スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

加古川青流戦&第三部定義二まとめ③

2011-10-31 19:42:17 | 将棋
 午前中の対局で1勝1敗となったのを受け,一昨日の午後に指されることになった第1回加古川青流戦決勝三番勝負第三局。
 振駒で船江恒平四段の先手となり,宮本広志奨励会三段の一手損角換り2に進んだのですが,何とも不可思議な序盤戦でした。
                         
 後手が向飛車を明示したところ。▲6五角に△7四角と合わせ,▲同角△同歩に▲7五歩。取ると再び▲6五角とされて困るので△7ニ飛と戻りました。しかし手損して角を交換した上にここでまた手損をするのでは割に合わない気がします。この作戦はあまりうまくいかないということなのかもしれません。
 将棋は途中で後手の攻めが切れてしまい大差に。手数は長くなりましたが先手の快勝でした。
 プロの意地を見せた船江四段の優勝。加古川市の出身ということもあり,ただの公式戦初優勝以上の喜びがあったものと思います。第1回ですから,今後のこの棋戦の位置付けあるいは格付けがどうなるかも船江四段次第。今後の躍進に期待します。

 続いてマシュレと僕との間で一致を図ることができる点として,人間の精神の受動の場合を採り上げました。ここでも訴訟過程に差異はあるのですが,第二部定理二九備考からして,この差異は問題とはなりません。
 これでマシュレと僕との相違点が明確になりました。ひとつはそれが人間の精神による純粋な思惟作用であると考えられる場合に,混乱した観念がその人間の精神のうちに発生してしまうという場合であり,もうひとつはそれとは逆に,それが人間の精神による純粋な思惟作用であるといい難いのに,十全な観念がその人間の精神のうちに発生するという場合です。
 しかし,このうち第一の場合というのはスピノザの哲学では生じないということになっていますので,実際には相違はありません。このことはマシュレも首肯するところだと思います。したがって実際のマシュレと僕との相違の在処というのは,第二の場合にあるということになります。そして確かにこの場合は現実的に生じると考えられます。スピノザによる共通概念の獲得の説明というのは,まさにそうした仕方でなされているとしか考えられないのです。そしてこの場合には,マシュレと僕とがどんなに歩み寄ったとしても,最終的には埋まらないものと思われます。
 第二部定理三九証明からして,僕はこれを共通概念を獲得する人間の精神の純粋な思惟作用であるとはいえないということは認めます。しかし一方で,いかにこれがこの人間の精神のうちで自己完結しているとはいえないような思惟作用であったとしても,そこで示されていることは,共通概念がそれを獲得する人間の精神のうちだけで十全な観念であるということです。このことはマシュレも否定することはできない筈です。だからマシュレはこれを能動にも受動にも属さないような思惟作用と規定するでしょうが,僕はあくまでもこれをこの人間の精神の能動であると考えます。その理由のひとつは,もちろん共通概念が十全な観念であるという点にあるのですが,もうひとつは,スピノザの哲学の実践的な側面からして,何が能動であり何が受動ないしは反動であるかを,はっきりと確定させるべきであると考えるからです。
 このテーマはこれで終了。次回からは糖尿病共生記です。
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天皇賞&第三部定義二まとめ②

2011-10-30 18:45:41 | 中央競馬
 長い歴史の中でも最強レベルのメンバー構成で争われた第144回天皇賞
 逃げ馬が絶好の1番枠を引いたのですからシルポートの逃げは当然。ですが2番手以下を大きく引き離す形となり,その2番手にビッグウィーク。エイシンフラッシュ,アーネストリー,アクシオン,ローズキングダム,ミッキードリームまでが先行集団。ブエナビスタとダークシャドウ,トーセンジョーダン,トゥザグローリーが好位で,この後ろの中団とはまた少し差が開きました。前半の1000mは56秒5で,これは大逃げのシルポートのラップですが超ハイペース。
 直線は好位勢が一塊に上昇して馬群が密集する形。その中から抜け出したのがダークシャドウとトーセンジョーダン。外国人騎手に操られた2頭の競り合いはゴール間際まで続き,軍配は外のトーセンジョーダンに。ダークシャドウが半馬身差の2着。後方から大外を追い込んだペルーサがまた半馬身差の3着。1分56秒1という驚異的なレコードタイムでの決着でした。
 優勝したトーセンジョーダンは前走の札幌記念からの連勝で待望の大レース初制覇。デビュー当初から期待を集めた馬ですが,故障でクラシックは棒に振り,3歳秋に復帰。昨年の夏以降は復活を感じさせ,ここも優勝候補の1頭と考えていた馬。精鋭揃いですから古馬の頂点に立ったとは言い難いと思いますが,少なくともその一角にはっきりと食い込んだといえる勝利だと思います。父はジャングルポケット,祖母がクラフティワイフですから一昨年のこのレースを勝ったカンパニーの従弟になります。
 騎乗したイタリアのニコラ・ピンナ騎手はこれが日本での大レース初勝利。管理しているのは先週の菊花賞を制した池江泰寿調教師で,天皇賞は初勝利。

 続いては第二の課題となるマシュレとの争点の検証です。端的にいえば,僕が人間の精神のすべての思惟作用に関して,それを能動か受動のどちらかに分節できると考えているのに対して,マシュレは,あくまでも僕の理解するところによれば,能動にも受動にも属さないような思惟作用というものがあると考えているのです。
 実際の争点をより明確にするために,まずはマシュレと僕との間で一致を図れる点から検討に入りました。それが球の観念の発生に関する考察です。僕はこれを十全な観念であるがゆえに人間の精神の能動であると結論し,マシュレはこれをその人間の精神の純粋な思惟作用であるがゆえに僕と同様に人間の精神の能動であると結論するでしょう。すなわちこれが人間の精神の能動であるという点において,マシュレと僕とは一致するのです。
 しかし一致するとはいっても,その訴訟過程には差異があるので,マシュレの立場から僕の立場への反論というものが十分に考えられ,僕はそれに対して答えておかなければなりません。考えられる反論というのは,十全な観念が観念の対象ideatumの発生を含むということが,絶対条件であるといえるのか否かということです。
 これを検討するためには,まずスピノザ自身が事物の定義には定義される事物の本性と発生が含まれていなければならないという場合の,発生の意味というのを考えなくてはなりません。そしてそれは,定義される事物の最近原因だけであって十分であり,その最近原因の原因といった具合に,原因を遡及的に考える必要はないということです。
 この問題が解決したところで,スピノザが『知性改善論』において示している円の場合というのを題材に,事物の定義のうちに,定義された事物の発生が含まれていなければならない理由というのを考えました。いい換えれば,スピノザが事物の定義とはそうしたものでなければならないと主張することの正当性を問い直してみたのです。そして確かにそれが事物の定義の条件でなければならないということを確認しました。これにより,事物の定義が認識されたものがその定義された事物の十全な観念であるとして,十全な観念には観念されたものの発生が含まれていなければならないということが確認されたのです。
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加古川青流戦&第三部定義二まとめ①

2011-10-29 19:12:50 | 将棋
 戦いの舞台を棋戦のタイトルにもなっている加古川市へと移して争われた第1期加古川青流戦決勝三番勝負第二局。
 宮本広志奨励会三段の先手で▲7六歩△3四歩に▲7五歩。船江恒平四段はいきなり△8八角成として▲同銀に△5四歩と突き▲7七銀に△6五角と打っていきました。先手が▲5六角と合わせると△8七角成。
                          
 ここで▲7八金で馬の行き場がありませんが,もちろんうっかりなどではなく△5五歩。馬と角ですがこのまま交換すると先手が損でしょうから▲3四角。これで△5四馬と生還。以下,▲2三角成△2二銀までは実戦例があり,▲3四馬と引いたのが新手とのこと。△3三銀▲1六馬となりました。
                          
 この局面は馬の働きでは後手が優位。ただし先手の一歩得なので,ゆっくりした展開になれば先手が指せるような分かれになりそうです。△2二飛以下,後手の向飛車,先手の居飛車に進みましたが,落ち着いた将棋にはならず,難しい将棋ではありましたが,第2図の時点では少し先手の方が指しにくかったのではないかと感じました。
 難解な力将棋を船江四段が制して1勝1敗。第三局は午後に指されましたが,その将棋については明後日にでも。

 今回は第三部定義二をテーマに設定しました。考察の主題はふたつです。ひとつは,スピノザの哲学における能動ということ,そしてまた受動ということを僕がどのように考えているのかということ,そしてまたなぜそのように考えているのかという理由を明示することです。そしてもうひとつの主題は,マシュレと僕との間にあると考えられる,この能動と受動,とくに人間の精神の能動と受動についての考え方の相違を,どこまで埋めることができるのかを検討してみるということです。
 第一の点に関していえば,僕は存在論的にいうならば,あるものが十全な原因として何らかの結果を産出するという場合には,その結果に対して十全な原因となっているものの能動であると理解します。そしてこれを認識論的に記述するならば,もしもAの観念を有する限りで神のうちにXの観念があるならば,これをAのXに対する能動であると理解することになります。ところで,Aの観念を有する限りでの神というのは,スピノザの哲学においてはAの精神ということを意味しますので,この認識論的記述は同時に,Aの精神のうちにXの十全な観念があるということを意味していることになります。これらみっつの事柄は,各々を単独でみるならば,すべて異なることを記述しているということができると僕は認めますが,実際には能動という観点から,同じ事柄を別々の観点から述べているのだと考えます。
 受動はこれの逆です。すなわちあるものがその結果に対して部分的原因である場合,僕はその結果に対して部分的原因となるすべてのものの受動であると解します。認識論的にいうなら,Aとほかのものの観念を有する限りで神のうちにXの観念があるなら,これは受動一般の説明ではありませんが,Aの受動であると解することになります。そしてこのときは,Aの精神のうちにはXの混乱した観念があるということになります。これらみっつも,それぞれは別の事柄の記述であると考えることが可能ですが,受動という観点からみれば,同一の事柄を異なった側面から説明しているということになります。
 そして僕は,あらゆるもののあらゆる作用というのは,能動と受動のどちらかに分節することが可能であると考えます。
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加古川青流戦&考察の位置

2011-10-27 19:06:02 | 将棋
 四段と奨励会三段を中心とした新棋戦となる第1回加古川青流戦。船江恒平四段と宮本広志三段が決勝へと駒を進め,三番勝負の第一局が指されました。
 振駒で船江四段の先手。宮本三段は4手目△3三角戦法。角交換から後手の四間飛車でしたが,先手が早めの戦いを挑み,後手は中飛車に振り直して乱戦となりました。そして中盤,ド派手な手が連続しました。
                         
 ここで後手は△5七角と打ち込みました。先手はと金を作られるのは勘弁と▲3五歩と突いたのですが,このため△4五桂が発生。▲同歩に△3五角成と馬を作りました。歩成りが残っているので先手は▲5六飛。△4五馬は当然で,飛車は逃げられないので▲5七銀。玉頭方面が薄くなりましたから今度は△7七飛成と切っていき,▲同桂に△4七角。▲2六飛打というのも凄い受けですが△5六馬と馬の方で取り,▲同銀に△6九馬と切って▲同王に△8九飛。▲7九歩に△9九飛成と龍を作ってようやく局面が一時的に落ち着きました。
                         
 ここで先手は▲2八飛と受けの手を指しましたが,▲6五桂と攻め合いを目指す方がよかったよう。実戦もまだ難しかったのですが,後手の勝ちになっています。
 宮本三段が先勝。場所を加古川に移して第二局は明後日。船江四段が勝ちますと同日のうちに第三局も指されるという日程になっています。

 こうした実践という側面から,能動と受動の何たるかに関しては多大なる関心を寄せていたと思われるスピノザですが,一方で,ある思惟作用というのを単独でみた場合に,それがその思惟作用をなす知性の純粋な思惟作用であるのか否かということについては,もしもそのことが,その知性が十全な原因となっているのかそれとも部分的原因であるにすぎないのかを分かつという意味であるのならば,第三部定義二によりそれがそのままその知性の能動であるか受動であるかを分節することになりますから,同じような関心を寄せたと考えられます。しかし今回の考察のように,それを単純にその意味から離れて,その知性のうちで自己完結するような思惟作用であるのかそうでないのかという観点から問題にするのであれば,そのこと自体にはスピノザ自身はさほどの興味をそそられることはなかったかもしれないと僕は考えています。よって,今回の考察自体のスピノザの哲学の全体の中に占めるような位置というのは,非常に重要であると考えられるような部分と,それほどではない,あえていってしまうならスピノザの哲学の全体からしてみればほとんど問題とはならないような部分とが混在していたということになるでしょう。また,僕が精神の能動というのを,その精神の内部で自己完結するような思惟作用であるのか否かという点ではなく,むしろそれが十全な観念であるのか混乱した観念であるのかという観点から峻別する理由のひとつも,この部分に存在します。後者をその判断の基準とする方が,スピノザの哲学を正しく理解していると僕が考えているというのももちろんそうですが,そもそもその方が,スピノザの哲学の全体からみて,より意味のある分節の仕方であると考えるからです。
 ではなぜそれがある知性の純粋な思惟作用であるかそうでないかということにスピノザはさほどの関心を寄せなかったであろうと僕が考えるのかといえば,それは,スピノザが,知性がある事物を認識するということをどのような現象として考えていたのかということに関連します。しかしこれは能動と受動をテーマとした今回の考察からは大きく離れますので,改めてテーマとして据えて考察することにします。
 今回のテーマはここまで。次回から簡単なまとめに入ります。
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竜王戦&実践

2011-10-26 18:44:34 | 将棋
 無理攻めとも思える仕掛けで府知事選と市長選が同時に行われることになった大阪。第24期竜王戦七番勝負第二局はその大阪府吹田市での対局となりました。
 丸山忠久九段の先手での十八番は角換り。渡辺明竜王は戦型選択は相手任せのところがありますから,角換り相腰掛銀は予想されたところ。後手が早めに6筋の位を取り,先手が飛車を4筋に回ってその4筋から仕掛ける将棋になりました。封じ手の段階で先手は攻めるほかなく,後手はその攻めを受けきるか,それともどこかで攻め合いに転じるかですが,渡辺竜王はこういった二者択一では大概は後者を選択します。この将棋もそうなりました。
                         
 両取り逃げるべからずで先手は☗5三桂成。銀を取るのも有力かもしれませんが,☖8九飛成と桂馬の方を取って王手。☗7七玉☖8六龍までは必然で,☗6七玉と横に逃げました。そこで☖6五歩と叩き☗同銀引に☖5三金と成桂を取ることに成功。
                         
 ここでの第一感は☗7一角かと思いますが,☗3ニ銀と打ち込み,☖同金☗同歩成☖同王としてから☗7一角。☖5三金と逃げた手に☗6一角ともう1枚打っていきましたが,☖8九龍とした手が決め手でした。
                         
 銀をもらったので☖5八銀が発生しています。したがって第2図で単に☗7一角なら別の展開になっていました。それでも先手が苦しく,致し方なかったのかもしれませんが,第2図以降の後手の指し回しは見事というほかありません。
 渡辺竜王が連勝。第三局は来月8日と9日です。

 これでマシュレと僕との間にどれほどのがあり,なぜそれ以上は僕がマシュレに対して歩み寄ることができないのかということまで,十分に示すことができたと思います。よって今回の考察の主題の第二のものについても,これで完了したといっていいでしょう。そこで最後に,このマシュレと僕との間にあると考えられる相違についての考察というものが,スピノザの哲学の全体を俯瞰してみた場合に,どのような位置を占めるのかということを考えておくことにします。
 スピノザの哲学というのは,能動actioというものを力potentiaと等置してこれを全面的に肯定します。一方で受動passioないしは反動については無力impotentiaとみなされ,徹底的に否定されます。これはスピノザの哲学とニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの哲学の近似性を構成する要素のひとつです。ニーチェの哲学において反動的な力のひとつとして,ルサンチマンという概念が示されることは非常に有名ですが,これはことばとしてはそう表現されていないとしても,すでにスピノザの哲学の中に先取りされていたものであると僕は考えています。たとえば第五部定理一〇備考でスピノザが示している考察は,その現れであるといえるのではないでしょうか。
 したがってスピノザは,何が人間の精神mens humanaの能動でありまた人間の精神の受動であるのかということ,あるいはもっと一般的な意味で能動とはどんな事柄であり受動とはどんな事柄であるのかということを明らかにすることに関しては,ある意欲を有していたのだと思います。しかしその意欲の契機となっているのは,単なる哲学的探究心であったというよりは,むしろ政治学とか国家論,あるいは神学や宗教論の方にむしろ深い関係があったと思うのです。たとえば封建制や独裁制といった政治ないしは国家Imperiumの制度,あるいは迷信や妄信といった類の信心と,そうした信心を強要するような宗教的制度に対する批判的精神の表出が,能動の絶対的肯定と受動および反動の全面的否定とに結実したのではないかと思います。ドゥルーズGille Deleuzeは『実践の哲学Spinoza : philosophie pratique』という表題の著書を出版しましたが,そういう意味においては,スピノザの哲学というのは形而上学的な哲学であるよりも,実践的な哲学であるということになるのでしょう。
                          
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東日本大震災復興支援京王閣記念&リンク

2011-10-25 18:59:22 | 競輪
 ビッグがしばらくありませんから記念競輪が続きます。先週末からは京王閣記念で今日が決勝でした。並びは伏見に稲村,平原-後閑-朝倉の埼京,新田-勝瀬の南関東,浅井-村上の中部近畿。
 浅井の前受けで,3番手に平原,6番手に新田,8番手に伏見という周回だったようです。伏見が上昇して残り2周のホームで浅井を抑えて誘導の後ろに。これに続いた平原に新田ラインまで加わって上昇,バックで平原は一旦は3番手に入りましたが打鐘を待って発進。また新田がこのラインに続き,6番手に伏見,8番手に浅井で一列棒状。このままバックに入り浅井も発進しましたが先に新田の捲り。これに3コーナーから後閑が併せて出ると外の新田は苦しくなり,そのまま抜け出した後閑の優勝。マークの朝倉が2着に続き,3着は外を伸びた稲村。
 優勝した東京の後閑信一選手は昨年の京王閣記念以来の記念競輪20勝目。一昨年も優勝していて当地は3連覇。さらに2007年も優勝で,ここのところは地元ばかりで記念競輪を制覇しています。ここは4分戦でラインも長く,メンバー的に平原の先行が濃厚。浅井をうまく後方に置くような展開に持ち込むなど,ラインが一丸となっての優勝であったように思います。

 これに対して,第二部定理三九証明を吟味してみるならば,ここに示されていることが,人間の精神のうちで単純に自己完結しているといえないのではないかと思えます。というのは,この場合にはその人間の身体の全体および部分に含まれているものが,その同じものをやはり全体と部分とに含んでいるような外部の物体によって刺激されることで,この観念がその人間の精神のうちに発生するということになっているからです。逆にいうなら,これはこうした刺激を受けないのであれば,この人間の精神のうちにはそれの観念は発生しないという意味ですから,やはりその人間の精神のうちで自己完結しているとはいい難いのではないかと思えます。そして,もしもある観念が人間の精神のうちに発生する際に,それが自己完結しているのであれば,それはその人間の精神の純粋な思惟作用であるとみなし得るのですから,自己完結しているとは考えられないこの場合には,やはりそれはその精神の純粋な思惟作用であると結論することにも無理があるのではないかと僕は思います。よって,おそらくマシュレは人間の精神による共通概念の獲得というのを,その人間の精神による純粋な思惟作用であるとはみなしていないのですが,その点には僕も同意することができるのです。
 この,人間の精神による共通概念の獲得が,その人間の精神の純粋な思惟作用ではないということに関して,『エチカ』にその手掛かりを求めようとすれば,第五部定理七の証明でスピノザが示していることをあげることができるのではないかと思います。この定理自体は現在の考察とはまったく関係がありませんから省略しますが,ここでスピノザは,明らかに第二部定理一七の人間の精神による事物の表象と,第二部定理三八の共通概念の獲得とをリンクするような仕方の説明をしているとしか僕には考えられません。人間の精神が外部の物体を表象するとき,とりわけ表象の種類として知覚するときには,外部の物体の現在が前提されていて,これは自己完結していませんし,純粋な思惟作用でもありません。そしてそれとリンクするような形で共通概念の獲得を説明しているのは,やはりスピノザ自身も,人間の精神による共通概念の獲得は,ここでいうその人間の純粋な思惟作用とは認めていなかったからではないかと思います。
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新人王戦&自己完結

2011-10-24 19:06:27 | 将棋
 互いに敵地で勝利し1勝1敗となった第42回新人王戦決勝三番勝負第三局。
 振駒で豊島将之六段の先手。佐藤天彦六段が横歩取りに誘導したのを拒絶し,相掛り先手浮き飛車後手引き飛車に。先手の縦歩取りに対して後手の方から動き,うまく主導権を握る将棋になりました。
                         
 ここで△7七角成と後手の方から角交換。一見すると▲同桂が銀当たりですから損に思えるのですが△7六銀とぶつけて▲同銀△同歩で銀も交換した手が桂当たり。▲同飛は仕方ないですがそこで△7五歩と叩きました。
                         
 ここは強く▲同飛と取ってしまう手もあったのではないかと思うのですが,▲2六飛。これには△9六歩の端攻めが絶好の狙いで▲同歩△9八歩▲同香に△5四角。受けのない先手は▲2二歩△同銀としてから▲7一歩成ですが△7六歩と突き出して後手の優勢がはっきりしました。
                         
 それにしても第1図から第3図へと至る後手の流れるような手順は見事としかいいようがありません。第3図以下,先手はほとんど粘ることができず,後手の快勝となりました。
 2勝1敗で佐藤天彦六段が今年度の新人王に。第39回に続いて2度目です。

 この齟齬解消の可能性の第三の場合というのが,そっくりそのまま現状の考察のヒントになります。
 第二部定理九系で示されている観念の対象の中に起こることというのを,この対象の中で自己完結的に生じることであると仮定してみます。そこで示されているのは,その起こることの観念が,その対象の観念を有する限りで神のうちにあるということです。そしてこれはいい換えれば,その起こることの観念が,その対象の精神mensのうちに十全な観念として発生するということです。第二部定理七から理解できるように,この場合,その起こることと起こることの観念は,同一個体であるということになります。そして最初の仮定では,この起こることというのが,対象の内部で自己完結するということになっていますから,平行論の帰結として,その対象の精神のうちで,起こることの観念も自己完結的に生じているということになるでしょう。実際にこうしたことが生じるということは,スピノザは第二部定義七において,多数の個物によって構成されるひとつの個物res singularesがあるということを認めていますので,明らかであるといえるでしょう。とくに現状の考察では人間の精神による能動actioと受動passioを探求しているわけで,第二部定理一三により,人間の精神を構成する観念idea, humanam Mentem constitutensの対象というのはその人間の身体です。よって岩波文庫版117ページの第二部自然学②要請一から,なおのことこうしたことが現実的に発生するといえます。
 そこでこのことを,人間の身体corpusの方を考慮に入れず人間の精神だけを対象として考えるなら,別のいい方をすれば,延長の属性Extensionis attributumの下での説明というのを排除して思惟の属性Cogitationis attributumの下における説明だけに注目すれば,これがまさに僕が理解するマシュレがいっているところの人間の精神の純粋な思惟作用であるということになるでしょう。というよりも,一般的に考えて,人間の精神の純粋な思惟作用の実例として,それに該当するような代表的なものが,こうした思惟作用であるということになるのではないかと僕には思えます。そしてこうして発生するのが十全な観念ですから,僕もこれをおそらくマシュレもそう結論するのと同様に,人間の精神の能動であると結論します。
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菊花賞&解消の可能性

2011-10-23 19:16:50 | 中央競馬
 日本競馬史上7頭目の三冠馬が誕生となるか否か。第72回菊花賞
 まず先頭に立ったのはサンビーム。しかし折り合いがつかない馬がいて,1周目の正面ではそのうちの1頭,フレールジャックが先頭に。ロッカヴェラーノが2番手となりましたが,向正面に入ると今度はこちらが先頭となりました。最初の1000mが60秒9で,これはミドルペースでしょうから,明らかに引っ掛かっていたわけですが,暴走というほどではなかったことになります。注目のオルフェーヴルはほぼ真中の位置取り。
 今の京都のコースは明らかに内側が有利だったように思いますが,オルフェーヴルは構わずに外を進出。直線の入口あたりで早くも先頭。さすがに早いのではないかと思ったのですが,そこは力の違い。あっさりと抜け出すと後続を寄せつけずに楽勝。三冠達成となりました。前半は最後尾から馬群を捌いて追い込んだウインバリアシオンが2着,勝ち馬マークのレースをしたトーセンラーが3着と,現時点での能力通りと思われる堅い決着になりました。
 優勝したオルフェーヴルダービー以来の大レース3勝目。三冠を獲るような馬はそれまでにどんなに負けていても,皐月賞の時点では人気になっているのが普通で,そういう意味ではかなり異例。レース振りからすれば現3歳世代では抜けて強く,今日はレース後に騎手を振り落としていましたが,これも苦しがっているのではなく,余裕があるからできることなのではないでしょうか。今年の3歳馬は全体レベルは高くはないと思っていますが,この馬は古馬相手にも堂々と勝負になるだろうと思います。父はステイゴールド,母の父はメジロマックイーン,兄は2006年JRA賞最優秀2歳牡馬,2009年JRA賞最優秀4歳以上牡馬のドリームジャーニー,曾祖母はグランマスティーヴンス。Orfevreはフランス語で金銀のかざり職人。
 騎乗した池添謙一騎手はスプリンターズステークスに続きこの秋の大レース2勝目。菊花賞は初勝利。管理している池江泰寿調教師はダービー以来の大レース制覇で菊花賞は初勝利。

 実際のところこの齟齬というのは,直ちに現在の考察そのものに影響を与えるというものではありません。したがって,もしもこの齟齬が解消不能のものではないということを示すことさえできるならば,その方法がどのようなものであるのかということについては結論が得られなくても当面は問題とはならないのです。そしてこの齟齬は,確かに解消が可能なものであると僕は思いますので,以下にその方法をみっつほど挙げておきます。
 第一に,そもそも観念の対象ideatumの中に起こることというのは,ある現象であって,Aに特有の要素としてXがあるということは現象そのものではありません。したがって前者への言及である第二部定理九系と後者への言及である共通概念の発生の証明は,各々が別の事柄を説明しているので,齟齬が生じていたとしても構わないとする考え方です。これは別の観点からいえば,そもそも齟齬などは生じていないという形でこの問題を解消しているといえるかと思います。
 第二に,スピノザの哲学では,ある知性のうちに観念があるということと,その知性がその観念を意識するということは,別の事柄です。すなわち前者が観念であるのに対していえば,後者は観念の観念であるのです。この齟齬は,観念と観念の観念を混同するから生じていると考えれば,解消できることになるでしょう。とくに共通概念をある観念と考えた場合,ある人間の精神のうちに何らかの共通概念があるということと,その共通概念をその人間が意識するということは別の事柄だということになるからです。
 第三に,観念の対象ideatumの中に何かが起こるとすれば,たとえばその対象が物体ならば,ある運動が起きているということになります。そこでこの運動に平行してそのことが十全に認識されるというように第二部定理九系を理解すれば,これは共通概念の認識との相違は,こうしたある運動というのが身体の内部でのみ生じているのか,それとも外部の物体による刺激を通して生じているのかという点のみにあることになります。この場合には齟齬は完全に解消されているといえるでしょう。
 こうした方法のいずれかを用いれば,この齟齬は必ず解消することが可能だと僕は考えます。そして今はこれで十分でしょう。
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リコー杯女流王座戦&齟齬

2011-10-22 18:51:40 | 将棋
 新設された第1期女流王座戦決勝五番勝負第一局。3勝した方が初代女流王座を射止めることになります。オープンということで清水市代女流六段に加藤桃子奨励会1級という興味深い対戦。公式戦初対局。
 振駒により清水六段の先手。奨励会1級の対局の記録を奨励会三段が録るというのは考えてみれば変な話かもしれません。相掛りで先手が浮飛車,後手が引き飛車の形。中住まいの先手から速攻。角交換となり,先手がその角を打った代償に金銀交換。激しい戦いですが前例はあり,この後,第1図で先手が前例から離れました。
                         
 ここから後手が☖7六歩と突き出したのに対して先手も☗3四歩。☖7七歩成☗3三歩成☖7八と☗4二と☖同金☗2二角成☖7九と☗2一馬と駒を取り合っての猛烈な攻め合いに。そこでようやく後手が☖3ニ歩(第2図)と受けました。
                         
 ここで先手も☗8六歩と受けたのですが,この手が緩手で,あとは後手が攻め合って勝ちとなりました。第2図では先手も攻め合うほかなかったですし,それで悪いならばそれ以前の攻め合いにすでに問題があったということになりそうです。
 加藤1級が先勝。第二局は来月3日です。

 ここまで検討してきますと,第二部定理三九証明と,第二部定理九系との間に,何らかの齟齬があるのではないかと感じられるようになるのではないかと思います。確かに第二部定理九系で示されている事柄と,第二部定理三九,この場合には第二部定理三八を含めてもいいですが,これらの定理Propositioで証明されている事柄は,異なった事柄ではあります。しかし構造的にはあたかも同一であるように思えるのに,それが異なったあり方で示されているように思われるからです。
 第二部定理九系というのは,観念の対象ideatumの中に起こることは,その観念ideaを有する限りで神Deusのうちにあるとされています。何度かいっているように,僕はこのことが第二部定理九から帰結するとは考えませんが,第二部定理七を実在的に考えれば,確かにそうでなければなりません。したがって,XがAのうちに起こるなら,Xの観念はAの観念を有する限りで神のうちにあります。そこでAを人間と考えるなら,ただこれだけのことで,Xの観念はAの精神mensのうちで十全adaequatumであるということになります。第二部定理一二は,それをどう理解するのかという問題は今でも残っていますが,少なくともこうして証明されているのですから,スピノザがそう考えているということは間違いないところです。
 一方,XがAという人間に特有の要素であるなら,同じようにXの観念はAの観念を有する限りで神のうちにあります。よってここでもAを人間と考えるなら,Aの精神のうちにXの十全な観念があることになります。このことは確かに第二部定理三八でも第二部定理三九でも,結果的には証明されているのですから,そのこと自体は問題にはなりません。ところが,第二部定理九系の場合,ただ単にAの精神のうちでXの観念は十全であると示されているのに対し,共通概念notiones communesの場合には,同じXという要素をもつほかの物体corpusにAの身体corpusが刺激されることによってはじめてAの精神のうちにXの十全な観念idea adaequataが発生するというように証明されているのです。逆にいえば,この刺激がなければXは共通概念としてAの精神のうちに発生しないということになり,これは第二部定理九系の説明と明らかに異なっているといえるのではないかと思うのです。
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フォルカー&特有

2011-10-21 19:18:18 | 血統
 スプリンターズステークスを制して現在の日本のスプリント路線のトップに立ったカレンチャン。彼女の輸入基礎繁殖牝馬は1948年アメリカ産のフォルカーです。ファミリーナンバーは日本で多数の系統から活躍馬が出ている13-c
                         
 1952年にアメリカで初仔を産んだ後,社台によって輸入。枝葉はものすごく広がりましたが,その大部分を占めているのがカレンチャンも属するブラックターキン,競走名ミスヤマトの分枝。その娘,シャダイターキンは1969年のオークスを勝っていますが,これは僕の競馬キャリアより前,というより生年月日からも分かるように産まれる前の話。このシャダイターキンの孫になるのが,レッツゴーによって僕にとっては特別の印象があるレッツゴーターキンで,1992年の秋の天皇賞を制しました。
 カレンチャンはこの一族からは3頭目の大レースの優勝馬。4代母がシャダイターキンの妹ですから,レッツゴーターキンとはもはや近親とはいえないような間柄。大レースではなく重賞の勝ち馬ということに限ればかなり多く出ていて,僕の競馬キャリアの中だけでも,レッツゴーターキンとカレンチャンを含めて9頭。カレンチャンにとって最も近いのは当然ながら兄であるスプリングソングということになりますが,この兄妹の叔父には,一昨々年の皐月賞で2着,一昨年にはダービー卿チャレンジトロフィーを勝ったタケミカヅチがいます。

 第二部定理三八ではなく,第二部定理三九証明の方を検討したのは,たぶんこちらの場合の方が,人間の精神による共通概念の獲得が,その人間の精神による純粋な思惟作用とはいい難い一面があることを示すためには便利であろうと思うからです。ですから実際にはここから述べていくことは,第二部定理三八の仕方で人間の精神が共通概念を獲得するという場合にも妥当します。
 この仮定では,Xというものが,AとBにのみ特有であるとしています。これは逆にいえば,XというのはAとBの本性のうちには特質として含まれているけれども,その他のもの,といってもこれは物体に限る必要があるでしょうが,ほかの物体の本性のうちには特質としては含まれていないということを意味しています。一方,第二部定理七系からして,Xの観念は神の無限知性のうちに含まれていますし,その意味からしてそれは十全な観念として含まれています。ただしそれは神が無限である限りにおいて神の無限知性のうちに含まれているというよりは,神がAの観念を有する限りにおいて,またはBの観念を有する限りにおいて含まれているのだといわれなければなりません。このことは,示されていることの意味合いは異なっているにしても,第二部定理九系からもそうでなくてはならないということになるだろうと思います。
 一方,第二部定理一三によれば,ある人間の身体の観念とはその人間の精神にほかなりません。したがって,Aの観念を有する限りで神のうちにXの観念があるということは,Aの精神のうちにXの観念がある,それも十全な観念があるということと同じです。ここではBについては単に物体と仮定し,人間の身体と仮定しているわけではありませんが,スピノザの哲学における精神というものがどういう意味を有するのかということに注意した上で,Bの精神のうちにもXの十全な観念があるということは,同じ論法で証明することができます。ただしここではその精神とは何かということの説明を繰り返す必要性は皆無ですから,納得がいかなければ,Bもまた人間であると考えて構いません。
 このように,Xの十全な観念が共通概念としてAの精神のうちにあるということは確実です。問題となるのはその発生の仕方です。
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埼玉新聞杯埼玉栄冠賞&第二部定理三九証明

2011-10-19 19:14:23 | 地方競馬
 個人的には三強の争いで,伏兵がどこまで食い込めるかというレースではないかと考えていた第21回埼玉栄冠賞
 好発を決めたのはカキツバタロイヤル。これを内から制してケイアイライジンの逃げ。タカオセンチュリーが2番手につけ,カキツバタロイヤルは3番手に控えて1周目の正面。ここでケイアイライジンがリードを広げると,外からエースオブタッチが追い上げて2番手に上がりました。多少の出入りがあったわけですが,ペースはそれほど早くはならず。
 前半は最後尾付近に構えていたボランタスは例のごとく2周目の向正面で発進。3コーナーでは早くも先頭に並ぼうかの勢い。カキツバタロイヤルは対応しましたが,タカオセンチュリーは対処できずにあえなく後退。ケイアイライジン,カキツバタロイヤル,ボランタスの3頭が雁行で直線。追ってきたキスミープリンスが4番手も,やや差があって前3頭の争いに。脱落したのがケイアイライジン。あとの2頭がゴールまで競り合いましたが,先に前に出ていたボランタスが優勝でカキツバタロイヤルが2着。ケイアイライジンは健闘といっていい3着。
 優勝したボランタスは正月のオールスターカップ以来となる南関東重賞3勝目。ここは力量上位で三強の一角。安定して走れない面は相変わらずあるのですが,今日は力を十全に出し切れました。浦和コースはどうやら走りやすいようです。Voluntasは『エチカ』にも現れるラテン語で,岩波文庫版の訳語は意志。
 騎乗した川崎の山崎誠士騎手はオールスターカップ以来の南関東重賞制覇。埼玉栄冠賞は初勝利。父である川崎の山崎尋美調教師は南関東重賞5勝目。埼玉栄冠賞は初勝利。

 それでは第二部定理三九のスピノザによる証明の詳しい検証に移ることにします。ここでも,Aという人間が現実的に存在し,Bという物体がこのAという人間の身体を刺激するという場合を考えます。人間Aが物体Bによって刺激をされるということが現実的に考えられる現象であるということについてはもう説明は不要でしょう。
 ここでは,AとBのうちにのみ特有に存在しているXというものを仮定してみます。スピノザは第二部定理三八でも第二部定理三九でも,このXに該当するものが,AとBの全体にも部分にも等しく含まれていることを仮定として示しています。これはおそらく第二部定義七とまずは関連していて,スピノザは複数の個物によって構成されている個物というのを想定しているので,このようにいう必要があったものと思います。とくに人間について示そうとするなら,岩波文庫版117ページの第二部自然学②要請一からも,絶対的に必要であったと考えられますし,とくに第二部定理三九の場合は,僕の考えではたぶんスピノザは人間がほかの人間と出会うことによって関係し合う場合というのを現実的な事柄として考慮に入れていたのではないかと思うので,なおこのことを強調する必要があったということはいえるのではないかと思います。ただし,現在の考察との関連では,このことにこだわる必要はありませんので,単にXがAとBとに特有のもの,いわば各々の本性から帰結するような特質として備わっているとのみ仮定します。
 そこでこの場合にBのうちに存在するXによってAが刺激されるなら,第二部定理一六によって,Aの精神のうちにはXの観念が発生することになります。しかるにXというのは,AとBには特有であって,各々の本性から帰結するような特質と仮定されていますから,このXの観念は,Aの観念を有する限りで神のうちにあるでしょうし,Bの観念を有する限りで神のうちにあるでしょうが,ほかのものの観念を有する限りでは神のうちにはないでしょう。このとき,Aの観念を有する限りでの神とは,Aの精神です。いい換えれば,Aの精神の本性を構成する限りで神のうちにはXの観念があるということになりますので,Aの精神のうちにはXの十全な観念があるということになります。
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東日本大震災被災地支援千葉記念&第二部定理一六

2011-10-18 19:13:12 | 競輪
 もう年末の競輪グランプリが視野に入る時期となり,賞金争いという観点からは記念競輪も重要になってきます。今日は千葉記念の決勝でした。並びは佐藤友和-成田-佐藤慎太郎の北日本,矢野-神山-兵藤の関東,海老根には大塚で柴崎は単騎。
 前受けとなった海老根ラインを柴崎が追走。これを矢野が残り2周のホームで叩いて打鐘。矢野ラインに続いた佐藤が発進し,ホームで矢野を叩いて先行。神山が矢野を捨てて4番手にスイッチ。その神山が3コーナー手前から発進。佐藤のスピードが衰えていた影響もあり,成田の牽制を凌ぐとそのまま捲りきって優勝。マークの兵藤が2着。中を割るように伸びた大塚が3着。
 優勝した栃木の神山拓弥選手は2009年のヤンググランプリの覇者で,記念競輪は初優勝。ここまで少し時間が掛かってしまったかなという印象。自力型ですが器用な立ち回りもできる選手で,今日もすかさずスイッチしたあたりはその長所が生きました。ビッグで優勝を争うだけの力は現時点ではないかもしれませんが,24歳という若い選手ですから,まだまだこれからでしょう。

 マシュレと僕との間のが判明したということは,逆に考えれば,マシュレと僕とが歩み寄ることができる最終地点というのが明らかになったということでもあります。そこで,まずはその地点まで歩を進めてみるということにしましょう。すでにいったように,僕は足を運ぶことができるのは,人間の精神mens humanaによる共通概念notiones communesの獲得は,その人間の精神の純粋な思惟作用であるとは認めがたい部分があるという地点までです。
 僕がなぜこの点ではマシュレの主張を受け入れるのかといいますと,人間の精神による共通概念の獲得を示したふたつの定理,第二部定理三八および第二部定理三九の,証明Demonstratioのされ方にあります。ここでは後者の第二部定理三九の証明を詳しく検討してみることにしますが,そのための準備として,第二部定理一六というのを考えておくことにします。
 「人間身体が外部の物体から刺激されるおのおのの様式の観念は,人間身体の本性と同時に,外部の物体の本性を含まなければならぬ」。
 この定理Propositioは証明することはそうも難しくありません。注意するべき点はふたつで,ひとつは岩波文庫版『エチカ』の113ページ冒頭の第二部自然学②公理一で,もうひとつは第一部公理四です。これらによれば,まず人間の身体corpusが外部の物体corpusから刺激される様式というのは,単に人間の身体の本性から発するのでもなく,また外部の物体の本性のみから生じるのでもありません。むしろこの様式は,人間の身体の本性と外部の物体の本性から同時に発生するような様式です。そこでこの様式の観念ideaは,それら両者,すなわち人間の身体の本性と外部の物体の本性との双方を含んでいなければなりません。
 たとえばAという人間が現実的に存在するならば,岩波文庫版117ページの第二部自然学②要請三により,この人間は外部の物体から何らかの刺激を受けるでしょう。そこでこの物体をBと仮定します。するとこの第二部定理一六からの帰結として,Aの身体がBによって刺激を受ける様式の観念は,Aの本性を含むと同時にBの本性も含んでいるということになります。なお,事物の本性がその事物の存在を定立するものであるということに注意を向ければ,このことは第二部定理一七および第二部定理一九の証明にも用いることが可能です。
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秋華賞&溝

2011-10-16 18:54:31 | 中央競馬
 旧勢力と新勢力が入り乱れての戦いとなった第16回秋華賞
 先手を奪ったのはメモリアルイヤー。この馬が2番手以下を大きく引き離していくレース。アヴェンチュラとゼフィランサスが追い,ピュアブリーゼ,カルマート,キョウワジャンヌ,リトルダーリン,ホエールキャプチャといったところが好位を形成。前半の1000mは58秒3でこれはハイペースですが,1頭が離してのものですから,実質的にはミドルペースだったと考えてよいかと思います。
 メモリアルイヤーは直線に入るところでもかなりのリードがありましたがすでに一杯。自然とアヴェンチュラが先頭に立つと,追ってきたのはキョウワジャンヌのみ。最後は少し詰め寄る形とはなりましたが,それ以前に引き離していたアヴェンチュラがまずは快勝の形。キョウワジャンヌが2着で,枠順の関係もあり外を回ることになった人気のホエールキャプチャは3着が精一杯。
 優勝したアヴェンチュラは今年の前半は棒に振り,夏に復帰すると準オープンとクイーンステークスを古馬相手に連勝。高い能力があることは分かっていた馬で,レーヴディソールは別格という気もしているのですが,現3歳牝馬では少なくともそれに次ぐ力があると考えてよさそうです。父はジャングルポケットで全兄に重賞3勝のフサイチホウオー,全姉に2007年のJRA賞最優秀2歳牝馬のトールポピー。Aventuraはイタリア語で冒険。おそらくアバンチュールのことでしょう。
 騎乗した岩田康誠[やすなり]騎手は昨年のマイルチャンピオンシップ以来となる大レース制覇で2008年以来の秋華賞2勝目。管理している角居勝彦調教師はドバイワールドカップ以来の大レース制覇,国内だと昨年の有馬記念以来の大レース制覇で秋華賞は初勝利。
                         

 人間の精神による共通概念の獲得の仕方を詳しく分析する前に,マシュレと僕との間にある相違の在処が明らかになりましたので,この相違を前提に,どこまでは双方が歩み寄ることが可能であるのかということを検討しておきます。
 まず,人間の精神のあらゆる思惟作用に関して,それを能動と受動のどちらかに分節できるということに関しては僕は譲ることができません。ですからこの点についてはマシュレの方から歩み寄るのでなければ,溝は埋めることができません。
 しかしもしもマシュレがこのことに同意して,人間の精神によるあらゆる思惟作用についてそれを能動と受動のどちらかに分節するとしても,おそらくマシュレの立場からは,人間の精神による共通概念の獲得は,この場合には受動とみなされることになると僕は考えます。一方で僕はこれが人間の精神による能動であるということについても譲るつもりは毛頭ありませんので,結局のところ埋められない溝があるということについては変わるところはないと思います。
 この場合にマシュレがそれを人間精神の受動とみなすであろうと僕が考える判断基準は,マシュレが第一部定義四を分析する際,冒頭でスピノザがこの定義において知覚ということばを用いていること,そしてこれをマシュレがスピノザの哲学における知覚と概念の相違という観点を踏まえた上での知覚と解釈している点にあります。マシュレが後にこれをあたかも撤回するように,人間の精神による属性の認識,あるいは属性の知覚は,受動でも能動でもないと主張するのは,おそらくこの知覚が十全な観念であるからだろうと僕は思っています。すなわち,マシュレが解するような意味で第一部定義四の知覚ということばを考えるなら,これは受動であるとしかいいようがありません。しかし属性の知覚が十全な認識であるということはマシュレも認めますから,これらを合わせれば第三部定理一には明らかに反してしまうように思われます。この困難を解消するために,能動でも受動でもないような思惟作用というのが導入されているのではないかというのが,第一部定義四に関するマシュレの分析についての僕の分析なのです。
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東日本大震災被災地支援共同通信社杯秋本番&共通概念の獲得

2011-10-15 19:07:51 | 競輪
 番組の改正により今年で最後となる共同通信社杯秋本番は松阪競輪場を舞台に争われ,決勝は体育の日でした。並びは武田-飯嶋-岡田の関東,深谷-浅井の中部,友定には現在は岡山でも練習している岡部,松岡-小野の九州。
 外から被せるようにして飯嶋が誘導の後ろに入り武田の前受け。4番手には友定が入り6番手に松岡,8番手から深谷で周回。残り2周から深谷が上昇。バックで武田を抑えにかかりましたが打鐘から武田が突っ張り先行争い。これがバックまで続きましたがずっと外を回った深谷が一杯に。ここで浅井が並んでいた飯嶋と深谷の間を割るように自力発進。これに続いたのが松岡で,直線は松岡の後ろから踏み込んだ小野が浅井を捕えて優勝。浅井が2着で3着に松岡。
 優勝した大分の小野俊之選手は2008年4月の高知記念以来となる久々のグレード制覇で,ビッグは2004年の競輪グランプリ以来となる3勝目。このシリーズは調子の良さを感じてはいましたが,記念競輪でも優勝から遠ざかり,ビッグも2年半以上決勝にも進出できていませんでしたので,正直なところ優勝には驚きました。脚力的には中部勢が圧倒的に優位でしたが,関東勢が頑張って,展開に助けられたのは確か。年齢的にはまだ戦える筈ですから,復活ということもあるいはあるのかもしれません。

 まず最初に僕自身の考え方を改めて説明しておきましょう。
 僕は人間の精神によるあらゆる思惟作用に関して,それを能動と受動のどちらかに分節することが可能であると考えます。一方,第二部定理三八第二部定理三九も,とくに人間の精神と言及がなされているわけではありませんが,これがある思惟作用についての言及であるという点には異論は生じないところだと思います。
 よって僕はこの思惟作用もまた能動と受動のどちらかに分節することができると考えるわけですが,ではどちらに分節するのかと問われるなら,迷わずにこれは人間の精神の能動であると答えます。そしてそのように考える理由はただひとつです。第二部定理三八も第二部定理三九も,こうして発生する観念は妥当である,つまり十全な観念であると示していますが,僕は人間の精神のうちに何らかの十全な観念が発生するのなら,これはこの人間の精神の能動であると考えるからです。このことは今回の考察の主題のうち,第一のものの中で詳しく説明してきたことですからここでは繰り返しませんが,これを『エチカ』に訴えるのであれば,第三部定理三を援用するのが最適であろうと考えます。
 ただし,これは僕がそれを精神の能動であるとみなすときの根拠です。いい換えれば僕は,それを人間の精神の能動であるか受動であるかを判断する際には,それがその人間の純粋な思惟作用であるか否かということについては眼中に置きません。そこでもしもマシュレが,それが人間の精神による能動か受動かを峻別する根拠としてではなく,単にこれらふたつの定理における人間の精神による共通概念の獲得はその人間の精神による純粋な思惟作用とはみなし得ないと主張するのであれば,僕はそのことに関しては肯定することができます。というか肯定します。僕が否定するのは,このことをもってマシュレがそのゆえにこれは人間の精神による能動ではない,受動であるか,能動でも受動でもないような思惟作用であると主張する点だけです。実際に後で詳しく分析することになるでしょうが,この認識作用というのは,確かに人間の精神の純粋な思惟作用であるとはいい難い一面があると僕も考えるからです。
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竜王戦&相違の在処

2011-10-14 18:41:45 | 将棋
 いよいよ開幕した第24期竜王戦七番勝負第一局。対戦成績は5勝5敗の五分。
 振駒で先手は渡辺明竜王。丸山忠久九段の一手損角換り1-Ⅱ。先手が棒銀から5筋の位を取る将棋に。
                         
 ここで後手は△6五歩と6筋の位を取ったのですが,これに先手が反応。▲4六歩△同銀としてから開いた空間に▲6四角と打ちました。結果的にこの角が金銀との二枚換えになり,先手の駒得に。封じ手の局面でおそらく差がついていて,ここから攻め合うのも有力だったみたいですが,駒得ですから実戦のように受けに回るのは自然ですし,確実だったと思います。後手の攻めを切らせた先手の勝ちとなりました。
 渡辺竜王が先勝。なんだか気持ち悪くなるような快勝ですが,気を緩めてしまうということもないでしょう。第二局は25日と26日です。

 これでマシュレと僕との間にあると考えられる相違点のうち,第一の場合がスピノザの哲学においては現実的には発生しないということを十分に明らかにすることができたと思います。もしもそれが現実的には発生しないのであるとすれば,それに関する相違などは初めからないということになるでしょう。実際に,ある人間の精神の純粋な思惟作用によって,その人間の精神のうちに混乱した観念が発生するということはないということは,マシュレも同意すると思われますから,ここの部分では本当はマシュレと僕との間にも何の相違もないと考えてよいでしょう。
 したがって,問題となってくるのは第二の場合です。すなわち,それがその人間の純粋な思惟作用であるとは考えられない,あるいは少なくとも純粋な思惟作用であるとはいい難いような一面を含んでいる場合に,その人間の精神のうちに十全な観念が発生してくるという場合です。そして僕は,こうしたことは第一の場合とは異なり,確かに現実的に存在するのだと考えています。そしてその部分にこそ,マシュレと僕との間の本当の相違点があると思うのです。
 このときに僕が想定している人間の精神の思惟作用こそ,第二部定理三八第二部定理三九で示されている,人間の精神による共通概念の獲得,あるいは人間の精神のうちにおける共通概念の発生なのです。僕は前回のテーマの考察の中で,人間の精神による神の属性の認識,この場合は第二部公理五によりあくまでも延長の属性および思惟の属性の認識ですが,それを共通概念による認識という観点から仮説を立てて説明しました。そしてマシュレは,人間の精神による属性の認識について,これを人間の精神の能動でも受動でもないような認識という観点から説明しています。このことから考えてみても,人間の精神が共通概念,この場合には実際にこのことについて考察する契機となった,属性の共通概念に特定せず,もっと一般的にすべての共通概念といっていいと僕は思っていますが,その共通概念の獲得のあり方をどのように考えるのか,あるいはどういった観点からみるのかという部分に,大きな隔たりがあるとみてよいのではないかと思います。
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