ブレイエンベルフWillem van Blyenburgからスピノザへの最初の書簡は書簡十八で,1664年12月12日付でドルトレヒトDordrechtから送られています。スピノザはこのときはフォールブルフVoorburgに住んでいましたが,返信となる書簡十九はスヒーダムSchiedamから出されています。スピノザが書簡を受け取ったのがフォールブルフであったのかスヒーダムであったのかは不明ですし,ブレイエンベルフがどうしてスピノザに書簡を送ることができたのかも僕には分かりません。この書簡に限らずブレイエンベルフとスピノザとの間での書簡はオランダ語で交わされ,いずれも遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。
ブレイエンベルフは1663年の終りに出版された『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』を読みました。その内容についてスピノザに質問するというのがこの書簡の内容です。ブレイエンベルフは後に自説を敷衍するようになるのですが,この書簡にはそれは強く出ていません。スピノザはこの書簡を読んだときにはブレイエンベルフの意見opinioがスピノザのそれと一致していると勘違いしたわけですが,その理由のひとつはその点にあったと思われます。そしてもうひとつ,その要因がこの書簡にはみられます。
ブレイエンベルフは書簡の冒頭で自己紹介をしているのですが,そこで自身のことを,純粋な真理veritasへの愛amorに動かされ,人生において学問の中に支柱を見出そうとしている人間であるといい,さらに真理の探究にあたっては名誉gloriaや富を求めるのではなく,真理そのものを目的finisとし,その真理の果実によって心の平安を得ようとしているのだと続けています。これはスピノザが『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』で自身についていっていることとよく似ているといえるでしょう。だからスピノザはブレイエンベルフを,自分のような人間であるとみなしてしまったのです。
実際にはブレイエンベルフがいう真理というのは,聖書に書かれていることを真理とみなすという意味の真理であって,スピノザがそう理解するような真の観念idea veraの集積としての真理ではありません。スピノザがそれを理解するのは,書簡二十を受け取ってからでした。
このことがネコにだけ妥当するわけではなく,たとえばイヌにも妥当しまたウマにも妥当するといったことは,とくに説明するまでもなく明白でしょう。したがってネコにはネコの実体substantiaがあるように,イヌにはイヌの実体があり,ウマにはウマの実体があるというように,それこそ無限に多くのinfinita実体があるということになるでしょう。第一部定理一六により,無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じるのですから,実体をこのような仕方で規定する限り,どうしてもこのような結論にならざるを得ないのです。
以前に『ゲーテとスピノザ主義』について考察したときに,ゲーテJohann Wolfgang von Goetheがいう原型というのがスピノザの哲学における実体に該当し,メタモルフォーゼが実体の変状substantiae affectioすなわち様態modiに該当するという形式で,ゲーテの植物学とスピノザの哲学の関連性を説明したことがあります。このときの植物の原型を植物実体として理解すれば,これはここで考察している実体に即したような形で,といっても植物というのは,ネコやイヌ,ウマよりは広きにわたるといわなければなりませんが,論理構成上は同じものになっているといえます。単純にいえばこのような植物実体というものを想定することができるのであれば,動物実体というものも想定することができるようになる筈で,この場合も結局のところは第一部定理一六により,無限に多くの実体が存在するという結論にならざるを得ないからです。
このように実体を規定した場合,この例で示したネコの色とか模様とか動きといったものは,それ自体で示すことができないので,実体とはなり得ません。たとえば黒という色は,ネコなりイヌなりウマなりの色を表すから意味をなすのであって,そうでなければ意味をなしません。模様とか動きといったものもそれと同様です。なのでこれは様態に該当するでしょう。実際に第一部定義五では,様態はほかのもののうちにあるといわれていて,そのほかのものというのをここでいっている実体に該当するとすれば,まさに色とか模様とか動きといったものは,ウマとかイヌとかネコのうちにあるといえることになるのであって,様態とはほかのもののうちにあることになるでしょう。
書簡十九は1665年1月5日付でスピノザからブレイエンベルフWillem van Blyenburgに出されたもので,ランゲ・ボーハールトという地名が記されています。これはおそらくシモン・ド・フリースの兄弟姉妹の家の地をより詳しく記したもので,書簡二十一と同様に,スヒーダムSchiedamから出されたものと考えて差し支えありません。スピノザはここにこれから3~4週間は滞在すると書いていますからこれは確実です。遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。
ブレイエンベルフがスピノザに送った最初の書簡が書簡十八で,これはそれへの返信になります。前にもいったように,僕はスピノザとブレイエンベルフの間の書簡を詳しく分析するのは労が多いわりに益が少ないとみていますので,ここでもこの書簡の内容については触れません。ただ重要なのは,この書簡を書いたときにはスピノザがブレイエンベルフは自身と概ね意見opinioが一致しているとみていました。この書簡はそういう前提で書かれているのであって,スピノザがこの書簡で自身の思想の意を尽くそうと努力しているのは,そういう理由に依拠しています。
ここでいう意見の一致というのは,後にスピノザが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』で示した,聖書は必ずしも真理veritasを明らかにするものではないということと関連します。つまりスピノザは,ブレイエンベルフと自身の間で,哲学上の結論の相違はあるかもしれないけれども,聖書に従えば真理を確実に知り得るというわけではないという点では一致しているとみていたわけです。
『神学・政治論』では懐疑論者scepticiだけでなく独断論者dogmaticiも非難されています。スピノザがその考えをこの時点でも有していたかどうかははっきりとは分かりませんが,仮にこの時点でそう考えていたとすれば,スピノザはブレイエンベルフが独断論者であるかどうかは分からないけれども,少なくとも懐疑論者ではないと評価していたことになります。実際にはそれはスピノザの思い込みで,ブレイエンベルフは強硬な懐疑論者であったのですが,そのことにスピノザが気付いたのは,書簡二十を受け取ってからだったのです。
吉田の議論が錯綜しているように僕にみえるのは,吉田がこのふたつを地続きで議論しているからです。吉田が地続きで議論することができたことには理由があることを僕は認めます。なぜなら吉田は,デカルトRené Descartesが「我思うゆえに我ありcogito, ergo sum」という結論を出したときに,思うということはあるということだという暗黙の前提があって,その前提に基づく三段論法として結論したのに対して,スピノザがそれを読み替えて,これは単一命題であると解釈し直したと解しているからです。しかし,たとえその吉田の説が正しいものであったとしても,「我思うゆえに我あり」というときの思うということについては,デカルトに対して施した解釈と,スピノザに対して施すべき解釈の間に差異があるので,本来は別個に議論されるべき事柄であると解釈しておくのが安全であると僕は思います。よって僕は,吉田の講義は明らかに地続きになっていますが,実際はデカルトに関連する部分とスピノザに関連する部分は個別に考察されているという解釈を採用します。
一方で,吉田がスピノザもデカルトと同じように,私は考えているということについては肯定しているというときに,第二部公理二に訴求しているという点はとても重要で,これは大いに参考になると思います。というのはこの公理Axiomaは,単に現実的に存在する人間は思惟するということだけをいっているのではなく,現実的に存在する人間が思惟するということを僕たちは知っているという意味も同時に含んでいるからです。これは取りも直さず,僕たちは僕たち自身が思惟していることを知っているという意味なのであって,このことが定理Propositioとして証明されているのではなく,公理として示されているということは,このことがそれ自体で明らかであるとスピノザが認めていたということを意味することになるのです。つまりデカルトは確実な事柄を追い求めてついに疑っている自分の精神mensが存在するということは疑い得ないという結論を出したのですが,スピノザも思惟している自分自身が存在することは疑い得ないといっているのであり,これは思惟している自分の精神が存在することは疑い得ないと読み替えられるでしょう。
書簡二十八は1665年6月にスピノザがバウメーステルJohannes BouwmeesterにフォールブルフVoorburgから送ったものです。遺稿集Opera Posthumaには掲載されていません。これは個人的な私信という意味合いが強かったからだと思われます。
冒頭部分では自分のことをバウメーステルが忘れてしまったのではないかとスピノザが疑っています。アムステルダムAmsterdamでバウメーステルから招待されていたので,フォールブルフに戻る前にお別れの挨拶をしようと思っていたけれども,その間にバウメーステルがハーグDen Haagに旅立ってしまったので会えなかったこと。ハーグからアムステルダムに戻る途中でフォールブルフのスピノザの家をバウメーステルが訪ねてくると思っていたのに訪ねなかったこと。そしてこうしたことについてバウメーステルが手紙を送ってこなかったことがその理由として列挙されています。
この後で,バウメーステルは自身の才能について不信を抱いていているようだといっています。もし自身の手紙をだれかが読んで笑うようなことを心配しているなら,他人に見せるようなことはしないと約束しています。冒頭部分とこの部分はおそらく関連しています。バウメーステルはスピノザやその友人たちと比べて,自身の能力が劣っていると思っていたので,スピノザと接触することに自身を失っていたのでしょう。スピノザはそんなバウメーステルに対して,変わらぬ友情を示したのがこの書簡の内容です。
赤バラの砂糖漬けを送ってほしいという依頼はこの書簡の中にみられます。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの中に出てくる老いた鶏のスープというのは医療的な意味合いがあったのか単にスピノザの好物であったのかは分かりませんが,この赤バラの砂糖漬けは医療的な意味があり,この当時は肺カタルに効果があるとされていました。スピノザは肺の病が原因で死ぬことになるのですが,すでにこの時期には症状が出ていたということになります。
チルンハウスEhrenfried Walther von TschirnhausはシュラーGeorg Hermann Schullerと知己になることによりスピノザとも面識を得たとされています。そのシュラーとチルンハウスの間では,定期的な書簡のやり取りがありました。これは書簡七十から確証できます。シュラーはスピノザに宛てたこの書簡の中で,チルンハウスから3ヶ月も手紙が来なかったので,イギリスからフランスへ渡る間に何かよくないことが起こったのではないかと不安だったという主旨のことを書いています。これは3ヶ月にわたって書簡が途絶えると,シュラーがチルンハウスのことを心配してしまうくらい頻繁な書簡のやり取りがあったことを確定させます。
途絶えていたチルンハウスからシュラーへの手紙は,パリに到着してからシュラーに送られました。シュラーはパリでのチルンハウスの様子をスピノザに伝えています。それによれば,スピノザから『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を送られたホイヘンスChristiaan Huygensにチルンハウスが会い,ホイヘンスがほかにスピノザが著した書物が出版されていないかをチルンハウスに尋ねたので,チルンハウスは『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』以外に知らないと答えたと書かれています。
この時点でチルンハウスは『エチカ』の草稿,すなわちバチカン写本を所持していたのですが,そのことをホイヘンスには伝えなかった,あるいは同じことですが秘匿したということを意味しています。一方でチルンハウスは,パリでライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizとも会い,ライプニッツにはバチカン写本を読ませても構わないと判断したので,その許可をスピノザに求めていることもシュラーは伝えています。 書簡七十二でスピノザはバチカン写本をライプニッツに閲覧させることを不許可としました。実際にライプニッツがそれを読んだかどうか,つまりチルンハウスがスピノザの指示を守ったのか否かは,研究者によって見解が分かれています。なので,僕はチルンハウスはその指示を守ったと考えていますが,ここでは指示を守らなかったかもしれないとしておきます。しかし,チルンハウスが少なくとも許可を得ようとしたことは事実なのであって,スピノザからの指示を待たずに独断でライプニッツにバチカン写本を見せなかったことは間違いないといえます。
吉田はこのような事情を考慮して,『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』は職業作家が手の込んだフィクションとして世に問うた作品であって,歴史資料として勘違いされたのだといっています。
僕はこの見解に同意しません。この本の中にはフィクションが多く含まれていることは事実だと思いますが,ヘンドリックHendrik Wilem van Loonが何らかの資料に当たっているのは間違いないと僕には思えます。なのでこの本の中には,資料としての価値がある部分が,断片的には含まれていると思います。というのも,吉田がいうように,この本が職業作家が書いたフィクションであるとすれば,その内容があまりに不自然であるからです。いい換えれば僕は,文学評論という立場から,この本の内容のすべてがフィクションであるというのは無理があると考えるのです。なぜ僕がそのように解するのかということはこれから説明していきますが,その前にいっておかなければならないことがあります。
まず,ヘンドリックがいっているように,仮にこの本がファン・ローンJoanis van Loonが書いたものをヘンドリック自身が全訳したものであったとしても,この中にはフィクションが含まれていると考えなければなりません。先ほどもいったように,僕は文学評論の観点からこの著作物が完全なフィクションであるというのは無理があるといっているわけですから,そのことは著者がファン・ローンであろうとヘンドリックであろうと変わるところはないからです。一方で,この本を純粋な史実と解するのも無理があるのであって,このこともまた著者がだれであろうと同じです。なのでここでは『レンブラントの生涯と時代』の著者が,ファン・ローンであるかヘンドリックであるかということは問いません。どちらであったとしても結論は同じであって,資料としての価値がまったくないということはないのです。ただひとつ確実なのは,ヘンドリックが職業作家として『レンブラントの生涯と時代』を書いたとした場合は,おそらくファン・ローンが書いたものを何らかの仕方で参照したのであって,したがって著者がどちらの場合であったとしても,ファン・ローンが何も書き残していなかったということはあり得ません。
スペイクが依頼したのでなかったら,だれが何の目的でスピノザの遺産の目録を作らせたかが謎として残ります。したがって,実はスピノザが死んだ日に目録を作らせたのもスペイクで,しかしそれが不正確であることをスペイクが看取したので,改めて別の人に目録の作成を依頼したということだったかもしれません。
仮に遺産目録を作成させたのがスペイクであったとすれば,その目的は葬儀費用の捻出であったと解するのが,『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』を読む限りは適切だと思います。前もっていっておいたように,21日に死んだスピノザの葬儀と埋葬が25日になったのは,葬儀費用の問題があったからだとフロイデンタールJacob Freudenthalはいっているからです。実際に葬儀も埋葬も行われたのですから,一時的にそれを行うだけの経済的余裕はスペイクにあったとみるのが妥当ですが,無償でそれを行うほど余裕があったわけではなく,立て替えた葬儀費用に関しては何らかの形で返却してもらう必要があったのでしょう。おそらくスペイクはスピノザの友人のことは知っていたかもしれませんが,スピノザの親族にだれがいるかは知らかったと思われます。したがって確実に立て替えた葬儀費用を返却してくれると思える人がスペイクにはいませんでした。だからスピノザの遺品を売却することによって,どの程度の売り上げが見込め,それで葬儀費用を賄うことができるかということをスペイクは知る必要があったということです。
正確な目録が作成されたのは3月2日になってからでした。しかしスピノザの葬儀と埋葬はその前に行われています。これは遺体をあまり長く放置することができなかったという事由によるものかもしれませんが,フロイデンタールはこの間に立て替えた葬儀費用を返却してもらえる目途がスペイクに立ったからと説明しています。いうまでもなくこれは,リューウェルツJan Rieuwertszによる保証です。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaでは,3月6日付の手紙でリューウェルツが保証したとなっていますが,確かにこの手紙は葬儀費用そのものを支払ったということを意味する内容になっていますから,それより前にリューウェルツがそれを保証していたということはあり得るでしょう。