スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

水戸黄門賞&ふたつの契約

2024-06-30 19:14:52 | 競輪
 取手記念の決勝。並びは小林‐坂井‐吉田‐吉沢‐芦沢の関東,脇本‐山口の近畿中部で守沢と松本は単騎。
 芦沢がスタートを取って小林の前受け。隊列が決まるのにかなり時間を要しましたが,6番手に守沢,7番手に松本と単騎のふたりが入って8番手に脇本で周回。残り2周のホームまで動きがなく,誘導が退避するタイミングから小林がスパートして打鐘。脇本は7番手の松本からも離されました。小林の番手の坂井は車間を開けていたのですが,残り1周のホームではそれが詰まってしまい,そのまま番手から発進。このラインの後ろを回っていた守沢は,最終コーナーで吉沢をどかして吉田の後ろに。直線に入ってから踏み込んだ吉田がそのまま抜け出して優勝。最後は吉田マークとなった守沢が1車身半差で2着。脇本がバックの入口手前で浮いてしまったので,そこから自力に転じて捲り追い込んだ山口が4分の1車輪差で3着。
 優勝した茨城の吉田拓矢選手は5月の小田原のFⅠを優勝して以来の優勝。一昨年9月の青森記念以来となる記念競輪6勝目。取手記念は初優勝。このレースは関東勢が5人で並びましたから,そこから優勝者が出ることが濃厚。吉田が優勝したので作戦が失敗したとまではいいませんが,同じラインから2着も3着も出せませんでしたから,成功したともいい難い面はあります。吉田自身は今年は好調で,FⅠでも4度の優勝があり,日本選手権でも決勝に進出しています。今はその好調を維持している状態で,それがこの快勝に結び付いたものでしょう。近況だけでいえば今後ももっとやれるのではないかと思います。

 現実的に存在する人間がDeusと契約pactumを結んだとしても,その人間は自然権jus naturaeを放棄したわけではないので,その契約に従わないこともできます。いい換えれば,神を愛さずに生きていくこともできますし,隣人を愛さずに生きていくこともできるのです。ただこの契約は,その契約に基づいて生きた方がよいことを人に教え,その人がそれを内面化する限りでは,その人は確かにその契約に従い,神を愛しまた隣人を愛するように生きていくことになるでしょう。
 このことから分かるように,この契約は神が現実的に存在するある人間と個別にする契約です。社会契約はそのようなものではなく,国民全体の自然権を社会societasに,たとえば国家Imperiumに委託する契約です。このために,神との契約と社会契約は矛盾することなく両立するとスピノザはいいます、そしてこのとき,社会契約は至高の力potentiaですから,力の強度を比較するなら,社会契約は神との契約を上回ることになるでしょう。よって社会契約によって形成された社会は,その社会自体が神との契約を無視するだけの力をもつことになります。つまり社会は神を愛さないこともできますし,隣人を愛さないこともできるのです。ただし,そうすることによって危険や損害が発生するのであれば,その危険も損害も社会で引き受けなければならないことになります。したがって,神との契約を内面化している市民Civesが多ければ多いほど,社会がその契約を無視することによって生じる危険も損害も,その分だけ大きなものになるでしょう。
                                        
 つまり,神との契約と社会契約は,実際には相互に規定し合う関係を保ちながら現実社会を構成していくと考えなければなりません。これが國分がいう社会契約の二重化が具体的に意味するところです。社会契約によって生じる至高の権力は,人びとの信託を得てはいます。だから社会は宗教religioについても様ざまな規定を行うことができますし,社会の構成員はその規定に従わなければなりません。しかし神との契約は,至高の権力がその個々の信託関係を破らないように命じています。ですからふたつの契約は,表面的には対立するのですが,補い合いながら円環を構成し,他方の独走を阻止し合うのです。
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印象的な将棋⑲-9&二重化

2024-06-29 19:25:36 | ポカと妙手etc
 ⑲-8までの検討から明らかになったように,⑲-2の第2図で後手が☖4六歩と銀を取れば,細い道筋ではありますが後手に勝ちがあるということは分かりました。ただ実戦は後手はこの勝ち筋に進むことができず,☖5四同銀と取っています。
                                        
 この手を境に局面は先手の勝ちになりました。ただこれも難しい手順です。
 まず第1図では,☗6四角と打つ手が目につきます。これは飛車取りなので☖7二飛と逃げる一手。そこで☗3一角成と金取りに成っておきます。
 その局面で後手が窮しているようなのですが,☖4三玉と逃げる手があります。
                                        
 第2図になると後手玉がどうしても寄らないのです。先手は最初はこの手順を読んでいたようですが,第2図に進むと勝てないと判断し,修正手順に進めました。それが正しい修正だったので,局面は先手の勝ちが続くことになります。

 國分が指摘しているふたつのポイントとは,社会契約の二重化と社会契約の具体化です。それぞれ何を意味しているのかをみていきます。
 まず,社会契約の二重化というのは,宗教的な観点からなされています。たとえば現実的に存在する人間が神Deusの法lexに服従するというとき,神の法に服従しなければならないことをその人間は生まれついて知っていたわけではありません。そもそも自然状態status naturalisというのを想定するなら,そこには単に法がないというだけでなく,宗教religioもまたないといわなければならないからです。つまり,何らかの宗教状態というのを僕たちに想定するのであれば,自然状態はその宗教状態に先行することになります。したがって,もし宗教状態において人間が神に服従するというなら,それは神との契約pactumによって服従するといわれなければならないことになります。ホッブズThomas Hobbesの社会契約論はこうしたことまで想定しているとはいえないと僕は考えますが,もしも社会契約という概念notioを導入するのであれば,自然権jus naturaeを放棄することが契約であるというのと同じように,神に対する服従obedientiaも契約でなければならないとスピノザは主張するのです。よってこの契約によって,人びとは自らの自由libertasを譲渡する,あるいは同じことですが,自身の権利を神に譲渡することによって,宗教状態が成立することになります。これは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』では第十六章の十九節で探求されています。
 ただし,スピノザは自然権を放棄することはできないと考えているのですから,この場合もそれと同じように考えなければなりません。そうではなく単に神と契約を結んだ人間が,道義心pietasに従うようになったということを意味します。あるいは,自然権を発揮する力potentiaを自制するべき場面があることを理解したというほどの意味です。スピノザにとっての宗教というのは神への服従を意味し,具体的には神を愛するということと隣人を愛するということを意味するということは,すでに別の考察で何度もいってきたことです。したがって,現実的に存在する人間が宗教状態において神と契約するとは,神を愛するということと隣人を愛するということをその人間が内面化するという意味です。
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金丸義信&弁証法的展開

2024-06-28 19:01:01 | NOAH
 秋山準がNOAHを退団して全日本プロレスで仕事をするようになったとき,潮崎豪と同様に秋山についていった選手の中に金丸義信がいます。
 金丸は全日本プロレスに入団した選手です。高校時代は野球部に所属。春の甲子園に出場しています。全日本プロレスは日本武道館大会でサインボール投げをしていたのですが,金丸は高校時代の経験を生かし,2階席までサインボールを投げていました。僕はその時期の武道館大会はほとんど観戦していましたので,その当時は試合よりもその印象の方が強いです。
 デビューしたのは1996年7月。入門から1年半後のことでこれはかなり時間を要した方でしょう。全日本時代は小橋建太の付き人を務めていたことから小橋率いるバーニングに入り,後に秋山率いるスターネスに移りましたが,目立った実績は残せませんでした。
 NOAHの旗揚げと共にNOAHの所属選手に。2001年6月にGHCジュニアヘビー級の王者決定トーナメントに優勝。初代の王者になりました。この前にWEWタッグの王者にはなっているのですが,ビッグタイトルはこれが初。NOAHもヘビー級は無差別級という意味ですが,金丸はずっとジュニアヘビー級を主戦場に戦い続けました。2002年にIWGPジュニアタッグの王者になっていて,GHCジュニアタッグの王者にも2005年6月に就いています。このときはジュニアヘビーの王者でもありましたから,二冠になったことになります。
 2012年にNOAHを退団。全日本プロレスでも世界ジュニアヘビー級王者になっています。
 2016年に一旦はNOAHに復帰したのですが,所属選手にはならず,鈴木みのる率いる鈴木軍に加入。この間にまたGHCジュニアヘビー級の王者になっています。この年の暮れまでで鈴木軍はNOAHから撤退。それと共に金丸もNOAHでの仕事から離脱。それ以降は新日本プロレスで仕事をしています。
 NOAHのジュニアヘビー級では最も実績を残した選手ですし,NOAHのジュニアヘビー級では最強の選手だったと僕は思っています。

 『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』は社会契約論を利用して国家Imperiumの成り立ちを説明しているので,必然的な帰結として強権的な国家が出現することになると僕は考えています。ただ國分は,このことは『神学・政治論』の中でも解決されていないわけではないと指摘しています。ただその指摘を検討してく前に,次のことをいっておきます。
                                   
 そもそもスピノザは,国家が強権的な力potentiaで市民Civesを支配する政治形態を,好ましいものと考えていません。むしろスピノザが『神学・政治論』を書いたのは,そのような統治形態を否定しようとするためでした。このことは『神学・政治論』の冒頭から明らかなのであって,そこでは,哲学する自由libertas philosophandiを認めても道徳心や国の平和paxは損なわれないし,むしろ哲学する自由を踏みにじることによって,国の平和や道徳心も必ず損なわれるということを示した論考から『神学・政治論』は書かれているという意味のことが書かれています。つまりスピノザは哲学する自由を守ろうとしたのであって,それは現実的に存在する人間が自由に思考する権利jusを守ろうとしているというのと同じです。この頃のオランダはそうした自由あるいは権利が危機に晒されつつあったから,あるいは現に晒されていたから,スピノザは『神学・政治論』を書いたのであって,強権的な国家の正当性を保証しようというような気はスピノザには少しもなかったのです。
 すでに示したように,『神学・政治論』の第十六章の冒頭で,スピノザは自然法lex naturalisに基づく自然権jus naturaeを考察しました。それは宗教religioについて考えるのであれ,国家について考えるのであれ,その前提として自然権を考察する必要があるとスピノザが考えていたからです。その後にスピノザは社会契約論を導入して国家の成り立ちを説明し,結果的にこの章の中で,強権的な国家が出現することを結論付けています。しかし國分は,スピノザはこの結論を出した後で,次の第十七章にかけて,契約pactumという概念notioの弁証法的な展開をしているといっています。この國分がいう契約の弁証法的展開によって,スピノザ自身が社会契約論からの帰結事項を覆そうとしているのだと國分はみているのです。そしてそのポイントをふたつあげています。
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農林水産大臣賞典帝王賞&社会契約論の帰結

2024-06-27 19:21:06 | 地方競馬
 昨晩の第47回帝王賞。マースインディは藤田凌騎手から笹川騎手に変更。
 ディクテオンは発馬後の加速が鈍く,発馬後の正面ではほかの馬たちから離されました。逃げたのはライトウォーリアで2番手にバーデンヴァイラーとキングズソード。4番手にグランブリッジとウィルソンテソーロ。6番手にサヨノネイチヤ。7番手にノットゥルノ。ディクテオンはその後ろまで追いついてきました。9番手にセラフィックコールとメイショウハリオ。3馬身差でトランセンデンスとヒロイックテイル。3馬身差の最後尾にマースインディ。前半の1000mは63秒8のミドルペース。
 3コーナーではライトウォーリアとバーデンヴァイラーが併走に。外を回って追ってきたのがキングズソードで内を回って追ってきたのがグランブリッジ。ウィルソンテソーロとノットゥルノがその後ろから。直線の入口では前の2頭の外を回ったキングズソードが単独の先頭に。ウィルソンテソーロが追って2番手に上がりましたが,この2頭の差は詰まらず,直線先頭のキングズソードが優勝。ウィルソンテソーロが1馬身4分の1差で2着。大外から追い込んできたディクテオンが1馬身差で3着。
 優勝したキングズソードJBCクラシック以来の勝利で大レース2勝目。そのときは重賞未勝利での優勝。その後の3戦は5着,5着,4着でしたが,大きく離されていたわけではありませんので,巻き返しは可能と思われました。思いのほかペースが上がらなかったので,先行したこの馬に有利になった面はあったと思います。距離も本来はもっとあってもいいというタイプなのかもしれません。母の父はキングヘイローアストニシメントエベレストの分枝で8つ上の全兄に2017年のプロキオンステークスを勝ったキングズガード
                                        
 騎乗した藤岡佑介騎手はフェブラリーステークス以来の大レース5勝目。帝王賞は初勝利。管理している寺島良調教師はJBCクラシック以来の大レース2勝目。

 ホッブズThomas Hobbesの社会契約論は,社会societasを構成する人びとが自らの意志voluntasで自然権jus naturaeを放棄し,それを社会に委ねることになっています。したがって社会が有する自然権は膨大で,社会を構成する人びとが有する自然権は皆無です。このために社会は社会を構成する人びとに対して,どのようなことでも命じる権利を有することになります。つまりホッブズの理論で社会が現実的に成立するとすれば,その社会はきわめて強権的な社会であることになります。
 スピノザの理論がこのような社会が成立することから逃れているのかといえば,そんなことはありません。これが問題として残されます。というのも,スピノザの考え方では自然権は放棄することができない権利ですから,社会を構成する人びとにもそっくりそのまま残されているでしょう。これはスピノザ自身が書簡五十でいっていることであり,スピノザはそこで間違ったことを伝えているわけではありません。しかし自然権が放棄できないものであるとすれば,社会というのは.その諸個人の権利をまとめて所持する人びとの集合体を意味し,かつ人びとはその権利の執行を社会に一任することになるのですから,その社会の権力はどのような法lexにも縛られないし,人びとはその権力に従わなければならないということになるでしょう。つまり出現する社会,これは国家Imperiumといってもいいですが,その現実は,ホッブズが示しているものとそう大差はない,もっといえばほぼ同じであることになります。
 スピノザのように自然権を放棄できないものと規定したとしても,結局のところ国家が至高の権力を有して,市民Civesに対してどのようなことでも命じることができるようになってしまうのは,僕の考えでいえば,社会契約論を引き継いだことによる必然的な帰結です。つまり,もしも社会契約論を用いて社会の成立を説明すると,社会契約論をどのような仕方で用いるとしても,必然的にnecessario強権的な社会が出現することになるのだと僕は考えます。スピノザは後の『国家論Tractatus Politicus』では,社会契約論をまったく使用せずに国家を説明していますが,それは,社会契約論を用いた説明の必然的な帰結を避けるためではなかったかと僕は考えています。
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カトリック批判&反復

2024-06-26 19:07:39 | 歌・小説
 『生き抜くためのドストエフスキー入門』の第二章は『白痴』です。『白痴』ではムイシュキン公爵がカトリックのことを激しく批判する場面があります。なぜムイシュキンがカトリックを批判しなければならなかったのかということを,佐藤が詳しく解説しています。
                                        
 『白痴』のムイシュキンによるカトリック批判の要旨は,カトリックは無神論よりも悪いというものです。そしてその理由としてムイシュキンがあげているのは,無神論はただ無を説くだけだけれども.カトリックは歪められた神を説くからだというものです。ムイシュキンによればローマカトリックは信仰ですらなく,西ローマ帝国の継続にすぎず,そのゆえに民衆の大部分は信仰を失い始めています。佐藤が説明しているのは,なぜムイシュキンがこのような仕方でカトリックを批判するのかという点です。
 佐藤はその理由を,ローマカトリックとロシア正教における神と人の関係の捉え方の相違にあるとしています。ごく簡単にいうと,ローマカトリックにおける救済というのは神から人間に対する一方的な恩寵であり,この恩寵はイエスを通して神から人間へと降りてきます。これに対してロシア正教では,人間が神になるということが究極の目標とされます。つまり現実的に存在する一人ひとりの人間がすべて神になることができるということが,ロシア正教の中心的な教義なのです。
 ここでムイシュキンが,ローマカトリックが西ローマ帝国の継続にすぎないといっている点も重要です。西ローマ帝国を継続しているのは,カトリックだけでなくプロテスタントも同様であるというようにロシア正教からはみえるからです。この部分ではムイシュキンはロシア正教をロシアの国家宗教とみていて,ロシアと一体化させています。この路線でいえばロシアは西ローマ帝国の継続ではなく,東ローマ帝国,ビザンチン帝国の後継帝国で,キリスト教的東洋なのです。つまりここには西洋と東洋の対立が含まれていて,この対立は現在まで続いているといえるでしょう。

 ホッブズThomas Hobbesの理論では,自然状態status naturalisは万人の万人に対する闘争状態であるから,その状態を回避するために,万人が自然権jus naturaeを放棄することによって社会契約を結ぶということになっています。したがってこの契約pactumは一回性のものであることになります。しかし,そのような社会契約が本当に存在したのかという疑問や,自然状態において万人がそのような契約を締結するのが可能なのかという疑問は出てきます。僕はそもそも自然状態などというものが存在しなかったと考えますから,ホッブズの理論が有益であるとすれば,社会societasの成立を理念的に説明するのに役立つというように解しますから,このような疑問を呈したりはしませんが,もしもホッブズの理論が,現実的に存在する社会の成立をそのまま説明するものであると解すれば,その社会契約論がこのような批判にさらされることになるのはごく当然のことだとは思います。
 このような批判が出てくるのは,そもそも自然権を放棄するということが不可能なのに,それを可能なものと前提しているからだというのは,ひとつの見解opinioとして出てくるでしょう。スピノザの国家論はその観点からホッブズの国家論を修正したものだといえます。このためにそこでは,ホッブズの社会契約が一回性のものであるのに対し,スピノザの社会契約はいわば反復されるものとして提示されることになります。つまり何らかの社会契約が締結されているということが,現にその社会契約が履行されているということによって保証されるというようになっています。そしてこのようにすれば,少なくともその社会契約を履行している人びとが,その社会契約を締結している集団,たとえば国家Imperiumの中で生きているという現実を説明することができるでしょう。少なくともホッブズの社会契約論は,集団たとえば国家の始原となるような,絶対的な起源の説明でしかないのに対し,スピノザが引き継いだ社会契約論が,そのようなもの,國分のことばを借りれば,神話的なものとなっていないことは理解できると思います。
 ただし,このような仕方で社会契約の理論を引き継いだとしても,なお解決しなければならない問題は確実に残ってしまうのです。
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中野カップレース&矛盾

2024-06-25 19:00:00 | 競輪
 久留米記念の決勝。並びは新山‐菅田‐阿部の北日本,松浦‐田尾の中四国,伊藤‐嘉永‐山崎の九州で森田は単騎。
 菅田と阿部がスタートを取りにいって新山の前受け。4番手に松浦,6番手に伊藤,最後尾に森田で周回。残り3周のバックから伊藤が前との車間を開け始めると,新山も誘導との車間を開けて対応。残り2周のホームに入って伊藤が発進すると新山も突っ張って先行争い。バックで外から伊藤が叩き,森田も4番手に続いて打鐘。5番手に新山,8番手に松浦という一列棒状に。ホームから松浦が発進していきましたが,前に届く前にバックで嘉永が番手捲り。このラインに続いていた森田が単騎で発進。嘉永と森田の競り合いは森田が制して前に。嘉永マークの山崎は森田にスイッチ。このあおりで追い上げてきた松浦が外に浮いてしまい,内に戻ろうとしたところで菅田と接触して菅田は落車。単独の先頭で直線に入ってきた森田を,スイッチした山崎が楽に差して優勝。森田が半車身差で2着。松浦マークから直線で伸びた田尾が4分の3車身差で3着。
 優勝した長崎の山崎賢人選手は昨年4月にいわき平のFⅠを優勝して以来の優勝。2018年の取手記念以来となる記念競輪2勝目。2018年というのはまだ新人選手賞の権利があった頃で,そのカテゴリーの選手が記念競輪を制するというのはなかなかの快挙なので将来に期待していました。その後は大きな実績を残せていなかったのですが,競技を中心に。今年の競輪の初出走がこの開催でしたから,競技に集中したことがプラスに作用したのではないかと思います。この開催のレースをみると,以前よりも器用に立ち回れるようになったという印象なので,また競輪でも注目できるのではないでしょうか。嘉永は展開は絶好でしたが,捲って出たときのスピードがいまひとつで,そこは課題でしょう。森田はいいレースをしたと思いますが,現状は力で山崎に及ばないということなのではないでしょうか。

 自然権jus naturaeを放棄するということと,自然権を自制するということが同じ意味になってしまっているということは,ホッブズThomas Hobbesの『リヴァイアサンLeviathan』における議論に該当させると,設立によるコモンウェルスと,獲得によるコモンウェルスとが混同しているということであると國分は指摘しています。僕はここではホッブズの国家論について考察するつもりはまったくありませんから,國分がそのように指摘しているという以上のことは何もいいません。それがホッブズの探求に照合させたときに妥当なものであるのかないのかということに関心がある場合は,ご自身でお考えになってください。いずれにしても,放棄することができない力potentiaを放棄せよということをホッブズがいっているのは事実なのであって,その点でホッブズの議論に曖昧さが残ってしまっているのは間違いありません。もし自然権に対して人びとがなし得ることが,その力の行使を自制するということだけだとなると,たとえ国家Imperiumが成立したとしても,その国家の成員が自然権を行使してしまう可能性が残ることになります。これはホッブズがいうところの自然状態status naturalisにほかならないのであって,国家の状態においても万人の万人に対する闘争状態が解消されていないことになります。
                                        
 ホッブズはこのことを恐れていて,スピノザはその矛盾を見逃さなかったと國分はいっています。ホッブズが自身の議論の曖昧さを恐れていたかどうかは何ともいえませんが,スピノザがそこに矛盾があることを見抜いたのはその通りだといえるでしょう。
 この矛盾から目を背けないということは,各人が自然権を放棄することはできないということを前提として国家論を構築するということです。ですからスピノザは,自然権に反することなく社会societasが作られることを目指します。いい換えればそれは,ホッブズが指摘したこと,すなわち法lexの概念notioと権利の概念を分けなければならないということに従いつつ,その概念をホッブズとは違った仕方で,國分のいい方に倣えばホッブズよりも上手に扱って,より整合的な解釈を提出することになるのです。
 このことによって最も影響を受けるのは,社会契約の概念であることになります。
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書簡十一&放棄

2024-06-24 19:07:48 | 哲学
 書簡十三は書簡十一への返信です。当然ながらこちらはオルデンブルクHeinrich Ordenburgからスピノザに宛てられたもの。1663年4月3日付で遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。
                                        
 手紙の前半部分,というかこれは中心部分ですが,この部分はロバート・ボイルRobert Boyleからスピノザへの返事になっています。スピノザがオルデンブルクに宛てた書簡六の中で,スピノザはボイルに対して数々の疑問を投げ掛けていたのですが,それに対するボイルからの返信ということです。ただ,スピノザとボイルの間では,哲学的な立ち位置が異なりますので,この返信がスピノザを納得させられるものであったかどうかは疑問です。いくらボイルが自身の硝石に関する実験の正当性を主張したとしても,スピノザの中心的な関心はそこにあったわけではなかったと思われるのです。
 このことに関連してはこの部分の冒頭で,ボイルは硝石に関する哲学的な分析を試みることにあったわけではなく,スコラ学派で受け入れられている通俗的な学説が薄弱な基礎の上に立っているということと,諸物の間にある種差は部分の大きさ,運動motusと静止quies,位置に帰せられることを示すためであったといわれています。つまり,何か正しい哲学的分析の結論を出すということを意図しているわけではなく,単に現に受け入れられている哲学的基盤は,実際には基盤として怪しいということを示す意図であったということです。たぶん現に受け入れられている基盤が怪しいということはスピノザも同意すると思いますが,では実際の基盤が何かということはスピノザには明らかだと思えていたので,それを導こうとしないことには不満を抱いたのではないでしょうか。
 後半はオルデンブルクからスピノザに対する質問ですが,これはスピノザの著作が完成したかどうかを問うものにすぎません。この著作は『短論文Korte Verhandeling van God / de Mensch en deszelfs Welstand』か『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』ですが,畠中はその両方を示しているという主旨の訳注を付しています。

 ホッブズThomas Hobbesがいう自然法lex naturalisは,社会契約という形で現実化されることになっています。この点に関しても,ホッブズがそれを理念的に考えていたのか,それとも人類の歴史が現にそういうものであったと解していたかは分かりません。僕はそもそもホッブズがいう自然状態status naturalisというのが人類の歴史の中で存在したと考えないので,これは理念的にしか解することができません。自然法はあるいは社会契約は,人間が自然状態を脱却するために現実化されるものですから,脱却するべき自然状態が存在しなかったのなら,そこから脱却するために社会契約を締結する必要性もなかったということになるからです。ただホッブズの政治理論では,あるいは国家論では,人びとは自らの意志voluntasで自然権を放棄して,共通の権力を設立するための契約pactumを結ぶということに,事実としてなっています。
 僕がそれをどのように解しているのかということから分かるように,たとえこれを理論的なものとだけ解するにしても,大きな難点を抱えています。この難点を國分は別の角度から説明しています。ホッブズがいう自然権が,どんなことでも行うことができる自由libertasであるというなら,この自然権は個々の人間に与えられている力potentiaそのものと解するほかありません。一方で自然法が教えているのは,この自然権を放棄することとなっています。ここで放棄するというのは,たとえば手にしている武器を捨てて使えないようにするという意味です。しかし,たとえば武器を捨てるのと同じように,自然権を捨てることができるのかといえば,そんなことができるわけがありません。武器と違って自然権は個々の人間に属する力のことだからです。武器は捨てることができますが,力は捨てることができません。できるとすれば,力を使用しないということ,すなわち自制するということだけです。
 ここから分かるように,ホッブズは実際には捨てることができないものを捨てるように自然法が命じているといっているのです。他面からいえば,力を自制するということを力を放棄するといっているのです。つまり自制と放棄を同じ意味で使用しているという点で,この論理には不徹底なところが残っています。
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宝塚記念&自然法

2024-06-23 19:11:25 | 中央競馬
 第65回宝塚記念
 好発はベラジオオペラで一旦は先頭に。しかし外からカラテが上がってくると控え,発馬後の正面のうちにカラテが先頭に。さらに外からルージュエヴァイユも上がってきて,1コーナーから2コーナーに掛けてカラテの前に出て,ここからはルージュエヴァイユの逃げに。こちらも外を進出してきたプラダリアが2番手となり,カラテ,ベラジオオペラの順に。2馬身差でヒートオンビートとディープボンド。1馬身半差でシュトルーヴェとジャスティンパレスとソールオリエンス。ローシャムパークを挟んでヤマニンサンバとドウデュースとブローザホーンが最後尾を併走。3コーナーでは先頭から最後尾までが7馬身くらいに凝縮するレースになりました。最初の1000mは61秒0の超スローペース。
 3コーナーからルージュエヴァイユから離れた外をプラダリア,向正面で掛かり気味に上昇していったローシャムパーク,外に出したベラジオオペラの3頭が併走。直線の入口ではルージュエヴァイユとプラダリアとベラジオオペラの3頭の雁行になり,ローシャムパークは4番手に。その外からブローザホーン。前の3頭の競り合いからはベラジオオペラが抜けて一旦先頭。大外からブローザホーンがそれを差して優勝。ベラジオオペラとブラダリアの競り合いの外から伸びたソールオリエンスが2馬身差で2着。一旦先頭のベラジオオペラがクビ差の3着でプラダリアがクビ差で4着。
 優勝したブローザホーンは日経新春杯以来の勝利で大レース初制覇。未勝利を勝つのに苦労した馬なのですが,1勝してからはきわめて安定した成績を残していて,日経新春杯を勝った後も阪神大賞典が3着,天皇賞(春)が2着と,大レースにも手が届きそうなところまで来ていました。どちらかといえば距離が長いところで活躍してきた馬ですから,各馬が外を回るような馬場状態になったことはプラスに作用したでしょう。ただ,スローペースで上りが早い競馬を突き抜けていますので,むしろこのくらいの距離の方が適性が高かったという可能性もありそうです。父はエピファネイア。母の父はデュランダル。6代母がパテントリークリアの4代母にあたる同一牝系。
 騎乗した菅原明良騎手はデビューから5年3ヶ月で大レース初勝利。管理している吉岡辰弥調教師は開業から4年3ヶ月で大レース初制覇。

 先走って僕のこれまでの考察に合わせて探求しましたが,國分はこのことについても詳しく説明しています。それもみていきます。
                                        
 スピノザはホッブズThomas Hobbesと自身の違いを,自然権jus naturaeに対する考え方として説明しています。この説明から分かるように,自然権という概念notioをホッブズも有していました。というか,自然権を権利の概念として最初に発見したのはホッブズであったといっていいでしょう。それをホッブズは端的に,どんなことでも行う自由libertasと規定しています。つまり現実的に存在するある人間が自然権を行使するというのは,その人間に自然Naturaが与えた力potentiaをその人間の思うがままに発揮する権利のことです。よってこの権利は社会societasの法lex制度の枠内に収まるものではありません。むしろそれを超過するでしょう。このためにホッブズは,法という概念と権利という概念を分けて考えなければならないと主張したのです。
 前もっていっておいたように,スピノザはこのホッブズの規定についてはそのまま引き継いでいるといって差し支えありません。差異が出てくるのはその先です。
 ホッブズは自然権が何らの規制も受けずに発揮される状態のことを自然状態status naturalisといいます。このような状態が人類の歴史の中で実際に存在したとは僕は考えませんし,ホッブズがそれをどう考えていたかも分かりませんが,とりあえず理念型としてそのような状態を拵えて,それを自然状態と規定したとここではいっておきます。ホッブズにとっての自然状態は,戦争状態と同じことを意味します。いわゆる万人の万人に対する闘争状態のことです。しかしこの状態は大きな矛盾を抱えています。というのも,第三部定理六のようなコナトゥスconatusをホッブズが現実的に存在する人間に対して認めるかどうかはともかく,現実的に存在する人間は自身の身の上の安全を第一に考えなければならないのに,自然状態はそれと大きく矛盾する状態,要するにだれもが自身を危険に晒している状態であるからです。このことから,現実的に存在する人間は,自身の安全のためにむしろ自然権を放棄しなければならないという考え方が出てくることになります。それをホッブズは自然権に対して自然法lex naturalisというのです。
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藤井聡太はどこまで強くなるのか&ふたつの意味

2024-06-22 20:36:18 | 将棋トピック
 『藤井聡太論 将棋の未来』を書いた谷川浩司が翌年に出版した藤井論が『藤井聡太はどこまで強くなるのか』です。こちらも前のものと同じく,講談社+@新書から出版されました。翌年といいましたが,前のものが2021年5月の出版で,こちらは2023年1月です。僕が翌年といったのは,谷川によるあとがきが,前者は2021年4月で後者は2022年12月になっているからです。
                                        
 こちらの本の副題は「名人への道」です。つまり藤井はまだ名人は獲得していません。このときは竜王,王位,叡王,王将,棋聖の五冠でした。順位戦はA級で,この後に挑戦者決定戦を制して挑戦権を獲得。名人を奪取することになるのはご承知の通り。名人奪取の前に棋王を獲得し,名人を奪取した後には王座も獲得。先日叡王を失陥しましたが,全冠制覇を達成しました。
 副題から分かるように,この本は名人戦に焦点を当てています。谷川は藤井が名人を獲得するまで,最年少で名人を獲得した棋士でした。この本が書かれている頃は藤井はA級で名人への挑戦権を争っていて,挑戦者になる可能性がありました。もしも挑戦して名人を奪取すると,谷川の最年少記録が更新されることになります。そういう時期であったからこそこうしたものが書かれる意義があったといえるでしょう。もちろん名人戦に焦点を当てているということは,谷川自身が戦った名人戦のことも書かれていますし,谷川以前の名人戦のこと,また谷川と藤井の間のことについても書かれています。
 一方,タイトルから分かるようにこれは藤井聡太論でもあります。ですから藤井はまだ名人にはなってなかったわけですが,藤井についても多くのことが書かれています。2021年4月に藤井聡太論を書き終えて,2022年12月にこちらが書き終わっているわけですから,谷川の藤井に対する見方が大きく変わっているわけではありませんが,いくらかの変化があります。また,第四章では藤井に勝つための戦略という観点からの記述があり,こちらは藤井に対抗しようとする棋士に焦点を当てたものとなっています。

 スピノザは書簡五十の冒頭で,ホッブズThomas Hobbesの国家論と自身の国家論の相違について,自然権jus naturaeという観点から説明していました。それは具体的には,ホッブズは自然権を国家Imperiumのうちにそのまま残していないけれど,スピノザはそれをそっくりそのまま残しているということです。自然権をそっくりそのまま国家においても残すということが何を意味しているのかということは,ここまでの國分の説明から明瞭になるでしょう。それは,自然権は人間に与えられている力potentiaと過不足なく重複しているので,国家においてもそれ自体でそれを制限することはできないし,それ以上のことを要求することもできないということです。つまりここにはふたつの意味が含まれているといえるでしょう。過不足ない力を不足させることもできないし増大させることもできないというふたつの意味です。
 たとえば陸の上を自由に歩き回ることができるひとりの人間と,水中を自由自在に泳ぎ回ることができる一匹の魚がいると仮定しましょう。社会societasの法lex制度は,その人間が歩き回る力をそれ自体で制限することはできません。もちろんそれを罰するということはできますし,一方でこの人間はそういう力を自然権として与えられているからといって常に歩き回るというものではありません。しかしこの力が与えられているのであれば,その力自体を制限することができないのです。また,この人間が魚のように自由に水中を泳ぎ回るような力を付与することはできません。法制度がそういう権利をその人間に与えるということは論理上はできますが,現実的にそのような力を与えることはできません。したがって,もしそうした権利を行使するようにその人間に要求するとすれば,それは無理なことを要求していることになります。なのでそうしたことを要求することは現実的にはできないということになります。
 ここではひとりの人間が陸の上を自由に歩き回ることができるという仮定で説明しましたが,現実的に存在する人間に与えられている力すなわち自然権は,いうまでもなくこれだけに留まるものではありません。そうしたすべての自然権あるいは力に,ここで説明したことがすべて妥当するのです。
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叡王戦&自然の法

2024-06-21 19:04:14 | 将棋
 甲府で指された昨日の第9期叡王戦五番勝負第五局。
 振駒で先手となったのは藤井聡太叡王で,角換わり相腰掛銀。先手が穴熊で後手の伊藤匠七段が右玉という戦型になりました。先手がうまく仕掛けて中盤はリードしたのですが,攻めた方がよいところで受けに回ったため,終盤は白熱の攻防になりました。
                                        
 ここで☗6四桂と打ったのですが,これが最終的な敗着になったようです。☖8八金☗同龍☖7八金で先手玉は受けなし。後手玉を詰ましにいくほかありませんが,7八の金を入手できても後手玉が詰まず,後手の勝ちになりました。
 第1図は☗5五桂と王手をしてしまうのが有力のようです。引いてしまうと桂馬の王手があるので☖3三玉と寄るのですが☗3四金☖2二玉に☗2四歩と打っておくと,駒が入手できれば後手玉が詰む形に持ち込むことができるので,まだ将棋は続くことになりましたし,もしかしたら先手が有望だったかもしれません。
 3勝2敗で伊藤七段が叡王を奪取。プロ棋士になって3年8ヶ月で初のタイトル獲得となりました。

 社会societasの法lex制度によって決定されたのではない権利jus,つまりスピノザがいっている自然権jus naturaeがどのような権利であるのかといえば,それは社会の法ではなく自然の法lex naturalisによって決定されている権利ということになります。ただ,自然の法は自然のうちにあるすべての個物res singularisに適用されることになります。僕はそれをライオンの自然権といった仕方で説明したことがあります。『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』においては,魚が水中を存分に泳ぎ回るのも,大きな魚が小さな魚を食べるのも,至高な自然の権利によっているといわれています。つまり現実的にいわれる自然権も,たとえば魚が水中を存分に泳ぎ回るような権利として,与えられている権利であると解する必要があります。
 このことから一目瞭然であるように,同じように決定されているのであっても,社会の法によって決定されているといわれるのと,自然の法によって決定されているというのとでは,同じように決定されているといわれるのでも意味合いに大きな差異があります。社会的な法制度においては,それが適用される人びとのpotentiaとは独立していますから,ある人間はそれをすることが可能であるけれどそれをしないとか,それをすることが法制度によって許可されていない,あるいは罰せられるというような場合があるのですが,自然の法の下においてはそのようなことはあり得ません。むしろ,現実的に存在する人間が,あるいはもっと広く,現実的に存在するすべての個物が,否応なしにそれに沿って作用しなければならないような法が,自然の法であるからです。いい換えればそれは,この自然の法の下にあるすべての個物の力に等しく一致しているといわなければなりません。たとえば魚は人間にはできないような仕方で水中を自由自在に泳ぎ回るわけですが,それは陸の上を歩き回ることができるけれどもそうはせずに水中を泳ぎ回っているとか,魚には陸の上を自由に歩き回ることが許可されていないあるいはそれをすれば罰せられるいうわけではないからです。つまりこれが魚の自然権であるというなら,魚の自然権は魚の力そのものです。よって人間の自然権も,人間の力そのものであるということになるでしょう。
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潮崎豪&分別

2024-06-20 19:12:15 | NOAH
 秋山準がNOAHを退団して全日本プロレスで仕事をするようになったとき,何人かの選手が秋山に追随してNOAHを退団して秋山と一緒に仕事をしています。そのうちのひとりが潮崎豪でした。
 潮崎はNOAHのオーディションに合格して入団した選手なので,以前の全日本プロレスからの移籍組ではなく,NOAH生え抜きの選手です。デビューは2004年の6月ですがこれはバトルロイヤル。翌月のタッグマッチが実質的なデビュー戦といえるでしょう。この試合で秋山と戦っています。
 翌年の1月から期待されている選手は必ずといっている組まれる番勝負が行われました。試合は7試合で全敗。この頃から付き人をしていた小橋建太と組むことが多くなっていきました。7番勝負が終わった後,8月に外国人選手を相手にシングル戦の初勝利をあげています。
 2006年の1月に試合中に大けがを負って欠場。6月に復帰。2007年に入って9月の日本武道館大会で三沢光晴とタッグを結成。この頃の三沢のパートナーは小川良成でしたから,この後のGHCタッグ王者決定リーグ戦は田上明と組んで出場。2008年4月に開催された第1回のグローバルタッグリーグも田上と組んで出場しています。なおこの頃の潮崎は海外遠征中で,グローバルタッグリーグの参戦は一時帰国してのものでした。
 正式に帰国して再びNOAHが主戦場となったのはこの年の暮れから。翌年のグローバルタッグリーグで三沢と組んで優勝しました。小川がジュニアヘビー級に主戦場を移したのは,潮崎の台頭も影響しています。優勝したのでGHCタッグに挑戦。その試合が三沢の最後の試合となりました。その翌日に秋山の欠場で組まれたGHCヘビー級王座決定戦を制してシングル初戴冠。この後も多くのタイトルを獲得しています。
 2012年暮れに退団しましたが,2015年11月から再びNOAHでの仕事を再開。翌年の5月にGHCヘビー級王座に復位し,6月にNOAHに再入団しています。
 紆余曲折ありましたが,NOAHでデビューしたトップ選手として,現在もNOAHで活躍中です。

 イエレスJarig Jellesに送った書簡五十の冒頭で,スピノザは自身とホッブズThomas Hobbesの間にある国家Imperium論の相違を説明しています。これが自然権jus naturaeに対する考え方の相違に焦点を当てています。つまりスピノザはホッブズに倣って,法lexと権利を概念notioとして分けるべきだと主張したのですが,ホッブズがそう主張したのとは異なった仕方でそういったのです。他面からいえば,法と権利を概念として分別するべきであるという点でホッブズとスピノザは一致しているのですが,ホッブズが先行した分別したその概念を,スピノザはそのまま受け継いだわけではなく,分別はしたものの違った仕方で分別したのです。『スピノザー読む人の肖像』では,その経緯が詳しく説明されています。
                                        
 『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の第16章で,スピノザは権利を自然権として論述しています。まさにスピノザがホッブズとは相違があるといっているその点から論じているのです。スピノザがまずそこから論じていくのには理由があります。『神学・政治論』は宗教religioおよび国家に関する論説ですが,宗教について論じるのであれ国家について論じるのであれ,まず現実的に存在する諸個人が有する自然権がどのようなものかということを考察しておかなければならないとスピノザは考えるのです。
 國分はしかし,この考え方に奇妙な点があるといっています。というのもすでにみたように,権利というのは社会制度によって決定されているものであって,その制度が諸個人に対して何をしてよくて何をしてはいけないのか,あるいは何をすれば罪には問われず,何をすれば罪に問われるのかを決定しているのです。したがってこの制度の中でしてもよいと決定されていること,しても罪には問われないと決定されていることが権利として諸個人に与えられているのです。ところがスピノザがいっている自然権というのは,国家や宗教について考察するために前もって知られておかなければならない権利のことですから,これはいわば社会制度以前の権利であるといわなければなりません。この点が,スピノザがいっていることが奇妙に思える理由を構成します。いい換えれば,もしそれを奇妙と感じるなら,その原点はここにあるのです。
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農林水産大臣賞典さきたま杯&ホッブズの挑戦

2024-06-19 18:51:42 | 地方競馬
 第28回さきたま杯
 前にいく構えをみせたのはアランバローズ,シャマル,イグナイター,レモンポップ,バスラットレオンの5頭。アランバローズの逃げになり,2番手にレモンポップ。3番手がシャマルとバスラットレオンでイグナイターは2馬身差の5番手まで控えました。3馬身差でアマネラクーンとオメガレインボー。2馬身差でサンライズホーク。3馬身差でサヨノグローリーとタガノビューティー。5馬身差でティーズダンク。最後尾にリコーシーウルフと,中団以降は縦長に。最初の600mは34秒8の超ハイペース。
 3コーナーではレモンポップが前に出てアランバローズは後退。その後ろはシャマルとイグナイターで併走となり,4番手にはバスラットレオン。先頭で直線に入ってきたレモンポップはそのまま危なげなく押し切って快勝。2着争いは激しくなりましたが,フィニッシュ前にシャマルを競り落としたイグナイターが2馬身差で確保。シャマルが半馬身差の3着。外から追い込んだタガノビューティーがクビ差で4着。
 優勝したレモンポップチャンピオンズカップ以来の勝利で大レース4勝目。メンバーの中では実力最上位。1400mのレースが久々だったことを懸念しましたが,元来はスピードタイプということもあり,2番手につけることが叶いました。その時点でこの馬の優勝は決定づけられたといっていいでしょう。コーナー4回の1400m戦でも快勝できたのは収穫だったと思います。
 騎乗した坂井瑠星騎手は高松宮記念以来の大レース9勝目。さきたま杯は初勝利。管理している田中博康調教師はチャンピオンズカップ以来の大レース4勝目。さきたま杯は初勝利。

 國分によれば,そもそも法lexと権利jusの概念notioの区別distinguereは曖昧だったそうで,それを分けなければならないと主張したのはホッブズThomas Hobbesであったそうです。『リヴァイアサンLeviathan』では,法と権利を混同するのが常であるけれど,両者は区別されなければならないと主張されています。
                                        
 なぜ法と権利の概念の区別が曖昧だったのかといえば,社会societasが落ち着いていたからだと國分は想定しています。社会の中において人びとが権利を有し.社会の法がその権利に根拠を与えるのですが,この間に過不足がないのであれば,その社会は落ち着いているというのが國分の規定です。つまり権利が及ぶ範囲が社会が覆う領域の外まで届くと着想されるなら,この間に過不足が生じるのですが,それが着想されないなら,一切の過不足がありません。そしてその状況では,現実的に存在している人間は,各々ができることはしていてできないことはしていないことになります。したがって法の概念を,スピノザが二分したうちの前者,自然Naturaの必然性necessitasという概念だけで理解すれば,いい換えれば人びとが法の概念をこの意味だけで理解している場合は,そこに過不足が生じることはありません。この場合は人びとの権利は,たとえば神Deusの法によって定められていると信じられているわけですから,権利が覆う範囲と法が覆う範囲は完全に一致しているでしょう。なのでこの場合は,法という概念と権利という概念を強いて区別する必要はないのです。
 ホッブズはこの考え方に挑戦しようとしたのです。単純にいえば,国家Imperiumや社会に先立つものとして,人間の権利,個人の権利を考えようとしたのです。だからホッブズはそのふたつの概念を区別しなければならないと主張したのです。それが何を意味しているのかといえば,社会が落ち着いている状態ではなくなったということです。あるいは同じことですが,法という概念と権利という概念の間に過不足が生じたということです。ホッブズはそのことに気付いたから,法と権利を分ける必要があると考えたのであって,ホッブズはそれを,権利の過剰というようにみました。大雑把にいうと近代ではそのようなことが生じるのであり,スピノザもそれを継承しました。
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ヒューリック杯棋聖戦&法と権利

2024-06-18 18:58:21 | 将棋
 岩室温泉で指された昨日の第95期棋聖戦五番勝負第二局。
 藤井聡太棋聖の先手で山崎隆之八段のノーマル向飛車。玉が薄い後手から桂馬をぶつけていったのですが,やや無理な動きで先手がリードしたようです。
                                        
 後手が角を打った局面。ここで先手は18分考えて☗5五歩と突きました。
 ☖同歩と取ってしまうと☗3五飛と走られたときの☖4六角が消えてしまうので☖同角。
 そこで先手は☗5六金と角取りに金を上がりました。
 角を逃げてしまえばやはり☖4六角とできなくなってしまうので☖7七角成☗同桂☖4七銀は必然の進行。これで先手がまずいようなのですが☗5五桂と歩の頭に打つ手がありました。
                                        
 飛車か金を取ってしまうと☗4三桂成☖同金☗3二角の切り返しがあります。よって☖同歩ですが☗同金。これでどう指しても次の☗6四歩が厳しく,先手の技が決まりました。
 藤井棋聖が勝って連勝。第三局は来月1日に指される予定です。

 この部分の考察はこれで終わりとして,次に移ります。
 『スピノザー読む人の肖像』の第5章で,法lexと権利jusの概念notioに関する言及があります。これは有益なのでここでも説明しておきます。
 スピノザは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の第四章で,法という概念をふたつに分類しています。ひとつは自然Naturaの必然性necessitasによる法で,もうひとつが人びとの合意による法です。そしてこの分類をした直後にスピノザは,後者すなわち人びとの合意による法は,法というより権利といわれるべきであるという意味のことをいっています。國分はこの分類に関して,前者は物事や人間の本性natura humanaに基づく法則を意味するから,僕たちはそれに従わないということが不可能であるけれど,後者は僕たちをある生活様式に縛り付けている約束事にすぎないので,僕たちはそれに従わないことも可能であるといっています。これはスピノザの分類を分かりやすく理解できるようにした適切な説明であると思います。ただスピノザが後者を権利といわれるべきであるといっていることについては,日本語における理解という観点からの疑問を呈しています。
 通常の日本語では,権利というのは何らかの自由libertasに関する許可や資格のことを意味するのであって,法というのはその権利を保証するものです。なので,法そのものを権利というのには違和感があるでしょう。実際に僕たちの生活様式を縛り付けている約束事は法であって,その約束事の中で許容されているのが権利というのが日本語の意味ですから,僕たちがスピノザのこの主張に違和感を抱くのは当然といってもいいでしょう。
 実際にはこれは日本語で理解するからこのようになるのであって,英語やフランス語,ドイツ語などでは現代でも権利を意味する語の中に法という意味も含まれています。しかしこれはこれで逆に,なぜ同じひとつの語が法という意味と権利という意味のふたつをもち得るのかという疑問を,少なくとも日本語的な用法に慣れている場合には疑問としてもつことができるでしょう。
 國分のこの部分の考察は,こうした疑問に答えることを意図しています。つまりここでは,法と権利の関係をどう理解するべきかが考察されています。
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シャートフのキリスト教&希望の有用性

2024-06-17 19:04:25 | 歌・小説
 『悪霊』の第二部7節で,シャートフは自身の神観を語っています。それは独特のものといえます。
                                        
 シャートフによれば,国民のすべての運動の目的は自身の神の探求でしかあり得ないしそれを唯一真実のものとして信仰することにほかなりません。したがって,国民というのは神の肉体のごときものであり,ほかの神を妥協せずに排除する限りにおいて国民であることができるのです。いい換えれば,自身の神によってほかのすべての神を征服し,追放することができる限りにおいて国民なのです。
 このシャートフの演説に耳を傾けていたスタヴローギンは,シャートフは神を民族の属性まで引き下ろしたと言います。これに対してシャートフは,スタヴローギンがいっていることは逆で,シャートフがしていることは国民を神に引き上げることであると反論します。
 さらにシャートフは,真理はひとつであるから,諸国民の間で真実の神をもつことができるのはひとつの国民だけであって,それがロシア国民なのであると主張します。
 『ドストエフスキー 黒い言葉』では,シャートフのこうした主張について,民族との一体性の中にその最大の意義を認めているという点に大きな特徴があると指摘されているのですが,これはその通りであるといえるでしょう。つまりシャートフのキリスト教というのは,聖書でいわれているような唯一の神を信仰するということとは,大きな隔たりがあるのです。いい換えればそれはシャートフに独自のキリスト教であるといえるでしょう。
 ただし,シャートフがいっていることが全面的に誤っているというようにも僕には思えません。たとえばシャートフの説に従えば,神が共通のものとなれば国民は死ぬし,他の神を排除しようとしている間は国民は国民でいられるということになるでしょう。そのことの中には,一定の真理も含まれているように僕には思えるのです。

 スピノザは第四部定理五四備考においても,希望spesと不安metusが表裏一体の感情affectusであるということを重視し,どちらの感情も害悪より利益を齎すといっているのですが,備考の全体の文脈を通していえば,希望を否定的に,不安を肯定的に評価しているといえます。つまり,個人だけを抽出していうなら,不安を感じるより希望を感じる方がよいのであって,僕もその種のアドバイスをしますが,人間が協働して生活するものであるという点まで踏まえれば,不安の方が希望より有用である場合もあるのです。ですから何でもかんでも希望をもてばいいというものではないのであって,社会的紐帯のためには,諸個人がある程度の不安を感じていた方が好都合であるときもあるということは,僕も否定するnegareものではありません。
 ただし,このことが一般的に成立するのかといえば,そういうわけではありません。いい換えれば,不安は社会的紐帯のために常に有用な感情であって,希望はそれを阻害する感情であるというわけでもないのです。これは,賞賛lausを求めるような欲望cupiditasは,基本的に第三部定理五五備考でいわれているような,相互に不快を齎す欲望ではあるものの,この欲望によって結果effectusとしてよいことも生じ得るというのと同じように,希望が結果としてよいことを齎すという場合もあるのです。
 たとえば,現代の日本において,異人種や異民族に対して過度な不安をもつということは,世界における日本全体の力potentiaを低下させるような効果しか齎さないのであって,はっきりとマイナスの感情です。そうであるならば異人種や異民族との共生生活に希望を見出す方がまだましなのであって,その方が最終的には日本という国家Imperiumに対してよい結果を生じるでしょう。つまりこの場合には,希望の方が社会的紐帯にとってプラスに働くのであり,不安はかえってマイナスに作用してしまいます。ですからこの場合にも,一般論が個々のすべてのケースに妥当するというのではないのであって,希望にせよ不安にせよ,個々の感情を個々のケースに応じて評価するという必要があります。何といっても第三部定理五六でいわれているように,感情というのはすべてが個別の感情だからです。
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能登支援 万博協賛 高松宮記念杯競輪&第四部定理五四備考

2024-06-16 18:58:22 | 競輪
 岸和田競輪場で開催された第75回高松宮記念杯の決勝。並びは新山に桑原,郡司‐北井‐和田の神奈川,脇本‐古性‐南の近畿で小林は単騎。
 郡司がスタートを取って前受け。4番手に新山,6番手に小林,7番手に脇本で周回。残り2周のホームまで動きがなかったので,誘導が退避するタイミングから前受けした郡司がそのまま全力で駆けていきました。脇本はそこから動いていきましたが,打鐘から最終周回のホームに掛けて外に浮いてしまい不発。新山がホームから発進すると郡司の番手の北井が合わせて発進。北井が合わせきったので新山も不発。新山の動きには続かなかった小林が和田の後ろになり,脇本が不発に終わったので小林の後ろにスイッチした古性までの4人が優勝圏内。直線も北井が粘り切って優勝。マークの和田が4分の3車輪差の2着に続いて神奈川のワンツー。小林は郡司と和田の間に進路を取り,古性は郡司と小林の間に。バランスを崩しましたが古性が半車身差の3着に入り小林は微差で4着。バランスを崩していた古性はフィニッシュのところでは落車寸前でそのまま落車。優勝した北井が巻き込まれてフィニッシュ後に落車しています。
 優勝した神奈川の北井佑季選手は先月の奈良のFⅠを完全優勝して以来の優勝。昨年9月に向日町記念を優勝して以来のグレードレース制覇でビッグは初優勝。ここは総合力では手厚い近畿勢に神奈川勢がどう対抗するかというレースでしたが,この並びならば郡司が捨て身で駆けていくことはみえみえ。北井が躊躇なく番手から出ていくことができれば,脇本と古性といえどもさらに上を捲るのは難しいだろうと思えました。前受けの郡司が駆けていくのはみえみえなのですから,だれも抑えにいかなかったのは,ただ脚を浪費するだけになってしまいますから仕方がないでしょう。新山の捲りに合わせての発進ではありましたが,北井は前をあまり気にせずに出ていきましたので,そこが優勝の大きなポイントになりました。新山の捲りを合わせきった上で,後ろに差させなかったのですから,内容的にも強かったと思います。

 第四部定理四七,第四部定理四七備考から理解できるように,スピノザにとって希望spesと不安metusはあくまでも一体化した感情affectusで,そのために各々の感情に対する評価は同等になります。このことは第四部定理五四備考の文面でも一貫しています。そこでも希望と不安が等置され,これらふたつの感情は理性ratioに矛盾するけれども有益であるといわれているからです。ところが,この備考Scholiumの文面は,実は希望と不安とを分けていて,不安の方だけを害悪より利益を齎す感情とみているように読むことができます。同じ備考で次のようにいわれているからです。
                                   
 「もし精神の無能な人間がみな一様に高慢で,何ごとにも恥じず,また何ごとをも恐れなかったとすれば,いかにして彼らは社会的紐帯によって結合され統合されえようか」。
 この文章は,精神mensの無能な人間が何も不安を感じなかったら,かれらは社会的紐帯によって結合され得ないといっていて,つまり社会的紐帯によって結合するためには,精神の無能な人間が不安を感じることが有益であるといっているわけです。そしてこの感情というのは不安でなければならず,希望であってはならないというように読解できるでしょう。最も単純にいえば,法律を犯すような行為に対して,それに不安を感じるというのはそれが露見することに不安を感じるという意味であって,この不安によってその人間はその行為を断念することになるので,社会的紐帯に対して有益であるといえます。一方,法律を犯すような行為に対して希望を感じるというのは,それが露見することはないだろうと感じることにほかならないのであって,その場合はその人間はその行為をなすということになるでしょう。したがってこれは社会的紐帯によって結合することに対して有益どころかむしろ害悪を齎すといわなければなりません。
 希望と不安が表裏一体の感情であるということは僕も認めますが,各々の感情がその人間を同じ行為に向かわせるわけではないのであって,希望を感じればXに,不安を感じればXとは正反対のYにというように,その人間を向かわせ得るのです。なので希望と不安を完全に同一の感情としてみることはできません。
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