スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&様態の完全性

2016-11-30 19:08:22 | 将棋
 21日と22日に指宿温泉で指された第29期竜王戦七番勝負第四局。
 渡辺明竜王の先手で丸山忠久九段の一手損角換り4。ただし△2二銀。相腰掛銀になり,6筋に飛車を回った後手から攻める展開。先手としては守勢になるのは不本意かもしれませんが,総じて正しく受ければ余せるという展開が続いていたように思います。もっとも,後手の攻め方が最善であったかどうかは分かりません。
                                    
 飛車と金桂の二枚換えが行われた局面。ここで先手は▲6一飛と攻め合いに転じました。これは判断としては正しかったのですが,危険な面もあったようです。
 後手は△6七歩成と成り捨てました。これには▲同飛成もあるところでしょうが,渡辺竜王はあまりそういう指し方を目指して敵陣に飛車を打つことはしません。はたして▲5一角△5二玉▲9一飛成△8二銀▲7四角△6三桂▲同角成△同金▲8二龍△5一玉▲5二銀△4二玉▲6三銀不成△3一玉と一直線の攻め合いにいきました。
 ここまで進めて▲6七銀とと金を払うのは変調にも思えますが,むしろ進めてから払った方がいいという読みであったのでしょう。
                                    
 第2図から後手は△6九角▲7八香△6六金と攻めていきましたが,放置して▲2四桂と打った先手が勝っています。第2図ですぐに△6六金と打てば▲同銀しかなく,それから△6九角▲7八香で後手は目指すべき局面に誘導できたようです。それでも先手が残しているようですが,手順前後で先手玉の危険度を減らしてしまったのは確かだといえそうです。
 渡辺竜王が勝って2勝2敗。第五局は明日と明後日です。

 実在性realitasの尺度,すなわち完全性perfectioの尺度が属性attributumにあることは第一部定理九から分かりました。そして第一部定義六では,神Deumは無限に多くの属性から成っている実体substantiam constantem infinitis attributisであるとされています。したがって神が最高に完全であるということは,この定義Definitioを概念するconcipereことさえできればたちどころに理解できることになります。なお,このことは神が絶対に無限であるということから流出してくるのであり,絶対に無限ということが神の本性natura,essentiaを意味するとすれば,最高に完全ということは神の特質proprietasに該当すると,スピノザの哲学の下では考えた方がいいでしょう。しかしそれが本性であろうと特質であろうと,最高に完全なのが神であるということに間違いはありません。
 第一部定理一四は,神以外にはいかなる実体も存在しないことを示しています。そして第一部公理一の意味は,自然のうちに存在するのは実体と属性,そして実体の変状である様態だけであるということです。このうち属性は完全性の尺度であり,同時に第一部定義四によって実体substantiaの本性essentiamなのですから,あらゆる属性は神にのみ帰すことができることがここからも分かります。つまり神が最高に完全であるということはここからも理解できます。では様態の場合にはどうなのでしょうか。ある様態と別の様態は,一方が完全であり他方が不完全であるという関係を有することができるのでしょうか。
 僕たちは通常の場合にはそうしたことが可能であると思っています。フーゴー・ボクセルにせよフェルトホイゼンLambert van Velthuysenにせよ,人間的属性によって神の本性を認識している人は,どういう意味であるかに相違はあるにせよ,神は人間のようなものであると思っているのです。そしてそれは,人間が様態としては最も完全なものであると思っているのと同じです。他面からいえば,広い意味において人間に対して優越性を有するのは神だけであると思っているのと同じです。たとえばもしある人が,人間よりも完全な様態があると思うのであれば,その人はその様態の性質に準じて神のことを想像するでしょう。しかしそういうケースが存在しない,もし存在していたとしても非常に稀であろうということは明白だといえるからです。
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大山名人杯倉敷藤花戦&第一部定理九

2016-11-29 19:15:15 | 将棋
 20日に倉敷市芸文館で指された第24期倉敷藤花戦三番勝負第三局。
 倉敷市長による振駒で里見香奈倉敷藤花の先手。後手の室谷由紀女流二段の三間飛車,先手の向飛車という相振飛車に。後手が変則的な作戦を用いましたがうまく戦機を捉えて仕掛けた先手が有利に。しかし後手が自玉周辺の受けは放棄して入玉を目指したのが意表を衝いたようです。
                                     
 後手が飛車取りに歩を打った局面。ここはとにかく▲8五金と打って入玉を阻止するのが最善だったようですが▲7二成桂△7五歩と進めたので少し難しくなりました。
 先手は入玉を阻止するために▲7八銀打。これには△9八角と飛車取りにしながらと金にヒモをつける一手です。これで▲7七銀△8九角成までは一本道でしょう。
 先手は▲8六歩と上部に拠点を作りました。これにも△7三桂打しかないでしょう。そして▲6二角の追撃にも△7四銀と引くしかないところです。
 ここで▲9三金と打ったのは危険だったのかもしれません。7三の桂馬が浮いてはいけませんし▲9四金打も防がなければならないので△9四歩はまたこの一手。ここから▲7三成桂△同桂▲8五桂△8一桂▲同桂成△同桂と進んだので千日手かと思われましたが,先手はそこで▲9五歩と打って回避しました。
                                     
 これは▲9四金の一手詰めの狙いなので△9一飛と受けましたがその手順は先手の勝ちでした。ここで△8二桂と受ける手はあったようです。もし先手が▲8五桂と打ってくれば△9五玉と取り▲7三角成に△8四桂と打っておく順。後手は9八に香車が成って7七の銀を取れないと入玉は難しそうなので,それで勝ちとはいえない気もしますが,実戦よりは有力な手順だったようです。
 2勝1敗で里見倉敷藤花の防衛第16期,17期,18期,19期,20期,23期に続き連覇で通算7期目の倉敷藤花です。

 実在性realitasと完全性perfectioは同一です。したがってより実在的であるほどより完全であるということになります。なのでたとえばAとBのどちらが完全であるのかを決定する材料があるとしたら,それはAとBのどちらがより実在的であるのかということになります。つまり,あるものと別のものの完全性を比較し,一方を他方よりも完全であると決定するためには,実在性の尺度というものがどこにあるのかということを知っていなければなりません。実在性の尺度が完全性の尺度そのものであるからです。
 『エチカ』の中では,実在性が何によって決定されなければならないのかということは規定されていません。これはそのような定義Definitioおよび公理は存在しないという意味です。しかしスピノザが何をもって実在性の尺度としているのかということは分かるようになっています。第一部定理九は次のように記述されているからです。
 「およそ物がより多くの実在性あるいは有をもつに従ってそれだけ多くの属性がその物に帰せられる」。
 この定理を一読すれば理解できるように,実在性の尺度というのは属性attributumです。というのはこの定理は,あるものにより多くの属性が帰せられるほど,そのものはそれだけ多くの実在性を有するようになると,主語部分と述語部分を入れ替えても成立しなければならないことが明白であるからです。したがって,もしAにはひとつの属性しか帰すことができないが,Bにはふたつ以上の属性を帰すことができると確実に認識できるならば,BはAよりも実在的であるすなわち完全であると決定できることになります。しかしもしもAにもBにも同一数の属性しか帰すことができないと認識するのであれば,AとBは同じように実在的すなわち完全なのであり,どちらがより完全であるかは決定できないことになります。
 スピノザはこの定理は第一部定義四から明白だとしています。ですがこれは僕にはよく分からないところもあります。ただ,実在的区別というのは属性間の区別distinguereのことです。したがって実在的にrealiter区別することができる要素である属性を多く有するということが,より実在的であるという意味なのだというのが僕の解釈です。
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朝日新聞社杯競輪祭&完全性と優越性

2016-11-28 19:04:17 | 競輪
 被災地支援競輪として小倉競輪場で開催された昨日の第58回競輪祭の決勝。並びは新山‐新田の北日本,平原‐武田‐芦沢の関東,深谷‐金子の師弟で近藤と稲垣は単騎。
 新田がスタートを取って新山の前受け。3番手に平原,6番手に深谷,8番手に稲垣,最後尾に近藤で周回。残り3周のホームの出口から深谷が上昇を開始。バックの出口で新山を叩きました。稲垣はこのラインを追いましたが,近藤は追わず,新山はそこから下げたので,先頭に深谷,3番手に稲垣,4番手に平原,7番手に近藤,8番手に新山の一列棒状で残り2周のホームを通過。バックに入ると深谷はややスピードを上げて打鐘。引いた新山はこれを叩きにいきました。もちろん深谷はもう引かず,先行争い。この争いは深谷が制し,残り1周の最初のコーナーで新山は浮いて脱落。新田は自力で出るよりなくなりましたが,バックに入ると3番手の稲垣に発進され万事休す。稲垣を追走するような形になった平原が直線で突き抜けて優勝。マークの武田も4分の3車身差の2着に続いて関東のワンツー。稲垣が1車身差で3着。
                                     
 優勝した埼玉の平原康多選手は7月の小松島記念以来の優勝。ビッグは一昨年の競輪祭以来の7勝目。GⅠは6勝目。競輪祭は2009年にも優勝していて2年ぶりの3勝目。僕にとってのこのレースの注目点は,先行が予想される新山に対して深谷がどの程度まで抵抗するのかということと,新山が先行した場合に新田が躊躇なく番手捲りを敢行するのかということでした。深谷も平原も力勝負を好むタイプなので,番手に絡んでいくことはないと思われ,その見立ては正しかったのですが,深谷の抵抗で新山は先行できませんでした。新山はかまし先行が得意なタイプなので前受けになったのでしょうが,このメンバーなら後ろから抑えて,叩きに来たところで突っ張るという作戦の方がよかったのではないかと思います。平原は狙い通りの中団からのレース。純粋な自力でも好勝負だったでしょうが,稲垣に乗れる形になったので,武田との差もほとんど変わらないレースになったのだと思います。

 第二部定義六により,ものの実在性realitasとものの完全性perfectioは同じです。したがってあるものAが別のものBより実在的である場合には,AはBよりも完全なものであると認定することができます。しかしもしもそうでなく,AとBが同じ程度に実在的であるなら,AがBより完全であるということはできませんし,BがAより完全であるということもできません。AとBは同じように完全であるとしかいえないことになります。
 この完全性の概念が,哲学的概念としての優越性と大きく関係していることはすでに明らかになっています。なので優越性に関してAがBに対しては特別な権利を有しているということと,Aの方がBよりも完全であるということの間には,何の関係もないと解することはできません。もちろんAがBよりも完全であるからAは優越的にeminenter神Deusに含まれ,Bは優越的に含まれないと断定することはできません。しかしもしAは神のうちに優越的に含まれているけれどBは含まれていないという場合には,AはBよりも完全であると考えていいといえるでしょう。ですから,人間的属性が神の本性natura,essentiaのうちに優越的に含まれて,三角形の本性は神のうちには優越的には含まれないというならば,人間は三角形よりも完全であるといっているのと同じことだと僕は解します。そしておそらくフーゴー・ボクセルはそのように判断していたのだと僕は考えます。三角形の実例はスピノザが書簡五十六で示したもので,これは実例のひとつです。ボクセルはたぶん人間的属性だけが神のうちに優越的に含まれるとみなしていたのであって,いい換えればほかのいかなるものよりも人間は完全であるとみなしていたのだと僕は思います。
 これに対する反駁には二種類あることはすぐに分かります。それはいかなるものの本性も神のうちに優越的に含まれているのだというか,そうでなければいかなるものの本性も神のうちに優越的に含まれてはいないというかです。どちらの場合でも人間はほかのものより完全であるとは認定できないことになるでしょう。スピノザは後者を選択したわけですが,その選択にも明確な理由があると僕は考えます。ですがその考察は後回しにします。
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ロンジン賞ジャパンカップ&特権

2016-11-27 19:32:59 | 中央競馬
 フランスから1頭,ドイツから2頭が招待された第36回ジャパンカップ
 最内枠からキタサンブラックの逃げ。向正面に入るあたりからずっと2馬身ほどのリードを保ち続ける形になりました。単独の2番手にワンアンドオンリー。この後ろも2馬身ほど離れてゴールドアクターとリアルスティール。イラプトとラストインパクトが並んで続き,ルージュバック,サウンズオブアース,ビッシュ。その後ろにフェイムゲームとトーセンバシルとシュヴァルグランの3頭の集団。最初の1000mは61秒7のスローペース。
 直線に入るとキタサンブラックは徐々に外目に持ち出しながら先頭をキープ。追い上げてくる馬たちが押しているのに対して手応えには余裕。追い出されると後ろとの差を広げ,最後までどの馬にも並ばれることなく2馬身半の差をつけて快勝。2着はサウンズオブアース。クビ差の3着にシュヴァルグランで,この2頭は馬場の外を追い上げた馬たちでした。
 優勝したキタサンブラックは前走の京都大賞典から連勝。大レースは天皇賞(春)以来の3勝目。大きく崩れることなく走り続けている馬で,唯一の凡走が同じ舞台のダービーであったことがわずかな懸念材料でしたが,もっと長い距離で勝っている馬が苦にするとも考えにくく,やはり払拭しました。今日は展開に恵まれ過ぎたのも事実ですが,よほど絡まれるということがない限り,今後も大きく崩れてしまう可能性はいたって低い馬だろうと思います。父は2004年のスプリングステークスを勝ったブラックタイド。母の父はサクラバクシンオー
                                     
 騎乗した武豊騎手JBCクラシック以来の大レース制覇。第19回,26回,30回に続く6年ぶりのジャパンカップ4勝目。管理している清水久詞調教師は天皇賞(春)以来の大レース3勝目。ジャパンカップは初勝利。

 優越性を哲学的概念の範囲内で考えることはここまでにします。ここからはもう少し広い意味で考えることにします。それは能産的自然Natura Naturansと所産的自然Natura Naturataの間の関係として考えるのではなく,ある所産的自然とそれとは異なった本性essentiaを有する所産的自然の間の関係を考えていくということです。
 もしも所産的自然である何らかのものの本性ないしは実在性realitasが神Deusのうちに優越的にeminenter含まれていて,ほかのあるものの本性ないしは実在性は神のうちに優越的に含まれていないとしたら,前者は後者に対して何らかの意味で優越的な存在であると解し得ることになります。たとえばフーゴー・ボクセルHugo Boxelが,人間的本性が神的本性のうちに優越的に含まれていると書簡五十五で主張するとき,それは単にボクセルが人間的本性によって神を表象しているということだけを意味するのではたぶんありません。おそらくボクセルは人間的本性だけが神の本性のうちには特有に優越的に含まれていると解しているのであって,この意味において人間にはほかの自然物と異なった特権があるというように認識しているのです。これに対してスピノザが書簡五十六で,三角形が話せたら神は優越的に三角であると言うだろうと反論するときも,単にボクセルは人間であるから人間的本性によって神を表象していると批判しているだけではなく,人間的本性だけが特権的な本性であるわけではないとも批判しているのだと僕は思うのです。つまり三角形は三角形の本性によって神を表象するimaginariだろうということだけがいいたいわけではなくて,三角形は三角形にはある特権が与えられていると認識するcognoscereだろうといいたいのだと思うのです。
 神からの人格の剥奪は,人間的な意味において有意義なのであって,単に神から人格だけが剥奪されなければいけないというわけではありません。もし三角形が神は優越的に三角だと言ったとしたら,スピノザはそれに対しても誤りerrorであると指摘するであろうからです。つまりこの種の特権が人間には与えられていないというのは事実ですが,別に人間に限定せず,この種の特権を与えられるような所産的自然は存在しないのです。このことを別の観点と関連させて考えます。
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霧島酒造杯女流王将戦&議論の相手

2016-11-26 19:09:12 | 将棋
 19日に放映された第38期女流王将戦三番勝負第二局。対局日は10月11日。
 先手の里見香奈女流王将が中飛車,後手の香川愛生女流三段が向飛車の相振飛車。先手が早めに5筋から仕掛け,よくできそうだったのを意図的に避けたような手順に。おそらく何か誤算があったと思われ,その後の先手の手順は変調に感じられました。そこからは一進一退の攻防が終盤戦まで続くことに。
                                     
 5四にいた金を引いたところ。2一の馬を引いて使おうという意図だったのではないかと思います。局面としては後手が何とかできそうに思えます。
 △3四桂が目につく手ですが▲2三銀と打つ手があります。そこで△4三桂と打って引いた金に働きかけました。2一の馬が引くのを妨げた上に2六の銀がいなくなった後,先手玉が2六~3五へ脱出するのも防いだ手。ここから▲6五金△7三桂▲6六金と進みました。6五に逃げるのは仕方ないとしても6六に引くのはすごい辛抱だと思います。
 後手は△2四歩と合わせていきました。▲同歩△同飛が馬取りで,引けない以上は▲1一馬。△2五香と打つのもあったと思いますが△2六飛と切って▲同王△2八飛と一気の寄せにいきました。やり過ぎだったのかもしれません。
 ▲2七歩もありそうですが▲2七香と合駒しました。ここは△2五歩が有力に思えますが△2三香の王手でした。
 この王手には▲2五歩と受ける手がありそうですが▲2四歩でした。こう打ったのでまた△2五歩と打つ手はあり得たと思いますが△同香。今度は▲2五歩で△同桂と取ることに。
                                     
 第2図は△1七桂成でも△3七桂成でも▲1五王で詰みません。したがって局面は先手の勝ち。ここはさすがに逃しませんでした。
 連勝で里見王将の防衛。第32期,33期,34期,37期に続く連覇で通算5期目の女流王将。クイーン王将の称号も同時に獲得となりました。

 哲学の神Deusは十全な認識の対象であっても畏敬ないしは服従obedientiaの対象ではありません。ですから畏敬や服従,もっと広くいえば信仰fidesの対象として神を理解する人には,自分のいう哲学的な意味での神の概念conceptusは理解することはできないであろうことは,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』を書いた時点でスピノザには分かっていました。そのゆえに序文の中に,信仰の対象としての神という先入観に囚われている人にはこの本を読むことを勧めないと書いたのです。
 スピノザからみれば,人間には畏敬することができない神を創出しているという書簡四十二の批判は,そうした先入観による批判と思えたことでしょう。したがってスピノザにはフェルトホイゼンLambert van Velthuysenが,神学的な神と哲学的な神を混同しているだけのように思えた筈です。このことはそれに反論した書簡四十三の中でスピノザが,自分は序文の中にこの本を読んでもらいたくない人について注意書きをしたけれど,フェルトホイゼンがそういう人間のひとりであることを確信していると記していることから明らかだといえます。
 これら二通の書簡はいずれも1671年に書かれたものです。この後,スピノザがユトレヒトを訪問したときの滞在中にふたりは面会しました。そのときにスピノザは,フェルトホイゼンが自分が思っていたほど哲学を理解しない人間ではないということには気付いたようです。事実,1675年にはフェルトホイゼンの反駁が知りたいという主旨の内容の書簡を書き送っています。そして僕も,フェルトホイゼンがそこまで無能な人間,神学的な神と哲学的な神とを混同している人物であったとは思っていません。むしろフェルトホイゼンは,スピノザがいわんとするところについては十分に理解して,しかしスピノザの立場には賛同できなかったということだと思うのです。端的にいえば神からの人格の剥奪,あるいは人間の本性についての神の優越性の否定には賛同できなかったのだと思うのです。
 逆にいえば,その点にこそスピノザの哲学の意義があったのだと僕は解します。スピノザが本気で相手をしたのは,フーゴー・ボクセルのような人ではなく,フェルトホイゼンのような人だったのでしょう。
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レッドカーペットハンデキャップ&畏敬

2016-11-25 20:15:04 | 海外競馬
 アメリカのデルマー競馬場で行われたレッドカーペットハンデキャップGⅢ芝1・3/8マイルは日本時間で今朝7時の発走でした。
 ヌーヴォレコルトは最内枠からの発走。発走後はやや下げて,3頭が並んだ5番手の最内を進む形。やや行きたがっているようには見えましたが,1/2マイルで49秒74,さらに3/4マイルで1分15秒26という極度のスローペースになったこともあり,この馬のいつもの走りからして許容範囲であったと思います。そのままインコースを進み直線に入るところでは4番手。直線で先頭に立った馬が外の方に寄ったのでその内に進路を選択できそうでしたが,最後はその外を選択。詰め寄って並んだところがフィニッシュ。映像を見ていたときには届かなかったのではないかと思ったのですが,カメラの位置の関係もあったようで,ギリギリですが差し切っていました。
 優勝したヌーヴォレコルトは昨年3月の中山記念以来の勝利で重賞4勝目。海外では初勝利。前走後の予定は流動的だったようですが,アメリカに居残ってこのレースに出走。おそらく前走はまだ体調が万全ではなく,滞在していれば上昇が期待できるということでの判断だったのだと思います。インで立ち回ることが得意な馬だけに,この枠を引けたのもよかったでしょう。2着馬は1番人気に推されたフランスの馬で,その他の国からも多くが集まったレースをトップハンデで勝ったのですから,GⅢとはいえ評価してよいのではないでしょうか。父はハーツクライ。Nuovo Recordはイタリア語で新記録。
 日本馬の海外レース勝利はニエユ賞以来。アメリカでは2008年のピーターパンステークス以来。騎乗した岩田康誠騎手は2013年の香港スプリント以来の海外重賞勝利。アメリカでは初勝利。管理している斎藤誠調教師は海外重賞初勝利。

 フェルトホイゼンLambert van Velthuysenが書簡四十二で,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の著者が人間には畏敬することができない神Deusを創出していると批判している点に関しては,前もって指摘しておいたように,スピノザは純粋に哲学的には反論しないと僕は考えます。
                                     
 スピノザは神学と哲学を明確に分離します。哲学は人に真理を教えるものではあり得ても,神学はそういうことに役立つものではないと考えるのです。では神学あるいは聖書が何のために存在するのかといえば,人がそれに服従するためです。つまり哲学が真理を教えるものであるとしたら,聖書は服従を教えるものです。そして人の服従の条件が聖書の中に成立しているというのがスピノザの見方です。さらにそれに服従することによって人は敬虔pietasになることができます。これは哲学者が理性ratioによって敬虔になることができるのと,結果という観点から人に齎されるものについて同じです。スピノザは聖書をこの観点から評価するのです。
 この評価の観点は,たぶん哲学の場合にも同じかもしれないと僕は思います。つまり哲学が単に真理を教えるということをもってスピノザは哲学に意義を見出すのでなく,実践的な観点から意義を見出しているのではないかと思います。敬虔という実践をスピノザが評価するのであれば,神学も哲学も同じように評価することが可能で,この観点はスピノザの神学論にマッチするように僕には思えるのです。
 したがって,フェルトホイゼンが畏敬することができる神というとき,この畏敬というのを服従と解してしまえば,フェルトホイゼンの批判が批判として適当であるかどうか別として,スピノザの哲学の批評として妥当であると僕は考えます。というのは,神を畏敬することを教えるのは神学なのであって,哲学にはそういう役割はなく,単に真理としての神,すなわち神の十全な観念を教えればよいというのがスピノザの一貫した姿勢であるといえるからです。実際に第一部定義六の神は,十全な認識の対象たり得ても,畏敬あるいは服従の対象とはなり得ないでしょう。スピノザ自身もそういう意図から神をこのように定義しているのではありません。むしろそうである必要はないのです。
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大山名人杯倉敷藤花戦&神の力と支配者の力

2016-11-24 19:20:50 | 将棋
 19日に倉敷市芸文館で指された第24期倉敷藤花戦三番勝負第二局。
 室谷由紀女流二段の先手でノーマル四間飛車。里見香奈倉敷藤花は居飛車穴熊に。
                                     
 後手が飛車の小鬢を開けたところで▲5五歩と仕掛けていきました。機敏だったといわれていますが,後手は真直ぐに穴熊に組めているので,この程度の仕掛けは甘受しなければならないように思います。
 △8六歩▲同歩と突き捨てておくのは絶対手。これは先手の角が5五に出たら飛車を走るため。後手が△5五歩と取った局面は手が広かったようですが▲2五桂△2四角としてから▲5五角と取りました。当然△8六飛です。
 先手は大駒を成り合っての駒の取り合いは避け▲8八歩。後手も△8二歩と受けました。ここで▲6四歩△同銀▲4四角と進んでいますが,この進行では先手が不満のように思います。後手は△5六歩と打ちました。
 取ると△7六飛で飛車を成られるので▲4八銀は仕方ないところ。後手は△4三金と金を穴熊に近付けつつ角取りとしました。先手は▲6二角成。
                                     
 この手は悪手で,▲7七角として手番だけは握っておかねばならなかったようです。ここで△4六角と出られてからは先手にチャンスはありませんでした。
 里見倉敷藤花が勝って1勝1敗。第三局は20日に指されました。

 人に対しときに褒賞を与え,またときに刑罰を与えることを,僕は人間的な営み,あるいは人間的なpotentiaであると考えます。最も分かりやすくいうなら,これは支配者の力,王侯の力であると解するのです。たとえば『走れメロス』のディオニスが有していた力がそれに該当しているというようにです。
 人間的本性によって神Deusの本性を人が認識するとき,もっとも陥りやすい誤りはこの種の誤りであるかもしれません。人は支配者の力,王侯の権力というものを,力としては最も容易に表象します。だから神にもその種の力を帰し,当然ながら神には王侯よりもっと大きな権力があるというように想像してしまうのです。
 しかしスピノザの考え方は違います。第一部定理三四にあるように,神の力というのは神の本性そのもののことです。いい換えれば神の本性の必然性それ自体が神の力なのです。第一部定理一六から明瞭なように,神の本性の必然性からは無限に多くのことが無限に多くの仕方で生じます。この本性の必然性が神の力と同じなのですから,第一部定理三五にあるように,神の力のうちにある事柄はすべて存在することになります。いい換えるなら神の力は永遠aeterunusから永遠にわたって十全に発揮されるのであり,発揮されたりされなかったりするものではありません。しかしどんなに強大な人間の王であっても,人間の王の力には限界というものが必ずあります。ですからそうした力によって神の力を想像することは,神に不完全性を与えることになります。その力を必然的に十全に発揮するものと,発揮したりしなかったりするものとを比較すれば,前者が完全であるということは自明であるからです。
 書簡四十二フェルトホイゼンLambert van Velthuysenが,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の著者の神からは人間に対する賞罰の配分が排除されていると主張するとき,もしかしたらそれはもっともな主張だと思えるかもしれません。しかしそれは人間の王が賞罰を与えることを連想しているからそのように思えるだけです。神の力のうちに王侯の力が優越的にeminenter含まれるのではありません。したがってフェルトホイゼンのこの部分の主張は,スピノザの哲学からは全面的に否定されるといえます。
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兵庫ジュニアグランプリ&フェルトホイゼンの見解

2016-11-23 19:20:43 | 地方競馬
 第18回兵庫ジュニアグランプリ
 大外から押してネコワールドがハナへ。2番手にはローズジュレップ。3番手がアズールムーンとハングリーベンで併走。5番手もナチュラリーとゲキリンで併走。単独の7番手にバリスコア。ミドルペースだったと思われます。
 3コーナーを回るとローズジュレップの外にハングリーベン,さらにその外にゲキリン。直線に入るとローズジュレップがネコワールドを交わして先頭に立ち,追ってきた馬たちとの差を広げて快勝。交わされたネコワールドは一杯で,ハングリーベン,ゲキリン,さらに外から差しこんできたバリスコアの3頭で2馬身差の2着争い。激戦でしたが,直線の入口あたりでは一旦はゲキリンに前に出られたかにみえた最内のハングリーベンが差し返して2着。大外のバリスコアがハナ差で3着。真中のゲキリンはアタマ差の4着。
 優勝した北海道のローズジュレップはここまで北海道で3勝。北海道重賞も勝っておらず,格は下。ただ,2勝目のときの1200mで1分11秒8というのは,不良馬場であったとはいえ門別で2歳馬が出すようなタイムではなく,相当の素質がある馬ということは分かっていました。JRAの500万を標準クラスで勝ち負けする馬よりは強かったということだと思います。現状は距離が伸びるのはプラスではないかもしれません。タイムが早くなる馬場状態の方が力を発揮できるタイプなのではないでしょうか。祖母の半弟にタニノギムレット
 騎乗した兵庫の川原正一騎手と管理している北海道の田中淳司調教師は兵庫ジュニアグランプリ初勝利。

 書簡四十二を検討します。
                                     
 フェルトホイゼンLambert van Velthuysenが,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の著者が,人間には畏敬することができない神を作り上げることによって無神論への道を切り開こうとしているという見解を示すとき,その前提には神Deusは人間にとって畏敬できる存在でなければならないという見識があるといえます。僕はこれは神は人間にとっての神である,あるいは人間のための神であるという思い込みと同じであると解します。スピノザは書簡五十六では三角形が話すことができたとしたらという仮定をしているので,ここでも同じ仮定を用いるなら,もし三角形にとって畏敬することができる神があるとすれば,その神を人間が畏敬することは不可能であろうと僕には思えるからです。他面からいうなら人間が畏敬できる神を三角形も畏敬するということは困難だと僕は思います。したがってこの神は人間にとっての,人間のための神であると判断するのです。
 ただし,この点については聖書と理性の関係をどう評価するべきかということからスピノザは反論するでしょう。優越性も含めた哲学的要素を排し,フェルトホイゼンが聖書を必要とする人びとのためにこのことを主張しているのだと仮定するなら,スピノザの神学に関する考え方の中には,受け入れることができる内容も含まれていると僕は解します。ですがこのことについては後回しにします。
 神を運命に従属させているという主張は,僕は誤解にすぎないと考えます。神が運命に従属するとは,神の外部に神のなすべき目的を立てるということであると僕は解します。したがって神を人間のために働くagereものとして規定するなら,それこそが神を運命に従属させることであると僕は考えます。これでみれば神を運命に従属させているのはフェルトホイゼンの方であり,むしろスピノザの考え方は神をそうした運命から解放させるものであるというのが僕の考えです。
 神が人間に対して賞罰を与えることができなくなっているという見解の裏に,人間的本性による神的本性の理解があると僕は判断します。ここでフェルトホイゼンは,神の力potentiaというものを,人間的な力,権力と混同しているのだと僕は考えるのです。
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農林水産大臣賞典浦和記念&書簡四十二

2016-11-22 19:15:11 | 地方競馬
 第37回浦和記念
 メイショウヒコボシは発馬のときに頭を上げてしまい遅れました。押してハナを奪ったのはタマモホルン。ケイティブレイブが2番手。3番手にサミットストーンとストロングサウザー。5番手にクリソライト,6番手にハッピースプリントと続き,この後ろのダイヤノゲンセキまでは差のない追走で1周目の向正面を通過。正面に入るとタマモホルンがリードを3馬身ほどに広げ,クリソライトが外を上昇,2周目の向正面に入るところでは単独の3番手に。前半の1000mは61秒8のハイペース。
 向正面の半ばではケイティブレイブがタマモホルンを交わして先頭に。追ったクリソライトが単独の2番手。サミットストーンとストロングサウザーはついていかれず,やや離れてその後ろにいたハッピースプリントがコーナーでは単独の3番手に。このときの各々の差が直線ではむしろ広がる形になり,優勝はケイティブレイブ。4馬身差の2着にクリソライト。さらに4馬身差の3着にハッピースプリント。
 優勝したケイティブレイブ白山大賞典からの連勝で重賞3勝目。ここは前走より相手関係は強くなっていたと思いますが,難なく突破。2着馬と3着馬は大レースでも入着はできるクラスの馬なので,それ以上の力があるということは明白に。したがって大レースに手が届いてもおかしくない馬という評価をしていいのかもしれません。すんなりと先行できると力を発揮できるタイプのようなので,距離が短くなって前半のラップが速くなるのはマイナスに作用するような気はします。父はアドマイヤマックス。母の父はサクラローレル。母の半兄に1999年の北海道スプリントカップ,2000年のガーネットステークス,黒船賞,群馬記念,かしわ記念,朱鷺大賞典,2001年のガーネットステークス,とちぎマロニエカップを勝ったビーマイナカヤマ
                                     
 騎乗した武豊騎手は第26回,28回,31回に続き6年ぶりの浦和記念4勝目。管理している目野哲也調教師は浦和記念初勝利。

 優越性に関する哲学的議論は,神Deusからの人格の剥奪という考え方と深く関係することは分かりました。『スピノザ哲学研究』の当該部分の論述も,これと大きく関係しています。
 ところで,フーゴー・ボクセルが人間的属性を優越的にeminenter含んでいなければならないと認識していた神というのは,きっと哲学的な意味での神だけを意味するものではありません。たぶんボクセルはキリスト教,おそらくプロテスタントへの信仰は有していたと思われますから,この神は宗教的な意味での神でもあるわけです。このように宗教的概念としての神と哲学的概念としての優越性を関係させるならば,このことはもっと広く,聖書と理性の関係がどういうものでなければならないのかというスピノザの考え方とも関係してくると僕は思っています。
 フェルトホイゼンLambert van Velthuysenは書簡四十二で『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』をきわめて正確に要約し,それに批判を加えました。その批判のひとつに,この本で述べられているのは,人間が畏敬することができないような神を作り上げることだというのがあります。そしてその理由として,神を運命に従属させているというスピノザに対するありがちな評価と,神の支配や神の摂理の余地がないので,神が人間に対して賞罰を与える余地が排除されているという評価を与えています。実際にはフェルトホイゼンは単に賞罰とだけいっていて,人間に対してのとはいっていませんが,事実上はそう主張していると解して差し支えないものと思います。
 世界の美と完全性のためには幽霊が存在しなければならないと思って,そのことでスピノザに対して議論をふっかけたボクセルに比較するなら,フェルトホイゼンはよほど有能な人物であったと僕は考えます。しかしこれらの主張をみれば,そのフェルトホイゼンをしても,神は人間にとっての,あるいは人間だけのための神でなければならないと思っていたし,また人間的本性によって神的本性を解していたことが分かります。ですから前にもいったように,スピノザにとっては,神を運命に従属させているという批判を招いても,神から人格を奪取しておくことの方が重要だったのではないかと僕は推測するのです。
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霧島酒造杯女流王将戦&哲学的議論

2016-11-21 18:59:40 | 将棋
 10月1日に霧島ファクトリーガーデンで指された第38期女流王将戦三番勝負第一局は12日に放映されました。対局日時点での対戦成績は里見香奈女流王将が5勝,香川愛生女流三段が2勝。
 振駒はと金が3枚で香川三段の先手。先手の5筋位取り中飛車に後手が銀2枚を前線に繰り出し押さえ込みを狙う将棋。力将棋で難解な中盤戦となり,どの手を境に差がついたのかが分からない一局でした。
                                     
 先手が▲6六歩と突いて後手が6五にいた銀を逃げた局面。この手も銀を引かせるのは先手のプラスですが角道を自ら止めていますので,損得微妙です。
 第1図から先手は▲5四歩△同歩▲同飛と動いていきました。先手が角道を止めた後なので△5五歩が目につきますが,△7七歩成と成り捨てました。この手は好手だったのではないでしょうか。
 △5五歩と打つと▲6四飛△6三金で飛車を捕獲できるのですが,▲9七角△6四金▲同角と進むと後手も大変のようです。△7七歩成は▲同角と取ればその筋が消え,▲同金だと△8六歩でその筋が消えるだけでなく先手は角を使いにくくなります。なので▲同桂と取ったと思われますが,最善は▲同角だったのかもしれません。
 これは▲9七角が消えていませんので後手はまず△6三金と上がり▲5九飛と引かせてから△7六歩と打って駒得を目指しました。先手は▲8五桂△同銀という捨て方をしてから▲5四歩。
 先手の狙い筋はふたつあって,▲4五銀と捨ててしまい△同銀に▲5三歩成とと金を作る手と▲6五歩~▲6四歩で6三の金に働きかけてと金を作りに行く手。前者を受けるなら△4二金ですが実戦は後者を受けて△7四銀でした。
 こちらを受けられたので▲4五銀はあったようです。銀を捨てても急所にと金を作れば互角以上というケースは将棋ではままあります。ですが本局は先に桂馬も損しているのでさすがにやりにくかったのでしょうか,▲6七金と遊んでいる駒を使いにいきました。ただこれはあまりよくなかったかもしれません。△8二飛で後手の飛車の成り込みが約束されたからです。
 ここから▲6五歩△同銀▲4四角△同角▲4五銀△6二角▲6六歩と攻めていきましたがそこで△5八歩▲同飛に△8七飛成と金取りで成り込まれました。
                                     
 第2図まで進むとさすがに後手が抜け出しているようです。
 里見王将が先勝。第二局は19日に放映されました。

 スピノザの場合は人間的属性を人間の本性natura,essentiaに置き換えることは問題ない筈です。なぜなら,スピノザは神が人間の実在性realitasを優越的にeminenter含んでいるということについて明確に否定しています。そしてスピノザの哲学では本性と実在性は同じものを異なった観点から把握しているにすぎません。ですからスピノザが神Deusのうちに人間の本性が優越的に含まれることを否定するのは当然です。したがって人間的属性に依拠して神を認識することを禁ずるということのうちに,人間の本性によって神の本性を認識することを禁ずるという意味が含まれていると解して差し支えありません。
 フーゴー・ボクセルとスピノザとの間で交わされた,優越性に関する議論を,哲学的概念に限定して解するなら,この種のやり取りがあったとみるのがいいでしょう。すなわちボクセルは人間の本性が神のうちに優越的に含まれている,他面からいえば神とは人間にとっての神である,あるいは人間のための神であるということを主張し,それに対してスピノザは,人間の本性が神のうちに優越的に含まれるということを否定し,神は人間にとっての神であるわけではない,ましてや人間のための神ではないと主張したのです。書簡五十六の中で,スピノザが,三角形が話すことができれば神は優越的に三角であると言うだろうといったのには,とくに神が人間にとっての神であるわけではなく,能産的自然Natura Naturansとして所産的自然Natura Naturataに属するすべてのものにとっての神であるということも含意されているかもしれません。そしてこのやり取りはその書簡で終焉を迎えたのです。
 したがってスピノザは神からの人格の剥奪を徹底することになりました。ただしそれはたとえば三角形についていえば,三角形の本性,あるいはそういうことばがあるとすれば三角形格を剥奪することも徹底していたということですし,所産的自然に属するあらゆるものの格を神から剥奪するという意味です。ただ,人間は人間の本性によって神を表象するimaginariでしょうから,人格を剥奪するということはとくに意味ないしは意義があったといえるでしょう。対してボクセルは,神から人格を剥奪してはならないと主張していたことになります。
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マイルチャンピオンシップ&人間的属性

2016-11-20 19:09:44 | 中央競馬
 第33回マイルチャンピオンシップ
 好発をきめたミッキーアイルがすんなりとハナへ。2番手にはネオリアリズム。3番手集団にディサイファ,スノードラゴン,ウインプリメーラの3頭。サンライズメジャーが続きその後ろにイスラボニータとクラレント。前半の800mは46秒1のミドルペース。
 コーナーを回るあたりから前の2頭が後ろを少し離す形に。直線の入口では2番手で追っていたネオリアリズムの方が押していましたが,直線に入ってもしぶとく脚を伸ばしてミッキーアイルに並び掛けました。この2頭を追ってきたのは,直線で前をいくサンライズメジャーの外に進路を取ったイスラボニータ。ミッキーアイルが直線の半ばから外に外にと張り出してきたため最後は3頭の馬体が接近してのフィニッシュ。逃げ粘ったミッキーアイルの優勝でアタマ差まで詰め寄ったイスラボニータが2着。ミッキーアイルの走行でやや速力を削がれたかもしれないネオリアリズムが4分の3馬身差で3着。
 優勝したミッキーアイルは2月の阪急杯以来の勝利。大レースは一昨年のNHKマイルカップ以来の2勝目。高い能力を持っているのだけれどもレースでの折り合いなどに課題を抱えている馬。このレースはわりとすんなりと先手を奪うことができ,気分よく走ることができましたので,持っている能力をほぼ全面的に出すことができました。最後はネオリアリズムだけでなく,この2頭の競り合いの後ろを追っていた多くの馬たちの走行を妨害するラブプレーになってしまったのは残念ですが,この馬の能力自体をそれで過少に評価しなければならないということはないと思います。父はディープインパクト。祖母の半妹に2002年のJRA賞最優秀4歳以上牝馬のダイヤモンドビコー。3代母がステラマドリッド
 騎乗した浜中俊騎手は昨年の天皇賞(秋)以来の大レース制覇。マイルチャンピオンシップは初勝利。管理している音無秀孝調教師は一昨年のNHKマイルカップ以来の大レース制覇。第26回以来7年ぶりのマイルチャンピオンシップ2勝目。

 スピノザは神Deusが存在することを証明するより,神を十全に認識するcognoscereことの方が重要であると考えていたふしがあります。第一部公理四から,結果effectusを認識するためには原因causaを認識しておく必要があります。しかるに第一部定理一六系三により神は絶対に第一の原因です。ですから事物を十全に認識するにあたって,神を十全に認識することが必須であるからです。第一部定理一七のように,神が神自身の本性naturaの必然性necessitasによって働くagereと主張すること,すなわち神から人格を剥奪してしまうことは,神に人間的属性が優越的にeminenter含まれているとみなすような人たちからは,神を運命に従属させているという批判を招くものです。それでもそちらの方を主張したのは,たとえば神が意志voluntasによって働くと規定してしまえば,結果的には神に人格を付与するような誤りを犯すことに直結するだろうという考えがあって,それを避けるためだったと解せるのです。つまり誤った批判の方を受け入れて,神を混乱して認識する要素を徹底して排除する方を選択したとみることができるということです。
                                     
 これらは哲学的概念ですので,優越性についても哲学的概念に限定して考えてみます。そのためには書簡五十四でスピノザが用い,書簡五十五ではフーゴー・ボクセルHugo Boxelがそれに倣った人間的属性というのを,人間の本性natura,essentiaという限定的な意味に置き換える必要があります。なのでそのように置き換えることの妥当性について少しだけ検証します。
 まず,ボクセルが書簡五十五でいっている,行動し,意志し,認識し,考慮し,見聞きするということは,人間の本性であるとはいい難いです。ただ,ひとつだけ確実なのは,ボクセルは人間がなすそれらのことは神のうちにも優越的に含まれているのであって,しかし神のそれらの行為については人間的属性によって知ることはできないと考えているということです。このときボクセルが,人間がしている行為から神の行為を連想していることは疑い得ないでしょう。なので人間の本性が神のうちに優越的に含まれるということを,ボクセルが否定することはできないと思います。それらが含まれていて本性は含まれないというのは明らかな矛盾だからです。
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竜王戦&方法的戦略

2016-11-19 19:17:02 | 将棋
 7日と8日に天童温泉で指された第29期竜王戦七番勝負第三局。
 丸山忠久九段の先手。駆け引きがあって渡辺明竜王のノーマル四間飛車。相穴熊の持久戦。後手が千日手も辞さずという指し方を採用したこともあり,中盤戦がとても長い将棋。先手は一手だけ早く指すという分の得が将棋にはあり,その分だけの得がずっと続いていたのではないかと思います。しかし本格的な戦いに入ってから,先手が自陣の桂馬も使って攻めたのはやり過ぎで,後手にもチャンスがありました。
                                     
 先手が使った自陣の桂馬が成り込んだ局面。ここで後手は△5七角と飛車取りに打ち▲6九飛に△4八飛成と龍を作りました。
 先手は成桂と飛車を生かして攻めていくほかありません。それが▲6四歩。後手は△同歩と取って▲6三歩の垂らしに手筋の△5二歩を打ち▲6二成桂に△7三金直と逃げました。
 先手はここで▲6七金と上がって駒を入手しにいくのも考えたという感想がありますが,穴熊の金を相手の攻め駒と自ら交換しにいくのはやりにくいのではないかと思います。▲6一角と打って着実に攻め続けることを選択しました。
                                     
 ここで後手は△1八龍と香車を取って▲7一成桂に△6五香と打っていきましたが,これはチャンスを逸した手だそうです。第2図では一旦は△2四角成とし,同じように▲7一成桂だと△5一馬と引いて先手の攻めが繋がらないそうなので,先手の最善は▲5二角成。そこで△1八龍と香車を取れば先手の攻め駒が離れる分だけ後手が得で,後手に分があったようです。ただ,第1図で角を打つときに,将来的に2四に成り返ることは視野に入れてないでしょうから,この手は思い浮かびにくいのではないかと思います。感想戦で指摘されたときに両対局者も驚いていたそうで,埋もれてしまっても不思議がない変化だったのではないでしょうか。
 丸山九段が勝って2勝1敗。第四局は21日と22日です。

 人間的属性を神Deusに帰属させると,人間は人間的属性に応じて神を認識することになります。この点を踏まえるなら,そうすることを禁ずべき別の理由,もっと重大な理由が生じています。
 第一部公理四は,結果の認識が原因の認識に依存しなければならないことを示します。したがってある結果を十全に認識するために,その原因を十全に認識していなければならないことになります。
 神と人間の関係は,各々をどう解するとしても,第一部定理一六により,神が原因であって人間が結果であるといわなければなりません。したがって人間的属性を神に帰すことによって神を認識するということは,結果を認識することによって原因を認識しているということになります。いい換えれば,原因の認識が結果の認識に依存してしまっていることになります。このような認識が不当であるということは,第一部公理四から明らかです。つまりこの不当な方法からは,神を十全に認識することは不可能であって,単に神を表象するimaginariだけ,混乱して認識するだけにすぎません。
 よって人間的属性を神に帰属させてしまうこと,他面からいえば人間的属性について神の優越性を是認することは,神を十全に認識するということにとって悪い方法であるといわなければなりません。このゆえに人間的属性を神に帰するということをスピノザは禁じるのです。同様に人間的属性が神のうちに優越的にeminenter含まれているということを否定するのです。
 スピノザは神は本性の必然性necessitasによって働くagereとみなし,意志voluntasとか知性intellectusというのは思惟の様態cogitandi modiであると規定します。実際のところをいえば,神は意志によって働くといってもよかったし,知性によって働くといってもよかったのです。ただしその場合は,意志も知性も,人間の意志や知性とは異なったものと解さなければなりません。だからスピノザは意志も知性も思惟の様態と規定し,神がなければあることも考えることもできないものとしたと解することは可能です。つまり,神が本性の必然性によって働くという主張のうちには,方法論的な戦略があったと解することも可能です。こうした方が神を十全に認識するためには有用だからです。
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大山名人杯倉敷藤花戦&スピノザの注意

2016-11-18 18:59:17 | 将棋
 8日に指された第24期倉敷藤花戦三番勝負第一局。対戦成績は里見香奈倉敷藤花が3勝,室谷由紀女流二段が0勝。
 振駒で里見倉敷藤花の先手。室谷二段のノーマル中飛車の出だし。飛車はあちこちに動き回りましたが相銀冠の持久戦になりました。
                                     
 後手が桂馬を跳ねた局面。先手はすぐに▲3七桂とぶつけて△同桂成▲同銀の交換になりました。後手ばかりが動かしての交換ですから先手は手得。ただし銀が引かなければならない分は損。捌けたとみれば後手にも不満はないでしょう。引かせた銀を使わせないために△4五歩と突きました。これは好手だったと思います。
 ▲2四歩△同歩▲同角と2筋を交換。後手は角交換は避けて△7三角。これはただ逃げただけでなく△6五歩という狙いもあります。。先手は▲6八角と引いて飛車成りをみせました。
 ここで△6五歩と突いてしまう手はあったようです。ですが▲2三飛成が金取りである以上は指しにくく△2二歩と受けたのは自然なのではないでしょうか。
 先手は銀を使うために▲4六歩と突いています。コメントでは▲7七桂が優ったとされていますが,ただ△4四金なら千日手とあります。千日手は先手としては不満な筈で,その方が優るというならすでに後手の方がうまくやっているということでしょう。
 後手は△6五歩を決行。先手が▲4五歩と取ったときに△5四金とただのところに出ていきました。
                                     
 ここでは▲4四桂△5一飛▲2四角としてとにかく飛車を5筋から逸らせなければならなかったようです。ですが▲7七金寄と固めたために△5五金と出られ,これ以降は先手にチャンスらしいチャンスがなくなってしまいました。
 室谷二段が先勝。第二局は明日です。

 神Deusの本性natura,essentiaの必然性necessitasを,たとえば神の意志voluntasと表現することを許容するとしましょう。ですがその場合には神の意志と人間の意志は,本物の犬と星座の犬くらいの相違がなければなりません。いい換えれば同じように意志といわれるとしても,同じような思惟作用であると解することはできません。これがスピノザの考え方です。なぜそうでなければならないのでしょうか。
 第一部定理一六は,神の本性の必然性から無限に多くのものが産出されるとされています。ここでは仮にこの必然性を意志と名指しているのですから,神の意志から無限に多くのものが産出されると理解する必要があります。すると人間の意志というのも,神の意志から産出されなければならないということになります。要するに神の意志は人間の意志の起成原因causa efficiensでなければならないのです。そしてスピノザの哲学では原因というのが一義的に起成原因を意味するのですから,神の意志と人間の意志の関係は,前者が原因で後者は結果であることになります。そして第一部定理一七備考にあるように,結果の本性や存在の原因であるものは,本性についても存在についても結果とは異なっていなければなりません。したがって神の意志が原因で人間の意志が結果なら,神の意志と人間の意志は存在についても本性についても異なっていなければならないことになります。これが本物の犬と星座の犬ほどの相違があるということの真意です。僕はここでは意志について説明し,スピノザは当該部分では知性intellectusについて説明していますが,別にそれだけに限らず,神の本性の必然性をどう名指そうと,同じことが帰結します。
 スピノザが書簡五十四で,神的本性と人間的本性を混同しないために人間的属性を神には帰さないといっているのは,このことを踏まえていると解するべきです。意志の例でいえば,もし神の意志によって無限に多くのものが産出されるというなら,人間は人間の意志によって神の意志を想像することになり,人間的本性を神的本性に帰することになるだろう,いい換えれば結果によって原因を想像することになり,星座の犬を本物の犬と思い込むようになるだろうと注意したかったのでしょう。
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ハイセイコー記念&書簡五十四

2016-11-17 19:27:33 | 地方競馬
 昨晩の第49回ハイセイコー記念
 まずサイバーエレキングが前に。内からサワセンフロントも押していきましたがここは譲らずサイバーエレキングの逃げに。控えたサワセンフロントと行きたがっていたサマーダイアリーが2番手で併走。この後ろにネコピースとミサイルマン。さらにオリジナルポイントとサヴァルジャン。そしてラッキーモンキー,マルボルクシチー,セイファルコンの3頭が続き,これ以外の馬はここから離されました。前半の800mは51秒1のミドルペース。
 3コーナーを回るとサイバーエレキング,サマーダイアリー,ミサイルマンの3頭が雁行になり,これをさらに外からサヴァルジャンが追う形に。直線に入ると雁行していた3頭の大外のミサイルマンが内の2頭を抜き去って先頭に。直線の入口でミサイルマンとサヴァルジャンの間を突いて4番手に上がっていたセイファルコンが追い,一時的に差は詰まったのですが,追われたミサイルマンがまた差を広げ,最後は同じような脚色になったのでミサイルマンが優勝。2馬身差の2着にセイファルコン。逃げ粘ったサイバーエレキングが2馬身半差で3着。
 優勝したミサイルマンは4月の新馬戦を勝った後,一頓挫あり,先月に復帰。体重を31キロ増やして臨んだその一戦も勝ってこれが3戦目。ここまでの2戦が1000mと1200mでしたので,距離延長は課題でしたが克服しました。現時点で南関東生え抜きの馬ではトップではないかと思います。ただ完成度の高さで勝っているという印象がありますので,今後の活躍は成長の余地がどれほど残っているかという点にかかっているのではないでしょうか。父はカネヒキリ。母の父はクロフネ。母の半妹に2007年の新潟2歳ステークスを勝ったエフティマイア
 騎乗した大井の笹川翼騎手は船橋記念以来の南関東重賞3勝目でハイセイコー記念初勝利。管理している大井の森下淳平調教師もハイセイコー記念初勝利。

 フーゴー・ボクセル書簡五十五でいっていることのうち,人間的属性という語句はその前の書簡五十四においてスピノザが用いているものです。
                                     
 そこで確かにスピノザは,神的本性と人間的本性を混同しないために,人間的な属性を神Deusに帰することはしないといっています。このときスピノザは,人間的属性として,意志voluntas,知性intellectus,視覚,聴覚のよっつを例示しています。これは書簡五十五でボクセルが,そうした属性が神の本性のうちに優越的にeminenter含まれているとしなければ,スピノザが神について何をいっているか分からないとした事柄と合致しているといえるでしょう。この優越性はスピノザがいい出したことではなく,ボクセルが使っているものです。ボクセルがその概念をどう解していたかは分かりませんが,哲学的概念として考えていたにせよもっと広義な意味で解していたにせよ,スピノザが神についてどのような概念を有しているかということについては,ボクセルもそう誤った解し方はしていなかったと考えていいでしょう。要するに第一部定義六のように,神を絶対に無限な実体substantiaとだけ定義するのであれば,その定義Definitioが何を意味するのかがボクセルには分からなかったのです。ただ,理解できなかったという意味ではなく,間違った概念であると解していたとしておく方がよいでしょう。ボクセルにとって神は,人間的属性によって説明されるべき存在でなければならなかったからです。
 スピノザは,第一部定理三三備考二で,意志と善意を比較し,神が善意によって一切をなすという主張よりは,神が意志voluntasによって一切をなすという主張の方が真理に近いという意味のことをいっています。スピノザは一切は神の本性の必然性necessitasからなされると考え,第一部定理三三では必然と反対の意味である偶然を自然のうちから排しています。書簡五十四ではスピノザは,この必然性のことを意志といったり知性intellectusといったりすることについては寛容的です。それを意志といおうと知性といおうと,神の外に神が従属すべき目的を立てることにはならないからでしょう。ですがそれを意志とか知性というなら,それは人間の意志とか人間の知性とは別物でなければなりません。
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霧島酒造杯女流王将戦&主張の骨子

2016-11-16 19:09:49 | 将棋
 5日に放映された第38期女流王将戦挑戦者決定戦。対局日は8月30日。その時点での対戦成績は上田初美女流三段が2勝,香川愛生女流三段が4勝。
 上田三段の振り歩先で上田三段の先手。後手の角道オープン三間飛車から角交換。先手が角を打って飛車を押さえ込み,後手も動きましたが明確な成果はなかったので,先手が指しやすい中盤戦ではなかったかと思います。
                                     
 後手が馬を作った局面。先手は☗9五歩☖同歩☗9三歩☖同香☗7五角の端攻めを敢行。☖8四歩☗同角は手筋の受け。
 ここで☖8三銀☗7五角☖8四歩と端を受けなければならなかったのですが☖7四銀と打ったために☗9三角成☖同玉☗9五飛☖8二玉の端攻めが炸裂。一遍に先手が優勢になりました。
                                     
 ここでは☗9一飛成☖7一玉☗9二香成も有力な攻め筋。ただしこれは先手も端ががら空きになり後で反撃を食らうおそれがあります。☗9二飛成☖7一玉☗8二銀☖6二玉☗8一銀不成の方を選択したのはそうした理由からだったと思います。後手も☖8三銀引☗7二銀成☖同銀で打った銀を使うことはできました。
 ここで☗6四桂と打って順に剥がしていけば先手が勝ったろうと思います。しかしそれではぬるいとばかりに☗6五香☖6三歩☗5五桂と攻めていきました。後手は☖5四銀と受けることに。
                                     
 こうがっちり受けられると早い攻めはないので☗8三銀と打っていくことに。これでも先手がいいですが,少し差が詰まったのではないでしょうか。後手は☖5一玉と早逃げし☗7二銀成☖同飛と飛車も受けに使えました。☗8一龍☖7一飛のときに先手は☗6三桂不成を敢行。☖同銀に☗7一龍☖同金と飛車を交換して☗6三香成と攻めていきました。これは詰めろではありません。後手は☖8六歩と反撃し難しくなりました。
                                     
 ここは先手の最後のチャンスで,☗3二銀が最善手だったのだろうと思われます。しかし☗5二銀と王手し☖4二玉。☗3四銀が詰めろですが☖8七歩成~☖8四飛で抜かれてしまいます。なので☗5一飛と打ちましたがこれは詰めろでなかったために逆転。☖8七歩成以下詰めろを掛けた後手が勝っています。
 準決勝はこれ以上の大逆転で勝ち上がっていた香川三段がここも逆転勝利で前期に失陥したタイトル戦の挑戦者に。第一局は12日に放映されました。

 書簡五十五フーゴー・ボクセルHugo Boxelの主張をもう少し念入りに検討します。
 まずボクセルは,神Deusに人間的属性を認めないというスピノザの主張,つまり神からの人格の剥奪という主張については同感だといっています。ただしそれは,神の本性essentiaと人間の本性を混同しないようにするためという条件の下で同感だと解せるようないい方にもなっています。したがって神から人格を排除することについて,ボクセルが寸分の違いもなくスピノザと同じ考えを有していたとは理解しない方がよいと思われます。
 さらにその後で,なぜ神に人間的属性が認められないのかということの理由をボクセルは説明しています。それによれば,神がいかなる仕方で行動し,意志し,認識し,考慮し,見聞するのかということは,人間的属性によっては知ることができないからだとしています。要するにそれらのことを人間は知ることができないから,人間的属性は神には認められないのだと主張しているのです。
 これでボクセルがスピノザとはかけ離れた仕方で神を認識しているということが分かります。なぜなら,ボクセルが示した行動をはじめとする諸々の現象そのものが,人間的属性であるというのがスピノザの考え方だからです。ボクセルがいわんとしているのは,それらの現象は人間的属性によっては知り得ないけれども,神的属性によっては知り得るということでなければなりません。そしてその部分に,人間的属性は神のうちに優越的にeminenter含まれているというボクセルの主張の骨子が含まれているといえるでしょう。
 神的属性によってならそれらの現象を知り得るのがなぜかといえば,それらの現象が神によって実際になされるからだといわなければなりません。つまりボクセルはそれは当然のことと思っているのです。しかしスピノザがいっているのは,神が行動するとか意志するとか認識するとか考慮するとか見聞するとかいったことは,人間が行動し意志し認識し考慮し見聞するから神についてもそれと同じように想像しているにすぎないのであり,神はそんなことはしない,少なくとも人間がするのと同じ意味でそんなことをするのはあり得ないということなのです。
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