スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第三部諸感情の定義二六&デカルトの欺瞞

2015-08-31 19:13:03 | 哲学
 スピノザは第三部諸感情の定義二五で自己満足を定義しました。その後,第三部諸感情の定義二六説明で,自己満足には該当する反対感情がふたつあるという主旨のことをいっています。
                         
 スピノザは基本感情として,欲望と喜びと悲しみだけを認めます。その他のあらゆる感情は,これらのうちのどれかに該当します。基本感情のうちでは,欲望には反対感情が存在せず,喜びと悲しみは反対感情です。したがって,自己満足が自分の活動能力の観想に伴う喜びであるなら,これの反対感情はそれと反対の思惟作用が精神のうちに生じる悲しみでなければなりません。つまり本当は自己満足にふたつの反対感情があるというのはおかしな話であることになります。もちろんスピノザははっきりとした理由があってそのように主張しているのですが,その理由の検討は後回しにして,自己満足の反対感情はこれでなければならないと僕が考えている感情を示すことにします。第三部諸感情の定義二六で,スピノザが謙遜humilitasとして定義しているのがその感情です。
 「謙遜[自劣感]とは人間が自己の無能力あるいは弱小を観想することから生ずる悲しみである」。
 この定義が自己満足の定義と反対の思惟作用の発生によって生じる悲しみについて述べているという点については,とくに説明の必要はないでしょう。
 少なくとも日本語の一般的語彙からすれば,謙遜というのは悲しみであるとはイメージされないでしょう。あるいは謙遜が感情としてイメージされること自体が少ないかもしれません。岩波文庫版の訳者である畠中が,自劣感という補足語を入れているのはそういう理由からだと思います。humilitasの訳語が一般的に謙遜であったとしても,ここは意訳してしまってよかったのではないかと思います。
 そこで僕は,humilitasという感情に関しては,自己嫌悪と訳すことにします。したがってこのブログでは,自己満足の反対感情は自己嫌悪であるということを,ひとつの約束事にします。

 『スピノザ往復書簡集』書簡六十は,スピノザがチルンハウスに宛てたものです。この中で,起成原因causa efficiensには内的なものと外的なものがあるといっています。内的な起成原因とは自己原因で,外的な起成原因とはいわゆる原因,いい換えれば自身とは異なる結果を産出する原因と解します。
 デカルトは表向きは自己原因を認めていません。よってデカルトがcausa efficiensというとき,スピノザの起成原因と混同しないために,僕は作出原因と訳します。スピノザは作出原因のうちに自己原因を含めるのに対し,デカルトは含めていないことになります。ここに欺瞞があるとスピノザはみなしました。デカルトの哲学の表向きがどうあれ,実際にはデカルトは自己原因を認めていて,神は自己原因であると主張したと解したのです。
 デカルトが表向きは自己原因を認めなかった理由は,聖書との間にある一線を守るためでした。すなわち神が自己原因であることを是認すれば,神の真の観念は神が自己原因であることを含まなければなりません。しかしこの観念は聖書に依拠することができません。いい換えれば理性に依拠した観念です。したがって,神が自己原因であることを認めること,より正確にいうなら,神にも作出原因が存在することを是認することは,直ちに理神論を意味します。ですからスピノザが実際にはデカルトは神に作出原因を認めていて,それは神が自己原因であるということだと解していることと,デカルトは理神論者であると解していることは,同じ意味になります。つまりスピノザにとってデカルトは理神論者であったことになります。僕はこのスピノザの解釈は,デカルトの哲学の正しい解釈なのだと考えています。
 カルヴィニストがデカルトを理神論者と規定する場合には,デカルトの哲学を精緻に研究した結果であるというより,宗教的にも政治的にも党派的なイデオロギーの結果なのであり,プロパガンダにすぎないと理解する方がよいのかもしれません。しかし少なくとも,デカルトを理神論者とみなす点では,カルヴィニストとスピノザは一致していたのだとしておきます。
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ナルシスト&理神論者

2015-08-30 18:57:16 | NOAH
 『馬場伝説』のインタビューで馬場が仮面貴族を低く評価するとき,マスカラスは強いレスラーではなかったことをあげているだけで,それ以外のことは口にしていません。しかしマスカラスはリング上でもリング外でもほかのレスラーや関係者を困らせるところがあったようです。順にいくつか紹介していきますが,総合するとマスカラスは極度のナルシストであったと評価してよいように思います。
                         
 鶴見五郎は全日本の中堅レスラーから,マスカラスは自分がいい恰好をするだけで,こちらには何もさせないから戦いたくないという話をされたことがあるそうです。中堅クラスがマスカラスと戦うとなれば負け役です。そのこと自体は納得できたでしょうが,負けるにしても何らかの見せ場を作りたいと思うのはレスラーとして当然の感情。マスカラスはそういう相手の感情を無視して戦っていたようです。
 もっとも鶴見は,そういう相手には素直にいい恰好をさせてやればよいと考えていたようです。先に相手の攻撃を受けておけば,こちらが反撃に転じたときには,マスカラスでも受けざるを得ないからだそうです。鶴見はそういう戦い方を実践し,マスカラスもそれを気に入って,対戦相手として指名されるようになったとしています。もちろん鶴見も負け役ですが,そうした試合において馬場が高く評価したのは,勝ったマスカラスより負けた鶴見であったであろうことは想像に難くありません。鶴見が馬場の配慮を受けられたのには,そういった要素もあったと判断してよいものと思います。
 鶴見はヒールスタイルにプライドをもっていました。その点でもマスカラスにとってはやりやすい選手だったのでしょう。マスカラスと鶴見が戦う場合には,ベビーフェイスとヒールの関係が明瞭判然としますが,全日本プロレス所属のレスラーと戦う場合には,そこまではっきりと色分けすることはできないからです。
 ナルシストであったマスカラスにとって,全日本で最も手が合う相手は鶴見五郎だった。意外とも感じますが,それが事実であった可能性も高いだろうと思います。

 フェルトホイゼンがスピノザを理神論者と規定するとき,理神論者とは,理性に依拠して神を認識する者のことです。この意味において,スピノザが理神論者であるというのは,正しい規定だと僕は考えます。
 フェルトホイゼンの意見では,もし神が理性によって認識されるなら,聖書に記述されている神と違った神が認識されることになります。したがって理神論者はキリスト教を信仰することができません。だから聖書の教えを忠実に実行することも不可能になります。よって理神論者は放埓な生活を送る無神論者に堕するのです。
 スピノザはこれと真逆のことをいっていることになります。理神論者は理性によって神を認識するがゆえに,むしろ聖書の教えに服従する者と同じ意味で敬虔であることになるからです。つまり敬虔の方をキーワードにすれば,フェルトホイゼンは聖書に従わなければ人は敬虔であり得ないと判断しているのに対し,スピノザは聖書に従わずとも理性に従うことで敬虔であり得ると主張しています。無神論者の方をキーワードにしたら,フェルトホイゼンは聖書に従わない者は理神論者であろうとなかろうと無神論者ですが,スピノザによれば,理性に従う者は必然的に無神論者ではないのです。
 理神論者と無神論者を同一視するフェルトホイゼンの見解は,たぶん当時の一般的な見解であったと思われます。というのは,カルヴァン派の牧師は,デカルトを排斥するとき,デカルトは理神論者であると規定していたふしが窺えるからです。つまりデカルト主義は無神論そのもの,あるいはその一歩手前であるとみなされていたと思われます。
 『神学・政治論』がフェルトホイゼンのような,カルヴィニストに比べればよほど自由思想家であるデカルト主義者にも受け入れられなかった理由のひとつに,この点をあげることができるかもしれません。理神論者が無神論者であるどころか敬虔であるとするスピノザの規定は,受け入れ難いもの,もっといえば理解不能なものであった可能性があるからです。
 カルヴィニストとフェルトホイゼンとスピノザの差異は,デカルト哲学の理解の差異にあったと僕は考えます。
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決定版夏目漱石&戦略

2015-08-29 19:19:34 | 歌・小説
 吉本隆明の『夏目漱石を読む』を紹介したので,次は江藤淳になります。
 江藤は吉本とは異なり,文学専門の評論家です。しかも漱石の作品に特化したような評論家であるといっても過言ではありません。そのために江藤の作品は文庫本で読むことができるものも多くあります。その中から『決定版夏目漱石』を僕は推薦します。
                         
 これを薦めるのは,古いものから新しいものまでが含まれているからです。もっとも,ここに含まれる最新のものは1974年のもので,江藤はその後も書いていますから,初期のものから後期のものまで含まれているとはいえないかもしれません。でもこれで十分に思います。
 僕は江藤の評論は,古いもの,つまり若い時代のものほど面白く感じます。ある時期以降の江藤は,過去の自説に執着するようになっていると僕には思え,以前のものほど面白く感じられません。ここに含まれているもののうちに,すでにそうした匂いを僕は感じます。
 たとえば江藤は宮井一郎を厳しく批判します。僕は『漱石の世界』で宮井が事前に一面的な原理を立て,それに則して漱石のテクストを読解するとき,同調することはできません。しかし江藤がたとえば漱石自身の恋愛対象として兄嫁を想定し,それを根拠にテクストを読解するとき,採用している手法は宮井と大して変わらないと思えます。では何によって両者の対立が生じるのかといえば,漱石にとっての真実が何かということの見解の相違です。でも漱石にとっての真実が何であるかということに,僕は興味をもちません。だから宮井も江藤も同じようなものと感じるのです。もし宮井の江藤への言及が批判にも該当しない罵倒であるなら,少なくともある時期以降の江藤も,罵倒なしに評論活動を行っているとは僕には判断できないです。
 テクストの真理は作家の側にあるのでなく,読者の側に委ねられると僕は考えています。僕と同じように考えるなら,江藤の評論は魅力的なものではないでしょう。しかし僕と逆に考えるなら,江藤の評論を参考にせずに漱石作品を考えることはできないだろうと思います。

 スピノザは禁欲主義者ではありません。ですから快楽を絶対的な意味において否定しません。むしろ適度な快楽を推奨していると理解するのが正確だと思います。しかしそれが快楽至上主義でないことも確かです。
 『スピノザの生涯と精神』のコレルスの伝記を読めば,スピノザが貪欲に金銭に執着するとか,虚栄心から名誉を追い求めるというような人物でなかったことは間違いありません。つまり無神論者という語句が個人の態度を意味する限り,スピノザが無神論者でなかったことは確実です。
 もしリュカスの伝記にそうした記述があったとしても,リュカスはスピノザを賛美する立場ですから,割引が必要です。ですがコレルスはカルヴァン派の牧師であり,スピノザの敵対者です。事実,コレルスはスピノザの思想を手厳しく批判しています。そうした思想の持ち主が,無神論者ではなかったということは,本来的にはコレルスには都合が悪かったことだと思われます。しかしコレルスは,スピノザの生活態度が立派なものであったといことについては,スピノザの思想を排斥するのと同じくらいの調子で強調しています。こうした事情から,コレルスの記述はかなりの確度で信頼できると思われるのです。
 実際のところ,もしもスピノザが無神論者という語句に値するような生活を送った人物であったとしたら,コレルスはスピノザに関心を抱くことがなかっただろうと推測されます。したがってコレルスには伝記を執筆する動機が生じません。要するにコレルスが伝記を書いたということ自体が,スピノザは無神論者ではなかったということの証明になり得ます。
 このように考えたときに,スピノザが『神学・政治論』において,敬虔であるということを思想面からではなく,行動面から規定したということについて,ある戦略的な意図があったかもしれないという推測が成り立ちます。つまり無神論者であるということが行動面から規定されるのと同様に,敬虔さも同じ観点から規定されているのです。
 フェルトホイゼンにとって,理神論者と無神論者は同じ意味でした。ですがスピノザにとってはそうでなかったことになります。
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第三部定理二五&無神論者

2015-08-28 19:09:56 | 哲学
 第三部定理四〇に示されている憎しみの連鎖はしばしば生じるのに,第三部定理四一で示されている愛の連鎖は滅多に生じません。つまり他人から憎まれる場合に,憎まれる正当な原因を与えたと表象することは稀で,愛される場合には愛される正当な原因を与えたと表象しがちいうのが,スピノザの人間観のひとつになります。このゆえに人間の現実的本性は,他人に感謝することよりも,復讐することに向う傾向が強いことになります。
                         
 こうした傾向を根本的に支えるのは第三部定理一二第三部定理一三です。すなわち喜びを追求し,悲しみを忌避する人間の現実的本性です。同時にこの根本原理を原因として必然的に発生する別の原理が,さらにそうした傾向を強化することになります。その原理として示されているのが第三部定理二五です。
 「我々は,我々自身あるいは我々の愛するものを喜びに刺激すると表象するすべてのものを,我々自身および我々の愛するものについて肯定しようと努める。また反対に,我々自身あるいは我々の愛するものを悲しみに刺激すると表象するすべてのものを否定しようと努める」。
 ここでも努めるといわれるのは,意志をもって努力するという意味ではありません。単にそのような傾向があるという意味です。つまり僕たちは,単に喜びを追求し悲しみを忌避するだけでなく,喜びをもたらすものを肯定し,悲しみをもたらすものを否定しようとする傾向を有するのです。
 このために,憎しみの正当な原因を与えたと表象せず,愛の正当な原因は与えたと表象する傾向が発生します。なぜなら第三部定理三〇により,憎しみの正当な原因を与えたと表象するのは悲しみですが,愛の正当な原因を与えたという表象は喜びだからです。
 人間の現実的本性が感謝より復讐に傾いていること。それは人間の現実的本性が恥辱よりも名誉に傾いていることと同じ意味なのです。

 スピノザのフェルトホイゼンへの反駁のうち,顧慮しておきたいもうひとつの点は,冒頭部分の記述です。
 『神学・政治論』は匿名で発刊されました。なのでオーステンスに評価を送ったとき,フェルトホイゼンは著者がスピノザであることを知らなかったようです。そこで著者のことを彼といっています。その最初の部分でフェルトホイゼンは,彼がどの民族に属するかもどんな生活を送っているかも知らないし,知りたくもないと書いています。その理由はこの著者が理神論者に属するからです。フェルトホイゼンにとって理神論者と無神論者は同じ意味だったと理解して構わないと思います。つまりフェルトホイゼンがスピノザの生活を知りたいと思わないことの根拠は,スピノザが無神論者であるからだと解することにします。
 これがフェルトホイゼンの手紙の冒頭部分なので,スピノザもそれに呼応して,手紙の冒頭部分で反論したのでしょう。スピノザがいうには,むしろフェルトホイゼンは著者であるスピノザの生活態度を知るべきでした。そしてそれを知れば,フェルトホイゼンはきっと著者が無神論者であるという結論を出すことができなかったであろうとしています。その根拠は,一般に無神論者といえば,名誉や富を法外に欲するものだけれども,スピノザがそういう人間でないということは,その生活を知ったならば明らかな筈だという点にあります。
 ここで無神論者という語句が,個人が有する思想を表現するものでなく,その人間の態度を示す語句として用いられている点が大いに注目に値します。フェルトホイゼンがスピノザの生活態度を知りたいとも思わないといったのは,おそらくフェルトホイゼンもスピノザと同じような意味で無神論者という語句が意味する対象を認識していたからだと思われます。要するにそんなものは見たくもないという意味が含まれていたのだと思うのです。そしてたぶんこれは,この当時の無神論者という語句が使われる場合の,一般的な意味であったのでしょう。つまりそれは信仰を持たないとか,神を信じないという意味ではなく,放埓で野蛮な生活を送るというような意味だったのです。
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王位戦&グレフィウス

2015-08-27 19:44:48 | 将棋
 徳島市で指された第56期王位戦七番勝負第五局。
 広瀬章人八段の先手で角換り相腰掛銀。後手の羽生善治王位がが6筋を突いて先手が☗6四角と打つ将棋。途中から流れが激しくなり,先手が攻めきるか後手が受けきるかの将棋になりそうでしたが,攻めきれないとみた先手が後手の龍を抑え込む代償に流れを緩やかにしたので,泥仕合になりました。
                         
 上部を押さえつつ龍取りに金を打った局面。質駒を打ったような感じでこの手自体は意外でした。後手玉は龍を取られてもすぐに寄るわけではないので,絶好機といえそうです。
 ☖6六桂と銀を取って☗同銀に☖6九銀と打ちました。
 先手は龍を取っても金が質駒になっている状況は変わらずはっきり負け。☗7九金と逃げました。
 ☖6八銀は部分的には重いですがこの場合には厳しい追撃。☗同金☖同とよりはましでしょうから☗6九金☖同銀不成は必然的進行。相変らず金が質駒なので☗9六香と逃げ道を作りましたが☖5二飛が決め手になりました。
                         
 さすがにここで馬を逃げることもできないでしょうから後手が角の入手に成功。第2図で角は後手にとって最も欲しい駒ですから,ここで勝負は決まったといえるのではないでしょうか。
                         
 羽生王位が4勝1敗で防衛。第34期に初めて就位。そこから42期まで九連覇。45期に復位すると46期,47期と三連覇。52期に最復位し,53期,54期,55期そして今期と五連覇で通算17期目の王位です。

 スピノザはフェルトホイゼンLambert van Velthuysenが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』をどう評価しているか知っていました。しかしグレフィウスJohann Georg GraeviusがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに送った手紙の内容を知っていたという確証はありません。いい換えればスピノザはグレフィウスが自身の敵対者であることは,もしかしたら知らなかったかもしれません。なので同じように敵対者と面会するといっても,フェルトホイゼンやブレイエンベルフWillem van Blyenburgと面会する場合と,グレフィウスと面会する場合とでは,スピノザにとっては,あるいはスピノザの精神の内部においては,意味合いは異なる可能性もあったと考えておくことは必要です。
 スピノザとグレフィウスが会ったのも,スピノザのユトレヒトへの滞在中の出来事でした。グレフィウスはスピノザを無神論を世界に散布する悪疫のような人物と判断していたわけですが,この会見もどうやら穏便に済んだようです。スピノザは帰国後に,グレフィウスにも短い手紙を送っていますが,少なくとも表立って言い争うようなことはなかったであろうことが,その内容から推測できるからです。
 1673年12月,すなわち訪問の時期が同年の7月であり,その間にスピノザとグレフィウスが面会したとして,およそ5ヶ月後にスピノザから送られたのが『スピノザ往復書簡集』書簡四十九です。ここではスピノザがだれかから借りたデカルトの死に関する書簡を,その借りた当人が返却を求めているので,すぐに返してほしいという内容だけが記されています。要するにスピノザはだれかから借りたその書簡というのを,グレフィウスにまた貸ししたのでしょう。それはユトレヒトで面会したときに貸し,後に返してもらう約束をして帰ったのかもしれませんし,あるいは帰国後に小包のような形で送ったものかもしれません。いずれにせよ,そうした書簡を貸し借りするような関係にスピノザとグレフィウスはなったということの証明です。そしてそのような仲になったのは,ユトレヒトでの面会の成果であったとしか考えられません。
 グレフィウスは言語学者とされていますが,スピノザが貸したものの内容から察すると,デカルト主義者であったのではないかと僕には思えます。
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スポニチ盃アフター5スター賞&二面性

2015-08-26 20:52:40 | 地方競馬
 JBCスプリント指定競走の第22回アフター5スター賞
 好発はルックスザットキルでしたが一旦はゴーディーに行かせて2番手。その後ろがナイキマドリード,カイロス,コアレスピューマの3頭併走で,この5頭が先行。少しだけ離れてリアライズリンクス,ケビンドゥ,アルゴリズム,アクティフ,インプレスウィナーの5頭の集団。また少し差があってジョーメテオの隊列。ただ,今日のルックスザットキルは抑えが利かなかったため,向正面では先頭に立ち,下がったゴーディーを捌いてインから上がったカイロスに,3コーナーから差を広げていくというレースになりました。最初の600mは34秒6のハイペース。
 直線入口でルックスザットキルのリードは3馬身ほど。しかしさすがに余力はなく,残り200mを過ぎたあたりで一杯。追っていたカイロスとコアレスピューマ,そしてコーナーで外を捲って上がってきたジョーメテオの3頭が競り合いつつ交わしました。この中から最外のジョーメテオが差し切って優勝。コアレスピューマがしぶとく頑張って1馬身半差の2着。勝ち馬に先んじられる形で大外を追い込んだアルゴリズムが3馬身差の3着。
 優勝したジョーメテオは昨年11月に遠征した笠松グランプリ以来の勝利。南関東重賞は一昨年のゴールドカップ以来の2勝目。能力は非常に高いものの,折合いに難しい面があるため,惨敗を喫することもある馬。このレースはうまく折り合えたので能力発揮となりました。今後も安定して好走するというのは考えにくいと思いますが,能力が減退しているわけではないので,もっと強力なメンバーを相手にしてもあっといわせる場面があって不思議はないと思います。馬券上は人気が下がったときが狙い目の馬でしょう。父はネオユニヴァース。叔父に1999年の函館記念,2000年の中山金杯と小倉大賞典を勝ったジョービッグバン
 騎乗した大井の坂井英光騎手は一昨年のゴールドカップ以来の南関東重賞制覇。第19回以来3年ぶりのアフター5スター賞2勝目。南関東重賞は14勝目。管理している浦和の小久保智調教師第21回に続いての連覇でアフター5スター賞2勝目。

 おそらくフェルトホイゼンと同じような理由から,ユトレヒトのコンデ公の陣営に招き入れられたユトレヒト在住の知識人に,ヨハン・ゲオルク・グレフィウスがいます。ユトレヒト大学で教鞭をとっていた言語学者です。
 グレフィウスはライプニッツと親交がありました。1671年4月にライプニッツに手紙を送り,その中で『神学・政治論』を無神論に門戸を開く悪疫のようなきわめて有害な本であると評しています。
 これを受けてライプニッツは,返書を送っています。そこでは自分も『神学・政治論』を読んだこと,そして教養があると思える人物がこんなにも堕落してしまうとは嘆かわしく思うということを伝えています。ここでライプニッツがスピノザを,教養のある人間と部分的には肯定的に評価していることは注目に値するでしょうが,全体の文脈としては,ライプニッツはグレフィウスに同調しているといえます。
 ライプニッツがスピノザに最初の手紙を書いたのは同年10月のことです。つまりグレフィウスに同調する手紙を送ったのより後のことです。この書簡は光学に関連するものですが,僕はそれはライプニッツがスピノザに接近するための手段だったのであり,本当の目的はスピノザと哲学的対話をすることにあったと考えています。
                         
 これでみればライプニッツが,事実として二枚舌を使ったことは否定できません。『宮廷人と異端者』では,こうした二面性が,ライプニッツの個人的性格に起因するかのように描かれています。ただ僕は,これを単にライプニッツに帰してよいとも思えません。この時代の宮廷人というのは,このようなやり方で多くの人びとと交流したのであって,宮廷人は多かれ少なかれだれしもこのような態度を選択したのであると説明されても,僕にはリアルに響くからです。
 フェルトホイゼンとかグレフィウスといった知識人が,スピノザの思想を激しく論難したのには,僕にはある理由があったからだと思えるのですが,それについてはまた後で詳しく説明します。少なくともグレフィウスのスピノザ観は,二枚舌とか表向きのものではなく,本心だったと解しておくことにしましょう。
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夏目漱石を読む&フェルトホイゼン評

2015-08-25 19:32:28 | 歌・小説
 夏目漱石幼少期の経験が小説のテクストに影響を与えているというのは,作家論と作品論で分類すれば作家論の代表のようなものです。僕は作家論に対する関心は薄いですが,宮井一郎の『漱石の世界』を紹介したように,まったく読まないというわけではありません。幼少期のトラウマがテクストに影響しているという代表的論者としてふたりの名前をあげましたが,漱石について評論する場合に,このふたりを完全に無視するというわけにもいかないでしょう。ですから両者の漱石論のうち,まとまっていてかつ文庫本で簡単に読めるものを紹介しておきます。まず吉本隆明の『夏目漱石を読む』です。
                         
 ご承知でしょうが吉本隆明は文芸専門の評論家ではありません。たとえば僕が持っている『偶像の黄昏』と『アンチクリスト』は一冊になっていますが,巻末の解説を担当しているのが吉本です。広範な評論活動を精力的に行った吉本が,日本文学の中で特別に執着したのが夏目漱石の作品でした。なので漱石に対する言及はわりと多くなっています。
 ここに紹介するのはちくま文庫から出ているもの。これを推薦するのは,文庫本で入手も読破も容易であるという点を別にすれば,漱石の作品の多くに言及されているからです。吉本は1990年から1993年にかけて,4回にわたって漱石の作品に関する講演を行いました。その講演のすべてがまとめられているのがこの本です。ですから章立てとしては4章。各々の章でみっつの作品が取り上げられているので,12の作品について言及されていることになります。こうした構成から吉本自身は作品論といっていて,一般的にはそういうことになりますが,僕の分類では作家論になります。ちょうど蓮実重彦の『夏目漱石論』が,各章で作品が縦断的に言及されるため,作家論であるといわれているのと逆になります。
 吉本は評論家であると同時に思想家ですから,思想家としての吉本をこの本で評価することはできません。ただ,吉本の思想を知らなくても,漱石の小説を知っていれば,この本の内容は十分に理解できる筈です。

 フェルトホイゼンに対する評価が,理性によっては敬虔であることができない人物,すなわち『神学・政治論』を読む価値がない人物であったならば,スピノザにとってフェルトホイゼンは,会って議論する価値がない人物であったことになります。真理の発見はもっぱら理性の役割ですから,フェルトホイゼンは真理の探究を共有する相手となり得ないからです。ところが後にスピノザはフェルトホイゼンと面会します。ユトレヒト訪問のときです。
 『ある哲学者の人生』では,この会見はスピノザにとって実りあるもので,少なくとも両者は,ふたりの相違がどこに存するかという点と,考え方が一致しないという点で一致したとしています。少なくともこの会見でスピノザのフェルトホイゼンの人物像に関する見方が変化したのは確実と思えます。僕はユトレヒト訪問の時期を1673年の7月と考えますので,2年後になりますが,スピノザはフェルトホイゼンに書簡を送っています。『スピノザ往復書簡集』書簡六十九がそれです。この中でスピノザは,フェルトホイゼンに自説への反論を依頼しています。したがってこの時点では,スピノザはフェルトホイゼンを,議論するに適した人物であると認識していたことになります。
 スピノザとフェルトホイゼンが面会したときのユトレヒトは,フランス軍の占領下にありました。ですからユトレヒトの住民たちのほとんどは,フランス人に対しては憎しみしか抱いていなかったとナドラーは書いています。これ自体はごく自然な感情の発露だったといえるでしょう。しかしユトレヒト在住の知識人の中には,コンデ公に敬意を払う者もいたそうです。というのもコンデ公は哲学的問題に関心があり,自由主義的な人物に取り囲まれることを好む人物であったからです。スピノザがユトレヒトに招待されたのも,こういった理由からであったのかもしれません。そしておそらくフェルトホイゼンも,同じ理由でフランス軍の陣営の内部に迎え入れられていたのではないかと推測されます。フェルトホイゼンはスピノザからみれば保守派ですが,デカルト主義者でしたから,一般的には自由主義者に分類される筈だからです。
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サマーナイトフェスティバル&敬虔

2015-08-24 19:23:11 | 競輪
 函館競輪場で争われた昨晩の第11回サマーナイトフェスティバルの決勝。並びは新田-山崎の福島,浅井-近藤の中部,原田-岩津-柏野の四国中国で芦沢と小埜は単騎。
 浅井がスタートを取って前受け。3番手に新田。芦沢,小埜と続き,原田が7番手で周回。残り2周のホームの入口から原田が上昇を開始。小埜がこのラインに続きました。ホームを過ぎた付近から浅井が誘導との車間を開け始め,バックで原田が叩いて前に。小埜の後ろに浅井,切り替えた芦沢が近藤の後ろに追い上げ,新田が8番手の一列棒状になったところで打鐘。浅井はバックに入った辺りから小埜との間隔を開けて出ていこうとしたと思うのですが,なかなか進まず。小埜が先捲りで浅井が乗る形。ただ,行こうとするなら小埜の上を行く必要があり,苦しくなりました。コーナーで近藤は小埜の内へ。そこから近藤の前は遮るものがなく,直線で突き抜けて優勝。大外を捲り追い込んだ新田が4分の3車身差で2着。近藤の後ろからコーナーでインに斬り込み,直線は原田と岩津の中を割った芦沢が4分の1車輪差の3着に入り大波乱の結果に。
 優勝した愛知の近藤龍徳選手は昨年末のヤンググランプリ以来のビッグ2勝目。このレースは原田がうまく駆けた上に,かなり強い内容。その上,小埜が機敏に立ち回って先捲りを打ったので,浅井や新田には厳しいレースになりました。近藤はFⅠでも優勝候補の筆頭とはならないレベルの選手で,ヤンググランプリはともかく,上位選手も揃ったGⅡを勝ったのは驚きでした。直線でインが渋滞になったのも幸いしたでしょうし,勝ち上がりの上では初日の特選メンバーに入ったのも大きかったでしょう。ヤンググランプリも単騎での優勝で,勝負強さがあり,舞台が大きくなるほど力を発揮できるタイプの選手かもしれません。年齢面から脚力はまだつくでしょうから,記念競輪でコンスタントに決勝に出られるくらいのレベルまでいけば,相当の活躍を見込んでいいと思います。あとは本人の努力次第で,それを見守っていくほかありません。

 『スピノザ往復書簡集Epistolae』書簡四十三でスピノザがフェルトホイゼンLambert van Velthuysenに反駁するとき,顧慮しておきたいことがふたつあります。ひとつは末尾にあるスピノザによるフェルトホイゼンの評価です。
                    
 『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』は,敬虔pietasであるとはいかなることかが主題のひとつになっています。そしてスピノザはそれは,各人の行動様式からのみ決定されなければならないと結論します。したがって,各人が精神のうちにどのような観念を有しているか,他面からいえばどのような観念の集積で,ある人間の精神mens humanaが構成されているかということと,その人間が敬虔であるか否かは無関係であることになります。
 次に,敬虔か否かを決定する具体的な行動様式の規準は,ふたつの点に集約されるというのがスピノザの結論です。ひとつは神Deusを愛することです。もうひとつは隣人を愛することです。したがってある人間の行動様式がこのふたつの点を満たしているなら,その人間は敬虔であることになります。しかしどちらかひとつ,あるいは両方が欠けているとしたら,その人間は不敬虔であるとみなされなければなりません。
 ではいかにして人間は敬虔であることができるかといえば,スピノザはふたつの種類に差別化します。ひとつは理性ratioによって敬虔であることができる人間です。もうひとつが聖書に服従obedientia,obsequium,obtemperantiaすることによって敬虔であることができる人間です。繰り返して注意しますが,敬虔であるか否かは行動様式によって評価されるので,スピノザの差別化は,敬虔であることについての差別化ではありません。その人間が敬虔である原因に関する差別化です。
 『神学・政治論』の冒頭で,スピノザはきっぱりとこの差別化を宣言しています。『神学・政治論』を読む価値がある読者は,理性によって敬虔であることができる人間だけであり,聖書に教えられなければ敬虔であることができない人間は,この本を読んで不快になるかもしれないから読まないでほしいという主旨のことをいっているからです。
 スピノザはフェルトホイゼンを,理性によって敬虔であることができない人物,すなわち『神学・政治論』の読者に相応しくない人物と評価したのです。
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谷津の雑感③&フェルトホイゼン

2015-08-23 19:07:29 | NOAH
 谷津の雑感②の続きです。
 1987年のピンチが全日本に訪れたことについて,谷津は必然的だったという感想を述べています。長州力には全日本のスタイルは面倒なものと感じられた筈だからというのがその根拠です。逆に谷津は,このスタイルは面白いと感じ始めていたから,長州と行動は共にせず,全日本に残留したそうです。この部分は谷津自身の感じ方が根拠になっていますから,長州が本当に谷津が言ったように感じていたと解するのは危険が伴いそうです。
 この後,谷津はジャンボ・鶴田と組んで天龍源一郎らと対抗するようになりますが,これには馬場の依頼があったそうです。僕は馬場というのはリング上の対立の構図が複雑化することを好まなかったように思います。なのでプロモーターとしての馬場が谷津にこうした依頼をするのは,当時のリングの状況から勘案すると合理的に思えます。つまり実際に谷津が言っている通りのことがあったのだと解します。
 全日本に入団した谷津に対して,馬場は一目置いてくれたと語っています。扱いの上で外様だと感じたことは1度もなかったとのこと。馬場は谷津に対してほとんど語っていないので,どのように接したか分からないのですが,少なくとも谷津がそういう実感をもったということは事実なのでしょう。もっとも馬場は全日本をファミリーと考えていて,そのファミリーの中には全日本で仕事をしているすべての選手が含まれていたというのが僕の解釈なので,馬場が谷津に対してもそのような観点から接したのは間違いないところでしょう。また,谷津が外様と感じなかったというのは,ただ馬場との関係だけから生じるような感覚とは思えず,ほかのレスラーも,鶴田のパートナーである谷津のことを尊重したのではないかと推測します。
 ただし,新日本と全日本は違った慣習があったので,非意図的に問題を起こしそうになったことはあると述懐しています。全日本の慣習に関しては,カブキがアドバイスしてくれたようです。

 自分の思想と相容れないと理解していながら,スピノザが面会したのはブレイエンベルフだけではありません。
                         
 『スピノザ往復書簡集』書簡四十二は,ランベルト・ド・フェルトホイゼンがヤコブ・オーステンスに宛てたものです。オーステンスがフェルトホイゼンに『神学・政治論』の評価を尋ねたのに対し,フェルトホイゼンが解答したのがその内容。この書簡はオーステンスからスピノザに送られ,スピノザはオーステンスに宛ててその反論の書簡四十三を書いています。
 フェルトホイゼンはユトレヒトの医師です。デカルトの信奉者でした。ですから正統派のカルヴィニストと比べた場合には進歩派に属します。しかしスピノザからみると保守派でした。聖書の権威を貶める行為は無神論であり,否定されるべきだいうのがフェルトホイゼンの判断であったからです。一方,この人は鈍重とか愚鈍とかはいい得ない人物であるように僕には思えます。僕はブレイエンベルフに関しても,鈍重であったり愚鈍であったりはしないと判断しますが,フェルトホイゼンとブレイエンベルフを比較して,どちらが知性的かと問われたら,迷わずフェルトホイゼンと答えます。少なくともスピノザの思想をより正確に理解できたのは,ブレイエンベルフよりフェルトホイゼンであったのは間違いないと僕は考えています。
 僕がそのようにいう根拠は,書簡四十二の中身にあります。先述したようにこの書簡は『神学・政治論』の批評ですが,実際に批評している文面は僅かで,大部分が『神学・政治論』の要約によって占められています。スピノザは要約の内容に不満があったようですが,僕には概ね妥当なものと思えるのです。むしろ僕が不思議に思うのは,フェルトホイゼンがこれほどまでスピノザの主張を正しく理解することができたのに,支持するに至らなかったという点の方にあります。たぶんフェルトホイゼンの立場はヤコービと類似しているのであって,スピノザ主義のよき理解者ではあっても,神学的観点から同調できなかったのでしょう。フェルトホイゼンがスピノザ主義を論理的に覆せると考えていたとはどうしても僕には思えないのです。
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啓蒙の可能性&スピノザとブレイエンベルフ

2015-08-22 19:14:41 | 哲学
 スピノザと啓蒙思想との間には一定の乖離があると僕は考えています。でも,だからスピノザの思想によっては,人は他者を啓蒙することが絶対に不可能であるという結論にはならないとも考えています。スピノザ主義の内部での啓蒙の可能性を考えてみましょう。
                         
 第二部定理三八系の意味から分かるように,現実的に存在するすべての人間の精神のうちに,必然的に何らかの真の観念が実在します。真理獲得の方法と真理の獲得とはスピノザ主義では同じことです。したがって現実的に存在するすべての人間は,真理獲得の方法を知っているということになります。これは『知性改善論』が未完に終った理由に関するドゥルーズの見解の基礎をなす部分と同じです。同時にこの部分にこそ,啓蒙の可能性があると僕は考えます。
 Aという人間の精神のうちにXの真の観念があるというのは,Aの精神の本性を構成する限りで神のうちに真の観念があるというのと同じです。もしも別の人間,Bの精神のうちにXの観念がある場合には,Aの精神の本性を構成するのではなく,Bの精神の本性を構成する限りでの神のうちにXの観念があることになります。よって,Aの精神のうちにあるXの真の観念と,Bの精神のうちにあるXの真の観念は同一です。もっと一般的にいうなら,それがどんな人間の精神のうちにあろうと,真の観念である限り,その観念の形相は一致することになります。
 ですから,Xの真の観念がAとBの双方の精神のうちにあるとされる限りでは,Xに関してはAはBを,逆にBはAを,啓蒙することが可能であるといういい方ができるようになります。しかるにどんな人間の精神のうちにも何らかの真の観念があるのであれば,最低でも何らかの観念に関しては,人は他者を啓蒙することが可能であるという結論が,一般的に帰結することになるでしょう。
 ただし,これは一般的な帰結です。そして啓蒙の可能性はそれ以上ではないと僕は考えます。一般的にではなく,具体的にあるいは個別的に考えてみたならば,やはりスピノザ主義と啓蒙思想の間には,橋を架け難い溝があるように僕は思うのです。

 『スピノザ往復書簡集』書簡二十一が,僕が退屈だったといったブレイエンベルフからの書簡二十への返事です。この冒頭で,スピノザはブレイエンベルフとの間に根本的原理に相違があると分かったと書いています。だからスピノザはこれ以上の議論をブレイエンベルフとすることは無意味であると明瞭に認識していたに違いありません。ところがこの書簡はとても長いもので,スピノザは自身の考え方を詳しく述べています。
 基本的にこれ以後もブレイエンベルフとのやり取りでは,スピノザはこうした態度で臨みます。1665年6月の最後の書簡二十七でようやく,自分はブレイエンベルフに満足する解答を与えることはできないから,質問することを放棄するようにという忠告を与えます。この手紙の冒頭部分で,アムステルダムに出掛けようとするところでブレイエンベルフからの手紙を受け取ったけれども,どうせ同じようなことが書いてあるだろうと思って半分だけ読んで出掛けてしまったと書いているところからも,一連のやり取り自体に辟易としていたことが窺えます。
 書簡二十一の段階で,二十七に類するようなことも書けたろうと僕は思うのです。それをせずに懇切丁寧な内容の書簡を残したことは,スピノザの思想を理解するためには意義あることです。実際にスピノザがブレイエンベルフに送った内容は,僕の哲学的関心を惹起するような内容が多く含まれています。しかしそういったものを書いたスピノザの動機が僕には分かりません。ブレイエンベルフに書くことは,まず無駄であろうということを最も理解していたのは,おそらくスピノザだと思うからです。
 単に手紙のやり取りをしていただけではありません。書簡二十二で,ブレイエンベルフは旅に出るので,その途中でスピノザと面会することを申し出ています。書簡二十四の冒頭で,ブレイエンベルフはスピノザを訪ねたと書いていますから,それは実現したわけです。僕がスピノザの資質が特異であると感じるのはこうした部分です。無理解な人間と面会することほど,苦痛に感じられることはないと思われるのに,それを少しも厭わないようにみえるのです。
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漱石のドストエフスキー観&誤解

2015-08-21 19:15:16 | 歌・小説
 漱石のキリスト教観が,どのように漱石のドストエフスキー評に影響を与えるのかを考えてみましょう。
 ノット夫人に対する態度から窺えるように,漱石は相手がキリスト教徒だからといって,直ちに否定的な評価を下すことはありません。ですからドストエフスキーがキリスト教を信仰していようといまいと,それは評価には影響を与えないものと思われます。
 一方,エッジヒル夫人に対する日記の記述および実際に会ったときの態度や,船内での論争から考えて,漱石は自身に伝道するような行為には不快感を抱いたものと思われます。なのでドストエフスキーの小説がロシアのキリスト教との関係を省いては考えられないという場合に,そこに伝道の匂いを感じる限り,漱石はその小説を否定的に評価するだろうと推測できます。
 少なくとも,ドストエフスキーは小説を書くことによってキリスト教を伝道しようという意図はなかったと僕は考えます。あるいは,ドストエフスキーの小説のテクストが,伝道に効果的な働きを有するというようには考えません。漱石がテクストをどう受けとめるかは僕には確定できませんから,断定はできませんが,このような意味において漱石がドストエフスキーを否定するということはないだろうと思います。
                         
 ただし,小説の個々の登場人物のすべてについて,それが妥当するとはいえません。たとえば『罪と罰』のソーニャは,宗教的文脈だけで解するなら,明らかにラスコーリニコフに対してキリスト教の教えを説くという立場に該当します。ラスコーリニコフの倫理観の方が特異なのであって,通常の文脈だとそうなると思うのです。この場合に漱石が,登場人物としてのソーニャに不快感を有するということはあり得ます。さらにキリスト教に限らず,漱石と宗教の一般的な考え方からして,個人の精神的恢復が宗教によって達成されるというテクスト自体を漱石が否定的に評価する可能性も残るでしょう。
 このようなわけで,確かにドストエフスキーの小説がキリスト教と深い関係を有するということ自体が,ドストエフスキーに対する二律背反の評価の要因になり得ると僕は考えます。

 『スピノザ往復書簡集』十八の冒頭で,自分は純粋な真理への愛に動かされているという自己紹介をブレイエンベルフはしています。これは嘘です。返書を受けた書簡二十の冒頭では,十全な観念と聖書の言説が対立する場合には,聖書に大きな権威を認めるといっているからです。
 ただし,書簡十八で,ブレイエンベルフは意図的に虚偽を記述したのではないと僕は思っています。むしろブレイエンベルフは,自分が真理への愛に動かされていると信じ込んでいたのであって,もし自分が発見した真理が聖書の言説と異なっていた場合に,聖書に大なる権威を付与すべきであることは,暗黙の前提となっていたのだと思うからです。したがって,ブレイエンベルフが最初の書簡を記述したとき,何か誤りがあったというなら,自己認識が誤っていたのではなく,スピノザに対して誤解があったというべきだと思います。すなわちブレイエンベルフは,スピノザも自分と同じように真理を愛する者,真理と聖書が対立的である場合には,聖書に権威を置く人物だと思い込んでいたのだというのが僕の見方です。
 スピノザは最初の書簡のブレイエンベルフの自己紹介を文字通りに受け取りました。つまりブレイエンベルフは何よりも十全な観念に重きを置く人物であると理解したのです。ですから返信である書簡十九は,そうした前提から書かれています。
 僕にブレイエンベルフがただ愚鈍な人物でなかったと思えるのは,この返信を受けて,すぐに自分は十全な観念より聖書の権威に重きを置くのだと宣言しているのも理由のひとつです。書簡十九を読んで,ブレイエンベルフは,どうもスピノザは自分とは違っていて,聖書の言説に不合理性を認めれば,観念の十全性を上位に選択する考えの持ち主だと気付くことができるだけの知性をもち合わせていたと思えるのです。
 もっとも,この解釈はブレイエンベルフに好意的であるともいえます。書簡二十ほど退屈な手紙は僕にはありませんでした。『神学・政治論』は,哲学は真理に貢献し,聖書は服従を教えるといっています。ブレイエンベルフのような人のために,聖書は服従を教えているといえるでしょう。
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日刊スポーツ賞スパーキングサマーカップ&ブレイエンベルフ

2015-08-20 19:19:57 | 地方競馬
 岩手から2頭,高知から1頭が遠征してきた昨晩の第12回スパーキングサマーカップ
                         
 逃げなくても競馬はできるけれども逃げた方がよいと思われる馬が何頭かいたので,展開やペースを想定しづらい面がありました。逃げることになったのはブルーチッパーで,ケイアイレオーネがマークしながら2番手。ポイントプラスが3番手でトーセンアドミラルが4番手と,隊列は思いのほか早い段階で決まりました。前半の800mが48秒7のハイペースに。とはいえ川崎のこの距離は発走後の直線が長いですから,この程度ならオーバーペースとはいえないでしょう。
 ブルーチッパーにケイアイレオーネが並び掛けていき,3コーナーを回ると後ろと差が開きました。ここからマッチレースに。直線に入るところではケイアイレオーネの手応えの方が圧倒的によく見えましたので,あっさりと突き離すのかと思ったのですが,少し前には出たものの,そこから騎手のアクションに応えられず,ブルーチッパーに食い下がられました。ゴールのところではケイアイレオーネの頭が上がってしまい,差し返す形でブルーチッパーの優勝。ケイアイレオーネがハナ差の2着。2馬身半差の3着に先行して粘ったトーセンアドミラル。
 優勝したブルーチッパーはこれがJRAからの転入初戦。昨年末に牝馬重賞で入着していましたので,南関東重賞では牡馬相手でも上位の力があると思われました。逃げたのは正解だったと思います。2着馬が気難しさを露呈したような印象はありますが,重賞の勝ち馬ですから,勝ったということに価値を認めてもいいでしょう。牝馬重賞なら入着クラスの力はあり,相手次第で勝ち負けに持ち込んでもおかしくないと思います。叔父に2011年のさきたま杯を勝っている現役のナイキマドリード。Blue Chipperは賢人。
 騎乗した大井の真島大輔騎手は3月の桜花賞以来の南関東重賞制覇。スパーキングサマーカップは初勝利。管理している大井の荒山勝徳調教師もスパーキングサマーカップ初勝利。

 スヒーダムでスピノザは1通の書簡を受け取ります。『スピノザ往復書簡集』書簡十八のブレイエンベルフWillem van Blyenburgからのものです。
 ブレイエンベルフの評価は識者によって様ざまです。『ある哲学者の人生』では了見の狭い鈍重な人物として扱われています。『スピノザ入門』では愚鈍な保守派ではなかったとされています。『スピノザ 実践の哲学Spinoza : philosophie pratique』ではカルヴィニストの素人神学者で一介の穀物ブローカーにすぎないとされています。
 ナドラーがいう鈍重とモローがいう愚鈍はおそらく意味が異なるのであって,スピノザが論争の理由として示した事柄から,どちらが正しく判断しているかを判定するのは無意味でしょう。しかしこれだけ異なった評価がなされているので,僕がどう判断しているかは示しておきます。
 保守派というのは,個人それ自体の評価ではありません。進歩派とか革新派に対立して保守派といわれるので,何と比較するかによってその人物が保守的あるいは反動的であるかが決定されるからです。僕にとってブレイエンベルフは,スピノザに手紙を送り,論争を挑んだ人物でしかありません。この意味において僕はブレイエンベルフが保守派でなかったとは規定できないです。むしろドゥルーズGille Deleuzeがいうように,反動的カルヴィニストの傾向を有する人物と規定します。
 愚鈍とか鈍重というのは,個人の評価に値するでしょう。この観点からいうなら,僕はブレイエンベルフがただ愚鈍な人物であったとは判断しません。確かにブレイエンベルフは,デカルトの哲学とスピノザの哲学さえ,文通を開始した後でも混同していた形跡があります。ただ,それは元々が『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』を読んでスピノザを知ったのですから,止むを得ない面もあったと思います。そして文通の中身から,少なくともブレイエンベルフは,自身が把握したスピノザの思想というものが,どのような点において神学あるいは聖書と対立的であるのかということについては,明晰にではなかったとしても,認識していたと思えます。それがブレイエンベルフが質問する動機になっているからです。それだけで,単なる愚鈍な人物ではなかったと僕は判断します。
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王位戦&スピノザの資質

2015-08-19 19:37:54 | 将棋
 博多で指された第56期王位戦七番勝負第四局。
 羽生善治王位の先手で広瀬章人八段の四間飛車穴熊。先手も居飛車穴熊の相穴熊に。後手が4三の銀を5四に出て,▲5五歩と突かせて4三に戻り,4四に上がるという新作戦。ですがこれはあまりよくなかったようで,1日目で差がついたようです。相穴熊は意外と序盤が大事なので,こういうケースもまま生じます。
                         
 今日の昼食休憩時の局面。僕が今日アクセスしたのはここだけで,先手がよいにしても簡単にはいかないのかもしれないと思いました。
 ▲5三歩と垂らしました。対して△6一金寄が最善だったそうですが,そういう手が最善手なら,やはりすでに先手がよいと判断してよいものと思えます。実際の指し手は△5一飛。
 そこから▲3三歩成△同角▲3七桂と桂馬を使いにいきました。違和感があったのですが,正しい指し方だったそうです。△5三金▲3四飛△5七歩成▲3五飛。
                         
 と金は金と同じなので,銀損でも優勢や互角というケースもありますが,このと金は後手の駒と交換の見込みがしばらくはありませんので,はっきりとした差がついてしまったといえそうです。
 羽生王位が勝って3勝1敗。第五局は来週の水曜と木曜です。

 スピノザが心底から信頼していた友人は,生涯でもそう多くなかったと思います。ですが交友関係は幅広く,その中にはコンスタンティンのように,党派的には相容れない人物も含まれていました。また哲学する自由に嫌悪感を抱くような反動的な人物も含まれています。そういった人びとと私的に交流できたのは,スピノザにはある種の人あたりのよさとでもいうべきものがあったからかもしれません。
 僕がパフォーマンスとみなすアムステルダムからの追放のとき,スピノザを迎えに来た軍人はみなカルヴィニストで,公務の遂行上で仕方がないこととはいえ,スピノザと同行することを恥じていたとファン・ローンは書いています。しかし船が出るまでの短い間に,かれらとスピノザはすっかり打ち解け,出航のときには軍人たちは帽子を振って別れを告げたとしています。
 こうした資質というのは,天性のものであったかもしれませんが,スピノザ主義から必然的に生じる性向であると規定することもできます。ただ,僕からみても,スピノザのこの面の資質というのは,きわめて特異なものと思えるのです。というのはスピノザは,相手がどんな人物であったとしても,交流すること,端的にいえば会うということや文通するということですが,そうしたことを拒まなかったように思えるからです。『スピノザ往復書簡集』には,友人と会うのに忙しくて返事をするのが遅れてしまったという主旨の記述が多くあります。そうした会見のすべてが,スピノザにとって実りのあるものであったとはいえないと僕は思います。むしろ手紙の返事を書く方が,実益という意味では大きい場合もあったろうと思えるのです。ところがスピノザは,自身に会うことを求めてくるような人物に対しては,どんな相手でもその求めに応じていたように思われます。
 1654年のペストの流行で,別荘に滞在していたホイヘンスの一家とスピノザの関係は深まったと僕は判断しています。この流行は翌年も収まらず,今度はスピノザがスヒーダムという,数少ない信頼していた友人のひとりのシモン・ド・フリースの妹の義父が所有していた農家に避難しました。
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農林水産大臣賞典サマーチャンピオン&進言

2015-08-18 19:19:05 | 地方競馬
 実力接近と思われるメンバーで争われた第15回サマーチャンピオン
 逃げたのはシゲルカガ。ケージーヨシツネとエスワンプリンスの2頭が並んで追走。以下,タガノトネール,タガノジンガロ,レーザーバレット,キョウエイアシュラ,ピッチシフターまで,わりと差がなく進みました。最初の600mは36秒1のミドルペース。
 3コーナーを回るとケージーヨシツネとエスワンプリンスは苦しくなり,内からタガノトネール,外からタガノジンガロ。この2頭が最終コーナーで逃げたシゲルカガも交わしました。結果的に通ったコースの差が大きかったようで,ロスが少なかったタガノトネールの優勝。タガノジンガロが2馬身半差で2着。半馬身差の3着争いは接戦でしたが,やはり内を回ったレーザーバレットがキョウエイアシュラの追撃を凌ぎました。
 優勝したタガノトネールは重賞初勝利。前々走のオープンを勝ち,前走のプロキオンステークスも4着に入っていたので,ここでは有力候補の1頭。少なくともこのレベルでは今後の活躍も約束されていて,もう少し上のレベルで戦える可能性も残しているといえるでしょう。母の父がキングカメハメハ。半弟に昨年のデイリー杯2歳ステークスを勝っている現役のタガノエスプレッソ。Tonnerreはフランス語で雷。
                         
 騎乗した川田将雅騎手は第11回13回を制していて2年ぶりのサマーチャンピオン2勝目。管理している鮫島一歩調教師はサマーチャンピオン初勝利。

 王党派の中枢に近かったコンスタンティン別荘に,急進的な議会派で,無神論者とみなされていたスピノザが頻繁に通うというのは,スキャンダルになりかねない出来事でした。フォールブルフの3人の牧師がこのことを知り,自由思想の原理を抱く人物,すなわちスピノザが,オラニエ家と密接な関係にある人びと,すなわちコンスタンティンらを動かそうとしているという主旨の説教をしたと,ファン・ローンは述べています。ここからもカルヴィニストの牧師の説教というものが,単に宗教的な内容だけをもっていたのではなく,きわめて政治的な内容が含まれていたことが分かります。
 この牧師の説教を政治的文脈に絡めるならば,スピノザの家主であったティードマンらの人選に,当地の保守派の牧師たちが反発したということとパラレルな関係にあることが分かります。ティードマンにはコレギアント派の傾向があったというとき,それは自由思想を容認する傾向があったとも理解できるわけで,反動的なカルヴィニストにとっては,そうした自由思想こそが最大の敵であったのだからです。
 ローンは自身も議会派ではあったのですが,コンスタンティンに不利益が及ばないように,牧師が説教をしていることを進言したようです。しかしそれを聞いたコンスタンティンは,何も言わずに肩をすくめただけでした。それでローンはそんな説教はまったく気にする必要はないのだと理解し,躊躇なくスピノザの訪問を待ち受けるようになったと書いています。
 コンスタンティンの態度の理由というのは,ふたつの側面から考えることができるように僕には思えます。ひとつは,個人がどのような政治的思想を抱いているのかということと,プライベートの交際とは無関係であるとコンスタンティンは信じていたというものです。ローンはコンスタンティンに仕えてはいたのですが,自由思想家の傾向があるということくらいはコンスタンティンには分かっていたと思うのです。ローンとスピノザの相違は,それが外部に広く知られているかいないかだけで,だからコンスタンティンは,ローンと交際するように,スピノザとも交際したと考えられます。
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ドゥルーズの見解&王党派

2015-08-17 19:18:27 | 哲学
 『知性改善論』の最後の部分がトートロジーに陥っていることと,『知性改善論』が未完のままになっていることとを結び付ける見方があります。確かにトートロジーに陥ってしまったからそれ以上は続けることが不可能になったというのは,合理的といえばいえなくもない説明です。こうした見解を代表しているのがドゥルーズであると僕は思っています。
                         
 スピノザの哲学では,真理獲得の方法というものを,真理自体の獲得と別個に考えることはできません。ある真理が獲得されればそれと同時に真理獲得の方法も知ることができるのですが,真理を獲得する以前にそれを獲得する方法だけを知るということはできないことになっているからです。ドゥルーズの見解は,このことは認めた上で,ではどのようにすれば真理獲得の方法を知ることができるのかということを問題とします。いい換えれば,知性は一般に真理をどのようにして獲得するのかということを問題にするわけです。
 この場合,『エチカ』では共通概念が重要になります。共通概念は個物res singularisの真の観念ではありませんが,真の観念ではあるからです。したがって知性のうちに共通概念が存在するなら,その知性はそれによって真理獲得の方法も同時に認識することになります。しかるに第二部定理三八系は,どんな人間の知性のうちにも共通概念が必然的に存在することを示します。よってどんな人間も,真理獲得の方法を知っているということになるのです。
 共通概念の発見が,『知性改善論』が未完に終わった最大の理由なのだというのがドゥルーズの見解の主要要素になります。すなわちトートロジーに陥ったスピノザは,共通概念によって人間が真理をそして真理獲得の方法を知ることが可能になると発見したのだけれども,それを示すには『知性改善論』の議論が迂回しすぎてしまったので,『エチカ』にそれを示すことにしたのだというものです。
 この見解に説得力があることは僕も認めざるを得ません。しかし同時に,疑問点もあるのです。

 党派がふたつしかなかったとすれば,議会派の支持層が分かれば王党派の支持層も概ねは把握できます。
 軍人は基本的に王党派の支持層であったと考えられます。オランダはスペインとの戦争で独立を勝ち取りました。正式な独立は1648年。1609年までは戦闘があり,その記憶が残っている時代です。軍人を英雄視する大衆もそれなりにいた筈で,そうした大衆も王党派の支持層を構成していたと思われます。
 自由思想がキリスト教の教義を危機に晒すと考えていた人びとも,王党派の方を支持した筈です。神学を哲学の上位に置こうとする学者たちは,王党派を支持しただろうと予測できます。また,カルヴィニストの牧師たちも,当然ながら王党派と強力に結び付いていました。僕は王党派の中心勢力が,カルヴィニストであったと理解しています。大衆の中には牧師の説教を欠かさずに聴いていたという人が少なからずいたと思われます。そうした人も影響を受け,議会派よりは王党派に好感を抱いていたと考えてよいのではないかと思います。
 1672年にヨハン・デ・ウィットが大衆の暴力で非業の死を遂げたとき,おそらくフランスとの戦争において平和主義的な議会派には弱腰だという批判があり,同時に牧師たちの説教による王党派への支持の相乗効果があったのだと僕は考えます。カルヴィニストの牧師たちの説教というのは,必ずしも宗教的な内容を含んでいただけでなく,少なからず政治的な文脈が含まれていたのは間違いないと思います。
 ファン・ローンが,コンスタンティンのとらわれない精神に驚嘆したと記しているのは,ローンもスピノザも議会派,それもかなり急進的な議会派であったのに対し,コンスタンティンは王党派であったからです。デ・ウィットが実権を握った1652年に,コンスタンティンはローンに手紙を送っていて,その中でデ・ウィットを否定的に表現していますので,これは間違いないところでしょう。そしてコンスタンティンは,単に王党派であったというだけでなく,当時の王党派が支持していたオラニエ公に近い存在だったようです。つまりコンスタンティンは王党派の中枢だったのです。
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