スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

天龍の雑感⑲&事前の調整

2024-04-24 19:08:51 | NOAH
 天龍の雑感⑱の最後のところでいった馬場の指導については,天龍源一郎が何かを具体的に語っているわけではありませんから,僕の方から補足します。
 馬場は身体の大きな選手と小さな選手の差異を,飛行機で喩える場合がありました。身体の大きな選手がジャンボジェット機であるとすれば,小さな選手は小型機であるというようにです。ジャンボジェットと小型機では,初動には差があります。加速は小型機の方が早いですし,トップスピードに乗るのも小型機の方が時間が掛かりません。つまり,身体の小さな選手の方が早くプロレスに順応することができるし,トップクラスで戦えるようになるのです。これに対してジャンボジェット機は,初動の加速は鈍く,トップスピードに乗るまでに時間を要しますが,トップスピードに乗ってしまえさえすれば,小型機よりもずっと速いスピードで飛ぶことができます。つまり,身体の大きな選手はプロレスに順応するのに時間を要し,トップクラスで戦えるようになるまでにも時間を要しますが,トップクラスで戦えるというところまで来ると,身体の小さな選手を凌駕するようなレスラーになれるのです。
 三沢光晴秋山準は,全日本プロレスに入団してからそれほど時間を掛けずにデビューしています。それはもちろんこのふたりはアマレスでの基礎がしっかりしていたからということもあるでしょう。しかし一方で,身体がそれほど大きいいわけではなかったので,プロレスに順応するのが早かったから,早い段階でデビューすることができた,いい換えれば馬場がデビューにゴーサインを出したということがあったようにように思われます。
 ここから理解できるように,初動の加速に差異があるのだから,身体の小さな選手がすべき練習と,身体が大きな選手がすべき練習の間にも差があるべきだと馬場は考えていました。実際に馬場がそれぞれにどのような練習を指導していたのかは分かりません。ただ,馬場はそれをたぶん分けて指導していたのではないかと思います。そしてそれができたのは,あるいはこのような考え方ができたのは,馬場自身が稀有に大きな身体をしていたからだと思います。とくに身体の大きな選手には適切な指導が求められるのであって,そこで失敗してしまうと大成することはなかなか難しいのでしょう。

 面会するとなると,事前に日時の調整をするのが自然です。もっともこの場合は,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizはパリからハノーファーへ戻る中途の旅路でしたから,面会しようと思えばいつでも会える状況にあったといってよいでしょう。だからといって何のアポイントメントもなしにレーウェンフックAntoni von Leeuwenhookやスピノザを訪問したとしても,相手が会ってくれるとは限りませんし,多忙で面会できる状況にないかもしれません。ですからレーウェンフックのときもスピノザのときも,ライプニッツは事前に日時の調整を行っていた筈です。ナドラーSteven Nadlerはレーウェンフックについては何も書いていませんが,スピノザについてはシュラーGeorg Hermann SchullerおよびチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausから報知を受けていたといっていますので,スピノザもライプニッツと会う準備をしていた筈です。なので,レーウェンフックと面会できる日時が,スピノザを訪問する日時に近ければ,アムステルダムAmsterdamからデルフトDelftに行き,そのままハーグDen Haagへ向かうのが自然ですが,日時に乖離が生じてしまった場合は,デルフトでレーウェンフックに会った後,一旦はアムステルダムに戻るという,非合理的な行程を,仕方なく組まざるを得ないケースが生じ得ます。なので『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』の記述は,そのまま解するとライプニッツの行程はきわめて非合理的であったと解せるようになっていますが,事実としてその通りであった可能性も残ります。
                                        
 フロイデンタールJacob Freudenthalの『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』では,ライプニッツはハーグでスピノザを再三にわたって訪問したと書かれています。つまり,ライプニッツとスピノザの面会は,1度ではなかったということになります。このことはライプニッツ自身が,繰り返し,長い時間にわたって話し合ったという主旨のことをいっていることから確定することができます。ということは当然ながらライプニッツは,何日間かはハーグに滞在したことになります。ナドラーはそれを数週間といっていますが,この部分はおそらくという推測の形で記述されていますから,そのまま史実と確定することはできません。とはいえ何の根拠もないような推測ではあり得ませんから,少なくとも2週間はハーグにいたと考えてよいでしょう。
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秋山準&内在的原因

2024-03-29 19:25:28 | NOAH
 三沢光晴小川良成をパートナーに指名し,アンタッチャブルというチームを組んだのは,それまでのパートナーであった秋山準が小橋建太と組むことになったからという理由でした。
 秋山は専修大学のレスリング部に在籍していました。当時の専修大学出身者は新日本プロレスに入団することが多かったのですが,秋山は全日本プロレスに入っています。この経緯はふたつ伝えられていて,秋山自身が馬場から直接のスカウトを受け,全日本に行ってもよいものかと悩んで当時のヘッドコーチであった松浪健四郎に相談したというものと,秋山の知らないうちに馬場から大学にスカウトがあり,松浪に連れられて馬場と面会したというものです。いずれにしても馬場からのスカウトがあったのは確かで,馬場は秋山のことを評価していたということでしょう。
 秋山はジャンボ・鶴田のファンだったので,そのスカウトにより全日本プロレスに入団しました。入団の発表があったのは1992年2月。3月に専修大学を卒業し,同年の9月にはもうデビューしています。入門からデビューの期間が短かったのは三沢も同様ですが,秋山はデビュー戦の対戦相手が小橋でしたから,デビュー当初から大きな期待が掛けられていたことになります。その直後に鶴田が肝機能障害により欠場。鶴田のパートナーであった田上明と組んで年末の世界最強タッグ決定リーグに出場しました。
 トップクラスで戦っていましたが,全日本プロレス時代はシングルのタイトルは獲得することができませんでした。2007年7月にNOAHの旗揚げがあって移籍。この旗揚げ興行で鮮烈な印象を残し,翌年の7月にGHCヘビー級の王者になりました。その後も何度か獲得しています。小川がGHCヘビー級王者になったときの相手は秋山でした。
 2012年でNOAHを退団。翌月からは全日本プロレスに参戦しました。古巣に戻ったともいえますが,この頃の全日本プロレスは秋山の退団時の全日本プロレスとは体制が大きく異なっていましたから,復帰したという感じは僕にはあまりありませんでした。

 真理veritasのしるしsignumに関する論考はここまでです。
                                        
 『スピノザー読む人の肖像』の第三章で,内在的原因causa immanensについて触れられている箇所があります。この箇所について気になった点がありましたので,僕の考えを表明しておきます。
 『エチカ』で内在的原因が最初に出てくるのは第一部定理一八です。そこではDeusが,超越的原因causa transiensではなく内在的原因であるといわれています。このとき,内在的原因といわれるのは,結果effectusを自己のうちに生ずる原因のことで,超越的原因というのは結果を自己の外に生じる原因のことです。岩波文庫版の訳者である畠中によればこれは,17世紀初めにライデン大学で教授を務めていたブルヘルスダイクおよびその後継者であるヘーレボールドAdrianus Heereboordによる分節であるとのことです。『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の付録である「形而上学的思想Cogitata Metaphysica」の中ではスピノザはヘーレボールドに言及しています。これは意志voluntasに関連する箇所で,しかもスピノザはヘーレボールドの見解opinioを否定しているのですが,そのように触れているということは,ヘーレボールドのことを知っていたということは間違いありません。なので畠中はここでこの分節をヘーレボールドによるもので,スピノザはそれに従っているとみています。このことはたぶんその通りであって,スピノザは神は結果をそのうちに産出する原因であって,外に結果を産出する原因ではないということをここでいいたかったのでしょう。
 このこと自体は國分も否定していません。國分は当該部分で,一般的に原因と結果といわれる関係は,超越的原因であるけれども,神が万物の原因であるといわれる場合には,神は超越的原因ではなく,内在的原因であるということをスピノザはいいたかったのだと解釈できることをいっていますから,内在的原因が何を意味し,超越的原因が何を意味しているのかということに関しては,畠中と國分との間で,また僕との間で,何か相違があるというわけではありません。定理Propositioにおけるスピノザのいい回し自体が,神が超越的原因であると思っている人もいるだろうけれども,実際には内在的原因であると受け取れるようなものになっていますので,これは正しい解釈だと思います。
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続・谷津の雑感④&哲学と物理学

2024-03-11 19:10:22 | NOAH
 で示したように谷津は自分は全日本プロレスの方が合っているのではないかと感じたと証言していますが,それは言外に,ハル・薗田とのコンビでアメリカで仕事を続けていきたかったというニュアンスがあるように僕には感じられます。しかしそのタイミングで坂口から電話があり,日本に呼び戻されました。坂口はアングルができたと谷津に伝えたそうですが,このアングルというのは新日本プロレスの中での仕事場という意味かと思われます。
 この仕事場というのは藤波に反旗を翻した長州力のチームに入るということでした。これは谷津の意志ではなく,単に長州も谷津もアマレス出身だったということでチームにさせられたということであり,このときに自分のプロレスラーとしての人生がひん曲がってしまったと表現しています。谷津はテキサスでは田吾作タイツに髭を生やしたヒールだったのですが,坂口からの電話が急だったので,そのままのスタイルで仕事をすることになりました。本当は正統派として凱旋する筈だったのに,アウトローになってしまったことで,その後のプロレースラー人生への影響も大きかったのでしょう。
 この帰国の前に,谷津は全日本プロレスの主力選手たちとも会っています。カンサスシティーでの試合に日本テレビのカメラが入ることになり,馬場やジャンボ・鶴田,おそらく天龍源一郎なども渡米していて,そこには三沢光晴もいたと谷津は言っています。全日本プロレスの選手たちはいいホテルに宿泊していて,谷津は馬場に誘われて,そのときは鶴田の部屋に同宿させてもらい,時間を忘れるくらいプロレスとは何かという話をしたそうです。この時点ではザ・グレート・カブキが日本で仕事をしていて,たぶん馬場はカブキから谷津のことを聞いていたのだと思います。馬場と谷津はこのときが初対面で,海外で気前が良くなっている馬場は,谷津に服をはじめいろいろなものを買ってプレゼントしたそうです。全日本プロレスのオーナーが新日本プロレスの所属の選手,それも破格の条件で入団した将来のエース候補にそういうことをするのは僕には意外だったのですが,海外ではこういうことはよくあることだったのかもしれません。

 このことから分かるように,空虚vacuumが存在しないということに関してスピノザがデカルトRené Descartesからの影響を受けていたとしても,それは物理学に関して影響を受けたと断定できるものではありません。なのでこの影響が物理学的なものであったのかそれとも哲学的であったのかということを推定するためには,空虚が存在しないということについて,デカルトが物理学的な意味でそういったのかそれとも哲学的な意味でいったのかを考えなければなりませんし,そもそもデカルトが物理学と哲学の関係をどのようなものとして解していたのかということも考えなければなりません。デカルトが物理学と哲学は無関係の独立した学問であると解していた場合と,両者の間には何らかの関係があったと解していた場合とでは,自ずからこの問いに対する答えも変じてくるからです。
 さらにいうと,ここではスピノザのデカルトからの影響を検討しているわけですから,デカルトがそこのところをどう考えていたかということと同時に,スピノザがそれをどう理解したかということも考えなければなりません。たとえばデカルトが純粋に物理学的な意味でいったことを,スピノザは哲学的な意味で解したという場合もあり得るからです。ここではこれらすべてのことを考えていくことはできませんので,主にスピノザが空虚の不存在についてデカルトから何らかの影響を受けていたと仮定して,それをどのような意味で解していたのかということに焦点を当てていきます。
                                        
 考察の最初の方で紹介しておいたように,空虚すなわち真空vacuumが存在しないということは,『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第二部定理三で示されています。第二部は延長Extensioに関する議論ではありますが,それが哲学の原理であることに相違はありません。なのでスピノザはこの点に関しては哲学の一部として理解していたのであって,物理学として解していた,少なくとも哲学とは無関係な純粋な物理学としてのみ解していたという可能性はきわめて低いように僕には思えます。そしてデカルト自身がこのことを『哲学原理Principia philosophiae』の中で示しているわけですから,この点はデカルトもそのように解していたであろうと推測することができます。
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戸口の雑感⑰&万有引力説

2024-03-02 18:51:19 | NOAH
 の最後のところでいった,戸口が家族を日本に呼び寄せるための飛行機代を馬場が出してくれなかったというのが誇張であるというのは,まずそのこと自体から説明できます。戸口が全日本での仕事をやめて新日本に移る理由として,それだけではあまりに弱いといえるからです。しかしその他の事情から,これは契機にはなったとしても,それだけが理由ではなかったということは明らかにできます。
 戸口は全日本の経営にはタッチしていませんでしたから,この当時の全日本の経営状態が厳しいということは知らなかったようです。だから,馬場がジャンボ・鶴田と戸口を呼んで,もうすぐ身を引くからふたりで会社を仕切っていくように言われたとき,その馬場のことばを文字通りに受け止めました。だからこれは引き留め工作だったのではないかと戸口は推定しているのですが,おそらく馬場にはそういう意図はなかったのではないかと僕は推測します。
 戸口は馬場のことばを真に受けたので,鶴田とふたりで頑張ろうと思っていました。ところが馬場は身を引くどころかリングシューズを新調しました。つまりまだ現役を続けるつもりだったのです。もとより馬場はそのつもりではあったでしょう。ただ戸口はそれをみて,馬場が現役を続行する意志があることを知ったのです。そのときに東京スポーツで新日本プロレスを担当していた記者に声をかけられ,猪木の懐刀であった新間寿に会いました。それで新日本に行くことになったわけです。
 ここから分かるように,戸口は全日本をやめる気はあったかもしれませんが,その後の仕事先のあてがあったわけではないのです。むしろやめようと思った後で新間に会うことになったので,スムーズに新日本に移籍できたのです。しかも,それは馬場が現役を引退すると自分たちに言ったのだと思ったのに,実際はそうではなかったからだということによって戸口のうちに生じたのですから,仮に馬場が戸口の家族を呼ぶための飛行機代を出したところで,やはり戸口は新日本に移籍することになったであろうと僕は思います。なので飛行機代の件を移籍の主要因としている戸口の発言には,誇張があると僕は思います。

 その当時の科学者たちがそれをどのように考えていたかは不明ですが,現代に生きる僕たちからすれば,遠隔作用論すなわち万有引力説が空虚vacuumを必要とするというのは,明白に誤りerrorであると断定することができると僕は思います。俗にニュートンIsaac Newtonはリンゴの実が木から落下するのをみて万有引力説を思いついたといわれています。しかしこの種の落下運動は地球上の至るところで発生する運動motusなのであって,かつそれが万有引力によって生じる運動です。ですから万有引力が作用するために空虚が存在しなければならないというのであれば,地球上の至るところに空虚が存在するといわなければならないでしょう。しかしそれが不条理であるということは,僕たちがよく知っているところです。この空虚は,真空という語を置き換えたものなので,それを文字通りの真空という意味に解すれば,それが不条理なことは容易に理解することができるでしょう。僕たちが地球上で生きていくことができるのは,地球上の至るところが真空ではないからなのです。
                                        
 國分はここのところをまったく説明していないので,事の真相は僕には分かりません。近接作用論と遠隔作用論の対立はデカルトRené Descartesやニュートンの死後,18世紀の半ばまでは続いたと國分はいっています。万有引力説が定着していったのはその後のことでした。そしてデカルトが自説として主張した渦動説は,荒唐無稽な説であると斥けられるに至ったのです。これは確かにその通りなのですが,だから空虚の存在existentiaが定着し,空虚の不存在は斥けられるに至ったということにはならないのではないかと僕は考えます。したがってこの部分は,空虚が存在するかしないかという対立であるよりは,遠隔操作論と近接作用論,すなわち万有引力説と渦動説との対立に絞って,國分のいっていることは事実であるというように僕は解します。
 ところが,遠隔作用論と近接作用論の対立だけをみても,必ずしも遠隔作用論が勝利したとはいえないと國分は指摘しています。なぜなら,アインシュタインAlbert Einsteinは重力を,非ユークリッド的な場の概念notioを導入することで説明するのですが,この説明は,遠隔作用論ではなく近接作用論に近いからです。
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天龍の雑感⑱&スピノザの解答

2024-02-16 19:05:56 | NOAH
 天龍の雑感⑰で示したジャンボ・鶴田に対する評価の後で,鶴田はクールでいるようでもプロレスラーとしてのいやらしさも持ち合わせていたと天龍は語っています。とくに,なめられてはいけないという場面ではそれを見せていたとのことです。そのことを天龍は,鶴田のトップとしてのプライドと関連付けて説明しています。いくら自分がトップであるといったところで,そうしたいやらしさがなければ大したことがないと思われてしまうからです。ずっとトップを張っていくためにはそこに何らかの真実,これは相手に対する真実とファンに対しての真実との両方の意味が含まれていると思われますが,その種の真実がなければいけないのです。鶴田は長い間に渡ってトップに君臨し続けたレスラーでしたから,確かにその種の真実があったと天龍はみているのでしょうし,僕もそれには同意します。いい換えれば,ここでいわれているプロレスラーとしてのいやらしさというのは,そのような真実のことを意味していると解してよいのでしょう。
 その後で,鶴田がほかのレスラーと比較したときの最も優れた点について,身体能力をあげています。そしてこのことについて,天龍は面白い説明をしています。もしもプロレスをマラソンにたとえるならば,鶴田は一番だけれども,もしもプロレスを100m走にたとえたときには,鶴田は後ろから数えた方が早いくらいのレスラーであったというものです。要するに鶴田は,ダッシュはそれほど優れていないのだけれども,高いアベレージの試合を長時間にわたって維持することができる選手だったと天龍はいいたいのです。ただファンの中には100mのダッシュをプロレスに求めるという場合もあるので,そういうファンからみれば,鶴田の評価は善戦マンにとどまってしまうだろうというものです。
 天龍がこれを馬場の教えと関連付けて説明していますが,これは正しいのではないかと僕は推測します。小橋建太は自身に対する馬場の指導について語っていますが,馬場自身は選手に対する指導法を体系づけて語っているわけではありません。ただ馬場は,身体の大きなレスラーには大きなレスラーの,小さなレスらーには小さなレスラーのプロレスというものがあって,それぞれに応じて指導方法も変わらなければならないと考えていたように思われるのです。

 現実的に存在するある人間の精神mens humanaのうちにXの観念ideaがあるのであれば,その同じ人間の精神のうちにはXの観念の観念idea ideaeもまた存在します。スピノザはこのことを利用して,現実的に存在する人間の確実性certitudoとは何かということを,シンプルに解答します。すなわち,Aという人間が現実的に存在して,もしAの精神のうちにXの十全な観念idea adaequataがあるのであれば,Xの十全な観念を観念対象ideatumとした,Xの十全な観念の観念もまたAの精神のうちにあるのだから,少なくともAはXについて確実であることができるというのがそれです。これをスピノザは,現実的に存在する人間はある事柄を知っているなら,自分がその事柄を知っているということも知ることができるのだから,自分がそれを知っているということを確実に知ることができるという仕方で説明します。そしてその人間は,それを知っているということを知っているなら,それを知っていることを疑うことができないでしょう。なので第二部定理四三では,真の観念idea veraを有する人間は自分が真の観念を有していることを疑い得ず,真の観念が観念対象の真理veritasであるということも疑い得ないという主旨のことをいっているのです。ここでスピノザが,単に確実であるというのではなく,疑い得ないといういい方をしているのは,もしかしたら方法論的懐疑doute méthodiqueを念頭に置いてのことかもしれません。この定理Propositioは明らかにデカルトRené Descartesが採用した方法論的懐疑は誤りerrorであるという意味を含んでいるといえるからです。
                                   
 スピノザの説明から理解できるように,ある事柄を知っていればそれを知っているということを知ることができるという関係は,実際は無際限に連鎖していきます。これは,知っているということを知っているのであれば,そのことを知るということもできますし,さらにそのことを知ることもできるという具合に,無際限に連鎖していくということから明白でしょう。つまり,Xの観念とXの観念の観念が同一個体で,同様の仕方で神Deusに帰せられるように,Xの観念の観念とXの観念の観念の観念も同一個体で,やはり同様の仕方で神に帰せられるのであり,こうした関係が思惟の属性Cogitationis attributumのうちでは無際限に連鎖するのです。
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アンタッチャブル&観念の集積

2024-02-07 19:22:37 | NOAH
 小川良成は全日本プロレス時代に三沢光晴にパートナーに選ばれることによって,トップクラスで戦うようになりました。三沢は素顔に戻ってからは川田利明,川田が田上明と組むようになると小橋建太,小橋がジョニー・エースやジ・パトリオットとチームを組むことによって秋山準とパートナーを変えていき,秋山と小橋が組むようになったのでパートナーが不在となり,小川を指名したのでした。
 この指名は,三沢がリング上の実権についてはそのすべてを握ったことによって可能になったことでした。もしも馬場がリング上のことをすべて決定する権利を持ち続けていたら,たぶん三沢のパートナーが小川になることはなかったと思います。というのも馬場は身体が大きな選手が好みであって,三沢とか川田でもたぶんプロレスラーとしては小さすぎると感じていたと思うのです。それでも三沢や川田はジュニアヘビー級では戦えないくらいの大きさがありました。小川は三沢や川田よりもさらに小さく,ジュニアヘビー級でも戦うことができる選手でしたから,いかに全日本プロレスのヘビー級が無差別級を意味するとはいえ,小川くらいの身体の選手が無差別級のトップで戦うことに否定的であったと思われるからです、というかむしろ全日本プロレスのヘビー級が無差別級を意味していたから,小川のような身体が大きくない選手は,無差別級のトップクラスで戦うだけの体力がないというような思い込みが馬場にはあったといった方がいいかもしれません。
 三沢を小川をパートナーに指名した後で,そのチーム名をアンタッチャブルと名づけました。このアンタッチャブルという命名は,上記の事情を考慮すれば,ある意味が込められていたと考えることができます。それは,小川を自分のパートナーにすることを全日本プロレスのオーナーである馬場は快く思わないかもしれないけれども,リング上のことは自分で決定する,つまり馬場にはタッチさせないという意味です。
 もちろんこれは僕の推測で,三沢が本当はどう考えていたのかは分かりません。ただアンタッチャブルという命名にはもしもこんな意味があったとしたら,当時の三沢の決意がいかに強いものであったかが実感できます。

 デカルトRené Descartesがスピノザとは違って,たとえ人間の知性intellectusが観念ideaを形成するという思惟作用のうちに疑い得ないこといい換えれば絶対的に正しいといえることが何もないとしても,絶対的に正しいといえる事柄がこれ以外の様式のうちにあり得ると考えることができたのは,スピノザの哲学とデカルトの哲学との間に相違があるからです。
                                   
 僕は人間の知性が何らかの観念を形成するといっていますが,人間の知性はそれ自体がひとつの観念であるというのがスピノザの見方です。このことは,第二部定理一一から明らかです。ここでは人間の精神mens humanaといわれていますが,この定理Propositioで人間の精神といわれている思惟の様態cogitandi modiは,この考察で人間の知性といっている思惟の様態と同じだからです。しかしそれよりも,スピノザは個々の観念の集積のことを一般に知性というということからこれはなお明らかだといえます。つまり人間の知性というのは,その知性を構成する個々の観念の集積のことをいうのであって,その個々の観念の集積としての知性が,ひとつの観念を構成するのです。このことは,人間の知性を構成する個々の観念というのは個物res singularisの観念であるということに注意するならば,第二部定義七でスピノザが,いくつかの個物によって構成されるひとつの個物があるといっていることから明白でしょう。このために,知性が観念を形成するということ,あるいは同じことですが知性が何らかの事物を認識するcognoscereということが,第一の思惟作用である場合には,この第一作用のうちに正しいといえることが何もないのなら,人間の知性のうちに正しいといえることは何も発生しないということが直ちに結論されることになるのです。
 デカルトはたぶん知性を観念の集積とする見方をしていないのです。このゆえに,たとえ認識される観念のうちには正しいといえるようなことが何もないとしても,直ちに正しいといえることは何もないということが帰結しないことになります。なぜなら,人間が何かを認識することによって観念が形成されるということと,何かを認識するその認識作用自体とを,別の様式の下に考えることができるからです。その様式の下にデカルトは答えを発見します。
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続・谷津の雑感③&相違

2024-01-31 19:30:19 | NOAH
 続・谷津の雑感②の最後でいった日本でのデビュー戦の後,谷津は再びアメリカに渡っています。谷津の話だと,このときはまずニューヨークに行ったのだけれども,ニューヨークにいてもプロレスに進歩がないと考え,フロリダに移りました。
 谷津は最初にニューヨークに入ったときは,キラー・カーンと同居していたわけですが,その後もそれが続いていたのかは分かりません。谷津によればニューヨークで敷かれたレールの上を走るよりも,放浪して修行した方がプロレスラーとして成長することができるという考えがあったとのことですが,僕は専属のコーチの問題が大きかったように思います。谷津がフロリダに移ったのはヒロ・マツダを頼ったとのことですが,ニューヨークではしっかりとプロレスを教えてくれる人がいなかったので,ヒロ・マツダにそれを教わろうとしたということだったのだと思います。
 その最中にルイジアナへの遠征がありました。そこにたまたまザ・グレート・カブキが遠征に来ていて,カブキの当時の主戦場であったテキサスに誘ってもらったので,谷津はフロリダを離れてテキサスで仕事をするようになります。谷津はテキサスではカブキ,およびマジック・ドラゴンすなわちハル・薗田の3人で同居していたとのことです。この当時のカブキはすでに全日本プロレスでも人気レスラーでしたから,そういう選手と新日本のスター候補生だった谷津は一緒に仕事をし,そればかりか同居していたのです。おそらく世話になっていた面も多々あったのではないかと推測されます。
 カブキはすでに全日本での仕事も多くなっていましたから,この頃はテキサスよりも日本にいる時間の方が多いくらいでした。谷津はテキサスで,同じようにテキサスに残っていた薗田と一緒に1年ほど継続して仕事をしました。谷津は薗田とは手が合ったので,新日本よりも全日本の方が自分には合っているのかもしれないと感じたと言っています。薗田は大仁田厚,渕正信と並ぶ,全日本の三羽烏のひとりでした。

 デカルトRené Descartesとスピノザとの間にあった方法論的な差異というのは,『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』を読んだだけでは実はあまりよく分かりません。というのは,『デカルトの哲学原理』の第一部が『哲学原理Principia philosophiae』の第一部にそのまま対応しているというわけではなく,デカルトの哲学の形而上学的部分の解明であるということは『デカルトの哲学原理』の中で触れられているのですが,デカルトが示した方法をスピノザが自身の方法に修正しているということについては何も触れられていないからです。よってこのことは『デカルトの哲学原理』と『哲学原理』を読み比べなければ分からないことなのであって,もしもそうしたことをしないで『デカルトの哲学原理』だけを読めば,修正されているスピノザの方法が,そのままデカルトの方法であるというように解してしまうおそれが高くなります。なので僕はこの点については指摘しておきたかったのです。
                                   
 ここではデカルトの方法とスピノザの方法には実際には相違があるのであって,『デカルトの哲学原理』に示されているのはデカルトの方法なのではなく,デカルトの方法を修正したスピノザの方法であるということだけが理解できれば十分ですから,これ以上は深く考察をすることはしません。ただ,スピノザがデカルトの方法を修正しながらデカルトの哲学を説明しているのですから,スピノザの方法というのがどういうものであるのかということとか,スピノザがデカルトの方法が不十分であると考えたのはどこであり,またそれがなぜなのかといったことの研究には,この修正が大いに役立ちます。この修正によって,スピノザの方法がデカルトの方法といかなる点において異なっているのかということを,際立って理解することができるからです。実際にそうした研究の成果は,同じ國分功一郎の『スピノザの方法』に含まれていますから,もしもそうした相違そのものや,スピノザの方法をデカルトの方法から分かたせる地点がどこなのかといったことに興味があるのであれば,僕は『スピノザの方法』を読むことを強く推奨します。
 『デカルトの哲学原理』に関連する指摘はこれだけです。次のテーマに移ることにします。
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カーンの雑感⑮&観念の原因

2023-09-24 18:54:02 | NOAH
 カーンの雑感⑭でいったように,カーンは吉村道明の生きざまを継いで,まだ現役を続けられる状況で引退し,そのまま復帰しませんでした。ですからカーンは,引退した後に復帰するということについては批判的で,残念だと語っています。これはカーンの率直な心情だといっていいでしょう。
 カーンはこの観点から馬場についても語っています。馬場は現役のまま死んでしまいましたから,プロレスラーとしてのいわゆる引退というのはありませんでした。晩年の馬場は義兄弟タッグとして悪役商会と試合をするというのがほとんどで,前半の試合に出場することも多かったです。カーンはこのことについて,馬場がそういう位置で試合をするようになるということは考えられなかったけれども,自分の力が落ちているということを認めてメーンで試合を続けるということはしないで現役を続けたということは素晴らしいと語っています。カーンはまだ馬場が日本プロレスのエースであった時代から馬場に対して好感をもっていたわけですから,その馬場が前座といっていい位置で試合をするようになったことを考えられなかったというのは事実でしょう。また,引退して復帰するというようなレスラーや,力量が衰えてもメーンで試合をすることに固執するようなレスラーよりも馬場の方を評価するというのも,まだトップでやれる力量を持ちながら現役を退き,復帰をしなかったカーンからしてみれば当然のことといえそうです。
                                        
 カーンは引退した後は,馬場と会う機会は一度もなかったそうです。馬場の死後にカーンが経営する店に来た,『全日本プロレス超人伝説』などの著者である門馬忠雄から,馬場は死ぬまでカーンのことを心配していたとカーンは伝えられたそうです。カーンは猪木よりも馬場を尊敬していると公言していますし,門馬も著書では馬場派であるといっています。馬場がカーンや門馬をどう思っていたかは知る由もありませんが,これが門馬のリップサービスであるとはいえないように感じます。
 カーンの雑感はこれで終わりです。

 第二部定理四九でいわれているように,意志作用volitioは観念ideaを超越するものではなく,観念そのものが含んでいる肯定affirmatioないし否定negatioにほかなりません。いい換えれば個々の観念と個々の意志作用は同一です。したがって,ある意志作用がその観念の原因causaであることはできないのです。つまり,知性intellectusは,たとえばXの真の観念idea veraを有することを意志するがゆえにXの真の観念をもつようになるのではなく,Xの真の観念をもつということと,Xの真の観念をXについて肯定するaffirmare意志作用は,知性のうちに同時に,他面からいえば同じ思惟作用のふたつの側面として知性のうちに現れるといわなければなりません。そして知性のうちにXの観念があるということが,その知性がXの観念を神に帰しているということなのですから,これはつまり,知性はXの観念を神に帰することを意志することで実際にXの観念を神に帰するのではなく,Xの観念を神に帰するのと同時に,Xの観念を神に帰するような意志作用を有するようになるのです。
 これをひとつの実例で説明しておきましょう。
 僕は今回の考察の過程で,円の形相的本性essentia formalisは,一端が固定されもう一端が運動する直線によって形成される図形であるといい,知性が円の真の観念を有するとは,このことを知性が概念するconcipereことであるといいました。そしてこのとき,直線のこのような運動motusは知性による任意の思惟作用であるから,これを円の定義Definitioとしてみた場合には,確かにこの言明には円の発生が含まれているけれども,ある虚構もまた含まれていると指摘しました。これでみれば,知性が任意の思惟作用によって円の真の観念を有するようになるといっているようであり,それを円の真の観念を有する意志作用であるとみる限り,知性は円を真に認識するcognoscere意志作用を有することによって,つまりその意志作用が原因となって,知性は円の真の観念を有するようになるというようにみえるかもしれません。しかし実際にはここでいわれているのはそういうことではないのです。
 その考察の過程でこれもいっておいたように,知性がこの直線の運動を概念するということは,円の真の観念と結びつくことによって真verumであるといわれるのです。
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戸口の雑感⑯&追及する根拠

2023-08-23 18:54:11 | NOAH
 戸口の雑感⑮でいったように,戸口が全日本プロレスでの仕事を終えたのは,1981年でした。この直前に,戸口はジャンボ・鶴田と一緒に会場で馬場に呼ばれ,もうすぐ身を引くのでふたりで会社を仕切っていくように言われたといっています。1981年3月31日のことだと推定されています。戸口はそのように言われたので,全日本プロレスのブッカーをやってもいいと思ったし,馬場もそれを望んでいたのだろうと語っていますが,これは一概に戸口が正しく判断しているとはいえない一面があります。
 これも⑮でいったことですが,この時期は全日本プロレスが経営的に最も厳しい時期でした。これを立て直すために,日本テレビから出向を受け入れたのです。馬場は本当はそんなことはしたくなかった筈で,これは仕方がなく受け入れたということでしょう。ですから,馬場は日本テレビから出向してくる人物が全日本プロレスの社長になるくらいであれば,鶴田と戸口に経営を任せてしまった方がまだましだと思っていたからこのように言ったという可能性がありますし,すでに出向してくるのが決まっていて,その場合には自身が選手として第一線を退かなければならないという覚悟があって,鶴田と戸口に対してそのように言ったという可能性もあります。このあたりのことは馬場がどう思っていたかを確認することができない以上は事実を確定させることができません。少なくとも馬場が本心からそうしたいと思って,鶴田と戸口にこのような話をしたという可能性は低いのではないかと僕には思えます。
 戸口はこの話を受けて,日本に定住しようと思い,当時はアメリカに住んでいた家族を日本に呼ぼうと思いました。そのために飛行機代を馬場に出してくれるように頼んだのですが,馬場はそれを断りました。戸口はこの一件が,全日本プロレスで仕事をすることをやめる契機になったというように言っていますが,これはさすがに誇張です。これが誇張であるということは,戸口自身の発言からも裏付けることができると僕は考えています。

 第二部定理八備考を記述するにあたって,スピノザがユークリッド原論第3巻命題35を念頭に置いていることは確実と僕は考えます。そこでもしそのことをあらかじめ知っているのであるとしたら,スピノザの記述がその命題に見合うように訳された方がよいと考えておかしくありません。したがってその場合は,無限に多くのinfinita相互に等しい矩形が含まれている,と邦訳した方が,相互に等しい無限に多くの矩形が含まれている,と訳すよりも,命題に見合っているのであるとしたら,前者の訳が適切で,後者の訳は適切ではないということになるでしょう。だから,河井がこの点に注意を促すのも,理由がないというわけではありません。河井自身がいっているように,無限に多くの,という部分の順序が入れ替わってしまうだけで,それが命題からの引用であるということに気付かなくなってしまう読者がいないとも限らないからです。なので,僕はそれでこの部分の意味が変わってしまうというわけではないから,この点を深く追求する必要はないと考えますが,河井がこれを追及する理由がないわけではないということも認めます。
                                        
 ゲプハルト版というのはスピノザの著作の原本として最も有名なもので,おそらく最も信頼に値するものでしょう。だからそれを利用して訳出された『エチカ』というのは,畠中による日本語版だけではありません。河井によれば,カイヨワRoger Cailloisは訳するにあたって,自身で図を加筆しています。アウエルバッハErich Auerbachは訳注として,ユークリッド原論への言及があります。カーリーEdwin Curleyも同じように,ユークリッド原論への指示をしているようです。こうした外国語の文献と比較した場合にも,岩波文庫版にも命題に関する訳注が入っているべきだと河井が考えてもおかしくないでしょう。つまりこうした各国語版との比較という観点からも,河井がこの点を追及する根拠はあるということになります。
 この命題は,カントImmanuel Kantも援用していると河井は指摘しています。そしてカントもそれを援用するときに,スピノザと同様に,それがユークリッド原論第3巻命題35の引用であるということには触れていないようです。この命題はそれだけ有名なのでしょう。
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天龍の雑感⑰&水と照明

2023-08-08 18:56:46 | NOAH
 ではジャンボ・鶴田というプロレスラーとしての総評を語っていますが,対戦相手としての鶴田という面でも天龍は語っています。一言でいえば,天龍にとって鶴田は,対戦相手としてはやりやすい選手でした。これは,鶴田が器用であったという点も意味として含まれますが,いろいろな怨念も込めてやりやすかったと天龍は語っていますので,個人的な意味合いも含まれていることになります。天龍はどちらかといえば情念的なレスラーでしたから,このような精神的な面が,やりやすいかやりにくいかということに直結したのでしょう。この中で長州力と同じくらいやりやすかったと言っているのは,注目するべき点かもしれません。たぶん長州も情念的なレスラーであったのですが,鶴田に対してはあまり情念的になれなかったのではないかと思うのです。つまり長州にとっては,天龍には情念的になれたのでやりやすかったけれど,鶴田には情念的になれなかったレスラーだったのだろうと僕は推測します。しかし天龍は,長州に対しても鶴田に対しても,同じように情念的になることができたということです。
                                        
 これはたぶん,関わりの深さが関連しているのだろうと思います。天龍は長州よりもずっと長く鶴田と同じリングの上で,味方としても敵としても戦っていましたから,湧いてくる情念がその分だけ長州よりも大きかったのでしょう。また,鶴田としても,天龍は同じ団体のレスラーであって,長州はジャパンプロレスのレスラーでしたから,負けたくないという気持ちは長州よりも天龍に対してより多くもっていたのではないでしょうか。鶴田は情念的なレスラーではまったくなかったと僕は思いますが,それでも長州に対してよりは天龍に対しての方が,情念的になることができた,あるいは鶴田の立場からいえば,情念的になってしまったのではないかと思われます。天龍が長州に対しても鶴田に対しても,同じくらいやりやすいレスラーであった,あるいはさらに戦っていて楽しいレスラーだったと言っていることには,天龍の気持ちだけでなく,多分に鶴田の心情が影響していたのではないかと思います。

 このときは解体工事が終わって,新築工事も始まったばかりでしたから,枡がどのようになっているのかを目視で確認することは簡単でした。ですから枡から汚水が溢れてしまっていることもすぐに理解することができたのです。ですが解体工事を始める以前,つまり隣家のSさんがまだ住んでいた時点では,僕がこの隙間に入るということは一切ありませんでしたから,いつごろから枡に異常が発生していたのかということは分かりません。ただ,新築の工事をする業者の方が,その挨拶に来て下水管の異常について僕に告げた時点,これは今年の1月末の時点ですが,そのときには枡から汚水が溢れているというようなことはありませんでしたし,僕の家の排水に問題もありませんでした。実際にその一月後に枡から汚水が溢れたのですから,その指摘は正しかったのですが,それはこの業者の方に何らかの専門的な知識があったからであって,仮に僕がこの枡のことを常日頃からよく観察していたのだとしても,何らかの異常があるということには気が付かなかっただろうと思います。たとえ僕の家の敷地内のことであっても,汚水が溢れるようなことがあれば新築工事に影響が出ないとも限りません。ですからその方はたぶん下水管あるいは枡について調べてほしかったからそのことを僕に告げたのだろうと思います。なのでそのときにもう少し強くこのことを僕に進言してもよかったのではないかと思いますし,そうであったらその時点で僕も何らかの着手をしていたかもしれません。
 修理をする業者の方が来たのは午後6時でした。2月28日の午後6時ですからもう日没後です。僕の家と隣家の家,といってもこの時点ではほぼ更地に近かったですが,屋外を照らすような灯があったわけではありませんから,作業のためには照明が必要でした。これは僕の家の中までコンセントを伸ばすことで,業者がもってきた機械で対処しました。また,作業のためには水が必要になりますが,僕の家の玄関の左側には,ほとんど使うことはありませんでしたが蛇口があって,そこから取水することができました。この蛇口は僕が子どものころからあったものですが,何のために設置されていたものなのかは不明です。
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小川良成&全身麻酔

2023-08-01 19:17:23 | NOAH
 全日本プロレスやNOAHでは,ジュニアヘビー級というのはひとつのジャンルであって,ヘビー級というのは無差別級を意味するということが説明できました。これで小川良成について語るのに十分な条件が揃いました。
 小川は1985年にデビューしています。天龍源一郎の付き人であったため,1987年のピンチの後は天龍のチームに所属。天龍が全日本プロレスを離脱し,三沢光晴らがジャンボ・鶴田と戦うようになると,今度は鶴田のチームに入りました。身体は大きくなかったため,ジュニアヘビー級の選手としても活躍し,世界ジュニアヘビー級の王座にも就いていますが,この当時のジュニアヘビー級の中心選手は渕正信で,そのことで大きな注目を集めていたわけではありません。
 脚光を浴びたのは1998年に三沢によってパートナーに抜擢され,アンタッチャブルと名づけられたチームでヘビー級すなわち無差別級を中心に戦うようになってからです。1999年に三沢とのチームで世界タッグの王座を獲得。このとき小川は同時に世界ジュニアヘビー級の王者でもあり,きわめて変則的な二冠王者になりました。
                                        
 NOAHの旗揚げに参加。こちらでも三沢のパートナーとして無差別級で活躍。三沢とのタッグでGHCタッグ王座も獲得しましたし,2002年にはGHCヘビー級の王座も獲得しています。2005年にGHCタッグ王座を失うと,しばらくタイトルの獲得はありませんでした。2009年の三沢の殉死を経て,無差別級よりもジュニアヘビー級というジャンルの方を中心とした戦いにスイッチ。2020年にGHCジュニアヘビー級の王座を獲得。かつてヘビー級の王座だった選手がジュニアヘビー級の王座も獲得するという,きわめて珍しいケースになりました。GHCジュニアタッグは何度も獲得していますから,GHCの主要タイトルをすべて獲得した選手ということになります。
 小川は今も現役で戦っています。NOAHに入ってから1度だけ長期の欠場があったのですが,それを除くとずっと現役で戦い続けているということになります。身体が小さく,自分よりもずっと大きな選手と戦うことの方がずっと多かった選手ですから,これは驚異的なことに思えます。

 1月20日,金曜日。妹を通所施設へ迎えに行きました。これが今年の最初の迎えです。昨年の暮れに迎えに行ったとき,О眼科で診察を受ける予定だったのですが,妹が保険証とおくすり手帳を持参していなかったために,行くことができませんでした。この日は持参していましたので,診察を受けることができました。この日は散瞳をしての検査もしました。1年に1度は散瞳しての検査を行うとのことでした。ただ,この検査は医師の指示に従って瞳を動かす必要がありますが,妹はそれがうまくできませんから,どの程度まで検査の効果があるのかは不明です。白内障に関しては,右目は変化はないものの,左目はやや進行がみられるとのことでした。いずれは手術をすることになりますが,妹の場合は全身麻酔が必要になるかもしれません。麻酔をすることに影響がないかということについて,本牧脳神経外科の医師に確認をとっておいた方がよいと言われました。この日のО眼科はどちらかといえば空いていましたが,それでも帰宅したのは午後6時35分になりました。
 1月21日,土曜日。ピアノの先生からの電話がありました。翌日のレッスンの開始時刻の通知です。
 1月22日,日曜日。妹のピアノのレッスンがありました。午後4時の開始でした。
 1月23日,月曜日。妹を通所施設に送りました。
 1月27日,金曜日。妹を通所施設へ迎えに行きました。
 1月28日,土曜日。解体工事が終了した隣家の新築工事が始まりました。このとき,下水管が詰まっているのではないかとの指摘を受けました。結論からいうとこれは実際に詰まっていたのですが,この時点では僕の家の排水には何の問題も生じていませんでした。なのでその点については分からないし,現時点では僕が何らかの処置をするつもりはないと答えておきました。後に僕の家の排水に問題が生じることになったので,枡の清掃と下水管の洗浄をしたのですが,そのことについては時系列で説明することにします。この下水管は,僕の家の敷地内を,隣家との隙間沿いに配置してあり,3つの枡があるのですが,下水管自体と枡のうちのひとつは,隣家と共用していたものです。
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続・谷津の雑感②&要因

2023-07-22 19:21:20 | NOAH
 でいったように,谷津がキラー・カーンと同居するようになったのは1980年11月後半のことでした。このとき谷津はすでにデビュー戦が決まっていました。それが12月30日のMSGの大会です。MSGは当時のWWFの最大の会場です。しかもこの試合は,1981年の元日にテレビ朝日で録画放送されることも決定していました。デビュー戦がMSGという大会場で,なおかつそれが日本で放映されるのですから,谷津は新日本プロレスのレスラーとしては異例といえるような特別待遇を受けていたことになります。
 谷津はこの年の10月に会場で挨拶をしたばかりですから,実際にはプロレスの動きというのはほとんどできない状態でした。カーンはこのことを心配して,いろいろなプロレスのアクションをデビュー前の谷津に教えてくれたそうです。とはいえ,同居し始めたのが11月後半で,試合が12月30日ですから,教えるにも限界はあったものと思われます。このために,この動きをリング上でぶっつけ本番でやるのは困難なので,実際にはMSGの大会の前に3試合か4試合はやっていたと言っています。つまり,日本でデビュー戦として紹介された試合は,谷津のデビュー戦ではなかったそうです。相手はカルロス・ホセ・エストラーダという選手で,デビュー前の試合もいずれもこの選手とのシングルマッチだったようです。エストラーダはとてもうまい選手だったので,何とかプロレスの試合としての形にしてもらったと言っています。こういう選手がデビュー戦の相手だったのは,谷津にとってはとても幸運であったといえそうです。
 ここまで特別待遇を受けたのですが,帰国初戦で谷津は血祭りにあげられます。これは1981年6月24日の蔵前国技館での有名な試合。谷津が猪木と組んで,不沈艦黒い呪術師のチームと戦った試合です。とはいえ日本でのデビュー戦でこれだけのカードが用意されていたわけですから,特別待遇であったことは間違いないと僕は思います。契約金が1500万円だったそうで,当時の1500万円は今の1500万円とは価値が違います。それだけ谷津は新日本プロレスに期待されていたのです。 

 5人の職員と5人の利用者が新型コロナウイルスに感染したわけですから,これもクラスターであったといっていいでしょう。ただ,7月にクラスターが発生したときのように,長期間にわたって妹がグループホームに待機することにならなかったのは,あるいはもしそうであったとしたら,通所施設が閉鎖とならなかったのは,それ以上の広がりが見られなかったからだと思います。よってこれは通所施設で発生した2度目のクラスターといえるのですが,その規模としては1回目よりも小さいものであったといえます。
 前回のクラスターのときは,グループホームからも感染者が出ましたから,妹も保健所での検査を受けたのです。今回はその報告を受けていませんから,妹は検査は受けていないと思います。また,通所施設の利用者の全員が3日間で検査を受けてその結果が出たというようには思えませんから,それもなかったのではないかと推測されます。もちろん何らかの症状があった人は検査を受けて,その中には陰性者がいたというケースはあり得たと思いますが,1回目のときほど大規模な検査が行われなかったということは確かだと思います。これは,現状の新型コロナウイルスに対して,1回目のときのような対応は,大袈裟すぎるという面があったからではないでしょうか。
                                   
 新型コロナウイルスは,発生の当初と比較すれば,重症化したりその結果として死亡したりするという割合が減少しました。これは主に3つの要因が考えられます。ひとつは,新型コロナウイルスを発症した患者に対してどのような対処をするべきなのかということが,時間を経ることによって分かってきたということです。もうひとつは,ワクチンの接種などの影響で,新型コロナウイルスに対する一定程度の免疫を有する人が増えてきたという点です。これらふたつの点は人間に関する点です。さらにこれとは別に,新型コロナウイルスそのものに関連する点があります。それは,新型コロナウイルスが変異を重ねていくことによって,人間に対してあるいはこれは人間だけでなく,ウイルスの宿主に対してというべきかもしれませんが、宿主に対して弱毒化したウイルスが優勢になってきたという点です。
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カーンの雑感⑭&カレンダー

2023-07-12 19:02:52 | NOAH
 カーンの雑感⑬でいったように,キラー・カーンが引退したのは40歳のときでした。プロレスラーの40歳は現役バリバリです。ですからこのときには引き留めがあったそうです。引き留めた相手として,カーンはビンス・マクマホンおよびハルク・ホーガンの名前をあげています。現在はWWEで,この当時はまだWWFだったかもしれませんが,そのオーナーがマクマホンでトップレスラーがホーガンです。カーンは大巨人の脚の骨を折ったとされる件で名前を売ることになったのですが,これはWWFでの出来事です。カーンの話が本当であるなら,まだこのときにもカーンとWWFの主力との間には連絡を取るだけの関係があったということになるでしょう。カーンは単に引き留めといっていますが,カーンが語っている文脈からすると,具体的な契約の条件もあったというように推測できます。
 しかしカーンは,自分自身にプロレスを続ける気持ちがなかったので,そうした引き留めはあったけれども,引退を撤回しませんでした。やる気のなくなった人間がリングに上がるのは,ファンに対して失礼であるという気持ちが強かったからだとカーンは言っています。引退の決意に関しては僕にはリアルなものと受け止められないのですが,この部分はカーンの本音であると判断します。それは単にカーンがこのときに引退したというだけでなく,これ以降は1度としてリングに上がることはなかったからです。
 カーンはこのことについて,カーンの雑感②でいった,自分が付き人をしていた吉村道明の名前を出して説明しています。カーンの雑感⑥でいったように,吉村は1973年3月に引退しています。吉村が引退するときに引き留めがあったかどうかは定かではありませんが,そのときの吉村もまだプロレスラーを続けることができる状態,これは身体的状態ですが,そうした状態でした。しかし吉村はその時点での引退を決意し,そのまま2度とリングに上がることはありませんでした。
 カーンのプロレス人生の転機には吉村が大きく影響を与えたのですが,引退するときもそしてしてからも,吉村の生き様はカーンに影響を与え続けたのです。

 ここで週末といっているのはこの週の週末,つまり11月4日以降のことです。翌月の予定というのは,事前にグループホームに提出するのですが,この月はまだ11月の予定を提出していませんでした。これは僕が怠ったということではなく,提出するための書類,これはカレンダーですが,このカレンダーがまだ僕の手元に届いていなかったからです。これは妹を迎えに行ったときに受け取る連絡帳に挟まれているもので,月の半ばから終わりにかけての期間に封入されているのが通例です。ただこの月は10月14日に迎えに行った後,22日に土曜レクリエーションがあったため,21日は迎えに行きませんでした。14日というのは翌月の予定を入れるのには早すぎるので,カレンダーが封入されていませんでしたから,28日に迎えに行ったときにようやく僕が手にすることができたのです。なので11月全般の予定に関しては,この次に送っていくときに同じように連絡帳に挟んでグループホームに届きますが,すでに10月30日になっていたため,11月の最初の週の予定だけは,この段階でグループホームの方で把握しておく必要がありました。このためにその部分だけ教えるようにとの電話があったのです。
 10月31日,月曜日。妹を通所施設に送りました。11月の予定を記入したカレンダーは,この日に持たせたことになります。
 11月4日,金曜日。妹を通所施設へ迎えに行きました。
 11月7日,月曜日、妹を通所施設に送りました。
                                   
 11月9日,水曜日。10月20日に予約を入れておいた新型コロナウイルスのワクチンの接種の日でした。接種したのは3回目のワクチンを接種したのと同じクリニックです。僕は1度目と2度目がファイザー製のワクチン,3度目は武田/モデルナ製のワクチンを接種していましたが,このときはまたファイザー製のワクチンでした。もう接種も4度目で,このクリニックでの接種も2度目でしたから,接種自体は慣れたものです。ただこのときに接種を担当した医師は,活舌が悪くて僕には聞き取ることができなかった部分が何箇所かありました。とはいえ医師の言うことは大体は決まっているので,聞き直すことはしませんでした。
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戸口の雑感⑮&2022年10月の通院

2023-07-05 19:27:24 | NOAH
 戸口の雑感⑭の最後のところでいった仕方がない面というのは,全日本プロレスの組織のあり方と関係します。全日本プロレスという団体はすべてを組織で決定する仕組みになっていたので,たとえジャンボ・鶴田ほどの選手であっても,個人的な意見が受け入れられる可能性はなかったと戸口はみているのです。ただこの当時の全日本プロレスは実質的に馬場がオーナーとしてワンマン経営をしていたのですから,組織での決定というのは,馬場の意向も含まれています。つまり,選手が意見をしたとき,それが馬場の意向に沿うならOKが出ますが,意向に沿わないと受け入れられません。この当時の馬場はまだ自分が第一線を退くということを決意していなかったので,たとえ鶴田や戸口が意見をしても,鶴田の正式なパートナーが戸口になることはなかったというように戸口は考えているのです。
 鶴田が善戦マンといわれていたことを,戸口はこの路線で解しています。鶴田が善戦マンを脱するということが,実は馬場の意向に沿わなかったのだということです。鶴田は仕事としてプロレスをしていましたから,自身がそこを脱したいという思いを強く抱いていたのかどうかは分かりませんが,鶴田が善戦マンであり続けることは,自分が第一線で戦うためには馬場にとって好ましかったのだというのが戸口の見解です。この見解は一理あるのであって,事実そうであったかもしれません。ただ,戸口はアメリカで仕事をしていたときに,大木金太郎の意向で全日本プロレスで仕事をするようになったわけですから,レスラー個人の意向を重視し,組織の決定というのは軽視する傾向が強かったと思われます。したがってこのような見解自体が,戸口のようなレスラーからは生じやすいという一面はあるでしょう。
 戸口が全日本プロレスでの仕事を終え,新日本プロレスに移籍したのは1981年のことです。その頃が全日本プロレスが経営的に最も厳しい時代であったようです。

 10月3日,月曜日。内分泌科の通院でした。
 病院に到着したのは午後2時20分でした。中央検査室では僕の前にひとりの患者が待機していました。先に採尿をしてそれから採血をしました。この日は使用済みの注射針は持参していませんでした。
 診察が開始となったのは午後4時でした。9月の通院のときにいわれていたように,この日は代行の医師による診察でした。
 HbA1cは6.2%でした。これは正常の上限値です。つまり正常の範囲内になったということです。これは僕のHbA1cとしてはかなり低いです。正常の範囲内になったのは,2017年7月以来のことでした。HbA1cの値が下がるのは,ここ数ヶ月の血糖値の値が良好にコントロールされていたからですが,何度もいっているように,僕の血糖値の統御に大きな影響を与えるのは気温です。僕は夏場であろうと冬場であろうと生活自体は変化しません。血糖値に影響を与える要素としての,平均的な食事の量が変化するわけではありませんし,平均的な運動の量が変化するわけでもありません。ですが気温が高いほど血糖値が低下しやすい傾向があります。これは事実そうなのであって,どういうものであるのかは分かりませんが,間違いなく因果関係がある筈です。これは10月の通院ですから,これからは気温は下がっていきます。なので血糖値も自然と高くなっていくでしょう。よって注射するインスリンの量を減じるということはしませんでした。
                                   
 この日は血糖値が63㎎/㎗で,低血糖を示していました。病院の血液検査で低血糖だったのは,7月以来のことでした。
 診察の終わりにインスリンと注射針の処方箋が出されます。これまで僕を診察したすべての医師は,このときに次回の診察までの必要な数量を計算して,僕に在庫を核にした上で処方箋を出します。しかしこのときの代行の医師は,計算はせずに必要な量を僕に尋ねてきました。僕はインスリンに関してはどれくらい必要であるか,つまり1本を何日で使い終えるかの目安は分かっているのですが,針は受け取ったものがどれくらいでなくなるかは分かりません。これは使用する本数と梱包が見合っていないからです。
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天龍の雑感⑯&希望と愛

2023-06-20 19:13:39 | NOAH
 天龍の雑感⑮の最後でいったように,天龍源一郎によるジャンボ・鶴田というプロレスラーについての総評をみていきます。
 天龍は鶴田の基礎として,バスケットボールをあげています。天龍は相撲をやっていたのですが,バスケットボールというのは長時間にわたって走り回る有酸素運動であって,その点で大きな相違があると天龍はみています。プロレスでは長時間にわたる有酸素運動によって培われるようなスタミナは重要ですから,これは的を射た意見であると思います。ただ鶴田のスタミナがそれだけで養われたのかどうかは分かりません。鶴田はその後にレスリングをやるようになり,これはプロレスラーとして大きなバックボーンとなりました。これは格闘技経験という意味でのバックボーンになりますが,やはりプロレスのバックボーンとなる格闘技としては,レスリングが最も優れているのは当然でしょう。
 天龍は,鶴田がそのことで一定程度の自信をもって全日本プロレスに入団したとみています。全日本プロレスに就職するといった鶴田の発言から,こうした自信は鶴田にはあったと僕は思います。この発言は,自分の就職先として最適なのはプロレスラーであるという意味が含まれているように思うからです。
 レスリングはプロレスのバックボーンとしては最適ですが,プロレスそのものではありません。だからすぐにデビューすることができるというわけではなく,プロレスとはどういうものであるかということを学ぶ必要があります。その学習の中で鶴田はプロレスラーというのは自分にとって与しやすい職業であるという感触を得ていったのだと天龍はみています。鶴田には器用さがあって,その器用さがプロレスでも生きました。この器用さというのは,いわばプロレスラーにとって必要な器用さといえると思います。鶴田は若い頃は善戦マンといわれましたが,それは器用さの証明であると天龍は言っています。もしも器用さがなければ,いい試合になるか悪い試合になるかのどちらかであって,善戦マンにはなり得なかったというのが天龍の見解で,これは確かにそうだと思えるものです。鶴田がプロレスラーとして器用に立ち回れる面があったので,対戦相手も試合がやりやすかったのでしょう。

 希望spesは能動actioではあり得ません。したがって,喜びlaetitiaの一種ではあるのですが,有徳的であることができる感情affectusではありません。ただし,第四部定理五四備考にあるように,害悪より利益を齎すことが多い感情なので,スピノザによって絶対的に否定されるということはないのです。よって,現実的に存在するある人間Aが,Bに対して憐憫commiseratioを感じることによって,Bに対して愛amorを感じるようになるとすれば,それは合倫理的であるといえます。これと同じように,もしも現実的に存在するある人間が,希望を感じることによって他人を愛するようになるならば,それもまた同様に合倫理的であるといえることになります。そしてこれらの場合には,その人間は全面的に倫理的であるということができるのです。
 しかしこれとは別の場合があります。
                                   
 第三部諸感情の定義二八の高慢superbiaは,自己愛philautiaの一種とされています。この自己愛というのは,第三部諸感情の定義二五の自己満足Acquiescentia in se ipsoの一種です。したがって高慢というのは喜びの一種であることになります。しかし高慢の定義Definitioから明らかなように,この感情は正当以上に感じられている自分の表象像imagoがなければあることも考えるconcipereこともできない感情,つまり自分についての混乱した観念idea inadaequataがなければ生じ得ない感情ですから,理性ratioから生じるということはありません。いい換えればそれは受動passioです。この定義で自己満足といわれずに自己愛といわれているのは,スピノザは受動的な自己満足についてはそれを自己愛というからです。つまりある感情は自己愛の一種であれば,理性からは生じ得ない喜びであるということになるのです。よって,理性からは生じ得ない喜びであるという点では,高慢は希望に一致します。
 次に,高慢から愛が生じ得ないのかというとそんなことはありません。第四部定理五七にあるように,高慢な人間は追従の徒や阿諛の徒adulatorが現実的に存在することを愛するのですから,自身にとっての阿諛追従の徒については,かれらを愛することになるからです。このとき,それを個別の愛,つまり現実的に高慢であるAという人間がいて,このAの阿諛追従の徒であるBを愛するとき,このAのBに対する愛は合倫理的です。
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