スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&判断基準

2011-08-31 22:02:55 | 将棋
 舞台を東京に移して争われた第24期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第二局。
 先手は丸山忠久九段。久保利明二冠のごきげん中飛車③▲6八玉に。先手がそそくさと右の銀を繰り出し2筋を交換するとその直後に飛車角交換。その後,先手が駒得できる手順を見送り,再び飛車角交換に。後手は龍を作って歩得ですが,金銀が分裂していて玉は先手の方が堅いという分かれになりました。この後,先手も飛車を打って龍を作って第1図。
                         
 △6四角が検討の中心でしたがひとつ上に△6五角でした。▲5二銀成は最も自然で検討の本線。△同金はないにしても△5四歩か△8七龍としてから△5四歩を考えていて,△2九角成は少しも考えていませんでした。▲6二成銀かと思いましたが▲3四歩と叩き,△同銀としてから▲6二成銀△同王。▲5二金と打っていくのかと思いましたが▲6六金と受けました。駒を打ってしまうと戦力は不足しますが,この手はいい手のように思いました。△7四龍は仕方ないですが▲7五金と追撃。▲3四歩△同銀の交換を入れておいた効果で逃げ場は9四しかありません。△5四歩は当然でしょう。▲6六龍か▲1五龍ですが後者。これだと金取りなので△3三銀と受けました。▲7四金△同馬(第2図)は当然でしょう。
                         
 後手が苦しいながらもすぐに負けることはなくなったのかなと思っていたところで▲3三角成。△同金に▲2二飛の王手。桂馬を守って△3ニ角。▲4二銀は自然な継続手ですが当然△2三金打。打った飛車が捕獲されてしまったわけですが▲2四龍(第3図)という手が飛び出しました。
                         
 △同金右は▲3二飛成でこれは問題外。△同金直は▲3三銀不成で困る。△2二金は▲同龍とされ△2三飛しかなさそうですが▲3三銀成とされて△同飛に▲4四金くらいでも駄目そう。ということでここで検討終了。実戦の△3一歩は最善の粘りであったと思いますが,着実に寄せきり先手の勝ちとなりました。
 丸山九段がタイに持ち込み挑戦権の行方は第三局に。9月12日に指されます。

 このような前提に立って考察を進めていこうとする場合,以下のような疑問が発せられる可能性があります。そこでまず,そちらの方から先に解明というか弁明をしておくこととします。
 少なくともマシュレが,何らかの能動的な認識および受動的な認識が現実的に存在すると考えていることについては,問題がないと思われます。しかし,マシュレがそれがどのような認識であるのかということを説明していない以上,たとえば僕がある種の認識を例材としてもち出したときに,それをマシュレが能動的と規定するか受動的と規定するか,はたまた能動的でも受動的でもないような認識と規定するかということは,厳密にいえば分からないわけです。しかしそれを分からないとしたままでは,考察を先に進めようがありません。したがって,マシュレがそうした認識について,たとえば能動的と認識するのか,受動的と認識するのかを,結局のところは僕が予測することになります。このときに,僕がそう予測するときの判定の基準が問題となってくるでしょう。何となればこれは僕が考察しているのですから,僕が恣意的にそれを判断するということが可能になるからです。
 僕がこの判断の基準とするのは,あくまでも『ヘーゲルかスピノザか』の該当部分,限定するなら第三部の第二章にあたる,属性の実在性に関するマシュレの論証の中で,マシュレが人間の精神による事物の認識に関して言及しているすべての部分です。そして,それ以外の部分は参考にはしません。僕はマシュレ自身の哲学に精通しているというわけではありませんから,マシュレの哲学の全体からこれを考えることはそもそも僕には無理ですし,この著書の別の部分でも事物の認識については触れられていますが,いずれの場合も,認識そのものを論点として採用しているわけではありません。とりわけ能動と受動という観点から認識について言及されているのは,この部分に限られます。マシュレは属性の認識に関連して,その認識は能動でも受動でもないと主張しているわけですから,たぶん範囲をむしろ狭めて,ここの部分に限ったマシュレの言及のみを僕の判断の対象とする方が,むしろ正しくこれを判断できる確率は高くなるであろうと思います。
                         
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王位戦&マシュレとの争点

2011-08-30 19:13:35 | 将棋
 今期もまたタイトルの行方を決する舞台は陣屋へ。第52期王位戦七番勝負第六局。
 広瀬章人王位の先手で,相振飛車の力将棋に。羽生善治名人が早々に決断の角打ち。後手から手を作らなければならないような将棋となり,封じ手の段階で消費時間にかなりの差がつきました。2日目に入って先手が馬を作って角との差だけ優位に立ったように思われましたが,その後の指し方にやや中途半端なところがあったか後手の猛攻を食らう展開に。下図から観戦。
                         
 ここは先手が受けきるか後手が攻めきるかの勝負。▲同金△同角成はあり得ないので▲5九金と引いたのは当然。攻めの継続を図らなければならない後手は△4六桂。▲3九歩はこの一手と思います。△5八桂成もほかの手は考えられません。ここで先手は手抜いて▲5一とと寄りました。一直線には攻め合えませんので一旦は取る一手。どちらもあったと思いますが実戦は△同銀でした。▲3ニ飛が継続の一手と考えそれを検討していましたが▲4六角。△同角▲同飛△5九成桂までは一本道でしょうか。2段目に飛車を打つ手を検討していましたが▲5三桂(第2図)でした。
                         
 攻め合う手と逃げる手の両方が検討対象でしたが△5二金。ここも幅広く考えましたが▲2六角は予想していませんでした。△5六金は予想の一手でしたが▲4八飛と逃げたのは少しも考えていませんでした。△5八成桂を検討し出したらすぐに△5七角。この二手の交換は後手が得をしたように感じられ,後手が勝てそうな局面になったように思いました。▲6一桂成△同玉(第3図)まで進んだところで先手から有力な継続手段がないとみて検討終了。
                         
 結果的には細い攻めが繋がる形になって羽生二冠が勝利。決戦の最終局は来月12日と13日です。

 なぜ僕があるものの作用ないしは働きは,必ず能動的であるか受動的であるかのどちらかであると理解することについて,その旗幟を鮮明にするために丹念に探求を継続してきたのかといえば,それは前回のテーマであり,今回のテーマのきっかけとなった第一部定義四に関連する属性についてのマシュレの分析と関係しています。
 もちろんこれは,あくまでも僕が理解する限りでのマシュレの分析ではあります。しかしマシュレは『ヘーゲルかスピノザか』の当該部分において,知性による属性の認識に関して,それは能動的でも受動的でもないということをはっきりと記述しています。そしてこの見解が,属性に関する訴訟過程からマシュレの結論を導き出すために,非常に重要な役割を担っているように僕には思えるのです。そこでここからは今回の考察の主題のうち第一のものからは完全に離れ,第二のものの方を考えていきます。
                         
 マシュレはあくまでも人間の精神による事物の認識,さらに限定するならば,とくに属性の認識についてのみ言及しています。したがって,たとえば人間の身体のある運動とか,人間精神が属性以外の何かを認識するというような場合には,それはすべて能動的であるか受動的であるかのどちらかに分けることができると考えている可能性は否定できません。そもそもマシュレは人間の精神による属性の認識に関して考察する中でこのようなことを主張しているわけで,能動受動の何たるかについて分析を行おうと試みているわけではありませんから,その点についての言及がされていないのは当然といえば当然です。よってその点に関するマシュレの立場というのは分からないというほかなく,これを争点とすることはできません。
 ただし,属性の認識に関してそれは能動的でも受動的でもないと主張するのであれば,少なくとも属性以外の何らかのものの認識について,能動的な認識というのはあるし,また受動的な認識というのもある,というようにマシュレは考えていると僕は思います。そうでなければ初めから属性の認識について,能動的でも受動的でもないというような主張をする必然性がないと思われるからです。そこでまず,どのような認識であれば,マシュレはそれを能動的とみなすのかということを考えていくことにします。
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全日本のブッチャー&能動と受動

2011-08-28 18:25:38 | NOAH
 新日本のブッチャーが今ひとつ輝きを放てなかったのに対し,全日本ではそんなことはありませんでした。これは黒い呪術師というキャラクターをそのまま受け入れられるようなスタイルのプロレスを全日本が展開していたことが大きかったでしょうが,やはりパートナーの選択も大きかったと思います。
 ファンクスとの抗争を共に繰り広げたアラビアの怪人は,ブッチャー以上にキャラクター重視のプロレスでしたから,ブッチャーが浮いてしまうということはあり得ませんでした。むしろシークの方がブッチャーのキャラクターによって救われていたのではないかと思えます。
 シークと仲間割れした後,ブッチャーのパートナーに起用されたのはキラー・トーア・カマタでした。このカマタはそれなりに実力も認められていたようで,馬場を破ってPWFのチャンピオンになったほどでしたが,体型的にはミニブッチャーというような感じで,ブッチャーほどではなかったにしても,やはりキャラクターの強いレスラー。かといってブッチャーの上に立ってやろうという感じでもありませんでしたから,ブッチャーのパートナーとしては最適な選手であったように思います。
 ブッチャーが新日本に移籍したのはこの後。この移籍はやっぱり失敗だったといっていいのではないかと思いますが,馬場は全日本への復帰を許しました。ただ,この時点では馬場自身もそうでしたが,ブッチャーも一線級として戦っていくのには無理がある年齢に達していました。そこで用意されたパートナーがジャイアント・キマラ。キマラは実力についてどうこういう以前に,キャラクターだけで勝負するようなレスラーでした。ブッチャーの全盛期にパートナーとして組んでいたならば,やや物足りなさを感じさせたのではないかと思いますが,この時期のブッチャーにとってはやはりベストなタイプのパートナーだったように思います。
 おそらく馬場は,レスラーの個性をそのままリング上で生かすようなプロレスを目指していました。それは,自身が好むと好まざると,馬場自身がひとつの偉大なキャラクターであったからだと思います。全日本のブッチャーがあまり不自然なプロレスを展開せずにすんだのは,それが馬場が目指しているものとマッチしていたからなのだろうと思います。

 ここで第三部定理三に立ち戻れば,あるものが何がしかの作用ないしは働きをなすという場合には,必ずそれは能動的であるか受動的であるかのどちらかであるということになると思います。
 観念ideaはそれが存在するならば,十全な観念であるか混乱した観念であるかのどちらかです。よって十全な観念ideis adaequatisからのみ能動actionesが生じ,混乱した観念からのみ受動passionesが生じるのであれば,第二部公理三で示されているように,思惟の様態の第一のものが観念である以上,少なくともどんな思惟作用も,必ず能動的であるか受動的であるかのどちらかであるということが帰結します。
 しかし,観念というのはその対象ideatumと,平行論における同一個体であるのですから,第二部定理七によってその秩序ordoは一致します。したがってある思惟作用が能動的であるならば,その思惟作用をなす観念の対象ideatumの,その同一個体であるような作用ないしは働きもまた能動的であることになりますし,逆にある思惟作用が受動的であるならば,その思惟作用をなす観念の対象ideatumの作用ないしは働きもまた受動的であるということになります。
 さらに第二部定理七系によれば,もしもある思惟作用というものが現実的に実在するならば,それに同一個体として対応するような作用ないしは働きというものが,思惟の属性の外に形相的なformaliterものとして現実的に実在しなければなりません。したがって逆にいうならば,一切の思惟作用を伴わないような形相的な作用ないしは働きというものは現実的に実在しないということになります。そこでもしも思惟作用のすべてが,能動的なものか受動的なものに分節することができ,それ以外に該当するような思惟作用が存在しないなら,同様に形相的なある作用や働きも,能動的なものか受動的なもののどちらかに分節することができ,能動的でも受動的でもないような働きや作用といったものは存在しないということになるでしょう。そしてこのことはおそらく,スピノザの哲学における精神と身体の関係から,必然的に帰結するのだろうとも思います。
 考察の主題の第一のものとして,僕が最後にどうしてもいっておきたかったのがこのことです。そこでこれからは,本格的に第二の主題に移行することにします。
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ラスコーリニコフの場合&一般化

2011-08-26 18:34:35 | 歌・小説
 ドストエフスキーの時代のロシアのキリスト教の状況について,必要最小限の事柄だけは説明できましたので,今度はドストエフスキーの小説が,どれほどキリスト教と関わりを有しているかを検討します。まず最初に,『罪と罰』のラスコーリニコフの場合を考えてみます。
                         
 僕が思うこの小説のハイライトと思えるシーンは,すでに説明したように,かつて相模鉄道の車内で読んだ,大地への接吻に至る部分です。大地への接吻というのは,確かに宗教色があるといえるでしょうが,ドストエフスキーの小説の場合,ロシアの大地との和解というモチーフもふんだんに盛り込まれていますから,この部分を単にキリスト教的な意味合いだけで理解するのは,もしかしたら正しくはないかもしれません。ただ,たとえば夏目漱石がこの部分を読んだとして,そこにキリスト教色を嗅ぎとったとしても,それは不自然とはいえないことは確かだと思います。
 ラスコーリニコフが自分の罪をソーニャに告白する理由のひとつは,自分が殺したリザヴェータが,ソーニャの友人であったということです。しかしそれ以外にもうひとつ,ソーニャは敬虔なキリスト教信者であったということも外せないように思います。実際にラスコーリニコフの告白の以前,これは唐突な感じも否めないのですが,ラスコーリニコフは自ら望み,ソーニャに新約聖書のラザロの復活といわれる部分,ヨハネによる福音書の11章の1~44までを朗読してもらっています。そしてその直後に,自分が犯人であるということは伏せたものの,自分はリザヴェータを殺したのがだれであるかを知っていると言っているのです。
                         
 このとき,ラスコーリニコフは自分と娼婦であるソーニャとを結び付けて考え,だから告白の相手としてソーニャを選択するという主旨のことを言っていますが,さらに自分とソーニャとを,復活するラザロと重ね合わせるような気持ちがあったのだろうと思います。そしてそうであるなら,これは分かりやすくドストエフスキーとキリスト教とを関連付けて理解できる部分ではないかと思います。

 実際にはこれだけではまだ僕が証明したいと考えていること,すなわち観念が実在するならそれは十全な観念であるか混乱した観念であるかのどちらかであるということの証明のすべてが終了しているわけではありません。さらにこのことを一般化していく手続きが必要です。
 まず,人間Aはどの人間の場合にも該当します。よって少なくとも人間の精神のうちにXの観念があるなら,それは十全な観念であるか混乱した観念であるかのどちらかです。
 次に,Xというのはどんな個物,といってもこれは人間を対象としていますから,この個物は第二部公理五により物体であるか思惟の有限様態であるかのどちらかには限定されますが,少なくともそうした個物全般には妥当します。よって人間の精神のうちにある観念があれば,それは十全な観念としてあるか,そうでなければ混乱した観念としてあるかのどちらかです。
 そして,スピノザの哲学における精神の考え方からして,このことは人間だけではなく,どんな個物を視野に広げても該当します。というのは,第二部定理一一系というのは,人間の精神が神の無限知性の一部であるということのみを言明していますが,実際にはどんな個物の精神であったとしても,それが神の無限知性の一部でなければならないということは,この系と同じような仕方で証明することができるからです。よって,どんな個物の精神の現実的有を構成している観念も,それが単独で観察されるなら,十全な観念であるか混乱した観念であるかのどちらかであるということになります。
 最後に,第二部定理七系が示していることは,神の無限知性のうちにある観念があるなら,その観念の対象ideatumがその無限知性の外に形相的有として実在するということです。そして観念とその対象ideatumが合一しているとみられるとき,その観念がその対象ideatumの精神といわれるのですから,精神とみなされないような観念というのはありません。よってすべての観念は,十全な観念であるか混乱した観念のどちらかであるということが,最も一般的な意味として出てきます。
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王位戦&本筋の説明

2011-08-24 18:40:28 | 将棋
 阿波踊りの町,徳島での対局となった第52期王位戦七番勝負第五局。
 羽生善治二冠の先手で広瀬章人王位は十八番の四間飛車穴熊。先手も居飛車穴熊に籠って相穴熊。広瀬王位は岡崎の将棋まつりの席上対局で渡辺明竜王に負けてから四間飛車穴熊を封印していたとのことですから,それに対して何らかの対策の目途が立ったということなのだろうと思います。
 先手が2筋から仕掛けて馬を作ると後手がそれを捕獲。先手は銀との交換の代償にその銀を打ち込んで成銀とと金を作りました。封じ手の近辺は変化が多そうで,一手一手が重大な決断だったように思うのですが,結果からみるとそもそも先手の仕掛けがあまりうまくいってなかったように思われ,双方がかなりの時間を残したまま後手の勝ちになっています。ここでは後手が決定的な差をつけたと思われるところを。
                         
 ここでは△5九龍と桂馬を取る手が普通ですが,わざと△6九龍と入り,▲7九金と引かせてから△5九龍と取りました。▲4四角の反撃には△6一歩と受けておき,▲1一龍とされたところで△9五桂と取った桂馬を設置。先手は仕方なく▲7八金と戻りましたが今度は△1九龍で香車を入手。▲5二とに構わずその香車を△8四香(第2図)と設置しました。
                         
 手順から明らかなように先手が金を引いてまた上がる間に後手は桂香を入手した勘定。第1図の時点で先手は劣勢でしょうから,この交換で急所に桂香を打たれては大勢が決してしまったといえるのではないでしょうか。
 広瀬王位が防衛に王手の3勝目。スピード勝負に持ち込んで先手に付け入る隙を与えなかったというのが全体の印象で,会心譜ではないでしょうか。第六局は29日と30日です。 

 観念をその内的特徴から観察した場合には,十全な観念か混乱した観念のどちらかであるということは,別に外的特徴というフィルターを経由せずとも,次のような仕方で明らかにすることができます。そして方法論としては,多少は複雑であったとしても,こちらの方がスピノザの哲学においては,本筋の説明であろうと僕は考えています。ここではまず,ある人間Aの精神のうちにXの観念があるという場合を考えてみます。
 第二部定理一一系が示しているところによれば,人間Aの精神のうちにXの観念があるのなら,この観念は神の無限知性のうちにあるのでなければなりません。いい換えるなら,この観念はAの精神という思惟の有限様態に変状した限りで,神の思惟の属性のうちにあるのでなければなりません。
 第二部定理七系の意味により,神の無限知性のうちにある観念はすべて十全な観念です。そしてそれがAの精神に変状した限りで神のうちにあるという場合には,次のふたつのあり方以外にはありません。第一に,Aの精神に変状した限りで神のうちにXの観念があるという場合で,第二に,Aの精神に変状するとともに,何かほかのものの観念も有する限りで神のうちにXの観念があるという場合です。したがって,このどちらかの場合に該当するときにのみ,Aの精神のうちにXの観念があるのであって,それ以外の場合にはAの精神のうちにはXの観念があるということはあり得ません。第二部定理一一系は,ここの部分までは意味として含んでいなければならないと考えられます。
 そこでこのとき,Aの精神というのをそれ単独で観察してみた場合には,第一の場合にはAの精神のうちにXの十全な観念があるということになり,第二の場合にはAの精神のうちにXの混乱した観念があるということになります。そして,実はここがここでは重要なことなのですが,それ以外の仕方ではAの精神のうちにはXの観念というのはあることがないのです。よってここから,Aの精神のうちにXの観念がある場合には,それをただそれ単独で観察するなら,それは十全な観念としてあるか,そうでないならば混乱した観念としてあるかのどちらかであるということが帰結していることになります。
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東日本大震災被災地支援富山記念&観念の問題

2011-08-23 18:57:20 | 競輪
 最近では記憶にないくらいの豪華メンバーが集結して争われた富山記念の決勝。並びは武田-伏見-成田の東日本,深谷-加藤-志智の中部,中川-中谷の九州で五十嵐が単騎。
 前受けは中川。五十嵐が3番手を取り,武田が4番手,深谷が7番手で周回。武田が深谷を牽制しつつ残り3周のバックで中川を叩くと切り替えた五十嵐が4番手,追い上げた深谷が5番手,引いた中川が8番手の一列棒状。このまま残り2周のホームから早くも武田の先行に。打鐘とともに深谷が追い上げを開始。しかし加藤は離れて単騎に。伏見の牽制をものともせずに武田を叩くとスイッチしたのが五十嵐で,武田を捨てた伏見が3番手。直線は逃げる深谷と追う五十嵐,伏見マークから両者の中を割った成田の争いとなり接戦でゴール。五十嵐と成田が同着で優勝を分け合い,深谷は僅差の3着。
 優勝した神奈川の五十嵐力選手は2月の静岡記念以来の記念競輪2勝目。ここは単騎の戦いを強いられ,メンバーから考えるとかなり厳しかった筈ですが,うまく立ち回りました。加藤が深谷につけきっていればまったく違ったレースとなっていた筈で,多少の幸運はあったと思います。それでも深谷にスイッチしてきちんと差しきったのですから褒めてやってもいいのではないかと思います。
 同着で優勝を分け合った福島の成田和也選手は5月に風光るを優勝していますが記念競輪は一昨年10月の千葉記念以来となる同じく2勝目。こちらはまずラインの先頭を走った武田の頑張りに尽きるでしょう。それでも長くない直線での中を割っての伸び脚はさすがにS班を思わせるものでした。
                         
 とても激しくて面白いレースだったと思います。

 それでは第三部定理三のもうひとつの懸案ともいえる,観念の問題について詳しく考察していくことにします。
 まず第一に,第一部公理六を参照します。これによれば,もしもある観念が現実的に存在し,かつその観念が観念の対象ideatumと一致するならば,それは真の観念であるということが分かります。もちろんこの公理は,こうしたことを意味するために意図されているものではないでしょうが,少なくともこうした事柄が含まれているということは間違いないといっていいだろうと思います。
 ところで,観念というのは必ず何かの観念です。これはそれ自体で明らかでしょう。そこでこのことに注意して観念と観念されたものideatumとの関係を考えるならば,それは対象ideatumに一致するか一致しないかのどちらかであるということになる筈です。そして一致する場合がこの公理によって真の観念といわれ,一致しない場合は誤った観念とこのブログでは表記しています。これについては初期の頃に真の観念と誤った観念を説明した通りであり,僕の見識は変わっていません。よって少なくとも,実在する観念は真の観念であるか誤った観念であるかのどちらかでなければなりません。
 第二に,第二部定義四に示されていることは,観念というものが上述のような観念の対象ideatumとの関係を離れて思惟の様態としてのみ把握される場合には,真の観念は十全な観念といわれるということです。そして観念をこのように単に思惟の様態としての内的特徴から観察したときに,十全な観念とはいえないようなすべての観念については,このブログでは混乱した観念といっています。これもかつての考察で十全な観念と混乱した観念について説明したことと同じです。
 しかるに,真の観念は内的特徴からみれば十全な観念であり,外的特徴からみれば観念は真の観念であるか誤った観念であるかのどちらかであり,内的特徴からみたときに十全な観念ではない観念はすべて混乱した観念であるなら,要するに誤った観念は内的特徴から説明されるならば混乱した観念であるということになります。したがってこのことから,観念が現実的に存在するなら,それは十全な観念として存在するか,そうでなければ混乱した観念として存在するかのどちらかであるということが帰結すると思います。
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リンドシェーバー&第三部定理三備考

2011-08-22 18:26:53 | 名馬
 16日の黒潮盃を勝ったオオエライジンの母の父,ブルードメアサイアーはリンドシェーバーです。
 1988年アメリカ産。2歳7月にデビュー戦を勝つと続くオープンも勝利。函館3歳ステークスは2着に負けたものの,朝日杯3歳ステークスを優勝。この年の最優秀2歳牡馬に選出されました。
 3歳2月に58キロを背負ってオープン勝ち。続いて弥生賞に出走しましたが,ここは前年の西の2歳チャンピオンであったイブキマイカグラの2着。結果的にこれで競走成績を終えることになってしまいました。
 この当時の外国産馬は日本馬よりも早熟傾向にあり,キャリアを積み重ねてさらに活躍できたのかどうかは永遠の謎。ただ日本では希少な,アメリカでGⅠを6勝もしたAlydarの産駒で,それなりの競走成績を残しましたので,このクラスの馬としては種牡馬としての生活にも恵まれたと思います。後継種牡馬は輩出しませんでしたが,これは産駒の重賞勝ち馬6頭のうち4頭が牝馬であったことも関係。ブルードメアサイアーとしては2008年の川崎記念を勝ったフィールドルージュを送り出しました。同じ年に青葉賞を勝ったアドマイヤコマンドの祖母は,リンドシェーバーの妹です。

 精神というのをスピノザの哲学に従った形で理解するならば,第三部定理三というのは,もっと別の形で解釈することが可能であるように僕には思えます。つまり,この定理というのは,あくまでも人間の精神の能動受動についての,あるいは人間の精神と身体が同一の秩序にあることを考慮に入れるならば,身体までを含めた人間の能動と受動に関係するある言及です。しかし,精神というものが実在するそのあり方というのは,実は人間とその他の個物の間で何らの相違があるわけではありません。もちろん各々の精神の機能,あるいはなし得ることというのは大きく異なるでしょうが,精神が実在的なものとして理解される場合のそのあり方,構造とでもいうべきものは,どんなものの精神にあっても同一なのです。したがってこのことを考慮においた場合には,実は人間の能動と受動についての言及である第三部定理三というのは,人間以外のすべての個物の能動と受動についても妥当すると考えられるのではないでしょうか。いい換えれば,精神のあり方というものがすべての個物にとって同様であるならば,能動と受動のあり方というものもすべての個物にとって同様であるだろうと僕は考えるのです。
 僕は今回のテーマである第三部定義二で,スピノザが示している我々というのを,単に人間とは考えずに,すべての個物という範囲にまで広げて考えるとしましたが,その根拠がここの部分にあるのです。そしてこのことは,おそらくは我々と第三部定義二で書いたときには,単に人間だけを考慮のうちに入れていたであろうスピノザ自身によっても補強されます。というのは,スピノザ自身がこの直後の第三部定理三備考においては,このような仕方で受動というものが人間の精神に帰せられるように,すべての個物にも帰せられるであろうし,またこうした仕方以外では受動というものを説明することは不可能であるという意味のことをいっているからです。そしてスピノザは,しかしそのようには能動と受動について記述しなかった理由についてもはっきりと述べていて,それはスピノザ自身が意図していることが,人間の精神について探求することだったからなのです。
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東日本大震災被災地支援小田原記念&精神

2011-08-20 19:05:37 | 競輪
 今年の競輪のお盆開催は小田原記念で,決勝は16日。並びは桐山-斉藤の東日本,脇本-山口の近畿中部,三ツ石-内藤の四国中国,中川-大塚の九州で長塚が単騎。
 内藤がスタートを取って三ツ石が前受け。3番手は中川,長塚は5番手で6番手に桐山,8番手から脇本で周回。脇本に先んじて桐山が動き,前に出たところを残り2周付近で脇本が叩き,桐山が3番手,長塚が5番手となり三ツ石と中川でその後ろが並走。脇本はそれほどスピードは緩めずそのまま先行。3番手の桐山が動けず,バックで斉藤が内を開けたので長塚が斬り込んでいき3番手まで上昇。直線は前の3人の争いでほぼ差がなくゴールも,一杯に逃げ切った脇本の優勝。外を追い込んだ長塚が2着に入り,番手絶好の山口は意外にも伸びを欠いて3着。
 優勝した福井の脇本雄太選手は昨年8月の豊橋記念以来,ほぼ1年ぶりとなる記念競輪2勝目。前回が番手に嵌ってのものであったのに対し,ここは逃げ切ってのものだけに価値はさらに高いと思います。4日間を通じて先行したのも評価に値するでしょう。ただ今年はFⅠでも優勝できていませんでした。将来的なことをいえば深谷のライバルとして育ってほしいと思っている選手で,そうなれば競輪界も盛り上がっていくことになると思っていただけに,近況にはやや不満を感じていました。現状はやや差をつけられてしまった印象ですが,これを契機としてますます成長していってほしいと思います。
                         

 そしてここで,スピノザの哲学における精神mensのあり方というものを考慮に入れるならば,さらなることが帰結するであろうと僕は考えています。すなわち第二部定理一三備考でスピノザがあらゆるものが精神animataを有すると記しているとき,スピノザが何をいわんとしたのかということを,ここで再び考えておかなければなりません。
 これはテーマとして設定して,考察した事柄であり,また,当時の結論と同じ考え方を現在の僕も有していますから,詳しいことはその部分を読んでいただくほかありません。ここでは,現在の探求と深く関連している事柄のみ,簡潔に示しておきます。
 第二部定理七系により,もしも神Deusの思惟の属性Cogitationis attributum以外の属性の様態modi,modusとしてAがあるならば,神の無限知性intellectus infinitus,infinitus intellectusのうちにはAの観念ideaが実在します。反対に,もしも神の無限知性のうちにAの観念があるのであれば,Aはその無限知性の外に,思惟以外の何らかの属性の様態として形相的にformaliter実在します。いい換えれば,形相的有esse formaleとしてAがあるならば,客観的有esse objectivumすなわち観念としてもAはありますし,もしもAが客観的有として確実にあるならば,形相的有としても確実に実在するということになるのです。
 このとき,第二部定理七により,形相的有としてのAと,客観的有としてのAというのは,原因と結果の秩序ordoと連結connexioが完全に一致します。すなわち平行論における同一個体として各々が実在する,あるいは実在しているということになります。そしてこの同一個体は,それが現実的に存在するならば,合一unioして存在するということになるわけです。そしてこれが合一しているということをとくに視野に入れた場合には,その客観的有についてはAの精神というということが,スピノザの哲学における精神の意味になります。なお,僕はこのとき,形相的有についてはAの身体corpusとみなすということは,当時の考察の中で示した通りです。
 すなわち,どんな個物res singularisも現実的に存在するならば,形相的有と客観的有が合一した形で実在します。そしてその形相的有について僕はそれをそのものの身体であるとみなし,その客観的有についてはそのものの精神であるとスピノザはいうわけです。そして精神をこのように理解するなら,確かにすべてのものに精神があるといわなければならないでしょう。
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日刊スポーツ賞スパーキングサマーカップ&精神と身体

2011-08-19 20:45:01 | 地方競馬
 笠松と高知から1頭ずつが遠征してきた第8回スパーキングサマーカップ
                       
 フサイチピージェイも行く気を見せましたが,大外からヴァイタルシーズが押していくとこちらに譲って2番手。シャインウェーヴ,高知のグランシュヴァリエ,人気のディアーウィッシュなどが好位から。前半の800mは48秒3でハイペース。とはいえ雨の重馬場ですから,これくらいなら前が残る方が普通に思えます。
 ところが,先行勢は総崩れ。直線で最後に抜け出し叩き合うことになったのは,共に道中は好位勢の直後に位置していたベルモントルパンとウツミランカスターの2頭。先に動いたベルモントルパンに外からウツミランカスターが襲い掛かる形でしたが,最後まで態勢は変わらず,僅かに凌いだベルモントルパンの優勝。ウツミランカスターが2着で,後方から内目の馬群を縫うように伸びたザグが3着。伏兵の上位独占で波乱の結果でした。
 優勝したベルモントルパンはJRAで4勝して今年から南関東に転入。その後の2戦は大敗でしたが休養明けとなる前走のトライアル4着で復調の兆し。中央でオープンまでいった馬ですから,能力的には南関東重賞なら通用して当然で,ここはようやくその力を十分に出し切れたということなのだと思います。まだ半信半疑の面はありますが,今後も活躍を続けてもおかしくはないだろうと思います。
 騎乗した船橋の石崎駿騎手は3日のサンタアニタトロフィーに続く南関東重賞制覇で2008年以来のスパーキングサマーカップ2勝目。管理している船橋の椎名廣明調教師は初勝利。

 観念に関する分析に入る前に,第三部定理三については別に注意をしておいてほしい点がありますので,そちらの方を先に説明しておくことにします。
 この定理というのはそれ自体から明らかなように,人間の精神の能動受動に関するある言及です。これは第三部定理一の場合にも同じです。しかし,このことが,現実的に存在するある人間の精神についての言及のみにとどまるのかといえば,僕は必ずしもそうは考えていないのです。
 第二部定理一三が示していることは,人間の精神を構成する観念の対象ideatumというのは,人間の身体であるということです。よって,たとえばAという人間が現実的に存在するのであれば,このAの精神を構成する観念の対象というのは,Aの身体であるということになります。そしてこれはスピノザの哲学において,Aの精神とAの身体は合一しているということの意味でもあります。つまりスピノザの哲学の基本中の基本であるということになるでしょう。
 ところで,このときにAの精神とAの身体というのは,平行論における同一個体です。いい換えれば,Aの精神とは,神の思惟の属性の下で説明される限りでのAのことであり,Aの身体というのは,神の延長の属性によって説明される限りでのAなのです。したがって第二部定理七により,Aの精神とAの身体の秩序というのは,完全に一致しなければなりません。つまり,Aの精神が能動的であるということは,実はAが能動的である,要するにAの身体もまた能動的であるということを意味することになります。同様に,Aの精神が受動的であるということは,Aが全体として受動的である,つまりAの身体も受動的であるということを意味するのです。この秩序の一致というのは,第三部定理二証明するときにも用いられます。第三部定理二は,一見すると第三部定理一および第三部定理三とは無関係にも思えますが,こうした理由によってここに挟まれていると僕は理解しています。
 よって,第三部定理一および第三部定理三は,それ自体では人間の精神の能動と受動に関するある言及ですが,実際の意味としては,人間の身体の能動と受動に関係する事柄も含まれているといっていいかと思います。
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日刊スポーツ賞黒潮盃&第三部定理三

2011-08-18 18:38:11 | 地方競馬
 北海道,岩手,愛知,笠松,兵庫からそれぞれ1頭ずつが遠征してきた一昨日の第45回黒潮盃
 ゴーディーが逃げるだろうと想定していたのですが,大外のリアライズブラボーが制してハナに。ゴーディーが2番手に控え,兵庫のオオエライジンが3番手。ラカンパーナ,ハルサンサン,岩手のベストマイヒーローが好位を進みました。最初の800mは49秒7でミドルペース。
 3コーナーを過ぎるとゴーディーは後退していきオオエライジンが2番手に。直線は逃げたリアライズブラボーとオオエライジン,発馬が悪く道中は後方からインを進出し,最後だけ外に出したセントマーチの争い。逃げ馬もかなり食い下がりましたが,力ずくといった感じで交わしたオオエライジンの優勝。リアライズブラボーが2着に粘り,セントマーチは最後で止まった感じの3着。
 優勝したオオエライジンはこれでデビュー以来8連勝。2度の取消があるように順調にきているわけではありませんが,前走は兵庫ダービーを圧勝していました。彼我のレベル差もありますし,遠征も夜の競馬も初めてと,条件はきつかったのですが,能力で克服しました。おそらくは今後の兵庫を代表するような馬に育っていくことでしょう。父はキングヘイロー,母の父は1990年のJRA賞最優秀2歳牡馬のリンドシェーバーアストニシメントを祖にもち,名牝中の名牝クリフジ,繁殖名年藤の子孫。多くの活躍馬のある一族で,近いところでは1997年の名古屋優駿を勝ったシンプウライデン
 騎乗した兵庫の木村健騎手,管理している兵庫の橋本忠男調教師には初の南関東重賞制覇。兵庫は長らくアラブのみの競馬を行っていたこともあり,兵庫所属のサラブレッドの南関東重賞初制覇となりました。

 それでは考察をさらに先へと進めていきます。人間の精神mens humanaの能動actioと受動passioをどのように理解するのかということを検討する場合には,第三部定理一だけでなく,第三部定理三も重要です。
 「精神の能動は妥当な観念のみから生じ,(Mentis actiones ex solis ideis adaequatis oriuniur.)これに反して受動(passiones)は非妥当な観念にのみ依存する」。
 妥当な観念と非妥当な観念というのが十全な観念と混乱した観念に該当することはここでも当然ながら同じです。
 この定理Propositioの大部分は,第三部定理一から帰結します。というのは,第二部公理三により,思惟の様態cogitandi modiのうち第一のものは観念ですから,思惟の有限様態,すなわち個物res singularisである人間の精神は,第一にある観念によって構成されます。このことは第二部定理一一からもそうであるといわれなければなりません。そこでそのときに,人間の精神は十全な観念を有する限りでは必然的にnecessario能動的であり,混乱した観念を有する限りでは必然的に受動的であるとしたら,人間の精神を構成する観念のうちに,十全な観念でも混乱した観念でもないような観念があるのでない限り,いい換えれば人間の精神の一部がそういった観念によって組織されているのでない限り,人間の精神の能動は十全な観念のみから生じ,人間の精神の受動は混乱した観念のみから発生するということになるであろうからです。ここでは第三部定理一の,少なくとも後半部分に関してはきちんと証明していませんから,そこの部分では問題が発生するかもしれませんが,このことを脇においておくならば,実はこの第三部定理三を証明するときに肝心になってくるのは,人間の精神を構成している観念は,あるいはそれに特定せず,一般に観念といわれるものはといってもいいのですが,それは十全な観念であるかそうでなければ混乱した観念であるかのどちらかであって,それ以外の観念というものは存在しないということだと僕は考えるのです。そしてこのことが,人間の精神だけに限らず,一般的にスピノザの哲学における能動と受動とを理解する場合に,非常に重要なことになってくると僕は思うのです。といいますのは,もしも十全な観念と混乱した観念以外の観念がないのだとすれば,少なくともこの定理により,人間の精神は能動的であるか受動的であるかのどちらかであるということになると思うからです。
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農林水産大臣賞典サマーチャンピオン&類似性

2011-08-17 18:28:17 | 地方競馬
 昨日は佐賀競馬の夏の目玉,第11回サマーチャンピオン(動画)が行われました。
 愛知のカツヨトワイニングが発走直後に落馬。笠松のエーシンクールディがハナを奪い,トーホウドルチェとスーニが続きました。前半の600mは35秒8でミドルペース。
 このペースを見越してかスーニは向正面から早くも動いていき,直線手前では先頭。そのままスピードは衰えず,4馬身もの差をつけてレコードタイムで圧勝。トーホウドルチェが流れ込むような形の2着。中団から追い上げたダイショウジェットが3着。
 優勝したスーニは昨年4月の東京スプリント以来の重賞6勝目。近況成績からはかなりハンデを背負わされたという印象でしたが,総体的なメンバーレベルはそれほどは高くなく,能力通りの勝利ともいえそう。強気に動いていった騎乗も素晴らしかったと思いますし,こういう荒っぽいレースの方が馬にも適しているように思われます。3代母がファンシミンの妹。
 騎乗した川田将雅[ゆうが]騎手,管理している吉田直弘調教師にはサマーチャンピオン初制覇。
                    

 一方,第三部定理一の後半の部分についてですが,これについては,すでに説明したように,僕はAの精神のうちにXの十全な観念があるのなら,それはAのXに対する能動を意味していると理解していること,ならびに,Aの精神のうちにXの混乱した観念があるのなら,これはAの受動を意味していると理解しているということのみをここではいっておくことにします。僕はこのことがこの定理の後半部分の証明に直ちになるとは考えませんが,今の段階でしなければならないことというのは,僕自身が一般に精神の能動と受動,ないしは人間の精神の能動と受動ということをどのように理解するのかということを説明することであって,そのためには必ずしもこの定理のこの部分が証明されていなければならないというものではないからです。むしろ僕自身がすでに示したこと,すなわちAの精神のうちに何らかの十全な観念があるならばそれがAの能動を含み,逆にAの精神のうちに何らかの混乱した観念があるのであればこれはAの受動を含んでいるということと,スピノザがこの定理の後半部分で述べていること,つまり人間の精神は十全な観念を有する限りでは能動的であり,混乱した観念を有する限りでは受動的であるということの間には,一見しただけでそれと分かるようなある類似性があるといっていいのではないかと思います。そして現在の考察の上では,ここに類似性があるということだけ理解してもらえればそれで十分です。
 ただし,僕は念のために次の点だけはいっておきます。第三部定理一は実在的に理解されなければならない定理です。したがってこれが人間の精神に関する言及であるのならば,人間の精神のうちには十全な観念もあるし混乱した観念もあるということ自体が明らかになっていなければなりません。
 このためには毎度おなじみですが,岩波文庫版117ページの第二部自然学②要請三を参照します。これによって現実的に人間が存在するなら,その身体は何らかの外部の物体によって刺激を受けるということが不可避であることになるでしょう。そしてそのことが生じれば,まず第二部定理一七によってその人間の精神のうちに外部の物体の表象像,つまり混乱した観念が発生し,次に第二部定理三七および第二部定理三八により共通概念,すなわち十全な観念が発生することになるでしょう。
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竜王戦&第三部定理一

2011-08-16 23:10:49 | 将棋
 1組トップ2の対戦となった第24期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第一局。
 振駒で久保二冠の先手。石田流を目指しましたが丸山九段が4手目に角交換。先手がいきなり仕掛けて乱戦となり角を打っては取り合うような力戦。先手が居飛車,後手は袖飛車という形になりました。また角を打ち合って時間を投入しての難解な中盤戦。後手はじわじわと盛り上がっていき,駒落ちの上手のような指し方だと感じました。このあたりは僕も後手ペースであったように思います。こういう将棋は先手がどこかを食い破るか,後手が完封してしまうかが焦点となります。本局は先手が2筋方面から手を作ることに成功,少なくとも完封されるおそれはなくなりました。第1図から観戦。
                         
 陣形が違いすぎるので,先手の方が勝ちやすそう。とくにゆっくりしていれば後手はどんどんチャンスを減らしていきそうです。△7六歩と叩いて▲同銀に△7三銀と角に当てました。角を逃げれば金に逃げられますから▲4四桂と取るだろうと思いましたが先に▲2四歩と突き出しました。△同金は当然でそれから▲4四桂。△7四銀も当然。検討する間もなく▲3ニ桂成でしたがこれは▲3三金~▲2四飛を狙った厳しい手。歩は足りているので連打かと思いましたが△2八歩▲同飛に△2六歩(第2図)でした。
                         
 手番を得て先手は▲7三金。飛車は渡せないと△9ニ飛。▲7ニ金は当然で△同飛は目から火が出ますので△4三銀と引きました。▲4二成桂は自然な一手。ただこれでも△7二飛とはできません。そこで△6四桂と攻め合いましたが,質駒をひとつ拵えた意味もあり,損得は微妙だったと思います。▲4三成桂は検討の第一候補。ここで△7二飛と取りました。いろいろ考えましたが▲4四銀は最もシンプルに思える手ですから,これで勝てれば最善だと思います。△7六桂は攻めるならこれしかないところですが▲3三銀成△2五玉▲5八角(第3図)で外されてしまいます。これははっきり先手の勝ちになったと思い,検討は終了しました。
                         
 この後,攻め合って勝つことは望めない後手が入玉を目指して猛烈に粘りました。実際に僕が考えていたよりかなり難しかったと思いますが,最後は捕まって先手の勝ちとなりました。
 久保二冠が先勝。第二局は31日です。

 これでスピノザの哲学における能動および受動ということを僕がどのように理解するのかということについては説明することができました。よって今回の考察の内容として僕が企てている事柄のうち,第一の部分に関しては,そのほとんどが終了したといえます。ただし,もう少しだけ述べておきたい事柄が残っていますし,後では,人間の精神の能動および受動に関して,具体的に説明するという意図を有していますから,まずそこの部分についてのスピノザの言及というのがどのようになっているのかということを詳しくみておくということにします。
 このあたりのことは別の考察の中でも何度か触れたことがあるのですが,ここでは改めてそれらの事柄を分析します。まず第三部定理一です。
 「我々の精神はある点において働きをなし,またある点において働きを受ける。すなわち精神は妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きをなし,また非妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きを受ける」。
 まず,ここでも我々ということばが出現していますが,この定理における我々に関しては,現状の考察から離れ,単に人間のという意味に理解することにします。したがってこの定理は人間の精神に関するある言及であると理解することになります。これを一般的に理解すると,また精神とは何であるかという別の問題が生じてくることになるので,その煩雑さを現時点では回避することがその目的です。また,妥当な観念とはこのブログでいうところの十全な観念であり,非妥当な観念とはこのブログでいうところの混乱した観念であるということは同じです。これは各々のラテン語をどう日本語に訳するかということの相違でしかありません。
 次に,この定理の前半部分ですが,これは現実的に存在する人間の精神には能動と受動が現実的に生じるという意味に理解できると思います。僕はすでに,現実的に存在するどんな個物にも,能動と受動が必然的に発生するといことについては証明しました。人間の精神というのは,神の思惟の属性の有限様態,すなわち個物にほかならないわけですから,そこの部分についてはすでに証明されていると考えます。よってこれについてはそれ以上の証明はしません。
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農林水産大臣賞典クラスターカップ&受動

2011-08-15 19:42:18 | 地方競馬
 JRAから出走の5頭に重賞の勝ち馬が不在という,やや珍しいメンバー構成での争いになった第16回クラスターカップ
 あまり押すことなく自然な形でラブミーチャンの逃げ。ドスライスが楽に2番手で,やや押しながらエイシンタイガーが3番手。この3頭がほぼ雁行状態で4番手以下を引き離すレース展開。前半の600mは34秒0で,これはハイペース。
 直線に入るところではエイシンタイガーがついていかれなくなり脱落。残る2頭も手応えの差は歴然としていて,外のドスライスが直線半ばではラブミーチャンを置き去りに。そのまま6馬身差の完勝となりました。ラブミーチャンは苦しくなり,中団から外を差しこんだグランドラッチが2着。ラブミーチャンも3着は確保。
 優勝したドスライスはこれが重賞初制覇。冒頭に記したようなメンバー構成でしたので,それなら前走でオープンを勝っているこの馬が,ラブミーチャン以外に負けることは考えづらく,順当といっていい勝利。かなりの差をつけましたので,もっと強いメンバー相手でもやれるかもしれません。1400もこなしてはいますが,1200の方がよいように思います。ゴルフで打った球が曲がることをスライスするといいますが,それが極度であるのがドスライス。
 騎乗した柴田善臣騎手はクラスターカップ初勝利。管理している森秀行調教師は2001年,2004年,2006年と勝っていて,5年ぶりの4勝目。

 能動actioに続いて受動passioを僕がどう理解するかを示すことにします。
 まず,Aが部分的原因causa inadaequata,causa partialisとなってXが生じるとき,これをAの受動と解します。そしてこれを認識論的に示すならば,Aの観念ideaを有するとともにほかのものの観念を有する限りで神DeusのうちにXの観念があるとき,これをAの受動と解するということになります。そしてこの場合には,Aの精神mensのうちにはXの混乱した観念idea inadaequataがあるということになります。なお,Aの精神ということについては,僕自身はAがどんな任意のものであったとしても成立すると考えますが,やはり現時点では能動に関して説明したときと同様の理解であっても構いません。
 第一部公理四が示していることは,結果に関して十全な認識を得るためには,その原因の認識が不可欠であるということです。しかし,ある結果に対する原因というのは,たとえば第二部定理一七で説明されている人間の精神mens humanaによる外部の物体corpusの表象imaginatioの場合のように,あるひとつの個物res singularisであるとは限りません。もっとも,これはだから部分的原因というものが現実的に実在するという意味にほかなりませんから,当然のことといえば当然のことでしょう。したがって,認識論的な部分の説明における,Aの観念を有するとともにほかのものの観念を有する限りでの神というとき,僕はそのほかのものというのを,あるひとつのものというように理解しているわけではありません。みっつとかそれ以上の数の個体が関係し合うことで,あるひとつの結果が産出するということも,十分に考えられますし,実際にあるであろうからです。したがってこの理解というのは,厳密にいうならば,受動一般についての理解ではなくて,ある任意のものであるAの受動についての理解であると考えてください。このときXの観念が,Aの観念と何かほかのもの,それはいくつであっても構わないけれども,ただAの観念を有するだけでなく,Aの観念とさらに何かほかのものの観念を有する限りで神のうちにあるならば,僕はこれをAの受動として理解するということです。
 能動の場合と同様,これらみっつも,それぞれ単独では完全に別の事柄の記述であるという理解が可能であると思います。しかしこれらはいずれもAの受動に関する記述であるということは同一で,それを別の観点から表現しているといっていいと思います。
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読む全日本プロレス&能動

2011-08-14 20:00:22 | NOAH
 アラビアの怪人黒い呪術師に関する和田京平の回顧の中で,『読む全日本プロレスに』ついて少し触れましたので,この本を紹介しておきます。
                         
 基本的にこの本は,2004年に発表された「人生は3つ数えてちょうどいい」という本が文庫化されたもの。ただしその本は,馬場の死について詳しく書かれた8章まで。文庫化にあたり9章が追加され,ここの部分は武藤が社長になってから,いい換えればNOAH旗揚げ後の全日本プロレスについてで,さらに2009年6月の三沢の殉死についてもあとがきで触れられています。
 やはり興味深いのはNOAHの旗揚げのときの経緯についてでしょう。和田京平の理解では,和田京平自身と,三沢や仲田龍との相違というのは,馬場を信頼し支えるという点では何も違いはなかったけれども,和田京平にとって馬場というのは,元子夫人も含めて一体化されたものであったのに対し,三沢や仲田にとってはそうではなかったということ。三沢と元子夫人との間に確執が生じてしまった一因がそこにあるという見方のようです。ただし,三沢は馬場の生前から,元子夫人の存在について馬場に進言することがあったそうで,元子夫人はそれが馬場の心労となり,死の原因の一部となったとすら考えたようですが,さすがにそれは逆恨みで,むしろ三沢の方を気の毒に思ったといっています。
 三沢が辞表を提出したのが2000年の6月13日。和田によればこの日,元子夫人は全日本プロレスの株を三沢に売り渡すつもりだったと書かれています。あくまでも全日本プロレスに残った側の人による記述ですから,この日に本当にそういう心積もりがあったのかどうかは分かりません。ただ,後に元子夫人は武藤に全日本プロレスを完全に明け渡していますので,三沢に対してもそういう気持ちがあったということは事実なのではないかと思います。
 和田は最近になって,おそらく不本意と思われる形で全日本プロレス退団しました。全日本プロレスの最良の時代に,多くの名勝負が誕生しましたが,それはそうした試合のほとんどを裁いた和田の功績も非常に大きかったと僕は思っています。

 これで一般的に能動と受動を僕がどのように理解するのかということを示すための条件が出揃いました。
 まず,あるものAがあって,このAが十全な原因となってXという結果を産み出すとき,いい換えればXという結果が生じる場合にその原因がAのみによって十全に説明されるとき,このことを僕はAのXに対する能動であると理解します。そしてこれを,このような実在論的な仕方ではなく認識論的な仕方で記述するなら,Aの観念を有する限りでの神のうちにXの観念があるとき,これをAのXに対する能動であると理解するということになります。そしてこのとき,Aの精神のうちにはXの十全な観念があるということになります。
 かつて詳細に検討した第二部定理一三備考によれば,スピノザの哲学においてはすべてのものが精神を有するということになっています。したがって前述の最後の部分,Aの精神のうちにXの十全な観念があるということを,僕はAが任意のものである,すなわちどんなものであると規定したとしても成立するというように考えます。ただ,この点に関してはこれを訝しく考える方もいらっしゃるでしょう。あとで説明しますが,スピノザの哲学でいう精神というのは,平行論におけるある関係のことであり,何らかの思惟機能を意味するわけではないので僕はAがどんなものであっても成立すると解しますが,このこと自体は能動が何であり受動が何であるということと直接的に関係するわけではありませんから,今の段階ではたとえばAというのをある人間とのみ解釈し,その人間の精神のうちにXの十全な観念があるというように,限定的に理解してもらっても結構です。
 これらみっつの事柄,つまりまずAが十全な原因としてXを産出すること,次にAの観念を有する限りで神のうちにXの観念があるということ,そして最後にAの精神のうちにXの十全な観念があるということは,各々を単独でみてみるならば,それぞれが別々の事柄を記述しているというように理解することができると僕は認めます。しかし同時にこれらみっつの事柄は,AのXに対する能動を示しているという点では完全に一致します。したがって実はこれらみっつの事柄は,同じ意味になるようなことを,それぞれが異なった観点から説明していると理解することが可能だと思います。
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知的整理&神との関係

2011-08-12 20:52:03 | 将棋トピック
 たとえばある事柄を認識することに,基礎的なことから複雑なことまで10の段階があるとします。9の段階まで達して10を目指すためには,9だけをクリアしていればよいというものではなく,1,2,3と順にひとつずつクリアしていく必要があります。僕はそうしなければ10に達することはできないと考えています。これは哲学の理解を進めていくにあたって心掛けていることです。ここでは次の段階に至るために前の段階をクリアしていくことを知的整理といっておきます。
 これは知的作業だけでなく,身体の新しい運動技能の習得の場合にもたぶん当てはまります。野球選手がキャッチボールのような基礎的段階を繰り返すのは,それなくしてはさらなる技術の向上は望めないからだと思います。
 たぶん将棋にもこうしたことがあるのです。王位戦第四局はそうしたものだったのかもしれません。僕がこのことに気付いたのは,片上大輔六段がこの将棋を知の整理と表現していたからです。
 9の段階から10の段階を目指すための知的整理は,3の段階にしか達していない者には意味が分かりません。僕がこの将棋を不思議な将棋としか感じ取れなかったのは,そのことが関係しているからです。タイトル保持者同士が知的整理を行う場合,その段階はかなり高度なものである筈です。プロであってもそのことの真意を十全には理解することができない棋士がいたとしても不思議ではありません。そうであるなら僕にそれが理解できなかったのは,むしろ当然だといえます。
 知的整理は知的段階を高めていくための作業としては必要不可欠なもの。そして同じくらい重要なのは,当事者がそのことを意識しているかどうかです。もしもそうした意識なしに,ただ漠然と反復作業を繰り返しているだけならば,知的進歩を望むことはできないでしょう。そしてその作業はもはや知的整理とはいえません。

 いってみればこのあたりのことは基本中の基本に属するわけですが,ここは大事なところなので,もう少しだけ考察を深めておくことにします。『エチカ』では第一部定理一六にあるように,すべてのものは神がなくてはあることも考えることもできないということになっています。したがって事物の認識,すなわち事物の観念について考える場合には,その観念が神のうちでどのように生じているのかということが非常に重要になってくるのです。なお,第二部定理七系の意味,すなわち神のうちにある観念はすべて十全な観念であるということに前もって注意しておいてください。
 再び第一部公理三第一部公理四を援用し,Aが十全な原因となってXが発生する場合,Xの十全な観念はAの十全な観念のみに依存しますから,神はAの観念を有する限りでXを十全に認識することとなるでしょう。ところで,Aの観念というのは,Aの精神にほかなりません。これはAというのをある人間の身体であると仮定すれば,第二部定理一一第二部定理一三から明らかです。よってこれはAの精神のうちにXの十全な観念があるという意味に理解して差し支えないのです。よってAが人間であると仮定すれば,このAという人間の精神のうちにXの十全な観念があるということになります。これがAの能動です。
 一方,AとBがそれぞれ部分的原因となってXが発生するという場合には,Xの観念というのは,AとBの各々の観念を有する限りで神のうちにあるということになります。したがってこの場合に,Aというのをある人間と考え,Aの観念というのをAの精神であると仮定すれば,このAの精神のうちにはXの十全な観念があることはできません。なぜならXの十全な観念は,この場合には,Aの精神の本性を構成するとともに,Bの観念を有する限りで神のうちにあるということになっているからです。したがって,Aの精神というのを神と関連付けずにただそれ自体でみるならば,Aの精神のうちにもXの観念はある,いい換えればAはXを認識はするでしょうが,その観念は十全な観念ではなく,むしろ混乱した観念であるということになります。これがAの受動を意味します。また,同様の方法で説明することにより,これは同時にBの受動でもあるという意味になります。
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