スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

デイリー盃クイーン賞&神政国家

2023-11-30 19:11:39 | 地方競馬
 昨晩の第69回クイーン賞
 発馬直後はライオットガールとパライバトルマリンの逃げ争いになりました。3番手にビジン。4番手にノーブルシルエット。5番手にティーズハクア。6番手にグレースルビーとテリオスベル。2馬身差でゴールデンヒーラー。9番手にサルサレイア。10番手にサブルドール。最後尾にエイシンレミーで発馬後の正面を通過。パライバトルマリンが先手を奪うとビジンが2番手に上がり,3番手にライオットガールとなりました。発馬後からずっと押していたテリオスベルは向正面の入口では3番手付近。ここからさらにパライバトルマリンの前に出ようとしたのですが,パライバトルマリンが譲らなかったので,向正面からこの2頭が競り合うレースに。最初の800mは48秒0のハイペース。
 テリオスベルの上昇で3番手になったビジンは早々に一杯となり,4馬身差の3番手にライオットガールが上がって3コーナーに。ここからライオットガールが内を回って差を詰めました。直線に入ってもパライバトルマリンとテリオスベルの競り合いが続きましたが,外に出されたライオットガールが競り合う2頭を楽に差して優勝。パライバトルマリンを競り落としたテリオスベルが2馬身半差で2着。逃げたパライバトルマリンが4分の3馬身差で3着。
 優勝したライオットガールはレパードステークス以来の勝利で重賞2勝目。このレースは重賞を勝っている3頭の能力が明らかに上位。このレースは斤量が軽い馬が食い込んでくるケースがあるのですが,テリオスベルのように道中から動く馬がいると能力の勝負になりやすいので,よほどのことがない限り3頭の争いになるだろうとみていました。4着以下に9馬身の差がついていますが,これが現実の能力差だと思います。パライバトルマリンとテリオスベルの早い段階からの競りを後ろでみていられた分だけライオットガールが有利になっただけで,3頭の間に大きな能力差があるわけではないと思います。母の父はハーツクライ。英語表記はRiot Grrrlで,1990年代のアメリカのサブカルチャー運動のひとつ。
 騎乗した岩田望来騎手と管理している中村直也調教師はクイーン賞初勝利。

 後藤の論文の標題は「スピノザ『神学政治論』からメンデルスゾーン『エルサレム』へ」でした。なのでこの部分は,ユダヤ教の教義とユダヤ人国家の関係をどうみるかと関係します。
                                   
 スピノザは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の第17章で,ユダヤ人国家,これは当然ながらスピノザがいっているわけですから,旧約聖書に記述されている,かつて存在したユダヤ人国家を意味するのですが,そのユダヤ人国家が神政国家といわれた理由を説明しています。これをごく簡潔にいうと,ユダヤ人国家における法lexと,ユダヤ教という宗教religioとの間に何らの区別も存在しなかったからです。他面からいえば,ユダヤ教の教義というものが,その国家Imperiumにおける法であったということです。ここでいわれているユダヤ教の教義というのは,モーセの法規,これは律法と呼ばれているもの,とくに祭儀の律法を意味するのですが,その法規と同一視することができるのであって,これを神政国家というのであれば,かつて存在した唯一の神政国家がこのユダヤ人国家であったという点について,メンデルスゾーンMoses Mendelssohnは同意していたと後藤は指摘しています。
 これが神政国家といわれることの具体的な意味は,モーセがユダヤ人にとって神Deusとされているという点に集約されます。つまりモーセの法規が神の法規であるということは,この国家を統治しているのは事実上はモーセであるということです。つまり国家の指導者がユダヤ人を統治するのではないし,ユダヤ教会の聖職者がユダヤ人を統治するのではなく,ユダヤ人の神であるモーセが直接的にユダヤ人を統治する,あるいは統治していたという意味です。そしてこのようなユダヤ人国家およびユダヤ教の教義に関して,スピノザとメンデルスゾーンは一致していたということです。さらにこのことを基礎として,スピノザは教会の権力全般を批判しようとしました。そしてその権力への批判を企てるという点では,やはりメンデルスゾーンはスピノザと一致していたのだと後藤はいっています。
 ところがこの先で,というのはこうした神政国家が現に崩壊した後の解釈について,スピノザとメンデルスゾーンの間で解釈の相違が生じることになりました。
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大山名人杯倉敷藤花戦&メンデルスゾーンの願望

2023-11-29 19:17:23 | 将棋
 18日に倉敷市芸文館で指された第31期倉敷藤花戦三番勝負第二局。
 里見香奈倉敷藤花の先手で後手の西山朋佳女流四冠が中飛車にしたのをみてからの向飛車で相振飛車。この将棋は中盤で鋭い攻めを繰り出した後手が有利のまま終盤戦に入りました。
                                        
 ここで☖6五桂と打ったのですが,☗3七飛と逃げられて大きく損をしました。どう指せばよかったかは難しいのですが,☗3七飛のときに☖1二香と逃げていますので,☖2二角と打つのがよかったかもしれません。先手の4四の角を排除することができれば,後手玉の脅威は減りますし,先手陣の守備も少し弱体化します。また☗2五銀とされたときにもやや受けやすくなっています。
 実戦は☖1二香に☗2五銀で先手が飛車先を通す形に。
                                        
 ここで☖4二銀打と受けましたが,これで後手は攻め駒が不足して逆転しました。なので真の敗着はこちらではなかったかと思います。ここでは☖8九角と打って攻め合いを目指すか,☖4二銀と逃げてもし☗3二飛成ならそこで☖3一銀打と受けるし,もしも☗2二角成のような手で来るなら,☖7六龍として将来的な上部脱出も含みに指せばまだ難しかったのではないでしょうか。
 連勝で里見倉敷藤花が防衛第16期,17期,18期,19期,20期,23期.24期,25期,26期,27期,28期,29期,30期に続く八連覇で14期目の倉敷藤花です。

 メンデルスゾーンMoses MendelssohnがヤコービFriedrich Heinrich Jaobiに対して,スピノザの哲学を擁護するような論陣を張ったのは,もしかしたらメンデルスゾーンの本意であったというわけではなく,ヤコービに誘導されてそのような立場を選択せざるを得なくなったからなのかもしれません。しかしたとえそうであったとしても,スピノザの哲学を擁護することで師であるレッシングGottfried Ephraim Lessingの立場を守っても構わないという余地が,メンデルスゾーンのうちにあったのは間違いないといえるでしょう。したがってメンデルスゾーンのうちには,ヤコービにあったと想定されるような願望と,一致するような願望はなかったと考えることができると思います。
 メンデルスゾーンのスピノザの哲学に対する理解は,ヤコービのそれに比べれば劣るものでした。よってメンデルスゾーンは,部分的にはスピノザの哲学を誤って解釈していたということを前提しておかなければなりません。そしてそのために,ヤコービと同じような願望を有するには至らなかったという可能性もあるでしょう。とはいえこうしたことはメンデルスゾーンのスピノザ哲学の理解の中心がどういうところにあって,それをメンデルスゾーンがどのように受容したのかということ,いい換えれば,メンデルスゾーンにはスピノザの哲学がどのようにみえていたのかということが解明されなければ分かりません。そしてそのためには,メンデルスゾーン自身の思想の中心がどこにあったのかということを明らかにする必要があるでしょう。よってこうしたことを明らかにするためにも,ヤコービと離れた,あるいは汎神論論争とは離れたところで,メンデルスゾーン自身の思想の解明というのが重要であるということになるのです。『スピノザーナ11号』の平尾および後藤の論文は,僕たちがそうしたことを理解するための一助になるでしょうし,さらなる研究の継続と発展が望まれるところです。
 メンデルスゾーンについては僕にはこれ以上のことは探求することができません。これは前もっていっておいた通りです。なのでこの項はここで終了としてもよいのですが,後藤の論文で,僕の関心を惹いたことが含まれていますので,その点を紹介しておきます。
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竜王戦&ヤコービの願望

2023-11-28 19:26:18 | 将棋
 10日と11日に小樽で指された第36期竜王戦七番勝負第四局。
 藤井聡太竜王の先手で角換わり相腰掛銀。後手の伊藤匠七段が右玉模様に組み替えました。
                                        
 駒損している後手の手番で,攻めるところ。攻めの方針が問われる局面です。
 ☖6七銀☗6九金に☖2九飛と打っていきました。これは8五の拠点を生かして8六に駒を打って攻めていこうという方針。実際にそういう手順に進んだのですが,先手の反撃の方が速度で上回りました。
 第1図では☖8六歩と突き捨て,☗同銀は☖6八飛と打たれてしまうので☗同金の一手で,そこで☖6七銀と打っていく手順もありました。これは拠点を失うものの8五に桂馬を跳ねたり打ったりできるようにする指し方。こちらを選べば実戦のように攻めで速度負けすることはなかったようで,後手はこちらの方針を選択するべきだったようです。
 4連勝で藤井竜王が防衛。第34期,35期からの三連覇で三期目の竜王です。

 この世界で悪いことが起こったとしても,それは全体の調和の中では致し方ないことで,あり得るすべての世界のうちでは現にあるこの世界が最善であるというのが,モナド論が基本的な結論とするところです。こういえば,現にあるこの世界は最善の世界であるということになりますから,そのことによってDeusが反撥を受けたり憎まれたりすることはないでしょう。あるいはそういうことがあったとしても,それを軽減はできるでしょう。こうした願望のためにライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizのモナド論は生まれているとみることができます。なのでこの場合のライプニッツの願望は,ライプニッツの個人的な立場というより,宮廷で仕事をしていたライプニッツの立場から生じた願望であるとみることができるでしょう。
 ヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelやライプニッツより,もっと露骨に願望を表出しているのがヤコービFriedrich Heinrich Jaobiであるということができます。何しろライプニッツにせよヘーゲルにせよ,たとえ自身の思想が自身の願望の表出であったと仮定しても,スピノザの哲学に論理的な欠陥があるとみなしていたのは事実なので,純粋に論理的に考えただけでも,スピノザの哲学を否定するnegareことはできたのですが,ヤコービはスピノザの哲学が論理的には完璧であるということについてはそれを肯定していたからです。論理的に完璧であるものを否定するために,論理を超越したものに訴えるというヤコービの方法は,現にあるこの世界が,スピノザが完璧な論理で示した世界であってほしくないという願望の表出であったとしか僕には考えられないのです。
 ヤコービが神学を支持する観点に立っていたのは間違いありません。汎神論論争ではそのこと自体が議論のひとつを構成していて,スピノザの哲学が反キリスト教的であるというヤコービに対して,ゲーテJohann Wolfgang von Goetheはスピノザこそキリスト者なのだという主旨の反論をしています。キリスト教的である,あるいは神学に合致するということをヤコービがどう考えていて,スピノザの思想のどこが具体的にそれに反しているとヤコービが考えていたのかはいまひとつ不分明なのですが,ヤコービが世界が神学的なものであってほしいと思っていたのは間違いないと思います。
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朝日新聞社杯競輪祭&自由意志と善意

2023-11-27 18:54:22 | 競輪
 小倉競輪場で行われた昨晩の第65回競輪祭の決勝。並びは深谷‐松井‐簗田の南関東,脇本‐南の近畿,太田‐松浦の中国で真杉と北津留は単騎。
 松浦と南がスタートを取りにいき,誘導の後ろには松浦が入りました。太田の前受けとなり,3番手に深谷,6番手に真杉,7番手に脇本,最後尾に北津留という周回から,北津留が真杉の後ろに入ろうとしたのですが,脇本が譲らなかったのでまた最後尾に下がりました。残り3周のバックから脇本が徐に上昇。北津留も続きました。脇本は深谷に蓋をしたので深谷が引き,正面に入ると内から北津留が上昇したので,3番手に北津留,4番手に脇本,6番手に深谷,最後尾に真杉という隊列に変化。引いた深谷がそのまま発進。真杉まで続いた4人で太田を叩いて先行となり,打鐘では一列棒状に。ホームに戻って8番手の脇本が発進すると,松浦が牽制。これで脇本は不発となり,太田が発進すると4番手の真杉も発進。さらに松井も番手捲りを敢行しての捲り合戦。先頭で直線に入った松井を外から差した真杉が優勝。松井が半車輪差で2着。コーナーはインを回って直線は真杉の外に出てきた松浦が4分の3車身差で3着。
 優勝した栃木の真杉匠選手は前回出走の豊橋のFⅠから連続優勝。グレードレースは8月のオールスター競輪以来でGⅠ2勝目。このレースは並びから深谷の先行が有力。松井が臆せずに番手から発進できるのかということにやや疑問を感じてはいたのですが,シビアに走りきりました。ですから南関東の作戦は成功したといえ,松井が勝たなければいけなかったレースだったと思います。真杉はこのラインを追走する選択をしたこともよかったですし,現状の脚力では上回っているということでもあるのでしょう。まだ強くなる選手だと思います。

 ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizには,神Deusが単に神の自由意志voluntas liberaによって働くagereだけでなく,その自由意志が善bonumに基づいていてほしいという願望があったのではないでしょうか。他面からいえば,神の自由意志によって創造された現にあるこの世界が,最善の世界であってほしいという願望があったのではないでしょうか。そうした願望の表出が,神が善意によって働くということを哲学的論理として示したモナド論にはあるとみることができるのではないかと僕には思えるのです。
 なお,こうした願望は,ライプニッツの個人的なものとみることができますが,キリスト教との関係からライプニッツは願望をもつようになったということも可能ではあります。というのは,現にある世界では,その世界のうちに生きている人びとにとって,よいことも起これば悪いことも起こるようになっているからです。これは現にそうであるというほかなくて,このことを理解してもらうためにそれ以上の説明は不要でしょう。
 すべてが神の自由意志によって生じるのであると仮定すれば,よいことも神の自由意志によって生じるのだし悪いことも神の自由意志によって生じるといわなければなりません。よってよいことが生じたなら人は神に感謝し,また神を愛するでしょうが,逆に悪いことが起こったなら,人は神に反撥するでしょうし神を憎むようになるでしょう。これは第三部定理四〇系二第三部定理四一で示されているのに類することですが,とくにそうした論理に訴えなくても理解できるところだと思います。したがって,すべてが神の自由意志によって生じるとするなら,人びとは神に反撥しまた神を憎むようになるかもしれないのです。しかしこのことは,キリスト教を布教していくという際には明らかにマイナスに働くでしょう。ここで自由意志によって働くとされている神は,キリスト教が信仰fidesの対象としている神と仮定されているからです。
                                  
 なので神が自由意志によって働くということ自体を,キリスト教と関連させた上でライプニッツが否定するnegareとしても,それを合理的に説明することはできます。いい換えればその自由意志が善意であってほしいと希望することを説明できるのです。
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ロンジン賞ジャパンカップ&善意

2023-11-26 20:02:07 | 中央競馬
 フランスから1頭,兵庫から2頭が遠征してきた第43回ジャパンカップ。田中学騎手が腰痛のためチェスナットコートは田辺騎手に変更。
 パンサラッサが逃げてタイトルホルダーが2番手。2馬身差でイクイノックス。3馬身差でリバティアイランドとディープボンドとスターズオンアース。7番手にドウデュースとスタッドリーとショウナンバシット。10番手にクリノメガミエース。11番手にイレジンとヴェラアズールとダノンベルーガとフォワードアゲン。15番手にチェスナットコートとトラストケンシン。2馬身差でインプレス。2馬身差の最後尾にウインエアフォルクで発馬後の正面を通過。向正面の入口ではパンサラッサのリードが10馬身くらいになって2番手のタイトルホルダーと3番手のイクイノックスの差が5馬身くらい。さらに単独の4番手となったリバティアイランドとの差も5馬身くらいに。3コーナーにかけてパンサラッサはさらにリードを広げていって20馬身くらいに。タイトルホルダーとイクイノックス,イクイノックスとリバティアイランドの差は縮まっていきました。最初の1000mは57秒6の超ハイペース。
 直線の入口でイクイノックスがタイトルホルダーの外へ。すぐに2番手に上がるともう一杯となっていたパンサラッサも楽に差して先頭に。そこからも差を広げていって圧勝。イクイノックスの後ろから外に出されて追ってきたリバティアイランドが4馬身差の2着。リバティアイランドの外の進路になったスターズオンアースが1馬身差で3着。さらに外から追い込んだドウデュースが4分の3馬身差の4着。
 優勝したイクイノックスはこれが天皇賞(秋)以来のレース。6連勝で大レース6勝目。メンバーから考えて,リバティアイランド以外の馬に負けるというケースはほとんど考えられませんでした。その最大の強敵とみられたリバティアイランドに対してこれだけの差をつけて勝ったというのは驚異的で,ディープインパクト以来の最強馬という印象です。父は第36回を勝ったキタサンブラックで父仔制覇。4代母がブランシュレイン。ひとつ上の半兄が2021年のラジオNIKKEI賞を勝ったヴァイスメテオール。Equinoxは春分と秋分。
                                        
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手はエリザベス女王杯以来の大レース制覇。第29回,38回,40回に続いて3年ぶりのジャパンカップ4勝目。管理している木村哲也調教師は天皇賞(秋)以来の大レース8勝目。ジャパンカップは初勝利。

 Deusが本性naturaの必然性necessitasによって働くagereという第一部定理一七が,キリスト教の神学によって否定されるのは,キリスト教でいわれる神は,自由意志voluntas liberaによって働くとされているからです。スピノザが第一部定理一七備考で示しているように,もし神が自由意志によって働くというなら,神はなし得る事柄のすべてをなすことはできないということになるので,神の全能性あるいは神の完全性perfectioを欠くことになってしまうのですが,神学ではむしろ,神は自由意志によって働くという方が,神の全能性も完全性も確保されると考えられているのです。
 神が自由意志によって働くということは,デカルトRené Descartesも肯定していたことでした。デカルトがそのとき,自身の哲学がキリスト教に見合うような形にするということを意識していたかどうかは分かりません。ただ,デカルトはそのように主張したのですから、やはり自由意志によって働くということが神の完全性や神の全能を欠かすことにはならないと考えていたのは間違いありません。仮にデカルトが,神についてキリスト教と見合うような見解にしようと意識していたのだとしても,哲学的観点からデカルトがそのようにいったのは疑い得ないですから,哲学的にも,神が自由意志によって働くと主張することが可能であるのは間違いないのです。
 だからライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizも,単に神学に見合うような哲学を構築するのであれば,神は自由意志によって働くといえばよかったのです。ところがライプニッツはそのようにはいわず,神の働きactioはすべて神の善意によるとしました。これは第一部定理三三備考二でスピノザがいっているように,神が自由意志によって働くというよりも,さらに真理veritasから遠くなっています。というのは,神が何事をも善意によってなすというのは,神が善bonumという目的finisのために働くということになり,善という目的に神が従属するということになってしまうからです。
 ではなぜライプニッツがそのように主張したのかといえば,そこにライプニッツの願望,宮廷に仕えていたライプニッツとしてではなく,そのことを離れた個人としてのライプニッツの願望があったからだとみることができるのではないかと僕は思うのです。
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リコー杯女流王座戦&願望

2023-11-25 18:58:59 | 将棋
 10日に仙台で指された第13期女流王座戦五番勝負第二局。
 加藤桃子女流四段の先手で後手の里見香奈女流王座の中飛車。急戦の将棋になりました。
                                        
 第1図で先手は☗3五歩と角道を止めました。ただこれは緩手で,☗4二角成☖同金☗同龍と殺到するのが有力だったと思います。☗4二角成に☖5六香は怖いところですが,☗2九歩で龍の利きをずらすことができるので,たぶん受け切れたのではないかと思います。
 後手は☖8四歩と角に働きかけにいきましたが,これは危険で,やはり☗4二角成の筋を受けて☖5一銀か☖5一金としておくところだったでしょう。
 ここで☗9五香と走ったので☖5一銀と引かれ,☗4二角成とできなくなったので後手が有利になりました。ここも☗4二角成が有力で,☖同金☗同龍のときに☖4五桂ないしは☖2五桂があるものの,☗4三龍と逃げておいても十分に先手が指せたと思います。
                                        
 里見女流王座が連勝。第三局は来月5日に指される予定です。

 Xの十全な観念idea adaequataを有している人間と有していない人間を分けることは意味があります。ただ,現実的に存在する人間が本来的な意味において主体subjectumといわれるのは,十全な観念を有する場合だけです。ですからある観念を十全に認識しているか十全に認識していないかという分別は,主体という概念notioに対しては意味をもつことができるわけではありません。
 このようなわけで,本来的な意味で存在しない主体が,現実的にあるという哲学を組み立てたヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelは,ヘーゲル自身の願望によってそうした哲学を構築したように僕からはみえてしまうのです。ただ,この種の願望を表出させて哲学ないしは思想を構築したという点だけに着目すれば,それはライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの場合にもヤコービFriedrich Heinrich Jaobiの場合にも,程度の差はあったにしても一致するのかもしれないとも思います。
 ライプニッツの場合,スピノザの哲学において最も受け入れられない部分,つまりヘーゲルにおける主体という概念が欠如しているという点に該当するのは,神Deusが本性naturaの必然性necessitasによって働くagereという点にあっただろうと僕は思います。これは第一部定理一七でいわれていることですから,ライプニッツにとってスピノザの哲学の最大のターゲットはここにあったと思われます。
 なぜそれがライプニッツにとって最大の難点となってしまったのかということはわりと簡単に理解することができます。これはもしも神が本性の必然性によって働くものとされるなら,それはキリスト教の観点からは絶対に受け入れられないような事柄であったからです。ライプニッツは自身の立場からスピノザの哲学に反論したといえるのであって,これもそのひとつと考えることはできるでしょう。いい換えればこの場合のライプニッツの願望というのは,キリスト教的な意味での神の立場を守りたいという願望であると同時に,自身の生活基盤を守りたいという願望であるとみなすこともできます。
 しかし,僕にはそれだけであったとは思えない一面があるのです。むしろそうした生活基盤を抜きにしても,神が本性の必然性によって働くものであってほしくないという願望が,ライプニッツ個人のうちにあったようにも思えます。
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大山名人杯倉敷藤花戦&主体の同一性

2023-11-24 19:42:44 | 将棋
 7日に倉敷由加温泉で指された第31期倉敷藤花戦三番勝負第一局。対戦成績は里見香奈倉敷藤花が35勝,西山朋佳女流四冠が31勝。これはNHK杯の女流予選が公式戦であったときの記録を含んでいます。
 振駒で西山女流四冠の先手となって三間飛車。後手の里見香奈倉敷藤花はなかなか態度を明らかにしませんでしたが,先手の出方をみて居飛車を選択しました。
                                        
 ここから後手は☖8六歩で攻め合いを選択。☗同歩に☖6五歩といきました。
 先手も☗3五歩と攻めていきましたが後手は無視して☖7五歩。☗同歩に☖6六歩と取り込み☗3四歩と取り込まれたところで☖4四歩☗5六銀と引かせました。
                                        
 この仕掛けで有利に立った後手がそのまま一方的に押し切る将棋。これは振飛車の☗5六銀型には居飛車の急戦が有効とされていて,それがものの見事に決まったため。結果的にですが先手は☗5六銀と上がるタイミングが早すぎたということだと思います。
 里見倉敷藤花が先勝。第二局は18日に指されました。

 ひとつの事柄の真理veritasはひとつなので,どの知性intellectusがその真理を概念しようと,各々の知性を主体subjectumとして分別することは意味をなさないという点については,ひとつだけ注意しておきます。
 確かにひとつの事柄に真理はひとつのなので,その事柄の真理を表現するexprimere観念idea,いい換えればその事柄の十全な観念idea adaequataの形相formaというのは同一ですから,現実的に存在するどの人間の知性のうちにあっても同一です。つまりその十全な観念がどの知性のうちに存在するのかということを考えることには意味はありません。ただこのことは,現実的に存在するすべての人間がその十全な観念を有するということを前提としているとはいえます。実際には,現実的に存在するAという人間のうちにはXの十全な観念はあるけれども,現実的に存在するBという人間の精神mens humanaのうちにはXの十全な観念はないということはあり得るのであって,というか現にあるのであって,そのときに,AはXを十全に認識しているけれどもBはXを十全には認識していないということは,まったく意味をもたないわけではありません。
 ただこのことは,主体という概念notioの形成の上ではほとんど意味をもつことができないのです。なぜなら,この場合はAはXの十全な観念に対しては確かに主体であるということができるのですが,Bはそのようにはいえません。したがってもしも主体という概念をこの例に組み込もうとするなら,Aは主体であるけれどもBは主体ではないということになるでしょう。しかしこれはあくまでもこの一例に留まるのであって,一般的にAは主体であってBは主体ではないといえるわけではありません。当然ながらこうしたことが現にあるとすれば,Yの十全な観念はAの知性のうちにはないけれどもBの知性のうちにはあるということも現にあるのであって,その場合はBは主体ではあるけれどもAは主体ではないといわなければならなくなるからです。
 よって現実的に存在する人間は,事物を十全に認識するcognoscere限りで主体であるといわなければならなくなります。ところが十全な観念の形相は同一なのですから,現実的に存在する人間は主体である限りでは同一であるということになるのです。
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農林水産大臣賞典浦和記念&ヘーゲルの願望

2023-11-23 19:17:42 | 地方競馬
 第44回浦和記念。ライアン・ムーア騎手が19日の2レースで落馬し背中を負傷したためディクテオンは本田正重騎手に変更。笹川騎手は主催者から配車された自動車を無断で下りたために処分を受け,セイカメテオポリスは今野騎手に変更。
 逃げたのはミトノオー。ジョエル,ヒーローコール,エルデュクラージュの3頭が2番手。メイショウフンジンとテイエムサウスダンが5番手。7番手にスーパーフェザー。4馬身差でセイカメテオポリス。9番手にディクテオン。10番手にシンコーマーチャンでこの3頭は一団。1馬身半差でテンカハルとコウエイスーシェフが並んで最後尾という隊列で発馬直後の向正面を通過。テイエムサウスダンが外から2番手に上がってきて,その後ろがメイショウフンジンとヒーローコール。その後ろがジョエルとエルデュクラージュという隊列になって1周目の正面を通過しました。前半の1000mは63秒0のミドルペース。
 2周目の向正面に入るとディクテオンが外から進出。そのまま上がっていったので3コーナーからはミトノオー,ヒーローコール,エルデュクラージュ,ディクテオンが一団。ここからコーナーでエルデュクラージュは後退。直線の手前でヒーローコールが脱落。直線の入口ではディクテオンがミトノオーの前に出ました。そこからまたミトノオーも粘ったのですが,最後はディクテオンが突き離して優勝。逃げ粘ったミトノオーが2馬身半差で2着。直線でディクテオンの外に出して盛り返そうとしたヒーローコールの外から,ディクテオンを追って後方から追い込んだテンカハルが差して2馬身差の3着。
 優勝したディクテオンは重賞初勝利。オープンは勝っていましたので,このメンバーであれば通用はするだろうとみていました。それだけの能力があったということは間違いないのですが,今日はいかにも嵌ったという感の残る勝ち方でしたから,同じようなメンバー構成でも安定して結果を残せるかどうかは微妙のような気もします。父はキングカメハメハ。母の父はキングヘイロー。母は2013年にTCK女王盃,マリーンカップ,スパーキングレディーカップ,レディスプレリュード,JBCレディスクラシック,2014年にTCK女王盃を勝ったメーデイア。Diktaeanはゼウスの生地。
 騎乗した船橋の本田正重騎手は2017年のジャパンダートダービー以来の重賞2勝目。管理している吉岡辰弥調教師は浦和記念初勝利。

 スピノザの哲学では個々の人間の現実的本性actualis essentiaは,各々の人間が外部の物体corpusから刺激されるaffici限りにおいて,つまり働きを受けるpati限りにおいて相違するのであって,個々の人間が十全な原因causa adaequataとなって働くagere限りにおいては相違しません。そのゆえに,そこに主体subjectumという概念notioを持ち込もうとするのであれば,働きを受ける限りにおいての主体ということになります。しかし本来的にはこれは客体なのであって主体ではありません。だからヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelはスピノザの哲学には主体という概念が欠如していると批判するのです。実際にヘーゲルがいっていることは正しいので,ヘーゲルはスピノザの哲学を正しく理解していると僕は考えます。このためにヘーゲルはこのオペレーションシステムを変更して,本来的な意味での主体という概念を組み入れた哲学を組み立てていきます。
                                   
 このことが僕のような立場からみると,ヘーゲルの願望の表出のようにみえるのです。つまりヘーゲルは,個々の人間が本来的な意味で主体として働くという願望を有していて,あるいは自分自身が主体として働きたいというように思っていて,その願望を叶えるために独自の哲学を組み立てているようにみえるのです。しかしそれはあくまでも願望の世界なのであって,そういう世界が現実的に存在するというわけではありません。単純にいえばひとつの事柄に対して真理veritasというのはひとつなのであって,その真理を知性intellectusが概念するconcipere限り,概念されたその観念の形相formaは,どのような知性のうちにおいても同じです。しかるに知性が働くとは知性が事物を真に概念するということを意味するのですから,結局のところ現実的に存在するどの人間の知性がそれを概念するとしても同じ観念を認識するcognoscereことになります。よってこの観念は現実的に存在するどの人間の知性が認識しているのかということは考慮する必要がないのです。つまりこの意味では主体という概念は存在しません。存在しないというか,もしも存在すると考えても考慮する必要がない概念なのです。そしてこれが現実的な世界を構成しているのです。なので個々の人間に,有意味に主体という概念を組み入れるのは,そうありたい願望の表出でしかありません。
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農林水産大臣賞典兵庫ジュニアグランプリ&スピノザ哲学の主体

2023-11-22 18:53:30 | 地方競馬
 第25回兵庫ジュニアグランプリ
 一旦はラブミーテキーラが前に出たのですが外から追い上げてきたトラジロウが前に出て逃げることに。控えたラブミーテキーラとオーキッドロマンスが並んで2番手。4番手にイーグルノワール。5番手にタリスマンとサトノフェニックスとカプセル。8番手にストリーム。9番手にゼルトザームとミトノウォリアー。3馬身差でヴァリオ。デリシャスパーティは大きく離されて発馬後の正面を通過。向正面に入るとオーキッドロマンスがトラジロウに並び掛けていき,3馬身差でイーグルノワール。その後ろにラブミーテキーラとカプセルとサトノフェニックスという順に。ミドルペースでした。
 3コーナーに入るとイーグルノワールとサトノフェニックスが並んで前の2頭を追い上げてきました。2番手のオーキッドロマンスは苦しくなり,その後ろは内からストリームで外からゼルトザーム。直線に入るとトラジロウも一杯。ここからはフィニッシュまでイーグルノワールとサトノフェニックスの競り合い。制したのはイーグルノワールでサトノフェニックスがハナ差で2着。外から追い上げたゼルトザームが5馬身差の3着で内を回ったストリームがクビ差で4着。
 優勝したイーグルノワールは重賞初挑戦での優勝。このレースはJRAで1勝クラスを勝っている馬が有力というのが例年の傾向で,今年もその2頭が接戦で,3着以下には差をつけての結果となりました。それぞれが勝ち上がったレースが1勝クラスの平均レベルを下回っているということは考えにくいので,将来はともかく,全日本2歳優駿に進むのであれば,勝ったイーグルノワールはもちろん2着のサトノフェニックスも有力馬になるでしょう。母の父がシンボリクリスエスで祖母の父がフジキセキ。祖母は2009年のセントウルステークスと2010年のシルクロードステークスを勝ったアルティマトゥーレ。3代母が2001年の阪神牝馬ステークスを勝ったエアトゥーレ。4代母は1994年に京王杯スプリングカップを勝ったスキーパラダイス
 騎乗した松山弘平騎手と管理している音無秀孝調教師は兵庫ジュニアグランプリ初勝利。

 このヤコービFriedrich Heinrich JaobiとヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelの相違は,僕のようにスピノザ主義を支持する立場からは,次のようにみえます。
                                   
 スピノザの哲学の中に主体subjectumという概念notioを見出すことができないのかといえば,そんなことはないと僕は考えています。たとえば第三部定理五一でいわれているように,異なった人間は同一の対象から異なった仕方で刺激されるafficiことがあります。これは異なった人間,たとえば現実的に存在するAと現実的に存在するBの本性essentiaが異なるがゆえに生じます。つまり,ここでいわれている対象,たとえばXが,Aを刺激するafficereときにもBを刺激するときにも同一の現実的本性actualis essentiaを有していると仮定しても,Xの現実的本性がAの現実的本性を刺激するときにAのうちに生じることと,Xの現実的本性がBの現実的本性を刺激するときにBのうちに生じることは,Aの現実的本性とBの現実的本性が異なる分だけ異なり得るのです。このことは第二部自然学②公理一から明らかであるといわなければなりません。よってこの相違を,Aという主体とBという主体の相違に還元することは可能です。いい換えればAの現実的本性がAという主体を構成し,Bの現実的本性がBという主体を構成するということで,スピノザの哲学の中に主体という概念を見出すことは可能です。
 ところが,こうしたことは,主体という本来の意味からかけ離れているのです。なぜならこの相違は,ここで主体といわれているものが,外部の物体corpusに刺激される限りにおいての相違を前提としているからです。たとえばXがAを刺激するといわれるとき,主体といわれるのはXなのであって,Aは主体に対していえば客体に該当します。つまりスピノザの哲学に主体という概念を持ち込むなら,それは実際には客体としての相違によってそれを主体といっているのにすぎません。第四部定理三五でいわれているように,もしもAもBも理性ratioに従っているのなら,Aの現実的本性とBの現実的本性は一致するのですから,その場合にはAが主体であろうとBが主体であろうと同じことです。いい換えれば僕たちが本来的な意味で主体といわれるときには,実際には主体の排除がスピノザの哲学では敢行されているのです。
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加古川青流戦&ヤコービとヘーゲル

2023-11-21 19:14:18 | 将棋
 5日に鶴林寺で指された第13回加古川青流戦決勝三番勝負第二局。
 藤本渚四段の先手で後手の吉池隆真奨励会三段が雁木の構え。先手も雁木にすると後手が右玉にしました。それをみた先手が穴熊に組み替える相居飛車の持久戦に。この将棋は後手にあまりチャンスがない展開だったので,辛抱してチャンスを待つ指し方が求められました。
                                        
 ここで後手は☖7五歩☗同角と突き捨ててから☖9七歩☗同香☖同桂成☗同金と攻めていきました。そこで☖7四香と催促したのですが☗5三角成と切られて戦況が悪化してしまいました。
                                        
 第1図で攻めていくのは仕方なく,7筋の歩を突き捨てるのは攻めとしては後に7筋に歩を打てるようになるメリットがあります。ですがこの将棋では後手玉を弱体化させるデメリットの方が大きく,それが悪化を招くことになりました。なので単に☖9七歩から攻めて,どこかでチャンスを窺うように指さなければなりませんでした。
 連勝で藤本四段が優勝。四段昇段から1年で棋戦初優勝です。

 ヤコービFriedrich Heinrich JaobiとヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelを比較すると,神学的観点に立っているか否かということ以上に,もっと大きな相違があるように僕には思われます。
 『はじめてのスピノザ』では,哲学がコンピューターに喩えられていました。僕たちが使用しているコンピューターのオペレーションシステムがデカルトRené Descartesのオペレーションシステムであるとすれば,スピノザの哲学というのはデカルトのオペレーションシステムをアップデートしたようなものではなく,デカルトのオペレーションシステムとは異なったオペレーションシステムであるという比喩です。ここで再びこのオペレーションシステムの比喩を利用すれば,スピノザのオペレーションシステムに対する立場というのが,ヤコービとヘーゲルの間で違いがあるように僕には思えるのです。
 ヤコービはスピノザの論理は完璧なものであって,それを乗り越えるためには超論理に訴えるしかないといっています。これはつまり,スピノザのオペレーションシステムは完璧なものであって,この完璧なオペレーションシステムを受け入れた上で,超論理によってこれをアップデートするほかないといっているのです。つまりヤコービは,スピノザのオペレーションシステムが,現実の世界を説明するのに適したシステムであるということは認めていると解せます。
 これに対してヘーゲルは,スピノザの哲学には主体subjectumという概念notioが欠如しているとしています。したがって,スピノザのオペレーションシステムは完璧なものではなくて,そこに主体という概念が新たに組み入れられなければならないといっているのです。ではスピノザのオペレーションシステムをアップデートすることによって主体という概念を組み入れることができるのかといえば,それは不可能だと僕は思います。なぜなら,主体という概念を欠如させたことがこのオペレーションシステムのひとつの特徴を有しているからです。ですからこのオペレーションシステムに主体の概念を組み入れるためには,それとは別のオペレーションシステム,すなわちヘーゲルのオペレーションシステムを新たに構築する必要があるのです。ヘーゲルはそのことを目指したというべきでしょう。
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施設整備等協賛競輪in大垣&一致点と相違点

2023-11-20 19:14:24 | 競輪
 大垣競輪場で行われた昨日の施設整備等協賛競輪の決勝。並びは青野‐山賀‐白戸の南関東,志田‐松村の中部近畿,片岡に阿部大樹,阿部将大‐成松の九州。
 阿部将大がスタートを取って前受け。3番手に志田,5番手に青野,8番手に片岡で周回。残り3周のバックの出口から片岡が上昇。残り2周のホームでは阿部大樹の後ろに青野が続きました。誘導が退避するとまず片岡が阿部将大を叩いて先頭に。コーナーから青野が上昇していきバックで片岡を叩いて打鐘。ここから志田が発進。ホームで青野を叩いて先行となったのですが,松村が連携を外したので,番手に青野が嵌りました。バックから青野が番手から発進。そこに後方から阿部将大が捲り上げてきました。直線で青野の番手から踏み込んだ山賀が優勝。青野が4分の3車身差の2着で南関東のワンツー。阿部将大の番手から青野と山賀の間を突いた成松が半車輪差の3着。
 優勝した千葉の山賀雅仁選手は2018年9月の青森記念以来のグレードレース制覇でGⅢ4勝目。このレースは南関東の3人が,神奈川,千葉,神奈川の並びになったので,青野の先行がかなり有力。出走メンバーのうちで逃げて最も結果を残せていたのは青野でしたので,番手の山賀が有利ではないかとみていました。先行したのは志田になりましたが,単騎になってしまったので,大した問題とはなりませんでした。山賀は現状の力量はともかく実績ではこのメンバーでは断然のものがありますから,そういう経験もここでは生きたのではないかと思います。

 ライプニッツはスピノザと文通し,また後に面会したくらいですから,同時代人といっていいでしょう。ですから,ヤコービFriedrich Heinrich Jaobiがスピノザを知っていたということは,ライプニッツのことも知っていたということになります。ただし,ライプニッツによるスピノザに対する批判をヤコービが知っていたかどうかは分かりません。ライプニッツはスピノザの哲学には論理的な欠陥があると主張し,ヤコービはスピノザの哲学は論理的には完璧であると解していたのですから,スピノザの哲学に対する解釈はふたりの間で異なっています。ヤコービはライプニッツのスピノザ批判を知っていて,しかしその批判は的外れであると考えたのかもしれません。あるいはその批判は知らないで,そうした欠陥を発見することができなかったのかもしれませんし,そうした欠陥は存在しないと考えたのかもしれません。ふたりの間で共通しているのは,ふたりの間には神学的観点があったということ,そしてスピノザの哲学を評価していたということだけなのであって,スピノザの哲学に対する解釈は一致していたわけではないのです。
                                   
 ヤコービとヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelも同じ時代を生きていたので,同時代人ということは可能です。ただふたりの間には30歳弱の年齢差がありましたので,年長者であるヤコービのスピノザの哲学の解釈に,ヘーゲルの考え方が影響を与えたということは考えにくそうです。一方でヘーゲルの方は,ヤコービのスピノザ解釈のことを知っていて,自身でスピノザの哲学を研究するときに,ヤコービの研究を参考にしたという可能性がないわけではありません。ヤコービもヘーゲルも同じドイツ人ですし,ヤコービのスピノザ研究は優れたものでしたから,ヘーゲルが参考にするに十分に値するものであったとは思います。
 ライプニッツやヤコービとは異なり,ヘーゲルは神学的観点に立っていたわけではありません。純粋に自身の哲学的立場からスピノザの反対者,あるいはスピノザの超越者になろうとしたとみるのが妥当です。ですからこの点では,ヘーゲルもまたスピノザの哲学に対する評価は高かったとはいえ,ヤコービやライプニッツと一致していたわけではありません。
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マイルチャンピオンシップ&ヘーゲルの見解

2023-11-19 19:29:43 | 中央競馬
 第40回マイルチャンピオンシップ。ライアン・ムーア騎手が2レースで落馬し背中を負傷したためナミュールは藤岡康太騎手に変更。
 外の方から押していったバスラットレオンの逃げ。一旦は先頭に立っていたセルバーグが控えて2番手。2馬身差でマテンロウオリオンとソーヴァリアントとセリフォス。2馬身差でエエヤンとダノンスコーピオンとエルトンバローズ。2馬身差でビーアストニッシドとレッドモンレーヴ。1馬身差でソウルラッシュでさらに1馬身差でジャスティンカフェ。2馬身差でイルーシヴパンサー。1馬身差でダノンザキッドとナミュール。2馬身差の最後尾にシュネルマイスター。前半の800mは46秒5のミドルペース。
 直線に入るところでバスラットレオンはかなり外の方に持ち出しました。マテンロウオリオン,セルバーグ,ソーヴァリアントといったところはバスラットレオンの内に。バスラットレオンの外を回ったのがセリフォスで,この馬がまず先頭に。さらにバスラットレオンの内からソウルラッシュが伸びてくると,セリフォスのさらに外からはナミュール。さらにソウルラッシュとセリフォスの間から脚を伸ばしてきたのがジャスティンカフェで優勝争いはこの3頭。大外のナミュールがまとめて差しきって優勝。ソウルラッシュがクビ差の2着。ジャスティンカフェが半馬身差で3着。
 優勝したナミュールは前走の富士ステークスからの連勝。重賞3勝目で大レース初制覇。昨年はチューリップ賞を勝ってクラシック路線へ。今年に入ってマイル戦線を主戦場に選びました。牡馬を相手に十分に戦える力はあるとみていたのですが,春は勝ち星をあげられず,秋初戦の富士ステークスを制しました。早くから活躍していた馬ですが,基本的には晩成型で,京都コースも向いていたといえそうです。母の父はダイワメジャーシュリリートミニシキの分枝で3代母がキョウエイマーチ。ひとつ下の半妹が昨年のアルテミスステークスを勝っている現役のラヴェル。Namurはベルギーの都市。
 騎乗した藤岡康太騎手は2009年のNHKマイルカップ以来となる大レース2勝目。管理している高野友和調教師は昨年の秋華賞以来の大レース5勝目。マイルチャンピオンシップは初勝利。

 ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizがスピノザを乗り越えようとした論理は,後にヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelによって否定されています。ヘーゲルによれば,ライプニッツのやり方でスピノザを乗り越えようとすると,無神論に陥ってしまうのです。スピノザが第一部定義六で示している神Deumは,キリスト教で考えられていた神とは異なります。それでもスピノザは第一部定理一一でそうした神が存在することは証明しています。ですから神学的にはともかく,歴史的にそう非難されてきたように,無神論者であるわけではありません。ところがライプニッツが示した論理は,事実上は無神論に陥ります。神は存在しないというか,そうでなければ何らのpotentiaも持たない神が存在するというかのどちらかの結論に至るのであって,これは事実上の無神論に陥るということをヘーゲルは喝破したのです。このこともかつて考察してありますので,ここで詳しく検討はしませんが,僕もまたこのヘーゲルの見解opinioは正しいものであると考えています。
                                   
 ヘーゲルもスピノザの反対者でした。ただ,ライプニッツがそうであったように,またヤコービFriedrich Heinrich Jaobiがそうであったように,スピノザの哲学のことを評価はしています。ヘーゲルは自身の以前にはふたつの哲学しかなかったのであって,そのうちのひとつはスピノザの哲学で,もうひとつはスピノザ以外の哲学であるといういい方をしています。すべての哲学からスピノザの哲学だけを抽出してそれ以外の哲学と対比しているのですから,これがスピノザの哲学に対する高い評価となっているのは明らかだといえるでしょう。他面からいえば,ヘーゲルが意識して,それを乗り越えようとした哲学というのはスピノザの哲学だった,あるいはスピノザの哲学だけだったといって過言ではありません。
 ヘーゲルはスピノザの哲学の欠陥を,主体subjectumという概念notioの欠如に見出しています。僕はむしろ主体という概念が欠如しているからこそスピノザの哲学は評価されるべき哲学であると考えていますが,このこともまたこれまでに何度かいってきたことですから,ここで繰り返すことはしません。ここではスピノザの哲学が,その反対者たちによっても一定以上の評価を得ていたという点に注目します。
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加古川青流戦&超論理

2023-11-18 18:49:22 | 将棋
 4日に鶴林寺で指された第13回加古川青流戦決勝三番勝負第一局。藤本渚四段と吉池隆真奨励会三段は公式戦初対局。
 加古川市長による振駒で吉池三段が先手となり,後手の藤本四段が飛車先を交換させての雁木。先手がさほど玉を囲わないうちに仕掛けて乱戦になりました。
                                        
 この王手に先手は☗6六歩と受けました。後手が☖6三銀と成香を取ったところで☗4一飛と王手角取りを掛けて☖6二王に☗4四飛成。後手も☖8四銀で角を取り返します。
 手番となった先手は☗5三金と王手して☖7一王に☗6三金と追っていきました。
 今度は後手の手番。☖8五桂☗6八玉☖8六角☗5八玉と追い,☖5一香と打ちました。
                                        
 この香車が詰めろの上に受けにも働いていて,ここで後手が勝勢に。第1図では☗6六角☖同角☗同歩と進める方がよく,それならむしろ先手に分がある戦いでした。
 藤本四段が先勝。第二局は5日に指されました。

 ヤコービFriedrich Heinrich Jaobiはスピノザの哲学を深く研究していて,完全にとはいいませんが,それをかなり正確に理解していました。そしてヤコービが到達した地点は,スピノザの哲学は論理的には完璧であるということでした。ヤコービはスピノザの反対者でしたが,スピノザの哲学は論理的には完璧であるということを肯定していたのです。だからヤコービがスピノザの哲学を超越するために採用した方法が,論理を超えたところ,つまり超論理によってスピノザを否定するnegareということだったのです。ただ,超論理について考察することは無意味といえますので,それが実際にどういう方法であったかということについてはここでは検討しません。
 論理的に完璧であると解したスピノザの哲学を,ヤコービがそれでも否定したのは,おそらくこの哲学がキリスト教を否定するような思想であるということを同時に見出したからだと思います。というか,僕にはそれ以外の理由を見出すことができません。ヤコービが熱心なキリスト教信者であったのかどうかは分かりませんし,単に立場的なものでキリスト教を擁護する必要があったのかということも僕には分かりませんが,僕がいう神学的観点からヤコービがスピノザを否定したのは間違いないと思います。
 ですからこの点では,ヤコービの立場とライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの立場は一致していたと思われます。ライプニッツは熱心なキリスト教信者であったというようには僕には思えませんが,宮廷人としてキリスト教を擁護しなければなりませんでした。下世話ないい方をすれば,自身の生活のために,キリスト教を否定する要素を含んでいるスピノザの哲学についてはそれを否定しなければならなかったのです。ただライプニッツが使用した方法はヤコービとは異なったものです。ライプニッツはヤコービとは異なり,スピノザの哲学が論理的に完璧であるとは解さず,むしろ論理的欠陥を抱えているとみなしました。これは第一部定理五および第一部定義三に関連するものですが,それらについてはすでに探求しましたからここでは繰り返しません。ライプニッツはその論理の欠陥を修正することで,神学的観点を守ることができると考えていたのです。
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新人王戦&ヤコービの動機

2023-11-17 18:57:24 | 将棋
 10月31日に指された第54回新人王戦決勝三番勝負第三局。
 振駒で上野裕寿四段の先手。後手の藤本渚四段の雁木に先手の矢倉という将棋。幕切れが劇的な一局となりました。
                                        
 先手が自玉の詰み筋のひとつを受けて詰めろを掛けた局面。
 ここから☖7九角☗9九玉に☖9七香成という詰めろを掛けたために,☗7四桂以下後手玉は詰みとなり,先手の勝ちになりました。
 第1図からは☖7九角☗9九玉のときに☖8八金から清算し,☖7九銀と先に銀を打って☗8七玉に☖9八角と打つ妙手順があり,先手玉は詰んでいました。第1図で後手は受け続けて詰めろを解除する,または受けているうちに詰めろ逃れの詰めろを掛けるというような勝ち方もあったのですが,たぶんそれ以前の読みの本線が,☗8四金と打たれなければ先手玉が詰みというものであったために,1分将棋の中で正解を発見できなかったということだったのだと思います。☗8四金のような一手を指せるのは,先手の特別の才能といっていいのではないでしょうか。
 2勝1敗で上野四段が優勝。プロ入りから1ヶ月での棋戦初優勝となりました。

 ヤコービFriedrich Heinrich JaobiがレッシングGottfried Ephraim Lessingの評価を貶めなければならないと思う動機があったかどうかは分かりません。ヤコービはレッシングがスピノザ主義者だったということについてはある確信をもっていたのは確実だと僕は思います。そしてヤコービは反スピノザの立場でした。だからレッシングの評価を貶めようとしたとすれば,説明として合理的ではありますから,ヤコービにそういう動機があったという仮説も成り立つでしょう。しかしレッシングは表面上はスピノザの哲学を否定していたのですから,わざわざそのようなことを公言する必要はなかったとも思われます。ここから考えれば分かるように,どのような動機があったにせよ,ヤコービはあえてレッシングについてスピノザ主義者であったという暴露を行ったのであって,それに対して何らかの反論が寄せられるということまで想定していたとするなら,あえてそのことについて論争しようと思っていたとみることもできます。
 したがって,そもそも汎神論論争のような論争をすること自体を目的として,ヤコービはレッシングに対する暴露を行ったとみることもできます。つまりそちらの方がヤコービの真の動機であったとする見方です。これはあまりにうがった見方と思われるかもしれませんが,ヤコービはスピノザの哲学については深く研究していたのですから,自身が深く研究した事柄について,それを発表してみたいとか,それについて論争してみたいというような意欲をもったとしても,僕はおかしくはないと思います。つまり極端にいえば,汎神論論争というのは,ヤコービがそれを望むことによって開始された論争であったという可能性も捨てきれないと思うのです。そしてこうした観点を導入すると,メンデルスゾーンMoses Mendelssohnはヤコービのこうした動機に巻き込まれたということになります。ここにも,汎神論論争に参加するにあたっての消極的なものがメンデルスゾーンにはあったということになるでしょうし,レッシングをヤコービの暴露から守るために,レッシングはスピノザ主義者ではなかったというのではなく,スピノザ主義を擁護する方法を採用したのが,ヤコービの誘導であったということになるでしょう。
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東京スポーツ盃マイルグランプリ&論争の意義

2023-11-16 19:03:13 | 地方競馬
 昨晩の第30回マイルグランプリ
 ヨハンは発馬後の加速が著しく鈍く4馬身の不利。すぐに先頭に立ったスマイルウィの逃げ。アイウォールが2番手で追い3番手にアランバローズ。2馬身差でランリョウオーとデュードヴァン。2馬身差でサヨノグローリー。5馬身差でソリストサンダー。3馬身差でヨハンと,頭数のわりにはレースの序盤から縦長の隊列になりました。前半の800mは51秒2のスローペース。
 3コーナーを回るとアランバローズは一杯になって後退。内からランリョウオーが3番手に上がってさらに内をサヨノグローリー,外をソリストサンダーが追い上げてくる形。直線に入ると逃げたスマイルウィが追っていたアイウォールを引き離していきアイウォールは一杯。ランリョウオーが2番手に上がったもののスマイルウィとの差は詰まらず,楽に逃げ切ったスマイルウィの優勝。ランリョウオーが2馬身差で2着。一旦は位置取りを下げたものの直線で大外から追い込んできたデュードヴァンが1馬身差で3着。
 優勝したスマイルウィスパーキングサマーカップ以来の勝利で南関東重賞5勝目。ソリストサンダーにピーク時の能力が失せているようなので現況は力量上位。その上で楽に逃げることができましたので,当然といっていい優勝になりました。この馬は重賞でも通用する能力があると思われますので,果敢にチャレンジを続けていくことを望みます。父はエスポワールシチー
 騎乗した大井の矢野貴之騎手は報知オールスターカップ以来の南関東重賞35勝目。第28回以来の2年ぶり2度目のマイルグランプリ制覇。管理している船橋の張田京調教師は南関東重賞14勝目。マイルグランプリは初勝利。

 メンデルスゾーンMoses Mendelssohnがスピノザの哲学を好意的に評価していたという可能性はあると思います。しかし僕は,ここにもどこか消極的な側面が含まれていたかもしれないと思っています。簡単にいえば,メンデルスゾーンがスピノザの哲学を擁護する方向へとヤコービFriedrich Heinrich Jaobiが誘導したから,メンデルスゾーンはその方向でヤコービに反論するほかなくなった可能性があると僕は思いますし,実際にそうだったのではないかと僕は推測しているのです。もちろんこれは僕の見方ですから,実際にそうであったと断言することができるわけではありません。
                                        
 後に汎神論論争に加わり,ヤコービに対してスピノザの哲学を擁護する論陣を張ったゲーテJohann Wolfgang von Goetheは,間違いなくスピノザの哲学を好意的に評価していたから,ヤコービに対してスピノザを擁護したのです。ゲーテのスピノザ解釈が完全なものであったとはいいませんが,少なくともメンデルスゾーンに対してそうしたように,ヤコービがゲーテに解釈の誤りを指摘するようなことはなかったのであって,ゲーテはヤコービほどではなかったとしても,スピノザの哲学をそれほど誤らずに解釈していたのは間違いありません。ですから僕にとって汎神論論争というのが論争として意味を有するのは,ゲーテがヤコービに対して反論を始めるようになってからであって,つまりヤコービとメンデルスゾーンの論争は僕にとってはさほど意味がなく,ヤコービとゲーテとの間での論争が僕にとっては大きな意味をもつのです。したがって,ここではその論争の中身に踏み込むことはしません。メンデルスゾーンのヤコービに対する反論は,スピノザの哲学の理解にとってそれほど重要ではないというのが現時点での僕の評価だからです。いい換えれば,メンデルスゾーンのスピノザ受容に関する研究は,こうした僕の評価を覆す可能性を有するわけで,その点でも重要だということになるでしょう。
 なぜヤコービがレッシングGottfried Ephraim Lessingについて,レッシングはスピノザ主義者であるという暴露をしたのかについては,ふたつの見方ができるでしょう。ひとつはヤコービがレッシングの死後に,レッシングに対する評価を貶めようとしたということです。
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