スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

スプリンターズステークス&原因の十全性

2012-09-30 18:47:26 | 中央競馬
 香港から2頭,シンガポールから1頭が遠征してきた第46回スプリンターズステークス
 枠順の関係もあり,最内のマジンプロスパーが逃げることになりました。ほぼ並んでの2番手にパドトロワ。その後ろはエーシンヴァーゴウとダッシャーゴーゴーで,リトルブリッジ,キャプテンオブヴィアスの外国勢,そしてカレンチャン。あとはフィフスペトル,ドリームバレンチノ,ブルーミンバーといて,エピセアロームとロードカナロア。前半の600mは32秒7で,この距離としてはハイペースといっていいでしょう。
 ペースはともかく息が入らない流れで先行勢はほぼ壊滅。カレンチャンが直線では馬場の中央から先頭に躍り出ましたが,さらに後ろからロードカナロアがその外から迫り,最後は交わしてレコードタイムで優勝。王者の競馬はできたカレンチャンが4分の3馬身差で2着。ばてた先行勢のすぐ外から追い込んだドリームバレンチノがクビ差で3着。
 優勝したロードカナロアは1月のシルクロードステークス以来の勝利で重賞は3勝目。大レースは初制覇。過去11戦中9戦が1200mというスプリンターで,これまでも3着を外したことはなく,大レース制覇は時間の問題と思われていた馬。春は同じ厩舎の2着馬にやられましたが,秋は倒しました。王者交代とまではいかないかもしれませんが,今後もこれまで同様,大きな崩れはなく戦っていくことができるでしょう。父はキングカメハメハ。Kanaloaはハワイの伝説に出てくる神の名前。
 騎乗したのは岩田康誠[やすなり]騎手で今年のダービー以来の大レース制覇。スプリンターズステークスは初勝利。管理している安田隆行調教師は2着馬で第45回を制し,連覇となるスプリンターズステークス2勝目。

 この,いってみれば原因の十全性とでもいうべき観点を,第二部定理一二に持ち込んでみたいのですが,そのためには必要とされるいくつかの条件とでもいうべきものがあるのです。
 僕の手による第二部定理一二証明は,第二部定理九系から直接的に帰結させる手法を採用しています。したがって,第二部定理一二に原因の十全性という観点を導入するためには,第二部定理九系にそれが導入されているという必要があります。
 このことは,第一部公理四から明白であるといえます。第二部定理九系から第二部定理一二が帰結するということは,因果論的にいうならば,第二部定理九系が原因となり,第二部定理一二が結果として導出されるということと同じです。したがって第二部定理一二の認識は,この場合には第二部定理九系の認識に依存しなければなりません。よって,これは原因の十全性という観点に限ったことではありませんが,第二部定理一二のうちにある何らかの観点を導入するという場合には,その観点が与件として第二部定理九系のうちに含まれていなければならないのです。そうでなければ第二部定理一二の認識が第二部定理九系の認識に依存しなくなってしまうからです。
 この条件を解消するために,第二部定理一二を,第二部定理九系には依存しないような別の方法で証明するという手段があります。しかしここではそうした方法は採用せず,あくまでも第二部定理一二は第二部定理九系から直接的に帰結するという,これまで採用してきた証明方法を継続します。
 よって,原因の十全性という観点の導入という問題は,このブログにおいては,その対象課題が第二部定理一二から第二部定理九系へと移行するということになります。これは本当ならば第二部定理九系をテーマとして掲げた上で考察するべき事柄なのでしょうが,第二部定理九系について考察すれば,その結論は第二部定理一二にも波及するということになります。今回の第二部定理一二のテーマの設定の理由において述べたように,僕にとってはある事柄が第二部定理一二と関係してくるなら,それが最も重大なのです。つまりそれが第二部定理一二に波及するという前提で,第二部定理九系についても探求します。
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銀河戦&原因の把握

2012-09-28 19:08:07 | 将棋
 第20回銀河戦の決勝は昨晩の放映でした。収録は8月17日で,その時点での対戦成績は羽生善治二冠が10勝,阿久津主税七段が1勝。
 振駒で阿久津七段の先手となり角換り相腰掛銀。先後同型も目指せたと思うのですが,先手が4筋に飛車を回りました。
                         
 先手が1八に香車を上がっているのは,後手の金が4二にいるときに仕掛けるため。なのでここで▲4五歩といきます。△同歩▲同桂△4四銀に▲3七角と打ち,△6二飛に▲1五歩。△同歩▲同香と進みました。
                         
 羽生二冠は1992年9月の竜王戦の対佐藤康光戦では先手,12月の王将戦の対村山聖戦では後手でこの局面を経験。どちらの将棋もここから△1四歩▲同香△同香▲1五歩と進み,△4六歩と垂らしていました。
 この将棋は第2図で△1三歩。これは一昨年の棋王戦で行方八段が丸山九段を相手に指した手。そこから▲2四歩△同歩▲2五歩△2七角▲2四歩△1六角成▲6五歩まで,同じ展開。行方八段はそこで△8六歩と突いたのですが,この将棋は佐藤戦と村山戦で出現した△4六歩がここで出ました。
                         
 どうもこの焦点の歩が玄妙であったようで,後手がリードを奪っているのではないかと思います。この後,先手もかなり魅せてはくれたのですが,どうしても攻め手が少し足りないという局面がずっと続き,最後に反撃に転じた後手の勝ちになっています。羽生二冠の経験と研究が生きたという印象の一局でした。
                         
 羽生二冠の棋戦優勝は昨年度のNHK杯以来で41回目。銀河戦は第5回,6回,8回,9回,12回,14回と優勝していて,これが7回目。羽生二冠が強いということはだれでも知っていることですが,近年の早指し戦における強さは驚異的に思えます。

 次に考えてみるべきことは,ある十全な観念が原因となって別の十全な観念が発生するというとき,この原因というのが『エチカ』においてどのように把握されるべきなのかということです。
 第一部公理四が示していることは,結果の認識が原因の認識に依存しなければならないということです。つまりこの例でいけば,結果として生じるとされる十全な観念の認識は,その原因と仮定されている十全な観念の認識に依存しなければなりません。一方,第一部公理三によれば,ある原因が与えられたならば必然的に結果は生じるのですから,結果とされる十全な観念の認識というのは,原因となっている観念の認識には依存しますが,ほかのものの認識には依存しないということになります。いい換えれば,ここで結果とされている十全な観念の認識は,原因とされている十全な観念の認識のみによって十全に把握されるということになります。したがってこの場合の原因というのは,第三部定義一における十全な原因であると考えるのが妥当であるということになるでしょう。もちろん僕は,たとえば現実的に存在する人間の精神のうちに,十全な観念Aと十全な観念Bのふたつがあって,これらAとBがともに原因となってCという観念が結果として生じるということは,あり得ないことではないと思います。そしてこの場合には単に観念Aと観念Bとして考えるならば,どちらの観念も観念Cに対しては部分的原因であるということは認めます。ただ,実際にこうした仮定は,確かに観念Aも観念Bも現実的に存在するある人間の精神の一部を構成しているから意味を有するのだといえます。したがってこれを単純に観念Aと観念Bとは考えずに,現実的に存在するある人間の精神という観点から把握するならば,その人間の精神が十全な原因となっているということは明らかです。よって,ある人間の精神のうちで,何らかの十全な観念,それはひとつの十全な観念ではなく複数の十全な観念であって構わないということになりますが,そこから別の十全な観念が発生するということが生じるなら,これはその人間の精神が十全な原因となっていると理解して差し支えないということになると思います。
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日本テレビ盃&差異

2012-09-26 19:06:06 | 地方競馬
 今月の船橋競馬は2開催。今週の開催のメーンは第59回日本テレビ盃
 押していったのはランフォルセとマグニフィカの2頭。枠順の利もあり逃げることになったのはランフォルセ。早めに控えたマグニフィカがほぼ並ぶような2番手。ソリタリーキング,ダイショウジェット,トーセンアーチャー,サイレントメロディと続きました。実力ある馬とそうでない馬との差が大きかったと思うのですが,最後尾のプロフェッショナルを除くと思いのほか固まっての競馬。最初の800mが48秒9のミドルペースでしたのでこうなったということでしょう。
 非常によい手ごたえだったマグニフィカが直線に入るとすぐにランフォルセを交わして先頭に,その外に出したのがソリタリーキングでさらに外からサイレントメロディ。この2頭は末脚よくマグニフィカを捕えましたが,おそらくは道中の位置取りの差で優勝はソリタリーキング。及ばずの2着にサイレントメロディ。このメンバーならマグニフィカの3着は健闘といえると思います。
 優勝したソリタリーキングは5月にオープンで勝った後,東海ステークスで重賞初制覇。ここはそれ以来の実戦で重賞2勝目。使われながらここにきて本格化してきた馬で,今後はこの路線のトップクラスで戦っていくものと思います。父はキングカメハメハ,曾祖母がスカーレットインク。半兄のサカラートは2005年に東海ステークス,ブリーダーズゴールドカップ,日本テレビ盃,2008年にはマーキュリーカップを勝って重賞4勝で兄弟制覇。同じく半兄に2007年JRA賞最優秀ダート馬,同年のNARグランプリ特別表彰馬のヴァーミリアン。同じく半兄のキングスエンブレムは一昨年のシリウスステークスを勝っていて,血統背景も抜群です。Solitaryは唯一の。
 騎乗したのは内田博幸騎手で馬インフルエンザの影響で南関東重賞として実施された第54回以来の日本テレビ盃2勝目。管理している石坂正[せい]調教師はサカラートによる第52回以来の日本テレビ盃2勝目。

 実際のところ,第二部定理一二でいわれていることが,僕が理解するように十全な観念だけを含意しているのか,それとも上野修がそう判断しているように,混乱した観念も含んだ上での言及であるのかということは,この定理が抱えていると僕が理解するような問題については,それを解決し得るような差異ではないのです。というのは,もしも上野のいうように,これが混乱した認識も含むのであると解釈するならば,僕が考えているように,この定理は人間の精神が有するある十全な観念のみについての言及であると理解する場合と比較すれば,少なくとも問題が持つ意味の重さ自体は,いくらか軽減される筈です。軽減される筈ではありますが,解消されるというわけではありません。なぜなら,たとえそれが混乱した観念であったとしても,人間の精神が,自分の身体の中に起こることに関して,そのすべてを認識するということは,経験的に考えてみれば,不条理なことをいっているように思われるからです。そもそも身体の中に起こることというのは具体的にどのようなことなのであるのかという疑問は,たとえこれが混乱した認識を含むと解釈したとしても,同じように生じてくると僕には思えます。そこで,この差異についての考察はここまでにして,今度は別の角度からこの定理を探求していくことにします。
 僕はあくまでも第二部定理一二は,人間の精神のうちに生じるある十全な観念についての言及であると理解しているわけです。そこで,人間の精神のうちにある十全な観念が生じるということが,『エチカ』においてどのように説明されているかをみてみます。それは,第二部定理四〇をおいてほかにはないといえるでしょう。僕はこの定理には4つの意味があると理解していますが,このうち第三の意味というのは,直接的にこのことを示しているといっていいだろうと思います。この意味が成立するということについては,当時の考察の中で示していますから,ここではこれを繰り返すことはしません。ただ,人間の精神のうちにある十全な観念が発生するということは,その原因として別の十全な観念があるということを含意するという点だけ,ここでは強調しておきます。
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周防国府杯争奪戦&援用の理由

2012-09-25 18:42:29 | 競輪
 GⅠから中3日での開幕ということで,選手の疲労も心配された防府記念の決勝。並びは新田-伏見の福島,浅井-柴崎の三重,浜田ー小倉の四国,松川ー井上の九州で三宅は単騎。
 スタートを取ったのは浅井でそのまま前受け。3番手に新田,5番手に浜田,三宅を挟んで8番手に松川という周回。残り3周のホームから松川が上昇すると浜田がこれに合わせ,バックでは浅井を叩いた浜田が先頭に。ホームに戻って松川が改めて発進し,浜田を叩きましたが今度は新田が動いて先頭に出たところで打鐘。ここから今度は浅井が動き,新田と浅井の先行争いになりました。これを制したのは浅井。このもがき合いを直後で見ていた三宅がバックから発進。しかし直線の手前で柴崎の牽制を受け失速。この牽制で開いたところを伏見が突き,直線で浅井を追いました。しかしバック7番手から自力に転じた井上が大外を豪快に伸び,内の両者を差し切って優勝。浅井はかなり強い内容の2着。伏見が3着。
 優勝した長崎の井上昌己選手は昨年暮れの佐世保記念以来となる記念競輪通算6勝目。当地は一昨年に制していて2勝目。浅井が新田と先行争いを繰り広げたため,末はどうしても欠くことになりますから,少し恵まれた面はありました。ただ任せた松川が不発とみるや自力に転じ,そこからの強さは特筆ものであったと思います。グランプリで優勝した頃の力を取り戻しているとみていいかもしれません。

 スピノザが第二部定理一二を証明する論証の過程において,第二部定理一一系の援用を行っていることは事実ですから,それでもなおかつ僕が第二部定理一二を,十全な観念としてだけ理解することの根拠を,このこととの関連で説明しておく必要はあるといえるでしょう。
 まず第一に,これは大前提ですが,第二部定理一一系の意味のうちには,十全な観念は含まれていないというわけではなく,混乱した観念と十全な観念の両方が含まれているのです。ですから,第二部定理一二について,それを十全な認識と理解することについては,何の問題もない筈です。
 これを前提として,スピノザが第二部定理一二の証明で第二部定理一一系に言及するとき,僕はこれを,ある人間の精神の本性を構成している限りで神のうちにある観念があるということは,そのような仕方で神によって本性を構成されている人間の精神のうちに,そのある観念があるという意味であるということを示す目的であるというように理解します。つまりこのことが,この部分におけるスピノザによる第二部定理一一系の援用の理由のすべてであるというように僕は解するのです。
 しかるに第二部定理一一系でスピノザ自身が説明しているように,ある人間の精神の本性を構成する限りで神のうちにある観念があるというのは,端的にその人間の精神のうちにその十全な観念があるという意味なのです。確かに当該の部分においてスピノザは,これを,人間の精神があることを知覚するとだけいっていて,この知覚,これは知覚と概念とを分節した意味での知覚ではなく,もっと広く認識するという意味でなければなりませんが,そうした知覚が十全であるか混乱しているかについては言及していません。言及してはいないのですが,それに続く人間の精神のうちに何らかの混乱した観念があるという場合の神との関連付け方の説明と比較するならば,この部分は人間の精神による十全な認識についての言及であると理解しなければならないと僕は思います。
 そしてこの説明の仕方を,スピノザは第二部定理一二の証明の過程で援用しているというのが僕の理解です。よって第二部定理一二は,人間の精神による十全な認識についての言及であると理解するのです。
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ムイシュキン公爵&第二部定理一一系の援用

2012-09-24 18:24:00 | 歌・小説
 ドストエフスキーは『白痴』を書くにあたり,無条件に美しい人間を描こうと思うという主旨のことをいっています。ですから,ドストエフスキーのあらゆる小説の数多くの登場人物のうち,最もドストエフスキーがイメージしている神の似姿に接近している人物は,この『白痴』の主人公であるムイシュキン公爵をおいてほかにはないのではないかと思えます。
                         
 ドストエフスキーにとって,神の似姿の条件として,子どもと癲癇というふたつのキーポイントがあったのではないかという僕の考え方はすでに説明した通りです。このムイシュキン公爵というのは,癲癇の発作を起こす人物になっていますから,こちらの方は無条件に当てはまっているといっていいでしょう。もちろん他の小説の中にも,癲癇の患者は多く登場しますが,いまはムイシュキン公爵がそうした人物のひとりとして造形されているということだけで十分です。一方,子どもというキーワードですが,確かにムイシュキン公爵の行動には,子どもらしいところがあるように僕には感じ取れます。
 実をいいますと,子どもということばを,僕は二律背反的な意味に捕えます。つまりそれはよくいえば,ある純真さとでもいうべきものを心の中に備えているという意味です。そして確かにムイシュキン公爵という人物は,そうした一面をもっているといえるでしょう。
 しかし一方で,子どもっぽいとか子どもじみているということばが一般的にも使用されるように,子どもというのは悪くいえば常識から外れているとか,ひとりの人間として成熟しきれていないというような,否定的な意味合いもあるのです。とくにスピノザの哲学においては,子どもというのはむしろこうした否定的意味合いを帯びて言及されることがほとんどなのですが,ムイシュキン公爵というのが,悪くいうならそういう子どもじみた人物であるということも,また一面の真理なのではないかと思います。
 もちろんドストエフスキーが子どもというキーワードを持ち出すとき,そうした両面をイメージしているのも事実でしょう。しかし神の似姿としての子どもという場合に,実はもうひとつ,重要な要素もあるのではないかと僕は思っています。

 実はスピノザは,第二部定理一二証明の論証過程の中で,第二部定理一一系も援用しています。これは,人間の精神mens humanaを構成する観念の対象ideatumの中に起こることの観念ideaが,その対象の観念を有する限りで神Deusのうちにあるということを第二部定理九系に訴えて示した後に,それを人間の精神が認識しなければならないということを示すための援用です。
 しかるに,第二部定理一一系の意味の中には,人間の精神が十全な観念idea adaequataを有する場合と混乱した観念idea inadaequataを有する場合との両方が含まれているのですから,少なくとも可能性としては,これを混乱した観念であると理解する余地が残されているということになるでしょう。そしてこの点が,おそらく上野修のように,自分の身体corpusの中に起こることの認識cognitioを,混乱した認識であると理解するということの,『エチカ』の中における最大の根拠になるものと思います。すでに示しましたように,上野は人間が自分の身体の中に起こることを認識するcognoscere,とくに混乱して認識するということを示した「われらに似たるもの」という論文の中で,第二部定理一二には何も言及していません。一方で上野はこのことを,第二部定理一一系を援用することによって説明しているのですが,確かにスピノザが第二部定理一二を証明する際に,第二部定理一一系を援用しているということを考慮に入れるならば,この上野の論証Demonstratioにも一理あるとはいえると僕は思うのです。
                         
 しかし,改めて僕の立場を述べておくならば,少なくとも第二部定理九系に関しては,それが直接的に神が有する観念として言及されている以上,第二部定理三二第二部定義四から,それは十全な観念についての言及であると理解しなければいけないと思います。よって第二部定理一一系において,人間の精神の中の混乱した観念について神との関連を説明している部分に関しては,第二部定理九系とは無関係なのだと判断します。いい換えれば,スピノザは第二部定理一二を証明する際に,確かに第二部定理一一系を援用していますが,それは第二部定理九系から帰結されたことを踏まえた上での援用であり,これを上野のように混乱した認識を含むものとしては理解しません。
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悪霊&第二部定理一一系の意味

2012-09-22 18:35:59 | 歌・小説
 神の似姿のひとつとしてイメージしていたと思われる子どもの虐待を,ドストエフスキーは小説の中に好んで描いたように感じられます。それほどこうした場面は頻出します。そしてその最たるものは,『悪霊』の第二部第九章だと僕は思っています。
                         
 僕はドストエフスキーの長編のうち,『白痴』は学生時代に読んでいます。その後はブランクがあって,ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの影響で再開して最初に読んだのが『カラマーゾフの兄弟』。『悪霊』と『罪と罰』はその後で,このふたつの前後は忘れてしまいましたが,ほぼ同じ時期であったことは間違いありません。
 『カラマーゾフの兄弟』は最初は退屈きわまりありませんでしたが,それは理由あってのことで,本編といえるストーリーが始まるやすぐに面白みを感じました。また『罪と罰』は最初から同じような印象を受けています。しかし『悪霊』は別で,最初に面白みを感じられなかったばかりでなく,読み進めていっても同じような印象が続きました。ところが,最後の最後になって,急に強い印象を受けることになったのです。
 実はこれにも理由があります。この第二部第九章というのは,スタヴローギンの告白という副題がつけられているのですが,あまりに悲惨な内容が含まれているため,雑誌への掲載が拒否されました。つまり当初は『悪霊』の一部を構成していなかったのです。こうした理由から,僕が読んだ新潮文庫版では,第二部第九章は,本来では十章であった筈のステパン氏差押えという副題になっていて,スタヴローギンの告白は巻末に,付録のような形で収録されているのです。しかし『悪霊』の中でどの部分に読者が最も強烈な印象を抱かされるのかといえば,それは間違いなくこの部分だと思います。だから最後の最後になって,この小説が僕にとってある特別な小説となったのです。
 ドストエフスキーは何とかこの部分を掲載できるように奔走しているように,これが『悪霊』の構成に欠かせないと考えていたことは間違いありません。いろいろな考え方はあるかと思いますが,僕はこの部分が『悪霊』の第二部第九章を構成している版を読むことをお勧めしますし,この部分だけでも多くの方に読んでほしいと思っています。

 第二部定理九系から第二部定理一二へと至るプロセスのラストに示されているのは第二部定理一一系です。
 この系Corollariumが直接的に意味している事柄は,人間の知性intellectusというのは無限な知性intellectus infinitusではなく有限なfinitum知性であるということと,そのゆえに現実的に存在する人間の知性は神Deusの無限知性の一部を構成しなければならないということだといえると思います。このことは第二部定理一〇第一部定理一五から自明であるといえるでしょう。また,神の知性が無限知性であるということは,第一部定義六から明らかだといえますし,第二部定理七系からも明らかだといえると思います。
 しかし,実際にこの系が示していることで最も重要な点は,人間の精神mens humana,第二部定理一一によって現実的に存在する個物res singularisの観念ideaによって構成されている人間の精神が,神の無限知性の一部であるというとき,それはふたつの仕方で説明されるということです。
 まず,神がある人間Aの精神を構成する限りでXの観念を有すると関連付けられるとき,人間AはXを認識するcognoscereのですが,このときはそれを十全に認識します。いい換えればこの場合には,人間Aの精神のうちに,Xの十全な観念idea adaequataがあるということになります。
 一方,神がある人間Aの精神の本性naturaを構成するとともに,ほかのものの観念を有する限りでXの観念を有するという仕方で関連付けられる場合もあります。この場合にも人間AがXを認識するという点では何ら変わるところはないのですが,この場合には人間AはXを十全には認識せず,混乱して認識することになります。いい換えればこの場合には,人間Aの精神のうちに,Xの混乱した観念idea inadaequataがあるということになります。
 このことから理解できるように,第二部定理一一系というのは,現実的に存在する人間の精神のうちに,ある十全な観念があるという場合と,ある混乱した観念があるという場合の,両方について言及されているのです。したがって,もしもスピノザが『エチカ』の中で後にこの第二部定理一一系について言及している場合には,少なくとも可能性という観点からすれば,そのどちらの場合に関しても含意することができるのだと考えなければならないということになるでしょう。
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王座戦&第一部公理六の意味

2012-09-20 18:40:20 | 将棋
 僕は今はほとんど旅行というものをしませんが,盛岡にはかつて1度だけ行ったことがあります。その盛岡で指された昨日の第60期王座戦五番勝負第三局。
 羽生善治二冠の先手で相矢倉の出だしから渡辺明王座の急戦策。互いに飛車先を交換した後,先手が矢倉,後手が雁木の構えに。後手は機敏に動いて銀桂交換の駒得に持ち込みましたが,それほどの戦果ではなかったよう。先手に攻めさせてカウンターを狙う指し方になりました。
                         
 これが夕食休憩の局面で,再開の一手が▲9五金。この手が決め手級だったようです。飛車を逃げてはいられないですから△8七歩と打ち,▲同金に△8六飛▲同金△同桂と突撃していきましたが,▲7七玉と上がって羽生二冠はよくなったと思ったとのこと。△9四歩に▲5三桂成と進みました。
 ここでは先手から確実な攻めがあるのに対し,後手は先手玉の上部脱出を阻止できず,大勢が決しているようです。以下,後手の攻めをかいくぐった先手の勝ちとなりました。雁木にしたのは後手の趣向と思いますが,そのために角を働かせるのに苦労する展開となり,小さなミスを咎めた先手の快勝譜というところではないでしょうか。
 羽生二冠が奪還に王手。第四局は来月3日です。

 ところで,この第二部定理一一別の証明で示されていることは,第一部公理六のうちに,もしも実在的な意味を見出すとすれば,それはどういったものでなければならないのかということも同時に明らかにしているといえます。なぜなら,真の観念というのはその対象ideatumと一致していなければならないのですが,そこで一致するといわれるとき,何が具体的に一致していなければならないのかということが,この証明によって明白になっているといえるからです。
 たとえば,観念の対象ideatumが個物である場合,その個物の真の観念というのも個物でなければなりません。そしてこのことは逆に,真の観念の方からみても同じことになります。すなわち何らかの知性のうちにある真の観念というものがあって,いい換えればある知性が何らかの真の観念によって少なくともその一部が構成されているという場合,もしもこの真の観念が神の思惟の属性の個物,すなわち第一部定理二五系によって神の思惟の属性を一定の仕方で表現するような様態であるという場合には,この真の観念の対象ideatumが形相的にみられた場合にも,個物,つまりは神の何らかの属性を一定の仕方で表現する様態でなければならないということになります。そしてもちろん,ただ個物であるという意味において同一であるというだけでは十分ではなく,原因と結果の連結と秩序も同一である必要があるのです。したがって,真の観念とその対象ideatumというのは,平行論における同一個体であるということが,第一部公理六の実在的な意味であるということになるでしょう。
 実際に第一部公理六は,それ自体でこのような実在的意味を有しているというわけではありません。むしろここに明らかにされていることは,ある観念があって,それが真の観念であるといわれるためには,その観念は観念されたものideatumと一致していなければならないというほどのことでしかありません。実際,第一部公理六の時点では,平行論すら導入されていないのですから,このように理解するのが妥当だと思います。ただ,この公理にも,実在的な意味を導入することは可能であり,その場合にはこのような意味になるといえると思います。
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報知盃東京記念&第二部定理一一別の証明

2012-09-19 20:42:41 | 地方競馬
 ピサノエミレーツとロイヤルマコトクン,6枠の2頭が共に出走取消となった第49回東京記念
 発走後の直線が短く内枠有利。タイガーストーンが先手を奪い2番手はマズルブラスト。不良馬場ということもあり最初の1000mが63秒3と,この距離にしてはハイペースといっていいくらいになりましたが,ラップが上がったというわけではなく,7番手となったスターシップまではほぼ一団。その後ろにやや離れて2頭が併走。残りの3頭が大きく離れてばらばらの追走となりました。
 タイガーストーンの逃げは2周目3コーナーまで。ここで一旦はマズルブラストが先頭に立つも,スマートインパルスとカキツバタロイヤルが並ぶように追い上げ,さらにスターシップとトーセンルーチェ。大外に回ったのがカキツバタロイヤルでその内にスターシップ。さらに内からスマートインパルスという並びで叩き合いとなり,一旦は控えてまた内から伸びたというレースになったスマートインパルスが優勝。スターシップが2着でカキツバタロイヤルが3着。最内を突いたものの伸びきれなかった4着のトーセンルーチェまで,力量上位と考えていた馬での決着となりました。
 優勝したスマートインパルスは昨年の勝島王冠以来の勝利で南関東重賞2勝目。この距離は初めてでしたが,2000mはこなしていますので,あまり問題はなかったようです。というよりもむしろ適性があるのかもしれません。重賞では苦しいかと思いますが,南関東重賞では今後も活躍するのではないでしょうか。母の父はタマモクロス
 騎乗したのは勝島王冠の日は負傷で乗り替わることになった御神本訓史[みかもとのりふみ]騎手で6月の優駿スプリント以来の南関東重賞制覇で東京記念は初勝利。管理しているのは大井の三坂盛雄調教師でこちらも東京記念は初勝利。

 僕の理解するところでは,そもそも第二部定理一一というのは,ある人間の精神が現実的に存在するということを前提しています。このことはおそらくそれ自体で明らかであるといっていいと思います。ところで,思惟の様態のうち第一のものは,第二部公理三によって観念なのですから,こうした場合の人間の精神の現実的有をまず構成するものが観念であるということは疑い得ません。この部分はスピノザによる第二部定理一一証明と同一です。
 ところで,第一部定理一五により,すべてのものはあるとすれば神のうちにあるのですから,人間の精神もそれが現実的にあるなら神のうちにあります。そしてもしもある人間の精神が神のうちにあるといわれるのであれば,その精神と同一個体であるようなものが形相的にも実在する,あるいはこの場合には現実的に存在するということが第二部定理七系から帰結します。そしてその同一個体であるような形相的有というのは,第二部定理七により,その客観的有であるとここで仮定されているある人間の精神と,原因と結果の連結と秩序が同一でなければならないということになります。
 人間の精神というのが個物でなければならないということ,いい換えれば神の思惟の属性の様態的変状でなければならないということは,第二部定理一〇系から明らかです。するとそれと同一個体であるような形相的有も,神のある属性の様態的変状でなければなりません。いい換えれば,ある人間の精神が現実的に存在するという場合には,その精神の現実的有を構成する観念の対象ideatumというものが,神のある属性の様態的変状,すなわち個物であるということになります。つまりある人間の精神の現実的有を構成する観念の対象は,現実的に存在する個物なのです。よって人間の精神を構成する最初のものは,現実的に存在する個物の観念であるということになるでしょう。
 いってみればこの証明は,第二部定理一一に関する平行論的証明であるといえるでしょう。ここではそれを追求はしませんが,スピノザがこの定理の論証においてこうした方法を採用しなかったことにも,あるいは何らかの理由があったのかもしれません。
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フォワ賞&第二部定理一一の意味

2012-09-18 18:51:53 | 海外競馬
 10月7日に開催される凱旋門賞GⅠの古馬の最大の前哨戦,フォワ賞GⅡ芝2400mは,日本時間で一昨日の午後9時半頃の発走。昨年のJRA賞年度代表馬のオルフェーヴルと,同じ厩舎の帯同馬であるアヴェンティーノが出走しました。
 ペースメーカー役のアヴェンティーノが好発からの逃げ。出走は5頭で最初はその後ろに2頭ずつが並ぶ隊形で,オルフェーヴルは後ろの外。レースが進むにつれて一列になっていき,最後尾に控えました。4番手の馬が外に出たところで内を突いてほぼ並びましたが,直線に入るところでも最後尾といっていい位置。ここから各馬が外に出していってもオルフェーヴルはインにこだわり,一杯になったアヴェンティーノに進路を譲られ先頭に。そのまま抜け出すと,最後は並んで追ってきたMeandreとジョシュアツリーに差を詰められましたが,抜かれるという感じでもなく優勝しました。アヴェンティーノは十分すぎる仕事をして最下位。
 優勝したオルフェーヴルは6月の宝塚記念から連勝で重賞8勝目。海外ではこれが初出走。2着のMeandreもGⅠ馬ではありますが,本番ではもっと強い馬が出走してきますから,そこで好勝負するには勝っておきたかったレース。わりにあっさりと勝つことができましたので,その点はクリアしたといえそう。コースがとくに不利になるというわけでもないようなので,凱旋門賞でも期待はできるのではないかと思います。父はステイゴールド,母の父はメジロマックイーン,曾祖母がグランマスティーヴンス,全兄に2006年JRA賞最優秀2歳牡馬,2009年JRA賞最優秀4歳以上牡馬のドリームジャーニー。Orfevreはフランス語で金銀のかざり職人。
 管理している池江泰寿調教師は海外重賞初勝利。騎乗したのはフランスのクリストフ・スミヨン騎手で馬の国籍における日本馬に騎乗しての海外重賞は初勝利。日本馬による海外重賞勝利は4月のクイーンエリザベスⅡ世カップ以来。ヨーロッパでは2000年にアグネスワールドがジュライカップを勝って以来。フォワ賞は1999年にエルコンドルパサーが勝って以来の2勝目。

 続く第二部定理一一においては,人間の精神を構成する観念というのは,現実的に存在するある個物の観念であるということが示されています。いい換えればこれは,人間の精神が現実的に存在するという場合に,その精神を構成する観念の対象ideatumというものが,現実的に存在するある個物であるということです。そしてこのように考えれば,この定理が第二部定理一二第二部定理一三に,何らかの関係を有しているということは容易に推測できることだと思います。なかんずく第二部定理一三の立場からみれば,このことはそれより以前に論証されていなければならない事柄であるということは明らかだといえるでしょう。ただし,スピノザは実際には第二部定理一二についても第二部定理一三についても,その訴訟過程においてこの定理を直接的に援用するということはしていませんから,ここでもその点に関しては深く追求しないことにします。
 ところで,これはスピノザによる第二部定理一一証明を精査するとよく理解できることなのですが,実はこの定理というのは,その中にみっつの意味が含まれているといえるのです。そのうち第一のものは、人間の精神を構成するものが,第一には観念でなければならないということです。そして第二のものは,そうした観念というものが,現実的に存在するものの観念でなければならないということです。そして第三が,それはただ現実的に存在していればよいというものではなく,とくに現実的に存在する個物の観念であるということです。
 スピノザはこの定理をこのようなみっつの部分に分節した上で,その各々の部分がすべて正しいということを示すという訴訟過程を経て,この定理を論証しています。その際に核となるのは,第一の点に関しては第二部公理三であり,第二の点に関しては第二部定理八系であり,第三の点に関しては第一部定理二一と二二,そして第二部公理一です。
 確かにこのような方法をもってこの定理というのは証明されています。それは僕も否定しません。しかし一方で,僕はスピノザがこうした方法でこの定理を証明しているという点に注目します。たぶんこの定理は,別の方法でも証明が可能だと思えるからです。
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オールスター競輪&第二部定理一〇系

2012-09-17 18:48:19 | 競輪
 グリーンドーム前橋で5日間にわたって争われてきた第55回オールスター競輪の決勝。並びは渡辺-山崎-成田の福島,武田-木暮の関東,脇本-村上の近畿に小野で,岩津は単騎。
 若干の牽制となりましたが村上がスタートを取って脇本の前受け。岩津が続いて渡辺が5番手,武田が8番手という周回に。武田は残り3周のホームに入るところで早くも動き,脇本も突っ張る構えをみせましたがバックでは引きました。このため岩津は木暮の後ろに。ホームに入ると渡辺が発進。この動きに山崎はついていかれなかったのですが,バックで外を追い上げ番手を確保。ここを外から脇本が仕掛けていき,先行争いとなりました。制したのは内の渡辺でバックは先頭で通過。満を持していた武田が捲っていったのですが,3コーナー手前で脇本と接触。この影響で脇本と村上,木暮が落車し,武田も外に浮いてしまい圏外。山崎が直線から発進すると抜け出して優勝。マークの成田が2着で福島ワンツー。最後まで実質的にレースに参加した中では最後尾の岩津が外を伸びて3着。
                         
 優勝した福島の山崎芳仁選手は昨年はグレードレースを勝てず,一昨年の第53回オールスター以来のGレース優勝。オールスター競輪は2勝目,GⅠは8勝目,ビッグは12勝目。グリーンドームでは2008年の寛仁親王牌を勝っています。Gでは久しぶりの優勝ということから分かりますように,最盛期の力はもうないのだろうと思います。今日も一旦は渡辺から離れてしまい,危ういレースでした。これはかなり大きなギアでレースに臨んでいることも影響しているのではないでしょうか。レースを作るという点ではあまり上手ではないタイプという印象もありますが,今後も今日のように番手を回る機会が増えてくるでしょうから,まだビッグでの優勝数を増やしていくことは可能なように思います。

 第二部定理九系から第二部定理一二へと至る間に,『エチカ』の中で何が起こっているのかを順に検証してみます。
 まず第二部定理一〇でいわれているのは,要するに人間は実体ではないということです。ただ,このことはそれ自体としては,現在の考察とはあまり関係ありませんし,第二部定理一二および第二部定理一三が導かれるのに際して,重大な意味をもたらすというものではないと考えていいと思います。むしろそれ自体で重要な部分があるとすれば,この定理から帰結している第二部定理一〇系の方だといえるのではないでしょうか。
 「この帰結として,人間の本質は神の属性のある様態的変状から構成されているということになる」。
 人間が実体ではないということがすでに第二部定理一〇で証明されていることを勘案すれば,この系を証明することはそうも難しくありません。すなわち第一部公理一の意味からして,人間というのは実体であるか,そうでなければ実体の変状,すなわち様態であるかのどちらかでなければなりませんが,実体ではないのですから様態です。そして第一部定理一四により,自然のうちに実在する実体というのは神だけなのですから,神の変状であるということになるからです。
 しかしこのことは,実際にはスピノザがそうしているように,第一部定理一五を援用することによってより簡明に証明できます。すなわちもしも人間の本性というものが神の属性のある様態的変状から構成されているのではないとしたら,第一部公理四により,人間の本性を十全に認識するためには神の何らかの属性を十全には認識する必要がないということになるでしょう。いい換えれば,人間を概念する,これは概念と知覚を厳密に分けた上での概念ですが,このために神の概念が不要であるということになります。しかし神なしには何も考えることができない,すなわち概念することができないということは,第一部定理一五で示されている事柄のひとつなのですから,これを主張するのは不条理です。よって人間の本性は神のある属性の変状であって,いい換えれば第一部定理二五系により,神の本性を一定の仕方で表現する個物res particularisであるということになります。
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ファミリー&実在的意味の帰結

2012-09-15 18:26:25 | NOAH
 三沢光晴の死後,NOAHの社長に田上明が就任したのは,NOAHの旗揚げの直前の,全日本プロレスの選手会長としての田上の手腕を,三沢が評価していたことがその一因ではないかというのが僕の推測です。一方,馬場の死後,三沢が選手会長から社長になった際に,空席となった選手会長の地位に田上が就いたのは,生前の馬場の意向が作用したのではないかというのが僕の推測なのです。
                         
 これは和田京平があるインタビューで明かしていることなのですが,馬場は全日本の最良の時代の四天王に関して,長男が三沢で田上が次男,川田が三男で小橋が四男と位置付けていたそうです。ですから,三沢の後継に田上が位置するというのは,少なくとも全日本プロレスの中での流れとしては,ごく自然な成り行きだったのではないでしょうか。
 ではなぜ馬場が,キャリアでは上の川田よりも田上を上位に評価していたのかといえば,たぶん体格を重視したからでしょう。長州とブロディの試合をおかしなことにしたと思われる超獣エゴイズムのうちに,プロレスラーは身体が大きくなければならないというブロディの信念があったというのも僕の推測ですが,馬場も自分が大きかったですから,この点ではブロディと同じ考えを有していたようです。実際に和田は同じインタビューで,馬場は四天王の中では,三沢には天性の強さがあるのだけれども,身体が大きい田上が将来は最も強くなると言っていたと述べています。ただ,馬場はブロディとは違ってただのレスラーではなくプロモーターでもありましたから,観客が支持するものには従い,ブロディのようにあくまでも自分の考え方を押し通すようなことはしなかったということでしょう。
 馬場はおそらく全日本プロレスをひとつのファミリーのようなものと考えていました。長男,次男といった格付けは,その象徴であると思います。しかしそのファミリーは,おそらくは現代日本社会の家族制度の中でのファミリーではなく,たとえそれが馬場の幻想のようなものでしかなかったのだとしても,むしろ戦前の家父長制の制度におけるファミリーのようなものに近かったのだろうと僕は思います。

 第二部定理一三証明からして,スピノザが第二部定理一二第二部定理一三は無関係な定理であるとは考えていなかったことは確かであるといえるでしょう。そしてこれらふたつの定理が有している関係は,もはやいうまでもなく,少なくとも第二部定理一二がその部分的原因となって,第二部定理一三が結果として生じてくるのだということです。
 そこでこのスピノザの考え方に依拠するならば,第二部定理一二を実在的な意味において第二部定理九系から直接的に帰結させるということは無理があるという結論になります。なぜなら,まずある観念の対象ideatumの中に起こることの観念は,その観念に変状した限りで神のうちにあるのですが,このことから,人間の精神が自分の身体の中に起こることを認識するということを帰結させるためには,人間の精神を構成する観念の対象ideatumが自分の身体であるということが,あらかじめ前提されていなければなりません。ところがスピノザの考え方では,むしろ人間の精神がその精神を構成している観念の対象ideatumの中に起こることを認識するということを根拠として,その観念の対象ideatumとは自分の身体であるということが導かれるということになっているからです。
 ただし,次のことはいえます。すなわち,人間の精神を構成する観念の対象ideatumというのが何であるのかということが具体的には不明であったとしても,人間の精神がその対象ideatumの中に起こることというのを認識しなければならないということは,第二部定理九系から直接的に帰結するのです。なぜならばこの意味においては,相変らず第二部定理一二というのは,一般的に示されている第二部定理九系というのを,人間の精神とその精神を構成する観念の対象ideatumというある具体的なものに置き換えただけであると考えることは可能だからです。したがって,第二部定理一二というのは,第二部定理九系の直後に配置されていたとしてもおかしくはない定理であると考えられます。しかし実際には『エチカ』はそうなっていません。おそらくここにもスピノザの何らかの意図があったのではないでしょうか。
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テレ玉杯オーバルスプリント&第二部定理一三証明

2012-09-13 18:45:49 | 地方競馬
 レース表記上の重賞としては2年目となる第23回オーバルスプリント
 ピエールタイガーの逃げは考えられた展開のひとつですが,この距離にしては2番手のアースサウンドをかなり離してのものとなりました。3番手はケイアイライジンで,トーセンピングス,スエズ,ダイショウジェットと続きました。最初の600mが35秒3ですから超ハイペースといっていいでしょう。
 ピエールタイガーは直線入口で一杯。2番手から自然に差を詰めていったアースサウンドが先頭に立つと,抜け出してこれは快勝かと思いましたが,後方に待機していたデュアルスウォードが内から,さらにトーセンアレスも大外から追い込み,最後は3頭が並ぶようにゴール。何とか凌いだアースサウンドが優勝。トーセンアレスがハナ差の2着で,さらにクビ差の3着にデュアルスウォード。
 優勝したアースサウンドはオープン1勝と重賞2着,大レース3着はありましたが重賞制覇は初めて。これまで5勝のうち新潟の1200で4勝,あとの1勝も東京の1300でしたから,左回りは合っていたものと思います。ただ,ここは相手関係に恵まれたという要素も高く,これ以上の活躍となると少し難しい面があるのではないかと思います。
 騎乗したのは後藤浩輝騎手で管理しているのは和田正道調教師。実質的に2回目の重賞であり,共に初勝利です。

 ここでスピノザによる第二部定理一三の証明を検証してみます。これは基本的に,ふたつの訴訟過程を介しています。
 第一に重要なのは第二部定理九系です。もしもある人間の身体が,その人間の精神を構成する観念の対象ideatumでないとしたら,自分の身体の中に起こること,これをスピノザはここでは身体の変状といっていますが,その観念はその人間の精神のうちにはないということが帰結します。しかしこれは不条理です。なぜなら第二部公理四によって,人間は自分の身体が様ざまな仕方で刺激される観念,すなわちこのブログでいうところの身体の変状を有するからです。すなわちこの部分は背理法によって,人間の身体というのが,その人間の精神を組織する観念の対象ideatumであるということを示しているといえます。
 しかし実際にはこの定理は,これだけで証明されているとはいえません。この定理を完全な形で示すためには,人間の精神を構成している観念の対象ideatumというのが,自分の身体だけであるということも同時に証明する必要があるからです。
 このときスピノザは第二部定理一二を援用します。すなわち,もしも自分の身体以外にも人間の精神を組織する観念の対象ideatumがあるなら,第一部定理三六により,そのものが原因となって必ずある結果が生じますから,そうした観念もまた人間の精神のうちにあるのでなければならないということになります。ここではスピノザはこれを因果論的に説明していますが,同じことは平行論的にも帰結しますので,ここには第二部定理九系の証明と同じ問題が生じていると僕は考えますが,今はそれには言及しません。しかるに第二部公理五によれば,そうした観念というのが人間の精神のうちに生じるということはありません。つまり人間の精神を構成する観念の対象ideatumというのは,自分の身体であり,自分の身体だけであるということが帰結するのです。
 僕がここで重視したいのは,これは後で詳しく触れますが,第一の訴訟過程の中途で,スピノザが第二部定理一一系にも言及していることであり,第二の訴訟過程においては,第二部定理一二を援用しているというふたつの点です。
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竜王戦&第二部定理一二と一三の関係

2012-09-11 21:11:29 | 将棋
 互いにホームで1勝ずつをあげて迎えた第25期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第三局。
 振駒で山崎隆之七段の先手。丸山忠久九段は一手損角換り4に。後手の腰掛銀,先手の早繰り銀から3筋でその銀の交換に。先手は5筋の位を取って角を打ちました。
                         
 ▲2三角成△同王▲2四歩△同銀▲3四銀△3二王▲2四飛というのが狙いだったよう。後手は▲3四銀のときに△1三王と逃げるべく△1四歩。ここから▲3四歩△2二銀▲4六歩△7三桂▲7四角と進んだのですが,△1四歩の一手で狙いを阻止され,こちら側に角を出なければならないのでは,角を打った手が空振りになってしまった形で,ここですでに差がついてしまったのではないかと思います。
 この後,後手が銀を得する展開に。先手も何とか勝負に持ち込もうとしましたが,さすがに挽回はできず,後手の勝ちとなりました。
 丸山九段が昨年に続いて挑戦者に。今年も角換りシリーズとなるのでしょうか。

 仮定の話である第二部定理一二を,実在的な意味を備えるものとして理解するために必要となる条件というのは,人間の精神を構成する観念の対象ideatumというのが,その人間の身体であるということです。そしてそのことは第二部定理一三において示されているわけですから,少なくとも『エチカ』の内部において,第二部定理一二がこうした意味でも実在的な定理であると理解するということは,これを単にそれだけでみれば,十分に成立する理解の仕方であるというように僕は考えます。ただし,もしもこの定理をこのような意味として把握するためには,別の条件が必要とされるでしょう。
 第二部定理一二というのが,第二部定理九系から直接的に帰結するとするならば,いい換えれば,第二部定理九系が十全な原因causa adaequataとなって第二部定理一二が結果として生じてくるのだとすれば,実は仮定の話というのはあくまでも仮定の話にとどめて理解されるべきなのだろうと僕は思うのです。なぜなら,スピノザによる定理の配置の意図から察するに,第二部定理一三が第二部定理一二の原因である,この場合には第三部定義一における十全な原因であろうと部分的原因causa inadaepuata,causa partialisであろうと,どちらの意味でも原因であるということが不可能だからです。つまり,人間の精神を構成する観念の対象ideatumの中に起こることの観念は,その人間の精神によって認識されなければならないということは出てきても,その人間の精神を構成する観念の対象ideatumがその人間の身体であるということは,そこからは出てくることができないからです。
 したがって,当面の問題となるのは,まず,第二部定理一二と第二部定理一三との間には,どのような関係性があるのかということになります。すでに明らかになっているところによれば,第二部定理一三が原因となって第二部定理一二が帰結されるということは不可能です。これがつまり第二部定理一三は第二部定理一二のいかなる意味での原因ではあり得ないということの意味です。したがって第二部定理一二と第二部定理一三の関係は,第二部定理一二が何らかの意味での原因であって第二部定理一三がその結果であるか,そうでなければふたつの定理の間にはいっかな関係がないかの,どちらかであることになります。
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漱石と宗教&配置の意図

2012-09-09 18:26:39 | 歌・小説
 『漱石の道程』を参照しつつ夏目漱石とキリスト教との関係を考えていく前提として,もっと一般的に,漱石と宗教との関わりについての僕の見解を示しておきます。
 漱石の小説の中で最も宗教的な要素が含まれているものは,おそらく『門』でしょう。主人公の宗助が鎌倉の寺へ参禅するからです。ただ,僕の読解では,このプロットは『門』という題名を成立させるためだけに,とってつけたようなものと思えなくもありません。少なくとも何か宗教的な意味では,宗助は何も得ることがなかったといっていいのではないかと思います。
                         
 得ることがなかったということは,『門』という小説自体の中では意味があることでしょうが,このプロットがこういう結末で終ったのは,そもそも漱石が,一般的な意味において既存の宗教に対して高い信頼をもっていなかったからだろうと思います。したがって,既成宗教に対する帰依という観点からいうならば,漱石は無神論者であったと僕は考えています。
 ただし,これは,スピノザを無神論と規定するのと似たような規定です。つまりスピノザは第一部定義六で神Deumを定義し,かつ第一部定理一一では神の実在を主張しているにもかかわらず無神論といえるわけですが,漱石のケースにもこれと似ている要素があります。
 晩年の漱石は則天去私ということばを好みましたが,この天というのが,スピノザにとっての神に該当します。もちろんスピノザの神と漱石の天は異なった概念ですが,少なくとも漱石が,則らなければならない,あるいは則らざるを得ない,天の規則というものがあると考えていたことは間違いありません。漱石はそれを自然ということばで表現することも多いのですが,この自然と人為との対峙というのは,漱石のいくつかの小説の主題を構成する要素になっています。
 したがって,僕は漱石が,宗教との関連においては無神論者であったと規定しますが,だからといって人間が万能な存在であり,自らの意志voluntasによってどんなことでもなすことが可能であると考えていたわけではないと考えています。むしろ漱石は,自身のいう天とか自然といったものが人為を凌駕すると考えていたのではないでしょうか。

 実は『エチカ』における定理Propositioの配置のされ方というのは,それ自体で意味があるものだと僕も考えています。それこそ第二部定理九系が,第二部定理七の系Corollariumではなく,第二部定理九の系として配置されていることの中には,実際にはこの系が平行論的証明によって証明されるものではなく,僕にとっては迂回であるとしか思えないような因果論的証明によって証明されるべき系であるという意図をスピノザが有していたことの証であると僕は理解しているからです。ただ,この問題については後に詳しく考察することにします。
 僕が基本的に考える定理の配置の意図というのは,上野修がいっているようなある種の思考実験とは異なります。それはむしろ,スピノザがそうあるべきだと考えているような,思考の方法と大いに関係するのではないかと思えるのです。
 第一部公理四は,結果の認識が原因の認識に依存しなければならないことを示しています。したがって,先行する原因によって後発する結果を認識するというのが,思考のあるべき姿ということになります。つまりこれは演繹法です。そしてこの演繹法というのが,定理の配置に対して直接的に関係してくるように僕には思えるのです。というのは,演繹法を方法論として採用する以上は,少なくとも『エチカ』の内部において,ある定理というのは,それに先行する定理に対しては,結果であるということは可能であっても,原因であるということは不可能であるということを要請してくるように思えるからです。一般的にいえば,『エチカ』の中に定理Aと定理Bがあって,定理Aが先に証明されているならば,定理Aが定理Bの原因であることはあっても結果であることはないし,逆に定理Bは,定理Aの結果ではあり得ても定理Aの原因ではあり得ないということになります。よってこの仮定における定理Aと定理Bとの関係は,定理Aが定理Bを結果として導出するような原因であるか,そうでなければこれらふたつの定理の間には何の関係もないかのどちらかでなければならないということになります。
 僕は第二部定理一二仮定の話ではなく,実在的な意味が担保されていると考えているわけですが,その根拠に第二部定理一三を持ち出すことの妥当性は,当然ながら問われなければならないといえるでしょう。
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神奈川新聞社賞戸塚記念&定理の配置

2012-09-07 20:46:19 | 地方競馬
 2着争いかなと見立てていた第41回戸塚記念。レース直前にグラッツェーラが競走除外になり13頭。
                         
 全馬が枠入りした直後にゲートから飛び出してしまったショコラヴェリーヌが,入り直した後の発走も好発で逃げました。ディーオ,ダイヤモンドダンス,ソウブチャンスの3頭が並んで追い,その後ろもキタサンツバサ,アスカリーブル,ベルモントレーサーの3頭が併走。かなりゆったりとしたペース。
 2周目の向正面に入ってディーオとダイヤモンドダンスの2頭がショコラヴェリーヌに並び掛けていきましたが,ショコラヴェリーヌはそれを許さず,3コーナーを過ぎるとむしろ差を広げました。ここを外から捲ってきたのがアスカリーブルで,直線に入ってほどなく先頭に立つと,そのまま後続の追撃を凌いで優勝。アスカリーブルをマークするように追ってきたシラヤマヒメが最後は1馬身差まで詰め寄ったものの2着。3着は内と外が離れての接戦でしたが,外から2頭目を追い込んだドゥフトライネンが,最内を盛り返したディーオを差していました。
 優勝したアスカリーブルは前走の黒潮盃まで3連勝できていて,これで4連勝。南関東重賞は4勝目。牝馬限定とはいえ重賞の勝ち馬ですから牡馬相手も力量は上位。さらにその重賞を勝った舞台に変わり,斤量も減っていましたので,きわめて順当といえる勝利。普通に考えれば次はロジータ記念なのでしょうが,古馬相手の牝馬限定重賞に出走しても勝ち負けできる馬だと思います。父は1999年のセントライト記念を勝ったブラックタキシード。Libreはイタリア語で天秤座産まれ。
 騎乗した川崎の今野忠成騎手は黒潮盃以来の南関東重賞制覇。第36回以来となる戸塚記念2勝目。管理している船橋の川島正行調教師は第27回以来となる戸塚記念2勝目。

 すでに説明したように,僕は第二部定理一二は,第二部定理九系から直接的に帰結すると考えています。そこでもしも第二部定理一二でいわれている仮定の話の部分が実在的な意味であるとしたら,論理的には以下の手順を経なければなりません。
 まず,第二部定理九系により,ある観念の対象ideatumの中に起こることの観念ideaは,その対象の観念に変状した限りで神Deusのうちにあります。第二に,人間の精神mens humanaを構成する観念の対象というのはその人間の身体humanum corpusです。よってある人間の身体の中に起こることの観念は,その人間の精神に変状した限りでの神のうちにあることになります。さらにいうなら,第二部定理三二によりこの観念は真の観念idea veraですから,第二部定義四により十全な観念idea adaequataです。つまり人間の精神は自分の身体の中に起こることを十全に認識するcognoscereということが出てくるのです。
 ところが,『エチカ』の内部においては,実際にはこのような手続きは踏まれていません。上述の論理の第二の部分というのは,実際には第二部定理一三,すなわちこの第二部定理一二よりも後になって示されているからです。そしてこの定理Propositioの配置の意味が,現在の考察にとって非常に重要なのです。
 上野修は『スピノザの世界』の第三章で,『エチカ』の第一部の諸定理が,先行部分とどのような連関を有しているのかを図示しています。このことから上野が,『エチカ』の諸定理がどのように配置されているかということの意味を重視していることが推測できます。少なくとも僕のように,後続の定理から先行する定理について解釈するような立場と比較すれば,間違いなく定理の配置の意味を僕より重視していることは明らかだと思います。
                         
 上野はスピノザが『エチカ』をこのような公理系の下に著したことを,ひとつの実験といっています。スピノザの認識論は精神を自動機械automa spiritualeに譬えるシステマティックなものですが,与えられた真理veritasから,どのような別の真理が抽出されていくかということの実験であるというわけです。そして確かに上野がそこで示しているように,『エチカ』の中には,スピノザは最初は想定すらしていなかった定理が数多く含まれていることでしょう。
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