スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王将戦&解決のヒント

2014-02-28 19:35:59 | 将棋
 鶴巻温泉で指された第63期王将戦七番勝負第五局。
 渡辺明王将の先手で角換り相腰掛銀。羽生善治三冠が積極的に攻め合う展開に持ち込みましたが,途中の攻め方に軽いところがあり,先手にリードを許したようです。
                         
 金を打って飛車を捕獲した局面。先手は▲4二角成と切り,△同金に▲1一銀のただ捨て。△同玉に▲3一銀と打ちました。後手が△3ニ金と逃げると▲1三歩と打ち,△1二歩と受けさせてから▲5三飛成。
                         
 すごく強引な攻めという感じもするのですが,取られそうだった飛車が生還し,龍にもなって,まだまだかなり難しそうながらもこれで優位には立てているようです。確かに後手は飛車の捕獲のために多くの駒を使ってしまっていて,その分の差があったと考えればよいのでしょう。この手順の切れ味の鋭さがとても印象的な一局でした。
 渡辺王将が防衛に王手。第六局は3月12日と13日です。

 スピノザがどう考えていたのか,他面からいえばスピノザがどう考えていたと理解するのが妥当であるのかという問いは,なかなかの難問です。もっとも,それが難問であるからこそ,見解が分かれてしまうともいえるでしょう。
 僕の方法は『エチカ』のことは『エチカ』に訴えて解決するというものです。しかしスピノザは『エチカ』の中ではっきりとした解答を与えているとはいい難いです。のみならず,さらに広げて対象をスピノザの哲学全般にまで射程を入れたとしても,明快な解答が示されているとは到底いえないのが現実です。
 解決のヒントとなるのは,まず備考の最初の部分で,スピノザは,神の絶対的本性から生起するものの媒介によって個物res singularisが生起するということを,認めているとしか考えられない点です。神の絶対的本性から生起するものについては,ここでは無限様態と解釈しています。これは畠中尚志の注釈でも同様で,妥当な理解といえると思えます。つまりスピノザは,無限様態の媒介によってres singularisが生起するということを主張していると僕は判断します。
 もうひとつのヒントは,第一部定理二八備考の中盤部分で,神は神が産出した事物の最近原因であるといっている点です。その直後に,最近原因の対義語である遠隔原因という概念をわざわざ出して,この意味において神を遠隔原因であるということは不適当だといい添えているのですから,スピノザがそう考えていたことは疑いようがありません。そしてこの神が産出した事物のうちに,res singularisが含まれるということも,否定することはできないと思います。よって神はres singularisの最近原因であるということを,スピノザは主張していると理解するべきです。
 res singularisは無限様態の媒介によって生起する。これは無限様態の媒介なしにはres singularisは生起し得ないという意味を含むといえます。第一部公理三の内容が正しいなら,そう理解するほかないからです。しかし同時に,神がres singularisの最近原因でなければならないのです。
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大巨人&第一原因

2014-02-27 19:25:51 | NOAH
 ギミックのエントリーで一例として出したアンドレ・ザ・ジャイアントは,その巨体から大巨人の愛称で知られた名レスラーです。プロレス界には稀有なレスラーというのが何人かいて,馬場もそのひとりだと僕は思っていますが,その中でも最も稀有,空前はもちろん絶後であるかもしれないレスラーは,アンドレだったと思います。
 全盛期はアメリカではWWFで戦い,当時の提携関係から,日本では新日本プロレスに参戦。僕のプロレスキャリアより前には国際プロレスでも仕事をしたことがあったようですが,僕はその時代のアンドレのことは何も分かりません。アメリカではベビーフェイスでしたが,新日本では猪木のライバルという関係から,ヒール役でした。不沈艦も新日本では猪木のライバルで,その場合にはヒールでしたが,ハンセンとアンドレの試合ではハンセンへの声援が多く,役割としては徹底的なヒールであったといえます。凶器を使うようなことはありませんでしたが,規格外の体格が反則そのものだったという一面があり,それがこの立場に影響を及ぼしていたように思います。
 1990年4月,WWFが日本で全日本プロレス,新日本プロレスと合同興行。これは当時,WWFのフロントにいた佐藤昭雄の尽力によるもの。このときにアンドレは馬場とタッグを組んで試合をしました。すでに全盛期のアンドレではありませんでしたが,馬場はアンドレと一緒に仕事をしたいという気持ちをかねてより抱いていたらしく,その夢が実現した形。そしてこれを機に,アンドレは全日本で仕事をするようになり,馬場との大巨人タッグで,世界最強タッグ決定リーグ戦にも出場しています。馬場が左大腿骨亀裂骨折の重傷を負った試合も,パートナーはアンドレでした。
 全日本のアンドレは全盛時代のアンドレではなく,激しく動くこともままならないような状態でした。それでも試合自体が不自然にならなかったのは,プロモーターとしての馬場の才覚のひとつでもあったでしょうし,リング上のパートナーだったレスラーとしての馬場の才覚でもあったと思います。
 この時代になってアンドレは日本のファンからの声援も集めるようになりました。本人はヒール役を全うしたいと願っていたかもしれません。でも僕はアンドレにとって幸せなことであったと思っています。

 スピノザが第一原因について積極的な仕方で呈示しているのは第一部定理一六系三。そこでは神が単に第一原因であるというばかりでなく,絶対に第一の原因であるといわれています。この絶対に第一の原因というのもスコラ哲学の用語。畠中尚志の注釈では,一切の先行原因を有さない原因が絶対に第一の原因であり,個々の因果系列において最初の原因であるという場合には,自己の類において第一の原因といわれるとのこと。でも今はこのことには深い注意を向けずとも構いません。
 消極的意味というのは,ある結果から原因,その原因,さらにその原因と辿っていったとしても,この関係は無限に連鎖していくだけであり,第一原因に到達することはないという意味を含みます。一方,個物res singularisは無限様態の媒介によって,ゲルーのいい方に倣えば道具として生じ,その無限様態が神の絶対的本性によって起成するから,res singularisは第一原因としての神がなくてはあることも考えることもできないという論理過程のうちには,res singularisという結果から原因,そしてその原因としての第一原因たる神があるということが含まれています。
 第一部定理二八にしろ,第二部定理九にしろ,それらはres singularisの結果から原因への無限連鎖に言及しています。そしてそこには無限様態は登場しません。ですから上記のふたつの例は,折合いをつけることが可能であると考えることができないわけではありません。しかしres singularisの第一原因が神であるということの説明の仕方として,整合性が取れていないと僕は判断します。
 このことは,スピノザが演繹法を重視して,帰納法は方法論として斥けるということからも不整合であると判断するべきだと思えます。res singularisが無限様態の媒介によって生じ,無限様態は神の絶対的本性に依拠して生起することを理由に,res singularisの第一原因が神であるとみなすことは,帰納的思考にほかなりません。そしてres singularisの第一原因が神であるということを,スピノザは真理として認めるでしょう。だとしたらいかに方法論とはいえ,帰納的思考を絶対に排斥すべき理由は失われてしまうように思うのです。
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TOKYO MX賞フジノウェーブ記念&個物の原因

2014-02-26 19:26:26 | 地方競馬
 不慮の事故によって生命を絶たれた名馬の功績を称えて今年度から改称された第5回フジノウェーブ記念。エーシンジェイワンが競走除外で15頭。
 先手を奪ったのはピエールタイガー。2番手でジェネラルグラントがマーク。ヤサカファインとガンマーバーストが続き,外からサイオン,内に控えたソルテ。最初の600mは36秒4のミドルペース。
 ジェネラルグラントがかなり強気なレースをし,これにピエールタイガーも応戦したので3コーナーを回るとこの2頭と後ろの差が開きました。ピエールタイガーはコーナーの途中で一杯になり,直線に入るところではジェネラルグラントが早くも単独で先頭に。追ってきたのは内から馬群を捌いたソルテで,詰め寄ることはできたものの差すまでには至らず,着差以上の強さを感じさせるレース振りでジェネラルグラントの優勝。4分の3馬身差の2着がソルテ。4馬身差の3着は先行勢からばてずに流れ込んだサイオン。
 優勝したジェネラルグラントは昨年3月の京浜盃以来の南関東重賞2勝目。転入前,2歳のときに北海道でサンライズカップを勝っていて,前走の昨年11月に水沢に遠征したダービーグランプリも勝っているので地方重賞は通算4勝目。ここは久々の競馬であったこと,そして距離が短くなっていたことと,ふたつの課題があったのですが,難なく乗り越えました。現4歳世代ではトップクラスの能力がありますから,今日の内容であればまだタイトルを獲得していくことになるでしょう。ただ,突出しているというわけではないと思われ,連戦連勝というのは難しいかもしれません。母の父はスペシャルウィーク。伯父に2004年の札幌2歳ステークスと2005年の共同通信杯を勝ったストーミーカフェ。General Grantはグラント将軍。
 騎乗した船橋の石崎駿騎手は先週のユングフラウ賞に続く2週連続の南関東重賞制覇。フジノウェーブ記念は初勝利。管理している船橋の出川克己調教師もフジノウェーブ記念は初勝利です。

 備考はまず,無限様態が神の絶対的本性から生起することの確認から始まっています。そして個物res singularisは,その媒介によって生起するといわれています。
 これでみれば,確かに無限様態が生起する因果的必然性と,res singularisが生起する因果的必然性は,数的に区別が可能であると読解できなくはありません。とりわけスピノザがいっている媒介ということばを,道具ということばでいい換えたならば,ゲルーの主眼点はスピノザの哲学の妥当な解釈であるということになります。
 しかし,これだけでスピノザが数的に区別できる二種類の因果性があると考えていたと結論するのは,僕には短絡的に思えます。というのはスピノザはこの直後に,res singularisが無限様態の媒介によって生起するのだとしても,神なしに存在することも考えることもできないと主張しているからです。こちらの部分を重視するなら,むしろ因果的必然性は二種類であったとしても,それは表現上でそうなっているだけであり,実際は唯一であると解釈する方が妥当であるということになるからです。
 スピノザがres singularisに関して,神なしに存在することも考えることもできないというとき,res singularisが無限様態の媒介によって生起し,その無限様態は神の絶対的本性から生起するということを理由としているのではないと僕は解釈します。この論理は,res singularisの原因は無限様態であり,無限様態の原因は神であるから,res singularisは神なしにはあることも考えることもできないということになっています。しかし僕にはそのような論理をスピノザは認めないだろうと思えます。
 第一部定理二八,そしてこれをres singularisの観念に適用した第二部定理九には,消極的意味が含まれているというのが僕の考えです。それは結果の原因,その原因,そのまた原因と辿っていったとしても,その無限連鎖が継続するだけで,第一原因には到達しないということです。このことが,僕のここでの主張の根拠です。
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たちあおい賞争奪戦&遠隔原因

2014-02-25 19:06:34 | 競輪
 優勝候補の一角,深谷が準決勝で敗退となり,武田に注目が集まった静岡記念の決勝。並びは佐藤-成田の北日本,武田には大塚-安東の大分がマーク,上野-新田-内藤の南関東で高久保は単騎。
 佐藤がスタートを取って前受け。3番手に武田,6番手に上野,最後尾に高久保で周回。残り2周のホーム手前から上野が上昇。ホームでは武田を封じ,バックで前に出る作戦であったと思いますが,このラインに続いていた高久保が先に動き,単騎でのかまし先行となって打鐘。上野が2番手で5番手に佐藤。後方となった武田はホーム手前から発進。コーナーでは早くも高久保を捕まえて先頭に。上野の番手の新田は安東をどかして3番手にスイッチしたもののそれ以上は動けず。直線では番手から大塚が差し込んできたものの,粘り切って武田が優勝。大塚が4分の3車輪差の2着で即席ラインのワンツー。大外を捲り追い込んだ佐藤が1車輪差で3着。
                         
 優勝した茨城の武田豊樹選手は昨年1月の和歌山記念以来となるGⅢ22勝目。静岡記念は初優勝。昨年の後半は斡旋停止の処分を受け,今年から復帰。復帰後はこれで14レースを走って13勝。単発レースも含めて5連続優勝でこのシリーズも完全優勝。和歌山記念で優勝した後,斡旋停止までの期間は不調であったと思うのですが,結果的に長期の休場がよい休養になったのかもしれません。現時点では文句なく最強でしょう。むしろだれがこの勢いにストップをかけるのかが注目だといえそうです。

 ゲルーの主眼点の根拠になっているのは,第一部定理二八備考でスピノザがいっている遠隔原因を,スコラ哲学とは異なった意味で解した場合です。この解釈は,可能性だけでいえば正当です。ゲルーが誤解をしているのではないと僕も思います。この文章は,神の絶対的本性から生起するものと,普通の個物res singularisを区別するためになら,神はres singularisの遠隔原因であるということを許容していると理解できるからです。
 神の絶対的本性から生起するものとは,第一部定理二一と二二により無限様態です。すると前述のことからして,神は無限様態の最近原因であるということになります。最近原因と遠隔原因は対義語です。よってそれらは数的に区別し得る二種類の原因であると判断することが可能です。原因が二種類であるなら,因果的必然性も二種類でなければなりません。この場合にはそのように理解しておかないと,今度は第一部公理三が成立しなくなってしまうからです。
 この論述のうちにはひとつだけ無理あるいは飛躍があります。最近原因と遠隔原因が対義語であるのは,それらがスコラ哲学の用語として考えられる場合です。そこから逸れてその用語を使った場合にも,必ず対義語になるという保証はありません。ゲルーはそれらが確かに対義語でなければならないことの根拠を示していません。だからこの論旨が完全に成立しているとまではいえないのです。
 しかし僕はこの疑問をゲルーに投げ掛けることは保留します。この疑問は最近原因と遠隔原因は対義語ではないかもしれないということをいっているだけで,確かに対義語ではないと証明しているのではありません。方法論的懐疑を行ったときの疑問が抱えていたのと同様の弱点を抱えているのです。なのでこのことによってゲルーの主張が崩壊するということはありません。
 一方で,このゲルーの解釈は,そう解釈することが可能であるというだけであり,そう解釈することが正しいというわけではないということは判明しました。この備考をもっとよく考えてみる必要があります。 
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権藤三鉉の夏目漱石論&第一部定理二八備考

2014-02-24 19:07:55 | 歌・小説
 蓮実重彦の『夏目漱石論』を紹介しましたので,同じ題名を有するものとして,権藤三鉉の『夏目漱石論』も取り上げます。
                         
 同じ題名のものとしてこれを選んだのには理由があります。蓮実重彦のものはかなりヘビーな夏目漱石の小説のファン向けであるのに対し,こちらはライトなファンに向けたものという一面があります。つまり対極にある同名の書物ということで,これを選びました。
 ハードカバーですがそれほど厚さはなく,文字も大きめになっています。わりと簡単に,短時間で読むことが可能です。内容としても,初心者というか入門書的な性格ですので,それほど難しいことが書かれているわけでもありません。蓮実のものは漱石の小説を手繰らなければならないシーンが何度も僕にはありましたが,権藤のものにはその必要がありませんでした。逆にいったらコアな漱石ファンにとっては,やや退屈に感じてしまうおそれがあるかもしれません。
 作家論と作品論とで分類すると,作家論としての傾きがやや強いかもしれません。ただ,『漱石の世界』ほどはっきりとした傾向があるわけではないです。
 全5章から成っていて,章ごとの連結というのはあまり深く感じられません。各々の章はそれ自体で独立しているといった方がよいでしょう。おそらく最も筆者の力が入っているのは第2章の作品論ではないかと思います。『それから』,『彼岸過迄』,『行人』,『こころ』,『明暗』の五作品が取り上げられています。この部分はさすがに未読では厳しいのではないかと思いますが,1度でも読んだことがあるなら,理解するのにそれほど難しいところはない筈です。
 あまり大きな期待を寄せてはいけないという気はしますが,手ごろに読めるのですから,読んでマイナスになるということは絶対にないだろうと思います。

 ゲルーの主眼点は,もうひとつ,『エチカ』の別の個所によって補強されています。第一部定理二八備考の最後の部分でスピノザが主張していることです。
 「神を個物の遠隔原因と名づけるのは,神が直接的に産出したもの・あるいはむしろ神の絶対的本性から生起するものと普通の個物とを区別するためになら別だが,本来的意味においては適当でないということになる」。
 同じ第一部定理二八備考の直前の部分において,スピノザは神は物の絶対的な最近原因である,とくに自己の類における最近原因であるというわけではなく,絶対的な最近原因であるという考え方を表明しています。スコラ哲学においてその最近原因の対義語に該当するのが遠隔原因です。スピノザはこの部分ではスコラ哲学に準じて用語を使っています。ですから神が最近原因,とりわけ絶対的な最近原因であるということを主張したならば,それは遠隔原因ではないということを主張するのも当然であるといえます。
 さらにこの部分の直後に,スピノザは遠隔原因に関してさらなる説明をしています。それによれば,遠隔原因とは,結果とは一切の関連性を有しないような原因と理解されなければなりません。ところが第一部定理一五にあるように,一切の事物は神のうちに存在しますし,神がなければ存在することができないのはもちろん,概念conceptusすることさえできないものなのです。いい換えれば一切の事物はそのように神に依存しています。よって神は結果である一切の事物と何らの関連性ももたないような原因ではありません。だから神が遠隔原因であるという主張は誤りであるということになります。
 僕の考えを先に述べれば,スピノザがここでいいたかったことはこれがすべてです。しかし,ゲルーはこのことのうちに,もう少し別の意味を見出すのです。少なくともそこに一理あるということは,僕も認めざるを得ません。神を遠隔原因と名付けることが本来的な意味,すなわちスコラ哲学的な意味においては不適当であるというなら,本来的ではない意味においては,適当であると理解可能な場合があるというように受け取ることは可能だからです。
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フェブラリーステークス&ゲルーの主眼点

2014-02-23 19:10:51 | 中央競馬
 頂点を決するに相応しいメンバーでの対戦になった第31回フェブラリーステークス
 事前の宣言通りにエーシントップの逃げ。2番手はコパノリッキー。ソロルとダノンカモンが並んで続き,その後ろにノーザンリバーとホッコータルマエ。前半の800mは48秒0のミドルペース。
 直線に入るとエーシントップを交わしてコパノリッキーが自然と先頭に。ホッコータルマエが追ってくるとようやくコパノリッキーも追い出し,この時点で後ろとの差が開いてあとはマッチレースに。追えども追えどもホッコータルマエは追いつくところまでいかず,先んじていたコパノリッキーが優勝。半馬身差の2着にホッコータルマエ。後方から外を追い上げたベルシャザールはよく伸びはしたもののこの展開では1馬身4分の3差の3着が精一杯。
 優勝したコパノリッキーは昨年5月の兵庫チャンピオンシップ以来の勝利で大レース初制覇。重賞を勝った後,休養に入り,復帰後の2戦はオープン特別で大敗していたため,すっかり株を落とし,今日は最低人気で単勝も200倍以上。園田では今日も人気になった馬に勝っていますので,能力の上限が高いことは確かでした。復帰後は体調が整っていなかったのかもしれませんし,あるいは揉まれることを嫌うタイプであるのかもしれません。この見立て通りであれば,スムーズなレースがしやすくなる,もっと長めの距離が活躍の場になる可能性もありそうです。父は第20回を勝ったゴールドアリュールで父仔制覇。祖母の従弟に2002年に大阪杯,2005年に大阪杯と毎日王冠を勝ったサンライズペガサス。Rickeyは人名ですが僕が真先に思い浮かべるのはスティムボートです。
 騎乗した田辺裕信騎手は待望の大レース初勝利。管理している村山明調教師は第29回以来の大レース3勝目で,フェブラリーステークスは2年ぶりの2勝目。

 「二重因果性の問題」に戻り,第2節で松田克進がまとめているゲルーの解釈を,この考察に沿う形で僕が再構成します。
                         
 『エチカ』にはそれを数的に別個と解釈するか否かは別として,表現上は二種類の因果性が存在するということは,ゲルー以前の識者も指摘していました。紹介したように松田はそれを永遠の相の因果性と持続の相の因果性と称することになります。実体が様態を産出する,といっても,『エチカ』では第一部定理一四にあるように,存在する実体は神だけなので,これは神が様態を産出するといい換えることができますが,この因果性が前者に該当します。後者はある様態が別の様態を産出する因果性です。
 ゲルーの解釈の主眼は,それまでは数的に同一とされていた二種類の因果性を,別個であると理解する点にあります。解釈にあたってゲルーが最初に注目するのは第一部定理二九です。この定理が,個物res singularisは,二重の必然的決定に従っていることをスピノザは主張しているのだとゲルーはいいます。それは神による決定と,外的事物,あるいは自然に共通の秩序による決定です。
 ゲルーはこれは確かに二重の決定である,いい換えれば区別するべき決定であると主張します。その根拠として提出されるのは第一部定理二六第一部定理二八です。前者の神の決定と,後者のres singularisによる決定,あるいはres singularisを産出する際のある条件化された神の決定は区別されるというのがその内容です。前者が主要な原因による決定であり,後者は主要ではない原因による決定とゲルーはいい,主要ではない原因の決定のことを,道具による決定といいます。
 ひとつ注意したいのは,スピノザが『短論文』では道具的原因という術語を用いていたということです。なのでこの道具といういい方は,ゲルーにオリジナルなものではありません。しかしそれはスピノザの哲学において特殊な術語かといえばそうでもなく,元来はスコラ哲学の用語です。ゲルーがここでこの用語を用いたことに松田は批判的です。詳述しないので,興味があれば第4節をお読みください。
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棋王戦&唯物論と観念論

2014-02-22 19:48:36 | 将棋
 北國新聞会館で指された第39期棋王戦五番勝負第二局。
 三浦弘行九段の先手で渡辺明棋王ごきげん中飛車。③CⅠの超急戦に。この戦型は最近は減っています。おそらく先手が勝ち難くなってきたためでしょう。たぶん先手には用意の研究があったと推測します。ただ,後手が前例の少ない手順に進めました。先手にとってはあてが外れた面があったかもしれません。
                          
 第1図がその局面。先手は▲6三桂成と王手し,△同王に▲1八角の王手を決め,△5四歩としてから▲6六香と角筋を止める王手を掛けました。これには△7ニ王。そこで▲2二歩と打つのはこの戦型での常套手段。△5一金右とまず金の方を逃げておき,▲2一歩成に△4二銀と銀もかわしました。そこで▲2三歩。
                          
 この先手の攻めはさすがに間に合わないのではないかというのが僕の第一感。実戦は後手の反撃に別の粘り方をすれば難しいところもあったのかもしれませんが,この将棋の先手の手順ではうまくいかないのではないかという気がします。
 渡辺棋王の連勝。第三局は来月16日です。

 今回のテーマからは逸れますが,ここは重要なところかと思いますので,僕の見解をもう少し詳しく説明しておきます。
 唯物論と観念論とを対比させた場合に,スピノザの哲学が唯物論的であるということについては,僕は概ねでは賛成します。たとえば第二部定理一三というのは,明らかに身体の現実的存在なしに精神の現実的存在はないと主張しているのであり,これは観念論よりは唯物論に近い立場であると考えられるからです。
 しかし,スピノザの哲学は唯物論であるという考え方には僕は反対します。
 たとえば第一部公理六から透けてみえるのは,スピノザが観念というとき,それは必ず何かの観念であると考えているということです。いい換えれば対象ideatumなき観念は存在しないと考えているということです。しかし一方で,ideatumなしに観念が考えられないのかといえば,そんなことはありません。第二部定理五から分かるように,観念の起成原因はideatumではありません。神の思惟の属性です。そして第一部公理四によれば,結果の認識は原因の認識にのみ依存するのですから,思惟の属性に依拠するだけで,観念は考えられることになります。
 スピノザの哲学の観念論の部分だけを抽出するならば,ideatumなき観念はあり得ないにも関わらず,観念はそれ自体で自立した実在性ないしは完全性を有するのです。観念論は観念論として,唯物論とは別に抽出し得るのがスピノザの哲学であると僕は理解します。この部分こそ,スピノザの哲学の最もよくできた部分であると僕は思っているのです。
 こうした論理を可能にしているのは平行論です。スピノザの哲学は唯物論でも観念論でもない,平行論といういわば独自の哲学なのであり,この平行論のもとに,唯物論と観念論とが両立するような形態をしているのです。その象徴といえるのが第三部定理二です。ここでいっていることからすれば,この定理でいわれているのは,唯物論が観念論を決定することはできないし,観念論が唯物論を決定することもできないということです。
 以上がこの点に関する僕のスピノザの哲学の概観の理解です。
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スピノザと表現の問題&自然学の重視

2014-02-21 19:28:16 | 哲学
 実在的区別について論じたときに参考にとあげた『スピノザと表現の問題Spinoza et le problème de l'expression』。初期の参考文献にも入っていますが,詳しく紹介したことはまだありませんでした。
                         
 ドゥルーズGille Deleuzeは自身が偉大な哲学者ですが,当然ながら徒弟時代というのもありまして,哲学史の内部でモノグラフの研究に専心していました。時期でいえば1960年代のこと。ドゥルーズはその時代の研究成果として,ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzsche,カントImmanuel Kant,ベルグソンHenri-Louis Bergsonなどの著書を出していますが,スピノザに関する成果を発表したのがこの本で,1968年に出版されました。
 上述のような性格から,基本的にこの本はスピノザの哲学の研究書であり,ドゥルーズ自身の哲学的見解を表明したものではありません。とはいえ,スピノザの哲学の研究にあたり,表現という問題をその突破口にしたのはおそらくこの本が最初。そういう意味においては,十分にドゥルーズの独自性も発揮されているといえると思います。
 スピノザの哲学の研究書ですから,当然ながら『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』とか『短論文Korte Verhandeling van God / de Mensch en deszelfs Welstand』などについての言及も多くあります。しかし基本的には『エチカ』の研究といっていいと思います。というのはこの本におけるドゥルーズの議論の進行のさせ方というのは,スピノザが『エチカ』で議論を発展させていくその順序とパラレルな関係にあるからです。ですから『エチカ』の参考書という趣が多分にあります。
 スピノザの哲学は必ずしも解釈が一致するとはいえません。なので参考書とはいっても,それはドゥルーズの見解であるという前提で読む必要があります。そのドゥルーズの見解に同意できると思えるような箇所については当然ですが,賛同できないという箇所に関しても,大いに参考になると思います。ドゥルーズの探求はそのために十分なほど丹念であるからです。

 スピノザの哲学における自然Naturaというものをどのように僕が解釈しているのかということが,僕がクレーファーのテーゼの中心部分である,スピノザの哲学は自然学を重視するという主張に同意することと,大いに関係しています。ただし,自然学を重視するということの内実がどのようなものであるのかということについては,クレーファーと僕との間では相違があるかもしれません。いい換えればこれは,スピノザの哲学に関するある解釈の結論において,クレーファーWilhelmus Nicolaas Antonius Kleverと僕は一致をみることが可能であるというほどの意味です。
 たぶんクレーファーがスピノザは自然学を重視するというとき,それは相対的な比較の上での主張ではないかと思うのです。もちろんそこでクレーファーが比較しているのは,哲学あるいは形而上学であり,とりわけ観念論を意識したものであると推測します。つまりクレーファーの主張は,スピノザの哲学は観念論的哲学よりも自然学を重視しているということであり,観念論と対比させていうならば,これはスピノザの哲学は唯物論的であるという主張に近似しているのだといえます。断っておきますがこれはあくまでも僕によるクレーファーの主張の解釈ですから,クレーファーが本当にそう考えていたかどうかははっきりとは分かりません。
 これに対して,僕がスピノザの哲学は自然学を重視するというクレーファーの主張を認めるとき,僕は相対的な観点からそのようにいうのではありません。むしろこれは絶対的なものです。つまり何かほかのものと比べてスピノザが自然学を重視していると僕は考えているのではありません。むしろ哲学とか形而上学といったものも自然学以外の何ものでもないのであって,そして学といえるようなものの総体が何かあるとするなら,それは自然学であるという意味なのです。つまりふたつの,あるいは複数の学を比べた上で自然学をスピノザは重視していると解釈するのではなく,それが唯一の学であるがゆえにスピノザの哲学は自然学を重視するというように僕は考えていることになります。
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王将戦&自然

2014-02-20 19:08:44 | 将棋
 一昨日と昨日,弘前市民会館で指された第63期王将戦七番勝負第四局。
 羽生善治三冠の先手で渡辺明王将ごきげん中飛車。先手の超速銀から4筋で銀が向い合う形。先手は左の銀も前線に繰り出していき,双方が薄い玉のまま茫洋とした中盤戦。先手の角の働きが乏しくなり,指し辛くなったように感じられました。
                         
 後手が☗2三銀を受けた局面。先手は☗3五歩と突きました。
 ☖2四角とするべきであったというような感想がありましたが,取ってすぐに悪くなるとも思えないので,☖同歩は自然な一手のように思えます。☗4五桂と跳ね,☖4二角と逃げ,2筋の突破を含みに☗3四銀。☖5四歩と打ち,☗4六銀と撤退しました。
                         
 ここで指し方が分からなくなってしまったというのが後手の感想。☖4四歩と突いたのですが,☗3三歩と打たれて☖3一金。☗2三飛成☖2二歩☗1二龍と進みました。
                         
 駒損は取り返せるのですが,ほとんど無条件に龍を作られ,序盤で☖1二香と上がっていた手が完全にマイナスに。以降の指し手からみますとここでは後手がまずくしてしまっているように思えます。不自然に進めたという感じでもなく,はっきりとした敗因がよく分からない一局でした。
 羽生三冠が連勝で2勝2敗のタイに。第五局は27日と28日です。

 クレーファーのテーゼの中心部分,すなわちスピノザの哲学は自然学に重きを置くという点に関しては,僕もクレーファーWilhelmus Nicolaas Antonius Kleverにほぼ同意します。あるいは全面的に同意するといっても構いません。ただ,何をもって自然学と解するのかという点について,たぶん僕とクレーファーでは異なった考え方を有していると思われます。なので全面的にとはいわずに,ほぼ同意するといっておきます。
 スピノザが自然Naturaというとき,客観的有esse objectivumすなわち観念ideaを排除する傾向があります。その傾向に従うならば,自然とは観念の総体である知性intellectusの外部に実在する,形相的有esse formaleのことになります。もっとも人間が認識できるのは,第二部公理五にあるように思惟の様態cogitandi modiと物体corpusだけですから,この場合には物体が自然に属し,思惟の様態は自然には含まれないと解するのが妥当です。おそらくクレーファーはこの解釈に則して自然といっているように思われます。哲学的因果性が自然的因果性の上位に配置されてはならないということと,客観的因果性が形相的因果性の上位に置かれてはならないという主張は,どこかリンクするふしが窺えるからです。
 これに反して僕は,客観的有も含めて自然と解します。これは今に始まった話ではなく,このブログを通じて一貫している僕の姿勢です。あえてスピノザのことばの使い方に反して僕がそのようにいうのは,たとえば第三部の序文を根拠とします。そこでスピノザは自然は常に同一で自然の法則も同一であるという主旨のことを表明し,このゆえに感情affectusもそれと同一の法則から発生するといいます。確かにスピノザがここで感情というとき,身体corpusの刺激状態のことを念頭に置いているかもしれません。しかし第三部定義三にあるように,感情とは,身体の状態であると同時に精神mensのうちのその観念でもあるのです。
 したがってこれでみれば,精神を構成する観念も,自然と同様の摂理で発生するということになります。そしてそうであるならば,わざわざ物体だけを自然と称し,観念をそこから除外する合理的な理由というものが僕にはないように思えるのです。なので僕は思惟の様態も含め,それを自然というのです。
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ユングフラウ賞&クレーファーのゲルー批判

2014-02-19 19:26:17 | 地方競馬
 トライアルとは思えないほど豪華なメンバーでのレースになった第6回ユングフラウ賞。タントタントが怪我で競走除外となり11頭。
 ラブミーブルーが逃げたかったようですが,ノットオーソリティが譲らずにハナへ。ラブミーブルーが外の2番手,さらにシャークファングがその外の3番手で内にアッリヴァーレが4番手。この4頭が後ろに少しばかりの差をつける展開。最初の600mは37秒7でミドルペース。
 4頭の中からアッリヴァーレは向正面の中ほどで脱落。残る3頭のうちラブミーブルーは4コーナーの手前で脱落。残った2頭が直線の入口では後ろを引き離しマッチレース。しかし直線の半ばではシャークファングも苦しくなり,逃げ切ったノットオーソリティが2馬身差で優勝。シャークファングが2着。中団から脚を伸ばしたブルーセレブが5馬身差で3着。
 優勝したノットオーソリティは北海道デビューで栄冠賞とフローラルカップに優勝。鳴り物入りで南関東に転入し,条件戦は勝ったものの,前走はリズムを欠くレースで敗退。まともに走れば力は上位で,見事に巻き返しました。距離延長を苦にするとは思えませんので,本番でも最有力候補だろうと思います。叔父に2006年のジャパンダートダービーを勝ったフレンドシップ。Not Authorityは直訳すれば権威ではないという意味でしょうか。
 騎乗した船橋の石崎駿騎手は昨年9月の戸塚記念以来の南関東重賞制覇。ユングフラウ賞は初勝利。管理している船橋の川島正行調教師第3回,第4回,第5回に続いてユングフラウ賞四連覇で4勝目。

 クレーファーのテーゼに関連する僕の見解を表明しておきます。
 まず,ゲルーの解釈が哲学ないしは形而上学を自然学の上位に配置することに直結するというクレーファーの考え方について,僕は全面的には同意しません。全面的にというのは,クレーファーが誤っているといいたいのではないからです。僕の見方では,こうしたことは解釈の手法に依拠します。そしてその手法というのは,スピノザの哲学のどの部分に重きを置くのかということから生じてくると思うのです。つまりクレーファーは,自然学を重視することがスピノザの哲学の核心であるという観点を有しているからこそ,ゲルーを批判することになるのだと僕は理解します。
 ゲルーの主張に関してはまだその詳細を検討していませんが,少なくともゲルーは,クレーファーが重視していることを同じように重視しているとは僕には思えません。別のいい方をするなら,ゲルーは哲学を自然学の上位に布置したいがために,数的に区別されなければならない二種類の因果性があるということを主張しているわけではないと僕には思えます。ですから,仮にゲルーの考え方により,クレーファーが主張するように,哲学が自然学の上位に置かれることになるのだとしても,そのことによってゲルーを批判するのは,僕にはお門違いのように思えます。
 「二重因果性の問題」の概略で説明したように,二種類の因果性は,ひとつは第一部定理一五,もうひとつは第一部定理二八によって代表されます。クレーファーのテーゼに従うならば,前者が哲学的因果性で,後者が自然学的因果性であるということになるのでしょう。僕はそのこと自体の妥当性については態度を留保しますが,少なくともゲルーの主旨は,前者が後者に対して上位の位置を占めるという点にあるのではなく,ただこの両者は数的に区別されなければならないという点にあると思います。少なくとも第一部定理一五に示されている因果性が,第一部定理二八で示されている因果性に対して上位の存在であると主張はしていないと思うのです。よって僕はこの点に関して,クレーファーのゲルー批判に賛同することはできません。
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泗水杯争奪戦&クレーファーのテーゼ

2014-02-18 19:10:27 | 競輪
 年間を通して1度きりの昼間開催で行われる四日市記念の決勝。並びは飯野-山田の北日本,矢野-藤田-朝倉の関東,柴崎-浅井-金子の中部に大竹も続いて西日本。
 山田が飛び出してスタートを取り飯野の前受け。3番手に柴崎,7番手に矢野で周回。矢野は残り3周の3コーナー過ぎから上昇。前までは上がらずにホームでは柴崎に蓋。バックに入る付近から飯野が誘導との車間を開けてペースダウン。これを矢野が叩いていって打鐘。飯野がうまく4番手を確保し,柴崎が6番手となって一列棒状。柴崎はホームから発進。バックでは藤田が番手捲りに出たものの,その上を柴崎が行ききって直線に。内で藤田に絡まれはしたものの構わず外を踏んだ浅井が優勝。マークの金子が1車輪差まで迫っての2着で中部のワンツー。4分の3車身差の3着に藤田の後ろから少しだけ直線で外目に出した朝倉。
 優勝した三重の浅井康太選手は昨年10月の防府記念以来となる記念競輪11勝目。地元の四日市記念は初優勝。直前のGⅠに順延があったため,中1日。最終日に落車していたので不安もありましたが終ってみれば完全優勝。調子に問題はなかったということでしょう。決勝に関していえばラインの厚みからまず負けられないというメンバー構成になりましたので,順当とはいえます。それでもそういう中できちんと結果を出すというのは,力があるという証明以外の何ものでもないと思います。

 「二重因果性の問題Problem of Double Causality」の順序とは異なりますが,ここではまずクレーファーの考え方を検討します。というのは,結論だけをいうなら,クレーファーは因果性は唯一であるとしています。僕の考えでは,これは必然性necessitasは唯一であると主張しているに等しいです。つまり僕自身の結論と一致しています。クレーファーはゲルーMartial Gueroult批判によってそれを主張していて,本来ならばゲルーの主張を先に理解しておかなければ,クレーファーの主張の中心も理解できません。ただ,結論の導き方が,僕とクレーファーには相違があるので,クレーファーの主張のその部分を考察することにより,僕の結論は別の観点から補強されることになると思えます。こうした理由から,先にクレーファーの主張を考えることにするのです。
 僕の場合,まず第一部定義六があり,そして第一部定理一一があり,そこから第一部公理三が帰結します。そして第一部定理一四系一も考慮に入れつつ,因果的必然性は唯一でなければならないと結論しました。つまりこれは演繹的に導出したということになります。
 クレーファーの場合,こうした手続きはその主張の中心を構成しません。むしろ必然性が唯一であるという観点は,それ自体が大きな意味を有するということが中心に据えられています。ここではそれをクレーファーのテーゼと名付けておきましょう。そのテーゼとは,自然学,あるいは自然科学を重視することが,スピノザの哲学の核心的な部分であるというものです。そしてそのためには,必然性は唯一でなければならない,あるいはそのように解釈されなければならないと結論するのです。
 自然学を重視するというのは,具体的にどのような意味であるのかということをまず理解しておかなければなりません。ごく簡単にいうならそれは,哲学ないしは形而上学が,自然学より上位の位置を占めることはないというものです。このことから分かるように,クレーファーは,数的に区別可能な二種類の因果性があると解釈することが,哲学を自然学よりも上位に置くことと直結すると考えています。実際,クレーファーのゲルー批判は,もっぱらその観点からなされています。
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馬場の力道山観&二重因果性の問題

2014-02-17 19:26:42 | NOAH
 自身では公言していませんが,馬場は自分が力道山の後継者であるという自負は持っていたと思います。では馬場が生前の力道山のことをどう思っていたか,資料を参考に類推してみます。
                         
 力道山は弟子に暴力を用いて指導したけれども,馬場は一度も殴られたことはなかったという話を聞いたことがありますが,これは嘘だと思います。馬場の右手は力道山の特訓で強化されました。木槌で叩いたことを暴力とはみなしませんが,馬場はもしも痛さで手を引っ込めれば拳骨が飛んでくるという主旨のことをいっています。この特訓時にそういうことがあったかもしれませんし,少なくとも過去に殴られた経験なしに,このようなことはいわないでしょう。ただ,頻度でいえば,ほかの弟子たちより暴力的指導を受ける機会が少なかったというのは,たぶん事実だろうと思います。
 馬場が最初の渡米から帰国するとき,力道山はアメリカまで迎えにいきました。そのときホテルでふたりで話したと『16文の熱闘人生』にあります。馬場によればふたりきりで話をしたのはこれが初めてのこと。そしてこれを機に,馬場は自身の力道山観が変化したといっています。渡米前は鬼のように思っていたが,根は優しい人であると思えるようになったというのがその変化。たぶんこのような力道山観を抱いているレスラーは少数派で,もしかしたら馬場だけであったかもしれません。実はこのときの内容に,引退したら任せるという話があったそうで,馬場が力道山の後継らしきことを示しているのはこの部分だけです。
 馬場は人間として,恩義に忠実なところがあります。僕は馬場の力道山観の根底にはそれがあったと思っています。急死後の帰国の決断も,それが大きく影響していたのだろうと思います。したがって,たとえばフレッド・アトキンスを師匠としても人間的にも慕うというような感情は,力道山に対しては持っていなかったと思います。むしろプロ野球選手を解雇され,路頭に迷いかねなかった自分に,新たな仕事,それも天職のような仕事を授けてくれた恩人というのが,馬場の力道山観の根源だったのではないでしょうか。

 スピノザの哲学,とくに『エチカ』には二種類の因果性があると主張する識者が存在するということを僕に教えてくれたのは,松田克進でした。それは「二重因果性の問題」という論文で,『スピノザの形而上学』の第3章に所収されています。
                         
 まずはこの論文の概要をごく簡単に開陳しておきましょう。
 標題となっている二重因果性とは,スピノザの哲学には,少なくとも表現の上では二種類の因果性が登場しているということです。論文の第4節で松田が用いていることばを援用し,これを永遠の相の因果性と持続の相の因果性と分類しておきます。前者の代表として第一部定理一五,後者の代表として第一部定理二八をここでは挙げておきます。
 松田によれば,これら表現上の二種類の因果性を,数的に別個の因果性であると主張した代表がゲルーです。論文の第2節では,このゲルーの主張が詳しく分析されます。
 しかし,一般的な解釈は,ゲルーのような解釈ではありません。むしろこれらの因果性は,表現の上で種別され得るだけで,数的には同一であるとされています。そこで論文の第3節では,ゲルーの解釈に対する批判の検討がなされます。このときに松田が採用している論者は,クレーファーです。実は僕はゲルーに関しては知っていましたが,クレーファーという学者については,この論文を読むまで名前も知りませんでした。松田がクレーファーを選択しているのには明確な理由があります。クレーファーには「ゲルーについての注釈」という論文があり,そこではゲルーの解釈が批判されているのです。そして第3節は,この論文が詳細に検討されています。
 第4節で松田は,自身の結論を示します。結論だけをいえば,松田はゲルーに軍配を上げています。松田自身はゲルーの主張には問題が含まれているとしていて,ゲルーの主張を全面的に受け入れているわけではありません。ただ,数的に別個な二種類の因果性があるのか,それとも区別不可能な唯一の因果性があるのかと問われるならば,前者の方が正しいと判断しているわけです。つまり二種類の因果性があるということは,ゲルーの主張であるのと同じように,松田の主張でもあるということになります。
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印象的な将棋⑦-1&二種類の因果性

2014-02-16 18:47:00 | ポカと妙手etc
 ,に続いて2手目☖6二銀の将棋から。第44回NHK杯の二回戦です。
                         
 放映は⑤の後だったのですが,収録はその前。後手が銀冠に組めたのは,先手の手順によるもの。後手が7筋で歩の交換を果たした局面ですが,これは危険であったのではないかと思います。
 ここから先手は☗2五歩と合わせていきました。☖同歩に☗2四歩と叩き,☖同銀に☗4四歩と取り込み☖同金とさせてから☗2四角。☖同角☗同飛で先手の狙いの十字飛車が決まりました。
                         
 この手順が後手の読み筋にあったのかどうかは,早指し戦ですから分かりません。僕は生で視聴していましたが,いきなり後手の大ピンチと思えました。

 必然性necessitasが唯一でなければならないということを丹念に説明してきたのには理由があります。どうも識者の中には,これとは違った形でスピノザの哲学を解釈する人がいるようだからです。厳密にいうとそこで主張されているのは,必然性が唯一ではないということではなく,二種類の因果性があるということです。ただ,僕がここでいっている必然性というのは,必然のうちの第二のタイプのことです。第一部公理三の必然はそのように理解されなければならないからです。したがって二種類の因果性というものがあるとするならば,それは二種類の必然性があると主張しているのと同じことであるように思えるのです。なぜなら,因果的必然性が唯一であるならば,二種類の因果性が生じる余地があるとは,僕にはどうしても考えられないからです。
 たとえば,単一の属性attributumから二種類の様態modusが発生すると主張するなら,これは僕も同意できます。そしてこの場合,それらふたつの様態はその共通点によって様態的にmodaliter区別されることになります。数的区別は様態的区別にほかならないのですから,この場合は二種類の様態が存在するということを,文字通りの意味に解釈することができます。様態は数え上げることが可能なものだからです。
 しかし,因果的必然性と因果性をこの関係において理解することが可能だとは僕には思えません。僕がいっている因果的必然性とは,神Deusの本性natura,essentiaの法則のことですから,実体substantiaの法則であることになります。第一部定義四によれば,属性は実体の本性を構成essentiam constituensしなければならないのですから,この法則それ自体を属性であるということはできません。ただ,それが実体に属するものである以上,属性に類するものとして理解する余地が皆無でないということは認めます。
 一方,各々の原因と結果が様態であるように,それら各々の因果関係の必然性は様態,あるいは様態的変状modificatioであり得ます。しかしすでに懐疑の解消でみたように,その各々の様態的変状は一般化することが可能な因果性なのです。ですからもしもこの因果性を様態的変状として理解するなら,無限様態的な様態的変状でなければならないと思うのです。第一部定理二一と二二からして,ある属性に二種類の直接無限様態ないしは間接無限様態が存在することはあり得ません。したがって少なくとも数の上で,あるいは様態的に区別可能な二種類の因果性は存在し得ないと僕は考えるのです。
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船中の日記&第一部定理一二

2014-02-15 19:16:31 | 歌・小説
 夏目漱石は不定期に日記をつけていまして,それは残されています。船内での論争などがあった渡英中は日記を書いている時期でしたから,そこでの記述から僕が気になったものをいくつか抜き出しておきます。
                         
 まず僕にとって意外だったのは,この船に乗っていたのは漱石とその同行者を除けばほぼ外国人であったということ。よく考えてみればこれは当然のことなのですが,一定数の日本人がいるものだと僕は思い込んでいました。
 9月23日の日記に,宣教師が歌を歌いだして説教をしているという記述があります。日曜日なのでという書き出しなので,日曜に乗船していた宣教師がこうしたことをするのは恒例であったのでしょう。
 10月4日に甲板で読書をしていたら「夏目さん」と声を掛けられ,おそらく苗字だったからでしょう,驚いて見てみたら熊本時代に知り合ったノット夫人であったとあります。漱石は二等室,夫人は一等室にいて,漱石の方から訪ねて来ないので,声を掛けてきたと言われたようです。
 翌10月5日,一等室にノット夫人を訪ねました。この日は宗教関係の記述はなく,イギリスに到着した後の紹介状を頼んで自室に戻ったと記されています。
                         
 『漱石の道程』によれば,10月10日に漱石の聖書を夫人からもらったそうですが,この日の日記にその記述はありません。ただし10月15日の日記には,聖書の説明を聞くという記述があります。また,17日,これは船が最終目的地であったナポリに着く日のことですが,この日にも単に説明を聞くという記述があり,これもおそらく聖書の説明ということなのだと思います。
 再び『漱石の道程』によれば,船内での論争は10月11日にあったと思われ,これらの説明というのはそのことではないでしょう。また,11日の日記にはそれらしいことは書いてありません。さらにこの説明をだれから聞いたのかということも,日記だけでは不明。10日の夜にウィルソン教授と談話したとありますが,説明は昼に聞いたものと思われます。

 各々の属性の区別は実在的区別なので,数的に区別され得る属性は存在せず,各属性はそれ自体が唯一のもの,あるいは唯一性を有するものです。そうであるならそれら各々の属性に必然性があるのだとしても,その必然性も唯一性をもつと理解しなければなりません。これだけでも十分ではありますが,さらに先に歩を進めることもできます。
 スピノザは第一部定理一二で次のようにいっています。
 「ある実体をその属性のゆえに分割可能であるとするような考え方は,実体のいかなる属性についてもあてはまらない」。
 この定理は名目的な定理と考える余地があります。『エチカ』の全体の中においては,神が分割され得ないということを証明するための準備段階という意味合いがあるからです。しかし今はそのことは考えなくてよいです。
 AとBが属性によって区別されるならば,それは実在的区別です。一方,Xは分割することが可能であるというのは,たとえばそれがふたつ,みっつ,よっつという具合に,数的に分けられるということを意味します。したがってこの定理のうちには,仮にAとBとが実在的に区別され得たとしても,そのことによって数的に区別はされ得ないということが含まれると僕は考えます。さらにいうならこの定理は,数的には区別され得ないものとして,実体を例示しています。つまり実体が数的に区別され得ないということが意味として含まれていると理解できるのです。
 このことから次のことが帰結します。神は第一部定義六により実体です。したがってそれは数的に区別され得るようなものではありません。しかも神には無限に多くの属性が属するので,神と実在的に区別され得る実体もやはり存在しません。第一部定理五により,同一の属性を有する複数の,というのは唯一ではない,実体は存在し得ないからです。したがって各属性に必然性が属していたとしても,それは神という唯一の実体の必然性にほかなりません。よってこの必然性とは,数的にはもちろん,実在的にすら区別可能な別の必然性は存在し得ないということになるでしょう。
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読売新聞社杯全日本選抜競輪&実在的区別

2014-02-14 19:23:46 | 競輪
 高松競輪場も大雪の影響を受け,第29回全日本選抜競輪も初日が順延に。日述べされて12日に決勝を開催することになりました。並びは新田-斉藤の北日本,平原-神山の関東,脇本-松岡-村上の近畿で山賀と浅井は単騎。
 牽制となりましたがスタートを取ったのは斉藤で新田の前受けに。3番手に平原,浅井,山賀を挟んで7番手から脇本で周回。残り2周のホームから脇本が一気に発進。バックで新田の前に出ましたが,打鐘から新田は引かず,松岡をどかして脇本の番手に。以下,松岡,村上,斉藤の順になりました。後ろになった平原が動いていくとバックでこれに併せるように松岡が発進。さらにその前の新田も踏み出していき捲り合戦に。直線の入口で新田と絡んだ平原が落車。このあおりで神山と浅井も落車。新田は構わず踏み続けましたが,内から掬うように村上が伸びて優勝。2着入線の新田は押し上げで失格の裁定。繰り上がって3車身差の2着に松岡。2車身差の3着に斉藤で確定。
                         
 優勝した京都の村上博幸選手は一昨年1月の向日町記念以来,およそ2年ぶりのグレードレース優勝。ビッグは3年前の西王座戦以来で6勝目。GⅠに限定すると2010年の風光る以来で3勝目。ここは並びから近畿の二段駆けがありそうなので,展開によってはチャンスがあるのではないかと思っていました。新田が引かずに粘ったのは僕には予想外で,おそらく新田に分断されることはないと考えていただろうと推測します。そういう意味では思ってもいなかった展開になったのではないでしょうか。結果的に脚を溜めることができ,松岡がいいところから発進してくれた恩恵が大きかったようには思います。

 各々の属性が実在的に区別されるなら,各属性ごとに必然性があり,それらの必然性は実在的に区別することが可能であると考えられるのではないかという疑問があるかもしれません。僕はこのこと自体については認めますが,それでも必然性は唯一であると解します。
 そもそも実在的区別というのが数的区別ではありません。スピノザが第一部定理八備考二で述べていることは,同じ本性を有する多数のものが存在するなら,それは様態であるということです。それは裏を返せば,もしもあるものと別のものが様態的に区別することができるなら,それらは同じ本性を有しているという意味です。したがって数的区別は様態的区別なのであり,実在的区別ではありません。このことは第一部定理五によって補強されます。同じ本性を有する複数の実体は存在しないので,仮に複数の実体が実在すると仮定したとしても,それは数的には区別されないということになるからです。また,実体ではなく実体の本性である属性の方に目を向けても,第一部定理一〇により属性は他の助けなしに概念されるのですから,ある属性と別の属性を数的に区別することは不可能だということになります。
 したがって,たとえば思惟の属性と延長の属性は,同じように属性ではある,つまり神の本性を構成していますが,ふたつの属性であるというわけではありません。むしろ実在的区別を無視し,思惟の属性という唯一の属性があり,また延長の属性という唯一の属性があるというように考える方が適切なのです。様態的区別が同じ本性を有する複数のものの区別で,数的区別がこの区別の一種であるのに対し,実在的区別というのは,異なった本性を有する唯一のものの間での区別と理解して,そう間違いではないと思います。
                         
 こうした事情に関しては,ドゥルーズが『スピノザと表現の問題』の第Ⅰ部第1章でかなり詳しく分析していて,大いに参考となるでしょう。
                         
 ごく簡単な考察ですがもっと読みやすいものとして,上野修の「無限に異なる同じもの」という論文があり,これは『デカルト,ホッブズ,スピノザ』という文庫本に所収されています。
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