スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

岡田美術館杯女流名人戦&永遠性の理由

2023-02-25 19:25:08 | 将棋
 昨日の第49期女流名人戦五番勝負第四局。
 西山朋佳女王・女流王将の先手でノーマル三間飛車。先手の美濃囲いに対して後手の伊藤沙恵女流名人がやや挑発的とも感じられるような手順で銀冠穴熊に組み,対して先手から仕掛けていく将棋に。そこからは両者が致命的な悪手を指さないまま一進一退の攻防が延々と続く大変な名局となりました。
                                        
 第1図から入玉を目指して☖4五王と上がったのですが,これが敗着となったようです。☖6七歩☗同飛☖3三桂と打つべきだったとのことです。これは次の☗3三歩が厳しい一手だったため。
 この手に対して☖4七歩成は入玉を目指す継続手ですが,この局面は一旦は☖6二歩と打って先手の応手を打診しておいた方がよかったのではないかと思います。実戦の手順は金を引いて龍を取りにいく形になりましたが,これは効率が悪くなってしまったように感じられます。
 3勝1敗で西山女王・女流王将が女流名人を奪取。女流名人は初の獲得です。

 十全な観念idea adaequataが存在することをやめる要因がないのであれば,十全な観念は永遠aeternumであることになります。僕は真理veritasは思惟の様態cogitandi modiであるといいました。それは真理は認識されるもので,知性intellectusの外にある事物に,いわば形相的有esse formaleとしてあるのではないということです。それなのに.持続duratioのうちに存在する知性の一部を構成する十全な観念が永遠であるということは,不思議に感じる人は不思議に感じるだろうと思います。なぜこのようなことが生じるのかということは,ふたつの観点から説明することができます。
 ひとつはスピノザは観念の存在existentia,これは観念に限らずすべての事物の存在といってもいいのですが,その事物の存在を,永遠のものと持続のもののふたつに分けて考えているからです。これは第二部定理八系にいわれている通りで,ある観念はDeusの無限な観念が存在する限りにおいて存在すると同時に,持続するdurareといわれる存在も含むのです。よって持続するといわれる観念が同時に神の無限な観念が存在する限りにおいて存在する観念であるという場合があるのであって,その場合には持続する精神のうちに永遠なaeternus観念があることになります。
 しかしこのことは,たぶん次のように考える方が分かりやすいでしょう。たとえば現実的に存在するAの精神mensのうちにXの十全な観念があるとき,Aの精神という様態的変状modificatioに様態化した限りで神のうちにXの十全な観念があると説明されるのです。しかしこれは,Xの十全な観念が神に帰せられる場合のすべての仕方を意味するわけではありません。Aの精神のうちにXの十全な観念があるからこのように神に帰せられるのであって,Bの精神のうちにある場合にはBの精神という様態的変状に様態化した神のうちにXの十全な観念があるという仕方で神に帰せられることになります。このとき,帰せられ方は異なっても,神のうちにあることに変わりはありませんから,形相formaが異なるわけではありません。このことがどのような精神であっても成立するのです。
 簡単にいえば,Xの真理は形相的有としてあるわけではないのですが,Xはどのような知性にとっても観念対象ideatumにはなるのであって,そのとき真理になり得るのです。
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