スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

プロレスか女子プロレスか&アドバイス

2018-10-07 19:03:16 | NOAH
 『1993年の女子プロレス』の中で,インタビューの基軸になっている事柄がいくつかあります。そのうちのひとつが,女子プロレスはプロレスなのか女子プロレスなのかという観点です。奇妙な問い掛けに聞こえるかもしれませんが,女子プロレスには確かにこのふたつの路線が存在するのであり,女子プロレスの歴史というのはその路線の対立の歴史という側面もあったようなのです。
                                     
 女子プロレスがプロレスであるというのは,女子プロレスはプロレスの一部であり,プロレスという競技性においては男子も女子も,というのは時代背景的には全日本女子プロレスも全日本プロレスも新日本プロレスも,という意味になりますが,同じプロレスであるという路線です。これを暫定的に僕はプロレス派といいます。これに対して,女子プロレスというのは女子プロレスという独自の競技なのであって,プロレスとは別の競技であるという路線があります。つまり全日本女子プロレスはプロレスと名乗ってはいるけれども,新日本プロレスや全日本プロレスとは別の競技を観客に提供している,魅せているという路線です。こちらを僕は女子プロレス派といっておきます。
 僕の女子プロレスキャリアの最初,テレビだけを視ていた時代でいえば,ジャガー・横田は女子プロレス派でデビル・雅美はプロレス派でした。あるいはクラッシュギャルズのライオネス・飛鳥は女子プロレス派で,長与千種はプロレス派だったようです。全日本女子プロレスの場合,最高峰のタイトルは赤いベルトといわれたWWWA王者で,次が白いベルトのオールパシフィックでした。これでみればその頃の全日本女子プロレスは,どちらかといえば女子プロレス派の方が主流だったのかもしれません。
 ブル・中野やアジャ・コングといったヒールが王者になる時代になり,はっきりとプロレス派が主流となりました。ですがこの時代にも女子プロレス派というのは存在していて,たとえば豊田真奈美はそうでした。全日本女子プロレスというのは,競技に関する認識が異なる人たちが,一堂に会して同じルールで試合を行っていたような団体だったのです。

 日記の方に戻りましょう。
 この日の時点でも相談員は母のところには来ていないということでした。退院は決定していて,それが翌週の火曜でしたから,このまま何もせずにおいてもいけないのではないかと思えましたので,見舞いから帰った後で地域ケアプラザに赴きました。介護保険の決定通知は母が入院した後で届いていましたので,さしあたってはそれをどのように活用するべきであるのかという相談です。
 これまでにも何度か地域ケアプラザへの相談は行っていて,母のときは決まった職員が対応していました。なので僕はその方の名前を告げたのですが,このときは外出中であったため,別の職員が対応してくれました。このときにアドバイスをされたのは,ケアマネージャーをなるべく早く決定した方がよいということでした。そしてケアマネージャーというのはいろいろな施設に存在していますが,母のような場合は,バックに訪問看護サービスを備えた施設のケアマネージャーがよいだろうということでした。これは,母の退院後は訪問看護や訪問医療が必要になると予想されるからでした。同時に,医療用のベッドも用意しておくべきであるということでした。ただ,実際にどのようなサービスを受けるのかということを,母の意向を確認することなく僕だけで決定するというわけにもいきません。そこでパンフレットや資料をもらって,母の意向を確認した上で,再び連絡するということにしました。のんびりしているといえばのんびりしているのですが,このときの母の状態からすると,仮に用意すべきもののうちいくつか間に合わないものがあったとしても,少しの間なら大丈夫であろうと僕には思えたので,やや余裕のある対応をしたのです。
 月曜に妹を送って行ったときに,グループホームの責任者から母との面会を打診されました。この日の夜に電話で連絡をして,翌日にみなと赤十字病院に来てもらうことになりました。金曜に妹の通院がありましたので,翌日は妹を迎えに行くことになっていました。妹も一緒にいた方がいいと思えましたので,この日を僕の方から指定したのです。ただし待ち合わせは通所施設ではなく,病院でした。
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小鹿の雑感⑦&緩和病棟

2018-09-23 19:18:46 | NOAH
 小鹿の雑感⑥大熊元司が話題になった後,その中心はロッキー・羽田に移ります。
 僕のプロレスキャリアが始まったとき,羽田は中堅選手のひとりでした。俳優の津村鷹志さんに似ていたという印象が残っていますが,プロレスラーとしての印象はとくにありませんし,大成することはできませんでした。背が高かったのは馬場の好みであったと思うのですが,体質的なものか肉があまりつかず,ひょろっとした体形で,同じように上背があったジャンボ・鶴田の陰に隠れてしまう形になったといえるでしょう。鶴田は不世出といっていいくらいの名レスラーですから,同じ時代に同じ団体に所属することになった羽田にとっては不運だったと思います。
 グレート・小鹿によれば大相撲出身の羽田をプロレスにスカウトしたのは小鹿自身だったそうです。デビューは全日本プロレスではなく日本プロレスで,日本プロレスの崩壊によって全日本に移ってきた選手のひとりでした。天龍源一郎は小鹿は何かにつけて羽田のことを気に留めていて,日本プロレス出身者の絆は固いのだと感じていたそうです。ただ,小鹿のスカウトによって羽田がプロレスデビューをしたということは知らなかったようです。もし知っていたら,小鹿が羽田のことを気にかけるのは当然というように受け止めたかもしれませんので,天龍の日本プロレス出身者に対する見方も少し変わっていた可能性もあるかと思います。
 天龍と羽田は1977年9月に60分時間切れ引き分けという試合をしたことがあるそうです。天龍が海外武者修行から帰国して全日本で試合をするようになったのはこの年の5月からでした。僕のキャリア開始時点である1981年秋には天龍は馬場,鶴田に次ぐ三番手という評価がほぼ固まっていました。約4年前にはそういう状況であったわけですから,羽田もそれなりの期待をかけられていた選手だったのは間違いなさそうです。

 月曜の通院の帰りに薬局に寄ったとき,処方箋をFAXで送ってもらえれば薬を用意できるといわれていました。処方箋はすでに出ていましたので,院内の受付場所に行き,その処方箋を薬局にFAXで送ってもらいました。その後,院内の食堂で昼食を摂り,2時までは消化器内科の処置室で待機しました。
 緩和ケア病棟では医師と看護師による説明が行われました。この説明は病棟の概要で,どういう患者が入院することが可能であるかとか,入院中にどういった治療を施すかといったことなどです。緩和ケア病棟は末期における苦痛を排除するということだけを目的としています。したがって,まず余命が限られていなければ入院はできません。さらに,延命治療を受けている場合も同様になります。施術は苦痛の緩和ですから,それ以外の治療,要するに病気を治すための治療は行わないとのことでした。母は延命治療は断念していますので,入院する資格はありました。なのでゆくゆくは入院したいという希望を示す書類にサインをして,面談は終了となりました。この書類は,サインをしておけば入院したいときに必ず入院することができるというものではありませんが,優先順位は上位になるというものです。
 緩和ケア病棟は病院とは別施設という扱いですが,精算は同じでしたので,消化器内科の分と一緒に支払いをして帰りました。帰宅したのは2時55分でした。その後で薬局に行きましたが,事前にFAXをしておいたため,すべての薬剤を入手することができました。
 この日は利尿剤は出ていませんので,鎮痛剤だけです。オプソ内服液は5㎎のもので前回と同じでしたが,ワンデュロパッチは前回の0.84㎎というものから1.7㎎というものに変更になりました。これは貼付薬ですから,パッチ自体が少し大きくなったと理解してください。母はパッチを貼るようになってからも痛みを感じることがあったので大きくなったのですが,実際にはこの大きさでも十分ではなかったようです。
 前夜に来訪した叔父は,同窓会に出掛けました。母に会うのもありましたが,こちらが主目的ではあったようです。この日は友人宅に宿泊しました。
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鉄の爪&薬局

2018-09-16 19:10:08 | NOAH
 『外国人レスラー最強列伝』の第5章は鉄の爪といわれたフリッツ・フォン・エリックです。
                                     
 エリックは握力が強く,クロー技をフィニッシュホールドとしていました。鉄の爪はそこからついた異名ですが,爪を使って攻撃するというわけではありません。馬場によれば,リンゴを潰すくらいの握力を有するレスラーは珍しくなかったそうですが,エリックはリンゴを空中に放り投げてキャッチし,その刹那に握り潰すくらいの力があったそうで,これはレスラーの中でも稀有だったそうです。
 エリックと馬場の試合は過去映像として観たことがあります。これは日本で行われたもので,エリックはヒールに徹していました。試合の大半を殴る蹴るで構成し,最後にクロー技で仕留めようとする内容でした。それがエリックの本来のプロレスのスタイルであったのかどうかは分かりませんが,テクニックに長けたレスラーではなかったのだろうと思います。
 全日本プロレスに対してはレスラーとしてよりもブッカーとしての貢献の方がずっと大きかった筈です。テキサスでプロモーターを務めていました。超獣人間魚雷はエリックの下で仕事をしていましたし,ザ・グレート・カブキがアメリカでブレイクしたのもエリックの下ででした。ブロディはプロモーターとしての馬場のことを信頼していた,少なくとも全日本復帰後は全面的に信頼していましたが,エリックのことも同様だったとカブキは語っています。ブロディの扱い方を弁えていた数少ない人物のひとりだったといえるでしょう。
 レスラー時代はテキサスのトップスターで,引退後はその座は息子たちが引き継ぎました。ですがエリック一家は呪われた一家という異名があり,次々と不幸に襲われました。そのうち次男のデヴィッドは,全日本プロレス参戦中に都内のホテルで急死しています。息子たちの中でプロレスラーとしての資質が最も高かったのがおそらくデヴィッドで,デヴィッドの死はプロレス界全体にとっても大きな損失であったと僕は思っています。

 僕がインスリン等を処方してもらっているのは個人営業の薬局です。ですから薬剤師はふたりだけで,そのふたりが交互に店舗に滞在しています。僕の家はそのうちのひとりの家と薬局の中間にあるので,薬剤を配達してもらうことが可能になっています。一方,母や妹の薬を処方してもらっているのはチェーン店ですから,常に何人かの薬剤師が店舗に滞在しています。ですから多くの薬剤師が担当者になります。
 僕は以前に,将来的には麻薬が処方される可能性があり,それをここで処方してもらうことが可能であるかを質問したことがありました。そのときには処方はできるがすぐには無理という返事でした。この返答をした薬剤師はどういうわけかこの店舗で担当になるケースが多く,相手方は分かりませんが僕は知っている人でした。だからそのような質問をしたのだと理解してください。
 この日はそれとは別の薬剤師が担当になり,処方箋を確認すると,ワンデュロパッチは麻薬であるからすぐに処方することはできないということを伝えてきました。ところがそれ以上のことになるとはっきりとせず,どれくらいの時間があれば処方できるのかが僕にはまるで分かりませんでした。どんな薬品でもそうでしょうが,とくに麻薬のようなものはできる限り早い段階で用意できるのがいいのは当然です。店舗の薬剤師ですから,その店で薬品を購入してほしいという気持ちは僕も理解しますが,たとえばその日のうちに用意することができないのであれば,すぐに処方できるような別の薬局を紹介するというのが,僕の考え方が間違っているのかもしれませんが,薬剤師の仕事であるように思います。押し問答のような形で時間ばかりが経過してしまいましたので,僕の方から渡した処方箋を返してもらうように伝え,それを受け取って店を出ました。
 僕が利用している薬局がすぐ近くですのでそちらに向いました。処方箋を渡して,処方が可能であるかを尋ねますと,午後には用意できるとのことでしたので,ここで依頼することにしました。これ以降,母はずっと麻薬の処方が続きましたので,母の薬もすべてこちらの薬局で処方してもらうことになりました。
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女子プロレスキャリア&足のむくみ

2018-09-04 18:59:46 | NOAH
 『1993年の女子プロレス』に関連する事項を書く前に,僕の女子プロレスキャリアをざっと紹介しておきましょう。
                                      
 僕のプロレスキャリアの始まりは小学生のときですが,すぐに女子プロレスは観ていません。この後,クラッシュギャルズの人気で女子プロレスブームが生じ,ゴールデンタイムでテレビ放映される時代がありました。この頃はテレビではいくらか見ています。クラッシュより上の世代のジャガー・横田やデビル・雅美もいましたし,ライバルだったダンプ・松本もテレビでは見ています。また,それより下の世代のJBエンジェルスもいくらかは見ていたことになります。
 クラッシュの時代が終ってゴールデンタイムの放映がなくなると,また見なくなりました。大学生になって深夜にテレビをザッピング視聴していたら,全日本女子プロレスの中継にぶつかり,これが転機になりました。そのときは豊田真奈美と山田敏代が組んで,相手は覚えていませんが,北斗晶,堀田祐美子,みなみ鈴香の3人のうちのふたりだったと思います。この試合の豊田の運動神経に驚いたのが契機です。翌週のうちに友人にこの話をしました。当時は月に1回の放映で,翌月も同じカードが放映されたと思います。その試合は僕が見た限りでは豊田より山田の方が光っていましたが,友人はやはり豊田の運動神経に瞠目したようです。それで僕は女子プロレスの試合も会場に観に行くようになりました。
 ただ,僕はたとえば全日本プロレスはひとりで行ったりほかの友人と行ったりもしていますが,全日本女子プロレスの会場には,このときに僕が話して僕と同じような感銘を受けた友人とふたりで行ったことしかありません。今になって冷静に考えてみると,僕も行ったのですから興味がなかったわけではありませんが,多大な関心をもっていたのは友人の方であったかもしれません。卒業してこの友人とさほど会わなくなると,プロレスは観に行くものの女子プロレスは観に行かなくなったからです。
 ですから僕が女子プロレスを集中して観ていた時期はごく短い期間です。豊田真奈美とひとりの友人が,その時期の僕の観戦に大きな影響を与えたことになります。

 地域ケアプラザの職員の来訪は当初は午前11時の予定となっていましたが,当日に電話で連絡が入り,午後1時に変更になりました。実際に職員が訪れたのは午後1時15分でした。20分強,と面談をして帰りました。単に申請書の受け渡しだけでなく,母との面談が必要であったのなら,母が地域ケアプラザまでは行かれないと思っていた以上,来訪してもらってよかったといえます。申請書はまず区役所に提出しなければならないのですが,これは来訪した職員の方が,月曜日に区役所に行ってくれることになりました。
 3月25日,日曜日。午後3時半ごろにKさんが来訪しました。1時間ほど母と話をして帰りました。
 母はこの頃から,足のむくみがひどくなっていました。これは肝臓の癌の影響で水が溜まってきたからです。母が残したノートに,このむくみについて最初に記述されているのはこの日でした。実際にはこの日になって急にむくんだというわけではなく,徐々に水が溜まっていっていた筈で,それがこの日にははっきりと自覚されるような症状として現れたということだと思います。
 3月26日,月曜日。妹を通所施設に送りました。
 3月28日,水曜日。母の消化器内科の通院に同行しました。
 診察の予約は午後10時半でした。家を出たのは9時50分で,10時10分に病院に到着しました。母との通院の場合は病院までタクシーを使いますが,その途中で本牧通りを通っていきます。本牧通りは街路樹が桜になっていますが,この日は満開でした。母は昨年の時点では今年の桜を見ることはできないかもしれないと思っていましたので,この満開の桜には感じ入るところがあったようです。本牧通りの入口のところは躑躅が植えてあり,この分なら躑躅の花を見ることもできるのではないかと話しました。
 病院に到着してまずは中央検査室で採血ですが,この日は10人の患者が母の前に採血を待っていましたので,やや時間を要しました。そして診察が開始されたのは11時15分です。
 まず貧血の症状に関しては現れていないとのことでした。これは処方された鉄剤の効果であったのだろうと思います。
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小鹿の雑感⑥&納骨

2018-08-26 19:16:25 | NOAH
 小鹿の雑感⑤でミスター・林の話が出た後,小鹿のパートナーであった大熊元司のことに話題が移ります。
 ザ・グレート・カブキによれば,大熊は酒屋の息子だったそうです。実家の酒の一斗の樽を盗んで売りに行き,売った金で居酒屋で飲むようなこともあったそうです。なぜ実家の酒をそのまま飲まず,売った金で飲むのかは分かりませんが,大熊はそれくらい酒が好きだったそうです。馬場も大熊は酒が好きだったという主旨のことを言っていますので,これは事実でしょう。ただ,酒癖はあまりよくなかったようです。これも馬場がいっていることと一致していますので事実でしょう。天龍源一郎は,大熊はほかの選手たちが食べているのをみながら飲むのが好きだったと言っていますが,この食事は大熊の奢りだったのではないでしょうか。馬場が大熊の酒好きおよび酒癖の悪さを知っているのは一緒に飲んだことがあるからで,そのときはさすがに馬場が支払っている筈だと思います。
 天龍は大熊の酒癖の悪さに関しては馬場は目を瞑っていたと言っています。何度かいっているように大熊は全日本プロレスの設立メンバーのひとりであって,馬場が可愛がっていたこととそれは無縁ではないように僕には思えました。小鹿やカブキの話は断定できませんが,天龍は全日本プロレス入りしてから大熊と知り合った筈なので,天龍の話はすべて全日本時代の大熊のことです。馬場と大熊が一緒に飲んでいたのは,日本プロレスの頃ではないでしょうか。
 天龍は選手としての大熊は,自分が見た中でも馬力があり,ナチュラルでレスラーらしかったと言っていて,カブキは頑丈で,思いきり蹴られても起き上がってくるような選手だったと言っています。これは僕の印象と一致します。大熊は対抗戦時代に駆り出されていますが,大熊が選ばれた理由も,そこにあったのだと僕は思っています。

 輸血が終了するとすぐに看護師が針を抜いてくれました。午後6時5分です。母はおそらく輸血の効果で,立ち上がるのは楽になったと言っていました。母が残したノートにも,しっかり歩けるようになったという記述があります。痛みの発現があった頃から,母は少し仕事をすると休息をとるようになっていたのですが,それには貧血も影響していたのかもしれません。僕などは余命が限られている母のような患者に,輸血という処置を講じるのは,血液が不足しているといわれることもある現況から,果たしていいことなのかという疑問がありました。僕はこうしたことも正直に母には話しますが,母も同じような感想を抱いていたようです。ですが実際に輸血をしてみれば効果は覿面でしたので,これはこれでよかったのだと今では思っています。精算を終えてタクシーで帰宅したのが午後6時45分でした。
 2月22日,木曜日。前日の通院で母には薬剤が処方されていました。前日は遅くなったために薬局に行かれませんでしたので,この日に行って受け取りました。なお,実際に処方されたのは鉄剤と鎮痛剤のほかに胃薬もありました。ただ母は胃薬は服用していません。また,鎮痛剤は適宜,つまり痛みを感じたら飲むようにと処方されたもので,鉄剤とは異なって,決められた時間に決められた量を服用するというものではありませんでした。この日,母は2階まで上がり,ピアノを設置してある部屋を掃除しました。これができたのも輸血の効果であったと思われます。
 2月23日,金曜日。妹を迎えに行きました。
 2月25日,日曜日。1月17日に死んだ従兄の四九日の法要と納骨がありました。まず最初に法要で,これは午後2時からお寺で行われました。通夜や葬儀も本門仏立宗で執り行われたように,僧侶はこのお寺の導師だったからです。その後で納骨。ここの家のお墓は上大岡にあります。上大岡駅は上永谷駅と同様に谷間にあり,鎌倉街道を挟んで東西が丘。妹のグループホームは西側の丘の上ですが,このお墓は東側の丘にあります。その後,従兄の実家の近くにある和風レストランで精進落としがありましたので,僕も参加しました。
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プロレスの神様&合併症の検査

2018-08-12 19:10:25 | NOAH
 『外国人レスラー最強列伝』の第2章はプロレスの神様といわれるカール・ゴッチです。
                                     
 ゴッチは明らかに新日本プロレス寄りのレスラーで,馬場との接点はそう多くありません。ただ,対戦経験はあり,『馬場伝説』のインタビューの中では,馬場はどこかのグラウンドのような屋外の会場で,ゴッチが最も得意としていた技であるジャーマンスープレックスホールドを受けたことがあると語っています。これはたぶん日本プロレス時代に,ゴッチが来日していたときのことだと思われます。馬場にジャーマンスープレックスホールドを掛ける方も掛ける方ですが,受けた馬場も大したものです。確かに馬場とハンセンの初対決では馬場はショルダースルーを受けていますから,馬場は身体は大きかったですが柔らかさはあり,受け身はさほど苦にしなかったのでしょう。
 馬場とゴッチの接点で最も重要なのは,おそらく馬場がアメリカに遠征していた時代のことです。1962年7月25日,馬場はオハイオ州のコロンバスでNWA世界王者に挑戦することになっていました。当時の王者は馬場が真のネイチャーボーイというバディー・ロジャースです。ところがその試合直前の控室でゴッチはビル・ミラーとともにロジャースに対して暴行し,ロジャースは右腕の骨を折られてしまいました。結果的にタイトルマッチは消滅。ロジャースは3ヶ月ほど欠場した後,鉄人にNWA世界王座を明け渡すことになります。
 レスラー同士の控室での暴行といえば,超獣が殺されてしまった事件が有名です。ブロディは人格的に問題があったようですが,ロジャースもそうだったのでしょうか。門馬はこの事件の発端は興行に絡む話であったとしていますが,同時にオハイオにおいて絶対的なヒーローだったロジャースに対する妬みもあったとしています。僕はロジャースのプロレスはよく知りませんが,『1964年のジャイアント馬場』では,スターではあったがアスリートとして一流であったわけではなく,そこに馬場の憧れの原点があったとされています。ゴッチは実はスターではなく,アスリートとしては自身より劣るロジャースの人気に嫉妬したというのは,あり得ない話でもないように思えます。

 神経伝導の検査は予約時間が午前11時20分でした。ですからほぼ予約時間の通りに行われたことになります。この検査が終了すると,今度は受付に戻るようにという指示がなく,そのまま自律神経の検査が行われました。これが午前11時に予約となっていた検査です。この検査は最初の超音波の検査と同じくらいの時間を要したでしょうか。終了するとまたすぐに血圧脈波の検査を行うようにという指示が出されました。これは予約票では午後1時に予定されていたものです。検査はよっつでしたからこれが最後で,正午過ぎにはすべての検査を終えることができました。本来は最初の検査の開始が午前11時で,最後の検査の開始予定時刻が午後2時半となっていたわけですから,実にスムーズにすべての検査を終えることができたわけです。合併症の検査は以前にもしたことがありますから,検査は必ずしも予定されている時間に始まるものではなく,早く終えることができることもあり得るということは分かっていましたが,これほどすんなりと終るとは望外でした。
 僕はこの日は使用済みの注射針だけは持参していました。前週の月曜に処理したばかりなのですが,僕はわりと大きめの箱に入れますので,箱が一杯になったら処理し,次の箱が残るようになっています。その箱は一杯にはなっていませんでしたが,インスタントコーヒーの小瓶がちょうど空いたところで,大きめの箱に入れていた使用済みの針のいくつかをそちらに移し,持参していたのです。ただ中央検査室に到着したらすぐに検査が始まり,そのまま立て続けに続きましたので,すべての検査が終了してもまだその小瓶をカバンに入れたままでした。なのでこの日の注射針の処理は,すべての検査の終了後ということになりました。
 そのまま会計の受付だけして院内の食堂で昼食。その間に計算は終っていましたので,支払いをして帰りました。午後1時半には帰宅することができました。
 1月25日,木曜日。妹が卒業した養護学校の保護者による同窓会がありました。これは今までは横浜で開催されていたのですが,このときは磯子でした。これは母への配慮で,母も参加できました。
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離脱後&妹の睡眠時間

2018-08-06 18:58:05 | NOAH
 ミリオンダラーマンはWWFを離脱した後,全日本プロレスに復帰。不沈艦とのコンビで世界タッグの王者にもなりました。ですがその年の世界最強タッグ決定リーグの中途で離脱。これがリーグ戦が開始されたばかりだったため,ハンセンは馬場とタッグを結成して,最初からリーグ戦をやり直すことになりました。この馬場とハンセンのタッグが結成されたことにより,後の夢のカードへと繋がっていくのです。
                                     
 このタッグの結成については,市瀬英俊が真相を明かしています。市瀬は全日本プロレスのブレーンのひとりですから,信憑性は高いと思われます。
 デビアスの離脱が決定し,本来ならハンセン組は不戦敗になるところでしたが,まだ多くの日程を消化していないため,別のチームを結成して最初からやり直すことが可能でした。ただプロモーターとしての馬場は,ハンセンがリーグ戦に参加するなら優勝が可能なチームでなければならず,したがってパートナーはだれでもよいというわけではありませんでした。このとき,リーグ戦に参加しておらず,かつハンセンのパートナーとなる条件を満たし得る選手は,馬場からみて馬場自身しかいませんでした。だから馬場は自身をハンセンのパートナーとすることを,プロモーターの立場から決定しました。つまりハンセンのパートナーに馬場を指名したのは馬場自身であったのです。
 しかし表向きはそのようには語られませんでした。ハンセンが新たにパートナーを指名するに際して,優勝を狙えるパートナーとして馬場を指名したということにして,その線に沿って記者会見が行われたのです。つまり表向きはハンセンが指名したということになっていますが,実際に決定したのは馬場でした。
 市瀬はこの記者会見のときのハンセンはとても神妙な顔つきだったと述べています。それはそうでしょう。自分が指名したことになっていますが実際には馬場が決定して馬場と組むことになったのです。これは大変なことになってしまったという思いがハンセンにはおそらくあったであろうからです。

 妹はとてもよく眠ります。これまでも,自分で起きてこない限りは朝は9時前後に起こしていました。すでに説明したように,日野の施設に行く場合には9時10分のバスに乗らなければならないので,それまでより早く起こしています。さらに帰宅後に昼寝をするということもありました。また,休日は,用事がない限り起こしませんので,そうすると昼まで眠っていて,朝食と昼食が一緒になるというのが通例でした。この,休日に昼まで眠っているのがほとんどというのは,週末を家で過ごすという場合には現在もほぼ同様です。
 ところがグループホームの起床時間は午前7時でした。その後に朝食となり,それからしばらくは時間があった後に作業所に送ってもらいます。ただ,おそらく朝食の用意とか夜勤の職員の都合などもあり,朝食後に時間に余裕があるからといって,その分だけ遅くまで寝ていて,朝食を遅らせるということはできません。もっともグループホームでの暮らしは基本的に団体生活で,食事などは利用者が全員で摂りますから,そうした単独行動ができないのは当然といえば当然です。
 午前7時の起床というのは,作業所に行く日であろうと休みの日であろうと同様です。消灯は午後9時で,妹は今までもそれくらいの時間には,すぐに眠るかどうかは別としてもベッドには入っていました。ですから午前7時に起床するというグループホームでの生活は,妹の睡眠時間を大きく減らすような生活であったのです。
 実は入所に際して僕が最も心配していたのはこの点でした。それまでの妹の生活は,僕たちの生活からすれば明らかに眠りすぎで,よく眠ることができて羨ましいと感じるほどでした。ただ,妹にとってはそれが必要であるから睡眠時間が僕たちよりずっと長くなっていたのかもしれず,それが減少することによって体調や体力に問題を来してしまうのではないかというのは不安だったのです。
 ずっとグループホームに預けたままにしないで,なるべく週末は家に帰れるようにしているのは,この睡眠時間の対策という側面もあります。実際に今の妹は,家にいる間は,眠っている時間が半分近くを占めていると思います。
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1993年の女子プロレス&裁判員

2018-07-21 19:05:50 | NOAH
 『1964年のジャイアント馬場』を書いた柳澤健には『1993年の女子プロレス』という著作もあります。いずれ詳しく示しますが,僕は学生の頃は女子プロレスも観戦していました。1993年は社会人1年生で,時期が重なる部分もありますので,この本も読んでみました。
                                     
 元は2011年に単行本として刊行されました。僕が読んだのは2016年に単行本を公刊したのと同じ双葉社から発売された文庫版です。一部に加筆と訂正があるとなっていますが,それがどの部分であるのかは,僕は単行本は所有していないので不明です。
 『1964年のジャイアント馬場』は柳澤が独自に取材したものをまとめた一冊です。『1993年の女子プロレス』はそれとは大幅に異なっていて,むしろ選手や関係者へのインタビュー集といっていいでしょう。第1章から14章まではすべてインタビューで,順に,ブル中野,アジャ・コング,井上京子,豊田真奈美,伊藤薫,尾崎魔弓,唯一スタッフとして登場するロッシー・小川,ジャガー横田,デビル雅美,ライオネス飛鳥,長与千種,里村明衣子,広田さくら,神鳥忍です。柳澤は北斗晶にもインタビューをしたかったようですが,北斗が拒否したようで,最終章は北斗について柳澤自身が書いています。さらに巻末に里村とファン代表のような形の雨宮まみ,柳澤による三者対談が収録されています。
 僕は女子プロレスを観戦していた時期はとても短く,ジャガーやデビル,飛鳥や長与の頃は,テレビ放送を見ることはありましたがライブで観戦したことは一度もありません。また里村や広田になると生観戦はおろかテレビ放送も見たことはないです。ですから僕がこの本について書けることは限られるのですが,内容には興味をそそられる部分もありましたから,それは何回かに分けて掲載していくことにします。

 11月15日,水曜日。僕に1通の手紙が届きました。これは裁判所からのもので,抽選で僕が裁判員の候補者に選ばれたことの通知でした。これは翌年,つまり今年のことですが,僕が裁判員になる可能性があるということを知らせるものです。現時点ではちょっとした動きがあったのですが,そうしたことを具体的にどこまで記すことが許されるのかは不明ですので,もし今後,もっと大きな動きがあったとしても,ここに書くことは控える可能性があることをあらかじめご了承ください。
 11月16日,木曜日。母が買い物に行きたいと言いましたので,昼食後にふたりで出掛けました。根岸駅までですが,往復ともにバスを使っています。母がバスに乗ったのは,大腸癌を切除する手術のために入院した日,具体的にいえば9月29日以来のことです。この時点で母の体力はそこまで回復していたことになります。なお,このときに買ったのは,妹が入所するときに必要になるいくつかの備品と,母の化粧品などでした。もちろん荷物は僕が持ちました。というか,そのために同行したわけです。
 また,この日の夕食にKさんを招きました。すでにいったように11月6日からはまた母が夕食の支度をしています。Kさんはとても親しい友人なので,客人というのとはちょっと違うのですが,Kさんを招いての夕食も可能であると母自身も判断していたということです。たぶん14日に通所施設とグループホームの見学に行って,見学のためにそこそこは歩いたのですが,それでもあまり問題が発生しなかったということが,母の自信になっていたのではないかと僕は推測しています。
 11月19日,妹のピアノのレッスンがありました。これは午後2時から。妹はいつからになるかはまだ分かりませんでしたし,正式に契約をしたというわけでもありませんが,グループホームに入所するということはほぼ決定していました。なので12月はどう予定を立てればよいのかがいまひとつ分からない状況でしたので,12月はレッスンはしないということになりました。他面からいえば,これが妹にとって最後のレッスンになってしまう可能性があったということです。
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小鹿の雑感⑤&副作用

2018-07-12 19:03:19 | NOAH
 小鹿の雑感④の続きです。
 僕のプロレスキャリアが始まった頃,全日本プロレスの前座で試合をしている選手に,ミスター・林がいました。百田光男,百田義浩,そしてこのミスター・林の3人には,若手の選手たちはなかなか勝てなかったように記憶しています。後にレフェリーも務めるようになりましたが,この林については僕はよく知りませんでした。
 林は旗揚げメンバーではなく,グレート・小鹿などと同じように,日本プロレスの倒産後の合流組です。僕が驚いたのはザ・グレート・カブキによると,林が日本プロレスに入団したのは馬場より早かったということです。つまり林は馬場より先輩なのです。天龍源一郎は,林は試合会場から旅館に戻った後,馬場より先に風呂に入るということがあったそうです。基本的に外国人サイドの控室にいて,外国人選手たちと話していることが多かったといっていますので,全日本では居心地の悪さを感じていたのだと思います。
 レフェリーをやるようになったのは馬場に言われたからだと小鹿はいっています。全日本プロレスで同じようにレスラーからレフェリーに転向した選手にはマイティ・井上がいますが,これはリストラの一種であったと僕は思います。選手としては引退させなければならないけれど,退団はさせず,働き場所は与えるということでしょう。これはレフェリーという仕事に限ったことではなく,引退してスタッフになるように説得したケースもあります。寺西勇はこのケースだったのですが,寺西は固辞して全日本を退団しました。
 林にとってレフェリーはあまりいい仕事ではなかったようです。小鹿によればレフェリーはレスラーより動かなければならず,それがきついと林は愚痴を言っていたそうです。最初の頃は動いていたけれども何ヶ月後かにはコーナーの角に立ちっ放しになったと小鹿は言っています。どういう経緯で退団になったかは不明ですが,大きな要因は『読む全日本プロレス』を書いた和田京平の成長ではないでしょうか。和田は親馬場でしたから,馬場としても使いたかったし,使いやすかったのだと思います。

 10月21日,土曜日。退院の当日です。9時に来るようにということでしたので,その時間に間に合うように病院に向いました。大腸癌を切除する手術をした後の退院は祝日で,一切の支払いがなかったのですが,この日は食事代の支払いだけはありました。
 この日は妹のピアノレッスンもありました。これは木曜日の夜に先生から連絡があり,午後2時半から。僕たちは午前10時10分には帰宅していました。
 10月22日,日曜日。衆議院議員の選挙の投票日でした。僕は午後から投票に行きましたが,母と妹は棄権になりました。
 10月23日,月曜日。この日は伯母が妹を通所施設まで送りました。これは前日から台風の影響が懸念されていたため,ガイドヘルパーによる送りを断ってあったからです。しかしこの日の朝になってみると,出勤できる状態まで天候が回復していました。僕が送ってもよかったのですが,伯母が行かれるということでしたので,依頼しました。
 母は抗癌剤治療の副作用と思われる症状が出ていました。布団の上に横になっている時間がほとんどでしたし,起き上がってくるだけでもかなり辛そうでした。本来は母はこの治療はしたくなかったのですから,この状態で治療を続けていくのは無理ではないかと僕には思えました。
                                     
 10月26日,木曜日。母はずっと下痢気味であったのですが,この日には吐き気も催すようになり,実際に嘔吐することもありました。家には血圧計がありますが,それで計測したところ196mmHgという高い数値も出ました。治療は飲み薬もあるといいましたが,母はその飲み薬を目にするだけで身体が拒絶反応を起こすようになっていて,それを飲むこと自体も困難になっていました。僕はこの日になって,この治療は中止した方がいいだろう,少なくとも母にとってはその方がいいだろうと強く思うようになりました。
 10月27日,金曜日。副作用が辛すぎるので病院に行きたいという申し出が母からありました。ということでみなと赤十字病院に電話をしますと,診察を受け付けてくれるという返事でしたので,午前9時20分に,タクシーで母と病院に向いました。
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鉄人&黄疸

2018-07-04 19:04:42 | NOAH
 『外国人レスラー最強列伝』の第1章は鉄人ことルー・テーズです。
                                     
 テーズは1916年生まれで,日本ではまず力道山のライバルでした。ですから馬場からみても先輩格のレスラーになります。
 1964年2月5日に,馬場はデトロイトで当時はNWA王者だったテーズに挑戦しています。これは馬場の2度目のアメリカ遠征の末期,三大タイトル挑戦のひとつで,高額なファイトマネーが支払われた試合です。『1964年のジャイアント馬場』というタイトルからも分かる通り,このとき馬場はアメリカでもスターでしたが,試合はテーズが勝っています。
 馬場が帰国の決断をして日本プロレスのエースになった後,1966年2月に日本武道館で馬場のNWAインターナショナルタイトルにテーズが挑戦。この試合は馬場が勝ちました。僕はテーズは馬場のことをアスリートとしては高く評価してなかったのではないかと思っていますが,この敗戦を受け入れたのは,馬場が日本プロレスのエースであるということは肯定していたからだと思います。
 その後,テーズは新日本プロレスや国際プロレスに参戦するようになったため,馬場とは疎遠になりました。しかし国際プロレスの倒産後に,馬場がレフェリーとしてテーズを招聘。1982年に2度,1983年に1度,レフェリーとして全日本で試合を裁くとともに,選手に対する指導も行いました。ジャンボ・鶴田がバックドロップを使うようになったのはこのときの指導の賜物です。また,1983年の来日のときは,若手レスラーによるルー・テーズ杯争奪リーグ戦が行われ,ここで準優勝して出世のきっかけをつかんだのが三沢光晴です。
 テーズはこの後,また新日本に出たりUWFインターで顧問を務めたりしました。節操がないといえばその通りですが,高く評価して呼ばれるならそこに行くというのは,ビジネスとしては当然でしょう。
 UWFインターに参戦していたゲーリー・オブライトに身の振り方を相談されたとき,馬場は誇り高く正直なプロモーターだから,全日本に行くチャンスがあるならそうするべきだと答え,それが全日本に移籍する決断につながったとオブライトは言っています。馬場の死に際しても,プロモーターとしての馬場を高く評価する発言をしており,レスラーとしてはともかく,馬場がプロレス業界において優秀な人物だと考えていたのは間違いないでしょう。

 この日の夜にロサンゼルスの伯母が来日しました。僕の家に着いたのは午後7時50分ごろです。この来日は母の病気に合わせたというものではなく,それ以前から予定されていたものです。そこにの事情が重なりました。この翌日から,可能であれば伯母が夕飯の支度をするようになりました。
 10月4日,水曜日。伯母はみなと赤十字病院にはどのように行ったらよいのか分からないということで,前日と同様に途中で妹をピックアップしつつ,3人で母の見舞いに行きました。これは同時に,妹の通所施設がどこにあるのかを伯母が知ることができたということです。母はリハビリでは昨日よりも長く歩くことができたようですが,38℃台の発熱が続いているとのことでした。体温は看護師が朝と夕方に計測している筈ですが,熱を下げるための処方はしていないということでしたから,おそらくその必要はないという判断があったのだろうと思います。また,手術後は絶食中でしたが,この日の昼食から食事が可能になりました。
 伯母は母の顔には黄疸が出ているという意味のことをいいました。母の癌は肝臓に転移していましたから,黄疸はその症状です。ただ,僕は毎日顔を合わせていることもあってか,母の顔にそのような変化が出ているということにはあまり気付いていませんでした。伯母は久々に会ったので,母の顔色が顕著に変化しているということに気付いたのだと思います。
 10月5日,木曜日。伯母は中学校の同窓会に出掛けました。来日が事前から予定されていたのでこのような予定もあり,母も自分のためにそうした予定を中止してほしくはないということでしたので,伯母も事前に組んでおいた日程はこの日に限らずすべてこなしました。午前9時に家を出て,帰ってきたのが午後3時50分ごろです。妹は伯母に任せることができる状況になりましたので,この日はその後で僕がひとりで母の見舞いに行きました。僕が着いたとき,Kさんも見舞いに来ていました。この日のリハビリでは,母が入院している病棟を歩いて1周したようです。ただ母は,退院後の家に介護用のベッドを所望し,また介護認定も受けたいと要望しました。
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選手の派遣&手術の日程

2018-06-23 19:06:16 | NOAH
 馬場と坂口の関係は良好でした。したがって坂口が新日本プロレスの社長を務めていた時期は,全日本プロレスと新日本プロレスの関係もわりと良好でした。最初にWWFが組織として来日したとき,全日本プロレスに新日本プロレスも加えての合同興行が成立したのは,佐藤昭雄の尽力もあったでしょうが,新日本の社長が坂口であったからで,猪木の時代であったらあり得なかったろうと思います。
                                     
 ふたりの関係性の良好さを示す例がほかにもあります。
 この合同興行が開催される2か月前の2月に新日本プロレスは東京ドームでの単独興行を開催しました。新日本が当初にこの興行の目玉として設定していたのがネイチャーボーイの参戦で,ただフレアーは全日本が所有するという協定があったため,新日本が所有していた殺人医師とのトレードという形になったのです。ところがこのトレードが成立した後で,フレアーは参戦することができなくなってしまいました。ですから結果的にいうと全日本プロレスが無償でウィリアムスを手に入れるという形になったのです。その後のウィリアムスの全日本プロレスでの活躍を考えると,このトレードは全日本は得をし新日本は損をしたことになります。
 興行の目玉がいなくなってしまって困った坂口は馬場に選手の派遣を依頼し,馬場はそれに応えました。この結果,新日本プロレスの単独興行には,ジャンボ・鶴田,谷津嘉章,天龍源一郎,2代目タイガーマスクの4選手が参戦しています。
 馬場もバーターのような形で手に入れたウィリアムスが,もうこの2月のシリーズに参戦することが決定していましたから,フレアーが来日することができなくなったということには困惑していたのだと思います。ですから坂口の依頼を二つ返事で承諾したのでしょう。ただこのとき,ライバルである全日本プロレスにお願いをすることができたのは,社長が坂口だったからであり,またそうだったから馬場も承諾できたのでしょう。たぶん両者の関係を最も如実に示しているのが,このときの選手の派遣であったと思います。

 9月16日,土曜日。妹の土曜出勤でした。僕が通所施設まで送りました。
 9月17日,日曜日。妹のピアノのレッスンがありました。午後2時の開始でした。
 9月20日,水曜日。消化器内科の診察でした。これは先週の金曜日に行われた注腸検査の結果を踏まえ,どのような日程でどのような施術をするかの説明でした。この日は母がひとりでみなと赤十字病院まで行き,消化器内科の医師の話を聞いてきました。ただ,手術は消化器内科の医師が執刀するわけではなく,消化器外科の医師が担当することになります。なので執刀医との面談もあったようです。この日に決定したのは,29日に入院して,10月2日に大腸癌を切除する手術を行うということと,術後の経過が順調なら,10月9日に退院するということでした。またこの日は消化器内科の医師の方から,その手術が終わった後の抗癌剤を用いた延命治療に関する話もあったようです。医師はこの治療を受けるように強く勧め,母は受諾したということでした。ただもちろん,この治療を受けることは元来の母の本意ではありませんでしたから,もしその治療を受けてみて,体力的に辛くなれば,すぐに治療を中止するということについて確約を取ってきたようです。この消化器内科の担当医とは僕も13日に会っています。そのときは延命治療に関することが主題とはならなかったので僕には分からなかったのですが,後に何度か面会を重ねるうちに,母に対して延命治療を行いたいと思っているということは僕にもよく分かりました。ただ,僕は母の希望を優先することが最善であるという見解を有していましたから,僕に対して延命治療のことを尋ねられたときには,母のしたいようにして構わないという主旨の答えしかしませんでした。
 9月21日,木曜日。妹の本牧脳神経外科への通院があり,僕が同行しました。これは午前10時から。診察だけでしたが,前回の通院時に行った採血の結果が出ていました。血液中の妹のの濃度は適正であるということ,また肝臓と腎臓の機能にも問題がないとのことでした。そのまま妹を通所施設に送り,薬局に寄りましたが,在庫が不足していました。
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ミリオンダラーマン&憎しみの虜

2018-03-10 19:03:44 | NOAH
 不沈艦が1982年に全日本に移籍したとき,超獣が全日本で活躍していました。そしてこのふたりがタッグを結成。その後,1985年のブロディの新日本移籍に伴ってハンセンのパートナーは不在になりました。このときにハンセンのパートナーに抜擢されたのは人間魚雷ではなくテッド・デビアスです。
 デビアスはどちらかといえば堅実なレスラーで,シングルプレーヤーとしてトップを取るというタイプとはやや違った面がありました。ただ,ハンセンとのタッグは大成功で,タッグ王者にもなりましたし,世界最強タッグ決定リーグ戦での優勝も果たしています。
 しかし1987年にデビアスはWWFで仕事をするようになり,来日することができなくなりました。ゴディがハンセンのパートナーになったのはこの後のことです。WWFでのデビアスはミリオンダラーマンを名乗り,嫌味な金持ちのキャラクターを演じました。1990年の全日本と新日本,そしてWWFとの合同興行のときにはこのキャラクターで来日し,試合もしています。
 どういう理由だったか不明ですが,1993年に全日本プロレスに再登場しました。このときはゴディはすでに殺人医師と組んでいて,ハンセンはダニー・スパイビーと組むケースが多かったのですが,スパイビーは線が細いところがあり,デビアスがまたハンセンと組みました。9月には川田利明田上明のチームを破って世界タッグの王者になっています。
 このチームでこの年の世界最強タッグリーグ戦に出場ということになったのですが,シリーズの開始直後に怪我という理由で帰国。その後は来日していません。これは不可解な離脱ですが,このときと以前とでは全日本のプロレスに大きな変化があり,デビアスはそれについていくことができなかったのではないかと僕は推測しています。
 この影響で馬場とハンセンが組み,翌年の夢のカードへと続いています。デビアスが全日本での仕事を継続していたら,三沢光晴が馬場から3カウントを奪う日は,もっと遅くなっていたのかもしれません。

 排他的思想を有する人は,すべからく憎しみodiumに隷属した人です。他面からいえば,自身で気付かないうちに憎しみの虜となっている人が,排他的思想を主義として主張し,またその思想の下に行動を起こすのです。
                               
 このとき,排他的思想を産出しやすい感情affectusのひとつが不安metusであったのは,不安と希望が表裏一体の感情であるがゆえに,不安は希望spesによって排除されやすいという特質proprietasを有しているからでした。そのメカニズムがどうなっているかという僕の見解はすでに示した通りですし,またそのメカニズムが排他的思想をより強固なものとして再生産していく仕組みをもっていることもすでに示したところです。では排他的思想を産出しやすいもうひとつの思想として憤慨indignatioをあげるのがなぜであるかといえば,他人に対して憤慨する人は,その憤慨を正当なものであると思いやすいという事情があるからです。すでに示した例でいえば,BというジャーナリストがAという権力者に対して批判的論述をするとき,Aの支持者であるCがBに対して憤慨する場合,もしもBが単にAを貶めようとしてAに対する批判を展開しているとみられるなら,CのBに対する憤慨は,CがAの支持者であるか否かと無関係に,正当な憤慨であると解する人が多いのではないかと僕は述べました。しかし実際には憤慨には正当も不当もなく,第三部諸感情の定義二〇にみられるように,それは他者に対する憎しみodiumですから,第四部定理四五によって一律的に善bonumではあり得ないのです。ところが,第三部定理二二のような様式によってある人が他者に対して憤慨するとき,その人はそれが正当な感情であると認識しやすいのです。正当であると解するならばその人はその感情を排除しようとはしないのは当然です。よって他者に対する憎しみの虜になりやすいのです。
 なぜ憤慨という感情が正当であると認識されやすいかといえば,それが憎しみの一種である限り,一般に憎しみがどのように正当と解されやすいかということを探求するのがその端緒となるでしょう。ただしこれは,単にそれを感情としてだけみるとかえって分かりにくくなります。なぜなら憎しみは悲しみtristitiaの一種であるからです。
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鶴田のひとり急所打ち&第三部定理二八

2018-02-27 19:23:46 | NOAH
 三沢と鶴田の試合の前に,ジャンボ・鶴田に対する馬場の説得があったということは事実であったにせよ,その説得の内容について柳澤が『1964年のジャイアント馬場』の中で示している推測は誤りであるということの根拠をここに示しておきます。何度もいっていることですが,この推測は柳澤が著書の全体の中で論述している内容とは矛盾しているのであり,よってこの推測が誤りであるということは,むしろ著書全体の正当性を補強することになります。
                                
 ごく単純にいえば,もしも柳澤の推測が正しいと仮定するなら,鶴田は試合を決着させる方法としての「ひとり急所打ち」というギミックを,馬場から説得されるまで知らないでいたということになります。ですがこの仮定自体が誤りなのです。いい換えれば鶴田はそういうギミックの存在をすでに知っていました。なぜなら現に鶴田自身がそれ以前に,この「ひとり急所打ち」を用いることによって試合に負けていたという事実があるからです。
 これはネイチャーボーイがNWA王者時代で,鶴田がフレアーに挑戦した試合です。その試合は三本勝負で,たぶん一対一となった後の三本目で,鶴田がドロップキックのような飛び技の攻撃を仕掛けたときにフレアーがそれを避け,鶴田はトップロープに急所を打ち付けて悶絶。そのまま3カウントを奪われてタイトル獲得に失敗しました。僕の記憶の中にはあやふやな部分があり,おそらく1981年10月4日の蔵前国技館での試合ではないかと思いますが,もしその試合でなくとも,フレアーがNWAのチャンピオンで,鶴田がそれに挑戦した試合の中に,このような結末を迎えた試合があったことだけは確実です。
 ですから,馬場が鶴田を説得するとしても,このような説得をすること自体があり得ないですし,まして鶴田が初めてそれを知って受け入れたということは絶対にないです。そもそもこれはこの試合の柳澤による解釈に沿ったもので,僕の解釈とは異なるのですが,もし柳澤の解釈が正しいとしても,説得に関する推測は誤謬です。

 第三部定理三九は,人間の現実的本性actualis essentiaは喜びlaetitiaを希求し悲しみtristitiaを忌避するということを理解していれば証明Demonstratioは難しくありません。スピノザの論証にはこの現実的本性を示す定理Propositioとして第三部定理二八が援用されていますので,ここでもその定理をみておくことにします。
 「我々は,喜びをもたらすと我々の表象するすべてのものを実現しようと努める。反対にそれに矛盾しあるいは悲しみをもたらすと我々の表象するすべてのものを遠ざけあるいは破壊しようと努める」。
 スピノザが努めるconariというときには,努力するという意味であるよりそういう傾向を有する,あるいはそういう現実的本性を力potentiaとして有するという意味で,コナトゥスconatusについて言及しようとしています。つまりこの定理は,僕たちは喜びを齎すと表象するimaginariことを希求し,悲しみを齎すと表象することに対してはそれを忌避する,あるいは破壊するという現実的本性を有しているということを含意しています。
 憎しみodiumは第三部諸感情の定義七にあるように,外部の原因cause externaeを伴った悲しみです。つまり僕たちが憎しみを感じるということと,そのときに表象されている外部の原因が自分に悲しみを齎していると認識されるということは,それを感情affectusとしてみるか認識cognitioとしてみるかというだけの相違しかありません。よってAを憎むということはAを悲しみの原因として認識しているということであり,この定理に従えば,僕たちはAを忌避しまた破壊しようとする現実的本性を有しているということになります。これで第三部定理三九の前半部分は証明されています。
 ただしこのとき,Aを破壊することによってAを憎むこと以上の悲しみが自分に降りかかる,いい換えればAの存在以上の害悪を自分が被ると表象するなら,僕たちはAを忌避しまた破壊することを断念します。なぜなら小さな悲しみより大きな悲しみの方が避けるべき悲しみであるなら,大きな悲しみが到来することを忌避するのが僕たちの現実的本性であるということも,この第三部定理二八によって明らかだからです。
 なお第三部定理三九でいわれている愛amorについては,外部の原因を伴った喜びであるということから同じ仕方で証明できます。
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小鹿の雑感④&自己の害悪と他者の害悪

2018-02-16 19:05:22 | NOAH
 小鹿の雑感③の続きです。
 天龍源一郎によれば,入団したときに付き人がいたのは馬場だけであったそうです。天龍はそれを疑問に思い,なぜそうなっているのかを馬場に尋ねたそうです。すると馬場は,派閥ができるからダメなのだと答えたそうです。何年かしてからほかの選手にも付き人がつくようになり,たとえば三沢光晴ジャンボ・鶴田の付き人を経験していたのですが,付き人制度が復活したのはザ・グレート・カブキの助言によるものであったと天龍は言っています。カブキが何も発言することなく別の話題に移行しているので,真相は不明の部分もあります。天龍は1976年に全日本プロレスに入団し,カブキは1978年には海外で仕事をするようになっていますので,天龍の発言が真実なら,付き人制度の復活はその間の出来事であったことになります。
 馬場は全日本全体が,自分を父とするファミリーであることが理想だったので,派閥ができることを嫌っていたという天龍の発言は真実味があるように僕には感じられました。ただ,全日本プロレスは設立の経緯から,実際には派閥めいたものが存在していたと考えておくのがよいでしょう。これは小鹿の雑感①における天龍の発言からも裏付けられるように思います。そしておそらく馬場自身もそのことは理解していたものと思います。実際にグレート・小鹿は全日本プロレスからリストラされるような形で離脱しましたが,小鹿のパートナーであった大熊元司は,死ぬまで全日本プロレスの現役選手として仕事を続けました。これはこのふたりはタッグパートナーではあったけれども,派閥は異なっていたからではないでしょうか。これは僕の想像ですが,全日本プロレスには馬場を父とするファミリーという団体の形態を,是とする派閥と非とする派閥があったのだと思います。大熊は前者に,小鹿は後者に属していたのではないでしょうか。
 カブキはクツワダと組んでいました。クツワダは,後に反旗を翻しましたが是とする選手で,カブキはたぶん非としていた選手です。馬場は意図的にそういうチームを組ませていたという可能性もあるように思いました。

 排他主義者は悲しみtristitiaに隷属した人間で,その排他思想を産出しがちな悲しみが不安metusであるということの考察は,これで終了とします。まとめれば,ある人間が別の人間あるいは特定の人間集団に恐怖metusを感じるとき,その人はその不安の対象に対して排他的感情を有していることになります。この条件下ではこれはこの人に特有であり,思想としては大きな力potentiaをもつものではないかもしれません。しかし同じような恐怖を感じる人が増えれば増えるほど,それは思想としての力を増してくることになります。このゆえに,他の人びとに対してあえて不安を扇動する迷信家も存在してくることになるのです。なおかつ不安と希望は表裏一体の感情affectusであるため,人間の現実的本性actualis essentiaは,条件が同一であるなら希望spesという喜びlaetitiaによって恐怖という悲しみを排除するようになっています。これら両感情は,その定義Definitioから明らかなように,必然的にnecessario混乱した観念idea inadaequataを伴った感情です。ですから希望で不安を排除したとしても,それが虚偽falsitasであるということを知っているなら,要するに真理の規範に自覚的であるなら,その人は排他的思想を有することはありません。あるいは,排他的思想を有するに至っても,その思想が虚偽である,誤っているということを自覚します。しかしもしその虚偽を真理veritasとみなす誤謬errorを犯すなら,人は勇気animositasについて錯覚し,寛仁generositasについてそれ自体で憎む,高慢superbiaに隷属した人間になるのです。そしてその誤謬を共有する人びとは,同じように高慢でありつつ互いが互いの阿諛追従の徒であるとみなされ,仲間とか同志といった関係が構築されます。これにより,そうでない人びとに対する攻撃的傾向は,さらに顕著になってくるようになっているのです。このゆえに僕は,不安という感情は排他的思想を産出しやすい感情であると考えています。
                               
 僕は排他的思想を産出しやすい悲しみはふたつあるといいました。では不安ともうひとつは何かというと,第三部諸感情の定義二〇に示されている憤慨indignatioがそれに該当します。不安が自分に対する害悪と関係するなら,憤慨は他者に対する害悪と関係しています。僕が恐怖と憤慨を代表的に分類するのは,その違いに重きを置くからです。
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外国人レスラー最強列伝&善悪と真偽

2018-02-03 19:01:10 | NOAH
 門馬忠雄の『全日本プロレス超人伝説』は,三部作の一作です。その前に書かれたのが『新日本プロレス12人の怪人』で,『全日本プロレス超人伝説』を挟んで『外国人レスラー最強列伝』で完成しました。『新日本プロレス12人の怪人』は僕は現時点では読んでいませんし,あまり読もうという気も起りませんが,『外国人レスラー最強列伝』の方はすでに読了していますので,簡単に紹介しておきます。
                                     
 『全日本プロレス超人伝説』のプロローグの中で,門馬は自身のことを馬場べったりの記者と書いています。これは全日本プロレスを中心に取材したという意味かとも思っていたのですが,そうではありません。『外国人レスラー最強列伝』の第1章の冒頭で,門馬は馬場党でアンチ猪木派であること,そしてテーズ派であってゴッチ嫌いであるとはっきりと書いているからです。なのでこれら三部作を読むときには,そういうフィルターも入り混じっているであろうことを念頭に置いておいた方がよいでしょう。
 体裁は『全日本プロレス超人伝説』とあまり変わらず,各章でひとりのレスラーについて言及されるという形で,13章まであるので全部で13人です。すでにこのブログでとりあげたレスラーがふたり含まれています。ひとりは第8章の人間発電所で,もうひとりが第11章の人間風車です。
 第1章のルー・テーズ,第2章のカール・ゴッチ,第5章のフリッツ・フォン・エリック,第7章のジン・キニスキー,第9章のディック・マードック,第12章のジプシー・ジョー,第13章の大木金太郎についてはいずれ個別に取り上げます。
 残りは第3章が噛みつき魔のフレッド・ブラッシー,第4章が黒い魔人のボボ・ブラジル,第6章が生傷男のディック・ザ・ブルーザー,第10章が柔道王のウィレム・ルスカです。馬場にとって最大の好敵手はブラジルだったのではないかと思える部分はあるのですが,これらの選手については僕には多くを語ることができませんので,個別には割愛します。

 不安metusすなわち恐怖metusも希望spesも,混乱した観念idea inadaequataとともにでなければあることができない感情affectusなので,Xに対して不安を感じようと希望を抱こうと,それはXに対しては必然的にnecessario虚偽falsitasです。よって恐怖にしろ希望にしろ,そこから生じる欲望cupiditasは虚偽に基づいた欲望であることになります。自由の人homo liberは真理の規範に自覚的ですから,それが虚偽であるということを理解します。つまり虚偽には陥るけれども誤謬errorには陥らないのです。なおかつ不安に関していえば,それは自由の人にとってはそれ自体で無用でありまた悪malumなのですから,不安から生じる欲望に流されるようなことはありません。そしてこれは同時に,希望から生じる欲望に流されることもないという意味です。なぜなら,第三部定理五〇備考にあるように,不安と希望は表裏一体の感情であるからです。
 このゆえに,自由の人が自身の恐怖をそれと相反する希望によって打ち消すことを,僕は全面的に肯定します。打ち消された不安も打ち消した希望も,どちらも虚偽であるということを理解した上で,このような対処法を意図的に採用しているとみられるからです。一方,不安に苛まれているより希望に満ち溢れている方がまだましなので,無知の人がこのような手法を採用しても,僕は絶対的な意味においてこれを否定はしません。ですが全面的には肯定しません。というより部分的には否定します。というのは無知の人は打ち消した希望が虚偽であるということには気付いてなく,よって真理の規範を見失い,誤謬を犯すおそれが大であるからです。
 同じ受動状態にあるなら悲しみtristitiaに沈んでいるよりは喜びlaetitiaに浸っている方がましであるというのは,善悪の観点からまだましだと僕はいうのです。これは第四部定理八がその論拠になります。したがって自由の人であろうが無知の人であろうが関係なしに,恐怖を希望で解消することは,少なくともその当人にとっては善bonumです。ところが,虚偽に基づく善について,それが虚偽であるということに気付かない場合には,その人間はただそれを善とみなすというだけではなく,真verumであるともみなすようになるのです。僕はこの点について,こうした不安の解消法を否定します。
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