スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

スピノザの生涯と精神&特質

2013-06-30 18:51:20 | 哲学
 『人と思想 スピノザ』と『スピノザ入門Spinoza et le spinozisme』は,スピノザの人生と思想がセットとなっている入門書でした。ただ,スピノザの人生の方を知るために欠かせない本といえば,まずは『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』になるのではないかと思います。
                          
 学樹書院から出版されているこの本は,一冊の本の訳書ではありません。ただしその大部分はドイツのスピノザ研究家のフロイデンタールJacob Freudenthalが編纂したもので,これは1899年にまとめたもの。これに,スピノザの死後すぐに発行された遺稿集Opera PosthumaのイエレスJarig Jellesの序文が付され,また,フロイデンタールの本に含まれていないものとして,ファン・ローンJoanis van Loonの『レンブラントの生涯と時代』より,スピノザが登場する部分の抜粋が収録されています。
 本のタイトルになっている『スピノザの生涯と精神』は,収録されているリュカスJean Maximilien Lucasによるもの。イエレスとリュカスは基本的に親スピノザの立場から書いているといえます。また,収録されているもので最も長いものは,コレルスJohannes Colerusの『スピノザの生涯Levens-beschrijving van Benedictus de Spinoza』で,こちらは反スピノザの立場から書かれたスピノザの伝記といえます。リュカスおよびコレルスによる伝記がこの本の大半。コレルスは反スピノザの立場といいましたが,これはあくまでも思想という意味においてです。一般的にこの時代,無神論者というのはほぼ野蛮人というような意味と同義でした。スピノザは無神論者とされていたわけですが,その生活が野蛮人とは対極のものであったということは,コレルスも伝記の中で指摘しています。
 内容に関して,どの程度まで信憑性があるといえるのかは,学術的な意味においても課題であるといえるでしょうから,僕はそれについて何かいうことは控えます。ただ,スピノザと同じあるいは近い時代を生きた人びとによる,一級の資料であることは間違いないと思います。

 おそらく延長の属性Extensionis attributumの間接無限様態についての認識cognitioの場合には,この一般論が発生しているのだろうと僕は思います。つまり個々の物体corpus,延長の属性の個物res singularisの観念ideaを無限に拡張することによって認識される延長の属性の間接無限様態の観念は,間接無限様態の本性essentiaを十全に表現しているとはいえないのだけれども,延長の属性の間接無限様態に関する虚偽falsitasすなわち混乱した観念idea inadaequataではなくて,むしろ真理veritasすなわち十全な観念idea adaequataなのです。
 なぜこのような事態が生じ得るのかということについては,やはり一般論として答えることが可能だと思います。すなわち,もしもある事物に何らかの本性が与えられるならば,この本性を原因としていくつかの事柄が帰結します。このようにして帰結する事柄は,スピノザの哲学では事物の特質proprietasといわれます。そしてこの場合,事物の本性と,事物の特質とは対義語的関係を構成します。なぜなら知性intellectusのうちにある事物たとえばXに関する何らかの観念があったとして,この観念を十全な観念であると理解する限り,それはXの本性そのものの観念,すなわちXの十全な観念であるか,そうでないならばXの特質の観念であるかのどちらかでしかあり得ないからです。
 つまり,個物の観念を無限に拡張していくことによって得られるような間接無限様態の観念は,その間接無限様態の一特質の十全な観念であると僕は理解します。そして事物の特質というのは,その事物の本性から必然的にnecessario帰結するようなある事柄なのです。しかるにこのことは平行論によって,思惟の属性Cogitationis attributumにおいても成立します。いい換えれば事物の特質の観念というものは,その事物の本性の観念から必然的に帰結するような観念であるのでなければなりません。つまり,間接無限様態の十全な観念というのは,間接無限様態をある知性を構成する観念の観念対象ideatumと考える限り,第一部定理二二の様式でその知性のうちに生起します。そしてこの様式でその知性のうちに間接無限様態の認識が生起すると,延長の属性の場合には,第二部自然学②補助定理七備考でスピノザがいっている内容が,必然的に生起するということだと僕は考えるのです。
 つまり,第二部自然学②補助定理七備考では,延長の属性の特質が言及されているということになります。
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美獣&折合い

2013-06-29 19:01:24 | NOAH
 おそらくは馬場によるスヌーカへの配慮として,新パートナーに起用されることになったハーリー・レイスには,美獣というニックネームがありました。レイスはアメリカではハンサムを名乗っていましたから,おそらくそれを日本語訳したものなのでしょう。ただ,僕はレイスのことをハンサムだと思ったことはただの1度もありません。ハンサムは日本語でもそのまま通用しますけれど,そうせずに美獣と訳し,あえて獣という語を付したのは,おそらく大方の日本人からみても,レイスはお世辞にもハンサムとはいえない顔立ちであったからではないでしょうか。
 全盛の時期は当時の世界最高峰であるNWAのチャンピオンでした。取られては取り返すという形で,かなり息長く王者として君臨しています。僕のプロレスキャリアの中でもNWA王者の時代はありました。ただ,僕にとってのNWA王者はリック・フレアーの代名詞なのであって,レイスはそのひとつ前の時代になります。ですからレイスが最も強かった時期は僕は知らないといっていいのではないでしょうか。
 NWA王者は全米各地,また海外を飛び回って防衛戦をこなしていきます。各地のトップであるベビーフェイスと戦うケースが必然的に増え,その場合はヒールになります。このためにNWA王者には王者のプロレスの流儀というものがあって,レイスはその流儀に則して戦っていたと思います。これはフレアーにも受け継がれていたといえます。
 体型的にも腹が出ていて,ハンサムとは程遠いシルエットでした。ただ,鶴田によると,このタイプのレスラーはスタミナが切れてきたとき,腹が波打つように呼吸をするのでそれと分かるのだけれども,レイスはそういった仕草はまったく見せなかったとのこと。本当にスタミナ抜群であったからかもしれませんが,鶴田は独特の呼吸法を会得していたのだろうといっています。鶴田のことばが正しいなら,それはプロ魂だと思います。対戦相手にすらスタミナ切れを悟らせないということは,観客は当然ながら知り得ません。こうした面の努力が,長きにわたって活躍し続けられた理由のひとつだと思います。

 このことは,スピノザの哲学における思考の方法論からより明快であるといえるでしょう。スピノザの哲学においては,事物の十全な認識cognitioというものは,先行するものから後発するものへ,これは必ずしも時間的な観点を意味するのではなくて,本性naturaの上で「先立つ」ものから後続するものへという意味になりますが,この順序で認識されることによって可能になります。『エチカ』の諸定理の配置の意図というのも,まずはこの観点から考えられるべきであるというのが僕の考え方です。そしてこの方法が,演繹法といわれるのです。
 しかるに,まず個物res singularisの定義Definitioから初めて,それを単純なものから徐々に複雑なものへと拡充していき,ついにはそれが無限infinitumにまで拡張されて間接無限様態の認識に至るということがあるとしたら,これは演繹法とはいえません。むしろ方法論においては演繹法の正反対の方法である帰納法だといえるでしょう。したがって,少なくともこのような方法によって全自然の本性,これは延長の属性Extensionis attributumの間接無限様態の本性を意味しますが,その認識に至るということがあったとしても,それが延長の属性の間接無限様態そのものの十全な認識であるということを,スピノザが認めるということはないであろうと僕は思います。
 ただし,第二部自然学②補助定理七備考においていわれていることが,個物の観念ideaを無限にまで拡大していくならば,それは神Deusの延長の属性の間接無限様態に関して何らかの十全な認識に至るであろうということをスピノザが示唆しているということは,やはり否定できない事実です。しかしながらそれは,その本性そのものの観念ではないと考えるべきなのです。そこでこの部分に何らかの折合いをつけなければならないでしょう。
 僕が思うに,一般にXについての認識が,Xの本性そのものの認識ではないということと,その認識がXについて虚偽falsitasの認識である,いい換えれば何らかの混乱した観念idea inadaequataであるということは,別のことです。すなわちXに関するある観念が知性intellectusのうちにあり,かつそれがXの本性そのものの観念ではないからといって,その観念が観念対象ideatumであるXについての真理veritasではないとはいえないのです。
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先生の優越感&全自然の本性

2013-06-28 18:47:29 | 歌・小説
 『こころ』の先生は,友人であるKについて,常に畏敬していたといっています。もちろんそれはそれで嘘ではないでしょう。そこには先生の謙遜も含まれているとみるべきかもしれませんが,先生はKは自分の倍は勉強したといっていますし,持って生まれた頭の性質も自分よりずっとよかったといっています。中学でも高等学校でも,同級の間は常にKは先生の上席を占めていて,何をしてもKには及ばないという気持ちがあったといっています。
                         
 これだけでは先生はKに対してある種のコンプレックスの塊であったかのようです。そしてもしもそれだけであったなら,先生とKとの間の友情は長くは続かなかったように思えます。先生がそんなKと上京後も仲良くすることができたのは,先生の精神のうちにも,自分の方がKよりも上回っていると思えるところがあったからだとしか思えません。
 先生がそのことを仄めかしているのは,次男の悲劇によって仕送りを断たれたKと同居することを決めた部分です。先生はこのときは自分の方がよく事理を弁えていると信じていたと語っています。先生からいわせればKの偉大さは,自分の成功を破壊するという意味においての偉大さであるにすぎず,しかもK自身はそのことをまったく理解できていませんでした。先生はそれを理解させるために,Kとの同居を決めたのです。つまりそこには,先生のKに対する密かな優越感があったといえると僕は思います。
 そしてこの優越感は,Kに先生との同居を納得させるときの方法において,より鮮明になっているように僕には思えます。先生はそのためにあえてKの前に跪くことをしたと,このときのことを譬えていますが,心のうちでは跪くどころかむしろ見下していたといっていいでしょう。
 先生は後に恋愛に関してKと争い,先生の表現では他流試合でもする人のようにKを観察し,自身の勝利を得ようとします。でもそのときと同じような態度を,すでにこの時点で先生はKに対してとっていたように僕には思えるのです。

 第二部自然学②補助定理七備考でスピノザが説明しているように延長の属性の間接無限様態としての全自然を理解するならば,これはres singularisであると理解しなければなりません。res singularisの定義である第二部定義七を無限に拡張していくことによって,これは現れてくるからです。そしてres singularisはres particularisであるということはすでに明らかになっています。よってこのように考える限り,間接無限様態はres particularisであるという結論になるでしょう。
 これは僕が間接無限様態の場合直接無限様態の場合と同様に,それはres particularisではあり得ないと結論したことと明らかに矛盾しています。ただし,僕はこれについては齟齬を来さずに説明することが可能であると考えています。
 まず,スピノザの哲学では,事物が十全に概念されるために必要なこととして,その概念される事物,すなわち観念対象ideatumの原因についての認識が不可欠です。これは第一部公理四から明らかです。間接無限様態は第一部定理二二の様式で生起しますから,延長の属性の間接無限様態の十全な観念は,延長の属性,ないしは延長の属性の直接無限様態である運動と静止の認識を含んでいなければなりません。逆にいえばその認識を原因とすることによって初めて,延長の属性の間接無限様態たる全自然の十全な認識が,知性のうちに,これはあくまでもあたかも自動機械であるかのようにですが,発生するということになります。
 しかるに第二部自然学②補助定理七備考で述べられている事柄のうちには,こうした概念は何も含まれていません。これは一読しただけで明らかな筈です。したがって,仮にこのように延長の属性の間接無限様態である全自然が認識されたとしても,それは延長の属性の間接無限様態の観念の十全性を保証しないということになります。別のいい方をすれば,このように認識される全自然の観念のうちには,全自然の本性の十全な認識が含まれているわけではないということになります。
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サンケイスポーツ盃優駿スプリント&第二部自然学②補助定理七備考

2013-06-27 18:45:45 | 地方競馬
 一昨日の第3回優駿スプリント。御神本騎手が負傷でカイロスは佐原騎手に騎乗変更。
 逃げたのはサブノハゴロモですが,リコーシルエットはほとんど並んでいきました。3番手に控えたのがカイロス。オキナワレッドとアヅマキュートがその後ろを併走。ハードデイズナイト,マケマケ,ネコセンプー,ネオディオスが中団馬群を形成。最初の600mは34秒8でお決まりのハイペース。
 先行勢がもがく中,抜け出してきたのはオキナワレッド。これを詰まりそうになりながら内から馬群を割ってきたハードデイズナイトが捕えると,1馬身半の差をつけて快勝。オキナワレッドが2着。中団の後ろから内目を差してきたオグリタイムが3馬身半差で3着。
 優勝したハードデイズナイトは前々走は水沢に遠征して当地の重賞を逃げ切って制覇。前走はこのレースのトライアルを中団から差し切っていて,これで3連勝。南関東重賞は初制覇。前々走は1600mでしたが,これは相手関係があってのもので,おそらくスプリント戦が最も力を出せる舞台だと思います。脚質には自在性があり,馬群を割る根性もありますので,地方馬同士でのスプリント戦ならば,先々まで期待できる馬ではないかと思います。父はサウスヴィグラス。祖母のはとこに1993年にニュージーランドトロフィー4歳ステークス,1994年に平安ステークス,1995年にマーチステークスを勝っているトーヨーリファール
 騎乗した川崎の山崎誠士騎手は2011年に浦和記念を勝って以来となる重賞・南関東重賞制覇。優駿スプリントは初勝利。管理している川崎の佐々木仁調教師も優駿スプリント初勝利。

 間接無限様態の場合も,それがres particularisではあり得ないというのが僕の結論です。しかしその一方で,以下の事柄に関しては,それを認めなければならないであろうとも思うのです。
 res singularisを定義している第二部定義七は,res singularisには単純なものから複雑なものまで様ざまであるということが示唆されています。簡単にいえば,複数のres singularisによってその部分を構成される単独のres singularisが存在するということをスピノザは認めています。もちろん,いくら複数のres singularisによって組織されているひとつのres singularisではあっても,それはあくまでもres singularisであることに変わりはないのですから,この点はまったく問題とはなりません。
 しかしスピノザが第二部自然学の最後の備考で述べている事柄に関しては看過できません。スピノザはそこで,いくつかの単純なres singularisによって組織される複雑なres singularisがあり,さらにそうしたいくつかの複雑なres singularisによって組織されるより複雑なres singularisというものがあって,これを無限に先に進めていくならば,全自然はひとつの個体であり,その全自然を構成する物体が,全自然には何の変化も生じさせることなく無限に多くの仕方で変化するということを,僕たちは理解することができるという主旨のことをいっています。
 ここでスピノザがいいたかったのは,なぜ個々の物体が変化したとしても,全自然には何の変化も生じないかということの根拠を示すことであったと思います。しかしそこから離れてこの主張をみるならば,明らかに全自然というものは,その複雑さを無限に先まで進めたところにあるひとつのres singularisであるということが含まれていると思います。スピノザがここで全自然といっているのは,延長の様態の全自然のことですが,これは明らかに延長の属性の間接無限様態であると考えられるのです。
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農林水産大臣賞典帝王賞&間接無限様態の場合

2013-06-26 20:34:19 | 地方競馬
 JRAから参戦の6頭がすべて大レースの勝ち馬という豪華メンバーの競演となった第36回帝王賞。御神本騎手が負傷でフォーティファイドは山崎誠士騎手に騎乗変更。
 何が逃げるのか分からなかったのですが,ワンダーアキュートが先手を奪いました。ニホンピロアワーズが2番手でマーク。トーセンルーチェが外の3番手でその後ろはローマレジェンドが内,外にホッコータルマエで併走。最初の1000mは62秒4で,馬場状態も加味すれば超スローペースといっていいのではないでしょうか。
 直線入口ではワンダーアキュートの外にニホンピロアワーズ,一杯となったトーセンルーチェと入れ替わってホッコータルマエがその外から3番手に。ここからこの3頭の叩き合いになると,後ろは離れてしまいました。逃げたワンダーアキュートは脱落。見た目の感じからするとニホンピロアワーズはかなり抵抗したように思いますが,最後はホッコータルマエが1馬身出て優勝。ニホンピロアワーズが2着。1馬身半差でワンダーアキュートが3着。
 優勝したホッコータルマエは前走のかしわ記念が大レース初制覇。これで5連勝として大レース2勝目。前走はむしろ距離不足を懸念されていたところで,距離延長はプラスでした。今日のメンバーを相手に勝ちきったということは,この馬が現日本ダート界の頂点に立ったとみてよいのではないでしょうか。もう今日が18戦目ですが,4歳という年齢を考えれば,今後の活躍も大いに期待できるだろうと思います。父はキングカメハメハ
 騎乗した幸英明騎手と管理している西浦勝一調教師はかしわ記念以来の大レース制覇で帝王賞初勝利。

 ふたつの課題が解決されました。これで直接無限様態の場合は,それがres particularisではあり得ないということが明らかとなったわけです。ということは,残るは間接無限様態です。
 僕の考えでは,間接無限様態の場合でも,直接無限様態と事情は同一なのです。なぜなら,直接無限様態がres particularisではあり得ないことの理由を最も簡潔に記述するとすれば,それは直接無限様態が神のある属性の絶対的本性を原因として生起するからです。間接無限様態は直接無限様態を原因として生起するのですから,この点でいえば事情は異なっています。しかし,第一部定義五にあるように,様態というのは実体の変状です。そこで直接無限様態というのがどういう実体の変状であるのかといえば,神のある属性の絶対的本性の変状,すなわち神のある属性の絶対的本性が変状した様態なのです。いい換えればそれは,直接無限様態に変状した神のある属性の絶対的本性であることになります。したがって,間接無限様態が直接無限様態を原因として生起するということを,神と直接的に関連付けて説明するならば,間接無限様態は,直接無限様態に変状した神のある属性の絶対的本性を原因として生起するということになります。よってこの観点からは,神のある属性の絶対的本性をその原因とするという点で,直接無限様態も間接無限様態も事情は同一であると僕は考えます。そしてこの点こそが,直接無限様態がres particularisではあり得ないことの根拠をなしているのですから,同じことは間接無限様態にも妥当しなければなりません。したがって間接無限様態もres particularisではあり得ないのだと僕は結論します。
 直接無限様態でも間接無限様態でもない様態は,res singularisしかありません。よって直接無限様態も間接無限様態もres particularisではあり得ないのならば,res particularisである様態はres singularisだけであるということになります。これが僕がふたつの個物同一の訳を与えて構わないと考える根拠です。
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中野カップレース&もうひとつの課題

2013-06-25 18:43:33 | 競輪
 中野カップとなって早くも20回目となった久留米記念の決勝。並びは池田に南,村上ー高木ー鈴木の南関東,服部ー坂本ー筒井の西国で岡部は単騎。
 池田が誘導の後ろ,服部が3番手でこの後ろに岡部が続くという隊列を,おそらく後ろから村上が動いていったと思われるのが残り3周のバック。これに服部が併せていき,ホームでまず池田を叩いたのは服部。筒井が離れ,バックで追い上げましたが,村上がうまく坂本の後ろに。高木と鈴木も続いて打鐘。前から服部ー坂本,少し離れて村上ー高木,また少し離れて鈴木となり,隊列は通常より長くなりました。後方になってしまった池田はホームから発進。これはスピードよく,ぐんぐんと前に接近。番手から坂本も発進したのですが,まるでスピードが違い,池田と続いた南で直線勝負。ですが南はほとんど詰め寄れず,4分の3車身で池田の優勝。マークの南が2着。番手発進の坂本の外を踏んで村上が4車身差で3着。
 優勝した埼玉の池田勇人選手は記念競輪初優勝。準決勝3レースすべてが三連単で10万円を超す配当であったことから分かるように,一長一短あるメンバー構成に。後方に置かれましたが,このメンバーではスピード上位であったようです。即席ラインであまり後ろを気にせず,自分の好きなように走行できたこともよかったのではないでしょうか。

 ふたつの課題のうち,最初のものは解消されたと考えます。そこでもうひとつの課題である,神のある属性が絶対的な仕方で変状した様態は,その属性を絶対的な仕方で表現し,逆に神のある属性が一定の仕方で変状した様態はその属性を一定の仕方で表現するということが,妥当だといえるのかどうかということを考えていきます。
 僕からすると,実はこのことは,最初の課題が解決されれば解決されたも同然なのです。なぜそうなのか,順を追って説明していきましょう。
 何度かいっていますように,第一部定理二五系は,明らかに一定の仕方で神を表現するのではない,res particularisではない様態の存在を前提しているといえます。ただしこれだけでは,その様態がどう属性を表現するのかは不明です。ところが今や,スピノザが一定という場合,それは絶対的と対義語的関係にあるということが判明しています。したがって,res particularisではない様態は,絶対的に神の属性を表現する,あるいは絶対的な仕方で自身が様態化している神の属性を表現すると理解されなければなりません。
 次に,これもすでに説明済みですが,第一部定理二八を論証する際に,スピノザは第一部定理二五系の参照を促しています。つまりふたつの個物のうち,res singularisがres particularisであることが明らかになっています。したがって,res particularisではない様態,つまりそれが神の属性を絶対的に表現する様態ですが,それは少なくともres singularisではないということになります。そして『エチカ』に示されているres singularis以外の様態としては,無限様態しかありません。つまりres particularisではない様態というのは無限様態のことなのです。
 第一部定理二三は,無限様態は神のある属性の絶対的本性から生起するか,絶対的本性が変状した様態から生起するかのいずれかであることを示しています。つまり属性を絶対的に表現する様態は,属性が絶対的な仕方で変状した様態であることになります。
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印象的な将棋⑥-2&補足の主旨

2013-06-24 18:54:57 | ポカと妙手etc
 ⑥-1の第2図から,先手は6分の考慮で▲7八金と上がりました。
                         
 先手は自戦記で△6二銀を「意表の二手目」といっていますが,同時に,この手は20年くらい遡るのではないかともいっています。ということは,そういう手があるということ自体は知っていたわけです。この▲7八金は,最善と考えて指した手でしょうが,すぐに飛車先交換の権利を行使しない方がよいということを知っていた可能性はあるかもしれません。
 後手の自戦記ではこの手について「序盤の巧みさを感じさせる一手」といわれています。おそらく事前の研究ではすぐに▲2四歩としてくるものだと考えていたのではないでしょうか。だとすれば,早くも研究から外れたことになります。
 先手の狙いは,後手が△3四歩とか△6四歩などと指せば,そこで権利を行使して,同時に横歩も取ること。後手は6分の考慮で△1四歩ですが,この手は「明らかに甘かった」と悔いています。以下,▲3八銀に△8四歩。そこで▲2四歩△同歩▲同飛と,先手は権利を行使しました。
                         
 この後,両者が自信を持てないような展開になっていきます。

 スピノザの訴訟過程でさらに重要なのは次の点です。
 第一部定理一六の援用の補足として第一部定理二一に訴えるとき,スピノザは神の本性が絶対的に働くように決定された場合に成立するという主旨のことをいいます。一方,第一部定理二七の方を補足として訴える場合には,神の本性が一定の仕方で働くように決定された場合に成立するという主旨のことを述べています。
 このことから次のことが分かります。
 スピノザはこれに関してこれ以外には補足を与えていません。したがって,このふたつだけで第一部定理一六の補足として十分であると考えていたことになります。いい換えれば,これら以外の様式で神が働くということはスピノザの念頭にはなかったということになります。したがって,神の本性の働きには,絶対的に働く場合と,一定の仕方で働く場合だけがあることになります。また,これは神の働きについての形容ですから,神が絶対的にかつ一定の仕方で働くということは考えられません。こうしたことは知性が概念することが不可能だからです。また,そうした訴え方をしなくても,スピノザが各々の事柄を,『エチカ』のどの部分に訴えているのかという観点からもこれは明らかでしょう。
 したがって,知性が神の働きについて概念するならば,それは絶対的な働きであるか,あるいは一定の仕方での働きであるかの,必ずどちらかひとつになります。よってこの場合の絶対的と一定は,対義語的関係を構成していると理解されなければなりません。
 つまり,第一部定理二九の論証の過程において,スピノザは明らかに絶対的と一定を対義語的関係を構成する語句として用いているのです。よって,『エチカ』のほかの場面において,神の働きではないほかの事柄をスピノザがこれらいずれかの語句で形容する場合,それはもうひとつの語句と対義語的関係にあるということを念頭に用いていると判断するのが妥当であると僕は考えます。
 よって,神の本性が絶対的な仕方で変状するというのと,神の本性が一定の仕方で変状するというのは対義語的関係を構成します。また,様態が神の属性を一定の仕方で表現するというのと,絶対的な仕方で表現するというのも同様だと考えます。
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宝塚記念&スピノザの訴訟過程

2013-06-23 18:55:56 | 中央競馬
 アクシデントによるオルフェーヴルの回避は残念であった第54回宝塚記念
 いつものようにシルポートの逃げ。今日は大逃げになりました。2番手はダノンバラード。宥めながらジェンティルドンナが3番手。発馬後に行き脚をつけたゴールドシップが押さえて4番手。内のトーセンラー,外にフェノーメノと続きました。最初の1000mは58秒5でこれは超ハイペース。
 1頭だけ違ったレースをしたシルポートは,直線入口の時点でまだかなりのリードがありましたが,さすがに失速。3コーナー過ぎからダノンバラードにジェンティルドンナが並び掛けていき,その外へ押しながらゴールドシップ。さらに外をフェノーメノが追い,この4頭の競馬。抜け出したのはゴールドシップで,直線は加速し続けて3馬身半という大きな差をつけての優勝。最内に入ったダノンバラードがよく粘って2着。力んでいたジェンティルドンナは最後の伸びを欠き,クビ差で3着。
 優勝したゴールドシップは昨年暮れの有馬記念以来の大レース4勝目。この馬は道中でラップが緩む局面があると強く,そうでないと届かないというのがパターン。また,適度に時計が掛かった方が向くと思われ,今日はレース条件がマッチして快勝となりました。ダノンバラードが相手ならばこのくらいの差をつけて不思議ではなく,むしろほかの有力馬が凡走したという面もあったとは思います。父はステイゴールド。母の父はメジロマックイーン星旗風玲の分枝。
 騎乗した内田博幸騎手は先月のヴィクトリアマイル以来の大レース制覇。第49回以来5年ぶりの宝塚記念2勝目。管理している須貝尚介調教師は本馬による有馬記念以来の大レース制覇で宝塚記念は初勝利。

 それではスピノザによる第一部定理二九の証明の細部のうち,現在の課題にとって重大である部分をみることにします。
 スピノザはこの訴訟過程において,第一部定理一六の援用を行っています。僕の第一部定理二九証明でもこの定理を援用していますから,この援用の理由や詳細についてはここでは触れません。ただ,スピノザがこの定理の援用を行う際には,僕の場合よりもより懇切丁寧な内容になっています。それは単に第一部定理一六を援用するというだけでなく,この定理の内容は,第一部定理二一の場合でも第一部定理二七の場合でも同様であると補足しているのです。
                         
 岩波文庫版の『エチカ』の訳者である畠中尚志は,この部分に訳注を付しています。ここでは第一部定理二八を援用する方がベターであったというのが畠中の考え方です。ただ,現状の考察との関連だけでいえば,第一部定理二七でも第一部定理二八でも同じことなので,僕はその点について争うことはしません。しかし,この部分は第一部定理二二を援用するべきだという識者がいて,畠中はそれに対しては懐疑的です。そしてこの点に関しては僕は畠中説の方を支持します。畠中がその訳注でいっているように,この部分でスピノザがいいたかったことは,第一部定理一六の内容は,無限様態に対しても有限様態すなわち個物に対しても同じように該当するということであったと僕は理解します。そのためには,第一部定理二一で無限様態に関する補足がなされているのですから,第一部定理二二が援用されるべきではなく,個物についての言及である第一部定理二七ないしは第一部定理二八が援用されるべきであると考えるからです。そもそも第一部定理二二を援用するにあたっては,この部分のスピノザの文章を変更する必要があり,第一部定理二二の援用を主張している識者,畠中によればマイエルやベンシュなどですが,書き換えを実際に行っているようです。しかし僕はそうしたことは許されないだろうと思います。確かにスピノザと言語の関係でいえば,ラテン語は一定の年齢に達してから習得した言語ではありますが,推敲はしている筈で,それで問題ないとスピノザは判断したと考えるべきでしょう。
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棋聖戦&仕方

2013-06-22 19:25:36 | 将棋
 愛知県豊田市で指された第84期棋聖戦五番勝負第二局。
 渡辺明竜王の先手で羽生善治棋聖の相横歩取り。先手は▲7七桂を選択し,茫洋とした局面から急に戦いになるという将棋でした。
                         
 金取りに桂馬を打ったところですが,無理に手を作りにいったような感じがして,ここは先手の方がよいのではないかと思いました。しかし,金が逃げずに▲7九歩。こう指さなければならないのでは苦しいのかとも思ったのですが,桂馬を入手しようという狙いであったのかもしれません。△7八桂成▲同歩に△7九飛。そこで▲6三銀成としましたが,この手が敗着になったのかもしれません。後手は△7四飛と回ったのですが,▲6三銀不成であれば少なくともこの手はありませんでした。先手は▲4六歩と上部に逃げ道を作りましたが,△7八飛上成▲4七玉に△2九飛成。
                         
 これが先手の手によっては次に△5八龍と捨てる狙いがあり,後手が勝ちの局面になっているようです。別の手で迫りましたが,手順にそれが実現可能の局面が出現。先手はそれを避けて攻め続けましたが,駒を渡したため,別手順で先手玉に即詰みが生じました。
 羽生棋聖が2連勝。この将棋からは途轍もない強さを感じました。第三局は来月6日です。

 第一部定理二九をどう読解するべきなのかということについては,これ以上は深く掘り下げません。今回の考察の流れからいえば,後者の意味の方で読解するべきでしょう。しかし仮に前者のように読解したところで,この定理でいわれている,偶然なものはないといわれるときのものというのが,すべての様態を指しているわけではないという点では相違ありません。いい換えれば,すべてのものが一定の仕方で存在しまた作用するのではないという点では相違がないのですから,現状の課題という観点からはこれで十分であるといえるからです。よってこの両者の読解のうちどちらを選択するのかということについては,それを争うことは不要ですから,どちらでもよいという結論にしておきます。
 さらに,スピノザ自身の訴訟過程に至る前に,次の点もいっておくことにします。
 僕は,第一部定理二五系のうちに,すでに一定の仕方で様態化している神の属性を表現するのではない,res particularisではない様態があるということが含意されていると考えているということをすでに説明しました。第一部定理二九の場合にもこれと同様のことが生じていると僕には思えます。
 もしもすべてのものが一定の仕方で存在しまた作用するのであるなら,それは単に偶然にではなく必然的に存在および作用するといわれるべきなのであって,一定の仕方でとはいわれるべきではないと僕には思えます。なぜなら,もしもすべてのものの存在および作用の仕方が同一であるなら,なぜそれが一定の仕方であるといわれ得るのかということの根拠がない,あるいはあったとしてもきわめて薄弱であると思えるからです。ある仕方に関して,それが一定の仕方といわれ得るとすれば,それは,それが絶対的な仕方とはいえませんが,少なくとも一定の仕方ではない別の何らかの仕方があり,その別の仕方というのはひとつではないかもしれませんが,それらいくつかの仕方の中から,ある仕方についてはそれが一定の仕方であると初めていわれ得るようになると僕は考えるからです。つまりこの定理は暗に,ほかの仕方もあるということを示唆していると思うのです。
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流血&第一部定理二九の部分的な意味

2013-06-21 19:05:49 | NOAH
 ハンセンの乱入があった試合後の乱闘で,ハンセンの流血がありました。これは馬場の右手が鍛えられていたがための純然たるアクシデントであったというのが僕の理解です。プロレスにあって流血というのはひとつのギミックだと僕は思っています。したがってアクシデントではない,いわば予定調和ともいえる流血があるのだと思って僕はプロレスを観戦しています。ただ,この一件はアクシデントであったのだろうと思うのは,当事者である不沈艦も馬場も,ギミックとしての流血をあまり好むレスラーではなかったように思うからです。
 ギミックである以上,それを好んで用いるレスラーもあれば,あまり好まないレスラーもいるのは自然です。たぶん馬場は好まなかった方の典型で,相手を流血させることはあっても,それは自身が流血することを好むタイプのレスラーを相手にした場合に限られ,また,相手を流血させることを好むタイプを相手にした場合でも,自身の流血を極力は避けていたように思います。
 ハンセンもこの点に関しては似たタイプだったと思います。ただ,パートナーであった超獣は逆で,自身の流血も相手の流血も積極的に使おうとするタイプでした。なのでブロディと組んでの試合では,自身が流血することも,成り行き上は受け入れていたように思えます。したがって馬場ほどは頑なではなかったと理解しています。
 僕のプロレスキャリア以前の面白かった抗争の当事者についていえば,アラビアの怪人黒い呪術師はブロディと同じでした。また,テリー・ファンクはベビーフェイスですから,率先して相手を流血に導くようなプロレスはしませんでしたが,自身が流血することは非常に好んでいたように思います。この点は,この抗争をより面白いものにしていたといえるのではないでしょうか。ドリーはたぶんハンセンと似たタイプで,本当は好まなかったけれども,相手が望むならば自身が血を流すことを辞さなかったと思っています。この抗争でも,後のブロディとの抗争でも,ドリーは実際に流血戦を展開していました。
 ギミックだからといって,僕は流血を否定しません。むしろそれはプロレスにとって重要な要素だと思っています。

 第一部定理二九証明はこの内容だけで十分であるというのが僕の見解です。ただ,これだけですと,すべてのものは一定の仕方で存在しまた作用するのであって,それ以外の仕方で存在したり作用したりするものはないという結論がまだ導き得ることになります。いい換えれば一定の仕方と対義語的関係を構築するいかなる概念もなく,よって一定の仕方と絶対的な仕方は対義語的関係ではないという結論に至ってしまうような内容を有しているといえるでしょう。
 すでにいいましたように,僕はそんなことはないと考えています。その根拠というのはスピノザ自身によるこの証明の訴訟過程の内部にあります。しかしその前に,なぜ第一部定理二九は,すべてのものについて,それが一定の仕方で存在しまた作用するといっているのかということを考えておきましょう。
 スピノザによるこの定理の配置の意図という観点から,この第一部定理二九でいわれているものというのは,直前の第一部定理二八で言及されている個物res singularisであるというのはひとつの考え方でしょう。そうであるならこれはres singularisは一定の仕方で存在しまた作用するということになり,何ら問題を引き起こさないことになります。
 もうひとつの考え方は,ここでものといわれているのは,第一部定理二五系の方の個物,すなわちres particularisであると理解する方法です。これもすでに説明したことですが,僕は第一部定理二五系ではres particularisといわれ,res singularisとはいわれなかった理由を,第一部定理二六第一部定理二七で単に物といわれているものを含意するためであったと考えています。第一部定理二九は偶然なものといっていますから,これと同じ意味合いで考えることはできないかもしれませんが,状況的なことだけでいえば同じであると理解できないわけではないと思います。そしてこの場合にも,res particularisは一定の仕方で神を表現する,すなわち存在し作用するというのが第一部定理二五系の主旨ですから,やはり問題は生じていないことになります。
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共苦する力&第一部定理二九証明

2013-06-20 18:54:52 | 歌・小説
 『白痴』のムイシュキン公爵性的不能者である可能性を僕に示唆してくれたのは,亀山郁夫の『ドストエフスキー 共苦する力』という本でした。
                         
 題名となっている共苦というのは耳慣れないことばで,もしかしたら亀山がこの著作のために発案したことばであるのかもしれません。亀山の考えでは,ドストエフスキーというのはだれよりも他者と一体化し,他者と一緒に苦しみ,そして狂うという特権を身につけていたとのことで,それがこの題名の由来となっています。
 亀山にはドストエフスキーに関連する多くの著作がありますが,この本はいわゆる四大小説,すなわち『罪と罰』,『白痴』,『悪霊』,『カラマーゾフの兄弟』に特化したもので,序文とあとがきを別とすれば,各々にひとつの章が割り当てられての四章立てです。そしてそれを貫いているのが,題名ともなっている,共苦という概念で,それが軸となって四大小説が読解されていくという形式です。
 文体に大きな特徴があります。この本の基になったのは,NHKのテレビ番組です。つまりそこで亀山が喋った内容が網羅されています。僕はその番組は視聴していないのでよく分からない部分もありますが,亀山によれば網羅されているというのは正しくなく,加筆された結果,放映されたものに対して四倍以上の量になっているとのことです。そしてその語りが文体に影響を与えていて,話しことばのようになっています。分かりやすい点でいえば,ですます調になっています。
 おそらくこの文体の影響からと思いますが,語り掛けられているような印象を受け,非常に読みやすいです。おそらくそんなに時間を掛けずに読める筈で,ドストエフスキーの小説,とくに取り上げられている四つの小説に興味があるなら,読んでおいて損はないでしょう。

 僕がそのように理解する根拠は,第一部定理二九の証明Demonstratio,とくにスピノザによるその論証の過程のうちにあります。しかしまずは,この定理Propositioをごく一般的な方法で先に証明しておきます。
 第一に,第一部定理一五によれば,あるものはすべて神Deusのうちにあります。したがって,この定理は自然Naturaのうちに何かがあるということを前提しているといえますが,どんなものが前提されているにせよ,それは神のうちにあるということになります。
 第二に,第一部定理一六によれば,神の本性naturaの必然性necessitasから無限に多くのinfinitaものが生じます。したがって,自然を構成するようなどんなものも,神の本性の必然性によって存在するということになります。また,この第一部定理二九は,自然の一部を構成するものの存在existentiaに関してだけではなく,そうしたものの作用に関しても言及していますが,作用の場合であっても,存在の場合と同様でなければならないということは,これらの定理からやはり同様に帰結すると考えなければなりません。つまりこのことから,自然を構成するどのようなものも,偶然によって存在したり作用したりすることはなく,それは神の本性の必然性によって決定されているといわれなければなりません。
 第三に,第一部定理一一によれば,自然を構成するものを存在および作用に決定するdeterminareものとしての神は,必然的にnecessarius存在します。いい換えれば,神の存在は偶然なものではなく,必然のものであると理解されなければならないのです。
 これらをまとめると次のようになります。まず,神という必然的なものがあります。その必然的なものの本性の法則から,無限に多くのものが存在し,また作用することになります。そして自然を構成するどんなものも,その神のうちにあります。よって自然のうちには偶然であるようなものはなく,神の本性の必然性の決定determinatioによって存在し,作用するということになるのです。
 このことは,自然の一部を構成するものの側からみたならば,ちょうど物の表現という観点からして,ものは神の決定に従う限りにおいて肯定的なものであり,その決定を受けなかったり,免れたりするならば,むしろそのものの否定negatioであるということの裏返しであると考えてよいだろうと思います。
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京成盃グランドマイラーズ&第一部定理二九

2013-06-19 18:55:43 | 地方競馬
 大半の馬に南関東重賞なら勝つ力があると思えるような混戦メンバーでの戦いとなった第16回京成盃グランドマイラーズ
 アーリーロブストが発馬で躓く不利。すっと先手を奪ったのはセイントメモリー。ピエールタイガーが2番手に控え,マグニフィカ,プレファシオ,ナイキマドリードまではあまり差がなく先行集団を形成。トーセンアドミラル,アスカリーブルと続きました。前半の800mは48秒4で,ミドルペースでしょう。
 前にいった組の中でマグニフィカは早めに後退しましたが,それ以外はとくに脚色の衰えを感じさせる馬もなく直線に。逃げていたセイントメモリーが圧倒的に手応えが良く見えましたから,この時点でこの馬かなと思いましたが,その通りで,後ろとの差は開いていく一方。4馬身もの差をつけての圧勝となりました。直線は外目に出てきたプレファシオが2着。馬群を縫うように伸びたアスカリーブルが1馬身差の3着。
 優勝したセイントメモリーは南関東重賞はこれが初勝利。とはいえここ2戦はA2で連勝していましたから,勝つ力はあるだろうとみていた馬の1頭。スプリント戦でも対応できるスピード能力がある馬。小雨でやや重馬場となり,強風で差しが決まりにくいという気象条件になったこともあり,この馬の良さが最大限に生きたといえそうです。叔父に1999年の北九州記念を勝ったエイシンビンセンス
 騎乗した船橋の本橋孝太騎手は昨年の東京ダービー以来の南関東重賞制覇。グランドマイラーズは初勝利。管理している大井の月岡健二調教師もグランドマイラーズ初勝利。

 絶対的と一定とが実質的な対義語的関係を構成するというのは,それを導き出した論証過程から明らかなように,現時点では仮定にすぎません。ただし,もしもある場面において,このふたつが確かに対義語的関係をなすということが確認できるとするならば,それはその場面と同質であると判断できる限りにおいては,やはりほかの場面でも対義語的関係を構成するのだと考えられなければなりません。具体的にいえば,たとえば『エチカ』の内部のある場面において,絶対的と一定が,対義語的関係を構成するということが明らかになるならば,少なくとも『エチカ』のほかの箇所で絶対的という形容がなされるとき,それは一定との間で対義語的関係をなすものとして用いられていると把握されなければならないでしょう。同様に,また別の個所で,ある事柄に一定という形容がなされているとしたら,それは絶対的に対して対義語的関係をなす語句であるというように解釈するのが妥当であるということになります。したがってこのことから,とくに絶対的な仕方あるいは一定の仕方といわれるのではなく,ほかの事柄に関してこれら各々のことばが形容されているのだとしても,もしもそこに明確な対義語的関係があるのだとすれば,絶対的な仕方と一定の仕方もまた,対義語的関係を構成しなければならないということが結論されなければならないのだということになります。
 このことを踏まえれば,第一部定理二九を参照することによって,確かに絶対的な仕方と一定の仕方は,『エチカ』ひいてはスピノザの哲学のうちで,対義語的関係にあるということを示すことが可能だと僕は思っています。
 「自然のうちには一として偶然なものがなく,すべては一定の仕方で存在し・作用するように神の本性の必然性から決定されている」。
 この定理Propositioを一見したところ,すべてのものが一定の仕方で存在しまた作用されているといわれているのですから,自然Naturaのうちには一定の仕方といわれるような仕方しかないということ,したがってそれと対義語的関係を構成し得るようないかなる観念ideaも存在し得ないことが示されているように思われるかもしれません。しかし僕はそうではないと思っています。
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竜王戦展望&絶対的と一定

2013-06-18 19:02:50 | 将棋トピック
 第26期竜王戦は昨日,4組の決勝があり,挑戦者決定トーナメントの出場者が出揃いました。簡単に展望しておきます。
 今期はいわゆる羽生世代のビッグ3が1組で1位から3位までを独占しました。このために近年になく重量級のメンバーとなった印象があります。ただでさえ制度の変更後は1組が有利になっていますので,常識的にはこの3人のうちだれかが挑戦権を獲得するとみるのが妥当なのではないでしょうか。たとえば2組で2位になった豊島将之七段の位置ですと,まず谷川浩司九段と対戦。勝ったとして待っているのは森内俊之九段。ここを撃破しても準決勝は羽生善治三冠と当たる可能性があり,決定戦まで進んでも佐藤康光九段や郷田真隆九段戦を残す可能性が大であるということで,挑戦まで辿りつくのがいかに大変なことであるかが分かろうというものです。
 もちろんリーグ戦ではなく,トーナメントの一発勝負ですから,何が起こるか予断を許さない面は大きいとはいえます。それでも大波乱の結果に終るという可能性は,限りなく低いと思えます。
 今期も中継があるでしょうから,何局かは紹介していく予定でいます。

 ここでは先に,次の点に注意をしておいてください。
 僕は,神の本性あるいは神のある属性の変状に関して,絶対的な仕方での変状と一定の仕方での変状というのが対義語的関係に該当するということを論証しました。このとき,各々の仕方の内容というのは,当然ながら異なっています。これは,それが異なっているから一方が絶対的な仕方と形容され,他方は一定の仕方と形容され得るのだということから明らかだといえます。つまり神の属性の変状に限らずとも,絶対的な仕方と一定の仕方のふたつの仕方があるというならば,それは異なった仕方としてあるのでなければなりません。これを否定するのは,絶対的な仕方と一定の仕方は同一の仕方であると主張しているのと同じことですから,それが不条理であるということに関して,これ以上の説明は不要でしょう。
 このとき,実際に対義語的関係をなしているのは,これら各々の仕方の内容であると把握されなければなりません。いい換えれば,絶対的な仕方の観念と,一定の仕方の観念が対義語的関係を構築するということになります。そしてもしも一般的に,あらゆる仕方というのは絶対的な仕方と一定の仕方のふたつしかなく,すべての仕方はそのどちらかの仕方の一方にのみ属するという,これは仮定としても無茶な仮定ですが,そういう仮定をしたとするなら,このことは一般的に,つまり神の属性の変状の場合に限定せずに,絶対的な仕方と一定の仕方は対義語的関係に該当するということになります。
 ただし,仕方というのは,それ自体が何か内容を有するというものではありません。それは絶対的な仕方とか,一定の仕方とかいわれることによって初めて何らかの内容を有します。いい換えればそれが観念として把握される場合に,観念対象ideatumを有するということになるのです。これは単に仕方といわれるだけでは,それがどのような仕方であるかを知ることは不可能であるということをいっているようなものですから,やはりきわめて当然のことといって差し支えないでしょう。
 つまり,実質的に対義語関係をなす,というかなしているのは,絶対的と一定であるということが,このことから帰結します。
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女流王位戦&十全な要件

2013-06-17 19:25:06 | 将棋
 タイトルの行方に決着をつける第24期女流王位戦五番勝負第五局。
 ずっと先手が勝ち続けていたので振駒は注目でした。先手を得たのは里見香奈女流王位。甲斐智美女流四段のごきげん中飛車③Bから第一局と同じように進展し,敗れた後手から変化。この近辺は研究合戦であったと推測します。後手も角を打って歩損を解消。先手は9筋,後手は2筋から攻め合う展開になりました。
                         
 ここで先手は▲2四歩と取りました。△2七歩▲同飛△2六歩▲同飛△4五銀で第2図。
                         
 第1図から第2図は一本道としか考えられず,さすがにこの飛車角両取りをうっかりしたということはなかろうと思います。つまり先手としてはこれでやれるとみていたのだろうと思います。ここから▲同歩△2六角▲2三歩成と進み,そこで△4五桂。ことによるとこの手は先手が見落としていたかもしれません。そこで▲6九歩と受けに回っているのは変調に思えるからです。たぶんここで後手が確実なリードを奪い,そのリードを保ったまま終局に至ったのではないでしょうか。
 最終局を制して甲斐四段が第22期以来2期ぶりに通算3期目の女流王位に復位。タイトル戦では負け知らずだった里見女流王位からの奪取ということで,特筆すべきタイトル獲得といえるのではないでしょうか。

 このような考え方をすれば,神の属性の変状あるいは様態化には,絶対的な仕方での変状と,一定の仕方での変状の二種類があり,かつその二種類しかないということになります。なぜならスピノザによる第一部定理二八証明の意味のうちには,もしもある様態が,神の属性の絶対的な仕方での変状から生じることが不可能であるならば,それは一定の仕方で変状した神の属性を原因としなければならないということが含まれているといえるからです。
 そこでこのことを,今度はある知性を組織する諸観念のうちに,Aという様態の観念があるという観点から吟味してみます。するとこの知性は,この様態の原因であるものに関して,この様態が様態化している神の属性が,絶対的な仕方で変状した様態であるか,そうでなければ様態化している神の属性が一定の仕方で変状した様態であると認識することになります。そしてそれは,必ずどちらか一方,すなわち両方ではあり得ずどちらか一方であり,かつ,どちらか一方ではないということもあり得ないということになります。つまりこれは対義語的関係を構成する要件を十全に満たすことになります。よって,絶対的な仕方というのと,一定の仕方というのは,対義語的関係にあるということが帰結することになります。
 もっとも,スピノザ自身が第一部定理二八の論証において,絶対的な仕方というのと一定の仕方というのを,並列的に表記しているというわけではありません。それでも僕としてはこれで十分であると思いますが,このふたつを並列させている部分もありますので,そちらもみておくことにします。というのは,神の属性が様態ないしは様態的変状に変状するというのと,神の属性が様態的変状に様態化するといわれる場合とでは,厳密には意味合いに違いがあるという考えを僕は有しています。第一部定理二八証明は,このどちらのいい方も含まれています。いい換えるなら,厳密には異なった意味合いの事柄がいわれていると考えるべき要素を含んでいると思うのです。現在の考察の観点からは,この意味合いの相違はまったく気にしなくてよいような性質のものですが,気がかりな点となっているのも事実なのです。
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高松宮記念杯競輪&第一部定理二八証明の意味

2013-06-16 18:36:58 | 競輪
 開幕前には台風の影響も懸念された第64回高松宮記念杯競輪ですが,岸和田競輪場を舞台に恙なく日程を消化,今日の決勝を迎えました。並びは佐藤に神山,新田-成田ー伏見の福島,藤木ー南ー稲川の近畿で荒井は単騎。
 若干の牽制となりましたが,藤木がスタートを取り前受け。4番手に新田,荒井が追い,8番手から佐藤という周回に。残り3周のバックから佐藤が上昇を開始し,ホームで藤木の外に並びました。続いていたのが新田で,打鐘前のバックで前に出ていた佐藤を叩いて先頭に立つと,一旦ペースダウン。引いた藤木は打鐘過ぎに新田ラインに続いていた荒井を外にはねあげて発進。引きつけていた新田も追いつかれそうなところから発進。成田の牽制もあり,藤木は出られず,新田の先行に。南がうまく4番手に入り,稲川も続いたので佐藤は6番手に。新田のスピードが良く,この位置からではさすがに苦しく,直線は福島勢による争い。バンク中央から伸びた成田が差して優勝。半車輪差で逃げた新田が2着。半車身差で成田の外から伏見も続き,福島の上位独占でした。
                         
 優勝した福島の成田和也選手は前回出走の函館記念から連続優勝。ビッグは昨年の日本選手権以来となる4勝目でGⅠは3勝目。高松宮記念杯は初優勝。新田の調子が良く,差せるか差せないかの勝負になる可能性が最も高くなると思われたレース。新田の捲りになると厳しかったかもしれませんが,展開上,新田が駆けることになりましたので,その分だけ有利になったとはいえるでしょう。残り1周のホームでは仕事をしてのもので,立派な優勝だったと思います。

 ここまでのことを踏まえた上で,僕が絶対的な仕方と一定の仕方が対義語的関係にあると考える根拠を,神Deusの本性essentia,あるいは神の属性attributumの変状affectioへの形容の観点から説明します。
 僕が注目したいのは,第一部定理二八をスピノザが証明するときの,その証明Demonstratioの仕方にあります。僕にはここでスピノザが主張していることは,結局のところ,『エチカ』の全体の中では,次のようにまとめられることになると思うのです。
 まず,第一部定理一五によって,どんなものがあるとしても,それは神のうちにあるのでなければなりません。いい換えればどんなものも神を原因causaとして存在し,また作用するということになります。これは,必然的にnecessario,すなわち永遠に存在するものにも,一定の持続duratioのうちに存在するものにも同じように妥当しなければなりません。
 そこでもしも第一部定理二一と第一部定理二二の様式でものが神を原因とするならば,そのものは必然的に存在することになります。したがって,一定の持続のうちに存在するもの,いい換えるなら有限finitumで定まった存在existentiaを有するものは,この様式で存在したり作用したりすることはできません。ではそれはどのような様式で存在したり作用したりすることになるのかといえば,それが第一部定理二八で示されている様式であるということになるのです。
 第一部定理二一は,神の絶対的本性,あるいは神の属性の絶対的本性を直接の原因とする様態modusについての言及です。したがって,神の属性の変状の形容に注目している今は無視します。つまり神の属性の変状に関しては,第一部定理二二でいわれている変状か,そうでなければ第一部定理二八でいわれている変状のふたつのタイプがある,あるいはふたつのタイプしかないということになります。
 この証明ではスピノザは,前者を永遠aeternumかつ無限な様態的変状modificatioへの変状といい,後者に関しては定まった存在を有する有限なfinitum様態的変状への変状といういい方をしています。スピノザは変状といったり様態化といったりしますが,これは第一部定義五を根拠に,ここでは同じ意味として解釈します。そしてこのとき,前者が絶対的な仕方の変状,後者が一定の仕方での変状と,僕は解するのです。
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