goo blog サービス終了のお知らせ 

スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

スポンサーの増加&良心の起源

2022-04-02 19:00:33 | 将棋トピック
 佐藤が新会長となった後の体制で,大きな変化があったことのひとつが女流棋戦の増設ですが,もう一点,スポンサーの増加ということも挙げられると僕は考えています。
 代表的なのは,叡王戦の前主催者が主催を止めた後で,不二家が主催者として棋戦が継続したことでしょう。棋戦の主催というのは,新聞社をはじめとするメディア関係が務めてきました。不二家のような菓子の製造販売をする企業が棋戦を主催するというのは異例のことであり,これは将棋連盟の歴史にとって画期的な出来事であったといっていいでしょう。また,これは準公式戦ではありましたが,サントリーが棋戦を主催するということもありました。
 主催だけでなく,協賛者も増えました。以前のタイトル戦は,〇〇戦という名称でしたが,現在は××杯〇〇戦というのが珍しくなくなりました。また,××杯という名称は与えられていなくても,棋戦に協賛する企業が明らかに増加しているのは明白だといえるでしょう。さらに最近,名古屋対局場の新設が発表されましたが,これは会場をトヨタ自動車が無償で貸し出すとのことですから,棋戦の協賛社とはいえませんが,将棋連盟のスポンサーになったといういい方で間違いないと思います。
 もちろんこうしたことは,現在の将棋連盟の体制の力だけで可能になったことだとはいえません。炎の七番勝負でスター候補生であるということを内外に知らしめ,そして実際にスター街道を駆け上がっていった,あるいは今も駆け上がりつつある藤井聡太の影響なしにはこうしたことは起こり得なかったといえます。それは藤井が将棋界のスターであるということだけでなく,たとえば藤井が対局前にお茶を飲まなければ,あるいは対局中にチョコレートを食べなければ,今のような形でのスポンサーの増加はなかったかもしれないからです。ただ,こうしたスターが出現したという追い風を,追い風としてうまく利用することができるのかどうかということは,会社でいえば経営者の手腕によるところなのであり,将棋連盟でいえば会長を代表とする理事会の手腕ではあるでしょう。
 佐藤は叡王戦の新たな主催者を探すときに,まず不二家に話をもっていったと言っています。不二家を主催として棋戦を行うという発想ができただけでも,現在の体制は有能であると僕は思います。

 原罪と良心が関連するというニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの考え方は,簡単に示すと次のようなものになります。
                                       
 キリスト教に原罪という概念notioがあるということは有名です。これについてはここでは詳しく説明しません。この原罪というのは,現実的に存在する個々の人間にとって,贖うことができないような罪として与えられているものです。このために現実的に存在する人間は,贖うことができない罪を負っているという疚しさを感じることになります。この疚しさという思惟作用,あるいはこの疚しさを感じる精神mensの主体subjectumが,良心といわれるようになるのです。これは知の考古学の一種なのであって,良心という概念を考古学的に考察すれば,このような結論になるとニーチェはいっているのです。僕はこの指摘には正当性があると考えますが,そのことの是非はここでは探求しません。これを正しいと考えるか誤りであると考えるかは別に,ニーチェはそのように指摘しているということだけ理解しておいてください。
 このことは,たとえば良心の自由libertasといわれるときの良心よりは,幅が狭いかもしれません。ただ,良心というのは,疚しさを感じるときとか,痛み,精神的な痛みを感じるとき,あるいは呵責とか苛まれるような思いを感じるときに多くいわれることではあります。ですから原罪と関係しているのかどうかは別としても,疚しさという思惟作用,あるいは疚しさを感じるような思惟の主体と良心という概念を関連付けることは,理があることだということは分かるでしょう。
 同時にニーチェはこの概念を,ある負債として解しています。すなわち,現実的に存在する個々の人間にとって贖うことができない罪というのを,支払いが不可能な負債として理解するのです。そしてそれが良心の起源であるとニーチェはいっているのですから,そうした負債がない段階では,現実的に存在する人間は良心という概念を持たないということになります。その状態,人間が良心を持たない状態をニーチェは無垢な状態といいます。つまり負債,これは精神的な負債ですから,負い目という語で表現する方が的確かもしれませんが,この負い目がない状態を無垢な状態というのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女流棋戦の増設&パソコン

2022-03-26 19:01:02 | 将棋トピック
 将棋連盟には自浄能力があるということを対外的に示したと僕が思っている複数の理事の解任の後,解任された理事の代替の理事を決定する必要が生じました。解任は佐藤が新会長に就任してからのことでしたので,それらの新しい理事になってからが,本来的な意味での佐藤会長体制ということになります。そのときに,清水市代が理事に立候補し,理事のひとりとして就任しています。立候補というのは理事選挙に立候補するという意味で,これは将棋連盟が公益社団法人になる以前と以後で,選挙の意味が変わっているので,以前と同様の意味には解せないのですが,それはあまり深く考慮する必要はありません。
 将棋連盟という組織は,長らくプロ棋士と引退棋士によって構成されてきました。女流棋士はプロ棋士とは身分が異なるので,組織を構成していたわけではありません。したがって理事選挙に立候補するということ,あるいは同じことですが,理事になるということはできなかったのです。しかしこのルールは変更され,一定の実績を残した女流棋士は将棋連盟の正会員と認められることになったので,清水は理事に就任することができたのです。これは将棋連盟にとって大きな出来事であったと思います。
 常務理事に就任した清水は,渉外部と事業部を担当することになりました。これは清水が就任した2017年のことです。理事の任期は2年なので,清水は2019年にも理事になり,現在は経営企画室開発部という,その年に発足した部署と,経理部および渉外部を担当しています。そしてこの清水が理事になったことにより,女流棋戦の増設という大きな仕事がなされることになりました。もちろんこれを清水ひとりの力に帰することはできず,将棋連盟の佐藤体制下での功績とみなすべきでしょう。
 女流棋士による順位戦が創設されるなどということは,一昔前には考えられないことでした。解任がなければ清水が理事に就任することはなかったかもしれません。その場合,女流棋戦の増設もなかったかもしれません。

 11月22日,月曜日。妹を通所施設に送りました。帰宅してからパソコンを立ち上げようとしたのですが,どうしても起動してくれませんでした。これまでも起動が悪いときはあったのですが,電源を抜いて放電することで起動していたのです。ところがこの日はどうしても起動しませんでした。仕方がありませんから家電量販店に出掛け,新しいものを購入しました。
 起動しなくなったパソコンを購入したのは2015年11月のことです。僕はWindowsのパソコンを使い続けていて,そのときに購入したのはWindows8.1でした。これは10までヴァージョンアップが可能な製品です。翌年の2月に10にヴァージョンアップして使い続けていました。6年間これを使い続けたことになります。購入したのはWindows10の製品ですが,これも11へのヴァージョンアップには対応した製品でした。現在は11にアップグレードして使っています。両機種とも,一体型のパソコンです。
 この日,パソコンを購入した後で,かなり激しい雨が降ってきました。僕はバスで帰るつもりでいたのですが,あまりの降雨でしたからタクシーを使いました。僕は滅多にタクシーには乗りません。この前に乗ったのは,母の血圧が低下したという連絡をみなと赤十字病院の緩和病棟から電話で受け,朝早くに妹とふたりでみなと赤十字病院に向かったときです。つまり母が死んで以降にタクシーに乗ったのはこのときが初めてでした。これは2018年8月のことですから,3年以上は乗っていなかったことになります。僕がタクシーを使うというのはそれくらいレアケースなのです。
                                        
 11月23日,火曜日。午後4時10分に計画相談を請け負ってくれているKさんから電話がありました。Kさんの会社の名称が変わるために,新しい契約が必要になったとのことでした。会社名が変わっただけで,支援の内容,つまりKさんの業務に変化があるわけではありませんから,契約書だけを作成すれば目的は達成することができます。契約書には妹のサインと印鑑が必要で,妹にはグループホームで署名してもらうので,印鑑を用意しておいてほしいとのことでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

炎の七番勝負&2021年9月の通院

2022-03-15 19:06:48 | 将棋トピック
 藤井聡太の棋士デビューとAbemaTVの将棋チャンネルの開設が組み合わさった追い風というのは,炎の七番勝負のことです。これは2017年4月から放映された番組。収録はもっと早かった筈ですから佐藤が新会長に就任した後に企画されたものなのか,その前に企画されていたものであったのかは分かりません。チャンネルの開設が2月でしたから,開設後に企画されたのだとすれば,佐藤が会長となった後の企画だったことになります。
 番組の内容は,藤井が7人の棋士と対戦するというもの。相手は増田康宏,永瀬拓矢,斎藤慎太郎,中村太地,深浦康市,佐藤康光,羽生善治という錚々たる面々でした。デビューしたばかりの棋士を主役とする,これほど大掛かりな企画というのは異例で,その意味でかなり思い切った決断だったと思います。企画としては考えられる内容ですが,将棋連盟がこの企画にゴーサインを出したのは,僕にとっては意外でしたし,英断であるようにも思えました。
 僕は最初にこの企画を知ったとき,無茶なことをすると思いました。僕は藤井どれほどの棋士であるのかということを見誤っていたために,将来的に大成する棋士であるのは疑い得ないとしても,すぐにこれだけの棋士との対戦となると,善戦するのも難しいのではないかと思ったからです。藤井の師匠である杉本昌隆は,藤井が7連勝しても驚かないと言っていましたが,この時点で藤井にそれだけの力があると理解していた将棋ファンはほとんどいなかったのではないでしょうか。
 藤井はこの企画で6勝1敗という成績を修めました。これで僕は,本当にすごい棋士が現れたのだということを知ったのです。おそらく多くの人も同様だったと思います。藤井はこの時点で公式戦では負け知らずでしたが,棋士として実績を出していたというわけではありません。その実績の何もない棋士が,この企画によって大きく注目されていくことになり,この後の一つひとつの実績を積み上げていくさまを目撃することになったのです。中学生で棋士になったプロは過去にもいましたが,その棋士が世間的に注目されるようになったのは,何らかの実績をあげてからでした。仮にこの企画がなくても,藤井は最多連勝記録を達成しましたから,早い時点で注目の的にはなったでしょう。ただ,戦った相手という観点からすると,デビュー以来の連勝記録より,炎の七番勝負の方がより衝撃的でした。この企画により藤井は将棋界だけでないスターとなったのであり,このスターの誕生が将棋連盟の大きな追い風となったのです。

 この日の午後は内分泌科の通院でした。
 病院に到着したのは午後2時15分でした。中央検査室では5人の患者が採血の順番を待っていました。ですから僕は先に採尿を済ませ,注射針の処理もしてから採血をしました。
                                   
 この日は血糖値測定器を持参するのを忘れてしまいました。よってこの日はサマリーは受け取ることができませんでした。ただ測定器には記録は残っていますから,次回の診察のときのサマリーには,今回の期間分の記録も出てくることになります。なので僕のように概ね月に1度の通院をしているのなら,1度くらいは持参するのを忘れてしまっても,大した問題が生じてしまうというわけではありません。
 この日は診察が開始になったのが遅く,午後3時40分でした。前述したように,中央検査室にも多くの患者がいたわけですが,中央検査室の状況と内分泌科の混雑度合いは,必ずしもリンクするわけではありません。とはいえこの日は両方とも混んでいたわけですから,そこに何らかの関係はあったかもしれません。
 HbA1Cは6.7%と,8月の通院のときと同じ値になっていました。これは僕としてはかなり良好な値です。サマリーは出ていませんでしたが,低血糖の発症がほとんどなかったことは僕自身が分かっていました。ですから注射の量を変更する理由は何もありません。現状の措置を継続することになりました。そしてほかの異常は何も出ていませんでした。この日も臨時代行の医師による診察でしたが,10月になると主治医がこちらに戻ってきます。なのでこの臨時代行の医師の診察は,これで最後,というか僕にとっては8月と9月の2回だけで終了になりました。ただし前にもいったように,この臨時代行の医師は,今年の4月,つまり来月から主治医となる予定です。
 薬局にはインスリンも注射針も在庫がありました。おくすり手帳が一杯になってしまいましたので,新しいものをもらいました。以前は薬剤が印刷されたシールを帰宅後に僕がおくすり手帳に添付していましたが,今はおくすり手帳を薬局に持参していくようになりましたから,この添付も薬剤師がやるようになっています。帰宅したのは午後4時45分でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追い風&夏季休暇

2022-03-08 19:07:23 | 将棋トピック
 無実であった三浦に対して不当な処分を科したことにより,会長であった谷川と理事であった島は辞任。佐藤が新会長に就任した後,処分をした当時の理事に対する解任の動議が提出され,多くの理事が解任されました。このこと自体は将棋連盟には自浄能力があるということを外部に見せつけたという点から僕は評価していますが,組織としていえばこの時期の将棋連盟は大きなピンチを迎えていたといえるでしょう。しかし三浦のA級の地位の保全のために,僕には公平性に欠ける裁定が下されたことについて記述したときの最後にいったように,この時期の将棋連盟には幸運も舞い降りていたと僕は考えています。そもそもこの特例によって翌年のA級順位戦は11人が10局を戦うというルールになったわけですが,その結果として6人が6勝4敗で並んで名人挑戦をかけたパラマス式のトーナメントが行われることになりましたが,これなどはその典型であったといえるでしょう。苦境の末に出された苦肉の策によって,大きなドラマが生まれることとなったからです。もっともこれは1年後のことです。僕はこの同じ時期に,将棋連盟には向かい風だけでなく追い風も吹いていたと思っています。
                                        
 ちょうど三浦の処分が下される頃,藤井聡太が中学生で四段に昇段しました。中学生のうちにプロになった棋士はいずれも大成しています。藤井が後に大成することは間違いないと思われましたが,実際にはその想定以上の逸材であったのです。史上最強の棋士になるかもしれない逸材がこの時期にデビューしたのは,将棋連盟にとって追い風以外の何ものでもなかったでしょう。
 そして佐藤が新会長に就任した頃,AbemaTV内に将棋チャンネルが開設されました。当然ながらそれは急に開設できるものではなく,事前につまり谷川が会長であった時代から準備されていたものでしょう。このことにより手軽にプロの将棋を視聴することができるようになったという点で,将棋チャンネルの開設はきわめて大きな出来事,いい換えれば強い追い風でした。開設されて最初の中継が,2月のA級順位戦の一斉対局でしたが,こうした対局を簡単に視聴できるような機会は,それまでにはなかったからです。
 そしてこのふたつの追い風が,相乗効果を齎して,さらに強い追い風を吹かせていくことになります。

 8月12日,木曜日。この日から妹は夏季休暇に入りました。そしてこの日に,妹の通所施設から封書が届きました。これは緊急事態宣言の発出に伴うもので,夏季休暇明けの通所施設の予定に関する通知でした。緊急事態宣言中であっても,夏季休暇明けは通常通りに出勤することが可能というもので,ただし期間中は,自主的に自宅で待機することも可能であるということでした。これまでは緊急事態宣言中であれば,曜日を絞っての出勤となっていたのですが,このときから,毎日の出勤が可能になったということです。自主的な待機が可能というのは,たとえ自宅で待機しても,つまり通所施設に出勤しなくても,欠勤という扱いにはならないという意味です。
 8月13日,金曜日。妹の指定歯科であるみなと赤十字病院への通院がありました。この日もクリーニングをしただけです。以前は妹は熱いものや冷たいものを食べると,歯の痛みを訴えることがあったのですが,この頃からはそれも一切なくなっていました。たぶん妹の世話を僕が中心にするようになってから,歯の状態は最も良好なのではないかと思えます。
 8月14日,土曜日。午後5時にお寺の奥さんから電話がありました。秋の彼岸の塔婆に関する確認でした。
 8月17日,火曜日。妹の夏季休暇は16日まででしたので,この日に妹を通所施設に送りました。僕が購読している週刊競馬ブックは,発売が月曜日です。ですがこのときのように,妹が家にいる場合には月曜日に購入することはできません。僕は妹が滞在していても,午前中であればひとりで外出することがありますが,週刊競馬ブックは夕刊紙と一緒にコンビニエンスストアに配送されるので,その時間帯に購入することはできません。妹の起床後はさすがに妹をひとりで家に置いて外出するわけにはいきませんし,かといって週刊競馬ブックを買うために妹と一緒に外出するというのはばかげています。ハッピーマンデーの影響もあり,こうしたことは年に何回かありますが,こういう場合は火曜日の午前中に妹を通所施設に送った帰りに,上大岡のコンビニエンスストアで購入することにしています。もちろんこの日もそうでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

公平性&ワクチン接種

2022-02-28 19:21:30 | 将棋トピック
 三浦九段のA級の地位を保全するための特例が採用されたことにより,この期にA級から陥落する棋士はひとりだけということになりました。
 三浦の出場停止が解けた12月末の段階で,降級の可能性が高かったのは,順位が6位で1勝5敗だった森内九段と,順位が4位で同じく1勝5敗だった佐藤康光九段です。ほかの棋士は3勝以上していましたので,事実上このふたりのうちのどちらかが降級することはほぼ確定的でした。
 特例が決定する前の1月中に佐藤は負けて1勝6敗に。一方の森内は1月は三浦との対局が予定されていたため,不戦勝を得て2勝5敗になりました。僕が公平性を欠く部分があったと感じるのはこの点です。佐藤の1勝は三浦と対局して勝ったものです。対して森内は三浦とは対戦せずに1勝を獲得しました。もしも実際に対局があれば三浦が勝ったかもしれず,その点でA級に残留するのに森内は特例によって少しの有利を得たことになります。他面からいえば佐藤は不利を被ったといえるでしょう。
 特例は新会長になった佐藤を中心とした理事会で決定されたものです。その佐藤が不利を被るような裁定が下されたので,文句が出ることはありませんでした。しかも佐藤は2月と3月の対局を連勝し,森内は2月の対局には勝ったものの3月の最終局で敗れ,ふたりが3勝6敗で並んだために,順位が下位であった森内の方が降級となったので,公平性を欠いていたと思われるこの裁定が問題視されることも起こりませんでした。ですが,その時点で佐藤が三浦との対戦を終えていて,森内はまだだったというのは,事前に対局順が決定されていたことによるもので,これは偶然です。したがって可能性としていえば逆のパターンもあり得たわけです。するともしも同じ裁定が出た場合,新会長である佐藤にとって有利で,その時点では理事でもなかった森内にとっては不利だったことになります。するとそのような決定には納得できないという声が出ていたとしてもおかしくありません。
 結果的に,佐藤にとって不利な特例を採用することができたのは,会長候補として佐藤という人材が存在していたということと同様に,幸運であったというべきでしょう。この種の幸運が,なぜかこの当時の将棋連盟にはほかにも舞い降りたと僕は思っています。

 ほどなくして僕の順番が回ってきましたので,指定された小部屋に入室しました。小部屋といっても詳述したようにこの会場は体育館ですから,カーテンで仕切られただけの仮の部屋です。そこには医師が待機していて,問診を受けました。当日の体調の確認や,使用している薬剤などです。僕は念のためにおくすり手帳を持参していましたが,これが役に立つことになりました。
                                        
 この問診が終了すると,さらに奥の小部屋に通されました。もちろんこの部屋もカーテンで仕切られただけの仮設の部屋です。ここに別の医師が待機していて,その医師から新型コロナウイルスのワクチンの接種を受けました。接種が終わるとすぐにその部屋を出ました。接種前に待機していたのとは反対側に出たことになります。分かりやすくいえば,体育館の東側で待機していて,西側に出たということです。この東西の中央に,仮設の部屋が設置されていたということです。
 出た側にもパイプ椅子が並べてありました。ワクチンの接種の後の15分はその場で待機することになっていました。これは急な副反応,いわゆるアナフィラキシーが出た場合に対処するための措置です。ですから僕もそこに座って待機しました。とくに何事も起こらず,午後2時25分に待機が終了。会場を出ることが許されました。接種後に待機していた時間が15分であるとすれば,僕の接種が終了したのは午後2時10分。予約は午後2時だったわけですから,概ね順調に1回目の接種が終了したことになります。
 水分を多く接種するようにとの指示がありましたので,会場内にあった自動販売機で飲み物を買って飲みました。僕は基本的に自炊をしていますが,この日はなるべくゆっくりしたいと思っていましたので,帰路に夕食のための弁当とサラダを買って帰りました。帰宅したのは午後3時10分でした。
 副反応ですが,このときの接種で生じたのは接種部位の痛みだけで,熱は出ませんでした。ただ,接種した部位というのは肩に近いところですが,僕が痛みを感じたのはそれよりは下部,どちらかといえば肘に近い方です。この痛みは2日ほど続き,とくにベッドで横になっているときに強く感じました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

特例&預り金

2022-02-16 19:22:55 | 将棋トピック
 三浦九段の地位の保全について最も重大だったのは,順位戦のA級の地位でした。
 A級順位戦は定員が10人。原則的に6月に開幕し,3月までに10人が総当たりのリーグ戦を行います。優勝した棋士は名人に挑戦し,下位のふたりはリーグから陥落し,翌年度はB級1組で戦うことになります。
 この年度の三浦は6月の初戦で広瀬章人と対戦して負け。7月の佐藤康光に負け。8月は順位戦の対局はなく,9月に稲葉陽に負けて3連敗。対局停止の処分を受ける直前の10月3日に渡辺明に勝って1勝3敗。対局停止の期間中の屋敷伸之,行方尚史との対戦は不戦敗となっていました。
 9月まで1勝3敗の成績は,優勝して名人に挑戦する可能性は0とはいえませんがきわめて小さく,むしろ陥落する可能性がありました。勝敗だけを考えて最も公平にするためには,2戦の不戦敗を取り消し,対局をやり直すことだったと思います。ただ,日程面の問題はありますし,たとえその問題が解消できるとしても,不当な処分によって対局の機会を奪われていた三浦にとって,短期間で残りの5局を指すとなれば,明らかに不利です。なので特例として,残りの対局も不戦敗として,三浦は来期もA級に残留するという措置が講じられました。
 僕は今でも,最も公平であったのは,不戦敗を取り消して対局をやり直すことであったと思っています。ただし,不当な処分を受けた三浦に対して不利な措置を講じるということはあり得ないことなので,この特例というのはやむを得なかったとも思います。ただ,このために大きな問題が生じました。というのは,三浦はA級から陥落する可能性がある成績であったからです。三浦の地位を保全しておいて,その他にふたりが陥落するということになると,これはこれで陥落する棋士にとって不利になるでしょう。なのでこの期は,陥落をひとりとして,B級1組から昇級してくるふたりと合わせ,来期は11人のリーグ戦を行うことになりました。
 これで問題は解決のようですが,僕には必ずしもそうは思えませんでした。

 僕が『麻雀 理論と直感力の使い方』を読み終えたのは,昨年の5月16日でした。それ以降の日記です。
 5月17日,月曜日。妹を通所施設へ送りました。この日,妹が施設の入口から建物の間で転び,背中を打ってしまいました。前にもいいましたが,僕は妹と歩くときは常に手を繋いでいます。僕は坊主ですので外出するときは帽子をかぶっているのですが,この日はとても風が強く,その帽子が飛ばされてしまいました。なので僕は妹から手を離し,その帽子を取りに行ったのですが,手を離したことで妹がバランスを崩し,風にもあおられて転んでしまったようです。僕は帽子の方に気を取られていましたので,妹が転んだ瞬間は目撃していません。仰向けに倒れていましたので,背中から倒れたものと思います。妹は通所施設と家の往復のときはリュックを背負っていますので,それが緩衝となり,大事には至りませんでした。
 5月19日,水曜日。眼科検診に行きました。異常はありませんでした。
 5月20日,木曜日。グループホームから封書が届きました。これは妹の預かり金の残高の精算書と,預り金の使用明細書です。預り金というのは,たとえば妹がグループホームで個人的に食べるおやつを買うための金銭であり,要するにお小遣いのようなものだと思ってください。
 5月21日,金曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。帰りにО眼科に寄って,目薬を処方してもらいました。
                                   
 5月22日,土曜日。20日に送られてきた精算書と明細書は,僕の同意書が必要なものでした。なのでこの日にその同意書を送付しました。僕は送迎は特別の事情がない限りは通所施設に行っています。なのでグループホームに行くことはあまりありません。この書類はグループホームの書類でしたので,送付しました。通所施設の事務宛の書類については,僕は原則的に送迎のときに持参し,事務員に手渡すようにしています。
 5月24日,月曜日。妹を通所施設に送りました。
 5月25日,火曜日。駐車場の仲介事業を名乗る人が訪問してきました。僕の家の前のスペースを,駐車場として利用することができないかという打診でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地位の保全&秩序の違い

2022-02-05 19:12:20 | 将棋トピック
 三浦九段の経済的な面での損害の回復は,当事者間での和解が成立しましたし,それは三浦九段も納得することができたということだと思いますので,僕の方からは何もいうことはありません。そしてもうひとつ重要だったのが,三浦の地位の保全に関することで,それも新会長としての佐藤の大きな仕事であったといえます。
 竜王戦に関しては,竜王を獲得するという機会は失われましたが,対局をすれば必ず獲得することができるというわけではありません。挑戦して失敗した場合は,次の期は1組から出場することになります。ですからこれは三浦に1組の地位を与えれば,それで地位は保全されたということになります。
 同じように対局の機会を失った王位戦に関しても,リーグに入ることや挑戦者になってタイトルを獲得するための機会は失われました。ただそれも,必ずリーグに入るまで勝ち上がることができたとは限りませんし,リーグに入っても挑戦者になれるとは限りません。また,リーグに残留することができるというものでもありません。リーグ入りして陥落した棋士と,リーグに入ることができなかった場合は,次の期は予選からの出場になります。とくに王位戦の場合,リーグ戦と予選があるだけで,予選に格式,たとえば一次予選と二次予選といったような格式がありません。実績や順位戦の地位と関係なく,A級であろうがフリークラスであろうが,タイトル保持者とリーグの残留者以外は同じ条件の予選からの出場になります。そして三浦はリーグ戦で不戦敗になってリーグを陥落したわけではなく,予選で不戦敗になり,直接的にはリーグに入る機会を失ったわけです。したがって次の期も予選から出場するということで,地位は保全されることになります。
 最大の問題は,一年間をかけて戦うリーグ戦である順位戦の地位です。三浦はA級に在籍していましたが,そのA級の地位の保全には特例が採用されることになりました。ただこの特例のために,やや公平性に欠けることになったという見解を僕は有しています。

 青野が右脳と左脳の対決ということで,どのようなことをいわんとしているのかは分かりました。ただ,僕の見解opinioとしていえば,これを対決というのは,青野がそのように表象しているだけであり,実際に対決が生じているわけではありません。もっと一般的にいえば,右脳が出す結論と左脳が出す結論が異なるからといって,直ちにそれを対決ということはできません。第三種の認識cognitio tertii generisで出した結論を,第二種の認識cognitio secundi generisによって精査したとき,当初の結論とは異なった結論が出てきてしまうということは,現実的に存在する人間の知性intellectusにおいては生じ得ると僕は考えます。こうしたことが生じてしまうことにはきちんとした理由があるのですが,このことは前に飯田が第三種の認識に依拠してプレイした内容をうまく説明することができなかったということと若干の関係を有しますので,まずそのふたつをまとめて説明します。そしてこの説明によって,青野の右脳と左脳の分節もまた,第三種の認識と第二種の認識に同一視することができるということも理解できるでしょう。
                                        
 第三種の認識によって出した結論は,第二種の認識の蓄積に依拠します。ただ,現実的に存在する人間の知性のうちにある第二種の認識による諸々の観念ideaは,ある特定の秩序ordoと連結connexioを保って存在しているので,その秩序と連結を,第三種の認識で出した結論に秩序立てたり連結させたりすれば,第三種の認識を第二種の認識によって理解することができ,理解することができれば説明することが容易になります。しかしそれができないと,なぜその第三種の認識が自分の知性のうちに生じたのかということを理解することがままならず,よって説明することはできないのです。つまり,たとえ同一の結論が出る場合であっても,第三種の認識の秩序と,第二種の認識による秩序というのは,同じ人間の知性のうちにあって異なるのです。いい換えれば,現実的に存在するある人間の知性が,ある物事を第二種の認識で認識するcognoscere適性と,その同じ物事を第三種の認識で認識する適性というのは,同一ではありません。スピノザはこのことをそのままいっているわけではありませんが,正しいということは論証できます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

損害の回復&最善の応手

2022-01-29 19:07:00 | 将棋トピック
 辞任した谷川に後継者として指名される形で新会長の地位に就いた佐藤が,まず対処しなければならない課題ははっきりとしていました。それはいうまでもなく,三浦に対してなされた不合理な処分によって三浦が被った損害を,いかなる形で回復するのかということです。これには主に3つの観点がありました。
 処分は,三浦が確約した休場届の提出を拒んだことに対するものと解せるものになっていましたが,第三者委員会の調査の中心となったのが,三浦九段がコンピュータから指し手の援助を受けていたのか否かであったということから分かるように,最大の焦点はそこにありました。したがって処分を下したということは,実際には無罪の三浦を有罪と誤審したのに等しく,これによって三浦の名誉は著しく傷つけられました。これは三浦自身のプライドという観点からもそうですし,ファンなども含めた周囲の人間の三浦に対する目という観点からも同様です。これに対しては慰謝料に類するような,何らかの対処が必要なのは明白でした。
 次に,三浦は竜王戦の挑戦権を獲得したにも関わらず,交替という措置を受けました。つまり指せる筈であった対局が指せなくなったのであり,その分の対局料の収入を得られませんでした。またもしも指していれば竜王を獲得したかもしれず,その賞金を得ることができなかったという可能性もあります。それからもうひとつ,王位戦で予選の3回戦まで進出していましたが,その対局機会も剝奪されました。これもリーグに入るとか挑戦者になって王位を獲得するという可能性が皆無だったわけではありません。こうしたことから分かるように,明確な経済的損失がありました。
 この部分は,後に将棋連盟と三浦九段との間で和解が成立しました。和解の内容がどうであったかは不明ですが,当事者間で納得することができたのならそれでいいでしょう。僕はこのふたつの点に関しては,とくにいうことはありません。 

 続いて,この詰将棋を☗2四桂までは直観scientia intuitivaで解けるのに,それ以降は論理的な思考に僕が頼らなければならない理由を説明します。
                                        
 この詰将棋は初手に☗3一金と打ったとき,正解の☖3一同銀のほかに,☖1一玉と逃げる手と☖1二玉と逃げる手はあり得ます。あり得るというのは,ルールには違反しないということです。ですがここは☖同銀と取ると僕の知性intellectusは直観的に認識するcognoscereのです。次に,☗1二飛成とした局面は☖同玉と取る一手であり,それ以外の手はルール違反になります。そこで☗2四桂と打つと,正解の☖2二玉のほか,☖1一玉と逃げる手および☖2一玉と逃げる手が,ルールに反さずに成立します。このとき,どこに逃げる手が正解であるかが,僕は出題図を一瞥しただけでは直観的に認識することができないのです。
 そこで論理的思考に頼ります。すると,☖1一玉と逃げる手と☖2一玉と逃げる手は,☗1二金と打って詰むということが分かります。なので一旦は☖2二玉と逃げ,☗1一角☖同玉に☗1二金が正解手順であると理解します。なお,☗1一角と打ったときには☖2一玉と逃げる手も成立し,それも☗1二金と打って詰みます。これもこの詰将棋の正解ではあります。
 詰将棋というのは,最初にいっておいたように,攻め方が玉方の玉を王手の連続で詰みに持ち込むパズルです。ただそこにはいくつかの制約があって,玉方は最善を尽くす,つまりなるべく手順が長くなるように対応しなければならないということはそのひとつです。ここから分かるように,詰将棋というのは単にどの王手を掛ければよいかということだけが理解できればよいというわけではなく,玉方がどのように対応するのが最善かということも理解できなければならないのです。僕がこの詰将棋を直観的には途中までしか進められないのは,玉方の最善の対応を直観的には理解できないということと関係します。つまり僕の直観は,これはこの詰将棋の場合ですが,攻め方の王手に対しては働くのですが,玉方の最善の応手に対しては働かないのです。そしてそれが働かないのは,おそらくそれが働くための第二種の認識cognitio secundi generisの蓄積が,僕の知性のうちにはないからです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新会長&勝負の視点

2022-01-22 19:22:17 | 将棋トピック
 動議と解任によって日本将棋連盟が自浄能力があるということを示した時期より前のことになりますが,会長である谷川は辞任していました。このために新しい会長を選出する必要がありました。
 将棋連盟の会長は,会社に喩えれば社長です。その観点からは経営能力や実務能力が問われるのであり,棋力は無関係です。ですが将棋連盟は会社ではなく,社団法人ですので,会長は将棋界の顔,少なくともプロの将棋棋士の顔という面を合わせもちます。この面からは棋力や実績というものが求められます。たとえば会長がスポンサーなど,外部の組織の実力者と対面するとき,会長に将棋そのものの実力や実績があるかないかということは,おそらく重視される要素になり得るからです。このために将棋連盟の会長というのは,棋士としての実績を持つ者がずっと務めてきたという歴史があるのです。
 しかしこのときは,単に実力や実績があればよいというものではありませんでした。それはいうまでもなく,谷川が辞任した理由というのが,三浦九段に対する処分の不適切さにあったからです。したがって,次の会長は,ただ棋力や実績があるというだけでは不十分で,三浦九段本人や三浦九段の無実を支持して支援した棋士たちが納得することができる人材でなければならなかったからです。辞任する谷川が白羽の矢を立てたのは佐藤康光で,佐藤は谷川が辞任した後の理事選挙に立候補し,会長を務めることになりました。
 棋士としての実績でいうと佐藤は谷川には劣りますが,永世称号を獲得している棋士であり,将棋連盟の顔になるには十分です。一方で,処分が明けて復帰することになった三浦は,それに先立つ記者会見の中で,佐藤は十分に信頼に値する人物であるという主旨の発言をしていて,こちらの面でも問題は生じることがありませんでした。
 このとき,佐藤のような,棋士としての実績が十分でかつ三浦からも信頼されている人材が将棋連盟の中に存在したことは,まことに幸運だったと僕は思います。もし佐藤が存在しなければ,その後の将棋連盟の進路は大きく変わってたかもしれません。

 ことばと観念というのが異なったものであるということ,そしてそれがどのように異なっているのかということは理解できたと思います。そしてこのために,自身の精神mensのうちにある観念ideaがあるからといって,だれであってもそれをうまく言語化することができるわけではないのです。もちろんそこには得手不得手というものがあるのですが,飯田はおそらくそれがきわめて不得手な人物であったのだろうと推測されます。飯田は確かに第三種の認識cognitio tertii generisに依拠して麻雀をプレイしていて,その第三種の認識を発揮するだけの第二種の認識cognitio secundi generisが知性intellectusのうちに蓄積されていたのですが,その第二種の認識によって形成された観念がいかなる観念であるのかということを,他者に伝わるような仕方で言語化することはできなかったのだろうということです。
 近藤は,僕のようにスピノザの哲学に依拠した理解ではなく,右脳と左脳の働きの差異によって飯田のことを理解していますので,記述上の説明は異なります。すなわち飯田は,右脳の働きのあり方を,左脳によって言語化することができなかったというように理解しています。ただこれは手法の違いであって,それを脳の働きで説明するか哲学で説明するかの相違だと僕は解します。近藤がなそうとしているのは,飯田が言語化することができなかったことを,自ら言語化しようということだともいえます。最初に紹介したように,飯田は最強のプロの麻雀のプレイヤーであった可能性があると僕は思っていますが,飯田のどこが強かったのかとか,飯田がなぜ強かったのかということは,飯田自身が言語化して説明できなかったので,よく知られていないというのが実際のところです。近藤の著書は自身のプレイの解説に終始していますが,近藤は飯田の強さを言語化して広く伝えようという意図はおそらくもっていて,著書はそのような試みのひとつであるという見方もできるかと思います。
                                            
 この右脳と左脳の働きの相違については,同じようにそれに着目していた将棋の棋士がいます。青野照市です。青野に『勝負の視点』という著書があるのですが,その中に週刊将棋に寄せた「右脳が左脳に勝つ日」という文章が含まれています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自浄能力&結果としての行動

2022-01-15 19:20:51 | 将棋トピック
 僕の吟味の内容は合理性の比較であったということをもって,あったとされる抗議に対する僕の解答はすべてです。僕は三浦九段がコンピュータから指し手の援助を受けていたとは最初から考えていませんでしたし,それを第三種の認識cognitio tertii generisで認識していたのです。文章の解釈は多様であって,それは読者に任されるものであると僕は思っていますが,とはいえ僕が三浦九段がコンピュータから指し手の援助を受けていたと思っていたというように解されたのは,僕にとってはとても不本意なことでした。
 なので抗議に対してこれ以上は何もいうことはないのですが,その後に生じた様ざまな出来事について,僕は思うところがいろいろとありました。せっかくの機会ですから,そうしたことについてもいくつか綴っていくことにします。
 三浦九段に対する処分は,再構成の中でもいったように,表面上は三浦九段が出すと確約した休場届を提出しなかったことに対するものであるということになっていました。というかそのように読めるものになっていました。ただ,コンピュータから指し手の援助を受けていたのか受けていなかったのかということは,処分の理由とは無関係に重要なことですので,このことについては外部の第三者委員会で調査されることになりました。そして調査の結果,その事実がなかったということが確かめられたのです。これは僕が考えていた通りの結論だったので,僕としては当然のものとして受け止めることができました。
 この調査結果により,当時の将棋連盟の会長であった谷川と,理事であった島は辞任しました。理事の中で島だけが辞任した理由は僕にははっきりとは分からなかったのですが,おそらくこの処分に最も関与していた理事が島であったからだと推測しました。ただこれだけでは収束せず,後に会員からの動議と投票により,ほかにも理事が解任されることになりました。
 僕はこういったことは,内部の結束を弱めるとしても,よいことだと思いました。それは将棋連盟という組織は,自浄能力がある組織であるということを,外部に示すのには大いに役立つと思ったからです。ほかと比べるのはよくないかもしれませんが,同じ公益社団法人である日本相撲協会と比較すれば,日本将棋連盟の方がよほど健全な組織であると僕には思えました。

 一口にオカルトといっても,その種別はいろいろあります。そしてそれは,個々の麻雀のプレイと関係ないところにまで及びます。僕は一般にゲンを担ぐというようなこともオカルトに入るといいました。それは,ゲンを担いだとしても,勝負の結果effectusとは無関係であるからです。つまり何らかのゲンを担ぐということが原因causaとなって,勝利という結果が生じるということはありません。スピノザの哲学でいえば,ゲンを担ぐということと勝負の結果との間の関係は,第一部公理三でいわれている関係には該当しません。そしてこれは勝負一般に該当するのですから,麻雀の勝負の場合にも,当然ながら妥当します。だからといって,ゲンを担ぐプレイヤーが存在しなくなるということはありません。それは近藤がいうように,それが心の拠り所となり得るからだというのは,ひとつの理由としてあるのではないでしょうか。
                                         
 たとえばお寺にお詣りに行くとか,プレイ中にお守りを忍ばせるといったようなことで,精神状態が安定するということはあり得ます。ですからそれによって受動感情に惑わされず,理性ratioに基づいてプレイすることができるようになるというケースは考えられないことではありません。これはつまり,ある種のオカルトに依拠することによって,理性に基づいて行動することができるようになるということです。スピノザが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』でいっているのは,あくまでも受動passioによって行動するのであっても,それが理性に基づく行動と一致するなら構わないということであり,上述の例とは異なります。上述の例は,受動による行動によって能動的な行動を発揮しやすくなるということなので,行動自体だけでいうと,スピノザが示しているのは受動であるのに対し,上述の例は能動actioであるからです。しかしそこには一致しているところもあるのであって,それは結果としての行動が,理性に基づいたものであるという点です。そしてある種のオカルトが,理性に基づくプレイの要因となるということが,麻雀の場合にも確かにあるのであって,だからオカルトを全面的には否定しないと近藤はいっているのだと,この部分を解釈することが可能であると僕は考えています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

合理性の比較&対人関係

2022-01-06 19:07:09 | 将棋トピック
 僕は第三種の認識cognitio tertii generisで,三浦九段がコンピュータから指し手の援助を受けていないと認識したわけですが,そう認識するcognoscereときの具体的な吟味というのがどのようなものであったのかということは,おおよそここまでの説明から理解してもらえたと思います。一言でいえば,それは合理性の比較,三浦九段の合理性と将棋連盟の合理性の比較であったわけです。つまり僕は,三浦九段がコンピュータから指し手の援助を受けるということはきわめて非合理的なことであり,かつ棋士がコンピュータから指し手の援助を受ける蓋然性が低いという三浦九段の合理性と,実際に処分を下したという将棋連盟の合理性とを比較して,三浦九段の合理性の方が高い,それも圧倒的に高いと判断したがゆえに,三浦九段はコンピュータから指し手の援助を受けていないという結論に至ったのだということです。
 こうした吟味というのは,必ずしも今回の再構成の中でのみ果たされたわけではなく,その当時から僕はそのような吟味をしていたのだということを証明することはできません。ただ僕は,当時の竜王戦の記事の中で,処分が下されたということは,将棋連盟が何らかの確証を得ていると解するのが合理的ではあるけれども,そうした合理的判断を将棋連盟に適用可能であるかは確信がもてないという意味のことを書いていて,これはこうした合理性の比較に依拠した記述です。これ以上のことはいえませんが,もしこれが合理性の比較という吟味が行われていたということを導いてくれるのなら,僕にとっては幸いです。
 ただ今から考えればこの記述は,一般的に将棋連盟は合理的な判断ができない組織であるという意味に解釈されるおそれがあるものでした。僕はそのようなことをいいたかったわけではなく,三浦九段の合理性の方が高いということを暗に匂わせるためにそう書いたのですが,誤解を招く表現をしていたことにはお詫びしなければなりません。ただ逆にいえばこれは,こういう記述をしてしまうくらい,僕は三浦九段がコンピュータの援助を受けていないということを確実視していたのだとご理解ください。

 僕が示した例は,個々のプレイの内容に着目するより,対人関係に注目する方が理解が容易になると思います。
                                        
 あるプレイヤーが,Aというプレイヤーと一緒にプレイをすると負けてしまうことが多く,逆にBというプレイヤーと一緒にプレイをすると勝つことが多いと仮定します。これは俗にカモと苦手といわれるもので,勝負事ではこうした関係が生じることがままあります。そこで,カモを相手にした場合は失点を恐れずに得点の獲得を目指し,逆に苦手を相手にした場合は得点の獲得を断念して失点の回避に向かうという打ち方をするなら,これは基本的にオカルトに属します。というのは,これは自分の得点状況や手の中にある牌が同一であったとしても,打ち方が変化するということになるからです。たとえばある場面で,リーチを宣言したのがAであるかBであるかだけで,自身がどのように打つのかということが変わってくるとすれば,それは単一の合理性に基づいたプレイであるとはいえません。したがってデジタルではなくオカルトであることになります。
 僕がこの例について,基本的にオカルトであるといったのは,デジタルに基づいてもこういう場合が生じる場合はないわけではないからです。たとえば,Aというプレイヤーはきわめて慎重に吟味して何を捨てまた何を残すかということを決定し,リーチを宣言したときの成功の精度,つまり得点を獲得する確率が高く,Bというプレイヤーは,最初からとにかくテンパイを目指し,テンパイをしたらリーチを宣言するというプレイヤーであるとしましょう。この場合,リーチを宣言する回数はAよりもBの方が多くなりますが,リーチを宣言した場合に得点を獲得することができる確率は,BよりもAの方が高くなります。そしてこうしたことがAとBというプレイヤーの性質として十全に認識されているとすれば,Aのリーチ宣言とBのリーチ宣言に対して,同じようにプレイしないということにも,一定の合理性があります。すなわち,Bのリーチに対してよりもAのリーチに対しての方に,より失点の回避を重視するということはあり得るのです。この場合はプレイの内容が変わってもデジタルです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

理由と内容&第五部定理三

2021-12-18 18:53:53 | 将棋トピック
 処分の場合は僕にとって看過することができない事象ではあったのですが,それが三浦九段の合理性を覆すようなことではないと判断しました。その理由はふたつありました。
 ひとつは処分の理由です。将棋連盟が発表した処分に関する理由は,三浦九段がコンピュータから指し手の援助を受けているということを含んでいませんでした。むしろ,将棋連盟が三浦九段に休場届の提出を要請し,三浦九段がその要請を汲んだのだけれども,休場届を提出しなかったことに対する処分であると読めるものになっていました。したがって,それが処分の理由であるのなら,三浦九段がコンピュータから指し手の援助を受けていたということについては,何の確証を有していなくとも下すことができる処分です。つまり処分の理由がこのようなものとして解せる以上,そうした確証は将棋連盟の中にはないのではないかと予測することができました。このためにそれは三浦九段の合理性を覆すほどの根拠にはなり得ていないと僕には思えたのです。
 もうひとつの理由は,処分そのものの内容でした。この処分は三浦九段に対してその年内の対局に出場することを禁止するものであったのですが,もしも三浦九段がコンピュータから指し手の援助を受けているのだとしたら,あまりに軽い内容だと僕には思えました。もしも本当にそのような行為をしていたのなら,たとえば除名のようなきわめて厳しい処分が下されたとしてもおかしくないだろうと思えました。もちろんこれは僕の独断であって,それが本当に適切な処分の内容であるとはいえませんが,僕はそのような認識をもっていたわけです。ですから,およそ3ヶ月ほどの対局への出場停止の処分であるということは,コンピュータの援助に関する証拠を将棋連盟が握っていないのではないかと僕に思わせるのに十分であったのです。
 三浦九段が指し手の援助を受けるということがきわめて非合理的なことであるという認識は,少なくとも僕の中で揺るぎないものです。それを処分の合理性と比較させた上で,僕は判断を下しました。

 現実的に存在する人間は,どのような決意decretumをしたところで,受動感情から逃れること,いい換えれば,受動感情を感じずに生きていくということはできません。ただし,感じたその感情affectusに対して一切の対抗ができないというわけではありません。それが受動感情の力potentiaに対する現実的に存在する人間の力ということになります。ここでは第五部定理三をみてみましょう。
                                   
 「受動という感情は,我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成するや否や,受動であることを止めるAffectus,qui passio est,desinit esse passio, simulatque ejus claram,et distinctam a formali causa,quatenus Mens ipsa aeterna est.)」。
 僕たちは受動感情から免れることはできません。ですがある感情の働きを受けたときに,そのことについて明瞭判然とした観念を形成することができれば,それは受動ではなくなるのです。したがって,僕たちは,受動感情を免れることはできないのですが,だからといってその感情にいつもいつも引きずられてしまうとは限りません。それどころか,もしも僕たちが受動感情に刺激されるafficiそのたびごとに,その感情に関してそれを明瞭判然と認識しさえすれば,受動感情に引きずられるということは一切ないのです。僕は前に,不安metusなり希望spesないしは欲望cupiditasといった感情によってプレイヤーが捨てる牌を決定するdeterminareとき,それは虚偽falsitasではなく誤謬errorであるといいましたが,そのことはこの定理Propositioからも明らかだといえるでしょう。なぜなら受動感情によって捨てる牌を決定するということは,この定理からしてその感情について明瞭判然とした観念ideaがそのプレイヤーの知性intellectusのうちに存在しないがゆえの行為であることになりますから,それは虚偽が虚偽であるという認識cognitioが存在していないということを直ちに意味し,よってそれは誤謬であるということになるからです。
 ひとつ注意しておいてほしいのは,この定理では受動感情について形成される観念が,十全adaequatumとはいわれずに明瞭判然といわれている点です。スピノザの哲学で観念が明瞭判然と形容される場合は,十全ということを意味する場合もありますが,そうでない場合もあります。要するに明瞭判然というのは十全よりも広くわたります。これはスピノザが,一口に混乱した観念idea inadaequataといっても,混乱の度合いには差があるというように考えているからです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

処分の場合&誤謬の発生

2021-12-11 19:11:32 | 将棋トピック
 離席の場合は,それが三浦九段が非合理的なことをしないということ,そしてそもそもコンピュータから指し手の援助を受ける蓋然性が低いということを覆すような根拠になるとは僕には考えられませんでした。ただ,実際のところをいえば,当時の僕がこのことを詳しく吟味したのかといえば,必ずしもそうはいえません。このことは,三浦九段が指し手の援助を受けたということについては何も論証していないのですから,不利な状況といえば不利な状況なのでしょうが,それほど大きな不利であるとは思えなかったといった方がより正確だったかもしれません。
 しかしもうひとつの点,現実的に三浦九段に処分が下されたという点に関しては,僕には大きな事象と思えました。今から考えれば,確かに当時はコンピュータを用いた研究によってどれほどの棋力の上昇が見込めるのかということが分かっていなかったですし,そのことは単に棋士の間でそうであったというだけでなく,僕のようなファンの間でも同様だったと考えなければなりませんが,そうした当時の状況というのを差し引いても,処分が下されるのであれば下されるだけの理由があるのでなければなりません。これは一般論としてそうなのですから,この件の場合にも妥当するのでなければなりません。したがって三浦九段には処分されるだけの理由がある,逆にいえば処分を下した将棋連盟の側には,処分を下すだけの明確な理由があるのだという判断が,当時の僕にはあったのです。そしてその明確な理由というのは,処分が指し手の援助を受けたことに対してであるのなら,三浦九段が指し手の援助を受けていたということに関する何らかの証拠でなければなりません。
 僕がその当時にこういった認識をもっていたということは,竜王戦について書いた記事に,こうした認識を有すること自体が合理的な判断であるという主旨のことを記述されていることからご理解いただけるものと思います。ですがこのことも,三浦九段側の合理性を覆すほどの根拠にはならないと僕は考えていました。次回はその理由を示すことにします。

 麻雀のようなゲームにおける誤謬errorというのは,多くの場合はふたつのケースから発生するといえます。そしてそれは,オカルトであるかデジタルであるかということとはあまり関係がありません。ひとつは思考の不足privatioから生じる誤謬で,もうひとつは受動感情への隷属servitusから生じる誤謬です。これらの誤謬には,デジタルなプレイヤーもオカルトのプレイヤーも陥る可能性があるので,その差異によって誤謬の有無を決定することはできないのです。順に説明していきましょう。
                                   
 思考の不足というのは,第二種の認識cognitio secundi generisによって十分にある事柄を認識したと思い込んでしまうときに生じる誤謬です。このとき,第二種の認識つまりデジタルな認識によって十分に認識したというようにそのプレイヤーは思い込むのですから,実際には十分ではないということ,いい換えれば思考の不足が生じているということにはそのプレイヤーは気付きません。したがって,当然ながら不足した思考からは真理veritasではなく虚偽falsitasが生じることになり,かつその虚偽を虚偽であるという認識は生じていないということになります。つまりこれは誤謬に該当することになるのです。これはたとえば単純な計算をするときにミスをしてしまうという類のものであり,錯覚とかポカといわれるようなミスはすべてこれに該当します。ただ,このようなミスは人間には避けられない,すなわちオカルトであるかデジタルであるかとは関係なく生じることがあるものですから,この誤謬があまり多く生じてしまうような場合は単にそのプレイヤーのそのゲームに対する実力が低いということになりますが,そうでないならばゲームの実力そのものと直結するような誤謬であるとはいえないでしょう。
 受動感情への隷属というのは,ある感情affectusに流されてしまうがために生じる誤謬です。受動感情に隷属するということ自体は,第四部定理四系により,現実的に存在するすべての人間に妥当するのですから,プレイヤーがオカルトを重視するのかデジタルに即するのかということとは関係ありません。この点はとても重要なので注意してください。デジタルに即するプレイヤーには何の感情もないというわけではないのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

離席の場合&区分

2021-12-04 19:22:23 | 将棋トピック
 三浦九段にとって不利な状況であると当時の僕に思えたのは,二点だけでした。しかしその二点を考慮に入れても,当時の僕はそれらは,三浦九段が非合理的なことをしないとか,そもそも三浦九段がコンピュータから指し手の援助を受ける蓋然性が低いということを覆す要因にはならないと考えました。ここからはその理由を詳しく説明していくことにします。
 このうち,不自然な離席に対する合理的な説明がなされていないということについては,たとえそれがなされていなかったとしても,不自然に離席しているからといって,それがすぐにコンピュータによる指し手の援助に繋がるかということが不分明に思えました。つまりこれは,仮に三浦九段がコンピュータから指し手の援助を受けているとして,そのための時間が三浦九段にはあったということだけを論証しているのであって,三浦九段が指し手の援助を受けているということそのものについては何も論証していません。さらにいうと,この種の不自然な離席を三浦九段だけがしていてほかの棋士はだれひとりとしてしていないということも示していません。もしそれが三浦九段に特有の行動であったとすれば,そのことで三浦九段が何らかの疑義をかけられたとしてもおかしくないということは僕も認めていましたが,事情がそうであったということは何もいわれていませんでしたし,僕は一ファンであって棋士の行動というのを逐一知っていたというわけではありませんが,それが三浦九段に特有の行動であるというようにも思えませんでした。そもそも当時は,対局場から外出することが許容されていたのですから,僕のように判断するのは自然だったと思います。
 仮に特有の行動であったとしても,それは何らかの疑義をかける理由にはなるというだけであって,それが指し手の援助を受けているということを証明しているわけではありません。なので三浦九段が不自然な離席に対して合理的な説明をしていないということは,当時の僕は事実としてそうであるし,三浦九段にとって不利な状況であると認識していましたが,だからといってそれは疑惑を正当化するような根拠にはなり得ませんでした。

 結局のところ,どう打つかという点で似通ってくるのは,デジタルであるかオカルトであるかという点より,雀風がどのようなものであるのかという点の方が大きく影響します。とりわけ,何の情報もないような場面,つまりゲームが始まったばかりの東一局などは,オカルト的な要素を発揮する要因がほとんど与えられていないわけですから,雀風が一致するオカルトプレイヤーとデジタルプレイヤーの打ち方の方が,雀風が一致しないオカルトプレイヤー同士やデジタルプレイヤー同士の打ち方よりも,似通ってくることになります。
                                        
 さらに例として示したこの南四局のように,各々のプレイヤーのするべきことが決定しているような局面では,オカルトであるかデジタルであるかということはもちろん,雀風がどうあるのかということと関係なく,打ち方はほぼ一致します。最も分かりやすい例でいえば,この局面でフェニックスの立場で打つのなら,だれであれとりあえず2000点を確保した上で,あとはとにかくスピードを重視して打つことになるからです。これはそのプレイヤーがデジタルであるかオカルトであるかということとは関係ありませんし,たとえそのプレイヤーが,スピードよりも得点を重視するタイプであったとしても,2000点のテンパイをスルーして8000点のテンパイを目指すなどということはあり得ないからです。
 僕がこの部分の考察の始めの方に,オカルトとデジタルという区分は確かに存在し,かつ存在すると認識されているけれども,実際にはそう思われているほどの相違があるわけではないという主旨のことをいったのは,こうした事情に左右されてはならないと考えるからです。いい換えれば,近藤が直感とオカルトは異なるというときのオカルトは,デジタルと反対の意味でのオカルトではあるのですが,だからといってデジタルはオカルトとは反対の打ち方をするという意味ではないのです。それが実際に意味しているところが何であるのかということは,後に示します。
 もうひとつ気を付けておいてほしいのは,オカルト派のプレイヤーはデジタルな打ち方ができないプレイヤーであるというわけではないということです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

研究&1024個

2021-09-10 19:04:47 | 将棋トピック
 三浦九段がコンピューターから指し手の援助を受けているか否かを当時の僕が判断するときに,三浦九段にとって不利な状況と思えることは,2点だけでした。ただ,これは僕からみた場合であって,当事者たち,つまり棋士たちの間では,少なくとも現在と比べたときには,三浦九段にとって不利と思える別の状況が確かに存在していたと僕は考えます。この点についても説明しておかないと,おそらく不公平になるでしょう。
 三浦九段は2013年4月20日に行われた,第2回電王戦の第五局に出場し,GPS将棋と対戦しました。この準備のために三浦九段にはGPS将棋が貸与され,その後も三浦九段はソフトを使用した研究を続けていました。しかし当時は,ソフトを使用して将棋の研究をするという棋士は少数でした。このために,ソフトを使って研究をすることで棋士の棋力がどれくらい向上するのかということはまったく分かっていませんでした。というか,そもそもソフトを用いた研究が,有益であるのかどうかさえ半信半疑といった状況であったのです。現在は,AIの棋力が人間全般の棋力を上回っているということが知られているだけでなく,AIを研究に導入することで,人間の棋力を向上させることができる,いい換えればAIを将棋の研究に導入することがきわめて有効であるということがはっきりしています。なので2021年の状況と,2016年の状況というのは大きく異なっていて,その分だけ三浦九段にとっては不利であったのです。
 三浦九段はこの当時,自分はソフトを用いて研究しているのだから,自身の指し手とソフトの推奨手の一致率が高くなっても不思議ではない,という主旨の発言をしていました。この発言が今されたとしたら,だれでもそれに納得ができるでしょう。ところが当時はそういう状況になかったために,この発言自体に信憑性があるというようにすら認識されなかったのです。三浦九段はこの時点では3年くらいはソフトを用いた研究をしていたのですから,本当は三浦九段はきわめて当然のことを言っていただけなのです。
 当時の状況からして,三浦九段のこの発言の信憑性が,棋士の間で共有されなかったのは仕方がなかったと僕は思います。一方で三浦九段はすでにこの時点で,将棋界の未来の現実について正しく発言していたのです。

 この問題を第二種の認識cognitio secundi generisで答えることは,そんなに難しいことではありません。高さが4個,横が8個,縦に32個の立方体が積まれることによってひとつの直方体が形成されているのであれば,立方体の数は4×8×32で,この計算をすれば1024という答えが出るので,1024個という解答を導き出すことができるからです。近藤がこれを直観的に1024個と答えることができるというとき,それはこのような計算をしなくても答えを出すことができるという意味です。
                                        
 第五部定理二八の意味は,第二種の認識が第三種の認識cognitio tertii generisの呼び水になる,あるいはなり得るということであって,それは逆にいえば,第三種の認識である設問に答えるためには,何らかの第二種の認識の蓄積が必要だということです。このとき近藤は,直観scientia intuitivaによって1024個という答えを出すために,自身のうちにストックされている知識がどういうものであるのかを説明しています。それによれば,4というのは2²であり,8は2³であり32は2⁵なので答えは2¹⁰ということになり,2¹⁰は1024であるということです。よって近藤は4×8×32という計算をしなくても,1024という答えを導き出すことができるのです。この点は注意しておいてください。近藤は計算するのが早いから1024という答えを直観的に導出できるのではなく,知性intellectusのうちに蓄積されている知識ないしは情報によって,1024という答えを直観的に出しているのです。
 ただし,この問題が数学のテストで出された場合,1024という答えをそのまま出すだけでは十分ではありません。数学のテストというのは,答えを直観的に導き出すことを主眼に据えているのではなく,それを理性ratioによる推論によって,つまり第二種の認識で答えることに主眼を置いているからです。同様にもしこれがなぜ1024になるのかということを他人に説明するためには,直観的に1024と分かるのだと答えても無意味です。それでは説明を求められているのに説明にはなっていないからです。なのでこのような場合には,4×8×32という式で1024を導くと答えますし,同様に説明することになるのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする