スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

妙手⑱&第二部定義三説明

2012-02-28 18:23:26 | ポカと妙手etc
 第7期竜王戦2組2回戦より。
                         
 実はここまでの棋譜が不明なのですが,1筋の突き合いや後手の右銀の状況から,相掛りから先手が後手に横歩を取らせるべく再び2筋に歩を合わせたのだろうと思います。手数もその手順での僕の想定です。
 ここで後手は実に157分も考え,☖8八角成を決行しました。
 後手にとって最も都合のよい進展は,☗同銀☖3三角☗2一飛成☖8八角成☗同金☖同飛成。横歩取りである攻め筋で,部分的には☗3一龍☖同金☗3三角が王手龍取りとなっていけないのですが,この場合は先手が5八に玉を上がってしまっているので☖8八飛成は王手で,この反撃はありません。
 実戦ですが,☖8八角成に☗同銀はこの一手。☖3三角に今度は先手が98分の長考で☗2一飛成。そして☖8八角成のときに☗6八角と打ちました。
                         
 ☖7六飛と逃げるのは馬がタダですから論外。8筋に引いても馬を取られ,☖同飛成が今度は王手にならないので先述の反撃が効きます。仕方がないので☖2二馬と引いたのですが,☗3一龍☖同馬と取ってから☗8六角と飛車を取り,将棋も先手が勝ちました。
 どうも第2図は先手の技が掛かっているようです。後手が横歩取りに誘導しようとしたのに対し,先手が拒否して☗5八玉と上がる手は,第60期王将戦挑戦者決定リーグ戦の最終局で指されています。これにも☖8八角成~☖3三角がありそうに思えるのですが,同じように☗6八角があるので成立するということなのかもしれません。

 ここで,スピノザの哲学において,精神mensが事物を認識するという場合の,ふたつの分類を再確認しておくことは有益なことでしょう。僕がいっているのは第二部定義三説明における分類のことです。第二部定義三は,観念ideaの定義Definitioで,それがある概念conceptusであると示されているのですが,その直後にスピノザは以下のような説明を与えています。
 「私は知覚というよりもむしろ概念という。その理由は知覚という言葉は精神が対象から働きを受けることを示すように見えるが,概念はこれに反して精神の能動を表現するように見えるからである(Dico potius conceptum, quam perceptionem, quia perceptionis nomen indicare videtur, Mentem ab objecto pati. At conceptus actionem Mentis exprimere videtur.)」。
 ここではなぜ観念の定義が知覚でなくて概念でなければならないのかということは考慮する必要がありません。これに関してはこの定義自体をテーマとして設定したおりに詳しく分析してありますから,もしも興味があるという場合にはそちらをお読みください。今の考察で重要なのは,スピノザがここで知覚ではなく概念であるとわざわざ断っているように,精神による事物の認識cognitioには,精神が事物を知覚するという場合と,精神が事物を概念するという場合の,二通りがあるのだということです。現在は人間の精神mens humanaによる個物res singularisの認識にのみ限定して考察を進めているところですが,この説明は精神一般による事物の認識に適用されるのですから,人間の精神が何事かを認識するという場合にも適用されなければならないということはいうまでもないことでしょう。
 ラテン語では知覚がperceptioで,ここでいわれる場合の概念はconceptusです。スピノザはこの説明では明らかにこの両者を使い分けているのですが,『エチカ』の全体を通していうならそのことが貫徹されているわけではないということは,岩波文庫版の訳者である畠中尚志も指摘している通りです。ただし,ここではこのふたつに分けられた各々の認識の場合について,それぞれ考えていくことにします。というのは,少なくともスピノザが,事物を知覚するといわれるべき認識と,事物を概念するといわれるべき認識のふたつのタイプがあると考えていたことは間違いないので,人間の精神による事物の認識のあり方について考察するなら,やはりその双方を考えておく必要があるからです。
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東日本大震災被災地支援花月園メモリアルin小田原&知性の思惟作用

2012-02-26 18:35:54 | 競輪
 今年度は小田原競輪場を舞台として争われた花月園メモリアルの決勝。並びは矢口ー阿部の上越,松田ー十文字の茨城,岸沢ー有坂で東日本,伊藤ー松岡-小岩の西日本。
 誘導の後ろに岸沢,3番手に矢口,5番手に伊藤という隊列を松田が抑えにいったのが残り2周のホームに入る前。これをさらに外から伊藤が叩いたのがホーム。そこから伊藤はほとんどペースを落とさなかったので,4番手に松田,6番手に岸沢,8番手に矢口という一列棒状で打鐘から残り1周のホームに。後ろにおかれた矢口が巻き返していきましたが,バックに入ると松岡が番手から発進。矢口も頑張りましたが一杯に。直線はそのまま後ろを振り切って松岡が優勝。松田の後ろから松岡の外に進路を取った十文字が2着で,内に行った松田が3着。
 優勝した兵庫の松岡健介選手はこれがグレードレースの初優勝。ここはダービーを直後に控えている関係から主力級の選手の参戦はなく,その中では優勝候補のひとりと目されていました。今日は伊藤が気風よくいってくれた上に少しも絡まれるシーンがありませんでしたので,やや恵まれた面があったことは確かでしょうが,完全優勝でしたから,今回のメンバーでは力量も上位であったようです。

 第二部定理一一第二部定理一五から,人間の精神mens humanaというのが,多数の個物res singularisの観念ideaによって構成されているひとつの観念であるということだけを読み解くとすれば,これは人間の精神というものが,ひとつの知性intellectusにほかならないということになります。そしてもちろんこのことは,とくに人間の精神だけに該当するような事柄ではありません。しかもそれは,人間の精神のような有限なfinitum知性にのみ該当するのではなく,神Deusの無限知性intellectus infinitusにも該当しなければならないでしょう。よってこうした観点から神の無限知性というのを理解するならば,それは無限に多くのinfinita観念が協同して組織するようなひとつの知性であるということになると思います。
 福居純は『スピノザ「共通概念」試論』の中で,無限知性というのはひとつの個物であるとみなしてよいと主張しています。無限知性というのは思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態ですから,第一部定理二一の仕方で,神の思惟の属性を直接的な原因causaとして発生します。いい換えれば第二部定理九の仕方で,ある個物の観念に変状した限りでの神の思惟の属性から発生すると規定されている個物の観念とは異なりますから,僕は無限知性が個物であると主張すること自体には懐疑的ですが,福居純がそこでいわんとしている事柄は,僕がここで展開している論理とそう隔たりがあるものではないと思います。
                         
 ところで,知性というのが思惟の様態cogitandi modiであるということは,とりもなおさず知性がある思惟作用をなすものであるということを意味します。それが思惟の様態である限り,何らかの思惟作用をなさなければならないということは,僕が第二部定義三をテーマとして設定したときに詳しく分析した事柄ですので,ここではそれを繰り返しません。ただ,第二部公理三にあるように,思惟の様態のうち第一のものというのは観念ですから,ある思惟作用をなすということは,それが何らかの観念を形成するということが第一義的な意味でなければならないということにはここでも注意しておいてください。したがって知性というのは,それがどんな知性であったとしても,何らかの観念を形成しなければならないということになるのだと僕は考えます。
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棋王戦&精神と知性

2012-02-25 18:48:54 | 将棋
 北陸地方を西進,金沢市での対局となった第37期棋王戦五番勝負第二局。
 先手は久保利明棋王。郷田真隆九段の2手目が△3四歩でしたので三間飛車に。後手が最も激しくなる戦いを挑んだのですが,対する先手の指し方には度肝を抜かれました。
                         
 ここで▲7四歩と仕掛けるのはない手ではないと思いますから驚きません。△同歩は当然。そこで▲5五角と飛車銀両取りに打ちました。△7三銀はこの一手でしょう。そこで▲7四飛。1回7六に飛車を浮いていますので,厳密には少し損かもしれませんが,歩を取り返すという意味ではこれも普通の手かと思います。そこで△6四銀と出た手も,このまま7三を放置はできないので自然に感じられます。しかし次の▲8四飛には驚きました。こんな序盤早々から飛車をただで捨てる手があるとは思いませんでした。△同飛は当然。▲2二角成で銀を取り返して馬を作りました。
                         
 先手からこう進めたわけですから,これでもやれるとみていたのでしょう。ただ,実戦の進行からみるとどうも無理筋であったように思えます。この後,意表の自陣飛車を打った後手が快勝しています。
 郷田九段が勝って1勝1敗のタイに。最近は久保棋王相手にはやや苦戦傾向にあると感じていましたので,大きな1勝ではないでしょうか。第三局は来月4日です。

 人間の精神という限定を少しだけ離れ,もっと一般的な意味で,あるものが観念であるということ,なかんずくそれが単純な観念ではなく,複数の個物の観念によって組織されているような観念であるということと,そうした観念がある事物を認識するということとの間に,どのような相違があると僕が考えているのかということを,ここでもっと具体的に示しておくことにします。これがクリアーにならないと,第一の課題を本質的な意味において解決する糸口まで辿りつくことができないからです。
 まず最初に,スピノザの哲学において,複数の個物の観念が,第二部定義七で示されているような意味で協同してひとつの個体を組織するとき,そのように組織されたひとつの個物の観念は,知性といわれます。スピノザ自身は『エチカ』においては,知性というのは個々の観念の総体であるというようないい方をしますが,スピノザの哲学における一般性と特殊性の考え方からすれば,知性とは個々の観念であると説明するよりも,個々の観念の総体のことを知性と名指すという方が,より適した説明の仕方であるということは,すでに別の考察の中で示した僕の考え方です。したがって第二部定理一一というのは,人間の精神がひとつの知性であるという意味を同時に含んでいることになります。
 このとき,精神といったり知性といったりするのは,本当はややこしいのですが,この使い分けには理由がないわけではないと僕は考えています。その理由はふたつあって,ひとつは知性というのが観念の総体であるという点です。すなわち観念というのは思惟の様態ですが,思惟の様態というのは観念だけではありません。したがってそれがたとえばある人間を構成する観念の総体を意味するときには人間の知性といい,さらにそれ以上の,意志とか感情とかいった思惟の様態も含む場合には,その人間の精神ということになります。
 もうひとつは,知性も精神も思惟の様態ですが,神のうちにある観念の対象ideatumは,神の知性の外に形相的に実在し,その対象と観念が合一しています。とくにこの合一を眼中に入れた場合には,それはその知性とはいわれずに,その精神といわれることになります。
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王将戦&第二部定理一五

2012-02-23 19:07:28 | 将棋
 久保利明王将にとっては生まれ故郷となる兵庫県加古川市での対局になった第61期王将戦七番勝負第四局。
 久保王将の先手で三間飛車。佐藤康光九段は金銀が左右に分裂するようなあまり見たことがない対応。今日は最後のところを観戦することができました。
                         
 この局面が初見でしたので▲7四桂は意味が分かりませんでしたが,金を取ったもの。ここから△7六飛▲同銀と飛車交換になり△7八馬。先手は▲3三角成と切って△同桂に▲1五歩と弱くなった端を攻めていきました。そこで△4八歩。▲同金は予想通りですが△6九馬は少しも考えていませんでした。後手は歩切れになっているので▲1四歩と取り込むかと思いましたら▲4一飛と打ちました。対して受けずに△5九飛と打ったのには驚きました。何か先手に勝ちがあるのではないかと思ったのですが,▲4九金と受けました。そこで後手も△3一金打。これは実戦の▲5九金で後手が困ると思いました。△4一金は仕方ないでしょうが▲6九金で馬も取れました。
                         
 すぐには終らなくても先手が負けることは考えにくくなったと思った局面。△1五歩とでもするのかと思っていると△9九飛。▲7九歩と受け△9八飛成は当然。そこでも▲5八歩と受け,そこで△1五歩でした。▲7五銀と取って桂馬を攻めに使う手順を考えていましたがさすがにそんなことはせず▲1三歩。もちろんこれも予想はしていた手。後手は△5ニ香と打ち,▲1五香にも△5八香成ですが,これはさすがに先手の勝ちと見て検討終了。以下は即詰みとはならなかったものの,問題なく先手が勝っています。
 久保王将がシリーズ初勝利。どこまで巻き返してくるでしょうか。第五局は来月8日と9日です。 

 人間の精神というのは,それ自体が神の思惟の属性の一個物ではあるのだけれども,それは単純な個物なのではなくて,きわめて多くの個物によって組織されているようなひとつの個物であるということを示している定理は『エチカ』の中にもあります。それが第二部定理一五です。
 「人間精神の形相的有を構成する観念は単純ではなくて,きわめて多くの観念から組織されている」。
 ここでの考察においては,先に証明をしておいて,この定理を導き出したも同然です。したがって繰り返しを避ける意味でも,これ以上の証明はしません。問題はこの定理自体が,第一の課題を解消するに値しているのかどうかということです。
 結論から先にいってしまえば,僕はこの定理だけでは現在の第一の課題が完全に解消されているとはいえないと思います。あるいは,本当はこれで解消されているのかもしれないのですが,それについてやや疑わしく思うところもあるのです。その理由を説明していきましょう。
 一見するとこの定理は,人間の精神のうちにある個物の観念があるということを,それ自体で示しているようにも思えるのです。というのは,この定理は,もしも人間の精神が現実的に存在するのであれば,それ自体がきわめて多くの個物の観念から組織されていなければならないということを明らかに述べているからです。これは確かに,人間の精神のうちに,それを現実的に構成しているきわめて多くの個物の観念があるのだということを意味しているように思います。しかし一方で僕がこれだけでは現在の課題が完全に解消されているともいえないのではないかと思うのは,これは単に人間の精神のうちに個物の観念があるということを示しているだけであって,人間の精神が個物の観念を認識しているということにはならないのではないかと考えることができるからなのです。つまり,現在の課題は実際には人間の精神が個物の観念を認識するということなのですが,認識するということは,その観念をいわば生成するというような意味なのであって,ただ単にそれがあるというだけでは不十分であるというように思うのです。よって確実を期すためには,この疑問も解消しておく必要があります。
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桜花賞トライアルユングフラウ賞&人間の精神

2012-02-22 19:13:50 | 地方競馬
 3着以内の馬に来月の桜花賞の優先出走権が与えられる第4回ユングフラウ賞
 ここ2戦,逃げて連勝していたコテキタイの逃げは予想通りではありましたが,モリヤッコとリカチャンスが追い,さらに外からアイキャンディも追い上げていったため,最初の600mが36秒8という超ハイペースになりました。
 それでもコテキタイは2頭を振り切り先頭で直線へ。変わって並んできたのが5番手に控えていたアスカリーブル。さすがにコテキタイに余力は残されていなかったようで,直線半ばではアスカリーブルが抜け出して優勝。後ろ目に控え,向正面から進出を開始したレイモニが大外を伸びて2着。一旦は控えて再度脚を伸ばしたリカチャンスが3着。
 優勝したアスカリーブルは園田デビューで4連勝して大井に転入。その転入初戦も勝って連勝を5まで伸ばしましたがその後は3連敗。その後,船橋に移籍してここに出走していました。トップクラスとは差があると思うのですが,ここはそうした馬が不在で,優勝候補の1頭と考えていました。船橋への移籍がよい方向に作用したとも考えられますが,次が試金石となるのではないかと思います。父は1999年のセントライト記念を勝ったブラックタキシード。Libreはイタリア語でてんびん座産まれ。
 騎乗したのは大井の戸崎圭太騎手でニューイヤーカップに続き浦和の南関東重賞3連勝。第3回に続いて連覇でユングフラウ賞2勝目。管理することとなった船橋の川島正行調教師も連覇となる2勝目でした。

 まず第一の課題の方から解決を目指していきます。このためには『エチカ』において人間の精神mens humanaというものがどのようなものであると規定されているのかを確認しておく必要があるでしょう。
 スピノザがこれについて最初に言及しているのは第二部定理一一です。そこでいわれていることは,人間の精神の対象ideatumを構成する最初のものは,現実に存在するある個物res singularisの観念ideaでなければならないということです。第二部定理九証明から理解できるように,その観念の対象が個物であるような観念は,それ自体が思惟の属性Cogitationis attributumの個物であるということでなければなりません。よって第二部定理一一が実際に意味している事柄は,人間の精神というのが,現実的に存在している個物の観念であるということ,ならびにそれは人間の精神は神Deusの思惟の属性の個物であるということになります。
 第二部定理一三では,その観念の対象というのが具体的に措定されます。つまりそれはその精神を有する人間の身体humanum corpusであるということです。したがってこれらのことからまず,人間の精神というのが,その人間の身体という延長の属性Extensionis attributumの一個物の観念であるということ,したがって人間の精神自体が,思惟の属性の一個物であるとみなされなければならないということが理解できます。つまり,現在の課題は人間の精神のうちにある個物の観念が現実的に存在するのかどうかを調べることですが,その問い以前の事柄として,人間の精神自体が個物の観念であるということになります。
 ただし,ここでいわれている個物というのは,第二部定義七でいわれているところの,多数の個物が協同することによって組織されているひとつの個物であるとみなされなければなりません。これは第二部自然学②要請一から明らかです。この要請Postulatumにより,人間の身体がきわめて多くの個物の協同によって組織されている一個物であるということは明白です。そして人間の精神というのは,その対象がそのようにきわめて多くの個物によって構成されている個物なのですから,人間の精神がひとつの個物であるとみなされる場合にも,それはその人間の身体と同様に,きわめて多くの個物によって組織されていると考えなければならないのです。
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東日本大震災被災地支援久留米記念&ふたつの課題

2012-02-21 18:50:17 | 競輪
 ここもダービーに向けての各選手の仕上がり具合を見る絶好の機会となった久留米記念の決勝。並びは武田-長塚-神山の茨城栃木,岩本ー稲村で東日本,浅井-小倉で西日本,山田ー小川の九州。
 浅井が誘導の後ろ,武田が続き,外を山田が上昇し,このラインに岩本がついていったのが残り2周のホーム。まず山田が前に出て,これを岩本が叩きにいくと,武田も割って出ました。それでも岩本が強引に叩いて打鐘。3番手に武田,6番手に山田,8番手に浅井で一列棒状。しかし岩本が内を開けて流したので,武田がインから出て先頭に。岩本が番手に嵌ったのですが,長塚が外から追い上げ,番手を確保して岩本は後退。遅れをとった浅井が早めに巻き返していき,バックでは長塚の牽制はかいくぐったものの,コーナーで武田自らのブロックに遭って失速。そのまま武田はむしろ後ろを離していって優勝。直線でよく伸びた小川が2着に食い込み,長塚は番手一杯で3着。
 優勝した茨城の武田豊樹選手は前走の東王座戦からの連続優勝。記念競輪は昨年11月の大垣記念以来の優勝で,どう数えるか微妙な面もありますが,ここでは15勝目としておきます。3番手でも十分な位置だったと思うのですが,貪欲に前に出たのは好調の証。自分で当面のライバルを失速させ,直線では番手の長塚を置き去りにしたのですから,かなり強いレースをしたと思います。この選手もダービーの中心のひとりでしょう。
                         

 第二部定理九が意味することができると考えられる最終地点が明らかになったということは,さらに何が求められなければならないのかということも明らかになったということです。現在の考察の主題は,人間の精神による個物の認識のあり方ですから,この主題に沿うならば,それは次のふたつの点になります。
 すでに説明しましたように,第二部定理九は無限連鎖を示していますから,その全体を認識し得るのは神の無限知性のみです。したがってまず,第二部定理九の全体を,有限である人間の精神に適用するということはできません。したがって活用できるのはその一部分だけであるのですが,実際にその一部分を構成するだけの要素が人間の精神のうちにあるのか否かということは,それ自体で明確であるわけではありません。したがって,人間の精神のうちに,第二部定理九で示されている事柄の一部分を構成する条件が整っているのかどうか,いい換えるなら,第二部定理九で示されているような個物の観念というものが,現実的に存在する人間の精神の一部分を構成しているのかどうかということは,まず明らかにしなければならないということになります。
 次に,人間の精神による個物の認識のあり方は,結果から原因へと遡及する帰納法ではなく,原因から結果へと辿る演繹法によって示されなければなりません。よって,仮に最初の条件が成立したとしても,すなわち現実的に存在するすべての人間の精神のうちに,第二部定理九で示されているような個物の観念があるということが明らかになったとしても,それだけでは十分とはいえません。というのは,その観念があるのはある一定の原因があるからあるということは第二部定理九から明らかにすることができますが,これは帰納法であり,演繹法ではないからです。むしろそうした観念があったときに,その観念が原因となって,必然的に別の個物の観念が発生するということが証明されなければならないわけです。すなわち第二に必要なことは,ある人間の精神のうちに,あるいはこうした限定をせずとも,ある何らかの個物の観念がある場合に,その観念が必ず原因となるということを明確にすることです。
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フェブラリーステークス&限界点

2012-02-19 18:38:32 | 中央競馬
 今年もドバイから招待を受けたトランセンドの走りに注目が集まった第29回フェブラリーステークス
 好発はエスポワールシチーでしたが内からセイクリムズンがハナへ。外からトウショウカズンとグランプリボスも上がっていき,一番外でかなり押していったトランセンドは4番手がやっと。ケイアイテンジンと並ぶ位置までエスポワールシチーは控え,ダノンカモンがこれをマークしてワンダーアキュートはその後ろから。個人的には意外な展開で,前半の800mは46秒6のハイペースになりました。
 直線に入るとずらりと馬群が横に。このためにエスポワールシチーなどは進路を確保するのに汲々としていたように見えました。後方3番手に控えていたテスタマッタはこれらの外に出すと,鋭い伸びで内の各馬をまとめて捕え,そのまま抜け出して優勝。出遅れてさらにその後ろにいたシルクフォーチュンもさらに外を伸び,これも内の各馬は捕まえて2着。3着は2頭の競り合いで,ワンダーアキュートがダノンカモンを競り落としました。5着のエスポワールシチーまで,トランセンドを除けば実力上位と思われた馬たちで掲示板を占めています。
 優勝したテスタマッタは昨年のマーチステークス以来の勝利で,大レースは2009年のジャパンダートダービー以来となる2勝目。折り合いに苦労する面があり,能力を十全に発揮できないケースもあるのですが,実力がきちんと出せればこれくらいは走ってもおかしくない馬。そうした面からは距離はこのくらいが最も適しているのだろうと思われます。今後も好走と凡走を繰り返していくことになるのではないでしょうか。Testa Mattaはイタリア語で狂った頭。いかにも折り合いを欠きそうな名前ではあります。
 騎乗した岩田康誠[やすなり]騎手は昨年のジャパンカップ以来の大レース制覇でフェブラリーステークスは初勝利。管理している村山明調教師はこれが大レース2勝目です。

 第二部定理九第一部公理三と直接的に関係していると僕は考えています。ただし,第二部定理九をただそれ自体でみて,それを基礎づけている事柄を第一部公理三のうちに見出そうとするならば,それはそのふたつの意味のうち,強い意味の方ではなくて,弱い意味の方になるのだろうと思います。というのは,まず何らかの結果が実在するならばそれが実在するだけの原因が求められなければなりません。こういう前提がまずあって,それならばある個物res singularisの観念ideaが実在する場合にはその原因とは何かということが問題とされ,その解答が第二部定理九で与えられ,かつそれがどのような仕方で神Deusと関係づけられなければならないのかということがそこで同時に示されていると読解することができるからです。
 もちろんこのとき,結果としてある個物の観念というのは,その原因とされるような別の個物の観念から必然的に発生します。いい換えれば,その別の個物の観念が与えられさえするなら,必然的に探求の当初のものであった個物の観念が発生します。しかしこのことは,むしろ第一部公理三の強い意味の方から第二部定理九を解釈することによって帰結するのであり,第二部定理九のうちに与件として含まれているものではありません。
 一方,人間の精神mens humanaによる事物の認識cognitioのあり方を考察するという際には,第二部定理九のように,結果から原因へと遡及していくのではなく,たとえそれが所与のものであったとしても,何らかの観念,ここでは個物の観念に限定しているわけですからこれを個物の観念としますが,そうした個物の観念がいかなる意味で原因となって結果である別の個物の観念を発生させるのかというように考えていかなければならないわけです。そもそもこうした方法が演繹法なのであって,それがスピノザが認める正しい方法なのですから,これに従わなければならないというのは当然のことです。
 よって,第二部定理九だけに頼ってこのことを探求することの限界点がここに存するということになります。なぜなら,原因が与えられれば必然的に結果が発生するということと,ある個物の観念が原因であるということとは,明確に異なっているからです。
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王将戦&必然性の意味

2012-02-17 18:55:55 | 将棋
 うなぎ,バイク,ピアノなどで知られる静岡県浜松市での対局となった第61期王将戦七番勝負第三局。
 佐藤康光九段の先手で久保利明王将のごきげん中飛車。この将棋も③▲4八銀から互いに4筋に銀を繰り出す展開。相穴熊になることが多いのですが,本局は後手の穴熊に対して先手が急戦を仕掛ける展開となりました。時間の使い方からみて,双方がある程度まで研究してあったと思うのですが,後の手順から考えると後手の対応はまずかったのではないかと昨日の時点で思えました。
                         
 これが1日目終了時点で封じ手は△5六桂。▲5八金寄と逃げつつ馬取り。△3六馬と逃げたのに対して▲4五銀打の馬桂両取り。△2七馬はこれ以外は桂馬を取られますからこの一手。▲6五銀上と桂馬を取りにいきました。△5七歩の叩きにはあくまでも桂馬は取ると▲4七金。そこで後手は△4五馬と切り,▲同銀に△6八銀と打っていきました。
                         
 今日は午前中にアクセスすることができたのですが,それがこの局面。よく考えることはできませんでしたが,えらく差がついてしまっているのではないかと思えました。実際にその直感は正しかったよう。後手の攻めを完全に切らせた先手が反撃に転じ,圧勝しています。
 佐藤九段が3連勝。両者は初顔合わせの頃から勝ったり負けたりを繰り返し,現在でも対戦成績は拮抗していますから,このまま一方的に終ってしまうことはないだろうと思うのですが,どうなるでしょうか。第四局は来週の水曜と木曜です。

 個物Bの観念が原因となって個物Aの観念が発生するというときに,ある必然性があるということは,個物Bの観念からは必然的に個物Aの観念が発生しなければならないということを意味します。これが第一部公理三ふたつの意味のうち,強い意味の方に含まれている内容だからです。ということは,もしもある何らかの知性のうちに,個物Bの観念が存在するならば,その知性のうちには,個物Aの観念が必然的に発生するということになります。個物の観念の無限連鎖のこの一部分だけを抽出してみたときに,第二部定理九がここまでの内容を同時に含んでいるということは,僕には確かなことであると思われます。
 次に,この部分だけを抽出した場合に,第二部定理九というのは,個物Aの観念の原因は,個物Bの観念に変状した限りでの神であると説明されています。いい換えれば,個物Bの観念がこの仕方で神と関連付けられているわけです。したがって第二部定理七系の意味から,個物Bの観念と個物Aの観念は十全な観念として考えられていることになります。よって,少なくとも個物Bの観念が十全な観念であるとみられる限りにおいては,このことはどんな知性のうちにある個物Bと個物Aの観念との間で妥当しなければなりません。ここでは人間の精神ないしは知性による個物の認識のあり方が考察の対象となっていますので,それだけに限定するならば,このことは第二部定理一一系第二部定理四〇から明らかだといえます。
 しかし同様のことは,ある人間の精神のうちにBの混乱した観念がある場合にも妥当しなければなりません。というのは,これが意味しているのは,再び第二部定理一一系により,この人間の精神とさらにほかのものの観念を有する限りで神のうちにBの観念があるという意味であり,この仕方で説明されるのならBの観念は十全な観念だからです。そしてその個物Bの十全な観念を有する限りで個物Aの観念が必然的に発生するというのがこの部分の仮定ですから,同じように説明される限りで神のうちにはAの十全な観念があるということになります。前の例と異なるのは,この場合には,このAの観念がある人間の精神とのみ関連付けられるなら,それもまた混乱した観念であるということになるという点だけだからです。
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ユニバーサル杯女流名人位戦&演繹法的解釈

2012-02-16 18:37:03 | 将棋
 防衛に王手を掛けた里見香奈女流名人が関西将棋会館に清水市代女流六段を迎えて指された昨日の第38期女流名人位戦五番勝負第四局。
 清水六段の先手で里見名人のノーマル四間飛車。先手が穴熊に組み,長い序盤戦でしたが,先手からの仕掛けが成功し有利に。しかしその後の折衝で後手が盛り返していき,と金を作ることに成功し,そのあたりで逆転したようです。勝敗の帰趨を決定したのはそこだったということになりますが,この将棋のハイライトは最終盤の後手の寄せであったように思います。
                         
 ここで△6五角と打ちました。取れば飛車を抜かれるので▲7七飛と我慢。△6六龍に▲7九香と抗戦。そこで△9六歩▲同歩の突き捨てを入れると△7七龍と交換し,▲同桂に△9八角成と切って捨て,▲同玉に△9二香打。
                         
 これでもう先手は受けがなかったよう。▲8七銀右にも構わず△9六香と走り,あっという間に先手を投了に追い込んでしまいました。
 3勝1敗で里見名人の防衛となり3連覇。途中はうまくいっていなかったようですが,四間飛車でも勝ったのは,大きな意味があるかもしれません。

 テーマを設定した意図の理由の説明から推測できたかもしれませんが,僕は明らかに帰納法的に記述されている第二部定理九を,演繹法的に理解し直すことが可能であると考えています。なお,このことは第一部定理二八の場合にも同様ですが,今回はあくまでも人間の精神による個物の認識のあり方を探ることを目的としていますので,そちらについては詳しくは言及しません。ただ,第一部定理二八をいかなる仕方で演繹法的に解釈し直すことが可能になるのかということは,この後の第二部定理九の解釈の変更方法と,基本的な部分では同一です。そこでまず,なぜ第二部定理九を演繹法的に読み直すことが可能であると僕が考えているのか,その基本的な理由から説明していくことにします。
 第二部定理九は,個物の観念の,結果から原因へと遡及する無限連鎖を示しています。このときに,その無限連鎖の一部分だけを任意に抽出してみます。すると,個物Aの観念の原因はほかの個物Bの観念であるということが出てきます。わざわざ任意に抽出するといったのは,このことが無限連鎖のどの部分にも妥当するということを意味するためです。
 この部分だけを抜き取ったとき,まず,個物Bの観念が原因となって個物Aの観念が発生すると捕えることができます。これは結果の原因という観点を,原因の結果という観点に置き換えただけですから,さすがにこの置き換えに対する反論の余地はない筈です。したがってこの置き換えは成立すると前提します。
 すると,個物Bの観念から個物Aの観念が発生するのには,ある必然性があるということでなければなりません。なぜなら,第一部公理三というのは,あらゆる原因と結果のうちで成立しなければならないからです。第一部公理三にはふたつの意味があって,ここではそのうちの強い意味の方が重要になっています。そして僕はそれは公理として,いい換えれば与件として成立するとは必ずしも考えていませんが,これがすべての原因と結果の間で成立するということ自体は認めるということは,以前に考察した通りです。よってこの場合にも,原因である個物Bの観念とその結果である個物Aの観念との間に,そうした必然性があると前提します。
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東京中日スポーツ賞金盃&演繹法と帰納法

2012-02-15 18:59:30 | 地方競馬
 別定戦なのですが,ハンデ戦かと思えるくらい斤量に差がついた第56回金盃
 枠順や能力差もあり,マグニフィカの逃げとなるだろうと思っていましたが,これは予想通り。ゴーディーが2番手に控え,マズルブラストが3番手。ネイキッド,トーセンゴライアスはほとんど差がなく,スマートインパルスはその後ろ。トーセンルーチェとロードキャニオンがいて,カキツバタロイヤルはその後ろ。前半の1000mは62秒7ですから,純然たるミドルペースといえそう。
 ゴーディーは早めに後退し,マズルブラストが2番手に上がって直線。ここでスマートインパルスに先んじてトーセンルーチェが追ってきて,マズルブラストをあっさりと抜き去ると楽々と抜け出して快勝。さらにスマートインパルスとタートルベイが並んで追い込み,マズルブラストを捕えました。この2頭は接戦となりましたが,2着はタートルベイの方で,スマートインパルスは3着まで。
 優勝したトーセンルーチェはJRAで3勝し,昨春に南関東に転入。2戦目以外は掲示板を確保し続け,ここで待望の南関東重賞初制覇。斤量に恵まれているのは確かでしたが,非常に鮮やかな勝ち方で,この内容であればまだ活躍できると思いますし,少なくとも大崩れしてしまうことはないのではないかと思います。半兄は現役で大レース6勝のフリオーソ。さすがにその域まで到達するのは無理でしょうが,兄が高齢まで活躍していますから,6歳とはいえ,今後も楽しみな馬だと思います。Luceはカワカマスという魚。
 騎乗した船橋の張田京[たかし]騎手は一昨年の東京プリンセス賞以来となる久々の南関東重賞制覇で第46回,第49回,第50回を制していて金盃4勝目。管理しているのは船橋の川島正一調教師で,こちらは金盃は初勝利。

 人間の精神mens humanaが,十全にであれ混乱してであれ,ある個物res singularisを認識するということをスピノザの哲学に則して考える場合に,まず外してはならない最も重要なことは,第一部公理三に関係すると僕は考えます。すなわち,ある結果が発生するためには,その結果を必然的necessariusたらしめるような原因が必要であり,この原因の探求がまず要請されるということです。つまり,人間の精神がある個物を認識するということは,実はある結果なのであって,その個物を必然的にnecessario認識するような原因がどこかに求められなければならないということになります。逆にいえば,その原因さえ明らかになるならば,なぜその人間の精神がその個物を認識したのかということが,たちどころに明らかになるのです。これがスピノザの哲学の一般的な方法です。そしてこれ以外の方法をスピノザは認めません。いい換えれば,実はこの場合に限らず,どんな事柄を考察する場合においても,演繹法だけがスピノザの哲学においては有効な方法であるということになります。
 一方,第二部定理九の記述というのは,基本的に個物Aの観念ideaの原因は個物Bの観念であり,個物Bの観念の原因は個物Cの観念であり,という具合に,この連鎖が無限に続くというようになっています。つまりこの記述自体は,結果から原因へと遡及していくような帰納法的な記述となっているわけです。第一部定理二八にしろ,第二部定理九にしろ,そこで「無限に進む」といわれている事柄が,実はある消極的要素を含んでいると考えられるのも,こうした理由からでした。
 このことから分かるように,本来は演繹的に考えられなければならない人間の精神による個物の認識cognitioに関して,これを帰納法的に記述されている第二部定理九をそのまま利用するというわけにはいきません。利用するわけにはいかないというよりも,端的に第二部定理九は利用できないといった方が正しいでしょう。
 僕の今回のテーマ設定の意図は,実はこの部分に大きく関係しているのです。第二部定理九は,それ自体では確かに帰納法的記述です。しかしこの定理Propositioを,演繹法的に理解するということは,本当に不可能なことなのでしょうか。これが第一のテーマです。
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東日本大震災被災地支援高松記念&戦略的意味

2012-02-14 18:36:59 | 競輪
 月末から開催されるダービーに向けて各選手の仕上がり具合が気になってくる頃。今月の記念競輪はそういう意味でも重要で,今日は高松記念の決勝。並びは山崎-伏見-内藤の北日本,鈴木ー林の南関東,深谷-坂上の中部,村上ー香川で西日本。
 前受けは鈴木で3番手に村上,5番手に山崎で8番手から深谷という周回だったようです。まず山崎が動いて残り2周のホームで誘導の後ろに。これをバックで深谷が叩くと,村上がさらに外から行く構えを見せて打鐘。しかし坂上の再三にわたる牽制で村上は出られず,深谷の先行に。8番手に置かれた鈴木はホームから発進しましたがバックの入口でははや一杯。バックから今度は山崎が発進するもこれも出られず,後続に付け入るすきを与えずに逃げ切った深谷の優勝。山崎の勢いをもらった伏見が猛然と追い込んで2着。いい仕事をした坂上は3着。
 優勝した愛知の深谷知広選手は先週の西王座戦に続く2週連続の優勝で,その前のレースが年頭の立川記念でしたので,今年のレースはすべて優勝。記念競輪は4勝目。天候の関係で後ろの選手はレースがしにくかった面はあったかと思いますが,捲りを封じこんでの逃げ切りですので今日は強かったです。当然,ダービーでも有力候補のひとりでしょう。
                         

 ここで,僕が今回の考察のテーマとして,第二部定理九を選択した戦略的意味を説明しておきます。
 まず,精神というのは,それがどのように考えられようともある思惟の様態です。したがって,それは第二部公理三により,まず何らかの観念によって構成されることになります。ここでは人間の精神による事物の認識について考察しますから,人間の精神に限定していうなら,第二部定理一三により,その人間の身体の観念によって構成されるということになります。
 次に,僕は人間の精神が,属性の共通概念を有するということについては,第二部公理五により,思惟の属性と延長の属性だけではありますが,そのことを認めます。また,ここでは詳しくは紹介しませんが,スピノザは第二部定理四七において,人間の精神が神の本性を十全に認識するといっています。第二部定義二からして,これは人間の精神が神を十全に認識するといっていると解釈して差し支えないと僕は考えます。これらのことから理解できるのは,人間の精神を構成する観念の対象ideatumは,必ずしも個物だけではないということです。したがって,第二部定理九が,人間の精神によるすべての思惟作用,なかんずく認識作用を網羅するというようには僕は考えていません。しかし,現実に人間の精神を構成する観念の対象というのは,そのほとんどが個物である,そしてそれは再び第二部公理五により物体であるということは,否定できないと思います。したがって,もしもどのような仕方である人間の精神のうちに,とくにここではそれ自体が個物として現実的に存在する人間の精神による事物の認識を考察の対象としますので,現実的に存在している人間の精神のうちに,どのようにしてある個物の観念が発生するのかということを具体的に示すことができるなら,それによって人間の精神による事物の認識のあり方の大半ないしは大部分が解明されるということになると僕は考えるのです。そして第二部定理九のうちには,いかにして個物の観念が発生するかを示す要素があると僕は考えています。このために僕は今回は第二部定理九をテーマとして設定したのです。
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ジャイアント・キマラ&第二部定理九証明

2012-02-13 18:31:02 | NOAH
 黒い呪術師が全日本に復帰した後,主要なパートナーとして起用されたジャイアント・キマラ。キマラは1号,2号とふたりいたわけですが,いずれもキャラクターが前面に出たレスラーであったという点では変わりありません。僕はどちらが1号でどちらが2号なのか,分からないこともあったくらいです。
 キャラクターが前面に出るということは,裏を返せば試合の内容は評価の対象外とはいいませんが,重要視されていないということ。ではキマラのファイトスタイルがプロレスラーとして評価されていなかったのかといえば,必ずしもそんなことはなかったのではないかと僕は思っています。
 ジャイアント・馬場は1990年11月30日に,試合中のアクシデントで左大腿骨の亀裂骨折という大けがに見舞われました。このため半年ほど欠場に追い込まれ,復帰したのが翌年6月1日の日本武道館大会。これも僕がライブ観戦した日です。このとき,復帰戦の相手に選ばれたのが,ブッチャーとキマラ1号,キマラ2号だったのです。
 馬場はこのときすでに53歳。この年齢での復帰戦というのはかなり難しいものがあった筈で,対戦相手もよほどの理解が必要。相手はおそらく馬場自身が指名した筈であり,それに選ばれたということが,キマラが馬場に評価されていたことの証明ではなかったかと僕は思うのです。
 この試合は馬場が見事に勝利を飾って終るのですが,フィニッシュホールドはおそらくそれまでの馬場は使っていなかったDDTでした。それが非常に素晴らしい見栄えのDDTで,観戦していた僕は驚きました。このDDTに文句のつけようがないくらいの説得力があったのは,受けたキマラの力量も大きく介在したのではないかと思います。今にして思えば,なぜこのときの馬場が,自身の復帰戦の相手にブッチャーとキマラを選んだのか,何となく合点がいくのです。

 あくまでも第二部定理九系とは別個の定理として,いい換えればそこには系が含まれていないという認識のもとで,第二部定理九に関する考察を開始します。まずはこの定理を証明しておきます。僕の理解では,この定理の証明のために注意するべき点はふたつです。
 第一部定理一五により,もしもある個物の観念があるとするなら,それは神のうちにあります。したがってどんな個物の観念も,それを神と関係づけて説明することができます。よってそれは第二部定理三二により真の観念です。したがってそれは第一部公理六により,観念の対象ideatumと一致します。つまりその対象が個物であるような観念は,それ自体が個物であるということになります。よってそれは第一部定理二三により,神の絶対的な本性から生ずることはできません。むしろ第一部定理二八により,ある個物に変状した限りでの神を原因とすることになります。いい換えればそのような仕方で神と関連付けてその発生が説明されなければなりません。これが第一の点です。
 一方,第二部定理五により,観念の起成原因というのは,その観念の対象ではありませんし,また絶対に無限である神でもありません。それは思惟する限りでの神,いい換えれば神の思惟の属性です。これが第二の点です。
 第一の点により,神の思惟する絶対的な力が,あるいは同じことですが,神の思惟の属性の絶対的な本性が,ある個物の観念の原因であるということはできません。第二の点により,もしも神が思惟の属性以外の何らかの属性の個物に変状した場合には,その個物はどんな個物の観念の起成原因にもなり得ません。よって,個物の観念の原因は,その個物の観念とは別の個物の観念に変状した限りでの神,とくに神の思惟の属性です。しかしその別の個物の観念についてもこれと同様のことがいえます。したがってこの原因と結果の連鎖が無限に進むということになります。
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朝日杯将棋オープン&新しい解釈

2012-02-11 18:36:23 | 将棋
 第5回朝日杯将棋オープンは今日が準決勝と決勝。午前中の準決勝を勝ち抜いたのは菅井竜也五段を降した羽生善治二冠と郷田真隆九段に勝った広瀬章人七段。対戦成績は羽生二冠が5勝で広瀬七段が4勝。
 振駒で広瀬七段の先手。得意の四間飛車穴熊にすると羽生二冠も潜って相穴熊。先手は飛車を4筋に転換し銀交換に。お互いにその銀を打ち合って飛車交換となりました。
                         
 ここで△5六歩と突き,▲8二飛の先着に△6六角と出たのがうまい手順だったようで,どうやらそこで修正が効かないくらいの大きな差がついてしまったようです。以下,と金を作って駒得を果たした後手が,あっさりと勝っています。
 羽生二冠が優勝。第3回以来,2年ぶり2度目の優勝で,この名前の棋戦では初の複数回優勝者となりました。

 第二部定理九における「無限に進む」というのを,積極的に考えるなら,その因果関係の連鎖の全体が神の思惟する絶対的な力,いい換えれば神の思惟の属性から生じるということになるということは,おそらく第一部定理二六からも次のような仕方で説明することが可能なのだろうと僕は考えています。
 たとえばある個物の観念Aから別の個物の観念Bが生じると仮定してみます。このとき,個物の観念Aが個物の観念Bを発生させるという作用をなすのは,第一部定理二六により,神からの決定によります。そしてこのとき,この神は思惟する絶対的な力を有する限りでの神と規定されることになるのだろうと思うのです。いい換えれば思惟の属性の働きというものがまずあって,つまり本性の上で先立つものとしてあって,その上で個物Aが個物Bを発生させる作用というのが可能になっている,あるいは現実になっていると考えるべきなのだと思うのです。そしてこの個物Aの観念と個物Bの観念との間にある関係が,思惟の属性の絶対的な力の働きによって現実化するということは,第二部定理九で示されている無限連鎖のどの一部分を抽出した場合にも,同様でなければなりません。これは個物Aの観念とか個物Bの観念というのが任意のものであるということにより,それ自体で明らかです。
 そこでもしもこの無限連鎖の全体というのをこのような仕方で考えてみれば,実はそこには神の思惟の属性の働きが常に介在しているということになるでしょう。そしてこの観点からこの無限連鎖の因果関係の一部分だけを抽出して考えるなら,それが十全な原因であるか部分的原因であるかという問いに対する答えは,十全な原因であるということになります。これを否定するのは神が部分的原因としてある作用をなすと主張することにほかならず,その主張はこの結論を導き出した第一部定理二六にも端的に反することになりますから,やはりそれ自体で明らかであるといっていいと思います。というのは,神がある何らかの作用をなすなら,それは神から決定されてなすということになり,これは少なくともふたつの神が必要となってしまいますが,これは第一部定理一四系で示されていることに反するからです。
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ダイオライト記念トライアル報知グランプリカップ&無限に進む

2012-02-09 18:31:21 | 地方競馬
 天候は回復したものの,不良馬場でのレースとなった昨日の第48回報知グランプリカップ
 このレースがおよそ1年ぶりの出走になったノースダンデーの逃げ。ルクレルク,ケイアイライジンと同じ厩舎の2頭が並ぶように続き,人気に推されたスターシップは中団の外目を追走。最初の800mは48秒1のハイペースですが,馬場状態を考えれば前の組に不利な流れではなかったように思います。
 久々のノースダンデーは3コーナーを回ると一杯。自然と前の2頭が並ぶように交わし,直線はこの2頭でほぼマッチレース。外のケイアイライジンが前に出ようとすると内のルクレルクも盛り返そうとし,なかなかはっきりとした決着はつかなかったものの,先んじたケイアイライジンが追撃を凌いで優勝。ルクレルクが2着。スターシップはよく追い込んだものの3着まで。
 優勝したケイアイライジンはJRAでは2009年のプリンシパルステークスなど4勝。昨年6月から南関東で走り始め,これが初勝利。当然ながら南関東重賞も初制覇。JRA時代の実績からはこのメンバーなら勝負になる馬で,ここにきて体調もよくなっていたのだろうと思います。おそらくこれくらいの距離がベストパフォーマンスを発揮できるのでしょう。
 騎乗した船橋の川島正太郎騎手は先月の船橋記念に続き今年の船橋での南関東重賞を連勝。グランプリカップは初勝利。管理している父の川島正行調教師は第38回,第43回,第46回に続き2年ぶりの4勝目。

 これは第一部定理二八の場合にも同様なのですが,第二部定理九において因果関係の連結が無限に進むといわれているとき,そこにはある消極的な意味が含まれているのだというのが僕の考え方です。これは,ある特定のひとつの個物,ないしはそうした個物の観念を抽出し,その原因,さらにその原因,さらにまたその原因というように遡及していっても,この連鎖は無限に続いていくだけであって,第一原因に辿りつけるというわけではないということです。つまりこれは方法論としての帰納法の否定です。事物は原因から結果に辿る演繹法によって十全に把握することが可能になるのです。つまり第二部定理九というのは,第一部公理四第一部公理三と,実は直接的に関係している定理であるというのが僕の考えです。
 しかしもしも第二部定理九における無限に進むというこの連鎖を,ある積極的な要素として把握しようとすればどうなるでしょうか。それはおそらく,このような無限連鎖を,一部分だけを抽出してみるのではなく,その全体として考えてみた場合には,これを認識し得る知性というのは,神の無限知性だけであるということだと僕は思います。そもそもたとえば人間の精神のような有限である知性は,それを十全に認識するのであれ混乱して認識するのであれ,有限な,いい換えれば数え上げることができるだけの観念のみを認識するから有限な知性といわれるわけです。つまり有限な知性が無限に多くのものを認識するということは,それ自体で不条理であるわけです。よって,第二部定理九をその全体で考えれば,それを認識するのは神の無限知性だけであるということになるでしょう。
 スピノザの哲学では,神の無限知性というのは思惟の属性の直接無限様態です。よってそれは第一部定理二一の仕方で,神の思惟の属性から発生します。したがって,ある特定の個物だけを抽出して,この個物の観念の原因は何かと考えれば,それはそれとは別の個物の観念,つまり別の個物の観念に変状した限りでの神であるということになるのですが,もしも第二部定理九を全体として考えるなら,それはむしろ神の思惟する絶対的な力を原因として発生すると考えることもできるのではないかと思います。
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農林水産大臣賞典佐賀記念&無限連鎖の一部

2012-02-08 18:59:56 | 地方競馬
 舞い落ちる雪の中でのレースとなった第39回佐賀記念
 タカオノボルがダッシュよく飛び出しての逃げ。オオエライジンが2番手でマーク。ピイラニハイウェイが内の3番手で,キングトップガン,マイネルアワグラスなどが追走。好位勢はやや入れ替わりがありましたが,前の方はそのままで直線に。
 タカオノボルはずっと内をかなり開けて逃げていて,最後の直線もそのまま。外に並び掛けたオオエライジンは伸びきれず,開いていたインをうまく掬ったピイラニハイウェイがタカオノボルを交わして優勝。タカオノボルが2着に逃げ粘り,3着は外を伸びたマイネルアワグラス。
 優勝したピイラニハイウェイはこれが7勝目で重賞初制覇。昨年の2月にはオープンを勝っているのですが,やや頭打ちという印象がありましたので,重賞のここで勝利したのは失礼ながらやや意外に思えました。コースのロスなく乗った鞍上の手腕が大きかったように思います。レコードタイムでしたが,これはおそらく馬場状態の影響でしょう。Piilani Highwayはマウイ島を走る高速道路。
 騎乗した川田将雅[ゆうが]騎手,管理している吉田直弘調教師は佐賀記念初勝利。
                         

 第二部定理九第二部定理九系との間にあると僕が考える,含まれている観念ideaの相違というのは,スピノザの第二部定理九系証明において,因果論的迂回がなされている理由を考えることの一助になると僕は思います。おそらくスピノザがそこで明らかにしたかったことは,因果関係の序列においてそれが十全な原因causa adaequataであるのか部分的原因causa inadaequata,causa partialisであるのかということではなくて,むしろそうした因果関係の序列というものが,どのような様式で神Deusと関連付けられなければならないのかということだったのではないでしょうか。そこでこうした観点から,今度は第二部定理九を解釈し直してみます。
 第二部定理九はいうまでもなく個物res singularisの観念の無限連鎖に言及していますが,まずその一部分だけを切り取ってみます。すると,たとえば個物Aの観念は個物Bの観念を原因として生じるということになります。このとき,これを神と関連づけるならば,個物Bの観念を有する限りで神のうちには個物Aの観念があるということになります。これは第一部公理四第一部公理三から明らかであるといえます。
 しかしこうしたことは,神の知性intellectus,無限知性intellectus infinitus,infinitus intellectusのうちにのみ生じるのではなく,有限である知性,たとえば人間の精神mens humanaのうちでも生じ得ます。このことは,ある事物の十全な観念が人間の精神のうちに発生するためには,その事物の最近原因causa proximaだけを認識できていれば十分であるという観点から,前回の考察の中で詳しく明らかにした事柄のひとつです。そもそも第二部定理九はあらゆる個物の観念に妥当する定理Propositioですから,それがたとえばある人間の精神のうちにある観念にも適用されなければならないということ自体はきわめて当然です。また,そうした有限な知性にも適用されるからこそ,この定理が個物の十全な観念にのみ関わるのではなくて,個物の混乱した観念idea inadaequataの場合にも妥当するのです。というのも第二部定理七系の意味からして,混乱した観念というのは,もしもそれがあるといういい方をするのであれば,人間の精神のような有限な知性のうちにのみあるのだからです。そしてこのことは,第二部定理九のどの一部分のみ抽出したとしても,同様であるということになります。
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