スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

フラゼマケル&前提部分

2016-02-29 19:48:08 | 哲学
 シモン・ド・フリース書簡八で説明している講読会の初期のメンバーのひとりに,ヤン・ヘンドリック・フラゼマケルがいたと『ある哲学者の人生』では推定されています。
                                    
 産まれた年は判明していないようですが,1620年前後であったとナドラーは書いています。両親が広い意味でのコレギアント派に属していて,同い年かほぼ同年代であったイエレスとは幼馴染であったとされています。フラゼマケルとスピノザの出会いは,イエレスによって仲介されたというのがナドラーの見解です。
 スピノザと親友であったと断定できるのは,フラゼマケルが遺稿集の編集者のひとりであったと確定できるからです。遺稿集のオランダ語版は,フラゼマケルがラテン語から訳したものです。ナドラーはスピノザの著作のほとんどのオランダ語訳を手掛けた人物と説明していて,これはこれで間違いないとは思いますが,実際にスピノザが存命中に出版されたのは『デカルトの哲学原理』と匿名での『神学・政治論』だけなのですから,この説明が実際に意味しているのは,遺稿集の翻訳者であったということと大差ないと思います。
 『デカルトの哲学原理』のオランダ語訳はほかの人物によってなされたものですが,『神学・政治論』を蘭訳したのはフラゼマケルです。スピノザはその出版を阻止するように依頼する書簡を1671年2月にイエレスに送ったのですが,その時点では蘭訳は完成されていたと考えていいでしょう。出版が1693年になったのは,スピノザの意向が受け入れられたからだと解するのが妥当だと思います。ただ,実際にその時点でオランダ語に訳されていたのですから,そちらの方を読んだ人物が存在したということは確かだと僕は思っています。とくにフラゼマケルの幼馴染でラテン語を読むことができなかったイエレスは,フラゼマケルによる翻訳によって,それを読むことができたのだろうと僕は推定します。
 スピノザは同じ依頼をフラゼマケル当人にもしたかもしれません。どういう理由か不明ですが,スピノザとフラゼマケルの間の書簡は遺稿集にはありませんしその後も発見されていません。ただそれが存在しなかったとまでは断定できないだろうと僕は考えています。

 根本的に前提としなければならない事柄から論考を開始します。
 第二部定義二からして,ある事物とその事物の本性は実質的に同じものである,少なくとも相即不離の関係にあるものと解さなければなりません。
 第一部公理六から,真の観念は観念されたものideatumと一致します。したがってある事物を真に認識するということと,その事物の本性を真に認識するということは実質的に同一でなければなりません。なぜならその事物は本性なしには概念できないからです。逆にいうならある事物の本性を真に認識するということは,その事物を真に認識しているのと事実上は同じです。事物の本性はその事物なしには概念することが不可能なものであるからです。
 上述の事柄が,共通概念の認識の場合にも妥当しなければならないと僕は考えます。確かに第二部定理三七により,共通概念を認識するということは個物の本性を認識するということではありません。人間が認識する共通概念に限定していえば,それは自分の身体と外部の物体とに共通する性質の認識です。あるいは自分の身体の本性からも外部の物体の本性からも同じように必然的に流出する特質についての認識です。ですがそうした性質もそれ自体でみれば何らかの本性を有します。第二部定義二の意味から考えて,もしもそうした本性がこの性質には存在しないとするなら,その性質自体の存在を定立する要素が存在しないということになるので,その性質自体の存在は不可能であるといわなければならないからです。したがってどんな共通概念であれ,それを人間が認識するということは,その共通概念自体の本性を真に認識しているのと実質的に同一であると僕は考えます。
 こうした共通概念は神のうちにも存在します。これは第二部定理七系からそうでなければならないと僕は考えますが,第二部定理一一系を援用する方がたぶんこの場合には適切でしょう。人間の精神が神の無限な知性の一部分であるとするなら,人間の精神の一部を構成している真の観念は,そのままの形相で神の無限知性の一部を構成することになるからです。つまり神も共通概念を認識すると僕は解します。
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谷津の雑感④&論点整理

2016-02-28 19:26:23 | NOAH
 谷津の雑感③の続きです。
 馬場の依頼があって谷津はジャンボ・鶴田と組むようになりました。鶴田はパートナーとして頼もしかったしタッグとしてやりやすかったと語っています。これは以前に長州力と組んでいたことからの比較の上での発言です。長州と組む場合には,長州のリズムに合わせる必要があって,それが本当にできたのは谷津自身とアニマル・浜口だけだったと言っています。鶴田と長州がどうこういうより,谷津自身の自負が感じられる発言だと僕には思えました。
 当時のライバルは天龍源一郎阿修羅・原のコンビ。このチームはインパクトがあったし,対戦相手としてもよかったと回顧しています。馬場はプロモーターとして谷津に鶴田とのタッグの結成を依頼したのですが,これは興行的な面においてだけでなく,当事者にとってもよい選択であったということなのでしょう。
 谷津は新日本プロレスのデビューですが,デビュー前に母校の職員としてレスリングの指導をしていました。これは自身がオリンピック出場を目指していたためです。谷津が赴任したとき,2年生に三沢光晴,1年生に川田利明がいたそうです。インタビュアーはこれは有名なエピソードであるかのように質問しているのですが,僕はこれを読むまではそれを知りませんでした。実際に教えたのは遊び程度のスパーリングを別にすれば,タックルや組手だけだったと言っています。谷津によればこれは当時のふたりはまだ細かったので,怪我をさせてしまうことを不安に感じたからだそうです。ふたりはそういう過去を隠したかったのではないかと推測していて,確かに三沢も川田も谷津に指導を受けたということについてはあまり語っていないのではないかと思います。
 三沢と川田が互いにどういう思いを抱いていたのかは僕は量りかねる部分が大きいです。谷津によれば,高校時代のふたりは仲が良く,先輩である三沢が後輩の川田の面倒をよくみていたと語っています。僕はこの発言は,一般的な先輩と後輩という以上の関係があったという意味に解しますし,それはたぶん事実だったのだろうと思います。当時もその後も知っている人物による貴重な証言といえるでしょう。

 人間の精神のうちに共通概念が発生する過程を示した第二部定理三八第二部定理三九が,それらの論証に際して,現実的に存在する人間の身体と精神について言及している第二部定理一三を援用していることを重視し,このことから共通概念に等置される理性による認識で人間の精神のうちに生じる観念が,第二部定理四四系二にあるように永遠の相の下での認識であったとしても,それはその人間の精神が持続することを停止してしまえば破壊される観念であると考えた場合にも,第五部定理二三と直ちに矛盾するとはいえないということは分かりました。しかしこのことのうちには,理性による認識が,その認識をする精神の持続と共に破壊される観念であるということが含まれているというものではありません。僕はこの点に関してはここでは結論を出しませんし,出す必要もありませんから,現状の考察との関連で論点とならなければならない事柄についてだけ整理しておきます。
                              
 まず,後に示す理由から,仮に理性による認識が永遠である,すなわち精神の持続の終了と共には破壊されない観念であったとしても,それが第五部定理二三証明でいわれているあるものaliquidではあり得ないと僕は考えています。ですがたとえそうであったとしても,この場合には精神のうちに永遠であるものがあるということだけは確証されるのですから,それ以上このことを深く探求する必要はありません。なぜならこれによって永遠性が人間の精神と深く関連付けられるということは明らかで,第二部定理八系だけでなく第二部定理五も,スピノザの哲学において永遠性ということを考察するため必須の定理であるということは理解できるからです。
 したがってこれに反する場合の方が問題となります。そしてそうである可能性が実際にあるのです。つまり確かに共通概念は永遠の相の下での認識なのですが,この認識は人間の精神が現実的に存在している場合にのみ可能な認識であって,この観念によってその現実的存在の一部を構成されているその精神の持続の停止と共に破壊される観念であると考えなければならない余地があるのです。なのでこの場合に限定して考察を続けます。
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無能な作家&第二部定理四四系二と第五部定理二三の関係

2016-02-27 19:27:14 | 歌・小説
 『虐げられた人びと』の内容に関わる難点と僕に感じられたのは,おおよそ次のような事柄です。
                                    
 長いこと別の話と感じられたネリーとナターシャの物語は,マスロボーエフの登場によってひとつの物語へと収斂していきます。
 物語の開始時点ではすでに死んでいるネリーの母親はかつて男に捨てられることによって困窮した生活へと追い込まれました。その男がネリーの実の父親ということになります。ですがこの男は裕福であるにも関わらず,ネリーたちに金銭的援助をしませんでした。それどころか収奪したといっていいくらいです。
 ナターシャが愛しているのはアリョーシャですが,アリョーシャの父親はこの恋愛を好ましいものと思わず,ふたりの仲を引き裂くべく手練手管を用います。ただそればかりでなく,収奪することに躍起になっているといっていいでしょう。そしてこのアリョーシャの父親こそがかつてネリーの母親を捨てた男なのです。後にイワンに対して「おのれ自身を愛せ」と言うことになるワルコフスキーです。
 ただ,マスロボーエフははっきりとそうイワンに告げるのではなく,それとなく示唆するのです。たぶん読者はその時点でこれを理解できる筈です。ところがイワンはそれに気付くことができず,物語の最後の方でようやく事の真相を理解するのです。
 イワンは作家です。華々しくデビューしたもののその後は鳴かず飛ばずでしたから,有能な作家ではなかったのでしょう。とはいえ作家ともあろうものが,大抵の読者であれば理解するであろうマスロボーエフの仄めかしの意味を想像できないというのは致命的に無能だと僕には思えます。マスロボーエフのことばでいえば,イワンは見事に一杯食わされた結果になっているのです。その無能な作家の手記を読者は読んでいるということになるのです。これではこの作品が上質のものではあり得ないだろうと僕には思えました。

 共通概念が現実的に存在する人間の精神のうちにのみ生じ得る概念だということと,スピノザが共通概念による認識と等置している理性による事物の認識に,第二部定理四四系二により永遠の相の下にその事物を認識することが本性に属しているということは,それ自体で矛盾を孕んでいるとは僕は考えません。まず現状の考察の主旨の方を重視して,第五部定理二三との関連でこれを説明します。
 第二部定理四四系二は,事物を永遠の相の下に認識することが理性の本性に属していなければならないということを主張しています。ですがすでに説明したように,事物を永遠の相の下に認識することがその本性に属していなければならない認識というのは,理性による認識に限られないというのが僕の見解です。もしも理性による事物の認識が,現実的に存在している人間の精神のうちにのみ生じる観念であるとしたなら,この観念はその人間の精神が現実的に存在することを停止すれば,いい換えればこの人間が死んでしまえば,それと同時に持続することを停止してしまうという可能性を考えておかなければなりません。現実的に存在するある人間の精神が持続を停止するということは,その人間の身体が持続を停止するということと同じです。よってこの観念は,論理的可能性として人間の身体と共に破壊される観念の方に分類されなければなりません。つまりこの場合にはこの観念は第五部定理二三でいわれている,身体と共に完全に破壊されないもの,その証明でいわれているあるものaliquidであるということはできません。
 だから,もしも永遠の相の下に事物を認識することが理性だけの本性に属するのであると仮定するなら,あるものといわれているものは存在することが不可能であると結論しなければならない余地があるのです。いい換えれば第二部定理四四系二と第五部定理二三は両立し得ないと結論しなければならないでしょう。しかし僕の考え方からすれば,そのような結論を出す必要はないということは明らかだと思います。なぜならそれらが両立し得ないということの前提となっている仮定の部分を,僕ははっきりと否定しているからです。よってこの考え方は,この点においては矛盾を含んでいない筈です。
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神の認識&共通概念の前提

2016-02-26 19:20:21 | 哲学
 『スピノザの世界』でいわれているように,精神があってそれが事物を認識するのではなく,精神など存在しなくても認識という思惟作用があるというのが,スピノザの哲学における認識と精神の関係の考え方の最大の特徴でした。このために一般的にいわれるような思惟の主体というものが,スピノザの哲学には存在しなくなっているのです。このことは神がある事物を認識するという場合にも該当しなければなりません。
 第一部定理三二系一では,神が意志の自由によって作用するということが否定されています。この系で主張されていることの主旨は,神が自由な意志によって世界を創造するというような考え方に反駁することにあるのは確かだといえると思います。ですがこの系は,神があれを意志したりこれを意志しなかったりすることは不可能であるということも含意されていると考えることができます。第二部定理四九系にあるように,スピノザの哲学では意志知性は同一です。ですから何を認識し何を認識しないかは神の自由な裁量のうちには含まれないということが,第一部定理三二系一に含まれているとみなすことも可能です。この意味において,神は認識の主体とはいえないでしょう。
                                    
 第二部定理七系は,神の本性から形相的に,すなわち知性の外部に生じることのすべてが,神の観念から客観的に,すなわち観念として生じるということを示しています。ここからも神が何を認識し何を認識しないのかということは,一般的な意味においては神の自由には属さず,必然的なものであるということが理解できます。この意味においても,神は認識の主体であるとはいえないでしょう。
 第一部定義七は,自由を一般的な意味とは異なって定義しています。なので第二部定理七系によって,むしろ神は自由に認識するのであり,強制されて認識するのではないということが帰結します。そうはいってもこのような認識作用について,それをある主体による思惟作用であるというのは困難であると僕は考えます。自由と意志を概念として切断することさえ一般的観点からどうかと思えるのに,主体と意志を概念的に切断するのは相当な無理があると思うからです。

 第二部定理一三が,人間が自分の身体や精神まで含めた事物を知覚したり想起したりすることの前提となる定理であるという点では,僕は「個を証するもの」で佐藤が主張していることに同意します。ですが一方で,佐藤の主張には不十分な点もあるのではないかと思うのです。というのもこの部分の佐藤の主張は,第二部定理一三が人間の精神による事物の認識の前提となるとすれば,それは知覚や想起だけであるというように読めるのですが,僕にはそうは思えないからです。つまり僕は,第二部定理一三が前提となる人間の精神による事物の認識は,知覚や想起だけではないと考えるのです。
 第二部定理三八および第二部定理三九の様式による人間の精神による共通概念の認識は,明らかにその人間の身体が現実的に存在していることが前提となっていると僕には思えます。これらどちらの定理も,自分の身体と共通するものの認識ですが,この認識は,自分の身体が現実的に存在しているという場合にのみ,その人間の精神のうちに生じる認識であると僕は解します。このことは,第二部定理三八の証明でも第二部定理三九の証明でも,スピノザが第二部定理一三を援用しているということから明らかだと思うのです。第二部定理八系は,人間の身体が現実的に存在している場合にのみその人間の精神も現実的に存在するということを含意するのですから,人間の精神による共通概念の認識は,その人間の精神が現実的に存在している場合にのみ生じるといえます。したがってこの認識もまた,第二部定理一三を前提として生じる認識であると僕は考えるのです。したがって,知覚や想起の観念が永遠であることはできないのと同じ理由によって,共通概念の認識も永遠ではあり得ないのではないかと僕は考えます。つまり第五部定理二三のあるものaliquidであることはできないという意味では,共通概念もまた,知覚および想起と同様である可能性があると僕は結論します。
 ですが,ここでは次の問題が発生します。スピノザは共通概念による認識を理性による認識と等置しています。第二部定理四四系二では事物を永遠の相の下に認識することが理性の本性に属するといわれているのです。
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岡田美術館杯女流名人戦&知覚と想起の前提

2016-02-25 19:32:19 | 将棋
 昨日の第42期女流名人戦五番勝負第五局。
 主催新聞社の執行役員による振駒で清水市代女流六段の先手に決まり,里見香奈女流名人のごきげん中飛車。ちょっとした手順の違いはありましたが①-Bに進み,先手が抑え込みを目指しにいきました。
                                      
 信じられないのですが第1図は先手がすでに失敗しているようなのです。というよりここで△2四歩と動いていった後手が機敏だったというべきなのでしょう。先手は▲2六飛と回り△2二飛に▲5八金△5二銀の交換を入れて▲2四歩と取り込みました。手順中,5八に金を引かなければならなかったのは,少し前に△5七歩成という成り捨てを許していたためだったのですが,そこが先手の作戦が失敗に終わった遠因となっていたようです。
 後手は△同角と取りました。ここで▲3五歩と受けたのは仕方がなかったようです。手番を得た後手は先に△2五歩と叩いて▲同飛とさせてから△4五歩▲同銀左△3三桂の両取りを掛けました。
 ▲2九飛と逃げるのは仕方がないですが△4五桂▲同桂△4四歩と大きな駒得を目指されました。
 ▲2三歩△同飛▲1五桂△2一飛▲2二歩△同飛▲2三歩と進めたのは先手としてはこれしかないという手順だったと思われます。ですがここで歩切れになってしまいました。
 後手も飛車はこれ以上は逃げられないので△1五角と取って▲2二歩成△4五歩▲5七銀の二枚換えの手順に進めて△3七角成。先手も飛車先を抑えられては勝負所を失いますから▲2三飛成までは必然の手順でしょう。
 対して△5五馬と引きました。
                                      
 この手は最短で勝つという意味での最善手ではないかもしれませんが,負けないようにするためには最良の策だったように思います。後手は2一の桂馬が捌けていて飛車と銀桂の二枚換え。先手は歩切れで,ここでは指し手に窮しています。ここからは馬を主軸に中央に厚みを築いていった後手が圧倒することになりました。
 3勝2敗で里見名人の防衛第36期に初獲得し37期,38期,39期,40期,41期と連続防衛中でしたので七連覇で通算7期目の女流名人です。

 第五部定理二三のスピノザによる証明に瑕疵はないようです。したがって現実的に存在する人間の精神の本性に属するもののうちには,神の本性を原因として必然的に生じるような永遠である何かaliquidが含まれていると考えなければなりません。ではそれが何でなければならないのかということを,論証そのものを通して考えてみることにしましょう。
 「個を証するもの」の中で佐藤が注意を促しているのは,スピノザが第二部定理一三を援用している点です。これは現実的に存在する人間の身体と精神に関する記述ですが,佐藤によればこの定理が人間の精神による事物の認識の前提となるとすれば,それは人間が事物を表象したり想起したりすることだそうです。
 僕は佐藤の主張が誤りであるとはいいません。第二部定理一九は,人間が自分の身体を認識するのは,身体の刺激を通してのみであるといっています。また第二部定理二三は,人間が自分の精神を認識するのはやはり身体の刺激を通してのみだといっています。そして第二部定理二六は,人間が外部の物体が現実的に存在すると認識するのも,自分の身体の刺激を通してだけだとしています。人間の身体が刺激されるというのは,その身体が現実的に存在している,すなわち持続していることを前提としています。いい換えればもしある身体が現実的に存在しないなら,その精神はこれらの事柄を認識しないといえるでしょう。ですから第二部定理一三が,人間の精神による事物の表象の前提になっていることは間違いないといえるでしょう。
 僕は想起も表象の一種と考えますが,佐藤はふたつを分けています。これは知覚と想起を分けているといえるでしょう。そして上述の定理群は,知覚だけに限定されているともいえます。ですが想起に関しても,第二部定理一七系および第二部定理一八から,人間の身体の刺激を通してのみ生じる思惟作用であることは確定できます。なので第二部定理一三が,人間の精神による事物の想起の前提となる定理であるということも,佐藤が主張している通りであると僕は考えます。
 したがってこれらの観念は,いずれも永遠であるとはいわれ得ません。
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TOKYO MX賞フジノウェーブ記念&第五部定理二三証明

2016-02-24 19:54:35 | 地方競馬
 第7回フジノウェーブ記念。笹川騎手が病気のためワールドエンドは内田利雄騎手に変更。
 エアラフォンはダッシュが鈍く最後尾に取り残されました。先手を奪ったのはワールドエンド。2番手にセイントメモリーとソルテの2頭。好発から一旦は控えたイセノラヴィソンとブルーチッパーが3列目。単独の6番手にキモンアヴァロン。その直後のサトノタイガーとアルゴリズムまでは一団。ここから離れてリアライズリンクス,シンキングマシーン。さらに離れてサトノデートナ,コウギョウダグラス,ドレッドノート。この後ろの3頭はぽつんぽつんと追走で,隊列はかなり縦長でした。最初の600mは35秒3のハイペース。
 ソルテは3コーナーを回ると自然な形で先頭に。ワールドエンド,セイントメモリー,ブルーチッパーがその後ろで雁行となりましたが,セイントメモリーとブルーチッパーの間を突いたサトノタイガーが直線に入るところでは2番手に。逃げ込みを図るソルテをサトノタイガーが追い掛けましたが,一杯になったのはサトノタイガーの方。楽に抜け出すという形容が相応しい内容でソルテの優勝。外から追い込んだドレッドノートが2馬身半差の2着。大外を追いこんだコウギョウダグラスが4馬身差の3着。
 優勝したソルテは年末のゴールドカップ以来の出走で南関東重賞6連勝とする8勝目。僕は距離短縮がプラスになるとは思っていませんでしたから,あるいはというシーンもあるかと考えていましたが,むしろ力の差を見せつける形での勝利に。昨年は大敗したレースですが,このコースでは不利な外枠を引いていた影響もあった筈で,今年はいい枠を引けたのもよかったでしょう。ただ,馬群から離れていた馬たちが2着と3着に追い込んでいるレースを先行してこれほどの着差をつけているのですから,昨年の同時期よりも強くなっているのも間違いないところだと思います。父はタイムパラドックス。母のはとこに2003年の新潟ジャンプステークスを勝ったマルゴウィッシュ。Sorteはイタリア語で運命。
 南関東の期間限定免許で騎乗している金沢の吉原寛人騎手報知オールスターカップ以来の南関東重賞制覇。フジノウェーブ記念は初勝利。管理している大井の寺田新太郎調教師もフジノウェーブ記念は初勝利。

 準備が完了したので,第五部定理二三のスピノザによる証明の詳細な解読を開始します。
                                     
 まずスピノザは,第五部定理二二でいわれている,人間の身体の本性を表現する観念が,その人間の精神の本性に属するあるものaliquidでなければならないとしています。このためにスピノザは第二部定理一三を援用します。第二部定理一三は,現実的に存在する人間の精神と身体についての言及です。第五部定理二二でスピノザがいっている人間の身体の本性およびそれを表現する観念も,現実的に存在する人間の身体の本性であり,それを表現する観念であると僕は解します。ですから第二部定理一三を証明に援用することは有効であると僕は考えます。現実的に存在する人間の身体とその人間の精神が同一個体であるのと同様に,現実的に存在する人間の身体の本性とこの人間の身体の本性を表現する観念は同一個体であると僕は解するからです。したがって,現実的に存在するある人間の身体の本性を表現する観念は,確かにその人間の精神に属する何かaliquidでなければならないということにも同意します。
 人間の精神が持続するのは,その人間の身体が持続する間だけです。これはある人間の精神を構成する観念の対象ideatumがその人間の身体であることを踏まえれば,第二部定理八系から明白であるといえます。つまりある人間の精神は,その人間の身体が持続しているうちは持続しますが,その人間の身体が持続しなくなれば持続しなくなります。もちろんこれは同一個体の間には秩序の一致があるからなのであって,身体の持続の開始が原因となって精神の持続が開始されるのではありませんし,身体の持続が終了することが原因となって精神の持続も終了するというのでもありません。そこに因果関係がないという点にさえ注意すれば,論証のこの部分には反論の余地はない筈です。
 第五部定理二二で人間の身体の本性を表現するといわれている観念は,永遠の相の下に表現されます。つまり人間の精神の本性に属する何かは,第一部定理一六の様式で概念されるのです。したがってそれは,身体や精神の持続とは無関係に,永遠だといわれなければなりません。
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春日賞争覇戦&第五部定理二二証明

2016-02-23 19:04:55 | 競輪
 奈良記念の決勝。並びは新田‐和田の北日本,浅井‐山内の中部,古性‐三谷の近畿で芦沢と石井と吉本は単騎。
 浅井がスタートを取ってそのまま前受け。3番手に芦沢,4番手に新田,6番手に石井,7番手に吉本,8番手に古性と,すんなりと隊列が決まっての周回になりました。残り3周のホームでまず吉本が動き,古性が続きました。バックで吉本が浅井の前に出ると今度は芦沢が上昇し,これに乗ったのが石井。コーナーでは芦沢,石井,吉本と単騎の3人が前になり,浅井がその後ろ。これを外から古性が叩きにいき,新田が続こうとしましたが芦沢と石井は阻止。前から古性,芦沢,石井,新田,吉本,浅井の隊列の一列棒状となり,バックから打鐘を通過。残り1周のホームの前から後方になった浅井の巻き返し。前で対応したのは石井でしたが,浅井はその外を乗り越え,バックでは古性も捲り切ってそのまま優勝。マークの山内が4分の3車身差の2着に続いて中部のワンツー。位置は悪くなかったものの浅井に被せられ後手を踏んでしまった新田が捲り追い込んで4分の1車輪差の3着。
 優勝した三重の浅井康太選手競輪グランプリ以来の優勝。記念競輪は昨年8月の四日市記念以来の通算16勝目。奈良記念は初優勝。前受けした時点で,8番手になる可能性も予期していたものと思います。腹を括って引き,残り1周半くらいから踏んでいった思いきりのよさが優勝に結実したというようなレース。脚力の確かさも見せつけるようなレースでしたから,次の日本選手権も楽しみなったと思います。

 スピノザは第一部定理二五第五部定理二二の論証の主軸に据えます。
                                     
 僕が使っている岩波文庫版の『エチカ』の下巻は1990年の第30刷です。これは1975年に改版された第18刷の増刷です。この版の第五部定理二二の証明の最初の文章は,神が人間の身体の本性であると読解できるようになっています。しかしこれは誤りで,人間の身体の本性の原因であるとなっていなければなりません。これはスピノザが第一部定理二五に訴求していることからも,またこの文章の中で,神が人間の身体の存在の原因であるばかりではないという主旨のことがいわれていることからも明白です。つまりここには誤訳か脱字のどちらかがあることになります。
 神が人間の身体の本性の原因であるとしたなら,人間の身体の本性は,第一部公理四によって,神の本性を通して概念されなければなりません。いい換えれば,神の本性が概念されれば人間の身体の本性も必然的に概念されるという様式で概念されなければなりません。したがって,人間の身体の本性の十全な認識というのは,たとえ人間の身体が個物であるとしても,第一部定理二八第二部定理九で示されているような様式で知性に概念されるのではありません。第一部定理一六で示されている様式で概念されることになるのです。要するに神の本性というのは人間の身体の本性に対して,原因という意味において「先立つ」ものではありますが,その神の本性から無限に多くのものが生じるという意味において,神の本性が存在するならば,必然的に存在するものとして,人間の身体の本性というものはあるということになります。
 第二部定理三は,第一部定理一六の様式で神の本性を原因として生じる無限に多くのものの十全な観念が神のうちにあるということを示しています。したがって,神の中には,人間の身体の本性を永遠の相の下に表現する観念が必然的に存在することになり,第五部定理二二の証明は完了します。無限様態が本性によってでなく原因によって無限であるといわれるように,人間の身体の本性の観念は神の本性という原因によって,永遠の相の下に表現されるということになるのです。
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服従&第五部定理二二

2016-02-22 19:15:49 | 哲学
 スピノザの聖書解釈の方法の最大の特徴は,聖書が真理に貢献するものであるということを否定したという点にあるといえます。人間に真理を教えるのは哲学であって,聖書ないしは神学が何かを人間に教えるとすれば,それは服従するということであるというのが,スピノザの考え方で,これによって哲学と神学は棲み分けが可能になるのです。形而上学的にいい換えれば,哲学と神学が実在的に区別されるようになるのです。
                                
 だからといって,スピノザは神学が,人間に対してありとあらゆることに服従を強いるものであると主張しているわけではありません。たとえば人間的自由に反することに服従することは不可能なことであり,だからそれに服従を強いることも不可能なことになります。スピノザは聖書そのものについてはむしろ人間にとって有用であると理解していました。いい換えればそれは,聖書のうちには人間に対して無理な服従を強いるような教えは存在しないと考えていたという意味です。
 では聖書は何に対して服従するべきであると教えているとスピノザは考えていたのでしょうか。それはふたつしかありません。ひとつは神に対して服従することであり,もうひとつは隣人に対して服従することです。他面からいえば聖書がその全体を通して教えていることは,その物語の長さにも関わらずたったふたつしかないのであって,それは神を愛することと隣人を愛することであるということです。
 服従を教えるということは受動を教えるということと同義です。ですが神を愛することはたとえば第五部定理三六により,能動的な人間の態度に一致します。隣人を愛することはたとえば第四部定理三五によってやはり能動的な人間の態度に一致します。つまり聖書は,哲学によって真理を知った人間がとる行動を,真理を経ず服従によって教えるのです。ここに行動すなわち敬虔という面での哲学と神学の一致があります。だからスピノザは聖書を有用なものと評価するのです。

 第五部定理二三のスピノザによる論証を詳しく解明するためには,直前の第五部定理二二が必須になります。なので準備としてまずこちらの定理を考察しておきます。
 「しかし神の中にはこのまたかの人間身体の本質を永遠の相のもとに表現する観念が必然的に存する」。
 定理の冒頭で「しかし」といわれているのは,それまでの論証の流れからの接頭語です。さすがにその流れをここですべて示すことは困難なので,重要な点だけ示しておきましょう。
 この定理では人間身体の本質といわれています。僕は本質essentiaと本性naturaを同じ意味に解しますので,ここまでの語用に倣い,以下では人間の身体の本性と表記します。このとき,ここでいわれている人間の身体の本性というのは,現実的に存在する人間の身体の本性のことなのです。いい換えれば,個物の存在は神の属性に包含されて存在する場合と,現実的に存在する場合とがあるのですが,ここでいわれているのは後者の場合です。すなわちこの定理がいっているのは,現実的に存在する人間の身体の本性を永遠の相の下に表現する観念が神の中にあるということです。そしてそれはこの人間またはかの人間の身体の本性の観念といわれているのですから,神のうちに存在するといわれている観念というのは,一般的な意味において現実的に存在する人間の身体の本性の観念なのではありません。むしろ現実的に存在する個々の人間,たとえば僕の,あるいはスピノザの身体の本性の観念であるということです。つまり現実的にあまたの人間が存在していますから,それだけ多くの人間の身体の本性もまた現実的に存在するといわなければなりませんが,そうした人間のだれかを無作為に抽出したとしても,その人間の身体の本性を永遠の相の下に表現する観念が神のうちにはあるということをスピノザはこの定理において論証しようとしているのだと解するのが妥当だということになります。
 このことから,冒頭で「しかし」といわれなければならなかった理由は何となく分かるのではないでしょうか。現実的に存在する人間の身体の本性は,その人間が存在することを停止すれば消滅する筈だからです。
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フェブラリーステークス&類比

2016-02-21 19:26:18 | 中央競馬
 第33回フェブラリーステークス
 先手を奪ったのはコーリンベリー。モンドクラッセが2番手。コパノリッキー,スーサンジョイ,タガノトネールの3頭が追走。ベストウォーリアとロワジャルダンがこれらの後ろ。そしてモーニン。パッションダンス,グレープブランデー,ホワイトフーガ,アスカノロマンの4頭までが集団。少し離れての追走になったのがノンコノユメ。最初の800mは46秒1でハイペースに近いミドルペース。
 4コーナーではコーリンベリー,スーサンジョイ,タガノトネールの3頭が雁行に。この3頭の外に出たのがモーニン。モーニンを追うようにロワジャルダン。残り200mを過ぎた辺りでタガノトネールを交わしたモーニンが先頭に。追っていたロワジャルダンはここで苦しくなり,そのまま抜け出す形になったモーニンがレコードタイムで快勝。2番手だったロワジャルダンの外にベストウォーリア,アスカノロマン,ノンコノユメが襲い掛かって1馬身4分の1差の2着争いは激戦。大外のノンコノユメの末脚が優って2着。その内のアスカノロマンがアタマ差で3着。さらにその内のベストウォーリアがアタマ差の4着でロワジャルダンはクビ差の5着。
 優勝したモーニンはデビューしたのが昨年の5月。4連勝でオープンに。武蔵野ステークスは3着でしたが前哨戦の根岸ステークスを勝ってここに挑んでいました。成績から分かるように底を見せていませんでしたから,勝つ可能性があると目された1頭。スピード能力が高く,レコードタイムが出るような馬場になったのは好材料でしたし,このコースは外枠の馬が好走する傾向にあるので,枠順もよかったものと思います。今後の活躍も約束されているとみますが,ダートの長い距離よりは芝の短距離からマイル路線に挑戦する方が持ち味は発揮できるような気がしています。Moaninはジャズの楽曲名。
 騎乗したミルコ・デムーロ騎手は朝日杯フューチュリティステークス以来の大レース制覇。フェブラリーステークスは初勝利。管理している石坂正調教師は南部杯以来の大レース制覇。第25回以来8年ぶりのフェブラリーステークス2勝目。

 何であるかは確定できなきけれども何かは確実に実在して,その実在する何かは持続には限定されない永遠なものであるということを,ある知性は十全に認識したとします。僕はこの認識自体はまったく無意味であるとはいえないと考えます。これは延長空間における持続する物体の実在と類比すれば分かりやすいと思います。
 宇宙空間のある特定の部分に,何であるかは不明瞭だけれども,何らかの物体があり,その物体は丸い形をしているということをある知性が十全に認識するということがあったとします。するとこの知性は,特定されたその部分には確かに何らかの物体が実在している,他面からいえば何も実在していないのではないということを正しく知っていることになります。かつ実在しているその物体が,ほかのどんな形状でもなく円形であるということも確実に認識しているということになります。これらの認識自体が無意味であるとはまったくいえないでしょう。その円形の物体が何であるのかということについては,これらの認識の後に知られたとしても,認識する因果系列の順序として不条理であるとはいえないからです。
 この類比から理解できるのは,第五部定理二三には,「個を証するもの」でいわれているような不明瞭な点が含まれているのですが,解明しなければならない点があるとするなら,それはそのことだけには限られないということです。すなわち,まずは精神のうちにあるものがあるといわれるとき,なぜその何かは確実にあるといえるのかということが判明しなければなりません。次に,そのあるものは永遠であるといわれているのですから,それが持続には限定されない永遠なものであることをどのようにして断定することができるのかということが問われなければなりません。そしてその後に,そのあるものとは具体的に何であるのかということを問うてみてもよいわけです。
                                   
 ですからまず,このあるものが何かを特定するために,佐藤が「個を証するもの」で実際にしているように,第五部定理二三というのを,スピノザはどのような訴訟過程で証明しているのかということを,詳しく探求していく必要があります。
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棋王戦&個を証するもの

2016-02-20 19:41:06 | 将棋
 北國新聞会館で指された第41期棋王戦五番勝負第二局。
 渡辺明竜王の先手で佐藤天彦八段の横歩取り。先手が3六に飛車を引かずに▲5八王と上がって相横歩取りから激しい展開に。先手がこの戦いに誘導したように思えるので,事前の研究があったかと推測されます。
                                    
 先手が角を打って受けた局面。感想戦の結論としてはすでに後手が指せるということで,先手の作戦が失敗だったようです。研究に穴があったか,△2六歩と▲3八銀が指されていない形で研究していたかのどちらかだと僕には思えます。
 △6六桂に▲同歩と取りましたが,ここは▲4八王と指した方がよかったようです。そしてそれが先手にとっては最後のチャンスだった模様。
 △5七桂成▲5九王△6八成桂▲同銀までは変化の余地がない順。先手が事前に研究していた範疇には入っていたというのが僕の予測です。
 △7八龍と逃げました。先手は王手龍取りを含みに▲6四桂。ここで△6二玉と逃げたのが正しい応接で,後手が勝ちを引き寄せた手。先手は▲5五桂から打った桂馬を捨てての王手龍取りを狙いにしましたが△6九金▲4八王△6八龍と王手の連続手順で交わされました。ここはもう研究の範疇外でしょう。
 ▲3七王と逃げましたが△4四角が事実上の決め手。後手玉を寄せる手順がないので▲4六角と打ちましたが△5七銀と打ち返されて,この局面は後手の勝勢です。
                                    
 佐藤八段が勝って1勝1敗。第三局は来月6日です。

 『個と無限』の第4章は「個を証するもの」というタイトルです。この中で,第五部定理二三の中には不明瞭な点があると指摘されています。
 「個を証するもの」は,精神の永遠性をスピノザがどう解していたかを見極めようという意図から探求されています。つまり第五部定理二三が特定の考察対象となっているわけではありません。ですからここではこの論文の全体に関して論評することはしません。ですが佐藤が第五部定理二三に関して言及している内容は,現状の僕の考察との関連で看過できない内容を含んでいます。なので佐藤の主張も参考にして,その内容についてしばらく考えていくことにします。
 第五部定理二三というのは,現実的に存在する人間の精神の中には永遠であるあるものがあって,そのあるものは永遠であるがゆえに,人間の身体が現実的に存在することを停止したとしても,つまりその人間が死んだとしても,破壊されることはないということを主張していると解釈しなければなりません。その証明を別にすれば,これ自体は明白であるといっていいだろうと思います。永遠であるものは時間によって限定されない,他面からいえば持続のうちに現実的に存在するのではないので,破壊される,つまり存在しなくなるということはあり得ないからです。これはたとえばライオンの自然権が,神の属性に包含されているなら絶対的に侵されることはないということと同じです。
 ところがこの定理は,あるものaliquidが永遠であるとだけいっていて,そのあるものが具体的に何であるかが分からないようになっています。佐藤が第五部定理二三に不明瞭な点があるというのはこのような意味においてです。そして僕もこのことについては同意できます。確かにこの定理をそのあるものというのを重視して読解するならば,現実的に存在する精神のうちには,何であるかは規定できないけれども確実に永遠であるといえるものが含まれていて,何であるか分からないそのものは人間の死をもっても破壊されないということになるでしょう。何か分からないけれども永遠であるもの,などといういい回しが,定理として許されるのでしょうか。
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ネリーとナターシャ&第五部定理二三

2016-02-19 19:09:18 | 歌・小説
 『虐げられた人びと』は善人と悪人がはっきりし過ぎているため,深みが感じられないと僕には思えるのですが,こうした人物像とは別に,さらに二点ほど難点があると僕には感じられました。ひとつは小説の構成に関係する面で,もうひとつは内容と関係する面です。まず構成と関わる難点と僕には感じられる事柄を説明します。
                                    
 『虐げられた人びと』は,イワン・ペトローヴィチが,死の間際に過去を回想するという形式で記述されています。1年前の3月の出来事からそれは始まります。イワンはある老人の死を目撃し,その後でこの老人の孫のネリーと暮らすようになります。一方,イワンにはナターシャという,相思相愛であってもおかしくない幼馴染がいます。実際にはナターシャはアリョーシャという別の人物に恋するのですが,ナターシャやアリョーシャともイワンは頻繁に会っています。
 回想は時系列で綴られていきます。したがってネリーとの物語とナターシャとの物語がほぼ交互に綴られていきます。ですが読者にはこのふたつの物語にどういう関係があるのかまったく分からないので,とても読みづらいのです。これが僕が感じた難点です。
 第二部第五章,正確には第四章の最後のところで,半ば唐突にイワンの旧友のマスロボーエフが登場します。このマスロボーエフを介在することにより,ネリーの物語とナターシャの物語の関係性がようやく読者にも理解できるようになります。これはいくら何でも遅すぎるだろうと僕には思えました。
 イワンが自身の過去を回想するという形式の記述なので,こういう難点が生じてしまったものと解します。別に作者を作ってしまうか,そうでなければマスロボーエフの方がイワンに聞き及んだことを記述するという形式にしたら,こうしたことはたぶん生じなかったと思います。この小説は第二部第三章から始まる一日にあまりに多くのことが起こるのですが,これ以前とそれ以降は,ストーリー自体の面白さが違っているように僕には感じられました。

 人間にとっていかなる意味においても永遠の観点species aeternitatisが観念ideaとしてのみある,あるいは同じことですが知性intellectusのうちにのみあるとするなら,この観念は観念対象ideatumが存在しなくてもあることも考えるconcipereこともできるようなものでなければなりません。永遠性aeternitasは対象となっている事物の本性natura,essentiaに属するのではなく,知性の能動actioの本性に属するのですから,この能動が対象との因果関係なしに存在するのでなければ,人間はそれを概念することができません。いい換えればそれは人間の知性のうちにあるということができないでしょう。つまり人間が事物の永遠性を十全に認識するためには,その永遠性の観念が,対象なしに実在し得るということが必要とされるのです。そして第二部定理五はその論拠となるでしょう。そこには観念の原因は神Deusの思惟の属性Cogitationis attributumであって,対象となっているものの属性ではないということが含まれているからです。
 このように,現実的に存在する人間にとっての永遠性が観念にだけ関係するということ,いい換えれば第二部定理一三により現実的に存在する人間の精神mens humanaを構成する観念の対象とはその人間の身体corpusですから,事物の永遠性は人間の精神にのみ関係するのであり,人間の身体と直接的には関係しないということを示している定理としては,第五部定理二三があります。
 「人間精神は身体とともに完全には破壊されえずに,その中の永遠なるあるものが残存する」。
 この定理Propositioが述べているのは,現実的に存在する人間の身体が破壊される,要するにこれはその人間が持続duratioを停止する,つまり死ぬということですが,そうなったとしても,人間の精神の方は完全に破壊されるというわけではないということです。ですが身体の持続の停止によって破壊され得ないあるものは,第二部定理一三からして破壊され得る根拠をほかには有さないといわなければならないでしょう。完全には破壊されないというのは,部分的には破壊されるという意味ですから,スピノザは現実的に存在する人間の精神が持続のうちにあるのと同様に永遠であるといっているのではありませんが,少なくとも部分的には永遠であるといっていると解さなければなりません。
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王将戦&認識の本性

2016-02-18 19:21:35 | 将棋
 一昨日と昨日の2日間にわたって弘前市民会館で指された第65期王将戦七番勝負第四局。
 羽生善治名人の先手。最近の手順とは異なりましたが角換わり相腰掛銀に。
                                     
 岐路の局面で郷田真隆王将が桂馬を跳ねたところ。ここから▲4五歩△同歩▲同銀という攻めを敢行しました。
 △同銀▲同桂△4四銀はこう進むところ。組み合わせがいくつかありますがすぐに▲7一角と打ちました。
 △8一飛と引いて逃げたのは後の手順からするとこの一手だった模様。足を止められなくなった先手は▲5三桂成△同銀と捨てて▲4一銀の割り打ち。そこで△4三銀と受けて1日目が終了。封じ手は▲4四歩でした。
 またいくつか応手が考えられるのですが△4一王と銀を取るのがやはりこの一手だった模様。次の▲4三歩成に△同金左も絶対手。先手は▲5三角成と角も捨てて△同金上に▲6二銀と打ちました。
 ▲5三銀成を防がなければなりませんが△3二王と上がりました。どうもこれで後手が残しているようです。先手は▲5三銀成△同金としてから▲2二金△同王▲4二飛成で龍を作り△3二銀の受けに▲5三龍で金を取り返しましたが,8一の飛車が受けによく利いていて,ここで攻め足が止まってしまいました。
                                     
 凌げれば駒得が大きく後手が優勢でしょう。先手は手順を変えることは可能ですが,持ち時間の長い将棋で指された手順ですので,さしあたって第1図から▲4五歩△同歩▲同銀の攻めは無理と結論していいかもしれません。
 郷田王将が勝って2勝2敗。第五局は来月13日と14日です。

 スピノザの哲学と永遠を考える場合に,第二部定理五が根拠にならなければならないと僕が理解するもうひとつの理由は,マルタンが何を示そうとしているのかということとはまったく関係がありません。単にスピノザの哲学の枠内で永遠ないしは事物の永遠性を解そうとするときにも,これが妥当しなければならないと思っているのです。このブログの主旨からしてこちらの方がずっと大事ですから,詳しく説明してみます。
 第二部定理四四系二は,事物を永遠の相の下に観想することが理性の本性に属することを示しています。僕の考えでいうと,そのように事物を観想するということは,理性だけの本性に属するのではありません。第三種の認識の本性にも属する筈です。なぜならスピノザは第三種の認識を,神の属性の形相的本性の十全な観念を原因として,個物の本性の十全な観念を形成する認識だと規定しているからです。理性による認識は共通概念による認識なのであり,第二部定理三七によって個物の本性の十全な認識ではありません。ですから理性による認識の本性には事物を永遠の観点から認識することが属しますが,この事物を個物の本性に限定するなら,むしろそれを永遠の相の下に観想することは,第三種の認識の本性に属するというべきだと考えます。
 理性であれ第三種の認識であれ,人間は事物の永遠性を概念として,概念と知覚とを正しく類別した意味において,概念として認識するのです。他面からいえば,人間にとって事物の永遠性というのは,その事物の本性に属する何かではなく,その事物を対象ideatumとして認識する精神の本性,厳密にいうなら精神の能動の本性に属するのです。したがって第二部公理三の意味から,人間にとって事物の永遠性は,観念としてある,もっといえば観念としてのみあると解さなければなりません。
 スピノザの哲学における一般性と特殊性の考え方から,事物に一般の永遠性とは,個々の事物の永遠性の総体でなければならないと僕は解します。よって人間は事物の永遠性を一般的な意味においても,精神の能動によって認識するのであり,事物の本性によって認識するのではありません。
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報知グランプリカップ&絵画の属性

2016-02-17 19:25:51 | 地方競馬
 ダイオライト記念トライアルの第52回報知グランプリカップ
 周囲の様子を窺うようにムサシキングオーがハナへ。タイムズアローが2番手でマーク。ガンマーバーストとモンサンカノープスがその後ろ。4列目がバトードールとスマートジョーカーとトーセンアドミラルの3頭。5列目にケイアイレオーネとアンコイルド。最後尾のグランディオーソまで,14頭が集団でのレースになりました。最初の800mは50秒4のミドルペース。
 向正面の半ばを過ぎるとムサシキングオーにタイムズアローが並び掛け,この2頭が雁行でコーナーを通過。3番手にはモンサンカノープスが上がり,ガンマーバーストは一杯。直線に入ったところではタイムズアローがクビほど前に。ですがムサシキングオーも大きく離されること食い下がって競り合い。先んじていたタイムズアローが差し返しを許さず優勝。半馬身差の2着にムサシキングオー。大外から伸びたケイアイレオーネが3着。
 優勝したタイムズアローは南関東重賞初勝利。JRAオープンから昨年6月に転入。転入初戦のオープンを勝って地方競馬の馬場への適性も示したので,南関東重賞には手が届くとみていましたが,個人的には意外と思えるほど時間が掛かりました。おそらくベストはこの距離でしょう。長くなるよりは短くなった方がいいと思います。南関東重賞はまだ勝てると思いますが,重賞では少し厳しいのではないかという印象です。父はタイムパラドックスセレタクリゲンの分枝。3代母が1985年の新潟3歳ステークスを勝ったダイナエイコーン
 騎乗した大井の真島大輔騎手は金盃に続いて2週連続の南関東重賞制覇。報知グランプリカップは初勝利。管理している船橋の川島正一調教師は第51回からの連覇で報知グランプリカップ2勝目。

 第二部定理八系のほかに,第二部定理五もこの場合の論拠にならなければならないと僕は考えます。こちらの方は理由の説明が必要でしょう。その理由はふたつあります。
                                    
 ひとつはマルタンがフェルメールの絵画をどう解しているかとの関係です。マルタンによればそれは,描かれた対象とは無関係に,永遠から永遠にわたって存在するものです。これは形而上学的に考えれば,対象もその対象を描いた一枚の絵画も,様態である点では同じだけれども,その区別は様態的区別ではなく実在的区別であると主張していると僕は解します。というのは絵画が対象と無関係に存在するなら,対象が原因となって絵画が結果として生じるということを否定しているのと同じと考えるからです。むしろフェルメールの絵画にはそれに特有の属性があって,それは対象の属性とは異なっているというのが,マルタンが主張していることそのものだといえるでしょう。絵画が対象から独立した永遠性を有するというのは,形而上学的には各々が実在的に区別されるという意味でなくてはならないと僕は考えます。
 したがって,スピノザの哲学にも,フェルメールの絵画が属しているのと同種の属性がないと,両者の間に一致を主張することはできません。第二部公理五が示していることのうちには,もし人間が属性を認識するなら,延長の属性か思惟の属性だけであるということが含まれています。つまりこのどちらかがフェルメールの絵画が属している属性に該当しなければならず,かつその属性は他方とは因果関係なしにあることも考えることもできるのでなければならないのです。このとき,延長の属性をフェルメールの絵画が属する属性に該当するものと類比するのは困難です。なぜなら,延長の属性と思惟の属性との関係でいえば,延長の属性の方が対象となるべき何かであり,思惟の属性の方はそうではないからです。もちろん観念と観念の観念という関係に置き換えることは可能ですが,観念と観念の観念は実在的に区別されるわけではありません。
 このとき第二部定理五は,思惟の属性が,対象となる属性がなくてもあることも考えることもできるということを示します。
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第三部諸感情の定義二八&フェルメールの絵画

2016-02-16 19:18:32 | 哲学
 第三部定理二五から,人間は自分自身および自分が愛するものを正当以上に表象しやすいということが,また第三部定理二六からは,それとは逆に人間は自分自身および自分が憎んでいるものに対しては正当以下に表象しやすいということが出てきます。これはスピノザが第三部定理二六の直後の備考Scholiumで示していることでもあります。
                                     
 このとき,自分自身について正当以上に表象するimaginariことによって感じる喜びlaetitiaは,高慢superbiaといわれ,第三部諸感情の定義二八に定義されることになります。
 「高慢とは自己への愛のため自分について正当以上に感ずることである」。
 これは慧眼であると僕は思っていますが,スピノザはこの感情affectusについては狂気の一種と規定しています。なぜなら,この喜びというのは,第一に表象imaginatioにおいてのみ達成できることを,現実的に実現することができると勘違いしているからです。そして第二に,そのことによってそれがあたかも実現されているかのように表象して,かつそれを誇っているからです。実際にはこの感情は,そうした表象像imagoに表象の動揺が生じないがためにその人間のうちにあり続けていられるのにすぎないのです。これでみれば分かるように,実に高慢という感情を有する人間は,スピノザの表現を借りるならば,目を開きながら夢を見ているのと同じなのです。要するに高慢という感情は,妄想と同種です。その妄想を事実と思い込む限りにおいて,これを狂気の一種とスピノザは規定しているのです。
 何らかの意図があったと推測しますが,スピノザはこの感情をほかの場所でもかなり否定的に記述しています。ことによるとスピノザが最も忌み嫌った感情が高慢であり,忌み嫌った人間が高慢な人間であったのかもしれません。

 僕には絵画という芸術を鑑賞するための能力が欠如していますから,フェルメールの絵画と永遠aeterunusという概念conceptusとの間にどういった関係があるのかということは推し量りかねます。なのでこちらの点については,マルタンが『フェルメールとスピノザ』で示している事柄を説明しておくにとどめます。
 マルタンによれば,フェルメールの絵画の特徴として,何らかの日付のある時代には還元できない要素が含まれているのだそうです。これ自体はプルーストがフェルメールの「デルフト眺望」という作品を評したときの表現だそうです。マルタン自身ではなくプルーストのいい回しの方をここで例示したのは,この表現がマルタンのフェルメール評をもっとも簡潔にいい表していると思うからです。基本的にマルタンは,フェルメールの絵画の対象となっているものは現実的に存在する可滅的なものであったとしても,絵画自体の方はそうではなく,ある普遍性を帯びていると認識しているのです。
 ですから,マルタンがそのようにフェルメールの絵画を鑑賞するのであれば,その絵画の中に永遠性aeternitasを見出すことは僕には理解できます。なぜなら,現実的に存在するとは一定の持続duratioのうちに存在するという意味ですが,普遍性を伴って存在するとは,時間tempusによっては限定することができない永遠のうちに存在するという意味であるだろうからです。つまりフェルメールの絵画は,描かれた対象とは無関係に,いい換えるなら描かれた対象が現実的には存在しなくなったとしても,永遠から永遠にわたって存在し続けるものだというのが,マルタンの基本的な認識cognitioだということになります。
 さて,もしもフェルメールの絵画というものが,確かにマルタンが認識したような性質を有したものだとしてみましょう。このとき,それをスピノザの哲学と関係づけて説明するなら,他面からいえばスピノザの哲学と近似的なものであると説明するなら,その根拠となるのは二点だと僕は考えます。
 このうちのひとつはいうまでもなく第二部定理八系です。そこではスピノザは,個物の存在を,ただ現実的に存在するものとしてだけでなく,永遠なものとしても説明しているからです。
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岡田美術館杯女流名人戦&永遠の公式

2016-02-15 19:31:44 | 将棋
 湯原温泉で指された昨日の第42期女流名人戦五番勝負第四局。
 清水市代女流六段の先手で里見香奈女流名人が相居飛車を選択。先手の右玉,後手の矢倉という戦型になりました。序盤の後手の対応が拙く,そこで実質的な勝敗が決してしまったような将棋だったと思います。
                                    
 6八から銀が上がった局面。ここから△8六歩▲同歩△同角と交換して,先手の構えに特有の▲2九飛に△4二角と引きました。手順に角を上がる指し方で,矢倉の引き角からはよくある手順ですが,この戦型では安易だったかもしれません。第1図で単に△4二角と上がっていたら別の将棋になっていたでしょう。
 ▲8七歩と打つ指し方もありますが,この形は▲6六角と上がってみたいところであるとは思います。対して△7四歩と突いて桂馬を使いにいきましたが,△6四歩から角を攻めるのを急ぐ手が優っていたようです。
 ▲7七桂と跳ねてから△6四歩でしたがここでは遅く,△5一銀と引いてこの銀を守りに使うのが最善だったよう。ただこの手は指しにくいような気がします。
 ▲8四歩で飛車先を止めました。対して△7三桂としましたが△6三銀でなければならなかったとのこと。▲8九飛に△8六歩▲同飛△6五歩と飛車角両取りを掛ける狙いでしたが▲8九飛と引かれ△6六歩に▲8三歩成△8一飛▲6六歩で,角の丸損でもと金を作って8筋を突破した先手が優勢になりました。このシリーズの里見名人は序盤で失敗しているケースが多いように感じます。
                                    
 清水六段が勝って2勝2敗。第五局は24日です。

 マルタンが示そうとしているスピノザとフェルメールの近似性は,高山が「豚のロケーション」で示したものとは異なっています。
 『フェルメールとスピノザ』の日本語版には,僕が永遠の定理と訳せばよかったと思っている,永遠の公式というサブタイトルがついていました。マルタンがフランス語で書いたものは,この副題の方が本題なのであり,フェルメールとスピノザという部分の方が副題だったのです。これでみれば分かるように,マルタンはフェルメールの絵画とスピノザの哲学の間には,永遠という語句で表現することができるような共通性があるとみているのです。かつそれが公式ないしは定理であるのですから,それはフェルメールのすべての絵画およびスピノザの哲学の全体を貫いているものだとマルタンは解していることになります。僕がマルタンの主張に疑義を感じるのはこの部分です。果たしてスピノザとフェルメールは,マルタンが主張する意味における永遠という観点から関連付けることができるのでしょうか。
 まず,スピノザの哲学が永遠という概念と容易に結びつけられるということは僕には理解できます。これは哲学の内容がどうというより,経験の上で理解できるという意味です。
 『漱石、もう一つの宇宙』では,分裂病と躁鬱病が分類される際,分裂病に区分される科学者が,永遠の相の下に仕事をすると形容されていました。塚本はそれについて何の注釈も与えていませんから,もしもスピノザを知らない読者であればそのまま読み過ごしてしまうでしょう。ですがスピノザの哲学に対して知識がありさえすれば,ここで塚本がスピノザを念頭に置いて分裂病圏の科学者について語っているということはたちどころに分かる筈です。「永遠の相」というのは第二部定理四四系二に出てくる表現なのであって,スピノザ以外のだれかがこれと同じようにいい回したというものではないからです。いわばスピノザのオリジナルであり,だから塚本の形容は即座にスピノザを連想させるわけです。
 これと同じ意味において,マルタンが永遠という語句からスピノザを連想したとして,何の不思議もないことが僕には理解できます。
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