スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

国家論&信仰心の相違

2015-01-24 19:26:51 | 哲学
 『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を紹介したので,『国家論Tractatus Politicus』も簡単に紹介します。
                         
 『国家論』は単独では岩波文庫版しかありません。第1刷が1940年の発行で,おそらく『神学・政治論』と同様の意味で現代では読みにくいものだったと思われますが,1976年の第12刷で改版が発行され,解消されています。また2012年に第22刷が出ていますから,入手も困難ではないと思われます。
 この本はスピノザの絶筆で,未完です。民主国家についての言及の途中で終了しています。なのでスピノザが民主国家がどうあるべきと考えていたかは,全面的には分からないとするのが妥当だと思います。
 それが第一一章ですが,僕は第五章までと第六章以下の二部構成だと理解します。前半部分は一般的に国家Imperiumについて語られていて,後半は,具体的な制度の下の国家のあるべき姿が語られているからです。具体的な制度とは,民主制のほかには,君主制と貴族制です。この貴族制は,共和制と解してよいと思います。つまり前半部分で,どんな制度にあっても妥当しなければならないことが述べられ,後半部分でそれが個々の制度に適用されるという形式です。
 スピノザは民主主義者であったと解して間違いないと思いますが,この本は,いわゆる国家論として,いくつかの制度を比較するようなものではありません。むしろ,ある国家制度において,具体的にどのような手法が採用されれば,その国家の国民の福祉が最も満たされるかを検討した方法論です。したがって,手法を誤った民主制国家よりも,正しい手法の君主制国家の方が,国民にとって利益が大きくなり得るということを,スピノザは認めるであろうと僕は考えます。
 哲学的にその根拠になるのは第四部定理四です。人間は受動passioを免れ得ません。よって精神の能動actio Mentisによって決定されるのと同じ行動に,受動によって決定されるなら,それで構わないとスピノザは考えたのだと思います。『スピノザとわたしたちSpinoza et nous』を紹介したとき,ネグリAntonio Negriの理論はスピノザの政治的実践にはそぐわない側面があると僕はいいましたが,このような観点がネグリには欠けていると僕は思うのです。

 もうひとつ,ヤコービとライプニッツは同じように神学的観点からスピノザの哲学に立ち向かおうとしたのですが,同じようにキリスト教への信仰心を有していたと考えるのは危険な意味があることになります。
 僕はヤコービFriedrich Heinrich Jaobiの日々の暮らしについては何も分かりません。ただ,キリスト教を信仰していたことは間違いないでしょうし,その信仰心は篤いものであったと推測できます。ヤコービはスピノザの哲学が論理的に完全であることは認めていたのですから,そのように考えないと,それと対立しなければならない理由が失われてしまうからです。しかしライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの場合にも同じように考えることはできません。ライプニッツの場合は,宮廷人としての立場を死守するために,神学的立場に立たなければならなかったわけで,この条件は,ライプニッツがキリスト教を信仰していようと信仰していまいと,変わることはないからです。いい換えればライプニッツは立場上はキリスト教を信仰しているように振舞わなければならなかった筈ですが,それは本心からのものである必要は必ずしもなく,周囲の人間にそのように見せかけることができるなら十分であったといえるからです。要するに,またとても極端にいうなら,もしもスピノザ主義を是認することによって宮廷人という立場を守ることができるとしたなら,ライプニッツはむしろ神学的観点よりもスピノザ主義の方を選択したのではないかと推測できるのです。
 『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』では,ライプニッツはそうも熱心に教会へ通うような人物ではなかったと描かれています。この本は脚色が入っていると思われますから,それを事実として認めることは危険だと思います。しかし,ライプニッツが,スチュアートMatthew Stewartが描いたような人物であったとしても,それは不思議なことではないと僕には思えるのです。
 したがって,ライプニッツにとっては,神学的立場に立脚するということ自体が,ライプニッツ自身の信念から生じたものではないという可能性があるのです。ヤコービは間違いなく自身の信念からそこに立脚した筈で,宗教観に違いがあったかもしれないと考えておくべきでしょう。
コメント
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