Aという人間の精神を構成する観念の現実的有の対象はAの身体以外の何ものでもない,たとえばBの身体ではあり得ないことを意味するからです。ですからAはAの身体の刺激状態を通してAの喜びと悲しみを認識し得ますが,Bの身体の刺激状態を通しては何も認識することができません。したがってBがBの身体の刺激状態を通して認識するBの喜びと悲しみを,Aは認識することができないのです。
 もちろんこのことは,AはBが喜んでいるあるいは悲しんでいると認識しないという意味ではありません。Aの身体がBの身体によって刺激を受けるとき,第二部定理一七によってAはBを表象します。このときに,Bを悲しんでいるものとしてあるいは喜んでいるものとして表象するということがあり得るからです。しかしこの表象は第二部定理一六系二から明らかなように,Bの身体の現実的本性よりもAの身体の状態をより多く含んでいる観念です。したがってBの喜びないしは悲しみの認識であるというより,喜んでいると推測されるBあるいは悲しんでいるようにみえるBの認識といった方が正確でしょう。一般的にいえば,僕たちは他人の悲しみおよび喜びを想像することはできても,正確に認識することはできないのです。
 ですから医師が僕の耳鳴りについてそれは老化現象であると言う場合,それは僕の身体の現実的本性がこのような仕方で変化する場合を老化というのであるという以上の意味をもつことはできません。現実的本性の変化と完全性の移行は同じ事柄の別の側面ではありますが,この完全性の移行が僕に対して喜びを齎すのかそれとも悲しみを齎すのかということについては,医師は想像の範囲でしか認識し得ないからです。そしてこのような変化を一般に老化というなら,ある人間の老化がどのような完全性の移行かは,当人以外には想像の範囲でしかないことになります。
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第三部定理二四&老化の説明

2016-05-28 19:09:55 | 哲学
 第三部定理二二は,僕たちが何かを愛しているときに,その愛しているものを喜ばせるものについはそのもののことも愛し,逆にその愛しているものを悲しませるものについてはそのもののことを憎むという傾向があるということを示しています。いい換えれば僕たちは何かを愛しているならば,その愛しているものの喜びを肯定し悲しみを否定するので,愛しているものを喜ばせるものについてもそれを肯定し,愛しているものを悲しませるものについてはそれを否定する傾向を有しているということを示しています。
                                     
 愛と憎しみは反対感情です。同じように喜びと悲しみも反対感情です。したがって第三部定理二二でいわれていることが僕たちの愛しているものに対して成立するのであれば,僕たちが憎んでいるものに対しては,それとはちょうど反対のことが成立することになります。それを示しているのが第三部定理二四です。
 「ある人が我々の憎むものを喜びに刺激することを我々が表象するなら,我々はその人に対しても憎しみに刺激されるであろう。反対にその人が我々の憎むものを悲しみに刺激することを我々が表象するなら,我々はその人に対して愛に刺激されるであろう」。
 スピノザがその直後の備考で指摘しているように,これは僕たちが憎んでいるものに対して抱く,ねたみinvidiaの一種です。あるいは第三部諸感情の定義二三にあるように,ねたみ自体が憎しみの一種であることに注意するなら,ねたみそのものであるといってもいいでしょう。僕たちがある人間の悲しみを喜び,喜びを悲しむとすれば,それは僕たちがその人を憎んでいることの証明であるからです。つまりこの定理は,僕たちが何を憎んでいるのかということを,僕たち自身に教えてくれる定理であるといういい方もできると思います。

 理性ratioによる認識,すなわち第二種の認識cognitio secundi generisの基礎は共通概念notiones communesです。すでにこのことのうちに,各々の刺激によって各々の人間の現実的本性がどう変化し,また完全性がどう移行するのかは不明であるということが含まれているということが,ここまでの説明から理解できるのではないでしょうか。理性による認識は一般的概念あるいは普遍的概念notiones communesであり,それは真であるか偽であるかという二項対立のうちでは真ですが,思惟の様態として一般的であるか個別的であるか,いい換えれば概念notioであるか観念であるかという二項対立では一般的なのです。したがって個別的な現実的本性の変化や,個別的な完全性の移行に関しては,一般的な認識を基礎とする理性の本性に属さないのです。このことは第二部定理四四系二からも明らかといえるのかもしれません。この系は,事物が持続するといわれる場合に生じる事柄,つまりここでいえば現実的本性の変化とか現実的に存在する人間の完全性の移行といった事柄の認識は,理性の本性には属さないというように解することもできないわけではないからです。
 僕はこうした理由によって,どのような事柄を老化現象とみなすべきであるのかということは別としても,老化現象を考える場合,いい換えれば精神の能動actioによって認識しようとする場合には,完全性の観点で考えるよりも,本性の観点で考える方が優れているのではないかと思うのです。なぜなら,現実的本性の変化という観点で重要なのは,本性が変化しているというそのこと自体であるのに対して,完全性の移行の観点において重要なのは,少なくともスピノザの哲学の立場からすれば,それが単に移行しているということではなく,どのように移行するのかということであるからです。
 医師は僕の耳鳴りを老化現象と表現したので,これを老化ということにすれば,これは僕の現実的本性が変化したことの説明になっています。聴こえなかったものが聴こえるようになるのは一般的な説明に該当するからです。ですが僕の完全性の移行の説明にはなっていないと僕は解します。
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女流王位戦&不明なこと

2016-05-27 19:04:16 | 将棋
 札幌で指された昨日の第27期女流王位戦五番勝負第二局。
 里見香奈女流王位の先手で岩根忍女流三段のノーマル中飛車。双方が美濃囲いに組む持久戦になりました。
                                     
 第1図は昼食休憩明けに後手が金を上がった局面。ここから▲6五歩△7三銀引▲6六銀と進んでいます。
 このように厚みを築いて先手の作戦勝ちというと,確かにそのように思えます。ですが僕が将棋を覚えた当時の居飛車対振飛車の対抗形では,この程度の局面になることはそう少なくはなく,それで一局の将棋という認識がある程度は共有されていたようにも思うのです。現代将棋は主導権を握ることが重視されるので,確かに僕も今ではこの局面を見ると先手の方がうまくやっていると思いますが,将棋観の変遷を感じるようなところもあり,感慨深い印象を受けました。
 △4二角▲6八角△2二飛▲8七銀△3三桂▲7八金△2五桂と進んで第2図。
                                     
 この部分の後手の指し方は僕が将棋を覚えた頃にはなかったもの。ですがこう動いてしまったので後手はかえって苦しくしたように思います。たぶん自分からは動かずに待ち続けていた方が,指しにくいとしてもチャンスは得られたのではないでしょうか。以前はそれで一局という認識が共有されていたとすれば,待ち続けるという指し方が振飛車にとってそんなに悪いものではないと思われていたからなのかもしれません。
 里見王位が連勝。第三局は来月8日です。

 本性の変化と完全性の移行を同じ事柄の別の観点と僕は解します。したがって,現実的に存在する人間の精神が,自分の身体の本性が変化するということを認識し得たとしても,それがどう変化するかまでは認識し得ないとするなら,現実的に存在する人間の精神は,自分の完全性が移行することは認識し得ても,どう移行するのかは認識し得ないという結論にならなければなりません。
 ただし,僕がここで認識するというのは十全な観念を意味します。現実的に存在する人間は自分の喜びおよび悲しみを認識することはあります。つまり自分の完全性が,より大なる完全性からより小なる完全性へと移行したのか,それともより小なる完全性からより大なる完全性へ移行したのかということは,すでにいったようにこの感情によって認識することはできます。ですがそれは事物についての十全な観念ではありません。とくに自身の悲しみの認識は,第三部定理五九によって必然的に自身の受動の認識です。よってそれは第三部定理一により十全な観念ではありません。すなわち精神の能動に属する理性による認識ではあり得ません。
 ここから理解できるように,僕たちが何らかの刺激を受ける受動によって本性が変化したり完全性が移行したりする場合には,仮にある刺激を受けたなら必然的に本性の変化と完全性の移行が生じるということは十全に認識し得たとしても,それがどう変化してどう移行するのかということは十全には認識し得ないといわなければなりません。なのでかつてなし得たことがなし得なくなるような本性の変化,たとえば老眼によって細かい字が読みにくくなることも,またなし得なかったことがなし得るようになること,たとえば耳鳴りがするようになるということも,同じように老化と表現するのであれば,一般的にいえばどちらの場合でも完全性がどう移行するのか,つまりそれによって喜びを感じるのか悲しみを感じるのかということは不明であることになります。他面からいえばそうした概念は,一般的な認識である理性による認識の本性に属さない認識であるという意味において,理性にとっては不明であるといわなければならないのです。
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東京スポーツ賞川崎マイラーズ&自分の本性の認識

2016-05-26 19:06:57 | 地方競馬
 昨晩の第8回川崎マイラーズ
                                    
 先手を奪う可能性もあるとみていたブルーチッパーは発馬でやや後手を踏みました。まず先頭に立ったセイントメモリーを大外のレガルスイが交わしてこの馬の逃げに。これも考えられた展開のひとつ。発走後の長い直線で外を追い上げたブルーチッパーが1馬身差の2番手。半馬身差で内に控えたセイントメモリーが3番手に。ジェネラルグラント,シンキングマシーン,モンサンカノープスの順で続きバーンザワールドとミラーコロが並んで追走。前半の800mは50秒8のミドルペース。
 3コーナーを回るとレガルスイが後ろを離していき,ブルーチッパーはここで脱落。ジェネラルグラントとモンサンカノープスが並んで2番手に上がりましたが,ジェネラルグラントも脱落してモンサンカノープスが単独の2番手に上がって直線に。逃げたレガルスイと追ったモンサンカノープスが後ろに水を開け,優勝争いはこの2頭。ゴール前で計ったように捕えたモンサンカノープスが優勝。半馬身差の2着にレガルスイ。直線で馬群を割って伸びたバーンザワールドが,自身の直後から大外を伸びたポイントプラスとの末脚比べを制して1馬身半差の3着。
 優勝したモンサンカノープスは一昨年の11月までJRAで走り1勝。昨年7月に南関東初戦を迎え,2着になった後,8月のB3二組の特別戦から今年1月のオープン特別まで7連勝。その後の2戦は負けましたが前走のオープン特別をまた勝っていました。この戦績なら南関東重賞制覇は目前にまで迫っていたといえ,ここはブルーチッパー以外には近況と実績から上位。ブルーチッパーも弱点を抱えている馬なので,チャンスはあると考えていました。現状の能力でも南関東重賞で通用しますが,さらに強くなる可能性を秘めた馬だと思います。父はアグネスデジタル。7代母がアグサンとサトルチェンジの3代母にあたります。Canopusは星の名前。
 騎乗した大井の矢野貴之騎手はニューイヤーカップ以来の南関東重賞制覇。川崎マイラーズは初勝利。管理している船橋の川島正一調教師は第5回以来3年ぶりの川崎マイラーズ2勝目。

 第二部定理一九第二部定理二七によって明らかになるのは,現実的に存在する人間は,自分の身体の本性を十全に認識することができないということです。そして第二部定理二三第二部定理二九から,自分の精神の本性についても同じことがいえます。すなわち現実的に存在する人間は,自分自身の本性,自分の身体の本性も自分の精神の本性も十全には認識し得ないのです。
 理性は精神の能動に属します。したがって人間が自分の理性によって何かを認識するということがあれば,その認識によって発生する観念は十全な観念でなければなりません。しかるに現実的に存在する人間は自分の本性の十全な観念を有することはできないのです。よって現実的に存在する人間による自分の本性の認識は,その人間の理性の本性には属さない,いい換えれば理性によって認識される対象には属さないということになります。
 第五部定理二二は,現実的に存在する人間の本性を永遠の相の下に表現する観念が神のうちに存在するということを示します。そしてこのことは現実的に存在する人間の理性によっても認識することが可能です。ですがこれは同時に,現実的に存在する人間による自分の身体の本性の十全な認識に関するある限界点を示しているともいえます。つまり現実的に存在する人間が自分の身体の本性に関して十全に認識することができるのはここまでなのです。要するに現実的に存在する人間は,自分の身体の本性が神のうちで永遠の相の下に表現されるということまでは十全に認識できるのですが,永遠の相の下に表現されているその観念がどのような観念であるのかまでは十全には認識することができないのです。スピノザがそのように考えていることは,次の第五部定理二三で,その観念が「あるものaliquid」といわれて具体的には措定されていないことから明らかだといえるでしょう。
 ここから理解できるのは,現実的に存在する人間の精神は,自分の本性を十全に認識することができないので,もしその現実的本性が変化するということは認識し得たとしても,それがどう変化するかということまでは十全に認識し得ないということです。
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イスパーン賞&完全性の移行の認識

2016-05-25 19:39:12 | 海外競馬
 日本時間の昨夜にフランスのシャンティイ競馬場で行われたイスパーン賞GⅠ芝1800m。
 エイシンヒカリは加速のよさでハナへ。一般にヨーロッパの馬は前に行きたがりませんし,軽快なスピードには欠けるタイプの馬が多いので,逃げることになると思っていましたし,場合によっては後ろを離しての逃げになるのではないかと想定していました。ですが外から1頭が並び掛けてきて,やや強引な形でエイシンヒカリのハナを叩いて前に。エイシンヒカリは頭を上げていましたが,うまく外に切り返して2番手を追走。少し行きたがっているようにも見えましたが,消耗するほどではないようには思えました。最後の直線に入るあたりで2番手のエイシンヒカリと3番手以降の馬はやや離れる形に。このとき,追い上げようとする馬たちはかなり手綱をしごいていたので,逃げている馬を交わせば勝てるのではないかと思いました。僕には逃げた馬にも余裕があるように見えていたのですが,実際にはそうでもなかったようで,残り400m付近でエイシンヒカリがほぼ馬なりのまま自然に先頭に。ここから追われるとあとは独走。2着に10馬身もの差をつける圧勝になりました。
 優勝したエイシンヒカリは暮れの香港カップ以来の実戦で大レース連勝。日本馬による海外GⅠ制覇は1日のチャンピオンズマイル以来。フランスでの重賞制覇は2013年のフォワ賞以来。フランスでのGⅠ制覇はアグネスワールドによる1999年のロンシャン大修道院賞(アベイユドロンシャン賞)以来。イスパーン賞は初勝利。この馬の力をもってすれば勝つということもあり得るとは思っていました。出走メンバーのレベルが低かったとは思えません。軽快なスピードが身上の馬には馬場状態が向いたとも思えませんし,レースぶりもスムーズだったわけではないと思います。それでいてこの大楽勝は大変な驚きでした。僕にとってさえそうなのですから,ヨーロッパの競馬関係者やファンにとっては衝撃的だったのではないかと思います。おそらくはこの距離がベストなのでしょう。父はディープインパクト
                                     
 騎乗した武豊騎手かしわ記念以来の大レース制覇。海外重賞は3月のUAEダービー以来。海外GⅠは昨年の香港カップ以来。フランスでの重賞制覇は先述のフォワ賞直前のニエル賞以来。日本馬に騎乗してのフランスでのGⅠ制覇は先述のロンシャン大修道院賞以来。管理している坂口正則調教師は香港カップ以来の大レース3勝目。

 僕は事物の本性の変化とその事物の完全性の移行を,同じ現象のふたつの観点と解します。ですから現実的に存在するある人間の中に,何らかの本性の変化が生じたとき,それがその人間の精神によって必然的に知覚されるということは,ある人間に完全性の移行が生じたなら,その人間の精神は完全性が移行したことを必然的に知覚するという意味になります。ただし,それがどのように移行したのかということ,つまり大なる完全性から小なる完全死に移行したのか,それともより小なる完全性からより大なる完全性へと移行したのかということは,その知覚それ自体で判別されるわけではありません。どのような移行であるかは,それに伴う感情の認識,すなわち喜びが認識されるか悲しみが認識されるかということによって判別されることになるからです。
 ここまでの事柄は一般的に正しいといえます。いい換えれば理性によって認識されるといえます。そして同時に,ある特定の刺激が現実的に存在する人間に与えられ,かつその刺激が現実的に存在する人間の本性の変化すなわち完全性の移行を齎すとしても,それが大なる完全性から小なる完全性への移行を齎すのか,それとも小なる完全性から大なる完全性への変化を齎すのかということは,理性によっては認識され得ないということも事実だといわなければなりません。
 このことはまず第三部定理五一から明らかだといえます。ある特定の刺激がある特定の人間に与えられても,その刺激によってその人間に発生する結果は常に同一であるとは限らないということがこの定理には含まれているからです。ですがこのことは経験則としてだれでも知っていることだと僕は思っています。他者が喜んでくれるだろうと思ってなしたことが,かえって他者に悲しみを与えたというような類のことが現実的に生じ得るということは,だれでも知っていることであろうからです。
 ですが僕はここでは,このことは一般的には認識することができない,つまり理性によっては認識できないということを,理性そのものの特性から示したいのです。そのためにまず第二部定理一九第二部定理二七に訴求することにします。
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印象的な将棋⑪-4&本性の変化の認識

2016-05-24 18:56:12 | ポカと妙手etc
 ⑪-3の続きです。
 後手がわざわざ2手の損をしたのは,桂馬を跳ねさせてそれを目標にするためでした。ただすぐに▲4五桂とされては大変でしょうからまずは△3三桂。
                                     
 先手は手得はしたのですがその関係で玉のこびんが開いてしまいました。角で王手される筋も残っているので▲6八玉と逃げたのは仕方ないところでしょう。
 後手は△3六銀成から攻撃再開。▲4五桂△同桂▲同歩までは必然的進行。そこで△3七成銀と飛車取りに入りました。
 1八へ逃げるのもないことはないと思いますが▲4六飛と上に逃げました。これには△5五銀。1六に逃げると△2七角と打たれて厳しいとみて▲2六飛でしたが△3五角▲2九飛△4七成銀と進みました。
                                     
 第2図は後手が快調といえるでしょうが,▲8六歩と突いて先手玉の左の方はそれなりに広く,後手も居玉ですから大量リードというほどではないかもしれません。それでも最初に少し後手が無理をした感があるのを踏まえれば,後手にとって十分に満足できる局面に進展したといえそうです。

 なぜ僕が老化現象を認識する場合に,実在性realitasの観点から認識するより本性の観点から認識する方が優れていると考えているのかを説明します。
 現実的に存在する人間の本性に変化が生じるとき,それがどういう変化であるかということは別として,何らかの変化が生じたということ自体はその人間の精神によって知覚されます。これは第二部定理一二から明らかです。ここでは詳しく説明しませんが,この定理でいわれている「中に起こること」というのを,僕はその本性に変化が生じることという意味に解しているからです。
 第二部定理一二は,現実的に存在する人間の身体の中に起こることが,その人間の精神によって知覚されるということだけを述べています。しかし,もしも人間の精神の中に何か,すなわち人間の精神の現実的本性を変化させる何らかの思惟作用が起こるのであっても,それはその人間の精神によって知覚されるのでなければなりません。なぜなら,人間の精神が自分の身体の中に起こることを知覚し得るのは,第二部定理一二から明らかなように,人間の身体というのがその人間の精神の現実的有を構成する観念の対象であるからです。第二部定理七から明らかなように,観念と観念されたもののことをスピノザの哲学では同一個体というのでした。いい換えれば,人間の身体と精神が同一個体であるから,精神は身体の中に起こることを知覚し得るのです。
 しかるに人間の精神と人間の精神の観念も同一個体です。ふたつの平行論のうち,思惟属性の中での平行論に着目すればこれはそれ自体で明らかです。しかし論理的にいうなら,第二部定理二〇から明白だといえるでしょう。そこでいわれているように,人間の身体の観念の観念すなわちその人間の精神の観念は,人間の身体の観念すなわち人間の精神と同様の仕方で神に帰せられるのです。したがって第二部定理一二から,人間の精神の中に起こることもその人間の精神によって知覚されるということが帰結しなければなりません。とくに第二部定理一二が,第二部定理九系に依拠していることに注意すれば,第二部定理二〇からこのことが帰結することが容易に理解できると思います。
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優駿牝馬&本性の変化と完全性の移行

2016-05-23 19:14:17 | 中央競馬
 昨日の第77回オークス
 逃げたのはダンツペンダント。以下,エンジェルフェイス,ゲッカコウ,ロッテンマイヤー,フロムマイハートの順で1馬身ずつの間隔で追走。2馬身差でウインファビラス,1馬身差でアウェイク。2馬身差でビッシュ。また2馬身差でアットザシーサイドとペプチドサプルの2頭。1馬身差でデンコウアンジュとレッドアヴァンセの2頭。1馬身差でシンハライトとチェッキーノの2頭。縦長の隊列になりました。最初の1000mは59秒8のミドルペース。
 直線に入るとまずエンジェルフェイスが先頭に。その5頭ほど外から追ってきたビッシュがこれを交わして先頭に出ると,直線で馬場の中ほどまで出たものの行き場がなく,デンコウアンジュを弾くように進路を確保したシンハライトと大外を追いこんだチェッキーノが急襲。追い込み馬の末脚が優り,優勝はシンハライト。クビ差の2着にチェッキーノ。ビッシュは半馬身差の3着。
 優勝したシンハライトは前々走のチューリップ賞以来の勝利で大レース初制覇。チューリップ賞まで3連勝で,前走の桜花賞がハナ差の2着でしたから,ジュエラーとメジャーエンブレムが不在となったここは実績最上位。不利がなければ勝てるだろうと考えていて,直線はその不利を被りそうに。騎手が処分を受けているようにフェアな騎乗ではなかったと思いますが,馬の能力という点に関していえば,能力通りの決着であったといっていいかと思います。父はディープインパクト。全兄に2011年のラジオNIKKEI杯2歳ステークスを勝ったアダムスピーク
 騎乗した池添謙一騎手は昨年のジャパンカップ以来の大レース制覇。第69回以来8年ぶりのオークス2勝目。管理している石坂正調教師はフェブラリーステークス以来の大レース制覇。第73回以来4年ぶりのオークス2勝目。

 たとえば僕に耳鳴りがするようになったこと,もう少し一般的にいって現実的に存在する人間に生じるこうした変化を老化というのであれば,一般に老化現象を考える場合に,それを完全性の移行として把握するよりも,本性の変化として把握する方がよいだろうと僕は思っています。ただし,僕がこのようにいう場合には,ひとつだけ留意しておいてほしい点があります。
                                     
 第二部定義六から明らかなように,スピノザの哲学においては完全性と実在性というのは同じです。したがって完全性の移行というのと実在性の移行というのは同じことです。なのでより大なる完全性からより小なる完全性への移行とは,より大なる実在性からより小なる実在性への移行なのであり,同様に小なる完全性から大なる完全性の移行とは小なる実在性から大なる実在性への移行ということです。
 僕はスピノザの哲学でいう実在性というのを,力という点からみられる本性であると解します。どんな事物にもそれに固有の本性があります。その固有の本性が力という観点から知性によって認識されるなら,それはその事物の実在性と認識されると僕は考えるのです。つまり知性がある事物の本性を認識するということとその事物の実在性を認識するということは,同じ認識を異なった観点から把握することだと解するのです。したがって,事物の本性の変化を認識することと,事物の実在性すなわち完全性の移行を認識するということは,結局のところ観点の相違に帰着します。他面からいえばもし事物に本性の変化が生じるならば必然的に完全性の移行も生じるのであり,完全性の移行が生じているならば必然的に本性の変化も生じているというのが僕の見解なのです。そして僕はこのことを踏まえた上で,耳鳴りがするようになること,あるいは老化といわれる現象一般については,実在性の移行として認識するよりも本性の変化として認識する方が優れていると考えているのです。つまり僕は異なった認識ふたつのうちのひとつが優れていると考えているわけではありません。むしろ同じ認識を異なったふたつの観点からなすときに,そのうちのひとつの方が優れていると考えているのです。
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プリークネスステークス&現実的本性の変化

2016-05-22 19:12:48 | 海外競馬
 アメリカのピムリコ競馬場で行われたプリークネスステークスGⅠダート1・3/16マイル。
 ラニはダッシュが鈍いという感じで,発走後は1頭だけ離れた最後尾になりました。向正面では画面に映りませんでしたので,どのような追走であったのかは分かりません。1/4マイルが22秒38,1/2マイルが46秒56,3/4マイルが1分11秒97というラップ。4コーナーを回るところで1頭だけ取り残された馬がいて,それ以外の9頭の直後の内にラニはいました。そこから少し外に出して追われると,右にいったり左にいったりという感じはありましたが最後まで脚は使い,5着でした。
 このレースはケンタッキーダービーに比べると頭数こそ減るものの,それ以外の条件はむしろラニにとっては悪くなるように僕は思っていました。加えて馬場も悪化して,さらに悪条件が重なってしまいました。個人的にはここはパスしてベルモントステークスに直行した方がいいのではないかと思っていたくらいです。このレースは勝ち馬が3馬身半離し,2着以降はハナ差,半馬身差,1馬身差で続いて,ラニ以下は7馬身差がつきましたので,条件を考えるとすごく健闘できたように思います。前走時に感じた,まるで通用しないというレベルの馬ではないということははっきりしたのではないでしょうか。また,追い上げるときには常に外を回っていた馬が,直線で馬群を割って伸びてきたというのも収穫だったと思います。連戦の疲れは心配ですが,その点をクリアできればベルモントステークスは条件が好転すると僕は考えていますので,さらに上位の結果が出てもおかしくないのではないでしょうか。

 同一の人間であるのに本性が一定ではないというのは奇異に思われるかもしれません。もしも人間の本性が神の属性に包容されて存在する場合についていえばその通りで,その人間の本性は永遠から永遠にわたって同一であり,一定であると考えられなければなりません。しかし人間の本性が現実的に存在するといわれる場合,要するにある人間が現実的に存在するという場合には,その人間の本性は同一であったり一定であったりはしない,もっといえばそれは日々刻々変化する,変化しつつ現実的に存在するということが必然的であるというのが,スピノザの哲学における考え方であると僕は解しています。
                                     
 このことは,現実的に存在する人間が受動を免れ得ないということ,すなわち第四部定理四に留意するなら,僕たちは経験的によく知っていることだと僕は思います。第四部定理四を否定することはだれにもできないでしょう。いい換えれば現実的に存在する人間には必然的に受動状態が生じるでしょう。この受動状態における人間の現実的本性が,第三部諸感情の定義一にあるように,欲望といわれるわけです。したがってもしも僕たちの現実的本性が常に同一なら,僕たちの欲望も常に同一であるといわなければなりません。しかし自分自身を反省的に顧みれば,自分の欲望が常に一定であるということはないということを,だれもが容易に知るでしょう。欲望は変化しています。それはすなわち現実的本性が変化しているということなのです。
 たとえばカレーライスの匂いに誘われて食堂に入ったとします。ところが隣の客が食べていたラーメンが美味そうだったので,ラーメンを食べたくなったとします。これは欲望の変化です。第三部定理五六から分かるように,カレーライスへの食欲とラーメンへの食欲は異なった食欲といわれなければならないからです。つまりこれはそれら各々の食欲に刺激された当の人間の現実的本性が変化したということなのです。他面からいえば,こうしたことを現実的本性といい,また現実的本性の変化というのがスピノザの哲学における考え方なのです。だから人間は本性を変化させつつ現実的に存在すると僕は解するのです。
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泣かないで アマテラス&相互接触

2016-05-21 19:13:06 | 歌・小説
 「白鳥の歌が聴こえる」から看取するふたつの意味のうち,謝罪の気持ちが強く出る場合は僕は「波の上」を聴きます。一方,もどかしさの方を強く感じたときに聴くのが「泣かないで アマテラス」です。
                                     

     私には何もない 与えうる何もない
     君をただ笑わせて
     負けるなと願うだけ


 「白鳥の歌が聴こえる」では,最後の夜なのに優しさだけしかあげられるものがなく,小さい者に笑い話をひとつ,という主旨で歌われています。この部分はそことよく似ていることは分かると思います。なので想いに関わる部分的な抽出だけでいえば,どちらを聴き,あるいは口ずさんでもいいのです。
 それでも僕が「白鳥の歌が聴こえる」より「泣かないで アマテラス」の方を多く選んでいるのは,たぶんこちらには笑わせるということの意味が含まれているからだと思います。

     地上に悲しみが尽きる日は無くても
     地上に憎しみが尽きる日は無くても
     それに優る笑顔が
     ひとつ多くあればいい


 詳しくいいませんが僕はスピノザ主義者としてこのいい方に強く共感できるのです。悲しみよりもひとつ多くの喜びが,憎しみよりもひとつ多くの愛が,世界にあればいいと思うのです。

 異なった人間が同じ対象から異なった刺激を受けるaffici場合があること,もう少し具体的にいえば,ある現象によって喜びlaetitiaを感じる人間も存在すればその同じ現象によって悲しみtristitiaを感じる人間も存在するということはあり得ます。また,同じ人間が同じ対象から異なった刺激を受ける場合があるということ,こちらももう少し具体的にいうと,かつてある現象が自分に生じたときに悲しみを感じた人間が,後に同じ現象が自分に生じたときには喜びを感じるということもあり得ます。これらは僕たちは経験的に知っているといっていいと思いますが,論理的にいえば第三部定理五一から明らかだということになります。
 ここでは後者の場合,すなわち同一の人間が異なったときに同一の対象から異なった刺激を受けるということがなぜ生じ得るのかということを重点的に考えてみましょう。
 まず,第一部公理三から,もしも与えられた原因causaが一定であるなら,発生する結果effectusも一定でなければならないことが分かります。ここでは同一の人間が同一の刺激を受けるということを前提としていますので,その人間に与えられる刺激あるいは,その人間に刺激を与える何らかの事物は同一であるとしておきます。
 こうした相互接触によって何らかの結果が生じるという場合,その原因は接触するすべての事物の本性naturaを原因とします。岩波文庫版113ページ冒頭の第二部自然学②公理一が述べているのがこのことです。ここでは刺激を与えるひとつの事物と刺激を受けるひとりの人間と限定した方が分かりやすいですから,それは人間自身とその人間と接触する事物の両方の本性を原因とするとしておきます。
 仮定で同一とされているのは接触する事物の本性です。ですからもしも刺激を受ける人間の本性も同一であるなら,生じる結果は常に同一でなければなりません。第一部公理三がいっているのはそのことです。ところが第三部定理五一は,接触する事物の本性が同一であっても,人間に生じる結果は同一ではないと主張しているのです。この主張を合理的に説明するためには,刺激を受ける人間自身の本性が同一ではない,一定ではないからだといわなければなりません。
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第三部諸感情の定義三三&老化

2016-05-20 19:13:50 | 哲学
 第三部定理二七に示されている,人間一般に対する感情の模倣affectum imitatioが僕たちに生じるとき,もしこの模倣が悲しみに関係する場合,すなわち他人が悲しんでいると表象することによって自分も悲しみにおそわれる場合,その感情はとくに憐憫といわれます。これは第三部諸感情の定義一八から明らかです。その定義では,他人の悲しみの観念を伴った悲しみとはいわれずに,他人に生じた害悪の観念を伴った悲しみといわれていますが,第四部定理八が端的に示しているように,他人に生じた害悪というのは,その他人が意識しているその人自身の悲しみにほかならないからです。要するにスピノザの哲学では,悪とは意識された自分の悲しみ,いい換えれば自分の悲しみの観念と何ら変わるところはないのです。
                                     
 ですが一般的な他者に対する感情の模倣は,悲しみだけに関係するわけではありません。つまり人は他人の悲しみだけを模倣して,それ以外の感情を模倣しないというわけではありません。基本感情のすべてについて,感情の模倣は生じ得るのです。そしてそのとき,もしも欲望に関係した感情の模倣が生じる場合には,この感情は競争心といわれ,第三部諸感情の定義三三で示されます。
 「競争心とは,他の人がある物に対する欲望を有することを我々が表象することによって我々の中に生ずる同じ物に対する欲望である」。
 簡単にいうと,人はほかの人がほしがっているものをほしがる傾向があるということです。こういう傾向が人間にあるということ,あるいは自分にもあるということは,多くの方が経験的に知っているでしょう。
 このとき,そのものがだれにでも入手できるものであれば,競争心という感情が他者との軋轢を起こすことはないでしょう。しかしもし他人が手に入れることで自分の入手が困難になるのであれば,第三部定理三二により,人は他人の欲望が実現することを阻止する傾向を有することになります。つまりこの場合には競争心は軋轢の原因になります。感情でいえば,第三部諸感情の定義二三のねたみinvidiaの原因に容易になる欲望が,競争心であるといえるでしょう。

 医師の診断についていえば,この耳鳴りは老化現象の一種であろうということでした。ただ,このいい回しは僕には不自然に感じられる部分もあります。
 人間はだれでも,若い頃には可能であったたことが,年を重ねることによって不可能になるという現象が生じます。たとえば僕は以前は近眼の眼鏡を掛けていても,細かい文字を読むことに何の苦労もありませんでした。それが今では眼鏡を外さなければ正確には読めない場合が生じています。僕の感覚でいえばこういうのを老化というのです。つまりかつてはできたことが加齢によってできなくなるのが老化現象なのです。ところが,耳鳴りの場合にはこれが妥当しません。むしろかつては聴こえていなかったものが聴こえるようになったというのは,いってみればかつてはできなかったことができるようになったのに類する現象だからです。これはそれ自体でみれば成長とか進化に近いわけです。つまり老化が劣化だけを意味するのであれば,耳鳴りがすることを老化と表現するのは実に不自然なことだと感じられるのです。
 もちろんこれは,聴こえるべきでないもの,あるいは聴こえなくてよいものが聴こえるということなので,身体の完全性ということでいえば,より大なる完全性からより小なる完全性への移行に違いありません。なので老化という語がそういう移行の全般を意味するのであれば,僕の耳鳴りを老化という語で指示するのは誤りではありません。ですが,第三部諸感情の定義三から明白なように,この種の移行は常に悲しみでなければなりません。いい換えれば加齢を原因として生じるこの種の移行をすべて老化というなら,老化は人間にとって必然的に悲しみでなければならないことになります。しかし一般に加齢による悲しみだけが老化といわれるのかといえば,必ずしもそうではないでしょう。むしろかつてはできたことが加齢によってできなくなることによって,喜びを感じるという場合が人間には生じ得ます。だからたとえ老化が劣化だけを意味するのであっても,必ずしもそれが悲しみであるとはいえません。より小なる完全性から大なる完全性へ移行する老化もあると僕は思います。
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デイリー盃大井記念&冬

2016-05-19 19:20:32 | 地方競馬
 昨晩の第61回大井記念。キスミープリンスとモンテエンが共に風邪で競走除外になり14頭。
 逃げたのはノーキディング。外をぴったりとムサシキングオーがマークし,2頭で逃げているようなレースに。1馬身差の3番手にケイアイレオーネ。1馬身差でスコペルタトユーロビートとジャルディーノの3頭。また1馬身差でカキツバタロイヤルとフジノフェアリーとクラージュドールとフォーティファイドの4頭が追走と,前が集団になる展開。最初の1000mが64秒3のスローペースに落ち着いたためでしょう。
 3コーナーを回るとケイアイレオーネも上がっていき,ノーキディング,ムサシキングオーと3頭で併走に。ここでペースアップし少し離れた4番手にジャルディーノ。内から追い掛けたのがユーロビートでその外にクラージュドールという並びに。直線に入るとすぐにケイアイレオーネが先頭に立って抜け出し,そのまま危なげなく4馬身差をつけて優勝。2着はユーロビート,クラージュドール,ジャルディーノの叩き合いからまずジャルディーノが脱落。真中のクラージュドールが内のユーロビートを捕えて2着。ユーロビートが半馬身差で3着。
 優勝したケイアイレオーネはトライアルだった前走から連勝で南関東重賞初制覇。JRA在籍時に兵庫ジュニアグランプリとシリウスステークスを勝っている実力馬。2014年10月のレースで5着になったのを最後に休養に入り大井に移籍。2015年7月から南関東で走り始めました。実績から考えれば前走まで勝てなかった方が不思議な馬ですが,ここにきて力を十分に発揮できるようになってきたということなのでしょう。JRA時代から気性面に難しさがあり,それが移籍後になかなか勝てなかった一因になっていたのかもしれません。能力だけでいえばまた重賞を勝ってもおかしくないだけの力はあると思っている馬なので,精神面の問題さえ出さなければ南関東重賞はもっと勝てるのではないでしょうか。母の半姉の孫に2014年のエーデルワイス賞を勝っている現役のウィッシュハピネス。Leoneはイタリア語でライオン。
 騎乗した大井の的場文男騎手は3月のクラウンカップ以来の南関東重賞制覇。第28回,32回,37回,38回,43回,44回,46回,50回と制していて11年ぶりの大井記念9勝目。管理している大井の佐宗応和調教師は開業から約7年11か月で南関東重賞初勝利。

 7月6日が内分泌科の通院の日で,それから一週間だけのことをいうと,耳鳴りがする頻度は減少していました。ただそれは僕が減少したと感じていただけで,実際にはそうでなかったかもしれません。慣れてくると鳴っていても意識しないと鳴っているということに気付かない場合もあるからです。
 薬を処方してもらってそれを飲めば,本当に耳鳴りが治まったのかどうかは,僕はそうはしなかったのですから分かりません。ただ,耳鳴りに対して何らかの策を講じたわけではありませんでしたし,診察を受けたのも今のところはこれきりですので,現時点でも耳鳴りを感じることはあります。つまり今でもこれは聴こえたり聴こえなかったりします。どういうときに聴こえてどういうときに聴こえなくなるのかということは自分でも考えてみたのですが,よく分かりません。血糖値の上下と一定の関係があるわけではないということは間違いないので,糖尿病それ自体の影響ではないことは確かだと思われます。
 ただ,このときには知る由もなかったのですが,現時点ではひとつだけ不思議に思える現象はありました。去年の6月に聴こえるようになって,今も聴こえているということは,耳鳴りと一緒に生きるようになってひと冬は越したことになります。その冬場,とりわけ最も寒くなる時期には,耳鳴りが聴こえるということがほとんどなかったのです。なので冬場はもしかしたらもう聴こえなくなるのかもしれないと思ったのですが,陽気が麗らかになるとともにまた聴こえるようになってきました。ただしまだ経験した冬が今年の冬だけなのですから,耳鳴りと寒暖の間に関係があるかどうかは断定することはできません。もしも次の冬も聴こえないようであれば,何らかの関係はあるということになるでしょう。もっとも関東地方の冬は乾燥する傾向にあるので,寒暖差が影響するのか湿度が影響するのかまでははっきりとはいえません。
 病院まで来ましたので,会計の前に注射針の処理をしました。間隔が短いので処分しなければならない針もそんなに溜まっていませんでしたから,,いつもより小さめの,マーマレードの小瓶に詰めたものでした。
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マイナビ女子オープン&耳鳴りの診察

2016-05-18 20:05:38 | 将棋
 第9期マイナビ女子オープン五番勝負第四局。
 加藤桃子女王の先手で室谷由紀女流二段の振飛車4→3戦法。先手から仕掛けましたが明らかに無茶で,あっさりと後手がよくなったように思います。
                                     
 仕掛けた先手がようやく香車を取りきったところ。ここで△3八歩と打ちました。スピード不足だったかもしれませんが,シリーズを通していえば室谷二段が好みそうな手だとは思います。
 先手が▲2二歩と打ったのは無視して△3九歩成。先手は▲8六香と打ちました。これは8三で清算して▲6三龍の王手金取りを狙っているので受ける必要があります。それで△7三馬と引いたのですが,これはまずかったと思います。たぶん単に△6二桂と打ってしまった方がよかったでしょう。
 先手は▲2一歩成と桂馬を入手。後手はそこで△6二桂と打ちましたが,これでは受けがダブってしまった形。先手が▲5三龍と逃げたところで△4九とと金を取りましたが,▲6五桂と打たれて△3七馬と逃げることになりました。
                                     
 第1図から第2図の間に後手はと金を作って金を取りました。先手は香車と入手した桂馬を急所に据えました。もし後手が7三に馬を引かずに6二に桂馬を打って,先手が同じように5三に龍を逃げたと仮定すれば,先手は桂馬を入手はできたかもしれませんが打つことはできず,後手はさらに△5九とのような別の手を指せていたことになります。なのでこの間の折衝は後手がだいぶ損をしてしまったといえそうです。第2図はまだ後手が悪いとはいえないかもしれませんが,難解な局面にはなっている筈で,おそらくこの部分が勝敗に大きく影響したのではないかと思います。
 3勝1敗で加藤女王が防衛第7期,8期に続く三連覇です。ただ,どの将棋も序中盤で悪くしてしまっているので,課題が残る防衛という見方もできるでしょう。

 7月10日,金曜日。この日は妹の施設でボーリング大会が予定されていました。ボーリングは杉田で行われますので,母は妹を作業所まで送らず,杉田のボーリング場へ直で送って行きました。作業所と杉田は僕の家からは逆方向だからです。近くの停留所から杉田方面まで行くバスが出ていますので,乗り継ぎが必要な作業所へ送るよりむしろ楽かもしれません。僕はこの日は長者町で,午後4時25分頃の帰宅になりました。
 7月11日,土曜日。妹のピアノのレッスンがありました。この日は午後4時半から。これは午後5時半の予定であったものが,前夜にピアノの先生から連絡が入り,変更になったものでした。
 7月12日,日曜日。母と妹で美容院へ。帰ったのは午後3時半過ぎでした。
 7月13日,月曜日。この日に先週の通院のときにK先生が紹介してくれた,みなと赤十字病院での耳鼻咽喉科の検査がありました。予約は午前10時で,さほど待たされることなく診察室に案内されました。まずここで担当の医師による耳の中の診察がありました。鼓膜を入念に検視したようですが.異常は何もないとのことでした。僕はそれが目的でしたから安心しました。ただ,念のために聴力検査も受けてほしいということでしたので,それだけで帰ることはできず,検査までまた少し待たなければなりませんでした。聴力検査というのはヘッドフォンのようなものを装着して,音が聴こえたら手元にあるボタンを押すというもの。聴こえてくる音は僕の耳鳴りとは程遠い超高音でした。これを左耳だけでなく耳鳴りはしていない右耳でも行い,聴力検査は終了です。
 また受付の前の待合で少し待っていると,検査の結果が出たようで,診察室に呼ばれました。聴力にも問題は出ていないということでした。正直にいえばこれは検査などするまでもなく僕には分かっていたことでした。ただ左耳から耳鳴りという新しい音が聴こえるようになったという変化があっただけで,それ以外には何もなかったからです。医師は最後に薬の処方を申し出ましたが,断りました。耳に異常がないなら,耳鳴りがしなくなるようにする必要は僕にはなかったからです。
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馬場とハンセンの初対決&相談

2016-05-17 19:00:32 | NOAH
 前年暮れの最強タッグ決定リーグ戦の最終戦でハンセンの乱入があり,年明けから全日本プロレスに正式に移籍した不沈艦は,初戦で阿修羅・原に楽勝。シリーズの最終戦ではいきなりジャイアント・馬場とのシングルマッチが組まれました。
 当時の馬場は全盛期の力はなく,ハンセンのような強敵を相手にどこまで戦えるのかというのが注目されていました。完敗を喫するようなら引退というのも現実味を帯びていた状況だったのです。なのでこの試合は馬場がそれを払拭し,復活を遂げた試合という文脈で語られることが多くなっています。けれどもよく考えてみたら,この試合は馬場にとってよりハンセンにとって重要な試合であったかもしれません。全日本に移籍していきなり馬場との試合が組まれたわけで,ここでよい仕事をしなければ,その後の自身の地位に危うさを招きかねないカードであったと思えるからです。
 このときハンセンがするべき仕事というのは,少なくともふたつはあったと僕は思います。ひとつは試合を通じて相手である馬場の復活を印象付けるということです。そしてもうひとつが試合の内容において観客を納得させるということです。もちろん馬場に一定の力がなければふたつとも無理な話ですが,全盛期は過ぎたとはいえ,この時点の馬場にはその程度の力はありました。
 ハンセンはこの仕事を見事に達成しました。この日,会場には馬場がハンセンに負けることを期待した新日本プロレスのファンも多く入り,試合前はハンセンへの声援の方が目立っていたくらいなのですが,試合終了時には馬場コールでほぼ一色になりました。そしてこの試合は会場にいた新日本プロレスのファン,いい換えればアンチ馬場のファンを納得させただけでなく,プロレス大賞の年間最高試合賞に選ばれるだけの内容も残したのです。これは『1964年のジャイアント馬場』にあるように,投票する記者の協力なしに実現はしなかったでしょうが,選出される価値がある試合だったのは間違いないと思います。
                                
 1982年2月4日のこの試合は,馬場復活の試合ではなく,ハンセンが全日本でトップを張っていくことを決定づけた試合だったのかもしれません。

 生活する上で困ったことは何もありませんでした。仮にこの耳鳴りが,今後の人生を通してずっと鳴るということがあったとしても構わないくらいに思えるものでした。それが聴こえていないときには,むしろ耳を澄ますようなことまであったほどです。まだ鳴るようになって2週間弱しか経っていない段階でしたが,もう日々の生活の中で聴こえる音の一部と僕には化していたのです。僕がこれを普通にイメージされる耳鳴りとは異なっていると表現した理由もこれでお分かりいただけるでしょう。僕の感覚だけでいえば,鳴っているというよりも聴こえている,あるいは聴こえたり聴こえなかったりするという方が近かったのです。
 それでもK先生に相談したのは,一点だけ気になっていたことがあったからです。それはこれが左耳だけに聴こえて,右耳から聴こえるということはなかったということです。低音であったということは説明した通りですが,左耳の中に何か小さいものがあって,それが振動して音が聴こえているというような感覚です。なのでこれはもしかしたら左耳の中で何か異常が生じているのかもしれないという疑いが僕にはありました。ですから何らかの検査が可能であれば,検査する方がよいだろうとは思っていたのです。つまり音が出ないようにする必要はまったくありませんでしたが,左耳に異常があるのかないのかだけは確認しておきたかったということです。
 僕は唾石ができてしまったときに,この病院の耳鼻咽喉科で詳しい検査を受けました。つまりここには耳鼻咽喉科があったのです。もっともみなと赤十字病院くらいの大病院であればそれは当然でしょう。あのときは何らの紹介なしにいきなり行ったら,ちょうどその日がそういう患者の受診が可能な日だったのです。今もそれと同じなのかどうかわかりませんが,K先生からの紹介という形で,後日に耳鼻咽喉科で受診できるように手配してもらいました。生活に支障はなかったので,僕としても後日で問題ありませんでした。
 いつものように薬局に寄って帰宅。この日は注射針の在庫が不足していましたので,郵送を依頼しました。家に着いたのは午後4時50分でした。
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