スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ロンジン賞ジャパンカップ&否定の理由

2014-11-30 18:48:03 | 中央競馬
 アイルランドから1頭,ドイツから1頭,カナダから1頭が招待された第34回ジャパンカップ
 好発はジェンティルドンナ。外から押してサトノシュレンがハナを奪い,内のエピファネイアと外のタマモベストプレイが2番手を併走。4番手がアンコイルドで,この4頭が先行集団。好位集団はトーセンジョーダンとトレーディングレザーが並び,控えたジェンティルドンナ。さらに内にジャスタウェイ,外にイスラボニータと続きました。最初の1000mは59秒6でミドルペース。
 前の4頭が後ろに差をつけたまま直線に。サトノシュレンはすぐに後退。先頭に立ったタマモベストプレイと外のアンコイルドの中からエピファネイアが持ったままで並び掛けると,残り400mで先頭に。すでにここで勝負ありの大勢で,追われたエピファネイアが独走状態になり,4馬身の差をつけての圧勝。前の集団の外に出して伸びたジャスタウェイが2着。後方3番手から内目の馬群を捌いて脚を伸ばしたスピルバーグが半馬身差の3着。
 優勝したエピファネイアは昨年の菊花賞以来の勝利で大レース2勝目。現4歳牡馬は,古馬と戦うようになってから芝の重賞ではほとんど結果を残せていませんでしたし,この馬自身,内面に課題を抱えている馬なので,個人的には軽視していました。ただ,能力の上限まで発揮すれば,今日くらいは走れるということなのでしょう。行きたがるのを押さえきった鞍上の手腕が大きいと思われ,今後も常に今日のようなパフォーマンスを発揮できるのかは疑問視します。安定して力を出せるというのは競走馬の能力のひとつであると僕は考えていて,そうなったときに,本当の一流馬の仲間入りを果たすことになるのではないでしょうか。父はシンボリクリスエス。母はシーザリオ。母の父は第19回を制したスペシャルウィーク。祖母がキロフプリミエール。Epiphaneiaはギリシア語で公現祭。
                         
 騎乗したフランスのクリストフ・スミヨン騎手は2010年の天皇賞(秋)以来の日本馬に騎乗しての大レース2勝目。管理している角居勝彦調教師は先々週のエリザベス女王杯に続いての大レース制覇。ジャパンカップは第29回以来5年ぶりの2勝目。
 せっかくロンジンがスポンサーについたのですから,日本のレースももっと細かくタイムを示したらどうかと思います。

 デカルトの実体の定義に注意すれば,第一部定義三の後半部分,実体はそれ自体で考えられるということを,デカルトは受け入れないであろうということは,スピノザの哲学に立脚した場合,そうでなければならないことになります。観念と観念対象ideatumは,平行論における同一個体だからです。したがって,デカルトがいうように,実体が存在するために神の協力を必要とするなら,実体の観念も神の観念の協力なしには知性のうちに十全には認識され得ません。つまり実体をそれ自身で「考える」ことができるということはないのです。これは名目的な説明といえますが,これだけでもデカルトがこのことを否定するであろうことは容易に推測できます。
 ただし,デカルトの実体の定義は実在的と解するべきなので,注釈が必要です。僕はスピノザが無限に多くの属性の存在を認めたのと同じ意味で,デカルトが無限に多くの実体の存在を認めたとは理解しません。比較していうなら,無限に多くの属性が存在すると主張したスピノザに対しては,デカルトは思惟的実体と物体的実体というふたつの実体の存在だけを認めたと解するべきだと思います。この点に関しては反論があるかもしれませんが,僕はそこには立ち入りませんし,論争もしません。なぜなら,ここでの考察については,これらふたつの実体の場合を説明するだけで,ほかにデカルトが実在すると考えていたかもしれない他の実体についても,どちらかの仕方で説明することが可能だからです。
 まず,物体的実体の方が簡潔ですから,こちらから先にいきます。デカルトは,物体的実体の実在を認めていたのはすでにいった通りです。そして物体的実体が,神の協力なしには存在し得ないと考えていたことも間違いないといっていいでしょう。これはデカルトの運動の発生理論が,二様の解釈に依拠しているということからも明らかだといえます。もしも神が物体の運動の創造主でなかったなら,個々の運動が生じることはありません。そしてその個々の運動が帰せられる実体が物体的実体であると規定されているからです。なので物体的実体がそれ自身で概念されることはありません。
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大山名人杯倉敷藤花戦&考える

2014-11-29 20:00:02 | 将棋
 22日に倉敷市芸文館で対局があった第22期倉敷藤花戦三番勝負第二局。
 山田久美女流四段の先手。初手☗2六歩の居飛車明示に甲斐智美倉敷藤花は態度をなかなか表明せず,先手が☗6六歩で角道を止めたのをみて右四間飛車に。すぐに仕掛けて局面をリードできたので,序盤は後手がうまく指したということでしょう。ただゆっくりとした展開にしたために,勝負形の終盤戦となりました。
                         
 後手が☖8五桂と打った手に対し,先手が7七にいた角を飛車取りにしつつ逃げたところ。☖8四銀と打つ手が見えますが,☖7七銀と打ち込みました。これだと☗同金☖同桂成☗同玉までは一本道。後手はそこで☖7六歩と王手をし,☗同玉と吊り上げてから☖8四金と打ちました。あまり得な指し方とは思えないので,これで勝ちと思っていたのではないかと推測します。
 手番を得た先手は☗2三桂。これを☖同金と取ったのがこの将棋で最も驚いた手だったのですが,後手は誤算があって修正が効かない局面になっていたようです。☗同歩成に☖9五金と取りましたが,これが詰めろではないので先手は☗3三と。☖4九角☗7七玉に☖2七角成と飛車を取りました。
                         
 飛車は取られたものの第2図は後手玉が詰む形。さすがにこれを逃すことはなく,先手の勝ちになっています。
 重大な局面での誤算があったので仕方がないのでしょうが,甲斐倉敷藤花の将棋としては,わりとあっさりと負けてしまったという印象は否めませんでした。
 山田四段が勝って1勝1敗のタイに。第三局は23日に指されました。

 第一部定義三の後半部分,実体substantiaはそれ自身によって考えられるということは,スピノザの同時代のリベラルな思想家にとって,発想すること自体が難しかったと僕は考えています。そのリベラリストの中にはデカルトRené Descartesも含まれます。そしてこの部分は,デカルトにとっては,単に思いつくことができなかったというだけでなく,受け入れることも不可能な内容を含んでいただろうと思います。しかしその前に,この部分に関連して,ひとつだけ注意しておかなければならないことがあります。
 ここでスピノザが考えるconcipereといっているのは,知性intellectusの能動actioを示す概念conceptusのことです。いい換えれば表象imaginatioのことではありません。スピノザの哲学では,どんな事物も精神mensを有することになっていますが,ここでは人間の精神mens humanaだけに注目しても構いません。あるいは人間だけが精神を有するというように理解したとしても構いません。重要なのはただひとつ,それが人間の精神の能動を意味するということです。
 知性の能動によって,いい換えれば知性が十全な原因causa adaequataとなってその知性のうちに生じる観念ideaは,十全な観念idea adaequataです。スピノザの哲学では,原因の十全性と観念の十全性の間にはこうした関係が存在することになっているからです。そしてスピノザは,このことを前提として,ここで考えるという語句を用いていると理解しなければなりません。つまりある事物Aがあって,その事物がAのみによって知性のうちに十全に認識されるとしたら,Aは実体であるということが,この定義の後半部分に含まれていると理解されなければならないのです。
 僕はスピノザが定義している文言とは逆方向で説明しましたが,これは問題になりません。スピノザの定義Definitioでは,定義される事物と定義内容は,一対一で対応し合うからです。要するに,定義の文言にあるように,実体はそれ自身で考えられるのであるなら,僕が説明したように,それ自身で考えられるものは実体であるということになるからです。
 この定義は名目的です。ですからこの部分も,もしもそれ自身によって知性が概念するconcipereあるものがあるなら,それは実体であるというように理解しておくのが妥当でしょう。
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竜王戦&斬新

2014-11-28 19:12:43 | 将棋
 20日と21日に袋井市で指された第27期竜王戦七番勝負第四局。
 森内俊之竜王の先手で角交換を拒否。糸谷哲郎七段は中飛車。先手は銀冠にした後,飛車を7筋に回りました。リスクのある指し方ですが,功を奏してリードを奪うことに成功したとみていいのでしょう。さらに穴熊に組み替えました。
                        
 6八にいた飛車が回った局面。後手が角取りに構わず△5六歩と突いたので,激しい戦いに突入しました。先手はもちろん▲3五飛で△5七歩成もこの一手でしょう。
 そこで先手は▲6二歩と手筋の歩を放ちました。後手は堂々と△同金直。▲4二角が継続手で△5二飛は仕方がないところ。▲6四角成は王手ですから△同金もこの一手。そこで▲同角ではなく▲5三歩と叩きました。△同飛は今度こそ▲6四角でひどいですから△同金も止むを得ないでしょう。そこで▲5七金と手を戻しました。
                        
 手番は後手に渡しましたが,戦いが一息ついて銀の丸得ですから先手が相当のリードを奪ったように思えます。ですからしっかりと受ければ勝てたと思うのですが,反撃を含みにしたような受けを目指しました。それで差は詰り,最後に致命的な手も指したので,後手の勝ちに。相当の逆転に思え,大きな一局であったかもしれません。
 糸谷七段が勝って3勝1敗。第五局は来月3日と4日です。

 第一部定義三のうち,実体がそれ自身のうちにあるということは,ある条件下では,デカルトの本心からは許容可能になります。実際の相違の在処は,別の部分に存すると考えられるからです。したがってこの部分は,当時の反動的な神学者とか,それに追随するような思想家にとっては涜神的な内容であったでしょうが,デカルトのようなリベラルな思想家には,全面的に否定されるような内容を有していたわけではないと僕は考えます。もちろんそうしたリベラリストたちにとっても,スピノザの定義は急進的すぎると思われはしたでしょう。しかし,驚きがあったとすれば,スピノザがそれを公言したこと,あるいは公言しようとしていたことの方にあったと思うのです。
 要するに,実体はそれ自身のうちにあるという主張は,当時のリベラリストにとっての共通認識を,さらにひとつ前進させたような内容であると僕は考えます。確かに前進させた分だけ,スピノザの考え方は斬新であったし革新的であったという見方もできるでしょう。でもそれは,だれにも思いつかないような内容を有していたとは僕には思えません。つまり本来的な意味での革新性とか斬新さが,この部分に含まれていたとは僕は思わないのです。
 もちろん,それが斬新でなかったから,考察の対象には値しないとは僕はいいません。ただ,これは僕がこの部分を考察の対象から外す理由そのものではなく,その理由の前提条件であるという点に注意しておいてください。なぜこのことが前提条件になるのかということは最終的には,やはり後に示されることになります。というか自然と明らかになるでしょう。
 以上は第一部定義三の前半部分に関してです。後半部分,すなわち実体はそれ自身によって考えられるということは,前半部分とは事情が違います。どう事情が異なるのかはお分かりでしょう。この部分は,スピノザの哲学にとって固有の内容を有していると僕は考えています。つまりスピノザの実体の定義の斬新さは,この部分に凝縮されていると思うのです。おそらくこれは,当時のリベラルな思想家にも,思いつかないような内容だったのではないでしょうか。
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勝島王冠&相違の在処

2014-11-27 19:21:00 | 地方競馬
 昨晩の第6回勝島王冠
 ハブアストロールは出負け。先手を奪ったのはトーセンアドミラル。ガンマーバーストとツルオカオウジの3頭が雁行で,向正面にかけて後続との差を広げていく形に。最初から最後までレースにならなかったアクロスジャパンが最後尾でその前にハブアストロール。この2頭が取り残されただけで残りの10頭はほぼ集団。このためにずっと内から外までかなり広がった珍しいレースとなりました。最初の800mは49秒3でこれはハイペースですが,前の3頭が飛ばしていたので,実際は見た目ほど早いペースではなかったものと思います。
 前の3頭は直線入口まで粘り,一番外にいたツルオカオウジが前に。この3頭を見るような位置から捲り上げていたユーロビートは苦しくなり,ユーロビートマークのようなレースになったハッピースプリントは前を射程圏には入れましたが直線は伸びを欠き,結局はツルオカオウジも捕えられず。ハッピースプリントをマークするようなレースになったカリバーンがさらに外から先頭に立つも,離れた大外からハブアストロールが一気に捕えて優勝。4分の3馬身差の2着にカリバーン。直線入口では前3頭の後ろのインにいたトーセンヤッテキタがそのまま内からじわじわ伸びて1馬身差の3着。大波乱といえる結果でしょう。
 優勝したハブアストロールは一昨年に中央でデビュー。1勝して昨年の3月に大井に転入。B級1組まで上がってきましたが,A級2組の混合戦で入着クラスですからはっきり格下。こういう馬が断然人気の同じ厩舎の馬に勝ってしまうのも競馬の面白いところ。滅多に見られないくらい外を回っての差し切りですから,ここは嵌ったと考えておくのが妥当だと思います。ただまだ4歳ですから,これ一発だけでは終らない可能性も秘めているといえるでしょう。母の従兄に2007年の根岸ステークスを勝ったビッググラス。Have a Strollは散歩する。
 騎乗した船橋の左海誠二騎手は昨年の東京ダービー以来およそ1年半ぶりの南関東重賞制覇。勝島王冠は初勝利。管理している大井の森下淳平調教師第4回以来2年ぶりの勝島王冠2勝目。

 デカルトは物体的実体を有限であると認識したために,存在のために神の協力だけを必要とするものと実体を定義しました。このことから,スピノザが実体を第一部定義三のように定義することができた理由も明らかになります。それは,たとえ名目的であったとしても,実体が有限であることはできないということです。スピノザがそのように考えていたことは,第一部定理八から明白だといえます。
 なぜスピノザが実体は無限であると考えることができたのか,とりわけ物体的実体を無限であると考えたのかはここでは考えません。実体の定義に関して,スピノザとデカルトの間で,実際の相違がどの部分に存在するかを明らかにすることが,僕の目的だからです。そしてそれは明らかになりました。相違は実体を一般的にどう認識するべきなのかという点にあるというよりも,物体的実体を無限であるとするか有限であるとするかという点にあるのです。ですから単に実体がそれ自身のうちにあるというとき,デカルトは物体的実体を眼中に置けばそれを否定することになりますが,そうでないなら本心から否定するとは限らないわけです。これもまたこの部分に,大きな乖離があるという解釈について,僕が態度を留保する理由のひとつです。
 念のために,可分性と有限の関係を,スピノザの側からもみておきます。これには第一部定理一三備考を参照するだけで十分です。これは,分割することが可能であるものは有限であるということを前提しているからです。そしてそうしたものは,第一部公理七により,自己原因であるということはできません。しかるに第一部定義三というのは,実体は自己原因でなければならないということを含んでいました。このことからも,スピノザが実体は無限でなければならないと考えていたことが分かります。つまり第一部定理八に訴えずとも,単に公理的要素から,これが帰結することになっているのです。
 これらが,第一部定義三の前半部分,つまりそれ自身のうちにあるということを,今回の考察の対象の中心から僕が除外することの前提になります。なぜこれが前提になるかを説明していきましょう。
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農林水産大臣賞典兵庫ジュニアグランプリ&可分性と有限

2014-11-26 19:05:19 | 地方競馬
 地元で5連勝中のトーコーヴィーナスが,重賞でどこまで戦えるのかに注目していた第16回兵庫ジュニアグランプリ
 ダッシュよくウィッシュハピネスがハナへ。押していたトーコーヴィーナスが2番手。その後ろはインからジャジャウマナラシ,ゲイルヘイロー,オヤコダカの3頭で併走。さらにトーセンラークとハヤブサヒカリが並んで続きました。ミドルペースであったと思われます。
 向正面でオヤコダカが外を上昇。ウィッシュハピネス,トーコーヴィーナス,オヤコダカの3頭が雁行になり,その後ろのインにジャジャウマナラシという隊列に。この雁行が4コーナーまで続き,ジャジャウマナラシはここでウィッシュハピネスとトーコーヴィーナスの間を突きました。ウィッシュハピネスが一杯になったため,そのまま先頭に立ったジャジャウマナラシが抜け出して優勝。外を回ったオヤコダカが2馬身半差で2着を確保。大外を追い込んだトーセンラークはアタマ差まで詰め寄りましたが3着まで。
 優勝したジャジャウマナラシは南関東で7戦3勝。2歳1組のレースまでは勝ちましたが,その後の南関東重賞で5着が2回。つまり南関東でもトップとは差があると考えられましたから,この勝利には驚きました。うまく内を立ち回れたことが勝因でしょうが,金星といっていいのではないかと思います。父はアサクサデンエン。母の父はマーベラスサンデー。従姉に2012年と2013年に福島牝馬ステークスを連覇したオールザットジャズ
 騎乗したのは兵庫の田中学騎手で重賞初制覇。管理しているのは浦和の小久保智調教師でこちらも重賞は初勝利です。

 可分的であるものを神に帰すことができない理由,いい換えれば,神が可分的であれば最高に完全であることができなくなってしまう理由を考えることは,そうも難しいことではありません。
 可分的であるということは,部分に分割できるということです。要するにある全体が,部分によって構成されているということになります。このとき,この部分が無限であることはできません。これをいうのは,より大きな無限とより小さな無限が存在するといっていることに等しく,それ自体で不条理だからです。ですから全体から分割された部分というのは有限です。するとこのことから,全体もまた有限でなければならないということが帰結します。有限であるものによって構成されている全体が無限であるというのは不条理だからです。この点に関しては,デカルトにとってもスピノザにとっても共通の認識であったと理解して間違いありません。
 つまりデカルトが主張しているのは,有限であるものを神に帰すことはできないということです。そしてこれもスピノザとの間で共通です。スピノザは第一部定義六で,神には無限に多くの属性を帰していますが,属性は自己の類において無限なものだからです。
 有限であるものは,その存在を停止します。その存在を停止すると考えられます。つまりそれが存在しないと考えられるようなものです。したがってそうしたものを神に帰せば,最高の完全性が損なわれるのは明白でしょう。存在を停止すると考えられるものが最高に完全であるというのは,自己破壊的な主張だからです。だからデカルトは物体的実体と神を同一視することができませんでした。デカルトの物体的実体可分性を有するもの,いい換えれば有限なものと認識する限り,主張は首尾一貫しています。そしてこの首尾一貫性は,表向きの態度として採用されているのではなく,デカルトが真剣に認識していた事柄であると思います。
 このために,デカルトは第一部定義三を,許容することはできません。つまり物体的実体の実在を考慮に入れた上で,神の協力というデカルトの実体の定義というものはあるのだと僕は考えています。
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朝日新聞社杯競輪祭&デカルトの物体的実体

2014-11-25 19:18:03 | 競輪
 21日から昨日まで小倉競輪場で開催された第56回競輪祭の決勝。並びは山崎-佐藤の北日本,武田-平原-神山-木暮の関東,稲垣-浅井-金子の近畿中部。
 スタートは取り合い。最内の金子が誘導の後ろに入り,稲垣の前受け。4番手に山崎,6番手から武田で周回。武田の上昇は残り3周のバックから。ホームに入ってから稲垣に並び掛けて前に。山崎が続こうとしましたが,稲垣が譲らず,5番手に稲垣,8番手に山崎の一列棒状で打鐘。1コーナー過ぎから稲垣が発進。木暮の牽制は乗り越えましたが,車間を開けて準備していた平原にも牽制され,スピードが鈍りました。平原はそのまま踏み込み,粘る武田を交わして優勝。武田が半車身差の2着に逃げ粘り,中を割ろうとした神山が8分の1車輪差の3着と,関東の上位独占。
                         
 優勝した埼玉の平原康多選手は2月の奈良記念以来のグレードレース優勝。ビッグは昨年2月の全日本選抜以来で6勝目。競輪祭は2009年以来5年ぶりの2勝目。このレースは浅井が稲垣の後ろを選択。稲垣も山崎も力で勝負しようとするタイプで,番手に斬り込む可能性は少なく,その時点で関東勢が有利だろうと思えました。武田もいいタイミングで抑えにいったので,力を使っての先行という形にならなかったため,平原との勝負に。平原は優勝以外にグランプリ出場は不可能でしたので,関東勢にとってもよい優勝ではなかったでしょうか。グランプリでは平原が武田の前を走るということになるのかもしれません。

 物体的実体が実在的であるということは,『デカルトの哲学原理』では,第二部補助定理一に示されています。補助定理となっていますが、これは第二部定理一よりも前の部分です。つまり第二部で最初に証明されているのが,物体的実体が実在するということであると理解して間違いありません。
 僕の認識では,この補助定理の証明にはちょっと変わったところがあります。各々の物体が実在するということは否定し難いので,それは何らかの実体に帰せられなければならないけれども,最高に完全な実体である神に帰すことは不可能なので,神以外の物体的実体に帰せられなければならないというのがその内容です。ただし,僕はここではこの論証の内容を問題化するつもりはありません。デカルトは個々の物体を神に帰すことができない理由を,物体が可分性を有するという点に訴えていて,そちらだけに注目します。要するに可分的なものが帰せられる実体は可分的でなければならないというようにデカルトが認識していたことは間違いないでしょう。つまりこのことのうちに,物体的実体は可分的な実体であるということが含まれていることになります。
 なお,デカルトは単に物体ということで,ここでいっている物体的実体を意味させようとします。『デカルトの哲学原理』だと第一部定義七というのがその典型です。そこでは,延長の直接の主体である実体が物体であるといわれています。ただ,スピノザの哲学について考えようとしているので、デカルトの哲学について考察する場合に,デカルトの定義に忠実になると,ややこしくなります。そこで僕は、デカルトが,『エチカ』でいう場合の物体,すなわち第二部定義一でいわれている,延長の属性の個物res particularisおよびres singularisを意味しようとしている事柄に関しては,そのすべてを物体といっています。そしてデカルトがその主体としての実体ということを意味しようとする場合に関しては,物体的実体といっています。
 可分性が問題になっていることはここからも明らかです。なぜ可分的であると,それを神に帰すことができなくなるのでしょうか。
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ジョッキークラブマイル&可分性

2014-11-24 19:22:17 | 海外競馬
 昨日,香港のシャティン競馬場で行われたジョッキークラブマイルGⅡ芝1600m。
 ハナズゴールは少し出負けしたように見えました。馬群の最後尾を,内の馬と並走していく形に。前半の800mが48秒08で,超スローペース。このペースでこの位置取りですから,すでに苦しかったといえるでしょう。4コーナー手前から動いていき,直線は大外に。しかしさすがに前の馬たちも止まらず,直前の馬にも追いつけず,10頭中9着の入線。もっともこれは並走していた馬が早々に追うのを止めたためで,実質的にはレースに参加できなかったという形でした。
 走ることが不可能なタイムでの決着ではありませんでしたので,状態面に問題があったものでしょう。いくら出負けしたからといって,このペースであれほどついていかれなかったということ自体が不可解な内容です。このまま滞在して香港マイルに挑む予定ですので,体調アップを図ってほしいところ。末脚は切れますので,それが生きる展開になれば,好勝負というシーンもあるのではないかと思います。

 デカルトは,思惟を神に帰すること,いい換えれば思惟的実体と神とを同一視することはできました。しかし運動を完全な意味で神に帰すること,いい換えれば物体的実体と神とを同一視することはできませんでした。他面から,つまり神の側からいうならば,デカルトは神が思惟することは認めました。しかし神が運動するということは認めませんでした。これはなぜでしょうか。
 デカルトの神の定義から演繹的に考えてみます。デカルトによる神の定義は,最高に完全というものでした。つまりデカルトの考えでは,思惟は完全な作用であるけれども,運動は完全な作用ではなかったことになります。これについても他面からいえば,思惟することによって神の完全性が損なわれるということはありません。しかしもしも神が運動をなすなら,その最高の完全性が損なわれてしまうということです。
 ただ,これは何ら問題を解決しているとはいえません。問題の形式を変更させただけであるといえます。なぜ運動することによって,神の完全性は損なわれることになってしまい,思惟することによってはその完全性が損なわれることはないのでしょうか。
 スピノザにとっては実在する実体は神だけでした。しかしデカルトにとってはそうではありませんでした。要するに冒頭の思惟的実体と物体的実体は,デカルトにとっては実在する実体であったのです。そのとき,これらふたつの実体に関して,ある認識の差異がデカルトにはありました。それは,思惟的実体というのは不可分であるけれども,物体的実体は可分的であるという認識です。
 この時代,物体的なものを神に帰すことは,神への冒涜であり,タブーであると一般的に考えられていました。それはちょうど,神の発生を問うことがタブー視されていたのと同じ意味です。デカルトは発生に関するタブーに関しては,そのタブーを本心では破っていたけれども,表向きの態度としては破っていないように見せかけていたというのが僕の推測です。しかし物体的実体が可分的であるということは,そのような表向きの態度であったわけでなく,デカルトは本気でそう認識していたものと思います。
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マイルチャンピオンシップ&二様の解釈

2014-11-23 19:10:31 | 中央競馬
 マイルの王者を決める第31回マイルチャンピオンシップ
 ミッキーアイルが好発を決めましたが,最内のホウライアキコが追い上げてくると譲り,ホウライアキコの逃げに。ミッキーアイルが2番手に控え,グランデッツァ,ダイワマッジョーレ,サンレイレーザーの3頭がその後ろ。クラレントは掛かったようで外を上昇,フィエロ,ロゴタイプ,レッドアリオン,そして出負けから追い上げたワールドエースまでこの付近で一団。少し開いてその後ろの集団の先頭にダノンシャーク。前半の800mは45秒3のミドルペース。
 ミッキーアイルが4コーナー手前で先頭に。グランデッツァが外から交わしにいったところ,この2頭の間をフィエロが突き,すぐさま抜け出しました。ミッキーアイルが一杯になったため,開いた進路をダノンシャークが抜け,フィエロの内から迫って叩き合い。ほとんど並んでの入線でしたが,写真判定の結果は差したダノンシャークの優勝。フィエロはハナ差で2着。1馬身半差の3着にグランデッツァ。
 優勝したダノンシャークは昨年10月の富士ステークス以来の勝利。重賞3勝目で大レース初勝利。デビューから一貫してマイル前後の距離を走り,どんな相手とでも大きく負けることはなかった馬で,優勝圏内にはいると思われました。パドックを見た限り,できの良さが目に付きましたので,体調面もいつになくよかったのではないでしょうか。内を回ることを求められる馬場状態で,外目の差し馬という点に不安を抱いていましたが,うまくインを通ってきた鞍上の手腕も大きかったと思います。父はディープインパクト。母の従弟にエルコンドルパサーが2着になった凱旋門賞を勝ったモンジューがいます。
 騎乗した岩田康誠騎手は3日のJBCスプリントに続いての大レース制覇。第27回以来4年ぶりのマイルチャンピオンシップ2勝目。管理している大久保龍志調教師は2007年の菊花賞以来,7年ぶりの大レース3勝目でマイルチャンピオンシップ初勝利。

 デカルトの運動の発生理論で,運動の普遍的原因とされているのが根本原因を意味します。つまりこの意味において,神が運動の発生の原因であることをデカルトは認めます。しかし運動の個別的原因に関してはそうではありません。個々の物体が運動をなすことの原因に神を措定することを,デカルトは否定しました。では何がその原因であるのかということが問われなければなりませんが,それはこの補足には必要ありません。個々の運動を神に帰することをデカルトが肯定しなかったということだけ分かれば十分です。
 デカルトの見解をスピノザの哲学に引き寄せて説明してみましょう。デカルトがいっているのは,第一部定理二一の仕方で,運動と静止が延長の属性の直接無限様態として発生するとき、神はその起成原因です。しかし第一部定理二八の仕方で,ある物体が運動するとき,神はその起成原因ではありません。スピノザはその場合にも神が運動の発生の原因であること,そればかりでなく最近原因であることさえ認めます。デカルトの場合には,おそらく個々の運動に関しては,神が遠隔原因であることも認めないように思われます。
 この相違は,前回の考察と関連しているといえるでしょう。スピノザはどちらの場合にも神を運動の原因と認めます。つまり因果関係は一義的に把握されているのです。しかしデカルトの場合にはそうではありません。因果関係が二様に把握されていることになります。ですから,二種類の因果性というのは,実はスピノザの哲学に内在しているのではなく,デカルトの哲学にこそ含まれていると考えるべきなのではないでしょうか。
 次に,デカルトが個々の運動を神に帰することができなかったこと,いい換えれば神が運動するものであるということを認められなかったことの理由を考えていきます。
                         
 『デカルトの哲学原理』では,神の定義は,思惟について考察する第一部で与えられています。デカルトの実体の定義が,物体について考察される第二部になってから示されているのと,これは対照的であると僕は考えます。つまりデカルトは,神が思惟するものであるということは,肯定できたのです。
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将棋日本シリーズ JTプロ公式戦&運動の発生理論

2014-11-22 20:04:18 | 将棋
 16日に東京ビッグサイトで指された第35回日本シリーズの決勝。対戦成績は羽生善治名人が30勝,渡辺明二冠も30勝。
 振駒で羽生名人の先手。相矢倉に。
                         
 これは数え切れないほど出現している局面。後手は☖4五歩。
 20年くらい前でしょうか,こう指すと後に☗4六歩から反発されるので,手得をしても後手がまずいというのが共通認識になり,ほぼ指されなくなったのですが,最近になって見直されてきています。☗3七銀☖5三銀☗4八飛。これは普通の進行。
 ここで☖4四銀右というのが過去に最も指された手だと思いますが,この将棋は☖9四歩。☗4六歩☖同歩☗同角が先手の狙い筋で,後手は☖7三桂と跳ねました。
                         
 ここで☗6四角とすると,後に☖8五桂と跳ねる手で後手のペースになるそうです。☗6八銀はそれを避けた手ですが,この手が必要だと第2図はすでに先手の作戦が失敗という可能性もあるように思えます。本局は最終的には大差の将棋になりました。
                         
 渡辺二冠の優勝。棋戦優勝は今年度の銀河戦に続いて9回目。日本シリーズは初優勝。

 神Deusが運動するものではないというデカルトRené Descartesの見解に関しては,補足が必要になります。なお,ここでデカルトが運動motusというのは,静止quiesも含めての運動です。デカルトは運動と静止をそれ自体で神に帰すという意味では,それは不可能であると考えていました。
 どんな事物にも発生の原因causaを問うことが可能であるということは,『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』では,第一部公理十一に出てきます。これが神の発生に関してデカルトの哲学体系全般の中で,詭弁を生じさせています。しかしこのことは今の補足とは無関係です。この公理Axiomaから分かるのは,運動に関してもその発生の原因を問うことができるということ,いい換えれば,運動にも発生の原因があるとデカルトが考えていたことです。
 『デカルトの哲学原理』第一部定理十二系一では,神があらゆるものの創造主であることが主張されます。したがって運動が発生する原因も神でなくてはなりません。デカルトはこのことは認めています。第二部定理十二では,運動の根本原因は神であるといわれています。
 これでみるとデカルトは,運動を神に帰していたように思えます。しかし実際にはそうではありません。すぐ後でその理由は明らかにしますが,神が運動するものであるということは,デカルトにとって認められるような事柄ではありませんでした。そこで,運動の発生理論に関して,デカルトはある細工を加えています。運動の根本原因といういい方がされているのが,その細工です。
 デカルトは運動の発生の原因,スピノザの哲学でいうところの起成原因causa efficiensに,二重性を与えました。これは『デカルトの哲学原理』では,神が運動の根本原因とされているすぐ直前の,第二部定理十一備考で言及されています。それによれば,運動の原因というものは,二様の仕方で考えられます。ひとつは運動の普遍的原因で,自然のうちにあるあらゆる運動の原因とされるものです。もうひとつは運動の個別的原因で,これは現実的に存在する物体corpusが,それまでには与えられていなかった運動を新たに与えられることの原因です。要するに個々の物体が運動する原因といえるでしょう。
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霧島酒造杯女流王将戦&実在する実体

2014-11-21 19:12:24 | 将棋
 10月4日に霧島ファクトリーガーデンで指された第36期女流王将戦三番勝負第一局は,15日に放映されました。対戦成績は香川愛生女流王将が1勝,清水市代女流六段は0勝。
 振駒はと金が3枚で清水六段の先手。香川女流王将のノーマル三間飛車。先手の天守閣美濃,後手の高美濃で持久戦に。
                         
 鍔迫り合いが始まった直後で,後手が歩を突き出した局面。先手は▲4五歩とこちらの歩を取りました。これには△同銀の一手。そこで▲3五歩としました。自然な順と思えます。後手は取り返しにいくために△5一角。そのときに▲4四歩と垂らすのが先手の狙いでした。後手は当然△3五飛。飛車の成り込みは許せませんから▲3七歩。
 先手のと金づくりを受けるのに△3三飛は2四の歩が浮くので論外。△5三金は金が離れてしまいます。なので後手の指し方は不思議な手順だと思っていたのですが,読み筋だったようで,△3四飛と引きました。これには▲4三歩成しかありません。そのときに△5四銀と引くと,と金の行き場がありません。▲4八飛で一旦は守れますが△4五歩と打たれるとせっかくのと金ですが諦めるほかありません。▲5五歩△4三銀▲4五飛△4四銀▲4七飛△3三桂▲5六銀△4五歩で収まり,一歩を得した後手が優位に立ちました。
                         
 ここから先手が暴れていったのに対し,後手が対応を誤ったために勝負は先手のものに。ただ,と金を作られても大丈夫という一連の読みが,この将棋では最も強く印象に残りました。
 清水六段が先勝。第二局の放映は明日です。

 第一部定義三を名目的に解するなら,実体に一般の定義になります。この意味において実体がそれ自身のうちにあるということに関しては,デカルトは絶対に認めないでしょう。
 ただし,この見解は,あまりにもスピノザの哲学の立場に引き寄せ過ぎているという批判を受けることになると推測します。というのは,デカルトの実体の定義は,むしろ実在的な意味において成立している定義であるという側面があるからです。つまりデカルトの側からいえば,それが名目的な定義と解されるから,第一部定義三を否認するというわけではありません。このようなことになるのは,スピノザにとっては実在する実体は神が唯一であるのに対し,デカルトの場合にはそうではないからです。デカルトは神以外にも実体が存在すると考えていました。そしてそのように考えていたからこそ,実体の定義が,スピノザの哲学の立場から解する限りで,あやふやなものになっていると僕は考えています。
 デカルトは,思惟的実体なるもの,また物体的実体なるものが実在的であると考えていました。このこと自体はスピノザからも受容が可能です。スピノザにとっては,思惟的実体と物体的実体は同一の実体であって,それが神であるというように解釈できるようになるからです。しかしデカルトはこの解釈も是認することはありません。
 神は思惟するという限りにおいて,思惟的実体と神を同一視することは,僕はデカルトの哲学においても可能であると思います。しかし物体的実体の場合にはこのようなわけにはいきません。思惟するという語句に対応させていうなら,もしも神が延長するものであるなら,あるいは運動するものであるなら,その限りにおいて物体的実体を神と同一視することが,デカルトの哲学の中でも可能になります。そしてもしもそうであるなら,デカルトの立場とスピノザの立場は折合いをつけられると思います。でもデカルトは神が延長するものであること,あるいは神が運動するものであるということに関しては,これを否定します。これは『デカルトの哲学原理』で,実体の定義が物体を扱う第二部に出てくる理由のひとつといえるでしょう。
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リコー杯女流王座戦&詭弁

2014-11-20 19:13:11 | 将棋
 13日に静岡で対局があった第4期女流王座戦五番勝負第二局。
 加藤桃子女王の先手。通常の手順とまったく違いますが,西山朋佳奨励会二段のごきげん中飛車に先手が①超速銀にして後手がAで対応した場合に発生する局面に進みました。
                         
 後手が金を上がった局面。後手はこの構えで先手に穴熊を許してどうなのかと感じます。
 ここから☗5九角☖5一飛☗2六角☖4二角☗1六歩と進展。角交換を狙いにいった手なので,☖1四歩と受けるのが普通ですが,☖5二金上と指しました。これは☗1五角は大丈夫とみた手。実際に先手はそう指せなかったのですから,ここは後手が読み勝っていました。そうであるなら☗1六歩はあまり意味のない手であったことになります。代わる指し手は☗5八飛。
 受けられないので☖5三角と上がったのですが,☗5六歩☖同歩☗同飛と交換され,☖5五銀から決戦にいくこともできなかったようで,☖5四歩と受け,☗5八飛と戻ることになりました。
                         
 これで一歩を手持ちにした先手が,攻めの幅を広げることに。☗1六歩は緩手だったといえますが,☖5二金上もまずく,大丈夫でも☖1四歩と受けておいて,先手の出方を窺う方がよかったように思います。
 西山二段の指し方は甘いといえば甘いのですが,おおらかな印象も受けます。これで二段まで昇段しているのは,逆に大物なのではないのかと思えてしまうくらい。次の指し方が楽しみになってきました。
 加藤女王が連勝。第三局は29日です。

 スピノザが看破したように,作出原因causa efficiensに自己原因causa suiを含めないというデカルトRené Descartesの方法は,詭弁というほかありません。このことはとりわけ,デカルトがどんな事物であってもその作出原因を問うことができるということを是認していたということを考慮に入れたとき,さらに際立ってくるといえます。これでみればデカルトは,一方ではどんな事物にも作出原因が存在するということを認めていたことになります。どんな事物にも作出原因を問うことが可能であるということは,事実上そのように主張しているとしか解せないからです。しかし他方ではデカルトは,作出原因なしに実在するもの,具体的にいえば神Deusが実在するということを認めていたことになるのです。
 ただし僕は,それを詭弁ということばで形容することによって,デカルトを批判しようという意図は毛頭ありません。なぜなら,僕はデカルトの哲学のこの二面性は,あくまでも表向きの態度にすぎなかったと理解しているからです。デカルトは本心では,神が自己原因であるということを,明らかに認めていたと思っているのです。
 スピノザの哲学を実在的に考えるなら,存在する実体substantiaは第一部定理一四系一により,神が唯一です。したがって第一部定義三を実在的なものとして解した場合には,それ自身のうちにあるesse in seものとは,神が唯一であるということになります。いい換えれば自然Naturaのうちに自己原因であるものは神が唯一であるということになります。僕の推定が正しければ,デカルトは本心ではこのことを認めるでしょう。だからデカルトの実体の定義と,実体はそれ自身のうちにあるというスピノザの主張との間に,大きな乖離があるという点に関しては,僕は態度を留保したのです。
 ただし,第一部定義三を,実在的な定義Definitioと解釈することは,『エチカ』の全体の中では無理があると僕は考えています。この理由は前にもいったように,後で明らかにします。ここではそれを実在的に解することが無理なのであれば,名目的に解するほかはないという点を強調しておきます。そしてこの点こそが,デカルトの実体の定義をスピノザからみた場合のあやふやさの,第二の原因になります。
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農林水産大臣賞典浦和記念&妥協の産物

2014-11-19 19:16:56 | 地方競馬
 地方馬もかなり健闘している重賞のひとつ,第35回浦和記念
 好発はサミットストーン。先手も奪えそうでしたが,逃げ馬のエーシンモアオバーに譲ってインに控えました。グランディオーソがサミットストーンの外に。直後に内のグランドシチーと外のランフォルセの併走。この5頭が後ろを離す展開。中団の最も前にトーセンアレス。前半の1000mは62秒2でハイペース。
 3コーナー手前でグランディオーソがエーシンモアオバーを交わして先頭。外を進出したトーセンアレスが並び掛け,この2頭が抜け出して直線に。トーセンアレスよりさらに後ろから追い上げてきたシビルウォーが3番手に浮上も,ここで一杯。2頭の叩き合いになったのですが,3コーナー過ぎで一旦は遅れをとる形になったサミットストーンが,後退するエーシンモアオバーをうまく捌いて最内から再び差し脚を伸ばすと,ゴール前で外の2頭を捕えて優勝。アタマ差の2着にグランディオーソ。クビ差の3着にトーセンアレス。
 優勝したサミットストーンは5月の大井記念以来の勝利で重賞は初制覇。近況と実績からは最有力候補と考えていました。浦和はやや特殊性があるので,初コースは課題でしたが,何とかクリアしました。ただ,相手と着差を考えると,JRA勢の凡走に助けられた感もあります。とはいえこの程度のメンバーが相手ならば,また重賞を制覇できる力があると思います。叔父に2008年の東京オータムジャンプを勝ったタイキレーザー
 騎乗した船橋の石崎駿騎手は先週もハイセイコー記念を勝ちました。重賞は2005年の関東オークス以来の2勝目。管理しているのは船橋の矢野義幸調教師。こちらは重賞初勝利です。

 デカルトによる作出原因の考え方から,次のことが帰結します。デカルトは,別に実体限らず,事物を定義するときに,それが自己原因であると解釈することが可能になるようには,定義を命題化できなかったということです。ですから第一部定義三のように,実体を,それ自身のうちにあるものと定義することは,デカルトには不可能であったのです。神の協力という,スピノザの哲学からしたら、発生を含んでいるのか含んでいないのか判然としないような,あやふやな仕方で実体を定義したのは,ある意味では,デカルトにとって妥協の産物であったのかもしれません。
                         
 もっともここではデカルト自身による定義ではなく,スピノザによるデカルトの哲学の再構成である,『デカルトの哲学原理』から定義を援用しています。なのでその線に沿って正確性を期するなら,スピノザはデカルトのその立場を尊重して,こうした定義を実体に与えたという方がいいかもしれません。
 この相違は,スピノザとデカルトの,神の定義の相違とも関係しています。スピノザは神を絶対に無限と定義しました。しかしデカルトにはそれはできませんでした。なぜなら,絶対に無限という定義は,その定義のうちに,神の発生を,もっと具体的にいうなら神が自己原因であるということを含んでしまうからです。これは第一部定理一一第三の証明が,単に第一部定義六に依拠するだけで論証されているということから明白であるといえるでしょう。
 したがって,神を最高に完全と定義したこともまた,デカルトにとって,一線を踏み越えないようにして自身の立場を守るための妥協の産物であったとみなせなくもありません。最高に完全であるなら,それが実在しないということは不条理です。しかしそれが実在する原因に関しては,最高に完全ということからは何も帰結してはこないからです。したがってデカルトに対して,最高に完全である神はどのように発生するのかと問うこと自体は可能であるのですが,デカルトはその問いに答える必要はまったくなく,単に最高に完全な神が実在しないと主張することは不条理であると答えるだけで十分であったのです。
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霧島酒造杯女流王将戦&作出原因

2014-11-18 19:23:44 | 将棋
 8日に放映された第36期女流王将戦挑戦者決定戦。対局日は9月5日。対戦成績は清水市代女流六段が14勝,上田初美女流三段が4勝。
 振駒で上田三段が先手となり,角道オープン中飛車。清水六段が左美濃に組もうとしたところ,先手が早めに▲4五歩と牽制。すぐに△4四歩と反発したため戦いになり,角交換から飛車角交換を経て,馬2枚を作られた後手が苦労する展開に。要は反発が無理筋だったということでしょう。
                         
 7筋にいた飛車が戻ったところ。長引くだけで後手の苦労は増えるので,▲7七銀と受けるのが有力でしたが,▲3六歩と突きました。とはいえ,△8六歩▲4四歩△8七歩成と進めて▲8三歩と打てますから,突破されるわけではありません。△6二飛と逃げた手に▲3五歩と伸ばし,▲3四歩を受けるために△4五歩と打つと,その歩を狙って▲3七桂。後手は△8八歩と打ちました。
                         
 このような手はあまり指されることがありません。これが間に合うような展開は稀だからです。ここで▲5七銀と上がり,△6五歩なら▲3六馬と寄ればまだ難しかったよう。しかし銀を使わずに単に▲3六馬と寄ってしまったため,△8九歩成とされたときに▲4五桂から馬を捨てる攻めを選択せざるを得ず,先手の攻めが足りなくなってしまいました。将棋ではよい局面でじっと我慢した方が効果的というケースがありますが,この将棋は先手が我慢できずに負けてしまったという感じです。
 清水六段が挑戦者に。女流王将戦は第32期以来4期ぶりの番勝負出場。第一局は15日にすでに放映されています。

 なぜスピノザの哲学の立場からデカルトの実体の定義を読解しようとすると,あやふやな部分が生じてしまうのでしょうか。僕はそこには主にふたつの要因があると考えています。
 そもそも,スピノザが定義の要件とみなすこと,すなわち事物の定義には,定義される事物の本性と発生が含まれていなければならないということに,デカルトは同意するのか否かということを問う必要があることを,僕も是認します。しかしここではこの点は考慮の外に置きます。いい換えれば,これがその理由であるとは僕は考えません。なぜなら,スピノザの要件をデカルトが認めようと認めまいと,事物の発生という場合の発生ということの意味合いに,スピノザとデカルトでは,少なくとも立場上は,看過することができないような相違が存するからです。
 前回の考察で示したように,causa efficiensを作出原因という,スピノザの立場からは広い意味で和訳した場合,作出原因として何を認めるかという点で,スピノザとデカルトは異なります。スピノザにとっては自己原因は,この広い意味での作出原因を構成します。しかしデカルトはそれを認めません。というより,デカルトは自己原因という原因を認めません。つまりデカルトのいう作出原因とは,スピノザのいう起成原因がすべてです。しかしスピノザの場合には,自己原因と起成原因の両方が作出原因に該当します。事物の作出原因とは,事物が発生する原因のことです。つまり作出原因の把握に相違があるということは,発生という概念の把握に相違があるということと同じです。なので,デカルトの哲学の事物の定義に,定義される事物の発生が含まれるのか含まれないのかを,スピノザの哲学の立場から考慮するのは,あまり意味がないことだと僕は考えます。
 自己原因を作出原因から排除することは,デカルトにとっては,自身の哲学の立ち位置を,キリスト教神学から批判されないようにするための,便宜的なものであったと僕は推測しています。ただ,推測のように便宜的ではあったとしても,デカルトがその立場を採用したのは事実です。この点が冒頭に示した理由のひとつです。
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玉藻杯争覇戦&デカルトの実体の定義

2014-11-17 19:11:32 | 競輪
 昨日の高松記念の決勝。並びは武田-神山-藤田-稲村の関東,浅井-金子の中部に原,山田に勝瀬。
 スタートは取り合いになりましたが,最内を利した金子が確保したので前受けになったのは浅井。4番手に武田,8番手に山田で周回。残り2周のホームで山田が上昇,浅井を叩きにいくとすぐさま武田がその外を上昇,1コーナーで誘導を交わして前に。浅井がインから5番手を取り,一旦は連結を外した金子がバックで外から追い上げて浅井の後ろに戻って打鐘。ここから浅井が発進。ホームで神山に牽制され,立て直したもののバックでは藤田の牽制に遭って失速。関東勢に有利な展開となり,早めに発進した武田を交わした神山の優勝。4分の3車輪差で武田が2着に粘り,さらに4分の3車輪差で藤田が続き,関東の上位独占。
                         
 優勝した栃木の神山雄一郎選手は2011年7月のサマーナイトフェスティバル以来のグレードレース優勝。記念競輪は2009年12月の広島記念以来,およそ5年ぶりの通算97勝目。高松記念は1997年と1998年に連覇して以来,16年ぶりの3勝目。現在,グランプリ出場の賞金争いの当落線上。年齢を考えてもグランプリを走るチャンスもそう多くはないと考えられ,武田が神山が優勝でも構わないというレースをすることは事前に想定できました。実際にそのようなレースとなり,ラインも長くお膳立てが整うことになりましたから,喜びだけでなく,安堵感も伴うような優勝であったのではないでしょうか。できればあと3勝して,記念競輪100勝の大台に乗せてほしいところです。

 第一部定理八備考二から,第一部定義三の前半部分に,実体の本性も説明されていることが明らかとなりました。しかし僕は,この部分に関しても,今回の考察の主要な内容から除外します。この理由は,後に今回の考察の契機を説明するときに,自ずから明らかになります。ここからはこの部分がこれ以降の考察の主要部を占めない理由の前提について説明していきます。
 『デカルトの哲学原理』では,第二部定義二において実体が定義されています。そこでは,存在のために神の協力だけを必要とするものが実体であるといわれています。
 これでみると,それ自身のうちにあるというスピノザの実体の定義との間に、大きな乖離があるように思われます。実際にそのように理解するべきかもしれません。しかし僕はその点については解釈の態度を留保します。とりわけスピノザの哲学の立場からデカルトの哲学を読解しようとする場合,ここは必ずしも乖離があると断定しておかない方が安全であると僕には思えるからです。
 まず,デカルトがいう神の協力というのが,因果関係を示すのかどうかが判然としません。神の協力によって実体が存在するということと,神を原因として実体が存在するということが,同じ意味であるかどうかは分からないからです。同じ意味なら乖離があるといえますが,そうでないなら断定はできません。
 さらにいうと,このデカルトの定義というのは,実体が存在するために神の協力を必要とするのかどうかも不明です。あるものが存在するために,何も協力する必要がないならそれは実体で,協力するのが神だけであるならそれも実体で,神以外に何か別のものが協力するならそれは実体ではない,というようにデカルトの定義は読解できるようになっているのです。もちろんこのように定義したからには,神の協力によって存在する実体があるということを,デカルトは認めていたと考えておかなければなりません。しかし,神の協力を必要とせずに存在する実体というものはないということが,この定義に含まれているとは,とくにスピノザの立場から読解しようとする場合には,いいきれないと思うのです。
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エリザベス女王杯&第一部定理八備考二

2014-11-16 19:11:37 | 中央競馬
 牝馬の頂点を決める第39回エリザベス女王杯
 やや強引にサンシャインがハナへ。ヴィルシーナが2番手に抑え,向正面にかけてこの2頭が徐々に後ろを離していく展開に。好位は内にヌーヴォレコルト,外にメイショウマンボで併走。さらにキャトルフィーユとグレイスフラワーも並んで続き,その後ろにラキシス。最初の1000mが60秒3のスローペース。
 前の2頭と3番手の差は3コーナーを過ぎると縮まり始め,直線に入るとヌーヴォレコルトが先頭に。ヴィルシーナとメイショウマンボの間を突いたラキシスが追ってきて,この2頭の競り合い。ゴール前で競り落としたラキシスが優勝。クビ差の2着にヌーヴォレコルト。後方集団から大外を伸びる形になったディアデラマドレが1馬身4分の1差で3着。
 優勝したラキシスはこれが重賞初制覇での大レース制覇。とはいえ昨年の2着馬であり,その後も牡馬強豪を相手の重賞で入着していましたから,能力的には勝つだけの力がありました。このレースは内を回った方が明らかに有利という展開になりましたので,最内枠を引けたのも幸いであったでしょう。牡馬相手の重賞制覇も可能な馬であると思います。父はディープインパクト。Lachesisはギリシア神話の運命の女神。
                         
 騎乗した川田将雅騎手は4月の桜花賞以来の大レース制覇でエリザベス女王杯初勝利。
                         
 管理している角居勝彦調教師は3日のJBCレディスクラシックに続く大レース制覇でエリザベス女王杯初勝利。芝とダートで牝馬チャンピオンを誕生させたことになります。

 発生を問題にはしないのですから,考察の中心は本性natura,essentiaになります。
 第一部定義三のうち,それ自身のうちにあるという部分が,実体の発生を含みます。しかしこの部分は,単に発生だけを含んでいるわけではありません。同時に実体の本性の説明でもあります。
 このことは第一部定義一と照合すれば明瞭になります。それ自身のうちにあるということが,そのように定義される事物の発生を含むということは,定義されたその事物,この場合には実体が,自己原因causam suiであるという意味です。しかるに自己原因の定義Definitioは,自己原因であるものの本性に存在が含まれるcujus essentia involvit existentiamという仕方で,その本性と存在の関係を示しています。したがって一般に,Aは自己原因であるという命題がAの定義になり得るのであれば,この命題はAの本性と発生の両方を含む命題であることになります。Aはそれ自身のうちにあるesse in seという命題と,Aは自己原因であるという命題は等価であるのですから,それ自身のうちにあるということは,実体の発生だけを説明しているのではなく,実体の本性も説明していることになります。
 確かにスピノザは,第一部定理七において,実体が自己原因であるということを証明しています。これでみれば実体が自己原因であるということは,実体の本性には属さないように思えます。ほかの事柄に訴えて論証される事柄は,それ自身の本性からは生じないと理解できるからです。
 しかし一方でスピノザは,第一部定理八備考二では次のようにいっています。
 「もし人々が実体の本性に注意するならば,定理七の真理について決して疑わないであろう。そればかりでなくこの定理はすべての人々にとって公理でありそして共通概念の中に数えられるであろう」。
 この定理七が第一部定理七であることはいうまでもありません。すなわちスピノザは,実体が自己原因であるということは,実体の本性に注意するだけで帰結するということを認めているのです。そしてそこでいわれている実体の本性とは,実体がそれ自身のうちにあるということであるとしか考えられません。よって第一部定理三の前半部分は,実体の本性と発生の両方を説明します。
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