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スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

「他人のため」の否定&有用性の意味

2008-01-31 18:56:07 | 哲学
 基本的に僕は人間は自分のために動いた方がよく,他人のために働くのはかえってよくないと考えています。これにはスピノザの哲学も関係しています。
   
 そもそも第三部定理五一が意味していることは,他人のために働くことが,相手にとってむしろ迷惑である場合があるということを含みます。小さな親切大きなお世話ということばはここからきているのであって,こうしたことが往々にして生じるということはだれもが経験的に知っていることでしょう。しかしこれは大した問題ではありません。
 本当の問題はこの先にあります。好意をもって他人に親切をなす人は,大抵の場合,その親切が感謝をもって受け入れられるものと前提します。しかし第三部定理五一により,そうでない場合もあるわけです。するとどうなるか。これを示しているのが第三部定理四二です。「愛に基づいて,あるいは名誉を期待して,ある人に親切をなした人は,その親切が感謝をもって受け取られないことを見るなら悲しみを感ずるであろう」。そしてこの悲しみは容易にこの相手の観念と結合します。いい換えれば第三部諸感情の定義七により,その相手への憎しみへと転化するのです。
 さて,このとき相手は,自分が親切を受けたと思っていないですから,このように憎まれる原因を判然と理解できないでしょう。そこで「自分が他人から憎まれていると表象し,しかも自分は憎まれる何の原因もその人に与えなかったと信ずる者は,その人を憎み返すであろう」という第四部定理四〇により,好意から親切をなしたその人を憎み返すでしょう。かくして他人のためを思って働くそのことによって,かえって憎しみの連鎖が発生します。人間関係だけに限らず,たとえば国際関係などにおいても,このようなことが現実的に生じているということは,少し考えればよく理解できるのではないかと思います。
 このようなわけで,僕は人は自分のために行動する方がむしろよいと考えるのです。「○○のためにしたことだったのに…」というのは,僕が最もきらいなことばのひとつ。もしも他人のために働こうと思うのであれば,その行為は相手に受け入れられないのが当然であるという前提から始めるべきなのではないかと思うのです。

 憐憫の有用性というのを,僕は感情の模倣の有用性という観点から考えています。そこでこの観点からひとつ,注意してほしいことがあります。
 一般的な意味においては,憐憫という感情は,よい感情と思われているのであって,悪い感情であると考えられているわけではありません。スピノザ自身,第四部定理五〇の備考においては「理性によっても憐憫によっても他人を援助するように動かされない者は間と呼ばれてしかるべきである」といっていて,そのように考えているふしを窺わせます。しかし僕はあくまでも,感情の模倣が一般的な意味で有用であるといっているのであって,感情の模倣に類する感情であればどんな感情であってもそれは有用であると考えています。そこでそうしたほかの感情の模倣と憐憫との間には,何らの差異を設けるつもりはありません。いい換えれば,憐憫という感情が他人を援助するように人を動かすから有用であるといいたいわけではないのです。
 第三部定理五七が意味していることを逆に考えれば,もしもある個人の感情と別の個人の感情とが,完全に一致するならば,この両者の本性は完全に一致するでしょう。もちろん現実的にはそんなことはあり得ません。しかしもしも部分的にでも一致するなら,少なくともその部分に関しては両者の間で本性の一致をみるのです。僕が受動感情が有用であると考えるのは,単にこの点にのみその理由があるのであって,それはどんな受動感情であっても同一です。憐憫という感情だけが受動感情のうちで特別に有用であると,僕は考えているわけではありませんので,その点にはご注意ください。
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川崎記念&感情の模倣の有用性

2008-01-30 19:56:36 | 地方競馬
 2008年最初の大レース,川崎記念。しかしヴァーミリアンとサンライズバッカスが出走取消となってしまい,生き物ゆえ仕方はありませんが,いささか興を削がれてしまった感じです。
 先手を奪ったのはフリオーソ。一旦は高知のケイエスゴーウェイが2番手でしたが,1周目の正面では外の2番手にアンパサンド,内の3番手にフィールドルージュと,有力馬が前に。ペースはスロー。
 向正面の中ほどからペースが速くなり,前の3頭と後ろの差が開いていきました。しかしアンパサンドは脱落し,替わってフィールドルージュがフリオーソの外へ並びかけて直線へ。フリオーソも粘りましたがフィールドルージュが楽に交わして優勝。フリオーソが2着で,アンパサンドの脱落にも乗じ,シャドウゲイトが3着に入りました。
 優勝したフィールドルージュは前走の名古屋グランプリに続く連勝で,大レース初制覇。曾祖母がメジロラモーヌ。今日はヴァーミリアンの取消,さらに強敵と目されたフリオーソを終始マークしてのレースと,多分に恵まれたのも事実ですが,フリオーソを競り落としましたので,現状の日本のダート競馬№2の座は確保したのではないかと思います。暮れの名古屋グランプリから年明けの川崎記念を連勝というのは,昨年のヴァーミリアンと同じパターンですので,今年はさらなる飛躍が期待されます。管理する西園正都調教師は2001年の阪神ジュベナイルフィリーズ,騎乗した横山典弘騎手は2004年の南部杯以来と,共に久々の大レース優勝となりました。

 人間の本性と有用性との関係は,もしあるもの,ここでいえばある受動感情があって,この受動感情が,受動における限りでの人間の本性を,部分的にでも一致させるように作用するならば,あるいはそうでなくとも,人間の本性を部分的にでも対立し合うことを解消させるような方向で作用するならば,この点において,そうした受動感情が人間一般にとって有用であるといい得るということでした。そこでこの観点から憐憫という感情を考えてみましょう。
 このとき,僕が重要であると思うのは,憐憫という感情が感情の模倣のひとつであるということです。つまりAはたとえばBが悲しんでいることを表象することによって自分自身も悲しみを感じるとき,Bに憐憫の感情を抱いているということになるのです。そこでこのとき,AとBを比較してみれば,まさに両者が悲しみを感じるという点では一致をみます。
 さらにこのとき,第四部定理五〇により,憐憫という感情はそれ自体で悪であるわけですが,この悪の対象として認識するものは,AとBで一致するでしょう。そこでこの対象をXと考えるならば,AもBもXという同一の対象によって悲しむということになります。いい換えれば,第三部定理五一におけるXという同一の対象からの刺激状態が,少なくともAとBの間では一致し,かつこの両者の間では,この点に関してのみはその本性が一致するということになります。したがって,一般的に感情の模倣というのは,少なくとも部分的に複数の人間の間での本性の一致を促進するような作用をなし,そのゆえに有用であるといい得るのではないかと思います。そして憐憫はこの感情の模倣の一種なのですから,この点において,憐憫は有用であるといえるのではないでしょうか。
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マイナビ女子オープン&人間の本性と有用性

2008-01-29 19:10:08 | 将棋
 23日に指されたマイナビ女子オープン2回戦第3局,山田久美女流三段と千葉涼子女流三段の一戦は,中盤の終りに派手な立ち回りのある面白い将棋でしたので紹介しておきます。
 振駒で先手になった千葉三段が得意の角換り棒銀を目指しました。山田三段も居飛車党ですがこれを受けず,ウソ矢倉にしようとしましたが,今度は千葉三段がそれは許さんと米長流急戦矢倉に。おおよそ後手番での戦法ですので,この時点から変わった将棋でした。
 第1図は後手が△5七歩と叩いたところ。結果的にこの手が勝敗の行方を左右しました。
   
 ここから▲5七同金△5五銀▲同角△4四銀に▲2二歩で第2図。
   
 この△2二歩は十字飛車という手筋を狙ったもの。後手がどう阻止するのかと思いきや,△2二同玉▲4四角△同金▲3三歩△同桂と素直に応じ,▲2四飛で第3図。縦に王手横に金取りの十字飛車がものの見事に決まりました。十字飛車は手筋としてはよく出てきますが,このようにきれいに決まることはむしろまれだと思います。
   
 しかしこの十字飛車はむしろ後手がかけさせたもので,後手には狙いがありました。以下△2三歩▲4四飛に第4図の△4五桂がそれ。第1図の△5七歩が生き,この手が金取りになっています。
   
 先手は少し考えた末に▲4五同飛としましたが,△3六角で第5図。十字飛車のお返しに王手飛車がかかりました。このあたり,山田三段としては会心の手順であったでしょう。
   
 実戦はこの後,第6図の▲2一銀が最終的な敗着というか負けを早めた手。千葉三段は第7図の▲5三銀が後手玉への詰めろと思ったようですが,これは錯覚。以下,第8図のように詰めろ銀取りをかけた後手の勝ちになっています。
 
 

 明日は川崎記念です。出れば勝つであろうヴァーミリアンが取消の上,サンライズバッカスも取消。ということでフリオーソ◎,フィールドルージュ○,アンパサンド▲で。

 これまでに得られた事柄から,憐憫という感情の有用性を,人間の本性との関係で,とくに人間の本性と感情との関係から導くことができるのではないかと僕は考えています。
 まず,ある人間から別の人間をみた場合,後者の人間は前者の人間にとって,本性が一致するか対立的であるか,そうでなければ一致はしないけれども対立はしないかのどれかであることになります。そして第四部定理三一により,本性が一致する限り後者の人間は前者の人間にとって善なる存在であることになります。よって一般的いえば,人間の本性というのは一致すればするほど,ほかの人間にとってそれだけ善であるということになるでしょう。また逆に第四部定理三〇により,本性が対立的であれば悪であるわけですから,人間同士の本性が対立し合うことが少なくなればなるほど,それもまた人間にとって善であるということになります。よって,人間の本性は,たとえ部分的であれより多く一致する方が,人間全体にとって善であるし,また,対立することを避けられれば避けられるほど,それもまた人間全体にとっての善であるということになるでしょう。
 第四部定理三二により,人間は受動的である限り本性が完全に一致するということはありません。また,第三部諸感情の定義一八により,憐憫は悲しみであり,第三部定理五九により悲しみは受動ですので,この限りで人間の本性が完全に一致するということはありません。しかしたとえ完全には一致しないのであるとしても,もしも憐憫という感情が,部分的には本性を一致させるような方向に,あるいは本性の対立を解消するような方向へ人間を導くならば,その限りでこの感情は有用であるといえるのではないかと思うのです。
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女流名人戦&第四部定理三四

2008-01-28 19:40:48 | 将棋
 女流名人戦五番勝負第一局。
 振駒で斎田晴子女流四段の先手。▲1六歩△3四歩▲5六歩△8四歩▲7六歩というやや変則的な出だしから先手の中飛車。矢内理絵子女流名人は生粋の居飛車等ですので,居飛車対振飛車になることは戦前から確定的でした。
 先手が玉の囲いを後回しにして左の桂馬を跳ね出して第1図。先手が攻めきれるか後手が受けきるかという勝負になりましたが,第2図で▲7八金と手を戻すようでは先手の駒損だけが残って後手優勢。第1図の仕掛けは無理であったということでしょう。
 
 ここからは態勢を整えてから後手が反撃。最後のところ,第3図で実戦は▲5三歩でした。ここで▲5八歩ならもう少し粘ることもできたと思いますが,大勢に影響するというほどでもないように思います。
   
 相手の無理攻めを的確に咎めた矢内名人の快勝で,防衛に向けて幸先よい先勝。第二局は2月11日に指されます。
 ところでこの第二局は倉敷市で指され,これに合わせてイベントが開かれるのですが,これに予定されていたLPSA所属棋士の出演が日本将棋連盟の要望によりキャンセルされました。対局者の意向が反映されてのものであれば致し方ないものと思いますが,なぜ拒否するのかはっきりとした理由を示してほしいところです。

 人間の本性と感情,とくに受動感情との関係をこのように考えたとき,そこから導くことができるひとつの定理が『エチカ』にはあります。それが第四部定理三四です。
 「人間は受動という感情に捉われる限り相互に対立的でありうる」。
 スピノザはこの定理を具体的な感情に視点をおいて証明していますが,ここではこれまでの流れに合わせて,対立的であるということの方から証明してみましょう。
 Aという人間とBという人間がいるとします。AにとってBは,自身にとって有益であるか有害であるか,そうでなければ有益ではないけれども有害でもないかのいずれかです。これはそれ自体で明らかでしょう。ところで,第四部定理三一の帰結として,あるものがAにとって有益であるとは,そのあるものがAの本性と一致するということを意味します。そして有害とは有益の反対のことですから,要するにこれは,AにとってBは,Aの本性に一致するか対立するか,そうでなければ一致はしないけれども対立もしないかのどれかであるということを意味しています。これもそれ自体で明らかでしょう。
 ところで,第三部定理五七によれば,人間は受動感情が異なるだけその現実的本性もまた異なります。したがって,人間は受動感情に従う限りでは必ずしも本性が一致するとは限りません。よってAとBは,受動感情に捕捉される限り,その本性が一致しない場合があるでしょう。つまり,AにとってBは,その本性が対立的であるか,そうでなければ対立はしなくても一致はしていないかのどちらかです。そしてこの定理は,対立する場合があるということさえ示せれば十分ですので,これでこの定理は証明できたといっていいと思います。
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競輪祭&人間の本性と感情

2008-01-27 19:31:42 | 競輪
 新年最初のGⅠ,小倉競輪場の競輪祭は,今日が決勝でした。
 Sの取り合い。誘導の後ろには加倉選手が入りましたが,武井選手を入れて武井選手の前受け。井上選手が3番手で,香川選手は5番手に入り,6番手に小嶋選手,8番手に山崎選手という周回。
 上昇した山崎選手は残り2周のバックまでまずは小嶋選手を抑え,そこから外を上がって打鐘で先頭に。2車でしたが武井選手は引かずにイン粘り。ホームに入ってここをすかさず小嶋選手が一気に発進。山崎選手を叩いて先行。山崎選手が踏み遅れ,井上選手が単独の3番手を確保し,この後ろがもつれました。このまま直線に入りましたが,井上選手が外から捲り追い込むと一気に突き抜けて優勝。加倉選手が内へいったので,井上選手をマークするような形で香川選手も続きましたが,逃げた小嶋選手が2着に粘り,香川選手が3着でした。
 優勝した長崎の井上昌己選手は一昨年のオールスター以来となるGⅠ2勝目。グレードレースは昨年10月の千葉記念を勝って以来です。今開催は先行,捲り,イン粘りと,様ざまな戦法を用いての決勝進出。ここもうまく3番手を取りきり,直線の伸びも圧巻のものがありました。山崎選手と小嶋選手と同乗でのGⅠ勝利ですから,価値が高いのではないでしょうか。
 山崎選手も2車では先行しにくかったでしょうか。そういう意味では香川選手の位置取りが,少し結果に影響を及ぼしたかもしれません。小嶋選手は先行してのものですから,むしろ立派な2着であったと思います。

 明日は女流名人戦五番勝負の第一局です。矢内理絵子女流名人に挑戦するのは斎田晴子女流四段。対戦成績は矢内名人が11勝,斎田四段が15勝。ところでこの対決,なかなか画期的です。というのも,清水市代女流二冠と中井広恵女流六段がどちらも出ない女流のタイトル戦は,驚くなかれ1989年の女流王将戦以来。まだ矢内名人が女流育成会にも入っていない頃の話です。※これは間違い。1990年の女流王将戦以来でした。これは矢内名人が女流育成会に入会した年です。

 この第三部定理五七が明らかになったことにより,スピノザの哲学における人間の本性の考え方がはっきりしたといえると思います。
 まず,人間の本性というからには,それはすべての人間に共通しなければなりません。そこでもしも現実的に存在する人間が,この人間の本性によってある働きをなす限り,いい換えれば,現実的に存在する人間が能動的である限り,すべての人間の本性は完全に一致するでしょう。したがって,人間Aと人間Bが現実的に存在すると仮定した場合に,この両者が能動的である限りでは,この両者の本性が完全に一致するということになります。
 ところが第四部定理四により,人間が常に能動的であることは不可能であり,人間は受動的である場合があるのです。そして第三部定理五一により,その受動のあり方は,各々の人間によって異なる場合があります。よって,同様に人間Aと人間Bが現実的に存在すると仮定すれば,受動の様式は両者の間で相違があり得ますので,第四部定理三二により,この観点からはふたりの本性が一致するとはいえません。そしてその本性の相違こそ,第三部定理五七により,両者の受動感情の相違に合致するのです。
 つまりスピノザの哲学では,人間の本性は二通りの考え方をします。ひとつは人間が能動的である場合で,この場合はすべての人間の本性が一致します。これは理性の特徴により,人間が理性に導かれる場合です。もうひとつは人間が受動的である場合で,この場合にはすべての人間の本性は,部分的に一致することはあっても,完全に一致することはありません。これは人間が受動感情に導かれる場合であるといえるでしょう。
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偉大なる悪手&第三部定理五七

2008-01-26 19:26:14 | 将棋トピック
 ごきげん中飛車の③CⅠの超急戦からの変化です。
   
 図から▲5六同歩△8八角成▲同銀△3三角▲2一飛成△8八角成▲5五桂△6二玉▲1一龍までは定跡化された手順で第1図。
   
 昨年の棋聖戦第四局で,佐藤康光二冠がここで△5四歩と打ったのが新手。観戦していた米長邦雄永世棋聖が「偉大なる悪手」と評した手です。この将棋に関しては渡辺明竜王が『頭脳勝負』で詳しく説明していて,そこではここから▲6三桂成△同玉▲6六香△7二玉までは「必然」で,第2図に進むとされています。また,△5四歩の2号局を指した遠山雄亮四段も同様の見解であったようです。
 
 第2図から渡辺竜王は▲7五角と打ちました。この手はなかなかの手で,実戦は△5一飛に▲2三歩が悪く,△6二銀打の好手で一遍に後手よしとなりましたが,▲2三歩ではなく第3図のように▲1二龍としておけば,先手もかなりやれたでしょう。このあたりは渡辺竜王の解説を参照してください。
   
 『頭脳勝負』で渡辺竜王が明らかにしていますが,△5四歩に対する▲7五角は変化球で,▲2二歩が本手のようです。佐藤二冠によればこれには後手には二通りあるようですが,本筋は△9九馬で第4図。△6二香と打とうという狙いです。
   
 もうひとつは▲2二歩に対して△6六馬▲同歩△2二飛で第5図。これは駒損ですが手番を握ろうという意図であるといえるでしょう。
   
 しかし第1図からの△5四歩以降の4手は,実は「必然」ともいえなかったようです。それを示したのが一昨日と昨日の王将戦第二局で,羽生王将は第1図からの△5四歩に対し,▲6三香成△同玉▲9六角と第6図に進めました。渡辺竜王はこの▲9六角は浮かばなかったそうです。
   
 第6図からは実戦は△7四歩▲6六香△同馬▲同歩△9五銀で第7図。
   
 この第7図はどうやらすでに先手が優勢といえそうです。ですから後手がこの「偉大なる悪手」を今後も指すためには,何らかの修正が必要。現時点で考えられるのは,▲9六角に△5三玉と逃げ,それでも▲6六香なら△7四桂と角筋を遮断する第8図か,▲6六香に△6四桂と合駒し,▲7五歩の追撃には△5三玉と早逃げしておく第9図のようです。
 
 個人的には△5四歩というのは,突き捨てた飛車先に歩を打つ非合理的な手という感じがします。ただ,1号局と2号局は後手が勝ったというのも事実。羽生二冠の対策を乗り越えて,今後もこの手が指されるかどうか,注目です。
 なお,この記事は,王将戦以前に用意されていたもので,王将戦を受けて加筆されたものです。第7図は先手優勢ですが,第8図と第9図に関しては,これで後手が互角以上にやれるという僕自身の検討が十分にされているわけではありません。
 追記です。第8図以降をinfosensorさんが解説してくれました。龍を取られるのに構わず▲6一香成で,後手が苦しいようです。

 明日は競輪祭の決勝です。並びは山崎ー佐藤の福島,武井ー兵藤の東日本,小嶋ー山口の中部,井上ー加倉の九州で,香川は位置を決めず。武井選手と香川選手がどう出るかですが,山崎選手から。

 この帰納的証明から,人間が受動的感情に導かれる場合の個々の人間の本性と,それら個々の人間の感情との関係も明らかにすることができると思います。
 第三部定理五一によれば,各々の人間は同一の対象から,異なった仕方で刺激される場合があります。ところで人間の感情とはどういったものであるのかといえば,それは第三部定義三により,まさにそうした刺激状態そのもの,またそうした刺激状態の観念のことなのです。よって,異なった人間が同一の対象から異なった刺激を受ける場合があるということの意味は,要するに,異なった人間が同一の対象に対して,異なった感情を抱く場合があるということを意味しているといっていいでしょう。刺激状態が異なり,その刺激状態が感情なのですからこれは当然です。
 このことにより,受動によっては人間の本性が一致するとはいえないということが導かれたわけですから,この場合の個々の人間における本性の相違は,刺激状態の相違,すなわち感情の相違と考えることができます。それを示しているのが第三部定理五七といえるでしょう。
 「各個人の各感情は,他の個人の感情と,ちょうど一方の人間の本質が他方の人間の本質と異なるだけ異なっている」。
 すでに上述の事柄から,この定理はすでに証明されていると僕は考えますので,ここではこの定理についてはこれ以上の証明はしません。
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王将戦&帰納的証明

2008-01-25 19:06:31 | 将棋
 王将戦七番勝負第二局。今日はアクセスした時点で将棋が終っていました。毎日新聞のサイトと僕のPCの相性の悪さはいっかな改善されませんが,更新されない状態で棋譜を追うことはさほど問題がありません。
 羽生善治王将の封じ手は▲1三龍でした。手の広い局面での封じ手でしたが,久保利明八段の読みの本線ではなかったようです。ここから39手目の▲3五馬まで,後手としては避けようのない手順に思えますが,これで先手優勢ということですので,すでに封じ手の時点で先手が優勢であったものと思います。羽生王将も55手目に▲7七桂と跳ねて,優勢を自覚したとの感想です。
 先手はこの後も,手堅く,しかし緩みなく指したという印象で,67手目の▲8八桂もそんな一手。後手は最後は形こそ作ることができましたが,居玉の先手に迫ったという感じでもなく,先手の快勝。羽生王将の2連勝となっています。
      
 △5四歩に関しては,明日,別の形で記事にする予定ですが,この手にしても封じ手前の△9五銀にしても,善悪どうこうをいう前に,捌きを身上とする久保八段の棋風にそぐわない感じの手。第三局以降は,自分らしい将棋での巻き返しに期待したいところ。第三局は来月の6日と7日に指されます。

 第四部定理三二は,これで十分に証明されているといっていいと思います。しかしこの証明は,そもそも事物の本性というのがどのようなものでなければならないのかという観点から,演繹的に証明されていますので,証明の具体性に関してはやや欠けるようなきらいがあるのではないかとも思います。そこでこの定理を,今度は具体的な人間の本性という観点から,帰納的にも証明しておくことにします。
 このために,ここでは第三部定理五一に訴えることにします。この定理により,たとえば人間Aと人間Bがいた場合,ある物体Xにより,このふたりが別々の仕方で刺激される場合があり得るということが理解できます。もちろん,人間がある物体Xによって刺激されるとは,この人間がある働きを受けること,すなわちこの人間にとっての受動です。これはたとえば第二部定理一七により,この刺激による人間の精神によるXの表象に関して,人間は部分的原因にすぎないということから明らかだといえるでしょう。
 したがって,この場合に人間Aと人間Bは,ともにある受動状態にあるといえます。このことは正しいでしょう。しかし,Aの受動状態とBの受動状態が同一であるかといえば,AとBはXによって異なった仕方で刺激され得るわけですから,必ずしも同一であるということはできません。これがちょうど,AもBもCではないということに関しては共通であるけれども,AがCではないということの真の意味と,BがCではないということの真の意味は,必ずしも同一ではないということと同様の関係にあたることになります。よって人間は,受動に従属する限りでは,一般的な意味で同一の本性を有するということはいえないということになるのです。
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銀河戦&第四部定理三二

2008-01-24 20:00:49 | 将棋
 10日に放映された銀河戦で,ちょっと珍しい仕掛けがありましたので紹介します。Eブロック4回戦で,村田智弘五段と中村亮介四段の対戦でした。
 後手の中村四段の四間飛車。藤井システム風に牽制しなかったので先手の村田五段は居飛車穴熊を選択して第1図。ここまではありそうな感じです。
   
 ここで後手は☖1四歩。不急に感じる手です。以下,☗9九玉に☖3五歩で第2図。
   
 普通に考えると☖3五歩は☖3二飛から角を引いて☖3四飛と浮こうという狙いに思えます。そこで先手は☗6八角。もし飛車が3二にいれば角を引いて何事もありませんが,ここでは3五の歩を守るために☖3四銀。これで構想が阻止されたと思いきや,後手の真の狙いは別のところにあり,以下,☗8八銀☖3二飛☗6七金右に☖1三桂で第3図。第1図の☖1四歩が生き,先手は2五の歩を守る術がありません。
   
 後手が桂馬を1三に跳ねだして2五の歩を狙うというのは非常に珍しい筋なのではないかと思います。実戦も第4図の☖2五桂が実現,後手の一歩得になりました。
   
 ただし,実戦的にいえば居飛車穴熊は一歩損くらいでは大して響きません。この後,飛車を犠牲に馬を作った先手がむしろ優位に。しかし後手の端を絡めた反撃に受け間違えて逆転。とくに第5図で☗8五金と手厚く打ったのがまずく,ここは☗8六歩とした方がよかったようです。
   
 この将棋は逆転してからの後手の寄せも見事で印象的。第6図の☖4八角,第7図の☖6七角など,好手も連発して,珍しい構想を見せた中村四段の勝ちとなっています。
 
 この将棋は番組の聞き手が村田五段の妹の村田智穂女流初段でした。聞き手の声が聞こえるわけではありませんが,村田五段としては少しやりにくい状況ではあったかもしれません。

 王将戦はごきげん中飛車③CⅠの超急戦に。久保八段は昨年の棋聖戦第四局で佐藤二冠が指した「偉大なる悪手」☖5四歩を採用。ここから☗6三桂成☖同玉に,羽生王将は☗6六香ではなく,☗9六角の新手を放ちました。以下,☖7四歩☗6六香☖同馬☗同歩☖9五銀で1日目終了。この将棋がどうなるかに☖5四歩の今後の命運が握られているかもしれません。

 それでは第四部定理三二に進むことにしましょう。
 「人間は受動に従属する限りにおいては本性上一致すると言われえない」。
 この定理Propositioは証明Demonstratioと証明の後の備考Scholiumでスピノザが述べているように,それ自体で明らかであるといえます。なぜなら,たとえばAの本性naturaとBの本性が一致するというのは,第二部定義二により,Aについて,それがなければAがあることも考えるconcipereこともできず,逆にAがなければそれがあることも考えることもできないようなある事柄と,Bに関して,それがなければBがあることも考えることもできず,またそれはBがなければあることも考えることもできないようなある事柄とが,完全に一致するという意味でなければならないからです。したがって,たとえばAもBもCではないというならば,この言明自体は絶対的に正しい真の命題であるといえるのですが,だからAとBの本性が一致するということを意味するわけではありません。AはCではないということによってAであるわけではありませんし,Bもまた,CではないということによってBであるというわけではないからです。むしろCではないということは,AにとってもBにとっても,それがなければあることも考えることもできない事柄であるどころか,むしろそれ自身が本性として有していない事柄についての言明であるからです。よって,もしもこうしたことによってのみ,AとBが一致するのであれば,この言明は同時にAとBの本性は異なるということを意味していることになります。
 同様に,人間の受動passioというのは,それがなければ人間があることも考えられることもできないようなあるものではありません。むしろ人間Aと人間Bの本性がこの点で一致するといわれるなら,おおよそ受動に従属するようなもの,すなわち第四部公理により,すべての個物res singularisの本性は一致するといわれなければならないでしょう。しかしそれが不条理であるのは自明ではないかと思います。よって,人間は,受動に従属するという点から,本性の上で一致するということはできないということになります。
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ニューイヤーカップ&表現との関係

2008-01-23 20:48:54 | 地方競馬
 今年の南関東競馬は川崎,船橋,大井の順に開催され,今週の浦和が最後になりました。すべての開催に重賞なり南関東重賞が組まれるというわけではありませんが,新年最初の開催となれば何らかの大きなレースがあるのが自然。浦和は今日のニューイヤーカップ。降雪の影響で開催自体が危ぶまれましたが,無事に行われました。
 内からロイヤルマコトクン,ノースダンデー,ミサトアンバード,ブライトフェースが好発。このうち,ミサトアンバードはすぐに控えましたが,残る3頭で先行争い。1コーナーに入るところでようやくブライトフェースが先手を奪い,ノースダンデーが2番手。3番手のロイヤルマコトクンは少し離れました。結果,前半の800メートルが48秒2。超ハイペースです。
 後方2番手に控えていたゲンキチホマレが向正面から上昇。コーナーも外を回って,直線入口でブライトフェースに並び掛けると,飛ばしていたブライトフェースは抵抗できず,抜け出したゲンキチホマレの快勝。好発から一旦は控え,ゲンキチホマレが行ってから追い上げてきたミサトアンバードもブライトフェースを捕えて2着に入り,ブライトフェースは3着まで。
 優勝したゲンキチホマレはこれで6戦3勝。南関東重賞は初勝利。追込みタイプの馬のため,安定感はやや欠きますが,末脚は確か。今日は展開もドンピシャでした。前走はプラス12キロでブライトフェースの4着に敗れていて,今日は3キロ減っていたのもよかったのでしょう。面白いものでこの馬は今日までの6戦,すべて重馬場でのレースとなっています。
 騎乗した川崎の町田直希騎手は暮れの東京2歳優駿牝馬以来の南関東重賞制覇。管理する川崎の秋山重美調教師は,これが地方競馬通算600勝のメモリアル勝利となりました。
 

 明日から王将戦七番勝負の第二局が始まります。先手となる羽生王将がどういう作戦でいくのかが注目です。

 また,明日から小倉競輪場で新年最初のGⅠ,競輪祭が始まります。やはり山崎選手と小嶋選手が中心でしょうか。

 第四部定理三〇第四部定理三一で示されていることは,前回のテーマで触れた表現の問題と絡めて,次のようなことがいえるのではないかと僕は考えています。
 人間というのは人間の身体と人間の精神から構成されています。いい換えれば,延長の様態でありまた思惟の様態であって,神のほかの属性の様態ではありません。現在のテーマは人間の感情論ですので,延長の様態の表現と思惟の様態の表現だけを考えれ十分です。したがって,ほかのものというのも,延長の様態でありかつ思惟の様態であるようなものに限定して考えます。また,正確にいいますと,たとえば第二部定理七系により,延長の様態であるようなものは同時に思惟の様態でもあるので,ここでは延長の様態,すなわち物体に限った考察をします。
 まず,第一部定理二五系により,物体は延長の属性を一定の仕方で表現します。そしてこの表現の意味とは,それが原因となってある結果を生じさせるということです。ところで,第三部定理七により,個物は現実的に存在する限り,その存在を維持するという現実的本性を有します。そしてこの現実的本性によって,物体はある表現をなすでしょう。
 そこでこの物体の表現内容が,ある人間の本性に一致するような内容であれば,これはその人間にとって善であり,逆にある人間の本性にとって対立的であるならば,これはある人間にとって悪であるということになるのです。もちろんこうした表現内容は,ある人間の本性に一致しないけれども対立的でもない,いい換えれば,ある人間の存在の維持を促進することはないが阻害することもないという場合もあるでしょう。そしてこの場合には,こうした物体はその人間にとって,善ではないけれども悪でもないという存在であるということになるのではないかと思います。
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メジロラモーヌ&第四部定理三一証明

2008-01-22 20:18:37 | 名馬
 暮れに名古屋グランプリで初の重賞制覇を達成したフィールドルージュ。この馬の曾祖母,つまり母の母の母というのは,日本の競馬史に名を残す馬の1頭,メジロラモーヌです。
 1985年に2歳でデビュー。新馬を勝った後,重賞をひとつ負けましたが,特別,重賞と連勝して2歳戦を終えました。
 3歳初戦にはクイーンカップを選び,断然の1番人気に推されるも4着。この凡走は現在でも謎とされています。続いて桜花賞のトライアルへ。このレースから河内洋現調教師が手綱を取り,このレースを勝つと,桜花賞も勝って大レースを制覇しました。
 現在では桜花賞馬はそのままオークスへ直行するのが一般的ですが,この時代はトライアルを使うというのも普通のこと。この馬もオークストライアルを使って勝つと,さらにオークスも制覇しました。
 牝馬三冠の三冠目は今は秋華賞ですが,この頃はエリザベス女王杯が3歳牝馬限定のレースとして行われていて,これが三冠目。秋の目標はもちろんこのレースで,その前にトライアルのローズステークスを使ってこれを勝つと,エリザベス女王杯も勝利,日本競馬史上初の牝馬三冠馬となりました。
 この後,果敢に有馬記念に挑戦するもこれはさすがに9着。当時は古馬牝馬の大レースは皆無だったこともあり,これを最後に引退,繁殖牝馬となりました。翌年,顕彰馬に選出されています。
 秋華賞の時代になってから,スティルインラブが牝馬三冠を達成しています。ただしメジロラモーヌの場合は,トライアルも含めた三冠で,現在のローテーションの組み方からすれば,こんな馬はもう現れないのではないかと思います。僕の競馬キャリア始まりの年が三冠達成の年。つまりこの馬の3歳春までのレースは,僕はテレビを通しても見ていたというわけではありません。
 繁殖入り後,多くの馬を子孫に出しましたが,これだけの成績を残した馬にしては活躍馬は少なく,3代を経て出たフィールドルージュが,この馬の子孫としては初の重賞勝ち馬ということになります。

 明日は浦和でニューイヤーカップ。ここはブライトフェース◎に期待し,ギャンブルオンミー○とノースダンデー▲。ほかはロイヤルマコトクン△とモエレマジックマン△。

 これが証明されればスピノザがこの後の系で示していること,すなわち,あるものがある人間の本性とより多く一致するに従ってそのものはその人間にとってそれだけ善であり,逆にあるものがある人間にとって善あるいは有益であればあるほどそのものの本性はそれだけその人間の本性と一致するということもまた証明されるという前提で,第四部定理三一を証明します。
 まず,第四部定理三〇により,あるものがある人間の本性と一致する限りでは,そのものがその人間にとっての悪ではあり得ないということがすでに明らかになっています。したがって,あるものの本性がある人間の本性と一致する限りにおいては,そのものはその人間にとって善であるか,そうでなければ善ではないけれども悪でもないようなあるものであるということになります。
 そこでもしそれが善でも悪でもないとすれば,第四部定義一と二により,これはそうしたものの本性から,その人間にとって有益であるもの,すなわち,その人間の存在を維持するために役立つようなものも逆にそれを阻害するようなものもどちらも生じないということになります。
 しかし,第三部定理七により,そのものが現実的に存在する限り,そのものはそれ自身の存在を維持しようとする傾向を有します。つまり,少なくともそのものの本性から,そのもの自身の存在を維持するようなあることは生じるわけです。ところが,この定理の前提では,このもののそうした本性と,ある人間の本性は一致するということになっています。よって,そのものの存在の維持に有益であるようなことは,この人間の存在の維持にも有益であるでしょう。したがって,もしもあるものの本性がある人間の本性と一致するほど,そのものはその人間にとって善であり,逆にあるものがある人間にとって善であるほど,そのものの本性とこの人間の本性はそれだけ一致しているということになるのです。
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フローラルマジック&第四部定理三一

2008-01-21 19:04:03 | 血統
 有馬記念を勝ったマツリダゴッホの牝系も紹介します。
                         
 この馬の母は1991年にアメリカで産まれたペイパーレインという馬。やはり日本での歴史はそう古いわけではありません。アメリカで繁殖生活を送った後,2000年から日本で産駒を出していて,マツリダゴッホは日本では3頭目の産駒ということになります。
 ペイパーレインの母は1985年にアメリカで産まれたフローラルマジック。最初に産んだのがペイパーレインでその後すぐに輸入されています。つまりフローラルマジック産駒でアメリカ産はペイパーレインだけ。ファミリーナンバー18です。
 フローラルマジックは輸入後に続々と産駒を出しましたが,そのうち1996年にサッカーボーイとの間に産まれたのがナリタトップロード。菊花賞馬です。よって,マツリダゴッホはこのナリタトップロードの甥ということになるのです。
 ナリタトップロードは大レースこそ菊花賞を勝っただけに終りましたが,6歳まで一線級として長く活躍しました。マツリダゴッホにもこうした傾向が受け継がれているのであれば,今年もまだまだ活躍し続けられるのではないかと思われます。

 憐憫commiseratioという感情affectusがいかなる意味で有用であるといえるのかということを検討するためには,このあたりの定理Propositioを順に解明しておく必要があると僕は考えています。そこで続いて第四部定理三一もみておきます。
 「物は我々の本性と一致する限り必然的に善である」。
 第四部定理三〇では,あるものがそれの本性naturaと共通である事柄によって,それにとっての悪malumであるということはあり得ないということが導かれ,またそのことにより,あるものが悪であるとすれば,それはそのものの本性に対立的であるということが分かりました。今度は逆に,もしもあるものがあって,それがそれ自身の本性と一致するのであれば,それはそれ自身にとって善bonumであるということが導かれようとしているわけです。
 このことが証明されますと,ある人間にとって,外部の物体corpusがその人間の本性humana naturaとより多く一致すればその外部の物体はそれだけ善であるということになります。また,第四部定義一により,善とはそれがその人間にとって有益であるもののことをいうわけですから,もしもある外部の物体がその人間にとってより有益なものであるとすれば,その外部の物体の本性というのがその人間自身の本性とそれだけ多く一致しているということになります。
 もちろん厳密にこのことをいうためには,第二部定理六第一部定理二八に訴えて,人間が自分の実在性realitasを維持または向上させる傾向conatusを促進したり逆に阻害したりするものは,人間と同じ属性attributumに属するものでなければならないということも証明しておく必要があると思います。ただしここでは,あくまでも人間の感情論をテーマとして設定していますので,このことはこの際の前提条件であるものとしておきます。
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パーソナリー&共通概念の観点

2008-01-20 18:46:54 | 血統
  
 暮れの全日本2歳優駿を勝ったイイデケンシンの母系を紹介します。
 この馬の母はアメリカ産のヘヴンリーアドヴァイスという馬。アメリカで2頭の産駒を産んだ後に輸入され,イイデケンシンが日本での初産駒になります。これでみれば日本での歴史は始まったばかりですが,ヘヴンリーアドヴァイスの母もまた同じ年に別に輸入されています。それがアメリカ産のパーソナリーという馬。ファミリーナンバー23-b
 このパーソナリーも長いことアメリカで繁殖牝馬としての生活を送っていたわけですが,その産駒のうちの1頭が競走馬として日本に輸入されました。それが2004年のダービーグランプリを勝ったパーソナルラッシュ。JRAから大井に転入し,現在も競走馬として走っています。
 パーソナリーを祖として日本で現役競走馬として走っているのはこの2頭だけ。その2頭が共に大レースを勝ったということになります。
 イイデケンシンの父はケンタッキーダービーを勝ったサンダーガルチ。叔父にパーソナルラッシュがいるイイデケンシンは,やはり血統的にはダート競馬向きといえるのではないかと思います。

 この証明の仕方は,『エチカ』でスピノザが用いているのと同じ方法です。しかし僕の考えでは共通概念の観点を導入することにより,第四部定理三〇はもっと別のやり方で証明することが可能です。
 Aの本性とBの本性に共通のXがあると仮定します。そしてAとBが関係し合うことによって,Aの精神とBの精神のうちにXの観念が生じるとしてみましょう。これはAとBの間の共通概念ですから,本来であれば第二部定理三九に訴えるのが筋ですが,この定理の証明は第二部定理三八証明と同じ方法ですので,ここでは便宜的に定理三八の方に訴えます。するとAの精神のうちにあるXの観念も,Bの精神のうちにあるXの観念も,十全な観念であるということが導かれます。
 次に第三部定理一により,十全な観念を有する限りでは精神は働きをなします。いい換えれば能動的です。よってXの観念を有する限りでは,Aの精神もBの精神も能動的であるということになります。
 そして第三部定理五九によれば,能動的である精神に関係する感情は,基本感情のうちの喜びであるか欲望であるかのどちらかです。つまり悲しみは関係しません。ですのでXを認識する限りでは,AもBも悲しみを感じるということがありません。すなわち,AもBも,Xを認識することによって自身の悲しみを認識するということはないことになります。
 ところが第四部定理八により,悪の認識とは悲しみの認識にほかならないのです。よってAもBも,双方の本性に共通であるXを認識する限りでは,悪を認識することはないということになります。
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表彰選手&第四部定理三〇証明

2008-01-19 19:28:18 | 競輪
 昨日,昨年の競輪の表彰選手が発表されましたので,ここで紹介しておきます。
 最優秀選手(MVP)は石川の小嶋敬二選手。昨年は競輪界の覇権を山崎選手と争い,どちらが選ばれてもおかしくないところですが,途中,怪我での欠場があったため,獲得賞金こそ山崎選手には及びませんでしたが,年間の平均競走得点と勝率では全選手の中で1位ですので,妥当なところでしょうか。GⅠは高松宮記念杯寛仁親王牌,GⅡは西王座戦,ほかに2月の四日市記念と7月の四日市記念でともに優勝しています。
 優秀選手賞は2名で,まず福島の伏見俊昭選手。これは何といっても競輪グランプリの優勝が評価されてのもの。このレースは賞金が高いので,獲得賞金もトップでした。ほかに福井記念で優勝しています。
 もうひとりは同じ福島の山崎芳仁選手。GⅠは競輪祭全日本選抜競輪,GⅡはふるさとダービー函館,ほかに川崎記念,いわき平記念,花月園記念と優勝していて,グレードレース6勝は全選手でトップ。獲得賞金も小嶋選手は上回りましたが,山崎選手は勝率がそれほど高くないのはやや意外でした。昨年は最優秀選手で,ひとつランクを落としてはいますが堂々の2年連続受賞になります。
 最優秀新人選手賞は福岡の北津留翼選手で文句なしの受賞。小松島記念松山記念で優勝していて,このカテゴリーの選手が記念競輪を2勝するというのは並大抵のことではありません。北津留選手は初受賞。
 特別敢闘選手賞は岩手の佐藤友和選手。有坂選手,飯嶋選手というGⅠウイナーを差し置いてということにはなりますが,年間を通しての活躍ということで考えれば,やはり佐藤選手が選ばれてしかるべきという気はします。GⅡの東王座戦,そして奈良記念小田原記念に優勝しています。佐藤選手も初受賞。
 このブログは競輪のみを扱って自転車競技は扱っていません。残る国際賞は競技関連ですので割愛します。
 
 第四部定理三〇はわりと容易に証明することができます。
 AとBがいて,この両者の本性に共通するXがあると仮定します。そしてBがこのXによってAにとっての悪であると仮定してみましょう。
 第四部定理八により,Aが何らかの悪を認識するとは,Aが自分自身のある悲しみを認識するということにほかなりません。そして第三部諸感情の定義三により,Aにとっての悲しみとは,Aが大なる完全性から小なる完全性へと移行するということです。したがって,AがBの本性のうちに含まれるXによってBを悪と認識するということは,このXによってAの完全性すなわち実在性が,大なる実在性から小なる実在性へと移行したということを意味することになります。
 ところで,最初の仮定によれば,このXは単にBの本性のうちにのみ属するのではなくて,Aの本性のうちにも含まれるということになっています。したがって,XがAを大なる実在性から小なる実在性へと移行させるのであれば,まさにAは,自分自身の本性のうちに含まれるようなあるものによって,大なる実在性から小なる実在性へと移行するということになるでしょう。しかし第三部定理七により,どんな個物もそれ自身の実在性を維持しあるいは向上させるという現実的本性を有するのですからこれは不条理です。よってこの場合には,BのうちにあるXによってBがAにとっての悪であるということはあり得ないということになります。そしてこれを一般的にいうならば,どんなものも,自分自身と共通の事柄によって悪であるということはあり得ないということになり,またこれを積極的にいい換えるならば,もしもあるものにとってある何かが悪であるならば,その何かはあるものにとって対立的である,すなわちそのあるもの自身の実在性を阻害するような何ものかであるということになるのです。
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王将戦&第四部定理三〇

2008-01-18 19:38:40 | 将棋
 王将戦七番勝負第一局2日目。先手の久保利明八段の封じ手は☗4六歩。これは実戦のようにほぼ一方的に攻められるので意外な手といえるでしょう。羽生善治王将も少し驚いたのではないかと思いますが,☖2六歩以下の攻めを決行しました。
 48手目に☖2四飛と走った局面は駒割りだけでいえば金と角桂の交換で,後手が駒損していますが,攻めは通っているようです。この後,2筋を巡る折衝で角は取り返し桂損に。先手もこの桂馬を73手目に☗3八桂とここに打つようでは辛い気がします。
 ここから後手は角を成り込んで88手目の☖8九馬で駒損も解消。こうなると後手は馬ができていて,玉も先手より固く,先手は飛車が遊んでいる上に金銀も分裂していて後手の必勝型。以下,はっきりとした終盤にも至らない局面で先手の投了となっています。
 結果的にいえば封じ手の☗4六歩が,先手の攻めを呼び込む危険な一手であったかもしれません。ここはたとえば☗9六歩のような手で様子を見ておけば,また違った展開になっていたでしょう。また,1日目に後手が18手目に☖7二金としたのは少し変わった手に思えるのですが,ここから囲った形は横からの攻めには弱いけれども上からの攻めには強い感じで,この囲い方もこの将棋では結果的に生きたという気がします。
 羽生王将が先勝。第二局は24日と25日に指されます。

 第四部定理四系により,人間が常に理性的であるということはできないということ,したがって,少なくとも憐憫commiseratioという感情affectusを抱く場合があるということは明らかとなりました。そこで今度は,人間が受動的である場合に,それ自体では悪malumであるこの憐憫という感情が,いかなる意味で有用であるといい得るのかということを探求していくことにします。そのためにまず,第四部定理三〇をみてみることにします。
 「いかなる物も,それが我々の本性と共通に有するものによって悪であることはできない。それが我々にとって悪である限り,その限りにおいてそれは我々と対立的である」。
 この定理Propositioの意味は問題ないと思います。もしあるものAがあって,そのものの本性naturaにある人間の本性と共通であるXがあるとします。するとAがこのXによってこの人間にとって悪であるということ,あるいは第四部定理八によりこの人間の悲しみtristitiaの原因であることはありません。もしもAがこの人間にとっての悪であるならば,これはAのうちにあるこの人間の本性と共通であるようなXから生じるのではなく,Aの本性には属するけれどもこの人間の本性には属さないようなYによって悪であるということになります。そしてあるものAないしYがこの人間にとって対立的であるということの意味は,この場合に限られることになります。したがってこれを逆からいい換えれば,もしもあるものXがあって,このXがある人間と対立的であるならば,Xは必然的にnecessarioこの人間にとっての悪であるということになり,かつこのXはこの人間の本性のうちには含まれないということになります。
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大宮記念&第四部定理四系

2008-01-17 19:31:09 | 競輪
 新春の記念競輪連続3開催のラストとなる大宮記念は,今日決勝を迎えました。
 荒井選手の前受けで,村本選手が4番手を追走,藤田選手が5番手からの周回。なかなか動きがなく,打鐘で荒井選手がスピードを落として誘導から離れたところで藤田選手が上昇,荒井選手を抑えて先行になりました。荒井選手は引かずに内で平原選手と併走。藤田選手は流して,バックからようやくスピードアップ。番手戦は最後まで決着がつかなかったのですが,荒井選手は内に封じ込められる形となり踏めず。直線,外から平原選手が抜け,後閑選手に迫られましたが凌いで優勝。後閑選手が2着で,荒井選手の3番手から両選手の中を割った浜口選手が3着となっています。
 優勝した地元・埼玉の平原康多選手は,一昨年の別府記念以来となる記念競輪2勝目。番手戦を挑まれましたが,荒井選手もそう器用なタイプではありませんので,見た目以上に楽なレースだったかもしれません。もうワンランク上での活躍が期待される選手のひとりだと思います。

 王将戦は振駒で久保八段の先手。後手となった羽生二冠の作戦は相振飛車。かなりスローペースの進行で,封じ手の局面ではまだなんともいえません。
 ところで,マウスを新しいものにしてからPCの動作はかなり安定しているのですが,毎日新聞のページにいったときだけ必ずといっていいほどIEがエラーを起こし,ひどいときはPCがフリーズします。棋譜を見るのにも一苦労です。

 それでは第四部定理四系に進みます。
 「この帰結として,人間は必然的に常に受動に隷属し,また自然に共通の秩序に従い,これに服従し,かつこれに対して自然が要求するだけ順応する,ということになる」。
 この帰結というのは,もちろん第四部定理四からの帰結ということです。
 スピノザは『エチカ』ではこの系Corollariumだけを示して,証明していません。僕はこの系のうち,人間が常に受動passioに隷属するという点に関してはいくらかの疑問がありますが,現在の考察に関連しては,人間が受動的である場合があるということさえ示すことができれば十分であり,常に受動的であるかどうかは問いませんので,この疑問に関してはここでは問題にしないことにします。それならこの系は,第四部定理四が証明されてしまえば明らかなことですので,ここでも証明する必要はないでしょう。人間が自己の本性naturaのみによって理解できるような変化しか受けないということが不可能であるとは,人間が常に能動的であることは不可能であるという意味なのであって,裏を返せばこれは,人間が受動的な場合もあるということを意味しているからです。
 したがって,理性と憐憫の関係において,人間は理性ratioに従う限り憐憫commiseratioという感情affectusを抱かないということが結論されたのですが,人間が常に理性に従うということ,つまり能動的であるということが不可能であるということになりましたので,少なくとも,人間が憐憫という感情を抱く場合があるということに関しては,これで明らかになったといえると思います。
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