スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

書簡七十四&死の前日

2024-08-31 19:13:05 | 哲学
 書簡七十五は書簡七十四への返信です。書簡七十四は1675年12月16日付でオルデンブルクHeinrich Ordenburgからスピノザに出されたもので,遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。
                            
 オルデンブルクはこの1ヶ月ほど前に書簡七十一を送っています。ただその書簡があまりに短かったために,スピノザは不満を抱きました。その不満を解消させるためにこの手紙が送られたという経緯になります。
 オルデンブルクが説明しているのは,スピノザの思想のどの部分が人びとの難点となっているかということです。それは,スピノザがすべての事象および行動の運命的な必然性necessitasを主張しているということです。オルデンブルクによればこれを容認してしまうと,すべての律法や徳virtusといった宗教religioの中枢が断ち切られ,報償や刑罰が無意味になってしまうのです。
 さらにオルデンブルクはスピノザにふたつの疑問を投げ掛けています。ひとつスピノザが奇蹟miraculumと無智を同じ意味に解しているように思われるけれどもそれはなぜかということです。これを質問するにあたってオルデンブルクはラザロの復活やイエスの復活を例として挙げ,こうしたことは神Deusの能力potentiaに帰することができるのだから,そうした奇蹟を信じることが無智と同じ意味であるはずがないという主旨の主張をしています。
 もうひとつは,神が人間の本性natura humanaを具有しているということをスピノザは否定しているけれども,それはなぜかというものです。ここでもオルデンブルクは聖書の文章を抽出し,神が人間の本性を具えているという意味をそれらの章句の中に見出し,それらの章句をスピノザはどう解するのかと質問しています。
 スピノザの哲学と関連させていえば,前者の質問は神と自然Naturaはそれほど異なったものではなく,自然法則はいたるところで同一であるということと関連します。奇蹟を自然法則を超越したものと解するなら,自然のうちに奇蹟が生じる余地はないことになります。後者の質問は,神からの人格の排除と関連します。神を人間のようなものと考えるのは,人間に特有の考え方といわなければならないのであり,この意味での優越性を人間は有していないのです。

 それではコレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの中身を検討していきましょう。せっかくの機会なので,スピノザが死ぬ前日の記述からみていきます。
 1677年2月22日,この日は土曜であったとコレルスJohannes Colerusは書いています。この日にスペイクは妻とふたりで教会に行き,牧師,というのはコレルスの前任者と思われますが,その牧師の予備の説教を聞きに行きました。帰宅したのは午後4時ごろで,コレルスが帰宅するとスピノザが自身の部屋から下りてきたとされています。スピノザの部屋のことをコレルスは表部屋の寝台と記述していますが,それが何を意味するかは僕にはよく分かりません。ただ,下りてきたといわれている以上,スピノザが間借りしていたのはスペイクの家の1階ではなかったということは確かでしょう。
 下りてきたスピノザは煙草をふかし,しばらくの間スペイクと話をしました。その中には午後にあった牧師の説教の話もあったと書かれています。この牧師はコルデスという名前ですが,コルデスは博学の上に誠実であったから,スピノザの尊敬を受けていて,スピノザもたまに説教を聞きに行くこともあったとスペイクはいっていますので,それが本当であればこのときに説教の内容が話題となっても不思議ではありません。ただ,前もっていっておいたように,スペイクにはスピノザのことをコレルスによく思ってもらいたいという気持ちを持つ十分な理由があり,このエピソードはコレルスにそう思わせる内容を有していますから,すべてが本当のことであったということはできないかもしれません。ただこの日にスピノザがスペイクと何らかの話をしたということについては疑う必要はないのではないかと思います。
 翌日は日曜だったのでルター教会では礼拝がありました。その礼拝にスペイクと妻が出かける前にスピノザはまた下りてきて,ふたりと話をしました。このときにスピノザはアムステルダムAmsterdamから医師を呼んでいて,この医師が年老いた鶏を調理してそのスープを昼食としてスピノザに摂らせるようにいいつけたので,スペイクはその通りにしたといっています。実際に調理したのは家人となっていますから,たぶんスペイクの妻だったでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お~いお茶杯王位戦&書斎

2024-08-30 19:12:33 | 将棋
 27日と28日に有馬温泉で指された第65期王位戦七番勝負第五局。
 藤井聡太王位の先手で渡辺明九段の雁木。先手が積極的に仕掛けていき,後手が反撃。1日目から派手な手の応酬のあるとても面白い将棋で,後手が攻め切れるかどうかが焦点という展開に進みました。
                            
 まだ一山ありそうな局面ですが,ここで29分考えて先手が見通しをつけました。
 ☗3九角と打ちます。飛車と銀の両取りですから,5八の金を飛車で取るか銀で取るかの二者択一。飛車で取った場合は手番が先手に渡ることになりますがそれを嫌って☖5八銀不成と銀の方で取りました。これだと先手は☗2八角と飛車を取る一手。後手の☖6九銀不成もこの一手です。
 これは取ってしまうと詰めろが掛かって先手の負けです。なので☗8八王と逃げるのですが,これで9六の角が働いてきて先手玉に詰みはありません。なので☖6八金と打って詰めろを掛けました。
 これに対して☗3一飛と王手をするのが決め手。☖4一金は仕方がない合駒ですがここで金を使ってしまうと先手玉が詰みません。悠々と☗2一飛成と桂馬を取って先手の勝勢です。
                            
 一局を通して先手の指し回しが冴えわたったという内容の将棋でした。
 4勝1敗で藤井王位の防衛第61期,62期,63期,64期に続く五連覇で5期目の王位です。

 コレルスJohannes Colerusはウェルフェの家でスピノザが借りていたのは二階の奥の部屋といい,その部屋を自身の書斎と表現しています。要するにスピノザはその部屋だけを使い,家屋のほかの部分をウェルフェが利用していたということになりますが,コレルスのいい方だと,家屋の全体をコレルスの一家で使用し,スピノザが借りていた部屋を自身の書斎として利用しているというように読めます。家屋の全体をコレルスの一家で利用しているのであれば,そこにウェルフェが住む場所はありません。ですから少なくともコレルスとウェルフェが同じ家屋に住んでいたということはなかったと僕は解します。ということはこの時点でウェルフェはこの家を売却してどこかに引っ越していたか,そうでなければすでに故人となっていたかのどちらかでしょう。だから僕はナドラーSteven Nadlerの説よりも渡辺の説の方が正しく,この時点でウェルフェは死んでいたのであって,コレルスがウェルフェからスピノザについて何かを聞き取るということはできなかったと考えるのです。
 スピノザが部屋にこもっていて外に出ることがなかったということは,別にウェルフェに聞かなくても,近辺の住人に聞けば分かることでしょう。そもそもスペイクの家はこの近くだったのですから,スペイクはスピノザが自身の家に間借りするようになる前からスピノザのことを知っていたかもしれないのであって,そうであればスピノザのウェルフェの家での生活がどのようなものであったのかということも知っていたかもしれません。また,ウェルフェとスペイクが知り合いだったという可能性も否定できないのであって,スペイクがウェルフェからスピノザのことを聞いていたということもあり得ます。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』でも,ウェルフェの家とスペイクの家は近隣といわれています。
 これらのことから僕は,たとえウェルフェがすでに死んでいたとしても,その家でのスピノザの様子をコレルスは知り得たと思うので,『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』で書かれていることが正しいとみていますが,ナドラーの説を絶対的に否定できるというわけではありません。渡辺が補足していることも絶対に正しいとはいえないのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダーレー・ジャパン賞フリオーソレジェンドカップ&ウェルフェ

2024-08-29 19:09:07 | 地方競馬
 昨晩の第2回フリオーソレジェンドカップ
 隊列が定まるまでには時間を要しましたが,発馬後の正面から逃げの手に出たのはイグザルト。ヘラルドバローズが2番手となって3番手にヒーローコール。その後ろはデュードヴァンとリンゾウチャネルとブリッグオドーンの3頭。さらにスマッシングハーツとギガキングが併走で続き,ナニハサテオキを挟んでアドマイヤルプスとゴールドハイアーも併走。後方2番手がエメリミットで離れた最後尾にキャッスルブレイヴ。最初の800mは50秒3のスローペース。
 3コーナーからは2番手がヘラルドバローズと向正面で押し上げていったギガキングの併走に。3馬身差の4番手にギガキングを追ってきたナニハサテオキが上がりました。直線に入ると前3頭の外からギガキングが先頭に。しかし追ってきたナニハサテオキの末脚が優り,ギガキングを差し切って優勝。ギガキングが3馬身差で2着。前の2頭をやり過ごして後から差してくる形になったリンゾウチャネルが1馬身半差の3着。
 優勝したナニハサテオキは南関東受賞初制覇。JRAデビューで1勝。昨年から南関東に転入して以降は6勝,2着4回とパーフェクト連対。ここ2回は南関東重賞で連続の2着でしたから,いつ勝ってもおかしくない馬でした。ギガキングが前を一掃するようなレースになったところをマークして追い上げていくという展開面での恩恵はありましたが,そのギガキングは船橋の中距離では抜群の強さをみせてきた馬ですから,それを差し切って3馬身という差をつけたのは大きく評価できるでしょう。父はジャングルポケット
 騎乗した船橋の森泰斗騎手若潮スプリント以来の南関東重賞62勝目。フリオーソレジェンドカップは初勝利。管理している浦和の平山真希調教師は南関東重賞2勝目。フリオーソレジェンドカップは初勝利。

 ここまでの注意を踏まえて,コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの内容を検討していきます。ただし,『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』に加えられている説明も,完全とはいえない側面がありますから,先にその点を説明していきます。
                          
 スピノザがフォールブルフVoorburgを離れてハーグDen Haagに移ったのは,1669年の暮れか1670年早々だったと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』には書かれています。先述したようにスピノザはすぐにスペイクの家に間借りをしたのではなく,ウェルフェという寡婦の家に間借りしました。事実上は屋根裏部屋だったようです。ウェルフェはウィレムという法律家の妻だったのですが,ウィレムが死んでしまったので収入を得る必要が生じ,スピノザを住まわせることになったというのがナドラーSteven Nadlerが確定的に記述していることです。
 ここに後にコレルスJohannes Colerusが住むことになります。『スピノザの生涯と精神』の訳者である渡辺は,その時点でウェルフェは死んでいたとしています。だから僕もコレルスはウェルフェからは話を聞くことができなかったといいました。しかしナドラーは,コレルスはウェルフェからも話を聞いたとしています。つまりナドラーはその時点でウェルフェがまだ生きていたと考えているのです。スピノザの部屋は実験室であると説明されていますが,スピノザはその部屋で食事をしたり眠ったりもしたのであって,そこに一日中こもっていることもあったという主旨のことをコレルスは書いていて,これはコレルスがウェルフェから聞き取ったことだとナドラーはみているわけです。
 僕は渡辺のいっていることの方が正しいのではないかと考えています。ひとつは単純に,コレルスがウェルフェの名前を間違えて記述しているからです。スピノザが住んでいた家の寡婦はウェルフェであったということは,渡辺説でもナドラー説でも一致していますが,コレルスはその寡婦の名前をフェーレンと記述しているのです。もしもコレルスがウェルフェ本人から話を聞き取ったのだとすれば,その人の名前を間違えるということはあり得ないように僕には思えるのです。
 もうひとつ理由があって,これはコレルスによるスピノザが住んでいた部屋に関する記述に関連します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JBC協会賞農林水産大臣賞典スポーツニッポン杯ブリーダーズゴールドカップ&無神論者

2024-08-28 19:13:52 | 地方競馬
 昨晩の第36回ブリーダーズゴールドカップ
 何発か鞭を入れた上でシダーの逃げ。向正面に入るあたりで3馬身ほどのリードになりました。2番手がサーマルソアリングで3番手にオーサムリザルト。4番手にデリカダ。2馬身差でドライゼとウワサノシブコとポルラノーチェ。2馬身差でエナハツホとスギノプリンセスとメイドイットマム。2馬身差でサンオークレア。サウスヴィルは大きく離されました。ミドルペース。
 3コーナーではシダー,サーマルソアリング,オーサムリザルトで雁行になり,4番手以下に4馬身くらいの差をつけました。サーマルソアリングはすぐに一杯となって後退。単独の2番手になったオーサムリザルトがコーナーの途中でシダーの前に出て,単独の先頭で直線に。そのまま抜け出して快勝。一旦は差をつけられたデリカダとドライゼが追ってきて,先んじていたデリカダが5馬身差で2着。ドライゼが1馬身差で3着。
 優勝したオーサムリザルトはこれがエンプレス杯以来のレース。デビューからの連勝を7まで伸ばして重賞2勝目。ここは能力からは断然で,負けられないといっていいくらいのメンバー構成。3ヶ月以上の間隔があったことが唯一の不安点でしたが,能力を発揮できるくらいには仕上がっていました。渡米してブリーダーズカップレディスクラシックを目指すようです。
                            
 騎乗した武豊騎手は第11回以来となる25年ぶりのブリーダーズゴールドカップ2勝目。管理している池江泰寿調教師はブリーダーズゴールドカップ初勝利。

 この時代の無神論者ということばは,単に神Deusを信じていない人間,一切の信仰fidesを有していない人間という意味ではありませんでした。むしろ素行不良の野蛮人という意味を帯びていたのです。つまり思想信条上の意味だけをもっていたのではなく,生活のあり方も示すことばでした。たとえばスピノザは書簡四十三において,スピノザの生活を知ったとしたら,フェルトホイゼンLambert van Velthuysenはスピノザを無神論を説いているとは容易に信じなかっただろうといっていますが,これはある人間を無神論者であると規定するときに,その人間の生活態度が大いに関係していたからです。あるいはベールPierre Bayleの『批判的歴史辞典Dictionaire Historique et Critique』でスピノザに触れられているとき,無神論者であるスピノザが品行方正な人間であったということは奇妙だけれど驚くには値しないのであって,それは福音に心服しながら放埓な生活をしている人びとがいるようなものであるといわれているのは,無神論者であればだれでも放埓な生活を送り,福音に心服していれば,いい換えればキリスト教の信者であればだれでも品行方正であるという社会通念があったからなのであって,ベールはその通念は必ずしも正しいわけではないといっているのです。
 スピノザはそれなりに有名人であった筈なので,コレルスJohannes Colerusはスピノザの名前は知っていて,無神論者であるということも知っていたとしたら,コレルスのスピノザに対する印象は,素行不良な野蛮人というものだったかもしれません。とくにコレルスは牧師だったわけですから,そういう印象をより抱きやすかったのではないかと思えます。しかしスペイクから聞いたスピノザの生活態度が,そうした印象とあまりにかけ離れたものであったから,コレルスはそれを書きとどめて人びとに伝えようと思ったのではないかと僕は推測します。つまりコレルスにとって,自分が住んだ場所がたまたま以前にスピノザが住んでいた家だったということは,伝記を書くのに大きな要素を占めていたとは僕は思いません。また,スペイクから聞いたスピノザの逸話が,コレルスがイメージしている通りの無神論者であったとしたら,やはりコレルスは伝記を書くことはなかったのだろうと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北条早雲杯争奪戦&コレルス

2024-08-27 19:00:50 | 競輪
 小田原記念の決勝。並びは新村‐北井‐松井‐郡司‐和田‐松坂‐鈴木の南関東,脇本に阿部。
 郡司がスタートを取って新村の前受け。脇本が8番手で周回。残り3周に入って脇本が鈴木との車間を開けると新村も誘導との車間を開けました。バックに入って新村が徐々にスピードアップ。誘導が退避する残り2周半から全力で駆けていきました。相変わらず鈴木と脇本の車間が開いての一列棒状でそのまま打鐘。ここから脇本が発進していきましたが,ホームの入口では北井が番手から発進。脇本も内に入ろうとした阿部も苦しくなりました。バックの出口から松井が北井を抜きにかかりましたが,北井が抵抗したので前に出るのにやや苦労しました。直線の入口では松井が前に出ましたが,番手の郡司が差し切って優勝。松井が半車輪差で2着。直線まで内を閉めて回った和田が2車身差で3着。北井が半車輪差の4着で地元勢の上位独占。
 優勝した神奈川の郡司浩平選手は2走前の川崎のFⅠを完全優勝して以来の優勝。グレードレースは2月の全日本選抜競輪以来の優勝で記念競輪はその直前の川崎記念以来となる20勝目。小田原記念は2016年,2018年,2019年,2023年と優勝していて連覇となる5勝目。このレースはラインの厚みが違いすぎるので,いかに脇本の脚力をもってしても苦しそうだと思えました。先頭を回る新村が経験の浅い選手だった点は不安でしたが,しっかりと自分の仕事をしたので,地元勢の争いになりました。このように走れるのであれば,前受けできた時点で優勝は地元勢から出ることが決定していたといっていいでしょう。松井が勝ちにいったところで北井も勝つための抵抗をした分,松井マークに回った郡司が有利になったということだと思います。

 コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaを扱うときには気をつけておかなければならないことがいくつかありますので,それを改めて確認しておきます。
                           
 コレルスJohannes Colerusは1679年にアムステルダムAmsterdamにルター派の牧師として派遣されました。そして1693年にハーグDen Haagに移っています。スピノザがハーグで死んだのは1677年2月ですから,コレルスがオランダに派遣された時点ですでにスピノザは死んでいましたし,ハーグに移った時点では16年が経過していたことになります。したがってコレルスはスピノザと面識があったわけではありません。ですからコレルスが書いているスピノザの伝記は,コレルス自身が見たことではなく,コレルスが調査をした結果がすべてだったことになります。
 ハーグに移った時にコレルスが住んだのが,ウェルフェという寡婦がかつて住居としていた家です。スピノザはスペイクの家に移る前に,そこに住んでいたことがありました。ただウェルフェはこの時点で死んでいたので,コレルスはウェルフェからはスピノザについて何かを聞くことはできませんでした。しかし牧師としてハーグで活動し始めたコレルスのところに,スペイクが説教を聞きに来たため,コレルスはスペイクと知り合うことになりました。スペイクはまだスピノザの存命中から牧師の説教を聞きに行くことがあったようですから,牧師がコレルスに変わっても引き続き説教を聞きに行ったということでしょう。スピノザはウェルフェの家を出た後はスペイクの家に間借りしていたわけですから,スペイクはスピノザのことをよく知っていました。なのでコレルスはスペイクからスピノザのことを聞き取ることができました。つまりコレルスの伝記の主要部分は,スペイクからの聞き取り調査によって構成されています。
 スピノザは遺稿集Opera Posthumaが即座に発禁処分を科されたことからも分かるように,無神論者として悪名高き人物でした。なのでハーグに移る以前から,コレルスがスピノザのことを知っていたという可能性はあると僕は思っています。ところがスペイクから聞いたスピノザの様子は,とても無神論者から程遠いものであったので,たぶんコレルスは意外に感じたのではないでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

杉浦貴&ナドラーの記述

2024-08-26 19:03:08 | NOAH
 ジュニアヘビー級の時代に金丸義信とタッグを組んでいた杉浦貴は,丸藤正道とともにNOAHを代表する選手のひとりです。
 杉浦は入門は全日本プロレスだったのですが,まだ練習生のうちにNOAHの旗揚げがあったため,そのまま移籍。2000年の暮れにNOAHでデビューしました。杉浦は高校卒業後に自衛隊の体育学校に入学。アマレスでオリンピック出場を目指した上で全日本プロレスに入門していますので,そのときすでに29歳でした。なのでプロレスラーとしては高校卒業後にすぐに入門した丸藤が先輩ですが,年齢は杉浦の方が上です。ふたりは互いを丸藤さん,杉浦さんとさん付けで基本的に呼び合いますが,それはこの事情によります。
 田上明の付き人でしたが,高山善廣に目を掛けられ,総合格闘技にも参戦しました。デビューしたときは無差別級で戦っていたのですが,その後に体重を落としてジュニアヘビー級でも戦うようになったという変わり種で,2003年にGHCジュニアヘビー級の王座を獲得したのが最初の戴冠。金丸と組むようになったのはこれより後で,2005年にこのチームでGHCジュニアタッグのタイトルを獲得しています。
 ジュニアヘビー級での戦いに区切りをつけたのは2006年。2007年に丸藤と組んでGHCタッグの王者に就いたのが無差別級での初戴冠となりました。GHCヘビー級の王者を初めて獲得したのは2009年の12月。相手は潮崎豪でした。この年はプロレス大賞の殊勲賞を獲得しています。そして翌2010年は年間にわたってこのタイトルを防衛し続け,プロレス大賞のMVPを獲得しています。結果的に2011年7月に潮崎に敗れるまで防衛を続けました。この間に14回の防衛を果たしていて,これは現在でもGHCヘビー級王座の最大防衛回数となっています。
 鈴木軍がNOAHで仕事をしている間にそちらのチームに加入していた時期はありますが,それを除けばずっとNOAH内のグループの主力として戦い続け,現在も丸藤とともにGHCタッグの王者に君臨しています。大きな怪我なくプロレスを続けているように,頑健な身体が支えているのだと思います。

 僕は『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』は,かなり信用に足りるスピノザの伝記だと思っています。その理由のひとつが,著者であるナドラーSteven Nadlerの記述にあります。ナドラーは史実として確定させられる出来事に関しては断定的に記述するのですが,そうでない出来事に関しては断定的な記述はしません。とくにいくつかの説が考えられる場合は,それらの説をすべて記述します。もちろんナドラーにはナドラーの考え方はあるのですが,自説を強調するようなことはしません。たとえばナドラーは,チルンハウスEhrenfried Walther von TschirnhausがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに『エチカ』の草稿を見せたと考えているのですが,伝記の中ではその自説に固執するわけではなく,ライプニッツはスピノザと面会するまで『エチカ』の内容をほとんど知らなかった可能性にも言及しています。
                            
 しかし吉田の研究をみると,ナドラーが断定的に記述している事柄の中にも,まだ史実として疑い得る事柄が含まれているということが分かります。このことは僕にとって収穫のひとつでした。だからといって『ある哲学者の人生』の信頼性が僕の中で揺らぐというわけではないのですが,ナドラーが断定的に記述している事柄であっても,そのまま信頼するのではなく,ほかの資料にもあたって確認する必要があるとはいえるでしょうし,スピノザの伝記の中で史実として書かれている事柄の中に,今後の研究の成果によって書き換えられることもあり得るということは銘記しておかなければならないのだと思います。
 吉田の論考に関してはこれだけですが,ことのついでですからここでコレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaにおいて,スピノザの死後の出来事として記述されていることをもう少し詳しく調べておくことにします。その中にはいくらかの疑問が残るところがあるからです。ただしこれは,あくまでも調査するということなのであって,史実に関して何らかの結論を求めようとするものではありません。というか,実際に歴史的にあった出来事が何であったのかということを確定させるのは無理だともいえます。ですから,ここでの中心は,コレルスの伝記の該当部分に書かれている事柄の中に,どのような疑問を発見することができるのかということになります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信仰の力&印象の原因

2024-08-25 19:12:36 | 歌・小説
 『生き抜くためのドストエフスキー入門』で汎悪霊論が触れられている直後に,チホンとスタヴローギンの信仰に対する考え方の比較が考察されています。
                         
 チホンとの対話の中でスタヴローギンが,チホンに神を信じているかと尋ねます。もちろんチホンは信じていると答えます。するとスタヴローギンは,山に向かって動けといえば山を動かすことができるかと尋ねます。山に動けといえば動くのが信仰の証のようなものであって,チホンもそこには同調しています。ただしチホンは,神の言いつけであれば山は動くという主旨の返答をします。これはスタヴローギンを納得させるものではありませんでした。それだと山を動かすのは神であって,チホンではないように思えたからです。そこでスタヴローギンは重ねて,チホン自身が山を動かせるのかと尋ねます。するとチホンは動かせないかもしれないと答えます。自身が山を動かせると自信をもっていえないことについては,チホン自身の信仰が不十分だからだとしています。
 この答えにスタヴローギンは驚きます。チホンほどの人でも信仰が不十分であるということに,スタヴローギンは率直に驚いたのです。
 信仰のゆえに山を動かせるのかという質問したとき,スタヴローギンはばかげたことを聞いて申し訳ないという意味のことを言っています。しかし実際には,信仰心の中に含まれているエネルギーを集中させれば山を動かすことができるということについては,チホンよりもスタヴローギンの方が信じているのです。だからチホンは山を動かせないことについて自分の信仰心を理由にしたのですし,その答えにスタヴローギンは驚いたのです。
 チホンはキリスト教の熱心な信仰者であって,スタヴローギンは無神論者です。そしてそれは,信仰心がもっている力をスタヴローギンの方がチホンよりも過大に評価しているがゆえなのかもしれません。スタヴローギンは信仰の力をあまりに大きく評価しているがために,神を信じることができなくなり,無神論者になってしまったという解釈も可能でしょう。

 ここまでの事情からすると,キュラソー島に移住したレベッカが,自分はエステルの娘であると自称したら,キュラソー島でレベッカと共にユダヤ人共同体を構成していた人びとは,レベッカがいうことを信じるほかなかった可能性があります。レベッカの詳しい出自を知っている人が,そこにはいなかった可能性があるからです。また,レベッカが仮にそう自称していたとして,なぜそのような嘘をレベッカがつかなければならなかったのかということは問題として残るでしょうが,何らかの事情のために人が自分の年齢を若く偽るということは,絶対にあり得ないということではないのであって,レベッカはそのようなことをいう筈がないと断定することができるというものではないでしょう。
 ナドラーSteven Nadlerがいっている通り,また吉田がそれに従っている通り,キュラソー島に住んでいた人びとがレベッカはエステルの子どもであると思っていたのは間違いありません。しかしキュラソー島に住んでいた人びとがそのような印象をレベッカに対して抱いた原因が,レベッカ自身にあったのだとすれば,そのことをもってレベッカはスピノザの妹であったといえるわけではありません。レベッカが自分はエステルの娘であると自称するのであれば,エステルがスピノザの姉であろうと妹であろうと,同じだけの可能性があるからです。なので,吉田が積極的理由といっているものが,絶対的なものとなるとは僕は思わないです。もちろんそれは,レベッカがスピノザの妹であったということを否定するものではありません。単にスピノザの妹であったということの大きな理由を構成することはできないのではないかということです。いい換えれば吉田が提出している積極的理由は,定説を覆すほどのものとなっていないのではないかと僕は思います。
 なのでレベッカがスピノザの姉であったのか妹であったのかということについては,僕はここでは結論を出しません。イサークがスピノザの兄でガブリエルは弟であったこと,そしてミリアムMiryam de Spinozaがスピノザの姉だったことは間違いありません。レベッカは定説ではスピノザの姉とされていますが,吉田のいう通り,妹だったかもしれません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大成建設杯清麗戦&キュラソー島

2024-08-24 19:16:35 | 将棋
 20日に指された第6期清麗戦五番勝負第四局。
 加藤桃子女流四段の先手。変則的な手順でしたが後手の福間香奈清麗のごきげん中飛車①-Aのような形に進みました。後手が早い段階で3筋に飛車を回って小競り合いに。この辺りは後手がうまく立ち回ったものと思います。
                                      
 この将棋はここで☗5六金と歩を取ってしまったために☖5五歩と叩かれてしまいました。☗同金は仕方がありませんがこの影響で☖3七成銀以降の展開で☗6四角と出る手が無効になり,先手が苦戦を招いています。第1図では☗2二とないしは☗2四飛☖同歩☗2三角と指すべきで,どちらであってもこれからの将棋だったでしょう。
 3勝1敗で福間清麗が防衛第1期,2期,4期,5期に続く三連覇で通算5期目の清麗です。

 吉田が示した積極的理由は,レベッカをスピノザの妹であるとすることに対し,確かに一定の根拠を示しているといえます。ただ絶対的なものであるともいえません。というのも,レベッカの最期を看取ったと思われる人びとが,レベッカをエステルの娘であるとみていた理由というのがはっきりとしないからです。
 すでにいっておいたように,レベッカはスピノザの死後,スピノザが間借りしていた家の大家であったスペイクの前に遺産の相続者として現れたとされています。これが1677年のことです。レベッカはその後,アムステルダムAmsterdamのユダヤ人共同体を出て,カリブ海にあるキュラソー島というところに移住しています。このときキュラソー島はオランダ領だったので,たぶんここにもユダヤ人共同体があったのでしょう。もちろんアムステルダムにもユダヤ人共同体は残っていたっでしょうが,もしかしたらもうアムステルダムにはレベッカが住みにくくなった何らかの事情が生じていたのかもしれません。レベッカが移住した正確な時期は不明で,早ければ1679年,遅くとも1685年と『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』には記されています。レベッカはそのままアムステルダムに戻ることなく死んでいますから,レベッカの最期を看取った人びとというのは,キュラソー島に住んでいたユダヤ人たちです。ここに住んでいたユダヤ人の多くは,ポルトガルとの戦いに敗れたブラジルからの避難民でした。だから,レベッカのことを昔から知っていた人は皆無だったかもしれませんし,いたとしてもごく少数であったと思われます。
 レベッカが死んだのは1695年のことで,死因が黄熱病でったことまで分かっています。このときの事情がキュラソー島のユダヤ人に関する公的な歴史書に残っています。そしてその文書の中に,レベッカはスピノザの異母妹であって,エステルの娘であったと記されているのです。この部分も日本語訳は異母姉となっていますが,エステルの娘と書かれている以上は異母妹なのですから,異母姉というのは有木による誤訳です。このことが『ある哲学者の人生』に書かれていて,吉田が積極的理由の資料としているのもこの部分です。。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インターナショナルステークス&積極的理由

2024-08-23 18:56:04 | 海外競馬
 日本時間で21日の深夜にイギリスのヨーク競馬場で行われたインターナショナルステークスGⅠ芝2050m。
 ドゥレッツァは前半は6番手の外から。道中で外を漸進して,直線に入ったところでは3番手の外。手応えはよく映ったのですが,いざ追われると前の2頭から離され,追い上げてきた後続の馬群に飲み込まれる形。そのまま沈んでいくのが競馬のパターンですが,追いつかれるとその中で頑張り,勝ち馬からは10馬身半ほど離されましたが5着でした。
 この馬は菊花賞を勝ったときも道中で上昇して一旦先頭。その後に位置を下げたのですが直線でまた伸びてくるという競馬の常識からは外れた勝ち方をしていた馬で,要は現状はそういう馬なのであるということでしょう。レースで効率よく力を出すことを馬自身が覚えていく必要がまだあるということなのではないかと思います。

 消極的理由の方は実際はレベッカをスピノザの妹であるとする理由にはなっていませんから,積極的理由が吉田がレベッカをスピノザの妹だという理由のすべてを構成するといえます。そこでその理由をみていきましょう。
                            
 『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』に,レベッカと最後の日々を共にした人びと,というのはレベッカの死を看取った人びとという意味だと思われますが,そうした人びとはレベッカをスピノザの異母姉であるという印象を有していたという主旨の記述があります。ただしこれは誤訳です。書評でいったようにこの本は英語の直訳になっているのですが,この部分はsisterを姉と訳したために生じたものです。その証拠にレベッカの死を看取った人びとが有していた印象は,レベッカがスピノザの母であるハンナの子ではなく,エステルの娘であるというものだったとその部分に記述されていますが,スピノザの父であるミカエルが結婚した相手は,ラヘル,ハンナ,エステルの順であったからです。つまりレベッカがエステルの子であるという印象を抱かれていたのであれば,レベッカがスピノザの異母姉であるという印象を抱かれていたのではなく,スピノザの異母妹であるという印象を抱かれていたという意味でなければなりません。
 実際にはスピノザを含む5人のきょうだいの母はいずれもハンナであって,スピノザには異母姉も異母妹も存在しません。同様に異母兄も異母弟も存在しません。つまりレベッカの死を看取った人びとが有していた印象というのはあくまでも印象に過ぎないのであって,事実とは異なったものでした。しかし吉田はレベッカがそういう印象をもたれていたという点を重視するのです。人がある印象をもたれるのであれば当然ながら何らかの理由があってもたれるわけですが,その理由がどういうものであったのかということはどうあれ,そうした印象が多数の人びとの間に広まるのであれば,それだけの人びとがレベッカはスピノザの姉ではなく妹であるという印象をもっていたのでなければなりません。そしてそれだけの人がそういう印象をもったのは,事実としてレベッカがスピノザの妹だったからというのが吉田の見解opinioです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お~いお茶杯王位戦&消極的理由

2024-08-22 18:53:10 | 将棋
 19日と20日に唐津で指された第65期王位戦七番勝負第四局。
 渡辺明九段の先手で矢倉。先手の動きに対応して後手の藤井聡太王位は矢倉中飛車にして中央から攻めていきました。
                            
 第1図は☗8四角と取る一手です。しかし先手はこの手に2時間37分を消費して封じ手にしました。
 封じ手以後の展開を一晩ずっと考えるために,当然の手を封じ手にするということは,勝負の駆け引きとしてはあります。ただこの場合は時間を使い過ぎで,残り時間が一方的に少なくなってしまいますから,そういう理由の長考だったとは僕には思いにくいです。中飛車に対する研究に不足する部分があったか,研究はしていたのだけれども勘違いして違った形に進めてしまったのではないでしょうか。誤算があったための長考だと僕は判断します。
 ☗8四角に後手は☖5一飛と引きました。対して先手は☗5九銀。これは実戦のように☖8一飛に対して☗4八角と引く意味です。
 後手は☖6五桂と跳ねました。5七に歩を成られるのが厳しいので☗5八銀。後手はあっさり☖7七桂成☗同金右と交換し,☖1三角と上がりました。
                            
 ここで☗5七歩と打ったのですが☖7五歩から一方的に攻められ先手の敗勢となりました。第2図では☗2二歩と打った方がましでしたし,第1図から第2図の展開のように受けるのではなく,どこかで暴れていく必要が先手にはあったことになります。
 藤井王位が勝って3勝1敗。第五局は27日と28日に指される予定です。

 イサークとミリアムMiryam de Spinozaのどちらが先に産まれたかということを検討する際に,吉田は時間的ゆとりがあるかないかということを重視していました。この点については,イサークが先に産まれたのであろうと,ミリアムが先に産まれたのであろうと,第二子とスピノザの間に,もうひとりの子どもが産まれるだけの時間的なゆとりはあったと吉田自身がいっていますので,この点は不問に付します。つまり,レベッカがスピノザの姉として産まれるだけの時間的なゆとりはあったということで,この点からレベッカがスピノザの姉ではあり得なかったという結論は出せないということです。
 こうしたことを前提として,それでもレベッカはスピノザの妹ではなかったかという説を吉田は展開しています。そこには消極的な理由と積極的な理由があると吉田はいっていますが,この消極的理由というのは,ミリアムの夫の再婚相手にレベッカがなったという点です。つまり,レベッカがスピノザの妹であったとすると,もしもミリアムの夫の再婚が急がれていたとするなら,レベッカはどんなにスピノザとの年の差がない妹であったとしても,18歳前後で幼子が残された姉の夫のところに嫁いだとしなければなりません。しかしこの時代に18歳あるいはそれ未満で嫁ぐということはとくに珍しいことではなかったので,このことはレベッカがスピノザの姉であったということを,スピノザの妹であったということより優先的に支持する根拠にはなり得ないというのが吉田の指摘です。ですからこのことはこれ自体では,レベッカがスピノザの妹であったということを優先的に支持する理由にもなっていないことは明白でしょう。つまり,吉田は消極的理由といっていますが,これは本来的な意味ではレベッカがスピノザの妹であるとする理由にはなっていません。ただ,レベッカがスピノザの姉であるという理由を構成しないというだけです。
 当時の慣習として,20歳になっても独身である女はほとんどいなかったとすれば,これはレベッカがスピノザの妹であったことを支持する理由にはなります。もっとも,実際にそうであったとはいい難いので,やはり理由とはいえないでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NACK5賞ルーキーズサマーカップ&定説

2024-08-21 19:15:45 | 地方競馬
 第2回ルーキーズサマーカップ
 ライトスリーが逃げて2番手にリヴェルベロ。3番手にクマノコ。4馬身差でファイアトーチとヤギリケハヤ。2馬身差でオニアシ。2馬身差でユウユウキーンとシェナノパリオ。前半の600mが37秒2のミドルペースでした。
 3コーナーではライトスリーとリヴェルベロが抜け出し3番手のクマノコとの差は3馬身くらい。直線に入ると逃げたライトスリーがリヴェルベロとの差を広げていき,楽に逃げ切って優勝。2番手追走のリヴェルベロがそのまま流れ込んで7馬身差の2着。後方から大外を追い込んだシェナノバリオが3馬身差で3着。
 優勝したライトスリーはデビューからの3連勝で南関東重賞制覇。ここは連勝で挑んできた馬が3頭いて,それらの争いかと思われましたが,ほかの2頭は崩れました。結果からいうとこの馬のスピードが他を大きく上回っていたということでしょう。現時点での完成度がほかの馬よりもかなり高いように思われますので,今後の活躍はさらなる上積みがどれほど残っているのかという点にかかっていると思います。SPAT4のPOGの僕の指名馬に対する評価という点は心得ておいてください。
 騎乗した大井の笹川翼騎手は平和賞以来の南関東重賞19勝目。その後にJBCスプリントも制しています。ルーキーズサマーカップは初勝利。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞68勝目。ルーキーズサマーカップは初勝利。

 『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』の当該部分には,レベッカが故人の姉と記述され,スピノザが死んだスペイクの家のことが,弟の死んだ家と書かれています。しかしこれは僕の推測では訳語上のことです。原文はたぶんレベッカは故人の英語でいえばsisterと書かれ,家の方はbrotherが死んだ家と記述されているものと思います。ただ,故人の姉妹とか兄弟が死んだ家では,日本語としては座りが悪いです。なので訳者である渡辺義雄が,故人の姉,弟の死んだ家という訳を選んだのでしょう。
                              
 渡辺が故人の妹と訳さずに故人の姉と訳し,兄の死んだ家ではなく弟の死んだ家と訳したのは,定説に従ったためと思います。少なくとも渡辺は,吉田のように資料を検討してレベッカがスピノザの姉であるか妹であるかを調査したとは思われませんので,渡辺がこれを訳した時点での研究成果に則って,レベッカをスピノザの姉と訳したのは間違いないと思います。ただ定説でそうなっているので,これが誤訳であるという批判はまったく当たらないでしょう。
 しかし吉田は,レベッカはスピノザの姉ではなくて妹だったのではないかという説を展開しています。その説がどう展開されているのかを詳しく紹介します。そうしないと僕の結論を示すこともできないからです。
 まず吉田は,レベッカがスピノザの姉であった可能性を全面的に否定しているわけではありません。むしろそういう可能性もあったということは認めています。そう考える利点を吉田は次の点にみています。
 ミリアムMiryam de Spinozaは1650年に結婚したのですが,1651年に子どもを産んだ後,おそらく産後の肥立ちが悪かったため死んでしまいます。このためミリアムの結婚相手であった男と,幼子が残されてしまいました。この結婚相手だった男はその後に再婚するのですが,この再婚相手がほかならぬレベッカだったのです。幼子が残された男の再婚は,早い方がよかったとすれば,ミリアムが死んでからレベッカと結婚するまでの期間はそれほどなかったと考えられます。レベッカがスピノザの姉であったとすれば,この1651年という時点では20歳前後です。嫁ぐのには問題ない年齢です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書簡七十一&破門以後

2024-08-20 19:00:35 | 哲学
 書簡七十三は書簡七十一への返信として書かれました。書簡七十一は1675年11月15日付でオルデンブルクHeinrich Ordenburgからスピノザに送られたものです。遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。
                            
 スピノザはこの時点では完成していた『エチカ』を出版するつもりだったのですが,政治状況もあってそれが危機に瀕していました。そのことを書簡六十八でオルデンブルクに伝えていました。オルデンブルクは,スピノザが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』で読者に衝撃を与えている個所を緩和しようとしていると思っていて,そのことは結構だといっています。そしてスピノザの質問に答える形で,その衝撃を与えている個所を3点あげています。
 ひとつめは,スピノザが神Deusと自然Naturaを混同しているということです。
 ふたつめは,スピノザが奇蹟miraculumの価値と権威を否定しているということです。
 みっつめは,イエス・キリストの化肉と贖罪について,スピノザが自身の意見を秘匿しているということです。
 これらのことをオルデンブルクは,自身の意見としてではなく,人びとの意見として質問しているのが特徴です。ひとつ目については,きわめて多くの人びとの意見に従うのであれば,スピノザは神と自然を混同しているといっていて,オルデンブルクがそのように解しているとは必ずしも読めない書き方になっています。ふたつめについては,奇蹟の上にのみ神の啓示の確実性certitudoは築かれ得るとほとんどのキリスト教徒は信じているとなっていて,常識的に考えればほとんどのキリスト教徒のうちにオルデンブルクも入るでしょうが,オルデンブルクはそこには含まれないという読み方も可能です。みっつめについても,スピノザが自身の意見を秘していると人びとはいっているという書き方になっていて,それがオルデンブルク自身の意見であるとは明言されていません。
 これらは人びとの意見に乗じてオルデンブルクがスピノザを問い詰めようとしたからだとも考えられるでしょう。ただ一方で,オルデンブルクは『神学・政治論』を真剣に読んでいないか,あるいは読んでもはっきりと理解できなったがゆえに,このような仕方でしか書けなかったという可能性もあるでしょう。

 残るひとりの姉妹であるレベッカはどうでしょうか。
 スピノザは1656年7月にユダヤ教会から破門宣告を受けています。何度もいっているように,これは単にユダヤ教徒と認めないとか,教会への立ち入りを禁止するといった宗教的な意味だけをもつのではなく,アムステルダムAmsterdamのユダヤ人共同体からスピノザを追放するという意味でもありました。というより,後者の意味が強かったと考えて間違いありません。だからこの宣告を受け入れたスピノザは,そのときからはユダヤ人共同体から出ていったわけです。ただこれはスピノザだけが宣告されたものですから,スピノザの親族には無関係です。なのでこの時点でまだ生きていたスピノザの親族は,共同体に残ったのです。アムステルダムのユダヤ人はスピノザとの接触を禁じられていましたので,1656年7月以降は,スピノザとスピノザの親族との接触は一切なかったと解して間違いないでしょう。親族はスピノザとの接触を禁じられていましたし,スピノザの方でも接触しようというつもりはなかったと思われます。
 ところがレベッカは,スピノザの破門後の伝記の中に登場します。もっともそれはスピノザが死んだ後のことです。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaには次のようなことが書かれています。
 スピノザの死後,そのときにスピノザが住んでいた家の大家であったスペイクに,レベッカがスピノザの遺産の相続人であると申し出ました。そこでスペイクは,葬儀費用とスピノザが抱えていた借金の前払いをレベッカに依頼したのですが,レベッカはそれを断りました。そのためにスペイクは公証人に依頼して公正証書を作成し,正式な形でレベッカに費用の請求をしました。しかしレベッカは,支払いの前に遺産の剰余金があるかを知りたかったので,その請求には従わなかったのです。そこでスペイクは裁判所に訴え,スピノザの遺品を公売所で競売する権限をもらい,実際に競売にかけました。その売上金はその場でレベッカが差し押さえたのですが,剰余金は残ったとしても僅かだったので,遺産の相続を放棄したのです。
 コレルスの伝記はスペイクからの聞き取りですので,ある程度は信頼できるでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オールスター競輪&ミリアムとイサーク

2024-08-19 18:55:11 | 競輪
 平塚競輪場で行われた昨晩の第67回オールスター競輪の決勝。並びは新山‐佐藤‐守沢‐渡部の北日本,松井‐郡司の神奈川,窓場‐古性の近畿で真杉は単騎。
 郡司と古性がスタートを取りに行き,内の郡司が譲る形で古性が誘導の後ろに入り,窓場の前受け。3番手に松井,5番手に新山,最後尾に真杉で周回。残り2周のホームの入口から新山が上昇。窓場は一旦は突っ張る構えを見せましたが,バックで引き叩いた新山が打鐘から先行。5番手に窓場,7番手に松井,最後尾に真杉の一列棒状に。バックから窓場が先んじて捲り発進。最終コーナーで佐藤が牽制したのですが,窓場が乗り越えました。マークの古性が窓場を差して優勝。窓場が1車輪差の2着で近畿のワンツー。逃げ粘った新山が4分の1車輪差で3着。近畿ラインを追って外を捲り追い込んだ松井がタイヤ差で4着。
 優勝した大阪の古性優作選手は5月の函館記念以来の優勝。ビッグは昨年10月の寛仁親王牌以来の8勝目。オールスターは初優勝。このレースは窓場の前受けになりましたが,郡司はたぶん新山が前受けしにきたら譲らなかったと思います。狙いは窓場が新山と先行争いをするか,飛びつくかで隊列が短くなったところを捲ろうというもので,真杉も似たようなことを考えていたので,新山ラインを追走しなかったのでしょう。これは結果的に他人任せの作戦といえ,今回は失敗になりました。この開催を通しては2着になった窓場の充実ぶりが目立っていて,もうトップ選手の仲間入りを果たしたとみていいのではないかと思います。窓場も強いレースでしたが,マークの古性が現時点では上回っていたということでしょう。

 スピノザの父であるミカエルの最初の妻はラヘルといいます。妻ですが,ミカエルの従妹にもあたります。ラヘルが死んだ日ははっきりしていて,1627年2月21日です。このラヘルとミカエルとの間には子どもは産まれませんでした。
 2番目の妻がハンナで,この人がスピノザの母です。ということはスピノザの兄であるイサークの母でもあり,姉のミリアムの母でもあります。このうちミリアムは,1650年6月に結婚した時点で21歳ですから,1629年に産まれたことになります。そこで,もしもイサークがミリアムの兄であったとしたら,イサークは当然ながらそれよりも前に産まれたのでなければなりません。しかもミリアムの結婚時の年齢からは,1629年産まれのミリアムは,その年の6月より前に産まれたのでなければなりません。そしてミカエルが前妻と死別したのが1627年2月ですから,もしイサークがミリアムの兄であるならば,イサークはラヘルが死んでから半年後にはハンナと結婚して,すぐにハンナが妊娠したとしなければなりません。人間の妊娠期間からすると,そうでないとミリアムの前にイサークが産まれる時間的なゆとりか,イサークが産まれてからミリアムが産まれるまでの時間的ゆとりのどちらかが不足してしまうからです。
                           
 さらに,最初の妻であるラヘルはミカエルの従妹でもあったわけで,その従妹と死別してから半年で再婚してしまうのは,イサークの気持ちの面からも難しかったのではないかと吉田は推測しています。そして,ハンナと再婚した後に最初に産まれた子どもがミリアムであったとして,それが1629年の半ば。スピノザの生命がハンナに宿るのが1632年1月とすれば,その間にハンナが妊娠ししてイサークを出産するという時間的なゆとりは十分にあることになります。こうしたことから,吉田はミリアムが姉でイサークは弟ではなかったかと推定しています。これはあくまでも推定ですから,それが歴史的な事実であったということはできません。ただ,吉田が示している論拠からは,それが歴史的な事実であった可能性も十分にあるということは理解できるでしょうし,僕もそう思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

印象的な将棋⑲-14&ベントーとガブリエル

2024-08-18 19:27:24 | ポカと妙手etc
 ⑲-10の第2図で⑲-13の第2図の変化が負けであることを理解した先手は,☗7四銀とは打たずに☗2二角成と金を取りました。
                         
 これは⑲-13の第2図の変化に進んだときに☖同馬と取ることができるというのが主旨で,こうしておいてから☗7四銀と打とうという狙いです。
 ただしこの手には大きな難点がありました。それは第1図自体が後手玉に対する詰めろにはなっていないということです。つまりこの局面で後手は一手の余裕を得ることができ,それが後手の勝利に直結しました。なので第1図は局面としては逆転していて後手の勝ちです。
 まず☖7八金と王手をして☗5九玉と逃げたところで☖5四歩と金を取ります。
                         
 この手が発生したのが後手には大きかったです。この手は先手玉に対する詰めろにはなっていないのですが,先手玉が上部に脱出するのを防ぐ手になっています。さらに先手の馬筋をずらしさえすれば先手の玉が詰むようになっているのです。
 ⑲-10の第2図で,☗7四銀でも☗2二角成でも先手の負けなら,その時点ですでに先手には勝ちがなかったように思えます。しかし実際にはそうではありません。ふたつの手の思想をミックスすれば,先手に勝ちが残っていたのです。

 母方の祖父の名前を次男が受け継ぐこともこの当時の慣習であったようです。なのでバルーフBaruchという名前を受け継いだスピノザは,次男ということになります。したがって残るガブリエルは三男ということになります。つまりスピノザにはイサークという兄がいて,ガブリエルという弟がいたということは,史実として確定させてよさそうです。
 ガブリエルがスピノザの弟であったことは,ほかの要素からもうかがうことができます。スピノザは父であるミカエルが死んだ後,店を相続して商人として活動していました。この店の名前がベントーとガブリエル・デ・スピノザ商会でした。ベントーというのはバルーフのポルトガル語です。兄弟で店を経営してその名を店舗の名称とするなら,普通は兄の名前が先で弟の名前が後になるのではないでしょうか。このことからも,スピノザが兄でガブリエルが弟だったことが推測されます。なお,兄であるイサークはこの時点ですでに死んでいたので,店を相続することは不可能でした。イサークが死んだのはスピノザが17歳のときであったと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では確定的に記述されています。
 残るふたりの姉妹がどういう順で産まれたのかを史実として確定させるのは難しいと吉田はいっています。まず確定できるのは,ミリアムはスピノザの姉であるということです。これは1650年6月にミリアムが結婚したときに出された婚姻届からはっきりしていて,その時点でミリアムは21歳とされています。スピノザが産まれたのは1632年ですから,このとき17歳か18歳です。つまりミリアムはスピノザよりも3つか4つ上の姉だったことになります。
 イサークとミリアムのどちらが年上かは確定できないようです。一般的にはイサークが先に産まれ,ミリアムがその後に産まれたとしている伝記が多いです。つまりイサークが兄でミリアムが妹というものです。しかし吉田は,ミリアムが姉でイサークが弟ではないかという説を呈示しています。これは5人の母の経歴と関係します。
 スピノザの母であるハンナは,父のミカエルにとって最初の妻ではありませんでした。前妻のラヘルとの死別後の再婚相手だったのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竜王戦&スピノザの兄弟姉妹

2024-08-17 19:25:21 | 将棋
 13日に指された第37期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第二局。
 広瀬章人九段の先手で相掛り。後手の佐々木勇気八段が手得をするような形に進み,先手から仕掛けました。中継を見ていましたがAIが難しいことをたくさんいう将棋で,相当に難解な一局だったと思われます。
                           
 たぶんここが勝負の最終的な分かれ目となった局面。
 実戦は☗6三銀と打ち込んでいきました。☖同銀☗同歩成☖同飛まで必然の進行。そこで☗5三歩☖6二玉として☗5五桂と攻めていきましたが☖4八桂成からの後手の攻めの方が早く,後手の勝ち筋に入りました。
                           
 第1図は☗7二銀と飛車取りに打つ手があったようです。☖6八歩成は☗同角ですぐに先手玉が寄らないので☖8二飛と逃げることになるのですが,それから6三で清算して☗5五桂と跳ねれば後手玉が寄り筋で,これは先手の勝ちだったようです。
 佐々木八段が連勝で挑戦者に。四段昇段から14年でタイトル戦初出場。第一局は10月5日と6日に指される予定です。

 それでは『スピノザ 人間の自由の哲学』の中身に関連する考察を開始します。
 第二回の中で,スピノザの家族についての吉田の解釈が記されています。これはスピノザの思想とはまったく関係ないのですが,伝記を構成するときには重要な要素になりますので,吉田自身の考え方と,そうではない考え方の比較についてここで紹介します。こうした相違が生じるのは欧米の言語慣習によります。たとえば英語では兄弟がbrotherで,姉妹はsisterです。日本語ではそれをさらに兄と弟,姉と妹というように区分するのですが,欧米言語にはその区分はありません。ですからたとえばXはスピノザのbrotherであるという記述があったときに,それがスピノザの兄であるのか弟であるのかは分からないようになっています。なのでXが兄であるか弟であるかを確定するためには,他の資料に依拠しなければならないのです。ここで吉田が検討しているのは,スピノザに兄や姉が何人いて,また弟や妹が何人いたのかということです。
 まず確定させることができるのは,スピノザには兄弟がふたり,姉妹がふたりいたということです。そして兄弟の名前はイサークとガブリエルで,姉妹の名前はミリアムとレベッカということです。
 イサークとガブリエル,そしてスピノザが産まれた順については簡単に結論付けられると吉田はいっています。これは名前そのものから結論できるそうです。スピノザの父の父,つまりスピノザの祖父,ということはこの5人の父方の祖父ということになりますが,その祖父の名前はイサークといいます。この当時,イベリア半島つまりポルトガルやスペインに住んでいたユダヤ人は,長男には父方の祖父の名前をつけるという慣習がありました。スピノザが産まれたときはすでにアムステルダムAmsterdamに移住していましたが,その慣習は受け継がれていました。したがって兄弟3人の中で最も年上なのはイサークで間違いありません。いい換えればイサークはスピノザの兄です。
 次に,スピノザの名前であるバルーフBaruchは,1619年に死んだスピノザの母の父,正確にはスピノザの母の父とみられる人物の名前であるそうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする