5日に鶴林寺で指された第13回加古川青流戦決勝三番勝負第二局。
藤本渚四段の先手で後手の吉池隆真奨励会三段が雁木の構え。先手も雁木にすると後手が右玉にしました。それをみた先手が穴熊に組み替える相居飛車の持久戦に。この将棋は後手にあまりチャンスがない展開だったので,辛抱してチャンスを待つ指し方が求められました。
ここで後手は☖7五歩☗同角と突き捨ててから☖9七歩☗同香☖同桂成☗同金と攻めていきました。そこで☖7四香と催促したのですが☗5三角成と切られて戦況が悪化してしまいました。
第1図で攻めていくのは仕方なく,7筋の歩を突き捨てるのは攻めとしては後に7筋に歩を打てるようになるメリットがあります。ですがこの将棋では後手玉を弱体化させるデメリットの方が大きく,それが悪化を招くことになりました。なので単に☖9七歩から攻めて,どこかでチャンスを窺うように指さなければなりませんでした。
連勝で藤本四段が優勝。四段昇段から1年で棋戦初優勝です。
ヤコービFriedrich Heinrich JaobiとヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelを比較すると,神学的観点に立っているか否かということ以上に,もっと大きな相違があるように僕には思われます。
『はじめてのスピノザ』では,哲学がコンピューターに喩えられていました。僕たちが使用しているコンピューターのオペレーションシステムがデカルトRené Descartesのオペレーションシステムであるとすれば,スピノザの哲学というのはデカルトのオペレーションシステムをアップデートしたようなものではなく,デカルトのオペレーションシステムとは異なったオペレーションシステムであるという比喩です。ここで再びこのオペレーションシステムの比喩を利用すれば,スピノザのオペレーションシステムに対する立場というのが,ヤコービとヘーゲルの間で違いがあるように僕には思えるのです。
ヤコービはスピノザの論理は完璧なものであって,それを乗り越えるためには超論理に訴えるしかないといっています。これはつまり,スピノザのオペレーションシステムは完璧なものであって,この完璧なオペレーションシステムを受け入れた上で,超論理によってこれをアップデートするほかないといっているのです。つまりヤコービは,スピノザのオペレーションシステムが,現実の世界を説明するのに適したシステムであるということは認めていると解せます。
これに対してヘーゲルは,スピノザの哲学には主体subjectumという概念notioが欠如しているとしています。したがって,スピノザのオペレーションシステムは完璧なものではなくて,そこに主体という概念が新たに組み入れられなければならないといっているのです。ではスピノザのオペレーションシステムをアップデートすることによって主体という概念を組み入れることができるのかといえば,それは不可能だと僕は思います。なぜなら,主体という概念を欠如させたことがこのオペレーションシステムのひとつの特徴を有しているからです。ですからこのオペレーションシステムに主体の概念を組み入れるためには,それとは別のオペレーションシステム,すなわちヘーゲルのオペレーションシステムを新たに構築する必要があるのです。ヘーゲルはそのことを目指したというべきでしょう。
藤本渚四段の先手で後手の吉池隆真奨励会三段が雁木の構え。先手も雁木にすると後手が右玉にしました。それをみた先手が穴熊に組み替える相居飛車の持久戦に。この将棋は後手にあまりチャンスがない展開だったので,辛抱してチャンスを待つ指し方が求められました。
ここで後手は☖7五歩☗同角と突き捨ててから☖9七歩☗同香☖同桂成☗同金と攻めていきました。そこで☖7四香と催促したのですが☗5三角成と切られて戦況が悪化してしまいました。
第1図で攻めていくのは仕方なく,7筋の歩を突き捨てるのは攻めとしては後に7筋に歩を打てるようになるメリットがあります。ですがこの将棋では後手玉を弱体化させるデメリットの方が大きく,それが悪化を招くことになりました。なので単に☖9七歩から攻めて,どこかでチャンスを窺うように指さなければなりませんでした。
連勝で藤本四段が優勝。四段昇段から1年で棋戦初優勝です。
ヤコービFriedrich Heinrich JaobiとヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelを比較すると,神学的観点に立っているか否かということ以上に,もっと大きな相違があるように僕には思われます。
『はじめてのスピノザ』では,哲学がコンピューターに喩えられていました。僕たちが使用しているコンピューターのオペレーションシステムがデカルトRené Descartesのオペレーションシステムであるとすれば,スピノザの哲学というのはデカルトのオペレーションシステムをアップデートしたようなものではなく,デカルトのオペレーションシステムとは異なったオペレーションシステムであるという比喩です。ここで再びこのオペレーションシステムの比喩を利用すれば,スピノザのオペレーションシステムに対する立場というのが,ヤコービとヘーゲルの間で違いがあるように僕には思えるのです。
ヤコービはスピノザの論理は完璧なものであって,それを乗り越えるためには超論理に訴えるしかないといっています。これはつまり,スピノザのオペレーションシステムは完璧なものであって,この完璧なオペレーションシステムを受け入れた上で,超論理によってこれをアップデートするほかないといっているのです。つまりヤコービは,スピノザのオペレーションシステムが,現実の世界を説明するのに適したシステムであるということは認めていると解せます。
これに対してヘーゲルは,スピノザの哲学には主体subjectumという概念notioが欠如しているとしています。したがって,スピノザのオペレーションシステムは完璧なものではなくて,そこに主体という概念が新たに組み入れられなければならないといっているのです。ではスピノザのオペレーションシステムをアップデートすることによって主体という概念を組み入れることができるのかといえば,それは不可能だと僕は思います。なぜなら,主体という概念を欠如させたことがこのオペレーションシステムのひとつの特徴を有しているからです。ですからこのオペレーションシステムに主体の概念を組み入れるためには,それとは別のオペレーションシステム,すなわちヘーゲルのオペレーションシステムを新たに構築する必要があるのです。ヘーゲルはそのことを目指したというべきでしょう。