スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

サンタアニタトロフィー&第一義的意味

2013-07-31 20:41:10 | 地方競馬
 ここのところマイルの南関東重賞は大混戦模様が続いています。今晩の第34回サンタアニタトロフィーもそういうメンバーでの争いになりました。
 ナムラオウドウは出遅れ。最内枠ですからセイントメモリーが逃げの手に出るのは当然。追ったのはエーブダッチマンで3番手にクリスタルボーイ。その後ろにファイナルスコア-とピエールタイガーが並びました。少し開いてスマートジョーカーとサイオン。また少し開いてサチノシェーバー,クリーン,カキツバタロイヤルとプーラヴィーダ。その後ろにジョーメテオ。前半の800mは48秒4でこれはハイペース。
 エーブダッチマンは3コーナー手前,クリスタルボーイは3コーナーを過ぎて脱落。ピエールタイガーがセイントメモリーを追いましたが,むしろ差は広がりました。後方から捲って追い上げてきたのがジョーメテオで,この馬だけは最後までセイントメモリーを追い詰めたものの,並ぶところまではいかず,1馬身4分の1の差をつけて逃げ切ったセイントメモリーの優勝。2着がジョーメテオ。2着馬の後を追うように伸びたカキツバタロイヤルが3馬身半差で3着。
 優勝したセイントメモリー京成盃グランドマイラーズに引き続いて南関東重賞連勝。逃げがベストの馬ですから,1番枠を引けたのは幸運でした。ここもスピードの違いを生かす形での勝利で,能力的には少しだけ抜けているようです。ただ,激しく競られたり,逃げることができなかった場合にも同じように結果を残すことができるのかは,まだ何ともいえない面があるのではないでしょうか。叔父に1999年の北九州記念を勝ったエイシンビンセンス
 騎乗した船橋の本橋孝太騎手はグランドマイラーズ以来の南関東重賞制覇でサンタアニタトロフィーは初勝利。管理している大井の月岡健二調教師は第28回第30回を制していますので4年ぶりのサンタアニタトロフィー3勝目。

 仮説による解明ではありますが,第一部定理二六証明への疑問はすべて解くことができました。すなわち,物を作用に決定するのが神であるということが,ほぼそれ自体で帰結するということになったわけです。そしてスピノザは,この神の決定こそが積極的なあるものであるといっています。これはスピノザによる第一部定理二六証明から明白であるといえるでしょう。したがって,スピノザの哲学において積極的ということばは,まず神の決定に関していわれることなのだということが明らかになります。というか,正確にいうならばそのことは最初から明らかなのであって,その場合の神の決定というのがどのような事柄を意味していなければならないのかということが,明らかになったのだというべきかもしれません。
 ただし,だから積極的ということばは,こうした文脈においてのみスピノザの哲学の中においては使用されなければならないのかといえば,僕は必ずしもそのようには考えません。少なくともスピノザの哲学から離れてごく一般的にいうならば,積極的ということばはもっと多くの場面で使用されるようなことばなのであり,そのことはスピノザの哲学に関して一般的に語るという場合にも適用されなければならないと思うからです。ただし,少なくともここでスピノザが積極的といっているような内容から外れるような形式で積極的ということばを用いることは,スピノザの哲学の内部では絶対に避けられなければならないでしょうし,同じことは,スピノザの哲学に関して一般的に語るという場合にも妥当させる必要がある,いい換えればそれを語る者はそうした努力をする必要があると僕は考えます。
 さらにいえば,このことは積極的ということばを用いるべき文脈にのみ必要とされるのかといえば,そんなことはありません。なぜなら,今回の考察の契機に,消極的ということばは積極的ではないということのいい換えであるという僕の考え方があったからです。つまりそのことばをどのような文脈において用いるべきであるのかという判断が,積極的ということばに対して必要とされるならば,消極的ということばの使用にも,同じだけの判断が必要だといえます。
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王位戦&仮説による解明

2013-07-30 19:27:47 | 将棋
 層雲峡で指された第54期王位戦七番勝負第三局。
 羽生善治王位の先手で矢倉へ誘導。行方尚史八段は最近の矢倉戦としては早めに△7四歩と突いたので,急戦なのかと思いましたら相矢倉に。先手は脇システムを目指しました。これは後手が早くに△7四歩を突けば避けられない形。ということは先手は脇システムは優秀な作戦と考え,後手は脇システムにされても大丈夫と考えていたということ。駒組の段階から火花の散る将棋だったといえます。双方の自信通り,かなり難しい中盤戦が続いていたように思いました。
                        
 2四で銀と香車の交換が行われた局面。先手は取った銀を▲6三銀と打っていきました。後手は△8七銀▲同金△同歩成▲同王△8六歩とし,▲7八王を見て△6三飛と銀を入手。▲同角成に取った銀を△7七銀と打ち込みました。
                        
 難しいながらもこれで後手が勝っているようです。ということは第1図で▲6三銀と打ったのは,質駒を与えてしまったという側面があり,この将棋の敗着であったかもしれません。ただ,後手の寄せの鋭さの方に瞠目すべき一局であったと感じます。
 行方八段がシリーズ初勝利で1勝2敗。後手で勝ったのは大きいでしょう。先手で迎えられる第四局は来週の木曜と金曜です。

 物の表現と因果関係との間に,ある調和があるということは,考えてみればきわめて当然のことです。なぜなら第一部定理三六により,どんな物であってもそれが実在する限り何らかの結果を生じさせるのであるとしたら,そのこと自体がその物の表現そのものである,あるいは少なくともその物の表現の一部であると理解するべきだからです。このことは,第一部定理三六証明が,物の表現に依拠していることから明らかだといえます。
 すると,次のように理解することが適切であることになります。自然のうちにXが実在するとき,このXは神の本性の必然性に適合するようなすべての表現をなし,神の本性の法則に外れるような表現は何もなすことがありません。これと同じように,Xは神の本性の必然性に適合するようなあらゆる結果を産出し,神の本性の法則から外れるような結果は何も産出しないのです。ある物Xが結果を産出するということが,Xによる表現の一部を構成すると理解する限り,このように考えなければならないからです。
 したがって,物の表現を決定する原因が神であるように,物の作用,すなわち物が原因となってある結果を産出することの原因も神であるということが,それ自体で帰結していることになります。そしてこれは仮説にすぎませんが,このように理解するのであれば,第一部定理二六証明への疑問のうち最後のものに関しても,解明することができると僕は思います。
 ただし,ここでは物の表現について説明したときと同じような注意が必要です。それは神の決定とはいっても,それは神が意志によってあることをなしたりなさなかったりするように,この場合でいえばある結果を産出したりしなかったりするように物に決定するということではないということです。むしろ神の決定というのは,神の本性の必然性そのもののことなのであって,僕たちが普通にある事柄を決定するという場合におけるような決定の重さとでもいうべきものを,ここではさほど重視しなくてよいのです。結果の産出が表現の一部であるのだとすれば,表現の場合に注意するべき事柄が,個々の因果関係にも適用されるのは当然だといえるでしょう。
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夢のカード&物の表現と因果関係

2013-07-29 18:54:16 | NOAH
 馬場の長男が三沢であるということは,少なくとも最良の時代が始まり,鶴田がセミリタイアした後となっては,ファンもよく分かっていたと思います。ただそれはあくまでも類推にすぎないのであって,馬場自身がはっきりと示していたかといえば,そうとはいえない面もあったように思います。しかし全日本プロレスという会社の経営はともかく,リング上に残したかったものを継ぐのが三沢であるということは,僕は馬場は生前に内外に示したのだと考えています。それは1994年3月5日のことです。
                         
 この日は日本武道館大会。メーンは馬場が不沈艦とタッグを結成し,三沢,小橋組と戦う,夢のカードが行われました。試合は35分11秒,三沢が馬場からスリーカウントを奪って終焉しました。馬場がスリーカウントを許したという事実が,リング上の自分の後継者は三沢であるということを,馬場が明らかにしたということだと僕は考えています。たぶんプロレスラーの表現というのは,そういうものだと思うからです。フィニッシュとなった技は,馬場が得意にしていたジャンピングネックブリーカードロップを,三沢流にアレンジしたもの。それはまた,後継に指名された三沢の,その地位を背負っていくということを明示するための流儀であったのだろうと思います。三沢はこの試合の後は,何度かこの技を使用していますが,これ以前に使ったことはなく,このときが初めてであったということも,その証明でしょう。
 僕は数多くのプロレス興行を生観戦しています。その中でどの試合がベストマッチであったかと問われれば,迷わずにこの試合をあげます。試合後の余韻も強烈で,なかなか席を立ち上がることができないほどでした。友人と合わせて3人で観戦していたのですが,3人が3人ともそうだったのです。
 三沢がタイガーマスクの覆面を脱いで三沢光晴に戻った東京都体育館の試合と,この試合。これらふたつの試合をライブで観戦していたということは,僕のプロレスファンとしての財産であり,また誇りなのです。

 この因果関係と神の本性との間にある関係というのは,スピノザが第一部定理二五備考で主張していることのうちに含まれると考えることができるのではないでしょうか。なぜなら,スピノザはそこで,神Deusが自己原因causa suiであるということと,神が万物の原因であるということは同一の意味であると主張していますが,このとき,神が自己原因であるということは神の本性essentiaに該当し,神が万物の原因であるということの方は個々の因果関係に該当していると理解することが,明らかに可能であると思えるからです。
 すると,僕は個々の因果関係は神の本性の法則が具現化したものであり,その各々の原因と結果との間に横たわらなければならない必然性necessitasを,神の本性が背後から支えるのだといいましたが,実際にはそのようにすら考える必要はなく,神の本性の必然性と個々の因果関係の必然性は同一のものであると理解して構わないということになります。
 このように理解すると,今度は次のような事柄が帰結してきます。自然のうちに何らかの物,ここで物というとき,僕は第一部定理二六でいわれている物というのをまず念頭に置いていますが,そうした物Xが実在すると仮定します。第一部定理三六から,このXは必ず原因として何らかの結果,たとえばYを産出することになります。このとき,XからYが生じる関係のうちにはある必然性が存在しています。これが第一部公理三が示していることです。ところがこの必然性というのは,神の本性の必然性と同一の意味であると解釈して構わないのです。ということは,Xは神の本性の必然性に則ってYを産出しているということになります。もちろんXが産出する物はYだけではなく,ほかにも存在すると考えられますが,その場合にもXが,神の本性の法則に従ってそうした物を産出する点では何ら変わるところがありません。いい換えれば,Xは神の本性の必然性に則するならば,必然的にnecessario何らかの結果を産出することになるでしょう。逆に神の本性の必然性に反する仕方では,何の結果も産出するということはないでしょう。
 これはちょうど,物の表現について考察したときの結論を,個々の因果関係にも適用したということです。
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よさこい賞争覇戦&因果関係と神の本性

2013-07-28 18:45:22 | 競輪
 初日の最終レースで7選手が失格という大波乱の幕開けとなった高知記念の決勝。並びは上原ー藤田ー大薗-棟方の東日本,稲垣ー南ー澤田ー山内の近畿中部で星島は単騎。
 スタートは南が取って稲垣が前受け。切れ目に星島がいて6番手から上原の周回。上原は打鐘前のバックから上昇していき,稲垣を抑えたあたりで打鐘。少しペースを落とし,星島がこちらにスイッチして稲垣は6番手。稲垣の追い出しで上原はホーム手前から発進。稲垣もすぐに巻き返しにいきましたが,南が続いただけで澤田以下は離れました。バックで稲垣が前に追いつこうかというところで藤田が番手から発進。少し踏み合いましたが苦しくなったのは稲垣の方。南が大薗と競り合うように藤田にスイッチし,直線は前を追ったものの届かず,優勝は藤田。半車輪差の2着が南で3着に半車身差で大薗。
 優勝した埼玉の藤田竜矢選手はこれが記念競輪初優勝。初日のアクシデントに加え,有力と思われた選手の脱落も重なり,メンバー的には少し楽でした。上原がうまく駆けて二段駆けが決まるということで,展開面でも幸運に恵まれた面があります。まだビッグでは負け戦でも1着をとったことがない選手で,さすがにすぐに一線級での戦いに参加するのは難しそう。そういう意味では絶好のチャンスをものにしたとはいえるでしょう。ただ,1度でも記念を勝った選手とそうでない選手には差があると僕は考えていますので,今後のレースぶりには注目する必要があるかもしれません。

 きわめて単純にいいます。僕の考えでは,あらゆる原因と結果との間に同一の必然性があるというためには,第一部定理一一が必要とされます。いい換えれば第一部公理三のうちには,証明されなければならない事柄が含まれています。したがって第一部定理一一が正しいとされれば第一部公理三も正しいということになります。よって第一部公理三は,公理としては不成立であると判断するのです。
 このとき第一部公理三,とくにそのふたつの意味のうち強い意味の方と,第一部定理一一との関係は,第一部定理一一が第一部公理三を背後から支えるのだと僕は理解します。つまり因果関係,ここで僕が因果関係というのは,一般的な意味において原因と結果の関係というよりは,個々の因果関係,すなわち具体的に存在するある原因とその結果との間にある関係のことですが,それら個々の因果関係を必然的たらしめるためには,あるいはそれを必然的であるといい得るようにするためには,神の存在が必要とされると僕は考えているわけです。
 第一部定理一七が示しているように,神は神自身の本性の必然性によって働きます。したがって神の存在もまた,神の本性の必然性のうちにあるといわなければなりません。もっともこのことは,第一部定義六により神が実体であるということ,第一部定理七により実体の本性にはその実体の存在が含まれているということからより明白であるといえるでしょう。
 そこでこれらのことをまとめると,次のことが帰結します。各々の原因と結果との間にある必然性は,神の本性の必然性によってその背後を支えられているのです。いい換えれば,原因と結果との間にある関係というのは,神の本性の法則そのもの,あるいは神の本性の必然性の一部なのです。したがって,たとえばあるものAがあるとして,このAを原因としてBが結果として産出されるということは,神の本性の必然性のある種の具現化であるということになります。もちろんこの具現化というのは,とくにこの場合の因果関係にのみ適用されるというわけではなく,すべての原因と結果との間に適用されなければなりません。一定の原因から必然的に結果が生じるのだからです。
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三四郎の想起&論理的飛躍

2013-07-27 19:14:51 | 歌・小説
 小説を読んでいると,どうにも理解に苦しむ文章が出てくることがあります。『三四郎』にもそういう一文がありました。
                         
 学生生活を始めた三四郎には何人かの友人ができます。そのうちのひとり,野々宮の地下の研究室を出た後,池の端にしゃがみ込んで物想いにふけるという場面が二にあるのですが,このとき三四郎は汽車で乗り合わせた女のことを思い出して急に赤くなります。僕にとってはこれが唐突にしか思えず,なぜ三四郎がこのときにそれを想起したのか,さっぱり分かりませんでした。
                         
 蓮実重彦の『夏目漱石論』では,この場面に以下のような解説がされています。三四郎は名古屋で女と同泊しました。女は三四郎の入浴中に風呂に入ってこようとし,慌てた三四郎はすぐに風呂を飛び出します。これは三四郎が童貞であることを示すエピソードのひとつです。
 蓮実によれば,この風呂と,佇んでいた池とが,三四郎の精神の中で結び付いたのです。スピノザ哲学風のいい方をするなら,池の表象像から風呂の表象像への移行が三四郎の精神の中に生じたために,三四郎は急に赤面したのです。
 この解説の妥当性についてはここでは問いません。ただ,この赤面の直後に,左手の丘の上にふたりの女が現れます。ひとりは看護婦で,もうひとりは『三四郎』の女主人公といえる美禰子です。理由はどうあれ三四郎が赤面したのは事実ですから,美禰子は名古屋の女の再来として,三四郎の前に現れたと読解するのは妥当だろうと思います。

 第一部定理二六が,物を作用に決定する原因に関して論述しているということは,とくに説明するまでもなく明らかだといえると思います。しかるにスピノザは,これを物の存在を決定する原因,それに加えて物の本性を決定する原因について訴えることで論証を終らせています。僕が一種の論理的飛躍がここにはあるということの具体的な意味は,このことなのです。
 ただし,いかにそこに論理的な飛躍があるのだとしても,だからスピノザがここで示している事柄は成立していないと僕が考えているわけではありません。むしろ消去法による結論は,ここでスピノザが明らかにしている事柄に関しては,それが正しいということを示しているのです。よって,そこには確かに論理的飛躍というのがあるようには思えるのですが,実際には,むしろその飛躍を成立させ得るような別の論理が介在しているのだとみるのが妥当であるように思います。かつて検討した第二部定理四〇に含まれていると考えられる4つの意味のうち,第三の意味から明らかなように,もしも得られる結論が正しいとするならば,その結論を帰結させている前提というのも正しいと考えなければならないからです。
 では,存在の決定の原因,あるいは本性の決定の原因と,作用の決定の原因とを結び付けるような原理というのはどこに存在するのでしょうか。この問いはなかなか困難なものなのであって,僕には現時点ではある仮設のような考え方しか明示することができません。ただ,第一部定理二六でスピノザが示している結論が正しいということは明らかにできでいますので,たとえ仮説にすぎないのだとしても,いい換えればその説の中に何か不十分な点が残っていたとしても,現在の考察に与える影響というのはそうも多くない筈ですから,この仮説というのを提示しておくことにします。
 これまでの考察と関連させて説明します。僕は第一部公理三をテーマとして設定した際,結論として,この公理というのは,そこに示されている内容に関しては問題なく正しいのであるけれども,それ自体で知られるような公理としては不成立であると結論しました。これがこのことと関連しているように思えます。
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スピノザと演劇&消去法

2013-07-26 18:39:32 | 哲学
 スピノザの助言によって,本人いわく精神病の一歩手前から回復することができたファン・ローンは,その後もスピノザと会っていました。「レンブラントの生涯と時代」によると,スピノザとファン・ローンを含めた何人かでヨットに乗っていたとき,突風が起こったためにヨットが壊れてしまい,訪れたことがない寒村に,修理のために3日間ほど滞在しなければならなくなってしまうという出来事があったそうです。
                         
 このアクシデントの最後の晩,遭難したメンバーで演劇をしたとファン・ローンは書いています。現在のように多くの娯楽がある時代ではなく,おそらく当時は演劇というのは大衆娯楽のひとつであったのでしょう。演じられたのはアリストファネスによる喜劇,『蛙』であったことも明らかにされています。
 演劇が大衆娯楽であったとはいえ,実際にどのくらいの人が演じるという行為を日常的な趣味ないしは娯楽としてたしなんでいたのかは僕には分かりません。ただ,スピノザに演劇の経験があったということは確かです。
 スピノザと言語の関係で触れたように,スピノザはファン・デン・エンデンという教師にラテン語を習いました。エンデンのラテン語学校では,ラテン語の抑揚などを正しく習得するという目的から,ラテン語による演劇というのが授業の内容に含まれていたそうです。いずれ書評を出しますが,これはスティーヴン・ナドラーの『ある哲学者の人生』に書いてあります。
                         
 授業を受けていたのですから,少なくともこのときにスピノザが実際に演じたことがあったということは間違いないといっていいでしょう。ですから,ヨットの修理の待機中にスピノザが演劇に興じたことは,そんなに驚くべきことではないかもしれません。
 ただ,僕が知る限り,実際にスピノザが演じたことについて書かれているのはこれだけなのです。そしてそれが『蛙』であったというのが,僕には驚きでした。

 問題は,僕がres singularisを作用に決定する原因を導き出すときの,論証過程に存在します。簡単にいいますと,僕の手法は消去法に依拠しているといえるでしょう。しかしスピノザによる第一部定理二六証明においては,明らかにこうした手法が採用されてはいません。むしろスピノザは,原因および結果に関する決定と限定対義語的関係を構成すると理解する限り,決定するといわれるような原因は神でしかあり得ないということが,それだけで帰結すると主張しているように思われます。そして第一部定理二六証明への疑問の最後のものは,このことが消去法ではなくいわば直接的に導かれることの妥当性に関して,疑問を呈しているのです。したがって,物を作用に決定する原因が神であるという結論に関しては僕もスピノザも同じなのであって,したがって僕はスピノザがこの定理で主張している内容に関しては,それが正しいということに完全に同意するのですが,疑問の方は何も解消されていないということになっているのです。
 そこで疑問の方を解消するために,スピノザはこの主張のために何に訴えているのかということを検討します。
 スピノザがここで示しているのはただひとつ,神は物の存在の起成原因であり,かつ物の本性の起成原因であるということです。スピノザはここでは第一部定理二五第一部定理一六を援用しているのですが,第一部定理二五の方は神が物の本性の起成原因であることを訴求するために援用され,第一部定理一六の方は神が物の存在の起成原因であるということを訴求するために援用されているといえるでしょう。
 僕が思うに,もしもこれでスピノザの目的が達成されていると考えるならば,そこには一種の論理的な飛躍を導入しなければなりません。なぜならば,もしも物を存在に決定する原因について探求するのであれば,確かにスピノザが行っている論証によって,そのことは証明されているといえます。いい換えれば,物を存在に決定する原因というのは,とくに消去法に依拠せずとも,神であるということになるでしょう。しかし第一部定理二六が示そうとしていることは,そのこととは異なっていると理解できると思うのです。
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王座戦&不十分な事情

2013-07-25 18:49:38 | 将棋
 郷田真隆九段と中村太地六段で争われた22日の第61期王座戦挑戦者決定戦。対戦成績は郷田九段の1勝。
 振駒で先手は中村六段。角換り相腰掛銀の☗4八飛型に。手待ちの後,後手から仕掛ける将棋となり,難しい中盤戦が展開されていた,としか僕の力ではいえません。
                         
 ここで熟慮して☗7一角と打ちましたが,中村六段はこれで自信を持っていたようです。郷田九段は攻め合いの☖7六歩を選択。取れる駒がたくさんありますが,☗5五銀と角を取りました。☖7七歩成☗同金は当然。そこで☖7六歩。これも☗同金と取るところで,☖7二飛と回りました。これには☗5四銀と銀を取り,☖同歩でしたので☗4三歩成☖同金直と成り捨てて作った空間に☗4四角打。
                         
 実戦はここで☖3三銀と受けていますが,☖1二王の方がよかったとのこと。ただ,先手は一気に攻めるのではなく,手を戻す展開にすることも可能なので,第2図は先手がリードをしている局面であることは間違いないようです。
 中村六段が挑戦者に。王座戦は初挑戦。第一局は9月4日です。

 『エチカ』の定理の配置の順序を無視して,後発の定理Propositioによって先行する定理を理解することを僕が排除しないのは,端的にそのような方法は『エチカ』の正確な理解にとって有用であると判断しているからです。こうした方法は一種の帰納法でしょうから,演繹法を用いるスピノザの哲学の方法論という観点からするならば妥当性を欠くだろうということは僕も認めます。しかし少なくともこの方法を採用することによって,スピノザ自身が考えている思想の内容に関して,誤った結論を導く可能性はいっかなないといえると思うのです。ですから,第一部定理二六にある疑問が生じた場合に,第一部定理二八を参照してその疑問を解決するということは,手法として僕は認めます。したがって,無限様態modus infinitusがres singularisを作用に決定する原因ではあり得ないという結論部分については,僕は譲ることはありません。ただし,現状の考察は単にこの結論を探しているのとは異なり,もう少し複雑な事情が潜んでいるために,この手法にはやや不十分な点も残っているというように僕は思うのです。
 現在の考察の対象となっているのは,スピノザによる第一部定理二六証明への疑問のうち,最後の部分と関連しています。この部分というのは,もしも決定の原因であるものがあるならば,それは神Deus以外にはあり得ないということを主張しているとしか理解できません。そして福居純の証明を利用することによって,決定と限定というのは対義語的関係にあるということ,いい換えれば決定の原因といわれるものは,決定されるものに対して,限定determinatioをすることはないということは明らかになりました。一方,第一部定理二六でいわれている物のうちには,res singularisが含まれていなければならないことも論証し,そのゆえにその決定の原因が無限様態ではあり得ないと結論付けたのです。
 すでに示したように,res singularisは限定されつつ限定しながら実在するものですから,決定の原因ではあり得ません。そして無限様態も決定の原因であり得ないとしたら,神ないしは神の属性attributumだけがその原因であり得るということは帰結します。
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王位戦&結論

2013-07-24 19:20:43 | 将棋
 神戸市での対局になった第54期王位戦七番勝負第二局。
 行方尚史八段の先手で相矢倉に誘導しましたが,羽生善治王位は急戦矢倉を選択。矢倉中飛車になりました。後手が玉を囲いにいったのがかえってマイナスに作用したという印象があり,先手の方が指しやすいのではないかと思っていました。
                         
 この後手陣は愚形に感じられ,やはり先手の方がやれそうに思えます。▲6四歩と突いて△6二飛と寄りましたが,この交換は先手が損をしてしまったのではないでしょうか。▲2二歩△同王としてから▲5五歩と角道を止めましたが,△6四金。そこで▲4五歩と突いていますが,後手は△5五角ですから,一手の価値としては少し薄かったかもしれません。▲同角△同金に▲4一角と打ち,△6一飛に▲7四角成と馬を作りましたが,ここに作ったのでは成功ともいえなさそう。後手は△6六歩と叩き,▲6八金引に△6五桂と,目標になりそうだった桂馬を跳ね出しました。
                         
 第2図は第1図と比べれば,先手の形がほぐれた上に,駒が前に前にと進んでいますから,盛り返しているのは一目瞭然。というよりもこの局面ではすでに後手の方が優位に立っているようです。ここで先手は▲4六銀という鬼手を放っていますが,普通に応じた後手が勝っています。
 羽生王位が連勝。第三局は来週の月曜と火曜です。

 この点についてはもう少しだけ詳しい説明が必要でしょう。
 『エチカ』において様態というのは,無限様態と有限様態すなわち個物のふたつしかありません。もっとも,このことは一般にものは無限であるかそうでなければ有限であるかのどちらかであるということをいい換えているにすぎないともいえますから,きわめて当然のことではあります。そして無限様態としては直接無限様態と間接無限様態があります。また,現在の考察でいっている個物というのは,res singularisに限定しています。扱いとしてはres particularisの方は,無限様態かもしれないし,有限様態かもしれないし,あるいはその両方を含むかもしれないという仕方で保留しているのです。
 第一部定理二八が示しているのは,res singularisを存在と作用に決定するのはそれとは別のres singularisであり,そのres singularisを存在と作用に決定するのもそれとは別のres singularisなのであって,この関係が無限に連鎖していくということです。したがって,少なくともres singularisではないような様態が,あるres singularisを存在と作用に決定することはないと考えなければならないと僕は理解するのです。なぜなら,res singularisを存在と作用に決定する因果関係は無限に連鎖するのですから,この連鎖のうちに無限様態が登場してくる余地は一切ないと考えるべきだからです。
 したがって,無限様態がres singularisを存在と作用に決定する原因ではあり得ないということは,間違いないといえるでしょう。とくにスピノザがそのように考えているということだけは間違いないといえると思います。ただ,現状の考察においては,このような結論を得るだけでは不十分だと思えるところがあるのです。
 僕は『エチカ』のことは『エチカ』に訴えて考えるということを考察の基本姿勢としています。ですから,第一部定理二六について考える場合に,第一部定理二八を援用しても,そのこと自体は問題はないと判断はします。
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ちぎり賞争奪戦&個物の作用

2013-07-23 18:58:30 | 競輪
 直前のGⅠでワンツーを決めた師弟の地元凱旋レースという趣になった豊橋記念の決勝。並びは神山拓弥ー牛山ー神山雄一郎の栃木茨城,後閑に中村,深谷-金子ー浅井の中部で東口は単騎。
 深谷がスタートを取っての前受け。東口が4番手に入り,5番手は神山拓弥。8番手に後閑という周回に。後閑は残り3周のバックで上昇開始。これに神山拓弥が続くと,東口が神山雄一郎の後ろにスイッチ。ホームで深谷は引いて7番手。後方を牽制しつつ神山拓弥がバックから発進して打鐘。後閑が叩かれることを嫌ったため,関東勢で先行争いに。勝ったのは後閑で神山拓弥は浮いて圏外。隊列が短くなったのでホームから深谷が発進するとあっさりと前に。金子は続きましたが,浅井は離れてしまい,バックで追い上げて何とか3番手を確保。車間を大きく開けていた金子が直線で差し切って優勝。深谷が4分の3車輪差で逃げ粘っての2着で地元のワンツー。牛山が大外に回ったため,インを突いた神山雄一郎が1車輪差の3着に届きました。
 優勝した愛知の金子貴志選手は寛仁親王牌から連続優勝。記念競輪は2010年の一宮記念以来となる4勝目。豊橋記念は2006年に勝っていますので2勝目。関東勢で叩き合いましたので,地元勢には絶好の展開。少し車間を開けすぎているのではないかと思えたくらいでしたが,さすがに彼我の脚の差を十分に分かっていたようで,あれだけしなければワンツーは難しかったでしょう。単に1着を取っただけよりも大きな価値のある優勝であったと思います。

 再び厳密性を導入するならば,実際に相違があると考えておかなければならないのは,無限様態が作用に決定するといわれる場合と,個物res singularisが作用に決定されるといわれる場合との間にあるのではありません。むしろ,仮にそのようないい方があるのだとしたら,直接無限様態であれ間接無限様態であれ,無限様態が作用するといわれる場合と,res singularisが作用するといわれる場合との間にあるのです。
 ただし,この考察ではこのことは無視します。というのは,第一部定理二六で物が決定されるといわれている場合において,物の意味のうちに,少なくともres singularisが含まれていなければならないということがすでに明らかになっているからです。したがって,無限様態とres singularisの間には,同じように作用するといわれるのであっても,その作用するという動詞を,完全には同一の意味内容を含むことばとして考えてはいけないのであっても,res singularisが作用するといわれる場合の決定の原因というのを考えなければならない点では何ら変わるところがありません。つまりここではres singularisが作用するといわれる場合,いい換えれば今回の考察においてすでに探求した,働きと作用の相違という意味においての作用だけを念頭に置いたとして,何も問題がないからです。といいますか,それで問題がないというよりは,そのような意味において考えなければならないという方がより正確でしょう。
 ではres singularisがどのように作用に決定されるのかといえば,それは第一部定理二八で示されているといえます。そして少なくともこの定理のうちには,無限様態がres singularisの作用の決定の原因ではないということが,明確に示されているといえると思います。とくに,スピノザがこの定理において初めてres singularisということば,実際にはres singularisに類することばというべきでしょうが,それを用いたということ自体が,このことの明確性の強大な根拠となり得ます。
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消化不良の一戦&帰結事項

2013-07-22 19:22:01 | NOAH
 おそらく仲間割れの事情は本人たちの意志とは別のところにあったと思うのですが,アラビアの怪人黒い呪術師遺恨決着戦を行ったように,ブロディとスヌーカもリング上で決着をつける必要が生じました。スヌーカの本心がどこにあったか僕には分かりませんが,次のスーパーフライの来日は秋のジャイアントシリーズ。このときには超獣も日本にいましたので,試合が組まれました。
 この試合はまだ本格的なレスリングに至る前に鶴田が乱入。このために没収試合に終っています。この当時の全日本プロレスは,両者リングアウトとか両者反則,あるいはレフェリーがひっくり返って試合の収拾がつかなくなって終了など,不透明な決着が多く,ファンとしては消化不良の思いだけが残るような試合がかなり多くありました。当時の全日本は新日本に差をつけられていたといっていいと思いますが,おそらくこのことが大きく影響していたのだろうと思います。全日本のリングからこうした不透明性が排除されたのは,早く見積もっても1987年のピンチが過ぎた後で,それが完全な形になったのは,最良の時代の到来が近付いてきてからであったと思います。
 この時代の全日本プロレスの試合としても,この一戦はとくに消化不良に終った感があります。そしてそれはおそらく,ブロディとスヌーカはリング上で仲間割れをしただけであって,実際には心が通じ合う仲だったので,本人たちの間では試合などはしたくなかったからだろうと思います。ブッチャーとシークの試合の真相が明らかにされているのに対し,この試合は何も判明していませんが,鶴田の乱入は試合を終わらせるための手段として用意されたものだったのだろうと推測します。
                         
 乱入した鶴田は観客から大きな非難を受けました。ずいぶんと損な役回りを引き受けたものだと思いますが,全日本プロレス所属のレスラーとして,引き受けなければならない仕事のひとつというように考えていたのではないかと僕は思っています。

 このことから次のことが帰結します。
 決定の原因というのが何であるのかということを探求する場合に,たとえばある直接無限様態に対してそれを考える場合には,単にその直接無限様態にだけ着目すれば事足ります。同じことは間接無限様態の場合にも該当します。これらは同一の本性を有するほかのものは自然のうちには存在しないということが明らかだからです。
 ところが,res singularisの場合にはそうではありません。同一の本性を有する複数のres singularisは自然のうちに存在するからです。よって,一般的な意味においてres singularisに対する決定の原因であるものを探求するというのは,探求の姿勢として不十分であるといわざるを得ません。そしてただそればかりではなく,たとえば人間に対して決定の原因であり得るものが何かということを探求しようとする場合にも,やはり姿勢としては不十分であるといわざるを得ないのです。むしろ具体的に人間Aが存在する場合に,このAに対する決定の原因であるものが何であるのかということを考えていかなければなりません。抽象性と具体性に関して注意しなければならないことのうち,最大のポイントはここの部分にあると僕は考えるのです。
 さて,第一部定理二一と第一部定理二二のうちには,直接無限様態に対して決定をなすのは神,ないしは神の属性であるということ,また,間接無限様態に対して決定をなすのは,その間接無限様態と同じ属性の直接無限様態であるということが含まれているのだと僕は理解します。厳密にいうと,この場合に決定というのは,作用に対する決定というよりは,存在に対する決定であるというべきかもしれません。しかし,少なくともXを存在に決定するものはXを作用に決定することも可能であると僕は思います。さらにいえば,直接無限様態であれ間接無限様態であれ,無限様態というのは必然的に,いい換えれば永遠から永遠にわたって存在するといわれなければならない様態なのですから,持続のうちに存在する有限様態すなわち個物res singularisが作用に決定されるという場合と,無限様態が作用に決定されるという場合とは,相違があると考えておくべきでしょう。
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船内での論争&抽象名詞

2013-07-21 18:37:40 | 歌・小説
 留学のために夏目漱石が乗った船は,真直ぐにヨーロッパまで行ったわけではなく,途中でいろいろなところに寄港しています。船中から妻に宛てて書簡を認めることが可能だったのも,こうした理由からでした。また,知り合いだったノット夫人が乗船したのは横浜からではなく,1900年9月10日に長崎に寄港したおりでした。
                         
 『漱石の道程』によれば,この船には藤代禎輔と芳賀矢一という日本人が同乗していました。この両名も留学の途上であったようです。船は13日には上海に寄港。ここでおそらくイギリス人と思われる宣教師の集団が,その家族と合わせて20名ほど乗ってきました。この中に職務に忠実な人がいたようで,船内で伝道を開始。漱石は見込まれてその相手になったようです。これは僕の見解ですが,宣教師が見込んだのは漱石の宗教的資質であったというより,漱石が英語に不自由しなかったからだと思います。
 藤代はこのことに関連して,漱石は神の存在というような問題で宣教師をてこずらせたと書いたそうです。ただしこれは漱石の弟子である小宮豊隆が後に書いた内容らしく,そのまま信頼するのは危険かもしれません。ただ,宣教師と漱石との間で何らかの論争があったのは事実らしく,それについては芳賀の方も証言しています。これは芳賀自身による日記に書かれているものですから,概ね信頼できる内容でしょう。
 芳賀によれば,10月11日に漱石と一緒に英語の説教を聞いたとあります。上海に寄港してから一月弱が経過しています。ノット夫人が漱石に声を掛けたのは10月4日で,漱石の聖書を渡したのが10日だったそうで,ちょうどその次の日のことになります。ですからノット夫人とこの宣教師の間で,漱石に関して何らかの会話があった可能性は否定できないように思います。
 説教を聞いた翌12日の芳賀の日記には,漱石が宣教師と語り合ってその鼻を挫いたとありますから,やはり論争があったのは事実で,漱石の考え方が宣教師を困らせたというのも事実だったと判断していいのでしょう。具体的にどのようなやり取りが両者の間であったのかが不明なのは残念です。

 ただ,実際のところ注意しなくてはいけないのは,人間が認識することが可能な無限様態が四種類しかないという点に存するのではありません。むしろ,ひとつの属性にはひとつの直接無限様態とひとつの間接無限様態しか存在し得ないという点の方にあるのです。
 あえて繰り返しますが,第一部定義六により,神の本性は無限に多くの属性によって構成されています。そしてそれら各々の属性に直接無限様態と間接無限様態があるのですから,単に数という観点からみるならば,無限に多くの直接無限様態と間接無限様態があるというように考えなければなりません。そして個物res singularisも無限に多く存在するのですから,もしもこの点にだけ着目するならば,無限様態も個物も同じなのであって,抽象性と具体性に関しては同じように注意しなくてはならないというべきでしょう。
 ところが,無限様態と個物res singularisを分ける最大のポイントが,無限様態は各々の属性には直接無限様態がひとつ,そして間接無限様態がひとつずつしかないという点にはあるのです。なぜならば,このことが意味するのは,たとえ全体としてみた場合には無限様態が無限に多くあるのだとしても,それら無限様態のいずれも,異なった本性を有するということだからです。あるいは別のいい方をするならば,たとえ無限に多くの無限様態があるのだとしても,同一の本性を有する複数の無限様態は存在しないということになるからです。
 個物res singularisの場合はこれとは異なります。同一の本性を有する複数のres singularisが自然のうちには存在します。これは数多くの人間が現実的に存在しているという事実だけをもってしてその証明になるといえます。したがって,たとえば延長の属性の直接無限様態,これは運動と静止のことですが,この場合の運動と静止というのは抽象名詞ではありません。同一の本性を有する複数の運動と静止は存在し得ないからです。しかしこれに反して人間というのは,同一の本性を有する複数の人間が存在しますから,物とかres singularisほど含む範疇,すなわちその抽象性は広くありませんが,なお抽象名詞なのです。
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竜王戦&無限様態の数

2013-07-20 19:00:23 | 将棋
 第26期竜王戦決勝トーナメント。昨日は挑戦者決定戦進出をかけ,森内俊之名人と羽生善治三冠がぶつかりました。対戦成績は森内名人が56勝,羽生三冠が66勝。
 振駒で羽生三冠の先手。森内名人が追随して角換り相腰掛銀。先後同型の直前に先手が▲4八飛と回る将棋。いつものように手待ちの繰り返しでしたが,その手順はあまり見たことがないものでした。先手が仕掛け,そこからは先手の攻め,後手の受けという展開がしばらく続きました。
                         
 先手が飛車を成り込んだ局面。駒損はともかく,攻めが重い形なので後手としてはチャンスと思えます。△8六桂と打っていきました。これは夕食休憩直後の一手。休憩中も考えられるわけですから,かなりの程度まで目算を立てることができたための指し手であったように思われます。▲同歩△同歩▲同銀に,銀は取らずに△8七歩。▲7七玉と逃げましたが△8八銀と王手をして,▲6八玉に△8九銀不成で桂馬を入手。▲7九金に△4六桂とその桂馬をすぐに打っていきました。
                         
 金を逃げても銀を取ってもダメということで,この局面は後手が勝勢のようです。流れるような手順が見事な一局でした。
 森内名人の勝利で挑戦者決定戦進出。反対の山はまだ残っていますが,準決勝は紹介します。

 抽象性と具体性について注意しなければならないことは,厳密にいうなら無限様態にも該当するといわなければなりません。ただ,無限様態の場合には,res singularisの場合とは異なった事情があります。
 第一部定理二一と第一部定理二二で示されていることは,直接無限様態は神のある属性の絶対的本性を原因として生じるということであり,また間接無限様態はそのようにして発生した直接無限様態を原因として生じるということです。しかるに第一部公理三によれば,一定の原因からは必然的にある結果が生じます。いい換えるなら,あるひとつの原因からは同じひとつの結果しか生じてこないということになります。そうでなければその原因と結果との間にある関係を必然的であるとみなすことは不可能ですから,第一部公理三をこのような意味に解釈することは妥当であると思います。すると,ある属性の絶対的本性を原因として発生する直接無限様態は,その属性においてひとつだけであり,同様にその唯一の直接無限様態を原因として生じる間接無限様態も,その属性にはひとつだけであるということになります。つまり直接無限様態も間接無限様態も,それぞれの属性にひとつだけ存在するのであり,同一の属性に複数の直接無限様態,また間接無限様態が存在するということはないと考えなければなりません。
 次に,第一部定義六は,神の属性は無限に多くあることを示しています。そしてその各々の属性に直接無限様態と間接無限様態が存在すると考えるべきであると僕は理解しますから,これでみれば直接無限様態も間接無限様態も無限に多くあると理解しなければなりません。
 ただし,第二部公理五が示すように,人間が認識し得る神の属性は,思惟の属性と延長の属性のふたつだけです。したがって人間が認識し得る無限様態は,思惟の属性の直接無限様態と間接無限様態,そして延長の属性の直接無限様態と間接無限様態の四種類に限られるということになります。これに対して,人間が認識可能なres singularisは,無際限にあるといわなければならないでしょう。このために,無限様態に関しては,さほどの注意は必要ないことになります。
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ファン・ローン&抽象性と具体性

2013-07-19 18:38:46 | 哲学
 『スピノザの生涯と精神』の中で,最も僕の印象に残ったエピソードは,日本語版に付け加えられた,「レンブラントの生涯と時代」の中に含まれています。まずこの著者であるファン・ローンJoanis van Loonについて,主にスピノザとの関係を説明しておきます。
                        
 ファン・ローンは1600年にアムステルダムで産まれた医師。自由思想家で,幅広い交友関係があり,スピノザとはアムステルダムで出会い,破門されたスピノザがレインスブルフRijnsburgというところに住んでいた頃に,訪ねていったこともあったそうです。
 ファン・ローンが最も敬愛していたのが画家のレンブラント。1669年10月に,レンブラントは医師であるファン・ローンに看取られて生涯を終えました。敬愛するレンブラントの死がファン・ローンには大変なショックで,大きな精神上の苦悩をもつことになりました。彼自身,精神病の一歩手前であったと回顧しています。このときスピノザはフォールブルフVoorburgという村に住んでいたのですが,ファン・ローンは気を紛らわすために会いにいきました。スピノザはそのとき,レンブラントとの交友や晩年,葬儀などについて,すべて書くようにアドバイスしました。そうして書き上がったのが「レンブラントの生涯と時代」。なのでこの中にスピノザも登場してくるのです。
 ファン・ローンはスピノザのアドバイスに従った結果,効き目が現れて精神的に回復できたと述べています。これでみればこのときのスピノザは,医師に対して精神分析医の役割を果たしたということになります。『エチカ』の第三部ではスピノザは人間の感情affectusの動きをきわめて明瞭に解明しています。何よりスピノザとフロイトの関係からみても,スピノザにそのようなことができたとして,何も不思議がないといえるでしょう。

 物の意味というのが様態modi,modusのすべてであるとするなら,そこには『エチカ』で示されている様態のすべて,すなわち直接無限様態と間接無限様態という,無限である様態と,有限様態つまり個物のすべてが含まれているということになります。なお,今はふたつの個物であるres particularisとres singularisの概念が完全には重なり合わないという場合も想定していますから,この個物というのはres singularisのみを意味すると考えておいてください。したがって,第一部定理二六で決定といわれているのは,これらすべてに対する決定を意味しなければならないと理解します。つまりそこには,res singularisに対する決定というのも,少なくとも含まれていなければならないというように理解するということです。いい換えれば,決定の原因として,res singularisに対して決定の原因たり得るものを探求しなければならないということです。
 なおまた,ここではひとつの注意が必要です。実のところ,res singularisというのは,物というほど抽象的ではないといえますが,やはりひとつの抽象名詞であるということは間違いありません。しかしここでres singularisに対する決定という場合には,そのような抽象名詞としてのres singularisに対する決定というのを意味しているのではありません。これはスピノザの一般性と特殊性に関する考え方からもそうでなければならないといえます。つまりこの意味においてres singularisに対する決定の原因であり得るものとして探求しなければならないのは,ごく一般的な意味におけるres singularisへの決定の原因なのではなくて,各々のres singularisに対する決定の原因でなければならないということになります。いい換えれば,res singularisが第二部定理八系の意味において現実的に存在するといわれる場合において,具体的に存在するres singularis,たとえばXに対して決定の原因であり得るものが何であるのかということを考えていかなければならないということになるのです。
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寛仁親王牌・世界選手権記念&物の意味

2013-07-18 19:12:36 | 競輪
 15日に弥彦競輪場で行われた第22回寛仁親王牌の決勝。並びですが深谷-金子の師弟に飯嶋が競りかけ,川村に成田。残る木暮,岡田,浅井,井上はいずれも単騎。
 迷わずに深谷がスタートを取って前受け。後ろは周回中から内と外が入れ替わりながらの競り。この後ろは岡田で,5番手が浅井,6番手に井上。川村-成田で木暮が最後尾で周回。残り2周になるホームから川村が上昇。深谷は素早く引いて打鐘前から一気に反撃。このとき外は金子で,一旦は離れそうでしたが飯嶋には踏み勝って番手を確保。川村が3番手を確保しましたが,深谷のスピードがよく,反撃できず成田が金子にスイッチ。直線は前3人での争いとなり,金子がタイヤ差で優勝。粘った深谷が2着で師弟のワンツー。中割りの成田もタイヤ差で3着と,上位は大接戦でした。
 優勝した愛知の金子貴志選手は2010年の一宮記念以来のグレードレース優勝。ビッグは2004年の4月に佐世保でのふるさとダービーを優勝していてこれが2勝目。GⅠは初勝利。すんなりと弟子の番手を回ることはできませんでしたが,激しい競りにならず,踏み出し勝負となったのは,ダッシュが持ち味ですのでよかったと思います。おそらく深谷の駆け方もこれを想定してのものであったでしょう。それでもやや離れたのを追い上げてマークし,さらに直線で差し切ったのですから,称えてよい内容であったと思います。個人的には若い頃からかなり期待していた選手で,もう無理なのかなと思いかけていましたから,とても嬉しい優勝でした。

 やはり第一部定理二六で言及されている物に関しては,直前のふたつの定理から解釈していくのが妥当であると思います。そして,第一部定理二六でいわれている物というのが,それらふたつの定理でいわれている物と完全に同じ意味ではないのであるとしても,少なくともそれらの定理に物の意味として含まれている事柄については,同じように含んでいると考えておくのが,妥当でありかつ誤謬に陥ることに対して安全な手法であろうと思います。
 第一部定理二四でいわれている物は,神から産出されるものです。しかるに,第一部定理一六からして,神の本性の必然性からは,無限に多くの仕方で無限に多くのものが産出されると理解しなければなりません。つまり神から産出されるものとは,自然のうちに実在する,あるいは実在し得るもののうち,神とその属性以外のすべてのものを意味しなければなりません。第一部公理一の実在的意味から,自然のうちに実在する神以外のものは,神の属性が変状した様態です。つまり第一部定理二四で示されている物には,無限様態であろうと有限様態すなわち個物であろうと,すべての様態が含まれると僕は理解します。
 同じことは,むしろ第一部定理二五でいわれている物というのがどういうものであるかを考えることによって,より明らかになるでしょう。というのは,この定理でいわれている物というのは,本性を有するすべてのものと理解しなければならないからです。第二部定義二から明白ですが,実在するどんなものにもそれに固有の本性というのはあるのであり,よって本性を有するものというのはすべてのものというのと同じことだからです。ただし,この定理でいわれている物には,神だけは含まれないといえます。もちろん神にも神に固有の本性というものはあるのであって,それを示しているのが第一部定義六です。しかし第一部定理二五がいっているのは,神が物の存在と本性の起成原因であるということですから,物と神は厳密に分けて考えるべきです。たとえ神が自己原因であるということと物の原因であるということが同一の意味であるのだとしても,神は物のうちには入らないとするのが妥当であると思います。
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棋聖戦&物への決定

2013-07-17 19:22:43 | 将棋
 新潟市での対局になった第84期棋聖戦五番勝負第四局。
 渡辺明竜王の先手で羽生善治棋聖が横歩取りに誘導。△8四飛,△5二王,△5一金,△6二銀の構えで,構える前に9筋の位取り。先手は中住い。並べた限りでは,かなり早い段階で差がついたのではないかと思えました。
                         
 ここで先手は▲2八飛。この手は僕にはよく分かりませんが,何かを警戒したものでしょう。後手は△2五歩と抑えました。そこで▲6八玉と寄っていますが,これは明らかな手損で,このように指さなければならない局面であるとしたら,すでに作戦負けになっているのではないかと思えました。ここから△1四歩▲4六歩△1五歩と後手は1筋を伸ばしていき,▲3六銀にいきなり△1六歩と仕掛けました。▲同歩△1七歩▲同香に△1九角と打ち,▲2七飛△4六角成。
                         
 歩切れを解消して馬を作れましたので,仕掛けは成功しているのではないかと思います。勝負が決するような局面ではありませんが,この後は先手にはチャンスらしいチャンスすらなかったように感じます。
                         
 3勝1敗で羽生棋聖が防衛79期に奪取し,80期,81期,82期,83期,今期と防衛を重ねて六連覇。通算では12期目の棋聖位となります。

 決定の原因たり得るものというのは,あくまでもそうであることが可能なものという意味なのであって,それが決定の原因であるとまではいえません。引き続き,これら原因であり得るもの,すなわち,神そして神の属性,直接無限様態,間接無限様態のうち,決定の原因であるものは何かということを考察していきます。ただし,得なければならない結論は,これらのうちあるものが,単に決定の原因であるというだけでは十分ではないという点に注意しなければなりません。考察の対象となっているのは,第一部定理二六でいわれている決定なのですから,この定理で決定といわれる意味において,決定の原因であるものを結論として引き出さなければならないのです。
 第一部定理二六は,物が作用に決定されるということについての言及です。つまり物に対して決定の原因であるものは何かということが考えられなければなりません。しかし,物というのはきわめて抽象的な名詞なのであって,これが具体的に何を意味するのかということが分からないと,結論を引き出すことはできません。もちろん,ここで物といわれているものが何であるのかということを特定することはおそらく不可能です。というか,それが特定され得る,たとえばXといい得るのであれば,そもそもスピノザ自身,物などという抽象名詞は用いずに,Xといったであろうと理解するのが自然だからです。むしろスピノザがここで物ということばを用いているのは,おそらくそれはXであるとは特定することができないようなものについて言及したかったからだと理解するのが妥当であろうと思います。したがって,ここで物といわれているものが何であるのかということを考えていくのではなく,少なくともどのようなものがここでいわれている物の範疇に含まれていなければならないのかを考えていくことになります。
 定理の継続性ということからいえば,この直前のふたつの定理においても,抽象名詞である物ということばをスピノザは用いています。まず第一部定理二四では,ある種の物の本性には存在は含まれないといわれています。そして第一部定理二五では,物の本性の起成原因は神だといわれています。 
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