スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

サンタアニタトロフィー&有と無の関係

2008-07-31 21:33:05 | 地方競馬
 ずっと暑い日が続いていた関東地方ですが,少し涼しくなったのが昨晩。大井競馬場ではサンタアニタトロフィーが争われました。
 マズルブラストの逃げになると予想していましたが,アブソルートダンスが先手を奪いました。2番手にベルモントノーヴァで,3番手がマズルブラスト。チェレブラーレはこれを見る位置から。前半の800メートルは49秒5で,これはミドルペースですが,11秒台のラップが1度もありませんので,先行した馬には楽なペースだったと思います。
 アブソルートダンスは3コーナー手前で早々に失速。マズルブラストが先頭に立つと,チェレブラーレも外から追ってきて,直線は完全に2頭のマッチレース。ゴール手前でついにチェレブラーレがマズルブラストを捕えて優勝。マズルブラストが2着で,7馬身離された3着にもベルモントノーヴァが残りました。
 優勝したチェレブラーレは今月初めのゴールドカップに続く連勝で,南関東重賞2勝目。2着のマズルブラストもスムーズなレースだと力を発揮する馬で,最後は思いのほかてこずった感じもしますが,人気に応えました。父はブラックホーク,母系はフロリースカップシラオキローズトウショウの分枝。
 鞍上の船橋の張田京騎手もゴールドカップに続く南関東重賞制覇。サンタアニタトロフィーは2005年以来の4勝目。管理する大井の太田進調教師はサンタアニタトロフィー初制覇です。

 王位戦は飛車先交換相腰掛銀。先手の羽生善治名人が銀冠に組んだのに対し,後手の深浦康市王位は飛車を4筋に振って玉を中央に戻しました。僕はあまり見たことのない形です。

 実際にこれを示すためには,人間の精神のうちにある十全な観念があるということも示さなければならないのですが,これは同時に今回のテーマ自体の問題なので,後回しにします。よってここではそのことを前提とする限りで,人間の精神のうちにある混乱した観念について,有と無の関係がすべて明らかになったといえるでしょう。
 まず,人間の精神のうちに混乱した観念があるというとき,これをただその人間の精神にのみ関連付けるならば,これは無であるというほかありません。この意味では,この混乱した観念がある実在性を有するということは認められないからです。
 しかし人間の精神のうちに混乱した観念が生じるとき,これはある必然性をもって生じます。そしてその必然性というのは,その混乱した観念と対象を同一にする十全な観念が生じる必然性と同一です。なぜなら,人間の精神のうちにXの混乱した観念があるというのは,この人間の精神の本性を構成すると共に,ほかのものの観念を有する限りで神のうちにXの観念があるということと同じであり,神のうちにあるその観念は十全な観念です。しかしXの十全な観念が生じる必然性は,どんな知性のうちにあっても同一だからです。ただ,形相的に有である対象の観念と,形相的には無であると考えられる対象の観念とでは,対象ということの捕え方に相違が出るということです。
 よってこの意味では,混乱した観念はむしろ有であるといわれなければなりません。すなわち混乱した観念は,単にその観念を有するある人間の精神と関連付けられるだけでは無ですが,神のうちにある観念と関連付けられるなら,むしろ有であるということになります。
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王座戦&真理の性質

2008-07-30 23:30:28 | 将棋
 第56期王座戦挑戦者決定戦。対戦成績は6勝6敗でした。
 振駒で木村一基八段の先手。谷川浩司九段は4手目☖3三角戦法。角交換から☗7八金をみて四間飛車に。先手がかなり早い段階で角を打ちました。
           
 これでバランスが崩れてもおかしくないところですが,この角が後手が作った馬と交換になるという展開に。またやり直しみたいなことになりました。後手は第1図から第2図の間で別の変化を選ぶ余地もあったかと思います。
           
 この後,先手はすぐに敵陣に角を打ち込みました。
           
 ここからは先手の攻めを後手が凌ぐ展開となり第4図に。
           
 どうも先手が一遍には攻めきれそうもない局面。ただ,後手も3四に桂を打って受けているのは不本意かもしれません。ここで木村流は☗1八香ではないかと思って観戦していたら果たしてそう指しました。
 結果的にこの手は好判断だったのではないかと思います。後の展開で取られて香損ということになるのですが,それで後手の馬の働きを鈍くすることができました。
                      
 第5図以下,先手に見落としがあったようで急に先手玉も危なくなりました。実戦は後手が☖8七角と打つところで☖8九角から3四の角を抜いても先手が優勢とのことですので,☖8四香と打ったところで変わる手がないならば,見落としがあっても先手が残っていたということではないかと思います。
 これで羽生善治王座には木村一基八段が挑戦することになりました。木村八段のタイトル挑戦は2度目となります。

 明日から王位戦七番勝負第三局が始まります。

 スピノザの哲学において真理veritasとは何であるのかと考えたとき,認識論的にいうならば,これは真の観念idea vera=十全な観念idea adaequataの総体であるということになります。よって真理の性質,いい換えれば真理の真理たるゆえんをある人間に教えるものが何であるのかといえば,これはその人間の精神mens humanaのうちにある真の観念であるということになります。一方,虚偽falsitasは真理に反するものであり,真理の真理たるゆえんを含まないようなあるものであるということになります。そこでそれが虚偽であるということを人間に教えるものもまた,その人間のうちにある真の観念=十全な観念であるということになります。つまり,ある人間の精神のうちにある混乱した観念idea inadaequataは,その人間に真理も虚偽もどちらも教えないのに対し,その人間のうちにある十全な観念は,真理の何たるか,また虚偽の何たるかを同時に教えるということになるのです。
 ところで,誤謬errorとは虚偽そのものではなく,虚偽に含まれる,それが虚偽であるという認識cognitioの欠如です。よって人間を誤謬から逃れさせるものは,ある十全な観念であるということになるでしょう。
 よって人間の精神のうちにある十全な観念があるなら,少なくとも人間は自身の精神の一部を構成する混乱した観念について,それが虚偽であるということを知ることができるといえると思います。よってこりん星の観念とかペガサスの観念というのは,それ自体の十全な観念が人間の精神のうちにあるということができなくとも,それが虚偽であるということを人間は知ることができます。よってこの観念が必然的にnecessario生じる仕方は,たとえば月のような,形相的にformaliterその対象ideatumを有する混乱した観念が生じる必然性necessitasが,その十全な観念の生じる必然性と同一であるように同一であると,認めてもいいのではないでしょうか。
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小松島記念&虚偽と誤謬

2008-07-29 20:01:25 | 競輪
 小松島は濁らずに「こまつしま」と読みます。今日は小松島記念の決勝(動画)でした。
 牽制があったようですが,山崎選手がSを取ってそのまま前受け。中団は加藤選手で後方が渡部選手という展開。もちろん渡部選手から上昇していき,残り2周のバックで山崎選手を叩きました。すると打鐘では金子選手が外から一気に発進して,このラインの先行。遅れがちな山崎選手も踏んで,外の4番手で渡部選手と併走する形に。
 踏んだりやめたりという中途半端な感じも見受けられましたが,バックから山崎選手が本格的に発進。しかしこれは加藤選手のブロックで止められました。さらにその後から渡部選手が発進すると,こちらの捲りは決まって優勝。マークの堤選手が2着。加藤選手は山崎選手を止めた後,インから岡部選手にも絡まれる形となり,3着まで。
 優勝した愛媛の渡部哲男選手は20005年3月の松山記念以来の記念競輪優勝。金子選手の先行を中団から捲るという作戦だったと思われ,それ自体はあまりうまくいかなかったのですが,かえって展開の綾がうまく作用した感じです。寛仁親王牌では毎年活躍する選手で,前橋競輪場との相性もあるのでしょうが,この時期を得意とするタイプであるのかもしれません。

 明日は王座戦の挑戦者決定戦。谷川浩司九段と木村一基八段で争われます。

 大井ではサンタアニタトロフィー。再びチェレブラーレ◎が中心。実績上位のマズルブラスト○とショーターザトッシ▲を本線に,サウンドサンデー△とゴッドセンド△。

 この問題は,人間の精神のうちには,自身の表象の様式の十全な観念というものがあることができないということから生じています。しかしもしもそれが十全な観念としてあることができると仮定するならば,それは当然ながらその表象像と同一の必然性で人間の精神のうちに生じるでしょう。この場合には月の場合と何ら変わるところがないからです。よって現実的な意味というのをまったく無視して,単に論理的にのみ考えるならば,問題は解決しているということもできないわけではありません。また,もしかしたらそれが最良の方法であるのかもしれないです。
 ただ,現実的な意味でこの問題を何らかの形で解消しようと思うのならば,虚偽と誤謬というのは厳密な意味では異なるということに訴えるほかなさそうです。つまり混乱した観念は,真理と虚偽との関係でいえば虚偽に違いありませんが,それ自体で誤謬を構成するというわけではありません。仮にある人間の精神の一部が混乱した観念,すなわち虚偽によって構成されていたとしても,その人間がそれが虚偽であるということを同時に知っているならば,その人間は誤謬を犯しているとはいえないからです。いい換えれば,虚偽はそれ自体では誤謬ではなく,ある虚偽が虚偽であるということを知らないこと,積極的にいうなら,虚偽を真理と思うことが誤謬なのです。
 虚偽が虚偽であるということについては,月の表象像の場合もペガサスやこりん星の表象像の場合も何ら変わるところがありません。そこでこれらを同様の仕方で人間がそれを虚偽であると認識できると仮定できるなら,一般に人間の精神のうちにあるXの混乱した観念とXの十全な観念が同一の必然性で生じなければならないということを,少なくとも人間は知ることができるということになると思います。
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竜王戦&表象の必然性

2008-07-28 20:54:37 | 将棋
 竜王戦挑戦者決定トーナメントの開幕戦で豊島将之四段を破った糸谷哲郎五段は,その次に兄弟子の増田裕司五段にも勝ち,今日は羽生善治名人に挑みました。
 振駒で先手は糸谷五段。羽生名人の一手損角換りで,1-①の形になりました。
 この形になると,先手が▲1六歩と突いたとき,後手が△1四歩と受ければ先手の早繰り銀から急戦に,受けなければ▲1五歩と位を取って持久戦になるという将棋が多いです。ただしこの将棋は△1四歩と受け,早繰り銀にはなりましたが,すぐの戦いにはなりませんでした。
 その後,一時的に相腰掛銀の形に。先手がこの銀を4七に引き,3筋の位を奪還しにいったところで,後手から仕掛けることになりました。
           
 一段落したところの分かれは,銀桂交換で後手の駒得,先手は馬を作るという形。
           
 ここから,馬と飛車の交換になり,先手は龍を作って角を取り,後手は銀を取ってと金を作りました。
           
 しかし第3図で△4六角を防ぐために▲7九角と打たなければいけないようでは先手が苦しい気がします。第2図から第3図の間,角交換にする手段は先手にありましたが,▲9四桂とここに投資してしまっている関係で,それも後手の方がいいのではないかと思います。
 第3図以降はしっかり時間を投入して寄せきり,後手が勝ちました。勝った羽生名人の次の相手は深浦康市王位です。
 感想戦の内容を簡単に追記しておきます。第1図から第2図の間,△8五桂に▲7六銀としておくべきだったようです。実戦の分かれは,7筋に後手の歩が効くようになってしまった点で後手に利があったとのことでした。

 明日は小松島記念の決勝です。並びは山崎-岡部の福島に遠沢,金子-加藤-古田の中部,渡部-堤の四国に前田。山崎選手が強いですが,ここは渡部選手を狙いたい気がします。

 その表象の仕方自体をこりん星なりペガサスなりの十全な観念=真の観念の対象と考えるならば,この対象は形相的に有であるといえます。そしてそれが有であるということの意味は,月が有であるということの意味と何ら変わるところはありません。よってこのように考える限り,月の表象像が月の十全な観念との関係で考えられる限り,同一の必然性で生じるといわれても,またそれが有であるといわれても問題ないように,こりん星やペガサスのように,それ自体では形相的に無であると考えれる観念が人間の精神のうちに形成されるような場合にも,それが必然的に生じ,またそのように生じると考えられる限りで実在的であるといわれても何の問題もないということになります。
 ただこの場合に問題となるのは,月の場合には,月の十全な観念というものが確かに人間の精神のうちに形成され得るのに対して,こりん星とかペガサスの場合には,必ずしもそのようにいうことはできないという側面があるということです。つまりこうしたものが表象像としてしか人間の精神のうちにあることができないならば,表象の様式というのは人間の精神のうちに十全な観念としてあることができませんから,十全な観念は人間のうちにはなく,神のうちにのみあることになります。つまりこの観念は,ある人間の精神の本性を構成する限りでは神のうちにはなく,ある人間の精神の本性を構成すると共に,何かほかのものの観念も有する限りで神のうちにのみあるということになるのです。
 つまりこの場合には,人間の精神のうちにあるXの混乱した観念と,同じ人間の精神のうちにあるXの十全な観念が同一の必然性で生じると第二部定理三六の意味を考えることが,現実的には何の意味も伴わないということになるのです。
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よしこの賞&無の対象

2008-07-27 19:33:27 | 競輪
 小松島記念2日目優秀(動画)はよしこの賞。最近では珍しく,全選手が西日本でした。
 前受けは渡部選手で,4番手に井上選手,6番手に金子選手という周回になった模様。そして金子選手の上昇に併せて井上選手も上がっていき,残り2周のバックでは井上選手が先に渡部選手を抑えました。外から行った金子選手に先行させて中団を取るという考えではなかったかと思いますが,インは閉まっていなかったようで,打鐘では再度渡部選手が先頭に。一回は離れた堤選手も追い付き四国の先行。4番手は金子選手が確保しました。
 その金子選手がバックで捲っていくと,そのまま捲りきり,直線は番手の加藤選手とマッチレース。結局,振り切った金子選手が1着で加藤選手が2着。内からも外からも行かれ,8番手という苦しい位置になってしまった井上選手が,捲り追い込んで3着に届きました。
 結果的には金子選手がラインの長さを生かした形。ホームでは3番手も確保できそうな態勢でしたが無理せず堤選手を入れたのもよい判断だったのではないかと思います。小倉選手の牽制もなかったので,バックで発進してからは楽だったかもしれません。

 明日は竜王戦挑戦者決定トーナメントで,羽生善治名人に糸谷哲郎五段が挑みます。初対局です。

 こりん星の観念であれペガサスの観念であれ,その混乱した観念がある人間の精神のうちに形成される以上は,その十全な観念もまた神のうちにあるのでなければなりません。そしてそれがどのような仕方であるのか,すなわち,形相的に無であるとしか考えられないようなものを対象とした真の観念=十全な観念というのがどのような仕方で神のうちにあり得るのかということは,ここでもかつて無の観念とは何かということを考えたのと同じ方法で結論するほかないだろうと思います。
 理解しやすいのはペガサスの方なので,こちらで説明すれば,翼のある馬がペガサスであるといえば,僕たちは翼は翼自体で,また馬は馬自体で表象することができますから,これらふたつを結合させたものを表象することができるわけです。このとき,各々を単独に考えるならば,翼も馬も確かに形相的に実在する,すなわち有であるといえますから,問題はまったくありません。こういうのはかぼちゃの馬車とか,チョコレートの雪とかいったものを僕たちが表象し得るのと同様です。
 そこでこの十全な観念とは,僕たちがそれをそのような仕方で表象するその仕方そのものの観念であるということになるでしょう。いい換えればこの十全な観念を真の観念とみたとき,この真の観念の対象とは,そうした表象の仕方そのものであるということになります。そこでこの表象の仕方そのものは明らかに形相的に実在する,すなわち有であるといえると思いますので,このようにそれ自体では形相的にその対象を有さないと考えられるような観念についても,それを有であるということ自体には問題がないということになるかと思います。
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続・速さの表象&対象が無の観念

2008-07-26 20:37:18 | 哲学
 先月のことになりますが,速さの表象というエントリーで,僕たちが何を速いと判断するのかということにも絶対的な基準はなく,各々の人間の表象のあり方に左右されることを僕なりに示しました。今日はさらに別の例を用いて,この考え方をさらに補足することにしましょう。
 人間Aと人間Bが10キロの競走をすると仮定します。Aは途中で10分の休みを3度挟み,1時間で10キロを走り終え,人間Bは一度も休まずに55分でゴールしたとしましょう。この条件でAとBのどちらが速かったかと問われるならば,多くの人がBの方が速かったと答えるのではないかと思います。
 しかし,単に物体としての運動として考えるならば,この両者の運動の関係は,前回の電車Xと電車Yの関係と何ら変わるところがありません。実際,10キロ先のゴールにはBが先に到達しますが,走っているときだけの平均速度はAの方が上回りますし,少なくとも最初にAが休憩する地点までは,Aの方がBよりも先行しているものと予測できます。
 電車の場合にはXとYのどちらも速いと判断できるのに,人間の場合にはBの方が速いと大概は判断されるのは,この場合は10キロの競走をするという条件が設定されているからです。すなわち僕たちは何が速いということを判断する際には,ただ運動する物体だけに注目するのではなく,物体が運動する条件までも考慮に入れるのです。速さには絶対的基準がないということが,このことからも理解できるのではないかと思います。

 明日は小松島記念2日目優秀のよしこの賞。並びは金子-加藤-古田-北野の中部,渡部-小倉-堤の四国,そして井上に市田。これは中部から。

 人間の精神のうちに,形相的には無であると考えられるような観念が混乱した観念としてある場合,すなわち具体的にはこりん星の観念とかペガサスの観念というのが人間の精神のうちに形成されるというときに,まず重視しなければならないことは,第二部定理一一系により,人間の精神というのは神の無限知性の一部なのですから,人間の精神のうちにある観念については,それがどんな観念であろうとも,神の無限知性のうちになければならないということであり,かつ神の無限知性のうちに含まれる観念は,第二部定理七系の意味により十全な観念でなければならないということです。よってある人間の精神の一部が,こりん星の観念なりペガサスの観念なりによってその一部を構成されるならば,そしてこうした混乱した観念によってある人間の精神の一部が構成されるということは現実的にあるわけですが,この場合には神の無限知性のうちに,こりん星の十全な観念もペガサスの十全な観念もあるのでなければならないということになります。
 しかしこのことは,月の場合と同様の仕方で説明することができません。というのは月というのは形相的に有である,すなわちそれ自体で神の延長の属性のうちに必然的に存在する物体ですから,第二部定理六系に訴えることにより,第二部定理三六でいわれている混乱した観念の必然性の問題も直接的に回避できます。しかし,こりん星とかペガサスというのは,それ自体で形相的に考えればこれは無ですから,神の延長の属性のうちには,それ自体では実在することが不可能です。したがってこれら対象を形相的には有さない観念については,さらに別の仕方で考える必要があることになります。
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WILDⅡ対決&別の問題

2008-07-25 20:49:26 | NOAH
 杉浦選手を相手に初防衛を果した森嶋選手の次の相手は,抽選式シングルマッチで斎藤選手を降した力皇選手。かつてWILDⅡとして第4代GHCタッグの王者にも輝いた両者の対戦は,18日に日本武道館で行われました。
 チームが発展的解消された後,まず頭角を現したのは力皇選手で,2005年にはGHCシングル王者に。森嶋選手は怪我による離脱もありましたが,2007年にROH王者になり,実績的にはそこでようやく追いついたというところです。年齢は力皇選手が上で,プロレスデビューは森嶋選手が先。シングルでは4度対戦して力皇選手の2勝2分でした。
 よきライバル関係にあり,握手を交わして試合開始。大型日本人選手の対戦ですので,組み合い,ぶつかり合い,エルボーやラリアットの打ち合いなど,どれをとってもヘビー級らしい迫力に溢れた意地の張り合いになりました。その中では,力皇選手の張り手がかなり効果的であったという印象です。
 僕が注目していたのは,力皇選手の無双が森嶋選手を相手にきちんと決まるのかということ。しかし問題なく高々と担ぎ上げて決めました。ただこれは決め手とはならず,最後はラリアット3連発からバックドロップを決めた森嶋選手が勝ち,防衛となっています。この最後のバックドロップはこの試合3発目のものでしたが,それまでのものとは高さも角度も段違いで,とても豪快なものでした。
 試合後のリング上でのインタビューでは,前回とは異なる力強い口調で,森嶋選手自身も満足できる試合内容であったようです。そこで指名があり,次期ツアーの最終戦となる9月6日の日本武道館大会では,佐々木健介選手の挑戦が決定しています。

 ビッグがふたつ続いたので,記念競輪はしばらくお休みでしたが,明日からは小松島記念が開催されます。記念競輪に限れば4連覇中の山崎選手が中心です。

 月の場合にはこれでいいでしょう。しかしまだ別の問題が残っています。というのは,人間の精神のうちにある混乱した観念が生じるというとき,あるいはある表象像が形成されるというとき,これは月の表象像のように,必ずしもその対象が形相的に実在すると限ったわけではないからです。すなわち,月の場合のように,その対象が神の延長の属性のうちに確かに形相的に実在するといい得るような場合には,人間の精神のうちにあるそうしたものの十全な観念も混乱した観念も同一の必然性で生じるということができますが,それ自体ではそのようには考えることができない場合,つまり,延長の属性のうちにはそれ自体では実在するといい得ないようなものの混乱した観念を人間の精神が有するという場合には,このままの仕方ではこれを証明することができません。そして人間の精神というのは,実際にそうしたものの混乱した観念を形成することがあるわけです。すなわち,こりん星の観念とか,ペガサスの観念といったものはまさにそうした観念であるといえるでしょう。そこで,そうした観念が人間の精神のうちに生じる場合については,まだその実在性の問題も必然性の問題も解決されたということにはなりません。
 しかし,第二部定理三六というのは,十全な観念と混乱した観念についての一般的な定理ですから,本当はこういう場合についても妥当でなければならない筈です。そこでこうした観念について,それを第二部定理六系に訴えるとすれば,それにはどのような方法があり得るのかということを考えてみなければなりません。
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王位戦&必然性の同一性

2008-07-24 20:22:41 | 将棋
 王位戦七番勝負第二局。深浦康市王位の封じ手は▲4四歩でした。
           
 ▲7三桂の両取りより,飛車の転換を視野に入れた指し方ではないかと思います。対する羽生善治名人の△4六歩は,その筋を緩和しようとの意図だったと思います。ただ実戦は,その歩を成り捨てて△4二歩と受ける展開になりましたので,少し損だったかもしれません。成り捨てを取った金が5六に進出し,飛車が4八に回りましたので,先手としては少なくとも満足できる展開だったのではないでしょうか。
           
 今日は遅くなって観戦していないのでこの後は省略。全体的には先手の攻め,後手の受けが主体の展開で第3図。こう▲5四銀と出たところでは先手の勝ちになっているようです。
           
 角を取っても銀を取っても後手は即詰みはありませんが,そこで先手玉を詰まさないといけないようです。実戦は角の方を取りましたが,打ち歩詰の形で先手玉はきわどく逃れていました。
 深浦王位が乱戦を制して1勝1敗に。第三局は31日から指されます。
 なおこの将棋の序盤,△3四歩を後回しにするといういきなり三間飛車の利点について,渡辺竜王が詳しく解説されています。これは参考になりますのでぜひお読みください。

 神のうちに月の十全な観念があるという場合には,それが神についてどのように考えられようとも同一の必然性で生じると考えられなければなりません。つまり神が絶対に無限な実体と考えられようとも,あるいは人間Aの精神の本性を構成する限りと考えられようとも,また人間Bの精神の本性を構成する限りで考えられようと,とにかくそのうちに月の観念があるならば,それは同一の必然性で生じます。
 なぜならば,十全な観念とは第二部定義四により真の観念であり,真の観念は第一部公理六によりその対象と一致するからです。したがって月の十全な観念が生じる必然性は,形相的に月が生じる必然性に一致するのです。このことは,単に第二部定理七に訴えるだけでも,少なくとも認識論的には成立するということになります。
 よって月の十全な観念というのは,どんな知性のうちにあっても,すなわち神の無限知性のうちにあろうと,人間Aの精神や人間Bの精神のような有限知性のうちにあろうと,同一の必然性で生じるという理屈になります。対象はひとつで,その同じ対象の真の観念=十全な観念ですので,これは直観的にも理解できることかもしれません。
 ここまでくればあとは簡単。人間の精神のうちにある月の表象像を月の混乱した観念とみた場合に,この混乱した観念は神のうちにある限りで十全な観念で,このふたつの観念が同一の必然性で生じることはすでに第二部定理三六の考察により明らかになっています。しかしその十全な観念は,人間の精神のうちにある十全な観念とも同一の必然性で生じます。よって,人間の精神のうちにあるXの混乱した観念とXの十全な観念が同一の必然性で生じるということが,表象像の場合にも成立するということになります。
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規則の発生&意味の成立

2008-07-23 20:17:50 | 哲学
 先日,打ち歩詰のルールの発生について仮説を提示しましたが,これも僕の哲学的考え方と関係している部分があります。
 ニーチェとかフーコーは,裁判や刑罰の発生を考えるときに,社会正義とか共同体の平和という観点ではなく,人間の他人を裁きたいとか他人を罰したいという欲望からこれを解明しようとします。
 第四部定義一と二から理解できるように,スピノザは善悪を,各々の人間が希求しまた忌避することから定義します。よって人間は,たとえば善であるからある事柄を希求するのではなく,自分が希求する事柄を自分にとっての善とみなすと考えているわけです。
 このふたつの考え方にはある近似性があります。スピノザの哲学における人間の欲望とは,第三部諸感情の定義一からして,受動状態における限りで人間の本性そのものですが,人間がある事柄を希求しまた忌避するということは,まさにこの感情をベースとしています。すなわち,事柄の発生を人間の欲望という感情という観点から考えるという点で,このふたつの考え方は同一であるといえるのです。
 僕が規則の発生を考える場合にも,この考え方を重視します。そこでこの観点から打ち歩詰の規則を考えるなら,これを反則としたいという欲望は,本将棋を指す人間よりも,詰め将棋を作る人間から生じやすいのではないかと僕は思うのです。打ち歩詰禁止のルールが,本将棋ではなく詰め将棋から出たのではないかという仮説には,僕のこうした考え方が大きく影響しているのです。

 王位戦は羽生善治名人が昨年度の朝日杯の準決勝でも用いたいきなり三間飛車を採用。かつて銀河戦の一局として紹介した将棋の第1図となり,ここから馬を作り合った後,先手がすぐに▲9五歩と仕掛けて出ました。結果的に先手の桂得という分かれで封じ手ですが,後手も飛車を手持ちにしていますからそれなりにバランスは取れているのだろうと思います。▲7三桂からさらに駒得しにいくのもありそうですし,飛車を4筋に展開したいような感じも受けます。

 部分的には混乱した観念の実在性と必然性の問題はこれで解消されているのですが,これはあくまでも人間の精神による月の表象を,人間の精神のうちにある月の混乱した観念とみた場合に,この混乱した観念と同一の必然性で生じる神のうちにある十全な観念との比較です。ところがここでの考察では,第二部定理三六の意味というのを,人間の精神のうちにあるXの十全な観念と,同じ人間の精神のうちにある混乱した観念が,同一の必然性で生じると理解しているわけですので,まだこれだけでは不十分であるということになります。そこでこの意味の成立を図る必要があります。
 この場合には,まず単純に,十全な観念というのがどういう観念であるのかということから始めるのがよいのではないかと思います。つまり,人間の精神のうちにXの十全な観念があるといっても,これはAの精神のうちにもあるでしょうし,Bの精神のうちにもあるということになります。そこでまたXを月として考えれば,月の十全な観念は,人間Aの精神のうちにもあることができますし,人間Bの精神のうちにもあることができるということになります。そこで月の十全な観念がこれらふたりの精神のうちに現実的にあるならば,Aの精神の本性を構成する限りでも,またBの精神の本性を構成する限りでも,月の観念は神のうちにあるということになるでしょう。
 しかし,とくにこのように考えずとも,第二部定理七系に依拠するだけで,神のうちに月の十全な観念があるということは明らかです。だれも月が形相的に生じていないということはできないのですから。よって問題は,これら3種の十全な観念というのが,どういう必然性によって生じるのかということが,この問題の鍵を握っているということになります。
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盤上の駒を取られるポカ①&月の場合

2008-07-22 18:52:10 | ポカと妙手etc
 今まで,名人戦という舞台における,打った駒が取られるポカというのを3度にわたって紹介しましたが,考えてみれば駒をただで取られてしまうというのは,必ずしも打った駒が取られると限ったわけではなく,盤上の駒が取られてしまうというケースもあるわけです。名人戦という舞台からは離れますが,今回からはそういうケースを紹介してみます。
 第1回なので最も単純な分かりやすい例。この前,羽生名人が奪取して終った第79期棋聖戦,最終予選2回戦の一局です。
 後手の一手損角換りから相腰掛銀。後手が猛攻をかけたのですが先手の粘りの前にもてあまし気味となり,終盤からまた中盤ともいえるような戦いに戻り,混迷を極めて迎えたのが図の局面。
           
 厳密にいうと,この直前に先手にやや疑問視される手があり,後手の方が少しだけ優位に立っているとのことなのですが,僕にはそれがどの程度の差なのかは正直なところよく分かりません。局面は,9二にいた角が8三に成り,これが6一にいた飛車取りになったので後手が△3一飛と逃げたところ。
 ここで先手は▲8二馬と指しましたがこれはポカ。7四の銀が浮いてしまったので△7四角成と取られ,▲3七馬とと金は払ったものの△1七龍と入られました。これはまた後手が攻めることができる展開に。将棋もここから後手が勝っています。
 ポカには,うっかりを除けば必ず理由があります。この将棋の場合,▲8三角成と飛車取りで成って,さらに龍と角の両取りを狙って▲8二馬と活用するのは,△7四角成がなければ味よい手順。そういう意味では分かりやすいポカといえるかと思います。

 明日から王位戦七番勝負の第二局が始まります。今度は深浦康市王位の先手になりますので,羽生善治名人の作戦選択に注目です。

 ある人間の精神の本性を構成するとともに,ほかのものの観念を有する限りで神のうちにXの観念があるという場合に,このXの観念が,神のうちにある十全な観念とみられようと,あるいは人間の精神のうちにある混乱した観念とみられようと,同一の必然性で生じるということはこれで問題ありません。そこである人間Aがいて,このAの精神のうちに生じる月の表象像を,月の混乱した観念とみた場合には,これはAの精神の本性を構成するとともに,月の観念を有する限りで,神のうちに月の観念があるという意味になりますから,Aのうちにあるこの月の混乱した観念と,この仕方で神のうちにある月の十全な観念というのが同一の必然性で生じているということは,もう問題ないことになります。
 このときに,第二部定理六系が果す役割というのがあるとすれば,これは,神のうちにある月の十全な観念が生じる必然性と,形相的に物体としてある月が生じる必然性とが同一であるということを示すことだと考えられます。すなわち,物体としての月は神の延長の属性から必然的に生じ,月の観念は神の思惟の属性の本性から必然的に生じるのですが,これを必然的たらしめる秩序や連結というものは,延長の属性にあろうと思惟の属性にあろうと同一なのです。
 よって,人間の精神のうちにある月の表象像というのは,混乱した観念には違いないのですが,このようにして考えられる限りでは,確かに形相的に実在する月という対象を有しているということになります。よってこの場合には,月の混乱した観念が必然的に生じるといわれても問題ないですし,また,神との関連という観点から,ある実在性を有するといわれても同様に問題ないということになります。
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マーキュリーカップ&第二部定理六系

2008-07-21 19:28:52 | 地方競馬
 盛岡競馬場は非常に大きな競馬場。今日はここでマーキュリーカップ(動画)が争われました。
 長い直線でゆったりとした先行争い。高知のケイエスゴーウェイ,フィフティーワナー,エイシンロンバードという態勢に落ち着いたのですが,向正面に入るところでは外からエイシンロンバードが内の2頭を交わして先頭に立って,この馬の逃げ。フィフティーワナーが2番手に上がり,外から川崎のシンメイレグルスがこれをマークする位置に上がりました。
 3コーナー手前ではフィフティーワナーが先頭に立ち,エイシンロンバードは後退。シンメイレグルスはいい手応えでこれについていったので,2頭のマッチレースになるのかと思いました。
 しかし直線に入って追われると,シンメイレグルスは思ったほどの伸びがありません。替わって中団からエイシンロンバードが後退するところで3番手まで上がっていたサカラートが,シンメイレグルスを交わすとフィフティーワナーも捕えて優勝。フィフティーワナーが2着。シンメイレグルスは最後はヤマトマリオンにも交わされ,離された3着にはヤマトマリオンが入っています。
 優勝したサカラートは実に2005年の日本テレビ盃以来となる久々の勝利で重賞4勝目。この馬はスカーレットインクの一族で,昨年のJRA賞最優秀ダート馬,またNARグランプリの特別表彰馬にも選出されたヴァーミリアンの半兄になります。このところは勝てないまでも掲示板は外してなく,ここではフィフティーワナーと共に実力上位で,順当な結果。往時の力はないと思うのですが,このくらいのメンバー構成であればまだ勝てるということでしょう。
 鞍上は中舘英二騎手,管理するのは石坂正調教師で,マーキュリーカップは共に初優勝となっています。

 ここでもう1度,スピノザによる第二部定理三六の部分的証明をみてみると,スピノザが最後の段階でこの定理の証明を,第二部定理六系に関連付けているのが目を引きます。これは次のような長い系です。
 「この帰結として―思惟の様態でない事物の形相的有は,神の本性がそれらの事物を前もって認識したがために神の本性から起こるのではない,むしろ観念の対象たる事物は,観念が思惟の属性から生ずる(我々が示したように)のと同一の仕方・同一の必然性をもって,それ自身の属性から起こりあるいは導き出される―ということになる」。
 若干の説明を加えておけば,まず最初のこの帰結としてというのは,これは第二部定理六系なのですから,第二部定理六の帰結としてという意味に理解するべきでしょう。次にスピノザは我々が示したようにといっている点については,第二部定理六と考えてもいいですが,第二部定理五がさらにいいと思います。
 この定理は,それ自体でみるならば,形相的事物の有は,神によるそれらの事物の認識とは何の因果関係ももたないということ,別のいい方をするならば,形相的自然というものは,神の認識とか意志によって生じるのではなく,もっと別の法則によって生じるということをいっているように思えます。しかし,この系をこのような意味に考えたとき,スピノザはなぜ第二部定理三六の証明の最後に,この系に訴えようとしたかがいささか疑問に感じられます。そこで今度はこの部分を考えてみましょう。
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サマーナイトフェスティバル&混乱した観念の発生

2008-07-20 21:40:46 | 競輪
 第4回にして初めて西日本での開催となったサマーナイトフェスティバル。今晩が決勝でした。
 内田は新田につけてそれ以外の並びは昨日の予想通り。ただし新田は稲垣ラインを追走という形で,井上選手は山崎ライン追走というレースになりました。
 前受けは渡部選手。3番手に山崎選手,井上選手を挟み6番手が稲垣選手で,新田選手が8番手という周回。
 残り2周のホームから稲垣選手がゆっくりと上昇。打鐘で渡部選手を抑えると,新田選手-内田選手まで出ての抑え先行。上昇してきた山崎選手は5番手を渡部選手から奪ったのですが,バックでは再び内から上がってきた渡部選手に弾かれてしまい捲れず。3コーナー過ぎから捲り追い込む形になった新田選手が,稲垣選手の番手から出た加藤選手を抜いて1着。加藤選手が2着で,山崎選手を弾いた後,直線は外に出た渡部選手が3着でした。
 優勝した静岡の新田康仁選手はこれがビッグ初優勝。むしろようやくといった感じでしょうか。グレードレースも昨年2月の静岡記念以来です。捲りが主力ですが逃げることもできる自力型で,横の動きもある程度はこなせる選手。これに最近はレースの読みの巧みさも加わってきた印象。脚力のことをいう前に,今日は何といっても稲垣ラインの3番手からという選択をしたのが素晴らしい判断でした。

 明日は盛岡でマーキュリーカップです。ここはJRA勢による争いが濃厚。フィフティーワナー◎が中心で,サカラート○が相手筆頭。以下,エイシンロンバード▲,スウィフトカレント△,ヤマトマリオン△。

 混乱した観念がいかにして人間の精神のうちに生じてくるのか。『エチカ』ではこのことはやはり第二部定理一七を代表とする表象ないし表象像で考えるのが最も手っ取り早いだろうと思います。ただし,表象の様式の観念については,表象する人間の精神のうちにはその十全な観念があることができないので,この場合は神のうちにある十全な観念と比較するほかありません。再び人間による月の表象の場合を例にとって考えてみます。
 人間Aがいて,このAの身体と月とが刺激しあうことにより,Aの精神のうちに月の表象像が形成されます。しかしこの表象像は,月の本性とAの身体の本性とを同時に含むような観念ですので,Aについても月についても十全な観念ではありません。よってこの限りでは,この表象像すなわち混乱した観念は,無以外の何ものでもあり得ないことになります。
 しかしこれが神のうちにあるという場合には違います。なぜなら神のうちにあるこの観念は,単に神がAの精神の本性を構成する,あるいはAの身体の観念を有する限りでそのうちにあるのではなく,Aの精神の本性を構成すると共に,月の観念をも有する限りでそのうちにあるからです。よってこれは十全な観念であり,こうしてみられる限り,この観念は無ではなくむしろ有です。
 そしてこのように考えれば,これらふたつの観念が同一の必然性で生じるということには問題は残りません。というか,これらふたつの観念は同じ観念にほかならないのです。ただもしもそれが神と関係付けられるならばそれは有であり,神と関連付けられずにただAの精神とのみ関係付けられるなら,それは無であるという相違があるというだけのことです。よって必然性の問題も実在性の問題も,ここでは解消されているといえるでしょう。
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シンボリクリスエス&混乱した観念の必然性

2008-07-19 21:22:42 | 名馬
 先週のジャパンダートダービーを制したサクセスブロッケンの父はシンボリクリスエス。近年の日本競馬の名馬の1頭です。
 馬の国籍でいえばアメリカ産の日本調教馬。ただしこの馬もタイキシャトルと同様,生産者は日本人。そういえば管理したのもタイキシャトルと同じ藤沢和雄調教師でした。
           
 デビューは2歳10月。これを勝った後,3歳4月に中山で2勝目。続くダービートライアルの青葉賞をインから抜け出して楽勝。重賞初制覇の勢いとともにダービーに駒を進めましたがここはタニノギムレットに差し切られて2着でした。
 秋は神戸新聞杯で重賞2勝目を飾った後,菊花賞ではなく古馬相手の天皇賞に出走。東京競馬場が改装中で中山で行われたこのレースを制し,大レース初制覇。ジャパンカップは内の2頭を差し切れずに3着でしたが,有馬記念で大レース2勝目。これはジャングルポケットの引退レース。古馬相手の大レース2勝が評価され,この年の年度代表馬に選出されました。
 4歳春は宝塚記念1戦のみ。これは外が有利の馬場状態の中,インに押し込められ5着。秋は天皇賞から復帰。新装なった東京競馬場で猛烈なハイペースとなったこのレースを,悠々と差し切って大レース3勝目。続くジャパンカップは馬場状態の悪化が響いたか3着に破れましたが,勝っても負けてもこれで引退と宣言して挑んだ有馬記念は,後続に実に9馬身もの大差をつけ,当時のレコードタイムで圧勝。大レース4勝目を達成し,当日に引退式を行い,種牡馬入り。この年も年度代表馬に選出されています。
 産駒は現3歳世代がファーストクロップ。いきなり大物を出現させたわけで,前途洋洋といえるのではないかと思います。

 明日はサマーナイトフェスティバルの決勝。出走表が出たばかりで並びは予想ですが,山崎には兵藤で,内田はこの後ろか新田に。稲垣-加藤の近畿中部は間違いないところ。渡部-石丸の瀬戸内で,井上は単騎でしょうか。やはり山崎選手です。

 十全な観念idea adaequataというのは,外的特徴denominatio extrinsecaからみた場合には真の観念idea veraなのですから,第一部公理六により,何らかの実在性realitasを有しているということは問題ありません。次に神Deusのうちにある観念があるとみられるとき,これは第二部定理七系の意味により,すべて十全な観念ですから,この限りではすべての観念がある実在性を有しているでしょう。いい換えればそれは有esseですから,第二部定理三六で必然的にnecessario生じるといわれているとしても,何も問題はありません。
 次に,そうした神のうちにある観念というのを,ある人間の精神mens humanaに関係付ける場合には,ふたつの方法があるわけですが,このうち,たとえば人間Aの精神の本性natura,essentiaを構成する限りで神のうちにXの観念があるという場合には,これはこの人間Aの精神のうちに十全な観念があるという意味なのですから,やはり問題はありません。したがって,人間Aの本性を構成するとともに,ほかのものの観念を有する限りで神のうちに観念があるという場合に,この観念の実在性というのをどのように考えればいいのかということが問題となるわけです。
 しかし,ここでは第二部定理三六の意味を,具体的に考えています。よって,混乱した観念idea inadaequataは,あるといわれるならば神のうちにではなく,たとえば人間の精神のうちにあるということになるのですが,各々の混乱した観念は,たとえそれが必然的に生じるのであるとしても,各々の必然性necessitasで生じるということになります。つまりこの場合には,これを具体的な仕方で考えていかなければならないわけです。
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棋聖戦&実在性

2008-07-18 20:01:17 | 将棋
 前にもいいましたが,僕がプロの対局で最も楽しみにしている一戦が,佐藤康光二冠と羽生善治名人の対戦。今日の棋聖戦第五局で,この対戦は当分の間見ることができなくなります。
 振駒で佐藤棋聖の先手。☗7六歩☖3四歩☗2六歩に,羽生名人はいきなり☖2二角成とする一手損角換り。これは紹介していない形ですが,②と③の思想をミックスさせたものという感じです。後手が向飛車,先手が穴熊に。
 中盤も面白い変化が多いのですが,この将棋のハイライトは僕が観戦する直前の部分にありました。
           
 今,歩を取って☗7四銀と進めたところ。ここで後手は☖7三歩と打ちました。これには☗8三銀成☖同銀☗5六角の両取りがあるのですがそこで☖8六歩。以下,☗8三角成☖7二金上☗8四馬。先手は,たとえば☗7四銀と出る前からでも☗5六角と打つ手はあったわけで,この順には意表をつかれたのではないかと思います。
           
 第2図以降も一本道とはいえない変化ですが,実戦は第3図のように進みました。
           
 2一から角を打ったのは,何かの拍子に詰めろ角取りのような手が生じるのを避けたのではないかと思います。ここで☗7六歩と打ちましたが,実戦の手順からすれば☗4三歩と打って対応を聞いた方がよかったかもしれないと思います。☖同角なら☗7六歩と打ち,もし☖7四金なら,☗8三桂を打つかどうかは別に,この金を取って☗4二金と打つ余地がありますし,すぐに☖7四金でも飛車先が楽な分,先手にまだ手段が残る余地があったかもしれません。
 実戦は☗7六歩の後,☖7四金☗8三桂☖6一玉☗7四馬☖同歩☗9一桂成でまた二枚換えになりましたが,これは8一の桂馬も使えて,先手が苦しくなってしまった感じです。
           
 第4図以下,☖8五歩に☗7七銀と逃げたのは少し弱気な感じですし,その後で☗8九銀と打ったのも受けになってなく,後手が押し切って勝ちました。
 羽生名人が連敗後の3連勝で棋聖奪取。これで名人・王座・王将に続く4冠目。再び棋界制覇に向けて動き出したという感じがします。
 一方の佐藤前棋聖は棋王の一冠に後退。棋聖奪取のときは連敗後の3連勝だったのですが,今回は逆のパターンで失冠となってしまいました。
 ここ数年,タイトルの移動は女流を除くとそう多くなかったのですが,今年度は名人に続いて棋聖も移動。今年度はタイトル移動の年となるでしょうか。

 明日から四日市競輪場でサマーナイトフェスティバルが開催されます。これは2日制のGⅡ。山崎選手と小嶋選手が強力ではありますが,明日の予選が1着権利である以上,予断は許さないでしょう。

 第二部定理三六のスピノザの部分的証明から理解できることは,基本的には次のようなことになると思います。
 僕がまず注目するのは,スピノザが証明の冒頭に,第一部定理一五を引用していることです。この定理Propositioは,あるものはすべて神のうちにあるQuicquid est, in Deo estということを示した定理ですが,このとき,あるものというのは,実在的なもの,すなわち何らかの実在性realitasを有するものと考えることができるのではないかと思います。
 次に,神のうちにある観念ideaはすべて十全な観念idea adaequataであるわけですから,混乱した観念idea inadaequataというのは,あるといい得るなら,それは人間の精神mens humanaを代表とする有限な知性intellectusのうちにあることになります。これはこの定理の証明Demonstratioのうちにスピノザ自身が示していることでもありますし,また,ここまでの考察の内容にも合致しています。
 僕が思うにこのとき,混乱した観念というのは二様の意味に解釈できます。すなわちひとつは,Xの混乱した観念が,ある人間Aの精神のうちにあるとみられる場合であり,もうひとつは,この観念が神のうちにあるとみられる場合,すなわち,この混乱した観念がAの精神のうちにあるとして,Aの精神の本性を構成するとともに,ほかのものの観念を有する限りで神のうちにXの観念があるとみられる場合です。
 このとき,後者の場合には,実際にはこれは十全な観念ですから,何らかの実在性を有するということになります。いい換えれば,このように考えられる限りにおいては,混乱した観念にも何らかの実在性があると考えなければいけないということになります。
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打ち歩詰&部分的証明

2008-07-17 19:02:09 | 将棋トピック
 図は先週の金曜に指された順位戦B級1組3回戦のうちの一局の投了の局面です。
           
 4二にいた角で1五の香車を不成で取ったところ。今日は将棋の紹介ではないのでそれは渡辺竜王の自戦記を参照してください。
 角が成れるのに不成で取ったのは,後手から△1六歩と打たせないため。成っても先手の勝ちだと思いますが,成ると△1六歩と打てますので,後手にさらに手を与えてしまいます。そこで不成なのですが,これが可能なのはもちろん,将棋ではここで△1六歩と打つ手が打ち歩詰という反則だからです。
 かつて羽生善治名人は,打ち歩詰が反則でないなら将棋は先手必勝と発言したことがありました。将棋のルールは長い年月を重ねて積み上げられてきたものだから,打ち歩詰が反則とされているのにも根拠があり,その根拠が,これを認めると先手が必勝となってしまうからではないかという類推であったようです。
 これとは別に,僕は打ち歩詰のルールの成立に関してある仮説をもっています。僕は打ち歩詰禁止のルールというのは,本将棋ではなく,詰め将棋から出現したルールではないかと想像しているのです。詰め将棋をより難しく,より面白く,より複雑にするために,打ち歩詰禁止という規則が設けられたという仮説です。確かに打ち歩詰が禁止でないとしたら,詰め将棋の面白さというのはいくらか減じるのではないかと思います。しかし本将棋の場合には,打ち歩詰がOKであったとしても,その面白さはあまり変わらないような気がしますし,少なくともそれが減じる程度は,詰め将棋ほどではないような気がします。
 かなり突拍子もないような仮設で,やはり常識的には将棋のルールは本将棋から発生したと考えるのが本筋でしょう。ただ,こういう考え方もあるということで,あえて僕の仮説を紹介してみました。

 明日は棋聖戦五番勝負第五局。勝った方が棋聖獲得となる大一番です。

 この必然性の問題をどう考えるのかということに関しては,スピノザ自身がこの第二部定理三六をどう考えているのかということを理解するのが重要です。しかしこの定理は僕の中で疑問の残る定理ですから,そのこと自体を僕は十分に理解できていません。そこでスピノザによるこの定理の理解の一端を探るために,ここではこの定理のスピノザによる証明を,ごく部分的に考えてみるということにします。
 まずスピノザは,すべての観念は神のうちにあるのだと主張します。これは第一部定理一五に依拠します。これは問題ありません。そして次に,観念というのは神に関する限り,これは神のうちにあると考えられる限りにおいて,という意味に置き換えられるかと思いますが,すべて真の観念であるといいます。これは第二部定理三二に依拠していて,やはり問題ありません。同時にここでは,真の観念が内的特徴からみられるならそれは十全な観念であるということはすでに考察の前提としていますから,同時にこの限りにおいては観念はすべて十全な観念であるということも問題ありません。スピノザはこの点については当然のように第二部定理七系に訴えますが,ここでは第二部定義四を考えるだけでも十分かと思います。
 第二部定理三六を証明するにあたり,スピノザがその証明の前提としていると僕が考える事柄はこれだけです。そこで,この前提からこの定理が証明されるとするならば,混乱した観念についてそれが必然的に生じるとこの定理において言及されていることに,どのような結論を与え得るのかということが,現在の考察との関連では重要であるということになるでしょう。
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