書簡二十一は書簡二十への返信として書かれました。これは1665年1月16日付でドルドレヒトDordrechtのブレイエンベルフWillem van Blyenburgから出されたもので,このときはペストの流行によりスヒーダムSchiedamに避難していたスピノザに送られました。スピノザとブレイエンベルフの間のすべての書簡がそうであったように,この書簡もオランダ語で書かれ,遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。スピノザはこの書簡をラテン語に訳しておかなかったようです。一方で原書簡はアムステルダムAmsterdamの教会の図書館に所蔵されていて,遺稿集のオランダ語版De Nagelate Schriftenに掲載されたのはその文章と同じです。なので他人の手によって訳された遺稿集のラテン語版よりも,オランダ語版に掲載されたものが正文ということになるでしょう。
この書簡は非常に長いものなので,内容がどういったものであるのかということはここでは紹介しませんので,それを知りたいという場合は『スピノザ往復書簡集Epistolae』を読んでください。何度かいっているように,この書簡はスピノザとブレイエンベルフとの間のやり取りの中での契機となったものです。最初の書簡十八を読んだとき,スピノザはブレイエンベルフは真理veritasを獲得することだけを目的finisとしていて,その点で自身と一致すると思いました。そしてそういう立場から書簡十九を送ったのです。ところが書簡二十の内容から,スピノザはブレイエンベルフが,聖書に書かれていることが真理であると解する懐疑論者scepticiであるということを理解しました。このゆえにこの書簡の返事となる書簡二十一の冒頭で,これ以上は書簡のやり取りを続けても両者の一致点を見出すことはできないであろうという主旨のことをいったのです。
スピノザは,聖書が教えるのは真理ではなくて服従obedientiaであるということを『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の中で示しました。これはいい換えれば聖書は真理を教えてはいないということであって,聖書をいくら研究しても真理を獲得することはできないということを意味します。スピノザはふたりの間には根本的原理そのものに相違があるといっていますが,それは具体的にはこのことです。
このことはスピノザとマイエルLodewijk Meyerとの関係にも影響するかもしれません。マイエルが著した『聖書解釈者としての哲学Philosophia S. Scripturae Interpres』は,スピノザがいうところの独断論的な視点で書かれたものであるからです。すなわちマイエルはブレイエンベルフWillem van Blyenburgのような懐疑論者scepticiであったわけではなく,デカルト主義者であるか否かという立場の相違はあったとしても,グレフィウスJohann Georg GraeviusやフェルトホイゼンLambert van Velthuysenと同様に独断論者dogmaticiであったのです。
『スピノザーナ15号』で高木久夫が指摘しているように,たぶん『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』には一種の捏造があったのであり,スピノザはそこで独断論者としてマイエルを批判したかったのであり,それが捏造の意図であったと僕はみています。そしてこの批判により,マイエルとスピノザは仲違いすることになったという説があります。しかしスピノザは懐疑論者に対しては絶縁を迫るようなこともしましたが,フェルトホイゼンやグレフィウスといった,デカルト主義者の独断論者に対してはそういう態度をとりませんでした。であれば,独断論者であってもデカルト主義よりスピノザ主義に近かったマイエルに対してそのような態度をとることはなおのこと考えられないでしょう。マイエルがスピノザの批判をどう受け止めるかということは別の観点としてみなければいけないでしょうが,少なくともスピノザの方からマイエルと交友関係を絶たなければならないような動機は,何もなかったということになります。
以前からいっているように,マイエルはスピノザの遺稿集Opera Posthumaの編集者のひとりであったのだから,マイエルとスピノザとの交友関係が断たれるというようなことはなかったとみています。そうでないと編集者になったことを説明できないからです。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaで,スピノザの死を看取った医師が,それが事実であったかどうかは別としても,マイエルであったと示唆されていることもそのことを補強する材料になるでしょう。なので,僕はスピノザとマイエルが仲違いしたことはないとみていますが,それとは別に,スピノザがグレフィウスやフェルトホイゼンとの交流を拒まなかったということも,その説を補強する材料になるのではないかと思います。
書簡二十八はバウメーステルJohannes Bouwmeesterに送られたものです。
バウメーステルは1630年生まれでスピノザよりもふたつ年長です。マイエルが同じ1630年生まれで,バウメーステルはまずライデン大学でマイエルと知り合い,その後にマイエルがスピノザと知り合ったのを機にスピノザとも知り合いになりました。産まれたのはアムステルダムAmsterdamで,哲学と医学を学び,後にアムステルダムで開業医となっています。『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』でスピノザを賛美する詩を書いていますので,もうその時点ではかなり親しくなっていたとみていいでしょう。
書簡二十八の内容から,バウメーステルはスピノザの友人たちの間ではあまり知的に優れてなく,それでスピノザとの接触も避けていたように思われます。また,スピノザはバウメーステルの質問に対して後に書簡三十七を送ることになりますが,この質問はスピノザの方法論を理解していればしないような質問ですから,余計にそのような印象を抱かせます。
しかしバウメーステルは,マイエルも含めたライデン大学出身者を核とするアムステルダムの文学結社Nil volentibus arduumのメンバーの十数人のうちのひとりでした。当時は集会や結社の自由が認められていたわけではなく,この結社は秘密結社のようなもので,スピノザもその存在を知らなかったようですし,会合にはメンバー以外の出席も認められませんでした。1669年から1687年まで続いた結社で,原則的に火曜の夕方に会合をもち,この会合の638回分の梗概が残されています。この梗概の中にはバウメーステルが果たした役割というのも記されています。マイエルの友人であったということがこの結社のメンバーとして迎え入れられる一因にはなっていたかもしれませんが,バウメーステルがどの程度の知性を有していたのかということを,『スピノザ往復書簡集Epistolae』だけで判断してしまうのはやや危険かもしれません。
ヤコブス・ホイエルJacobus GoyerもスピノザがユトレヒトUtrechtを訪問したときにはユトレヒトに在住していたと思われます。そしてホイエルは,少なくともその当時は優秀な研究をしている学者であるというように知られていたわけですから,邸宅をミサのために接収されたとはいえ,コンデ公が率いたフランス軍から丁重なもてなしを受けていたとしてもおかしくありません。そして事実としてグレフィウスohann Georg GraeviusやフェルトホイゼンLambert van Velthuysenはユトレヒト滞在中のスピノザと面会したわけですから,このときにホイエルとスピノザが面会していたとしてもおかしくはないと久保は指摘しています。これがスピノザとホイエルの接点とされているものです。
この指摘自体は妥当なものであって,僕もその可能性を否定するものではありません。ただ,ホイエルとスピノザが面会したとする場合は,ホイエルが法学を修めた人物であり,研究していたのはギリシャの古典であったことを考慮する必要があると思うのです。つまり,グレフィウスとかフェルトホイゼンというのは,哲学や神学に関心がある人物であって,スピノザにもグレフィウスやフェルトホイゼンにも面会する動機があったと推定できます。ホイエルの蔵書からすればホイエルがそういったことにまったく関心がなかったということはできませんが,それは関心の中心ではなかったでしょう。一方でスピノザはラテン語を解せましたから,その方面からホイエルが関心を抱いた文学に触れたことはあったかもしれません。しかしその方面の知識に堪能であったというわけではなく,ホメロス全集に精緻な注解を付したホイエルの知識には遠く及ばなかったと思われます。スピノザはたぶんコンデ公が不在であったこともあり,予定よりも長くユトレヒトに滞在したとされていますが,それでもそうも長くユトレヒトに滞在していたわけではありません。その短い時間のうちにスピノザが積極的にホイエルと面会しようとする動機が湧いたのかということは僕には疑問です。ですから久保はこのように指摘しているものの,僕はスピノザとホイエルが面会した可能性は低いのではないかとみているのです。ただ接点があったことは事実といわざるを得ません。
スピノザから出されたブレイエンベルフWillem van Blyenburgへの最後の書簡は書簡二十七で,1665年6月3日付になっています。これはフォールブルフVoorburgから送られたもので,遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。ブレイエンベルフがスピノザに送った最初の書簡が書簡十八で,これが1664年12月12日付ですからふたりの文通はおおよそ半年で終了したことになります。この理由は書簡二十一ですでにスピノザが指摘しているように,ブレイエンベルフは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』でいわれているところの懐疑論者scepticiで,スピノザと文通することはスピノザにとってもブレイエンベルフにとっても益はなく,単なる時間の無駄にすぎなかったからです。
書簡二十七は書簡二十四に対する返事となっています。書簡二十四は1665年3月27日付でスピノザに送られたものですが,書簡二十七に書かれているところによれば,その書簡をスピノザが受け取った時点でアムステルダムAmsterdamに出発するところであり,どうせ書かれていることはそれまでの書簡と同じようなものだろうと推測したので,半分ほど読んで手紙を置いて出掛けてしまったとのことです。これはたぶん事実だったのだろうと思います。ただスピノザはそれより後に届いたオルデンブルクHeinrich Ordenburgからの書簡の返事を先に書いたようですから,もしかしたらこの書簡には返事を書かないつもりだったのかもしれません。
実際の書簡二十四の内容は『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』に関係する質問が多く,かつブレイエンベルフはその後にこの書簡への返事がないことへの不満を述べた書簡をスピノザに送りましたので,後にスピノザも返事を書くことになりました。ただこの書簡はスピノザがブレイエンベルフに宛てた書簡としては短いものであって,ブレイエンベルフが尋ねてきたことに対しても解答していません。むしろブレイエンベルフがそうした質問に対してスピノザが解答することを要求することを放棄するように求めています。
ブレイエンベルフがそれで引き下がったかどうかは分かりません。ただたとえそうであったとしても,スピノザがこれ以降はブレイエンベルフには書簡を書かなかったことは,歴史的な事実として確実視できることなのではないかと思います。
ブレイエンベルフWillem van Blyenburgからスピノザへの最初の書簡は書簡十八で,1664年12月12日付でドルトレヒトDordrechtから送られています。スピノザはこのときはフォールブルフVoorburgに住んでいましたが,返信となる書簡十九はスヒーダムSchiedamから出されています。スピノザが書簡を受け取ったのがフォールブルフであったのかスヒーダムであったのかは不明ですし,ブレイエンベルフがどうしてスピノザに書簡を送ることができたのかも僕には分かりません。この書簡に限らずブレイエンベルフとスピノザとの間での書簡はオランダ語で交わされ,いずれも遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。
ブレイエンベルフは1663年の終りに出版された『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』を読みました。その内容についてスピノザに質問するというのがこの書簡の内容です。ブレイエンベルフは後に自説を敷衍するようになるのですが,この書簡にはそれは強く出ていません。スピノザはこの書簡を読んだときにはブレイエンベルフの意見opinioがスピノザのそれと一致していると勘違いしたわけですが,その理由のひとつはその点にあったと思われます。そしてもうひとつ,その要因がこの書簡にはみられます。
ブレイエンベルフは書簡の冒頭で自己紹介をしているのですが,そこで自身のことを,純粋な真理veritasへの愛amorに動かされ,人生において学問の中に支柱を見出そうとしている人間であるといい,さらに真理の探究にあたっては名誉gloriaや富を求めるのではなく,真理そのものを目的finisとし,その真理の果実によって心の平安を得ようとしているのだと続けています。これはスピノザが『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』で自身についていっていることとよく似ているといえるでしょう。だからスピノザはブレイエンベルフを,自分のような人間であるとみなしてしまったのです。
実際にはブレイエンベルフがいう真理というのは,聖書に書かれていることを真理とみなすという意味の真理であって,スピノザがそう理解するような真の観念idea veraの集積としての真理ではありません。スピノザがそれを理解するのは,書簡二十を受け取ってからでした。
このことがネコにだけ妥当するわけではなく,たとえばイヌにも妥当しまたウマにも妥当するといったことは,とくに説明するまでもなく明白でしょう。したがってネコにはネコの実体substantiaがあるように,イヌにはイヌの実体があり,ウマにはウマの実体があるというように,それこそ無限に多くのinfinita実体があるということになるでしょう。第一部定理一六により,無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じるのですから,実体をこのような仕方で規定する限り,どうしてもこのような結論にならざるを得ないのです。
以前に『ゲーテとスピノザ主義』について考察したときに,ゲーテJohann Wolfgang von Goetheがいう原型というのがスピノザの哲学における実体に該当し,メタモルフォーゼが実体の変状substantiae affectioすなわち様態modiに該当するという形式で,ゲーテの植物学とスピノザの哲学の関連性を説明したことがあります。このときの植物の原型を植物実体として理解すれば,これはここで考察している実体に即したような形で,といっても植物というのは,ネコやイヌ,ウマよりは広きにわたるといわなければなりませんが,論理構成上は同じものになっているといえます。単純にいえばこのような植物実体というものを想定することができるのであれば,動物実体というものも想定することができるようになる筈で,この場合も結局のところは第一部定理一六により,無限に多くの実体が存在するという結論にならざるを得ないからです。
このように実体を規定した場合,この例で示したネコの色とか模様とか動きといったものは,それ自体で示すことができないので,実体とはなり得ません。たとえば黒という色は,ネコなりイヌなりウマなりの色を表すから意味をなすのであって,そうでなければ意味をなしません。模様とか動きといったものもそれと同様です。なのでこれは様態に該当するでしょう。実際に第一部定義五では,様態はほかのもののうちにあるといわれていて,そのほかのものというのをここでいっている実体に該当するとすれば,まさに色とか模様とか動きといったものは,ウマとかイヌとかネコのうちにあるといえることになるのであって,様態とはほかのもののうちにあることになるでしょう。
書簡十九は1665年1月5日付でスピノザからブレイエンベルフWillem van Blyenburgに出されたもので,ランゲ・ボーハールトという地名が記されています。これはおそらくシモン・ド・フリースの兄弟姉妹の家の地をより詳しく記したもので,書簡二十一と同様に,スヒーダムSchiedamから出されたものと考えて差し支えありません。スピノザはここにこれから3~4週間は滞在すると書いていますからこれは確実です。遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。
ブレイエンベルフがスピノザに送った最初の書簡が書簡十八で,これはそれへの返信になります。前にもいったように,僕はスピノザとブレイエンベルフの間の書簡を詳しく分析するのは労が多いわりに益が少ないとみていますので,ここでもこの書簡の内容については触れません。ただ重要なのは,この書簡を書いたときにはスピノザがブレイエンベルフは自身と概ね意見opinioが一致しているとみていました。この書簡はそういう前提で書かれているのであって,スピノザがこの書簡で自身の思想の意を尽くそうと努力しているのは,そういう理由に依拠しています。
ここでいう意見の一致というのは,後にスピノザが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』で示した,聖書は必ずしも真理veritasを明らかにするものではないということと関連します。つまりスピノザは,ブレイエンベルフと自身の間で,哲学上の結論の相違はあるかもしれないけれども,聖書に従えば真理を確実に知り得るというわけではないという点では一致しているとみていたわけです。
『神学・政治論』では懐疑論者scepticiだけでなく独断論者dogmaticiも非難されています。スピノザがその考えをこの時点でも有していたかどうかははっきりとは分かりませんが,仮にこの時点でそう考えていたとすれば,スピノザはブレイエンベルフが独断論者であるかどうかは分からないけれども,少なくとも懐疑論者ではないと評価していたことになります。実際にはそれはスピノザの思い込みで,ブレイエンベルフは強硬な懐疑論者であったのですが,そのことにスピノザが気付いたのは,書簡二十を受け取ってからだったのです。
吉田の議論が錯綜しているように僕にみえるのは,吉田がこのふたつを地続きで議論しているからです。吉田が地続きで議論することができたことには理由があることを僕は認めます。なぜなら吉田は,デカルトRené Descartesが「我思うゆえに我ありcogito, ergo sum」という結論を出したときに,思うということはあるということだという暗黙の前提があって,その前提に基づく三段論法として結論したのに対して,スピノザがそれを読み替えて,これは単一命題であると解釈し直したと解しているからです。しかし,たとえその吉田の説が正しいものであったとしても,「我思うゆえに我あり」というときの思うということについては,デカルトに対して施した解釈と,スピノザに対して施すべき解釈の間に差異があるので,本来は別個に議論されるべき事柄であると解釈しておくのが安全であると僕は思います。よって僕は,吉田の講義は明らかに地続きになっていますが,実際はデカルトに関連する部分とスピノザに関連する部分は個別に考察されているという解釈を採用します。
一方で,吉田がスピノザもデカルトと同じように,私は考えているということについては肯定しているというときに,第二部公理二に訴求しているという点はとても重要で,これは大いに参考になると思います。というのはこの公理Axiomaは,単に現実的に存在する人間は思惟するということだけをいっているのではなく,現実的に存在する人間が思惟するということを僕たちは知っているという意味も同時に含んでいるからです。これは取りも直さず,僕たちは僕たち自身が思惟していることを知っているという意味なのであって,このことが定理Propositioとして証明されているのではなく,公理として示されているということは,このことがそれ自体で明らかであるとスピノザが認めていたということを意味することになるのです。つまりデカルトは確実な事柄を追い求めてついに疑っている自分の精神mensが存在するということは疑い得ないという結論を出したのですが,スピノザも思惟している自分自身が存在することは疑い得ないといっているのであり,これは思惟している自分の精神が存在することは疑い得ないと読み替えられるでしょう。
書簡二十八は1665年6月にスピノザがバウメーステルJohannes BouwmeesterにフォールブルフVoorburgから送ったものです。遺稿集Opera Posthumaには掲載されていません。これは個人的な私信という意味合いが強かったからだと思われます。
冒頭部分では自分のことをバウメーステルが忘れてしまったのではないかとスピノザが疑っています。アムステルダムAmsterdamでバウメーステルから招待されていたので,フォールブルフに戻る前にお別れの挨拶をしようと思っていたけれども,その間にバウメーステルがハーグDen Haagに旅立ってしまったので会えなかったこと。ハーグからアムステルダムに戻る途中でフォールブルフのスピノザの家をバウメーステルが訪ねてくると思っていたのに訪ねなかったこと。そしてこうしたことについてバウメーステルが手紙を送ってこなかったことがその理由として列挙されています。
この後で,バウメーステルは自身の才能について不信を抱いていているようだといっています。もし自身の手紙をだれかが読んで笑うようなことを心配しているなら,他人に見せるようなことはしないと約束しています。冒頭部分とこの部分はおそらく関連しています。バウメーステルはスピノザやその友人たちと比べて,自身の能力が劣っていると思っていたので,スピノザと接触することに自身を失っていたのでしょう。スピノザはそんなバウメーステルに対して,変わらぬ友情を示したのがこの書簡の内容です。
赤バラの砂糖漬けを送ってほしいという依頼はこの書簡の中にみられます。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの中に出てくる老いた鶏のスープというのは医療的な意味合いがあったのか単にスピノザの好物であったのかは分かりませんが,この赤バラの砂糖漬けは医療的な意味があり,この当時は肺カタルに効果があるとされていました。スピノザは肺の病が原因で死ぬことになるのですが,すでにこの時期には症状が出ていたということになります。