スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ドバイ国際招待競走&全宇宙の存在

2014-03-31 19:34:49 | 海外競馬
 現地時間の29日にドバイのメイダン競馬場で開催された今年の国際招待競走には,4レースに8頭の日本馬が参戦しました。
 ゴドルフィンマイルGⅡタペタ1600mには一昨年のファルコンステークスと昨年のみやこステークスを勝っているブライトラインが出走。Forjattが出走取消で15頭。戦前のレーティングが突出し,結果もワンツーとなる2頭の先行。ブライトラインは先行集団の外,4番手から3コーナーでは2頭の直後の3番手に進出。4コーナーで外に振られたものの直線でもその位置をキープ。しかし残り100mで一杯となり,2頭に差し込まれて4着とは僅差の5着でした。
 この馬はレースで落ち着いて走れないという弱みがあり,相手関係以前に自身との闘いが必要。強い馬についていき,勝負をしにいっての結果なのですから,結果は5着でもよいレースをしたといえる内容だと思います。
 ドバイデューティフリーGⅠ芝1800mには昨年の天皇賞(秋)を勝ったジャスタウェイ,昨年のダービー卿チャレンジトロフィー,鳴尾記念,函館記念,札幌記念を勝ったトウケイヘイロー,2012年のJRA賞最優秀2歳牡馬のロゴタイプの3頭が出走。トウケイヘイローが逃げ,ロゴタイプは中団の外,ジャスタウェイは後方3番手でのレース。ロゴタイプは3コーナーで外から動き始めましたが馬群に飲み込まれて6着,トウケイヘイローも直線では一杯になり7着。ジャスタウェイは直線で大外を豪快に伸び,残り300m付近で先頭に立つと2着馬に6馬身以上の差をつけ,従来の記録を2秒以上も更新する大レコードで圧勝。
 優勝したジャスタウェイは今年初戦の中山記念から連勝,大レース2勝目。日本馬の海外での勝利は昨年末の香港スプリント以来。ドバイでは2011年のドバイワールドカップ以来。ドバイデューティフリーは2007年以来の2勝目。この馬が強いということは分かっていたつもりでしたが,これほどとは考えていませんでした。完全に実力を見誤っていたようです。この日のレースのうち,最も強い内容だったのではないでしょうか。父のハーツクライは2006年のドバイシーマクラシックの優勝馬で,父子でのドバイGⅠ制覇は珍しい記録と思います。祖母の半弟に1997年のシリウスステークスと1998年の中京記念を勝ったトーヨーレインボー。騎乗した福永祐一騎手は天皇賞以来の大レース制覇。海外GⅠは2005年のアメリカンオークス以来の5勝目。管理している須貝尚介調教師は昨年の阪神ジュベナイルフィリーズ以来の大レース制覇で海外重賞初勝利。
 トウケイヘイローは自分のレースはできたわけですから,力が足りなかったというほかないでしょう。ロゴタイプは成長力にやや乏しいという感じを受けています。
 ドバイシーマクラシックGⅠ芝2400mにはJRA賞で2012年の年度代表馬,2013年の最優秀4歳以上牝馬のジェンティルドンナ,昨年のフローラステークスとローズステークスを勝っているデニムアンドルビーが出走。Ambivalentのゲート入りに手間取り発走時刻がやや遅延。デニムアンドルビーが逃げるという予期せぬ展開。1コーナーでMarsが曲がれず外に逸走し,ジェンティルドンナも含めて数頭に接触する不利。ただ決定的なものではなく,内の7,8番手あたりで追走。3コーナーから少しずつ外に持ち出し,直線ではデニムアンドルビーとAmbivalentの間を突こうとしたものの詰まりました。Ambivalentの外にCirrus des Aiglesが接近,強引に外に切り返すと残り100mで競り合う2頭を捕え,舌を越しながら1馬身半の差をつけて優勝。デニムアンドルビーはAmbivalentに並ばれたところで一杯となり,10着。
 優勝したジェンティルドンナは昨年のジャパンカップ以来の大レース6勝目。日本馬によるドバイシーマクラシック制覇は2006年以来の3度目。結果からみるとここでは力が違っていました。普通は負けパターンの競馬で,レースで頑張ろうとする気力がこの馬は規格外です。父はディープインパクト,全姉に2012年の京都牝馬ステークスと関屋記念を勝ったドナウブルー。Gentildonnaはイタリア語で淑女。騎乗したのはイギリスのライアン・ムーア騎手で昨年の朝日杯フューチュリティステークス以来の日本馬に騎乗しての大レース制覇。管理している石坂正調教師はジャパンカップ以来の大レース制覇で海外重賞初勝利。
 デニムアンドルビーは発走が上手な馬ではありませんが,相対的にいえば日本馬の発走は海外の馬より早いため,前に位置することになったものと思います。いつもは後方で追走する馬なので,先行集団で揉まれるくらいなら逃げてしまった方がましだったとは思いますが,いきなりこの相手でこの形で力を発揮するのは難しかったようです。
 ドバイワールドカップGⅠタペタ2000mには昨年のJRA賞最優秀ダート馬のベルシャザールとNARグランプリ特別表彰馬のホッコータルマエが出走。外の2番手でレースを進めたホッコータルマエは3コーナー手前では一杯になり,最下位。9番手前後のインでレースを進めたベルシャザールは,勝負どころから押し上げていくことができず,11着でした。
 ドバイのこのコースはスピードとパワーの両方が要求されるようです。ホッコータルマエは明らかにスピード能力に欠けていたという印象。ベルシャザールも後方からレースを進めていくので,能力以前の問題として適性がなかったというほかありません。

 移行の程度がゼロであるならば,現実的本性は変化しません。僕が自分の部屋の中でいくら歩き回ったとしても,部屋から出ない限りは部屋の現実的本性は変化しません。この点はよく覚えておいてください。
 僕がその内部にある様ざまな物体と一体化して部屋を構成するということが,形而上学的な組織化の意味です。すると今度は部屋の場合にも同じことが該当します。僕の部屋はほかの部屋と一体化することにより,僕が住んでいる家を構成していると考えられるからです。そしてこの家は,ほかの家々と一体化して,ひとつの町を構成していると考えることができます。このように考えていけば,最後には,その内部にあるすべてのものが一体化することにより,全宇宙が構成されていると考えることができるでしょう。したがってまず,運動と静止が延長の属性の直接無限様態であるならば,無限に多くの物体が存在するということが帰結し,さらにそこから,延長の属性の間接無限様態である全宇宙が存在しなければならないということまでは導くことができたわけです。ただしここではまだ,その全宇宙が,不変の形相を有しているということまでは帰結させていません。いい換えれば,論証する必要があることのうち,半分だけが帰結しているということになります。
 諸物体から間接無限様態である全宇宙の存在を帰結させるのは,帰納的方法です。しかしだからといってこのように考えていくことが無効であるというわけではありません。というのもこの考え方は,岩波文庫版で115ページから始まっている第二部自然学②補助定理七備考のうちでスピノザ自身が主張していることと同一であるからです。そしてその備考においてスピノザは,このようにして帰結する全宇宙が,不変の形相を有しているということまでいっています。ただし,そこでスピノザがいっていることを正面から受け止めるならば,間接無限様態というのは,無限に多くの個物res singularisの集積という意味でのひとつのres singularisである,つまり全宇宙とは,無限に多くの物体の集積という意味でのひとつの物体であると解さなければなりません。
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高松宮記念&移行の程度

2014-03-30 19:20:00 | 中央競馬
 絶対的な王者の引退で,新スプリント王決定戦となる第44回高松宮記念
 逃げることで良績を残していた馬が多かったのですが,そのうちの1頭,ハクサンムーンは出足が悪く後方から。まず先頭に出たレディオブオペラに譲られるような形でエーシントップの逃げに。内からコパノリチャードも上がってきて,2番手はレディオブオペラと併走に。エーシントップがわりに後ろを離したので,激しい先行争いとはなりませんでした。前半の600mは34秒5で,今日の馬場状態を勘案すれば超ハイペース。
 少しでも馬場のよい部分を通るために外に回る馬が目立った今日の中京競馬場でしたが,エーシントップは最内に。コパノリチャードは馬場の4分どころまでは外に出したので,コーナーワークでエーシントップのリードが広がり,一瞬はセーフティーリードとも思えました。しかし最後にエーシントップは苦しくなり,追っていたコパノリチャードが交わして優勝。後方待機から大外を伸びたスノードラゴンが3馬身差の2着。中団から馬場の中ほどを通った人気のストレイトガールが,粘るエーシントップをクビだけ差して1馬身4分の1差の3着。
 優勝したコパノリチャードは前哨戦の阪急杯から連勝。重賞は4勝目で大レース初制覇。1200mのレースには出走経験がなく,この馬も逃げることで好結果を得ていた馬でしたので,展開面も鍵でした。不良馬場の影響で隊列がばらばらになったのはむしろ幸いしたように思います。スピード能力はかなりのものだと思いますが,スプリンターというより,もう少し長い距離でも戦える馬と思います。父はダイワメジャー
 騎乗したのはイタリアのミルコ・デムーロ騎手。日本では昨年の皐月賞以来の大レース制覇で高松宮記念は初勝利。管理している宮徹調教師は1997年の阪神3歳牝馬ステークス以来,17年ぶりの大レース2勝目。

 このような事例を持ち出した以上,僕が部屋を出た場合に,部屋の現実的本性に変化が生じたと解すべきか否かを問われるでしょう。しかし僕はこの問いには答えを出しません。僕が存在して一体化していた部屋から,僕が存在していない部屋へと現実的本性が移行したとみなすことも可能ですし,僕がそのうちに存在していようといまいと,ひとつの部屋という現実的本性は,たとえばそれが取り壊されるというようなことが起きない限りは持続すると考えることも可能だからです。ある一定の空間が,その内部に何を含むのかということは,その空間の本性によって決定されることではなく,外部の原因によって左右されます。そのとき,その外部の原因が与える影響が,どの程度まで空間自体の現実的本性に影響を与えると考えるのかは,程度の差に依拠して認識されるのです。
 たとえば,僕の身体の一部を構成している1本の髪の毛が抜け落ちたとして,それで僕の現実的本性も変化したというように理解する人はまずいないであろうと思われます。ただしここでは外部の影響を視野に入れていますから,この抜け毛の原因は,たとえば新陳代謝によるものとは考えず,他人に引っ張られて抜けたというように理解してください。それでも僕の身体の現実的本性が,これによって変化したと理解する人は,もしもいたとしてもごく少数であろうと僕は予測します。
 しかしもしもこれが,1本の髪の毛ではなく,1本の腕,たとえば右腕であったとしたらどうでしょうか。この場合には僕の身体の現実的本性に変化が生じたと理解する人も多くいるのではないかと予測します。しかし実際は,髪の毛であれ腕であれ,外的要因によって僕の身体の一部を構成しなくなったということで,論理的にいうなら同一なのです。もしも右腕のあった身体から右腕を失った身体に移行するということが,身体の現実的本性の変化であると理解するのであれば,論理的には1本の髪の毛があった身体からそれが失われた身体への移行も,現実的本性の移行と理解しなければなりません。この程度問題はデリケートな面を含みます。よって僕はこの問いには,哲学とは別の観点から,ここでは解答を出しません。
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王将戦&空間

2014-03-29 19:23:39 | 将棋
 26日と27日に伊豆今井浜温泉で指された第63期王将戦七番勝負第七局。
 振駒で羽生善治三冠の先手。渡辺明王将ごきげん中飛車で①-Aから相穴熊の将棋になりました。
 この将棋は最後のところで,後手が一定以上の速度の攻めを継続できれば勝ち,できなければ負けという展開に。結果的に継続できて勝ちになったのですが,先手にはっきりとした受け損ないがなかったとすれば,早くに優劣がついていたということになります。
                         
 後手が4五から銀を引いた局面。先手は▲5六歩と指しました。これは取る手はないので△7五歩。取るべきだったという感想がありますが,▲5五歩と取り込み△7六歩▲6六角△6五銀▲4三銀成の攻め合いに進み,△7ニ飛と,攻めも見せつつ逃げました。
                         
 たぶんここで先手に何かなければいけなかったのだと思うのですが,なかったようで▲3九角と逃げ,手番を渡すことになりました。△8六歩▲7八金上△7三角となり,先手は▲5三成銀。ただこれには△5二金と上がる手があり▲同成銀△同飛で,金銀交換にはなったものの,一手パスのような手順になってしまいました。
                         
 この局面は後手玉を攻めている盤上の先手の駒が皆無で,後手が攻めに専念できる形。優劣があるのかどうか分かりませんが,少なくとも後手が勝ちやすい局面になっているとはいえるのではないでしょうか。
                         
 4勝3敗で渡辺王将の防衛。タイトルは直前の第39期棋王戦に続いて通算14期。王将は第62期に続き2期連続2期目の獲得です。

 現実的に存在するある人間の身体が,ほかの外部の物体と組織化されることによって別のより複雑な物体となるという点に関しては,たとえ概念conceptusの上では可能であったとしても,現実に発生する事象という意味においては,訝しく感じる方がいらっしゃるかもしれません。確かに,化学的事象,あるいは物質的事象によってこれを把握するならば,そうした疑問を有する方が自然であるかもしれないと僕も思います。しかし哲学的事象,あるいは形而上学的事象としてこのことを捕えたならば,こうしたことをいうことに何らの不条理もないというのが僕の考えです。
 僕が自分の部屋にいるとき,僕はそれ自体でみるならば僕自身とは何らの関係も有さないような多くの物体と共に,その部屋の現実的本性を構成していると考えることが可能です。延長というのは,様態としてみれば,あるいは様態的変状としてみれば,空間と何ら変わるところがありません。スピノザがそのように主張しているわけではありませんが,『デカルトの哲学原理』の第二部定義六では,空間と延長の区別は理性的区別であり,実在的にも様態的にも区別されないといわれていて,スピノザとしても,このことに強力に反対しなければならないような理由があるとは僕には思えません。その後,第二部定理二系では,空間と物体は同じであるといわれていますが,延長を様態的変状として理解するなら,それは物体,あるいは物質的なものであると理解するよりも,三次元的な空間であると理解する方が,より適切であると僕は考えます。したがって,部屋という空間の現実的本性が,僕の身体と,その空間の内部に存在する,僕の身体以外の様ざまな物体によって組織化されると認識することは,重大な誤りを含むとは僕は考えません。
 このとき,僕がどんなに部屋という空間の中を動き回ったとしても,僕がこの部屋の外部に出ない限り,この部屋の現実的本性には何らの変化も生じません。つまり部屋の形相は保持され,その本性も維持されるということになります。第二部自然学②補助定理四,五,六,七には,このような形而上学的意味が含まれているといえるでしょう。
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マイナビ女子オープン&組織化

2014-03-28 19:12:02 | 将棋
 26日に池上本門寺で指された第7期マイナビ女子オープン五番勝負第一局。女流公式戦での対戦成績は里見香奈女王が4勝,加藤桃子奨励会1級が1勝。
 振駒で加藤1級の先手。里見女王のごきげん中飛車で,手順に相違はあったものの①-Bに合流しました。
                         
 これはよくある局面で,多く指されているのは▲5八飛なのですが,本局は▲5四歩と打ちました。一局だけ前例があったようで,△5三歩▲2五歩△3三角▲5八飛△5四歩▲同銀△2四歩▲3五歩△2五歩▲3四歩△2四角▲5六飛△4四歩▲5三歩と,その前例と同一手順で進みました。
                         
 その将棋は先手が快勝しているので後手から手を変える必要があり,前例では第2図からすぐに△2三金だったのを,△5ニ歩と打っていきました。ただ,このように守りの金を使ってこじ開けていこうとするのはいかにも無理やりというか強引という印象。すでに第2図で先手がよくなっていたものと思います。後手は暴れる将棋にしましたが,先手玉には届かず,この将棋も先手快勝といえるのではないでしょうか。
 加藤1級が先勝。第二局は来月15日です。

 第二部定義七は,組織化されたものも個物res singularisとみなすと明言しています。これは逆にいえば,まったく組織化されていないres singularis,かつての考察でアトムといっておいたものの存在を,漠然とではありますが匂わせているといえると思います。しかし,単にスピノザの意図というものだけを考慮に入れるならば,たぶんスピノザはres singularisということで,組織化されたres singularisを念頭に置いているのであって,アトムと名付けたres singularisに関しては,ほとんど眼中に置いていなかったものと僕は理解しています。わざわざ有限で定まった存在のことをres singularisと定義したその直後に,複数の個体によって構成されている単一のres singularisに言及しているのは,こうした理由によるものだと思います。こんなふうに断言してしまうのには危険が伴うということをあえて覚悟の上でいってしまえば,スピノザがres singularisというとき,それは複数の個体によって構成されたものだけを考えているのだと僕は思っているくらいです。
 この組織化は,運動と静止の割合によって決定されます。運動と静止の割合が無限に多くあるということは,単にアトムといえるような存在でも無限にあるという意味になりますが,ただそれだけではありません。組織化もまた運動と静止の割合によって決定されるのであれば,組織化自体が無限に多くあるということになるからです。さらにそのように組織化されたAと,同じように組織化されたBとを組織化する運動と静止の割合というものも考えられます。第二部自然学②要請一は,人間の身体は有限ではあるけれども,きわめて多くの個体によって組織されているといっていて,これは前述の秩序を,かなり発展させた段階であるといえるでしょう。しかし人間の身体が終着点であるのかといえば,必ずしもそうであるとはいえません。ある人間の身体がさらにほかの物体と組織化されてひとつの物体を構成するということは,少なくとも概念conceptusの上では可能になっているからです。
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農林水産大臣賞典桜花賞&間接無限様態の場合

2014-03-27 19:10:15 | 地方競馬
 南関東は早くもクラシックが開幕。第60回桜花賞。断然の人気だったノットオーソリティーが輪乗りの間にラチに接触して跛行したため競走除外となってしまい10頭。売り上げにも相当の影響が出たものと思います。
 逃げたかったのはタントタントでしょうがやはり外枠は不利。シャークファングの逃げとなり,クライリングとテイクユアチョイスが並んで追いました。前半の800mは51秒3でこれはスローペースに近いくらいのミドルペース。
 残り600mからペースアップ。前の3頭で4番手以下を引き離しました。逃げたシャークファングには余裕があり,中のクライリングは苦しげ。直線手前では脱落してテイクユアチョイスが2番手に。しかしシャークファングはこれを引き離していき,逃げ切って優勝。出遅れて最後尾を追走し,3コーナー過ぎから大外を捲りあげてきたブルーセレブが最後までよく伸びて2馬身差の2着に浮上。テイクユアチョイスは半馬身差の3着まで。
 優勝したシャークファングはこれが3勝目で南関東重賞初制覇。上級クラスで戦うと厳しい結果が続いていたのですが,前走のトライアルで2着と初めての好走。そのレースは外枠が幸いした感もあり,内目の枠に入ってどうかというのがありましたが,スムーズに先手を奪い,揉まれずにレースができたので問題ありませんでした。ただ強力馬が除外になっての結果なので,3歳牝馬のトップに立ったとはいいにくい面が残るのも事実です。母の父がクリアアンバー産駒のアンバーシャダイ。4代母が超名牝で,世界的にも,また日本でも多数の活躍馬が輩出している一族です。
 騎乗した大井の矢野貴之騎手は高崎競馬廃止に伴い南関東に移籍。南関東重賞はこれが初勝利。最近になって勝利数を伸ばしていますので,今後も南関東重賞での活躍が期待できます。管理しているのは大井の秋吉和実調教師でこちらも南関東重賞初勝利。

 無限に多くの割合があるのだから,延長の属性の直接無限様態である運動と静止から,無限に多くの物体が必然的に生じるということが,スピノザの果たすことができなかった約束の内容であったということ,いい換えるなら,スピノザは運動と静止から無限に多くの物体が必然的に生起するということを,このような仕方で説明しようとしていたとまで断言するだけの自信は僕にはありません。けれども,僕の論証で,このことが真理であるということは確保できていると思います。なのでここでは,まず直接無限様態が媒介となって個物が生起するということの,延長の属性における具体的な意味というのはこのようなことなのであると結論しておきます。何度もいっていますが,この媒介というのは,神あるいは神の絶対的本性としての延長の属性と物体との間を媒介する原因という意味での媒介ではありません。
 ただし,このことのうちには,間接無限様態,延長の属性でいえば不変の形相を有する全宇宙の存在というものがすっぽりと抜け落ちてしまっています。これについても考えておかなければならないでしょう。
 まず最初に,間接無限様態が媒介となって個物が生起するということの説明として適切ではありませんが,運動と静止を媒介として無限に多くの物体が生起するということのうちに,不変の形相を有する全宇宙というものが実在しなければならないということは含まれていると僕は理解します。というのは,物体というのは第二部定義一により延長の属性の個物res particularisですが,僕がこれと同一の訳を与えて構わないと理解している個物res singularisは,第二部定義七から分かるように,単に有限で定まった存在を有する個々のものという意味だけを有するのではなく,複数のres singularisによって組織される単一のres singularisの存在も含んでいるからです。つまり延長の属性に限定していうならば,複数の物体によって組織される単一の物体もまた,第二部定義一における物体の要件を満たすからです。岩波文庫版117ページの第二部自然学②要請一は,人間の身体がそういう物体であるといっています。
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中日新聞杯名古屋大賞典&無限に多くの割合

2014-03-26 19:09:35 | 地方競馬
 上位が拮抗し,馬券は難しかった第37回名古屋大賞典
 先手を奪ったのは地元のサイモンロード。2番手でぴったりとエーシンモアオバーがマーク。その後ろは内にオオエライジン,外にダノンカモンで併走。その後ろがソリタリーキングでさらに内にノゾミカイソク,外にランフォルセで併走。ほとんど差がない隊列で,スローペースだったのでしょう。
 3コーナー手前からサイモンロードがペースアップ。エーシンモアオバーも楽についていき,その後ろは手を動かしながらダノンカモンが外を回ってくらいつきました。手応えからはエーシンモアオバーかと思えたのですが,直線に入って先頭に立ったところで一杯。必死に追いすがっていたダノンカモンの方が抜け出して優勝。一旦は離されたものの直線で鋭く伸びたソリタリーキングが1馬身差まで詰め寄って2着。さらに1馬身遅れての3着にエーシンモアオバー。
 優勝したダノンカモンはこれまでダートのオープンは4勝していたものの重賞は8歳にしての初勝利。過去に出した能力の上限だけでいえばメンバー中最上位だと考えていましたが,距離には不安があるのではないかとみていました。スローで流れたのは幸いでしたし,馬場が悪化したのも今日に関してはプラスに働いたように思います。ただ,最も大きかったのは斤量であったかもしれません。父はシンボリクリスエス。半兄に2004年の名古屋グランプリを勝ったワイルドソルジャー。半妹には2012年の阪神牝馬ステークスを勝ったクィーンズバーン
                         
 騎乗したのは川田将雅騎手で管理しているのは池江泰寿調教師。名古屋大賞典は共に初勝利。

 第二部自然学②補助定理五のうちに,もしもある物体の運動と静止の割合に変化が生じた場合には,その物体はその形相を維持することができず,したがって本性もまた保持し続けることが不可能となるという意味が含まれているとします。このとき,本性を保持し続けられなくならからといって,現実的に存在していた物質のすべてが消滅するというようには考えられません。むしろ運動と静止の割合に変化が生じることにより,ある本性を有していた物体が,それとは別の本性を有する物体に変化を遂げたというように理解するべきであると思います。哲学的なことばで説明すればこのようになり,少し煩雑かもしれませんが,これは化学でいうところの質量保存の法則の一種であるといえますから,むしろこのように考えない方が非合理的であるということになるでしょう。
 このことのうちには,物体の本性というものが,運動と静止の割合によって決定されているということが含まれています。そしてそれが自然科学的説明と対立するような矛盾を含まないということも確かめられています。するとこのことから,今度は次のことが帰結してきます。Aという物体,そしてBという物体が現実的に存在すると仮定して,このふたつの物体の運動と静止の割合が完全に一致するならば,この両物体は同一の本性を有すると理解しなければなりません。これが運動と静止の割合と本性との関係にスピノザの自然学では該当するわけです。ですから逆に,これらふたつの物体の運動と静止の割合が異なっているとしたならば,この両物体は異なった本性を有する物体であると理解されなければなりません。
 このことのうちに,延長の属性の直接無限様態である運動と静止から,無限に多くの物体が必然的に存在しなければならないということが含まれていると僕は考えます。なぜなら,運動と静止の割合というのは,無限に多く考えることが可能です。というか人間の知性はそれを実際に認識することはできませんが,運動と静止の割合が無限に多くあるということだけは確実に認識し得ます。つまり物体には無限に多くの本性があり,それは無限に多くの物体があるというのと同じことだからです。
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NHK杯テレビ将棋トーナメント&自然科学的説明

2014-03-25 19:22:37 | 将棋
 23日に放映された第63回NHK杯テレビ将棋トーナメントの決勝。対戦成績は丸山忠久九段が30勝,郷田真隆九段が16勝。
 振駒は歩が3枚で丸山九段の先手。郷田九段の横歩取り△3三角。先手は愛用している飛車を3四のまま▲5八王と上がり,速攻を目指す指し方。後手は中原囲いに組み,先手から襲い掛かりました。
                         
 右の桂馬が跳ね出したところ。ここで後手は△3七歩。▲3三桂不成は王手なのでびっくりするような手ですが,それには△同銀と取っておけば飛車当たり。なので先手はそれは決めずに▲同銀。ただ,後の展開を考えると,とても指しにくいのですが▲2九銀と引いておく手もあったとは思います。
 後手は△8八角成▲同銀と交換して狙いの△5五角。先手の指した▲7七角は最も自然ですが,▲9七角とか激しく▲5三桂成~▲9七角など,意外と手が広い局面ではあったよう。△7六飛と間接的に角取りを防ぐのはこの一手であったと思います。
                         
 この局面では▲4六歩と突いて,受けに回るのが最善であったよう。同じようでも▲4六銀と角に当てると,角交換から飛車交換になった後,後手から△2八飛と打つ手が厳しくまずいようです。
 ただ,▲4六歩というのも相手に手番を渡す上,速攻を仕掛けてから受けに回るという変な手で,もしかするとすでに先手がまずくしていたのかもしれません。実戦はすぐに▲8四飛と回り,△3七角成▲8一飛成という一本道の攻め合いに突入しましたが,そこで△7五飛と桂取りに引いた手が好手。以下,最速の寄せは逃したようなのですが,後手の勝ちは動きませんでした。
 郷田九段の優勝。棋戦優勝は第1回最強戦以来7年ぶり7度目。NHK杯は初優勝。

 物体の運動と静止の割合の変化が,物体の本性の変化,すなわち現実的に存在する物体が,Aという本性を有する物体からBという本性を有する物体に変化することであると解する場合,確認しておかなければならない点があります。端的にいって,この解釈が,自然科学の説明と明らかに齟齬を来すということであれば,それはスピノザが真理に反することを主張しているか,そうでなければ僕の解釈の仕方が誤っているかのどちらかであることになりますが,どちらの場合であってもこれは大問題となってしまうからです。
 一般的に理解した場合,自然科学は物体あるいは物質の本性を,運動と静止の割合というようには説明しません。ではどう説明されるかといえば,僕はその分野には詳しくありませんから確定的なことはいいかねますが,少なくとも自然科学はそれを,たとえば原子とか電子といった,粒子の結合のあり方によって説明していると判断して,そう大きな間違いはないであろうと思います。
 そしてこの場合,スピノザが主張していること,あるいは僕がスピノザが主張していると理解していることと,自然科学的説明との間には,決定的な亀裂は生じていないと僕は理解します。なぜなら,たとえばある物質が粒子のある仕方での結合によって現実的に存在しているという場合,その粒子というのは常に完全な静止状態にあるというよりも,一定の運動状態にあると考えるべきだと思うからです。したがって粒子の結合というのは,他面からいえば粒子の運動のあり方というべきものであり,その運動の量的な大きさの差異とか質的な差異によって,結合のあり方が決定されると理解し得るからです。いい換えればその差異が,物体の本性の差異を決定していると理解できるわけで,それを運動と静止の割合というスピノザの語句を用い,運動と静止の割合の相違によって物体の本性が決定されるといったとしても,そんなに問題とはならないように思えます。
 哲学あるいは形而上学的説明と自然科学的説明が完全には一致しないのは,当然といえば当然です。しかしスピノザの主張と自然科学の間に,この点で明白な矛盾はないものと僕は解します。
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クールモアクラシック&本性の変化

2014-03-24 19:21:40 | 海外競馬
 22日にオーストラリアのローズヒルガーデン競馬場で行われたクールモアクラシックGⅠ芝1500mに,一昨年のチューリップ賞と昨年の京都牝馬ステークスを勝っているハナズゴールが出走しました。
 発馬で5馬身はあろうかという大きな出遅れ。ただ,挽回していき馬群の後ろのインまでは突っ込むことができ,その位置を追走することになりました。直線に入るところでは後方から3番手。やや外に持ち出したものの,この馬より前にいてばてる馬がほとんどなく,進路は塞がったまま。最後は追わずに流れ込んだだけで,16頭が走っての14着でした。
 戦績的に日本でトップクラスとはいえず,このランクの馬がどの程度まで戦えるのかに興味はあったのですが,このレースはただ半周回ってきただけといった感じで,それを確かめることはできませんでした。ただ勝ち馬と2着馬は後ろを引き離していて,この2頭は相当の強さを感じましたので,十全に能力を発揮していても,勝つというのは難しかったのではないかと思います。この後,4月12日のドンカスターハンデGⅠ芝1600mに出走する予定になっています。

 第二部自然学②補助定理五は,他面からいうなら,もしもある物体の運動と静止の割合に何らかの変化が生じた場合には,その物体は同一の形相を維持することができず,本性も同様に保持されることはないというように読解できると思います。ただし,今は安全重視で,個物の存在を,神の属性,物体に限定するなら延長の属性に包含されている場合で考えていますので,念のための注釈が必要になります。
 別に物体に限った話ではなく,一般にある本性が別の本性に変化するということはあり得ません。これはたとえば人間の本性が馬の本性に変化することはないという意味で,当然のことです。第二部定義二の意味は,事物の本性はその事物の存在を定立するということですから,もしこのような変化が生じるなら,現に人間であるすべてのものが馬になると主張しているのと同じで,とくに説明するまでもなく不条理であるからです。また,こうした理由により,ある本性を有するものが現実的に存在することを止めたとしても,そのものの現実的本性が消滅するだけで,本性そのものは消滅するわけではありません。たとえば現実的に存在していたXという人間が,その現実的存在を停止する,つまり死んだとしても,確かにXの現実的本性はそれと同時に消滅するといえますが,一般に人間の本性まで消滅してしまうわけではありません。もしそれも消滅すると主張するなら,前述のことからして,Xの死と共にすべての人間が消滅すると主張しなければならなくなりますが,これは明らかに不条理だからです。
 一方,現実的に存在する物体の運動と静止の割合が変化することによって,その物体がそれまでの本性を維持することができなくなるということは,生じ得ます。一般にAの本性がBの本性に変化するということはあり得ないことですが,Aの本性を有していたものがBの本性を有するものになるということはあり得る,というよりも現にあるからです。少なくとも化学的変化として説明することが可能なあらゆる物質の変化は,この事例に該当するといえます。したがって冒頭の僕の仮定は,非現実的な主張ではないということになります。
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日本選手権競輪&運動と静止の割合と本性

2014-03-23 19:12:20 | 競輪
 名古屋競輪場で18日に開幕した第67回日本選手権競輪の決勝。並びは平原-武田の関東に内藤,深谷には成田,稲垣-村上義弘-村上博幸-稲川の近畿。
 深谷がスタートを取って前受け。3番手に平原,6番手に稲垣で周回。残り2周半,3コーナー過ぎから稲垣が上昇開始。ホームで深谷の横まで上がると深谷が引いて稲垣が先頭に。平原が稲川に続き5番手になり,深谷は8番手まで下げてバックでは一列棒状。このまま誘導を外した稲垣が打鐘少し前から加速して先行。ホームから平原が発進していきましたが,上がろうとするたびに3番手の村上博幸が執拗にブロック。バックからは村上義弘も番手から発進して先頭に。平原が行かれなかったので武田が自力に転じるとこれも村上博幸がブロック。大外を捲りあげてきた深谷もこのあおりで直線の入口前でやや外に浮かされました。それでも武田と深谷は直線では差を詰めてきましたが,粘った村上義弘が優勝。4分の3車輪差の2着が武田。半車身差の3着が深谷。
                         
 優勝した京都の村上義弘選手は昨年9月の岐阜記念以来のグレードレース優勝。ビッグは昨年の日本選手権以来で11勝目。日本選手権はやはり名古屋で開催された2011年にも優勝していて連覇となる3勝目。弟があれほど牽制できたのは,稲川が4番手を回ったからという側面もあり,稲垣の先行も合わせてラインの厚みを生かしての優勝。5月から選手会の制裁で1年にわたりレースに参加できなくなることもあり,前日には最後の日本選手権だと思うというコメントを出していました。僕ですらそう感じたくらいですから,近畿の選手も勝たせてあげたいという気持ちが強かったのではないかと思います。そしてそう思わせるだけの選手であったということでしょう。

 無限様態が媒介となって個物res singularisが生起するということの意味を,延長の属性で考えてみます。
 まずスピノザは,延長の属性の直接無限様態が運動と静止であるならば,そこからは無限に多くの延長の属性の個物である物体が生起しなければならないと考えていました。これはなぜそうであるのかを説明すると約束していますので,間違いないところといえるでしょう。ただし,実際にはその約束というのは果たされることがありませんでした。しかしそれは,スピノザにとって果たすことができないことを約束したとか,後になって考え方に変更があったとかいうようには理解するべきではないと僕は思っています。ただ単に,この約束を果たすためにはスピノザの寿命は十分ではなかったというのが僕の見解です。ですからまず,運動と静止が延長の属性の直接無限様態である限り,無限に多くの物体が生起するということは,必然の第二のタイプの意味において必然的でなければならないと僕は解します。
 次に,物体に対して運動と静止が本性の上で「先立つ」という点,僕が常識の転覆といった点に関しては,岩波文庫版の114ページと115ページの第二部自然学②補助定理五でスピノザは仄めかしていると僕は考えています。このことはすでにいった通りなのですが,この定理では,運動と静止の割合が同一であるなら,ある物体の本性と形相は変化しないといわれています。するともしも,AとBというふたつの物体が現実的に存在したとして,このAとBの運動と静止の割合が同一であるならば,これはふたつの物体は同一の本性を有すると理解するべきであろうと僕は考えます。ただしこのAとBは,様態的には区別が可能です。あるいは数的区別が可能です。というのは,仮にAとBの運動と静止の割合が同一であるとしても,Aが現実的に生起する原因と,Bが現実的に生起する原因もまた同一であるということにはならないであろうと僕は考えるからです。したがってこの場合,AとBの本性が同一であるということは,個物の存在のうち,それが神の延長の属性に包含されている場合だと解しておくのが安全であるだろうと思います。
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デカルトの哲学原理&確認事項

2014-03-22 19:26:03 | 哲学
 スピノザによるデカルトの認識の理解がどのようなものであったかを考えるために『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』を用いました。この本の成立過程などを紹介しておきます。
                         
 スピノザは存命中に2冊の本を出版できましたが,これは1663年に出版されたそのうちの1冊。もうひとつの『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』は匿名での出版なので,スピノザの名前で出版されたものはこれだけ。スピノザによるデカルトの哲学の再構成です。デカルトが分析的方法によって示した自身の思想を,綜合的方法,『エチカ』のように定義Definitioと公理Axiomaから定理Propositioが導かれるように構成し直したものです。
 スピノザは1660年から1663年まで,レインスブルフRijnsburgというところに住んでいました。そのときにヨハネス・カセアリウスJohannes Caseariusという青年を同居させていました。スピノザはカセアリウスにデカルトの『哲学原理』の第二部と第三部の一部,そして当時のオランダの形而上学的思想の要綱を教授しました。このうち『哲学原理』の部分が『デカルトの哲学原理』で,第一部は,出版に際して書き下ろしたもの。ただこの部分は『哲学原理』よりも『省察録』から多く採用されています。こうした事情から,第一部と第二部は完成していますが,第三部は中途で終了しています。また,形而上学的要綱の方は,『形而上学的思想Cogitata Metaphysica』という名称で,この本の附録のような形で成立しました。これはスコラ哲学の解説書として理解するのが適当だと思われます。
 スピノザはデカルトの思想については,不十分であると考えていました。ですからこの本の中にも,そういったスピノザ自身の考え方が随所に滲み出てはいます。スピノザは友人であったマイエルLodewijk Meyerにこの本の序文を書くように頼み,それは成されました。その序文でもこの点に関する注意が喚起されていて,とりわけマイエルは意志voluntasに関して詳述しています。ただ,僕の印象ですと,第一部定理七の後の備考Scholiumで,困難さについてスピノザが語っている場面に,最もそれを感じます。
 スピノザの思想の一端は理解できますし,デカルトの思想についても理解しやすくなっています。たぶん哲学の解説書として,世界的に優秀な著作であるといえるでしょう。

 ここでまた第一部定理二八備考でスピノザが主張していたことを再確認しておきます。
 スピノザはそこでまず,個物res singularisが,無限様態modus infinitusの媒介によって生起するといっていました。したがって延長の属性Extensionis attributumの場合では,運動motusと静止quies,そして不変の形相formaを有するものとしての全宇宙を媒介として,諸々の物体corpusが生起するということになります。
 しかし同じ第一部定理二八備考の直後の部分では,そうした諸々の物体に対して,神Deusは最近原因causa proximaであるということが主張されていました。よって,まず神が原因となって運動と静止が生起し,次に運動と静止が原因となって不変の形相をした全宇宙が生起し,さらにそれが原因となって個々の物体が生起するというように理解してはならないことになります。これは神とある物体の間に媒介原因があるといっているのに等しく,神は物体に対して最近原因ではなく遠隔原因causa remotaであると主張しているのに等しいからです。そしてこの意味において神を物体の遠隔原因であるという主張を,やはり同じ第一部定理二八備考の最後の部分において,スピノザ自身が斥けています。
 実際には延長の属性の三様態が何であるのかということをスピノザは明らかにしているのですから,このことはその時点で明らかであったといえます。そしてそこから,延長の属性の場合に構築すべき論理が具体的にどのようなものになるのかということも,判明はしていたのです。ただ,これまでの訴訟過程というものは,単なる遠回りの徒労であったというわけではありません。なぜなら,単純に延長の三様態がいかなるものであるのかということから訴訟を開始するならば,それは名目的に議論を展開しているということになりかねないからです。しかし演繹的に延長の属性が神の絶対的本性を構成しなければならないということ,いい換えれば物体的実体substantia corporeaとは,実体としてみたならば神にほかならないということを確定しておけば,このことを完全に実在的な意味において考えていくことが可能になるからです。もちろん名目的に考えたとしても,ただそれだけでいえば有意義なのですが,河合徳治の論述の展開にとっては,はっきりと実在的であるということを確保しておくことが重要だと僕は考えているのです。
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ひとり急所打ち&必要十分条件

2014-03-21 19:18:11 | NOAH
 相手に攻撃を仕掛けた選手がすかされ,急所を打ちつけて悶絶するというシーンは,最近はほとんど見受けられなくなったような印象ですが,少なくとも僕がプロレスを見始めるようになった頃には,頻繁にではありませんが,見ることがありました。僕はこれをギミックのひとつとみなしますが,通常はそうは解されないのではないかとも思います。
 僕が二種に分類したギミックのうち,これは弱みを強調する方に該当します。ただ,通常のギミックとははっきりと異なる点がありまして,このギミックは試合の決着をつけるために用いられることが多々あったのです。たとえば大巨人はそのプロレス的才能のゆえに,自ら両腕をロープに挟んで弱みを見せましたが,だからといってそれで攻撃を受けて負けてしまうというわけではありませんでした。一方,力を見せつけるためのギミックの方も,たとえばリフトアップされて投げられた選手がそれで負けてしまうというような用いられ方をされたわけではありません。弱みであれ強みであれ,それを観客に見せるということが目的なのであって,試合を終らせるための方法ではないのです。これが本来のギミックが有している本質であるとすれば,ひとり急所打ちは明らかにそれとは一線を画しているといえます。僕が見た中でも,ジャンボ・鶴田ネイチャーボーイに挑戦したNWA選手権の試合で,鶴田がひとり急所打ちをやり,スリーカウントを奪われたというシーンがあります。
 試合は決着したけれども,それはアクシデントのせいであったということを,観衆に強調する意味合いがここにはあるといえます。そしてその意味合いのゆえに,僕はこれをギミックとみなすわけです。したがってこのギミックは,どちらかといえば大きな試合で用いられることが多かったものです。力が拮抗した強い選手の試合でなければ,これを結末に用いる意味がないからです。
 最初は本当のアクシデントでこうしたことが発生したのかもしれません。たとえそうであっても,これをギミックとして開発した人も,豊かなプロレス的才能の持ち主であったと思うのです。

 スピノザからすれば,知性が実体を十全に認識したならば,それは分割不能であるということをその知性は必然的に認めるということになります。第二部定理四三にあるように,スピノザにとって真理の規範というのは真理それ自身ですから,実体の分割不可能性を知性が正しく認識するために必要とされるのは,実体の十全な認識であり,そしてそれだけで十分であるということになります。つまり第一部定理一三系でいわれていることの把握のためには,物体的実体の十全な認識というのは,必要条件であると同時に,十分条件でもあるということになります。
 物体的実体の分割不可能性に関しては,スピノザはその逆の立場,つまり物体的実体が分割可能であり,そのゆえに物体的実体は神ではない,翻訳すれば延長の属性は神の本性を構成しないと考える立場の哲学者たちへの反論という形で,第一部定理一五備考で詳しい説明を与えています。これほど詳しく説明しなければならなかったほど,当時の主流は,物体的実体は分割され得ると理解することにあったのだといえるでしょう。ただ,ここではそれについては詳しくは説明しません。なぜ物体的実体が分割不可能であるのかということは現在の考察にとってはそれほど重要なことではなく,延長の属性が神の本性を構成するということ,他面からいえば物体的実体とは,実体としてみた場合には神にほかならないということさえ確実になればそれで十分だからです。なのでこれに関するスピノザの主張については当該個所をお読みください。
 第一部定理二一と二二は,神の絶対的本性から,その直接無限様態と間接無限様態が生起するということを示しています。したがって,延長の属性は神の絶対的本性を構成するので,そこから直接無限様態と間接無限様態は生起します。そしてそのように生起したこれらの無限様態は,必然の第一の意味において必然的に存在することになります。延長の属性の場合,直接無限様態が運動と静止で,間接無限様態が不変な形相を有するものとしての全宇宙でしたから,これらが必然的に存在するということまで,明らかになったということになります。ここのところ展開された議論は,このことを演繹的に示すことに主眼を置いていたというように理解しておいてください。
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妾&実体の認識

2014-03-20 19:03:55 | 歌・小説
 ロゴージンの殺人のシーンの描写が僕には不思議に感じられた理由は,『白痴』のテクストのうちにあります。どうしてもナスターシャが処女であったとは考えられないのです。ふたつほど指摘しておきます。
                         
 第二編の7で,コーリャが新聞を声に出して読むシーンがあります。その記事の中に,美人の妾ということばが出てくるのですが,これはナスターシャのことです。新聞といっても,低質で三流のタブロイド紙のようなものかもしれず,それが事実であると確証することはできません。ただ,現実的にこうしたことばで記事として成立するということは,事実であるかどうかは別に,ナスターシャが妾だということは,一般的な認識であったことは間違いないといえます。
 第一編の15では,ムイシュキン公爵がナスターシャに求婚します。そのとき,ナスターシャを純潔と言ったムイシュキンのことを,ナスターシャ自身が一笑に付し,それは小説の中のお話だと答えます。このシーンは16にも続いていますが,そこではナスターシャ自身が,自分はトーツキイの妾であったと言っているのです。
 これらのテクストにおいてどういうロシア語が用いられ,それがロシア語においてどのような意味を有しているのかとういうことは僕には分かりません。ただ,新潮文庫版の訳者である木村浩が,妾ということばで訳したのであるからには,それに同質の意味があるだろうと思うのです。そうであるならば,妾というのは,単に囲われていた,いい換えれれば金銭的援助や物質的援助を受けていたというだけでなく,性的な意味において何がしかの搾取を受けていたと理解するのが妥当だろうと思うのです。
                         
 共通認識としてだけではなく,ナスターシャ自身がそう言っていることからして,やはりそう理解するのが正しいのだと思います。しかし『ドストエフスキー 謎とちから』には,これとは違った読解の可能性が表明されているのです。

 スピノザは第一部定義三で,実体を,それ自身のうちにあるものであると同時に,それ自身によって概念conceptusされるものと規定しました。デカルトの実体の定義は,その存在のために神の協力だけを必要とするものということで,スピノザの定義とは異なっています。そこでデカルトが協力というとき,神だけが原因となって実体が発生するという因果論的意味を含むのか,そうではないのかは分かりません。実体がそれ自身のうちにあるということについては,これとは別の観点から次の考察の対象に据える予定ですが,仮にデカルトが実体は神のうちにあるものと考えていたのだとしても,その神が最高に完全であるということのうちには,少なくとも神はそれ自身のうちになければならないということが含まれていたと僕は考えます。だからそれとの対比において,実体がそれ自身のうちにあるということが具体的にどういう意味であるのかということは,デカルトも理解できただろうと思いますし,デカルトに限らず,スピノザと同時代の哲学者には理解可能なことであったろうと思うのです。
 これに対して,実体がそれ自身によってconceptusされなければならないということがどういうことであるのかということは,同時代の哲学者にとっても,理解が困難であったのではないかと僕は思います。河合がいう躓きの石ということばを用いれば,僕はスピノザの哲学におけるその大きな躓きの石のひとつが,第一部定義三であったかもしれないと考えます。
 第一部定理五に対するライプニッツの疑問というのは,スピノザからすればライプニッツが実体を様態であるかのように把握してるということに端を発します。その疑問の内容というのは,実体を様態的区別によって区別するために発生しているからです。第一部定義四にあるように,知性は実体の本性を属性として認識しますから,各々の属性もまたそれ自身によってconceptusされなければなりません。これはスピノザが第一部定理一〇で主張していることです。このゆえに,属性は無限に多くあるとしても,それは数の上で分類され得るようなものとしてあるのではなく,むしろ唯一の属性が無限にあるというように把握されなければならないのです。
 異なった観点からではありますが,デカルトもライプニッツも,同様に実体を様態であるかのように認識していたことになります。実体の十全な認識は,それだけ困難なことであるといえるでしょう。
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農林水産大臣賞典ダイオライト記念&不可分性と可分性

2014-03-19 19:09:20 | 地方競馬
 力量差があまりにはっきりしていると感じられた第59回ダイオライト記念
 トウショウフリークの逃げは想定通り。大逃げも考えられたところですが,今日は抑えも効いたようで,直後にサミットストーン。ムスカテールとニホンピロアワーズがその後ろで併走。高知から遠征してきた2頭を除くと,それ以外の馬もほとんど集団といっていい隊列に。最初の1000mは62秒5で,それでもハイペースの部類でしょう。
 前にいた組ではムスカテールが3コーナーを過ぎたあたりから追走に手一杯。残る3頭は同じ隊列のまま直線に。3頭の最も外からニホンピロアワーズが伸び,逃げ粘るトウショウフリークを捕えて優勝。トウショウフリークが2馬身差で2着。3馬身差で流れ込んだサミットストーンが3着。これは健闘といえるでしょう。
 優勝したニホンピロアワーズは前々走の東海ステークス以来の重賞7勝目。ここは実績が断然で,取りこぼせないレースと思っていました。2番人気だったのは意外ですが,順当な優勝といえるでしょう。メンバー次第のところはありますが,大レース2勝目も狙えるだけの力がまだあるように思います。母の父はアドマイヤベガ。三代母がミルカレント
 騎乗したのは酒井学騎手,管理しているのは大橋勇樹調教師。共にダイオライト記念初勝利。

 デカルトが延長の属性を神の本性を構成する属性であると考えられなかったこと,いい換えれば物体的実体を神とは別の実体として措定したことの理由は,物体的であるものはどんなものであれ,少なくとも思惟によって分割可能であるからということでした。要するにデカルトは,物体的なものであれば,たとえそれが実体であったとしても,分割可能であると判断していたことになります。
 スピノザが延長の属性を神の本性を構成する無限に多くの属性のうちのひとつと考えることができたのは,いい換えれば物体的実体とは実体としてみれば神にほかならないと考えることができたのは,分割可能な属性であってもそれは神の本性を構成し得ると判断したのだからではありません。逆にたとえ物体的なものであっても,実体である限り,それは分割不可能であると理解したためです。おそらく同時代の思想家は,この点を正しく把握することが困難であったのだろうと思います。
 実体が分割不可能であるということは,第一部定理一三系が示していることですから,ここではもうそれ以上の説明は付しません。重要なのは,この系からはさらにひとつの帰結事項が生じてくるということです。
 第一部公理一の意味は,自然のうちには実体と様態だけが存在するということでした。そしてこのうち,実体はいかなるものでも分割不可能です。よって,もしもあるものが分割可能であったとすれば,それは様態であるということになります。けれども現実的に問題となるのは,ある種の形相的な意味で把握されるようなこの事柄ではありません。むしろ知性が客観的に可分的であるか不可分であるかを認識するという場合なのです。この帰結から理解できるように,もしも知性があるものを可分的であると認識したならば,知性はそのものを様態として認識しているということになります。ここにこの面でのスピノザのデカルト批判の中心があるといえます。つまりデカルトは物体的実体は分割可能であると主張していますが,スピノザからいわせればこれは,物体的実体を様態として把握しているということの証明にほかならないのです。つまりそれは実体の十全な認識ではありません。
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農林水産大臣賞典黒船賞&デカルト批判の意図

2014-03-18 19:44:41 | 地方競馬
 別定戦に変わって地元のエプソムアーロンがどの程度まで戦えるのかを個人的には楽しみにしていた第16回黒船賞
 好発はクリスタルボーイで逆にやや出負けしたのがダイショウジェット。先手を奪ったのはティアップアワイルドで2番手にセイクリムズン。クリスタルボーイは3番手となり,セレスハント,エプソムアーロン,ファイアーフロートは一団。向正面に入るとこれらの外にドリームバレンチノが追い上げていき,少し離れてダイショウジェット。ミドルペースであったと思われます。
 3コーナー手前でセイクリムズンがティアップワイルドに並び掛け,大外を回って追い上げたドリームバレンチノも取りついて3頭が雁行状態で直線に。ティアップワイルドはここでギブアップ。余力を残していたセイクリムズンが抜け出し,それ以上は差を詰められることもなく優勝。ドリームバレンチノが2馬身差で2着。さらに外から末脚を伸ばしたダイショウジェットが2馬身差の3着。
 優勝したセイクリムズンは昨年の黒船賞以来の勝利で重賞9勝目。第14回も勝っているのでこのレースは三連覇となる3勝目。前走はレース中に跛行があったため大敗しましたが,幸いにして軽度のもの。昨年のこのレース以降,勝てないまでも差のないレースを続けていて,ここはメンバー構成から久々にチャンスとみていました。能力は2着馬の方が上かもしれませんが,地方競馬のコース適性で,一日の長があったように思います。アストニシメントヤマトナデシコの分枝で甥に2011年の阪神スプリングジャンプを勝ったオープンガーデン
 騎乗した岩田康誠騎手は第10回,14回,15回を制していて黒船賞は三連覇で4勝目。管理している服部利之調教師は第9回,14回,15回を制していてやはり黒船賞三連覇で4勝目。

 神を絶対に無限と定義することのうちに,延長の属性を神に帰すというスピノザの意図があったと把握することも,それほどひどい誤りではないように思います。河合の論述に出会って,僕はそう思うようになったということは,すでにいった通りです。一方,旧来的な考え方を脱しきれないような思想家や宗教家はもちろん,かれらよりはよりリベラルに位置していたといえるカルテジアンにとって,スピノザの哲学が躓きの石になったとすれば,その根源はこの部分にあったというべきでしょう。スピノザの考え方を,神を物体的なものとみなしていると誤解し,無神論と結び付けたのは,スピノザのような先鋭的な考え方を理解できなかった人びとにとって,スピノザを批判する唯一の方策であったかもしれず,時代的背景からそのような事態が発生したことは,自然の成り行きであったともいえます。
 僕は,スピノザの思想はデカルトの思想なしにはあることも考えることもできないという一面があると思っています。延長の属性が神の本性を構成すると主張したこと,いい換えれば物体的実体とは神であるということを主張したことは,スピノザにとっては,デカルトの思想を真理の方向へとさらに推進することだったと理解しています。スピノザは多くの箇所でデカルトを直接的に,というのは実名を出して批判していますが,スピノザがあえてそういう手法を採用しているのは,デカルトが完全に誤っているということをいいたいがためであるというよりも,デカルトには不十分なところがあるといいたかったためだろうと思うのです。少なくともデカルトの考え方すら認められなかった宗教的あるいは政治的な反動的勢力に比べたら,スピノザはデカルトの方をよっぽど支持していただろうと思います。
 スピノザがこのときにデカルトに向けた刃は,後にニーチェによってスピノザ自身にも向けられることになります。ニーチェの「神は死んだ」ということばは,キリスト教に向けられていると同時にスピノザにも向けられたものであると僕は解していますが,ニーチェがそう主張するときの意図として,スピノザの思想にはまだ不十分で反動的な側面が残っているということがあったからです。
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哲学書概説シリーズ スピノザ『エチカ』&第一部定理一四系二

2014-03-17 19:26:12 | 哲学
 スピノザのデカルトからの離反に関しては,河合徳治の『哲学書概説シリーズⅡスピノザ『エチカ』』を参考にしました。
                         
 Ⅱというのはこのシリーズの2作目という意味。ちなみにⅠはデカルトの『方法序説』です。
 まず序章でスピノザの哲学的視点が説明されます。あとは五章立て。『エチカ』の概説書ですから,当然ながらその部分は『エチカ』の解説に充てられています。五章から成るのも必然といえば必然。『エチカ』は五部構成になっていますから,各々の章で各々の部が解説されるという仕組みです。
 130ページ弱ですから,『エチカ』を網羅的に解説するということは分量的にいっても困難。実際に援用されていない定理も多く含まれています。とはいえ概説のために必要であるような部分は含まれていますから,日本語で書かれた『エチカ』の入門書としては非常に優れたものであるといえると思います。ただし,どの部分を詳しく解説し,どの部分は省略するかという判断は,当然のことながら著者である河合の判断に委ねられています。したがってそこには河合独自の視点が反映されているといえるでしょうし,その程度の予断を有した上で読むのが適切であると思います。
 性格的には入門書の部類でしょうから,どちらかといえばスピノザの哲学,あるいは『エチカ』の初心者に向けて書かれた本といえますし,そういった読者を対象に書かれた本であろうと思います。だからといって,そうでない人にとって何の役にも立たないような内容のものではありません。それほど高額な書籍ではありませんから,手元において活用するべき一冊であると思います。
                         
 著者の河合徳治は,現代思想1996年11月臨時増刊の総特集スピノザには,「スピノザの「比の保存思想」とその諸相」という論文を寄稿しています。こちらを合わせて読むと,河合の関心の中心がどの辺りにあるのかということもよく理解できると思われます。

 第一部定理一四で,物体的実体とは,実体としては神であるということを明らかにした後,スピノザはさらにデカルトからの離反をはっきりとした形で明言しています。それが第一部定理一四系二です。
 「第二に,延長した物および思惟する物は神の属性であるか,そうでなければ(公理一により)神の属性の変状であるということになる」。
 第二にというのは,系二であるからそういわれているだけです。また,公理一とは第一部公理一のこと。第一部公理一の意味から,ここでスピノザが主張している内容が帰結することは,とくに説明するまでもないでしょう。そしてこの系に何らかの証明を要するとするなら,それはこの部分だけです。スピノザ自身,この系には証明を付していません。
 第一部定理一一は神の実在を主張しているのであり,これは実在的な意味で把握しなければなりません。第一部定理一四は,そのような実在性を担保された神についての言及といえます。だからそれだけでこの系も実在的な意味を有すると判断しなければなりません。これでみれば僕が物体的実体に関して,その実在を『エチカ』の別の個所に訴えることによって確保したのは,余計な手間であったということも可能でしょう。ただ,この系では延長した物といういい方を用いているのは,スピノザが自分の哲学に引きつけていっているのであり,つまり延長は神の属性であるという,第二部になってから証明する事柄をすでにここで明らかにしているというのが僕の理解です。一方,第一部定理一三系で,物体的実体といういい方をしているのは,明らかにデカルトの哲学,あるいはもっといえば当時の哲学の共通認識を視野に入れて,それが分割可能であると主張することは誤りであるということを主張する意図があったと解します。この相違を視野に入れれば,単に延長が神の属性であるというだけでは不十分で,いわゆる物体的実体が実在することも,別の仕方で確定させておかなければならないだろうと僕は考えました。
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