スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

女流棋士の呼称&パーティー

2009-04-30 19:28:55 | 将棋トピック
 実をいうと,僕は棋士の呼称に関しては,それをどのように表記するべきなのかということについて,それほど悩みがあったというわけではありません。というか,悩みなどまったくありませんでした。もしも悩みがあったというならば,女流棋士の呼称をどのようにするべきなのかということについてなのです。
 タイトルを持っていない棋士については,女流○段とか女流○級と記せばいいので問題ありません。また,タイトルに関していえば,一昨年度まではやはり女流名人位戦だけは別格と考え,女流名人を保持している場合にはほかのタイトルに関係なく女流名人と表記し,女流名人以外のタイトルを複数戴冠している場合には,女流二冠とか女流三冠というように表記してこれを済ましてきました。
 昨年度に入り,マイナビ女子オープンがタイトル戦となり,女王という称号ができました。悩みの種といえたのはこれ。この棋戦は契約金が女流の棋戦では最高。したがって,日本将棋連盟のサイトでもLPSAのサイトでも,女流棋戦のうち最上位にリンクされています。したがって格だけでいうならば,それまでの女流名人に代わり,女王を特記的に表記するべきということになります。
 しかし女流名人位戦は女流棋界最初のタイトル戦ですし,やはり名人ということばの響きは別格なのではないかと思います。というわけで,女流名人についても,これまでのようにほかのタイトルとは別格のものとして表記します。したがって,女王と女流名人が同一人物の場合には,女王・女流名人と表記します。矢内理絵子女王は3月の女流名人失冠までその立場にありましたが,そのように表記されているケースが多かったようにも思います。女王という称号ができて1年近くが経過しましたので,ここでもそのような決まりを示しておくことにしました。

 この学生時代の飲酒というのは,大概の場合は居酒屋で飲むわけですが,そうではなく,ゼミの学生の家で飲むというケースもありました。僕は実家から通っていた関係もあり,僕の家がその舞台となったことはありませんでしたが,地方から出てきて下宿しているという同級生も多く,かれらの家には僕も何度かお邪魔させてもらったことがあります。こういう場合は飲み会とはいわずに,パーティーとかフェスティバルとかいうのが僕たちの間での慣わしになっていましたが,大学4年の11月から12月に掛けてはこのパーティーが毎週のように行われたのです。そのうちのひとつ,その後の出来事との関連で深く印象に残っているものについてお話してみましょう。
 当時の日付を振り返りますと,これは2002年12月3日からの数日間のようです。この3日が木曜日。パーティーが開催されることは前々から決まっていたのですが,僕も含めた数名はほかに用事があったので,少し遅れての到着になりました。途中で帰る人もありましたが,僕を含めた何人かは朝まで飲み,昼頃まで少し仮眠をさせてもらいました。
 4日の昼になり,本来ならこれで帰宅するところですが,この日は全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦の日本武道館大会の日。この頃の全日本プロレスは,武道館大会当日に次回の武道館大会のチケットを発売するのが慣例となっていて,僕は前回のときに購入したチケットを持っていました。だから横浜の家まで帰って,再び武道館に行くというのはいくら何でも面倒。というわけで,そのまま武道館に向うことにしました。
 話が少し前後しますがこのときのパーティー会場,会場って要は友人宅ですが,最寄の駅とかよく覚えていないのだけれども小平の方でした。僕は乗り慣れない西武線を乗り継いでとりあえず新宿まで行き,そこで少し時間を潰したのですが,僕が西武線を利用したのはこのときが最初で最後だったと思います。 
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しらさぎ賞&飲酒

2009-04-29 20:29:25 | 地方競馬
 ゴールデンウィーク前半の南関東競馬は浦和開催。今日がメーンとなるしらさぎ賞でした。
 先手を奪ったのはロッキーダンサー。ハタノギャランが2番手で,内にトーセントップラン,外にデザートレジーナ。最初の600メートルは36秒9でこれはミドルペース。
 ここは軽量の上昇馬と斤量を背負った実績馬の対決という図式でしたが,軽量の馬が前で楽をできたのに対し,実績馬は追走で精一杯というレースに。3番手外のデザートレジーナが直線入り口で先行2頭の外に持ち出すと難なく抜け出して優勝。最内を突いたトーセントップランが2着。両馬の後ろに位置していたヒビキウィンが追い込んで3着。先行した2頭も4・5着で,52キロの馬が掲示板を独占しました。
 優勝したデザートレジーナはもう6歳ですが休み休み使われているので年齢のわりにキャリアは浅く,これが25戦目。この勝利が14勝目ですので好成績の部類でしょう。南関東牝馬重賞戦線に加わったといえそうです。父はタヤスツヨシ
 鞍上は大井の戸崎圭太騎手。先週の羽田盃に続く2週連続の南関東重賞制覇。このレースは昨年も制していて連覇の2勝目。管理するのは船橋の出川克己調教師,こちらは一昨年のこのレースを制覇していますので2年ぶり2度目のしらさぎ賞優勝となりました。

 運動の話はここまでで,続いては飲酒の話。僕はⅠ型という診断ではありますが,これもまた糖尿病について語る場合には避けて通ることはできないのだろうと思います。
 僕が酒を飲むようになったのは学生になってからです。僕は付属高校から大学にすんなり進学していますので浪人経験はなく,厳密にいうならば大学に入ってすぐに飲酒したとなるとこれは法律に違反していることになるのですが,まあこの違反は珍しいことではないのではないかと思います。
 強いか弱いかでいえば,僕は酒には強くはなかったと思います。そのために一度にそんなにたくさんの量を飲酒するということはありませんでした。そして酒を飲んだがために失敗してしまったということもありません。もっともこれについては僕がただそう思い込んでいるだけで,周囲には僕に迷惑をかけられたという人がいるかもしれません。ただ,酩酊状態で記者会見に臨むなどというような愚行は犯したことがありませんし,泥酔して全裸になって騒ぐなどという,どことなくほほえましくすら思えるような過失も犯したことがないというのは事実です。
 一度の量はそう多くはなかったわけですが,よく飲んでいた時期というのはあって,それもまた学生時代。とくに4年の頃です。大学も4年ともなると,学校に行くのも週に1度か2度。僕はゼミが木曜で,木曜はゼミの同級生と食事に行くというのが,もうそれ以前からの自然な流れになっていたのですが,もう残りの回数も少なくなってきますと,食事だけではなく,毎週のように飲むようになりました。そしてこの場合は朝までということになるわけです。最もこの頻度が激しかったのが大学4年の11月から12月にかけてで,この頃の木曜は毎週のように朝まで飲んでいました。ただし,それでも僕自身は,同級生たちと比べたときに,そうも多くの量を飲んだというわけではなかったと思います。
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西武園記念&靴

2009-04-28 19:05:55 | 競輪
 今年のゴールデンウイークの競輪グレードレース第一弾は西武園記念で,今日が決勝でした。
 並びは平原ー太田ー武田の関東,小嶋に山田,浜田ー三宅の瀬戸内,坂本ー紫原の福岡で4分戦。Sを取ったのは浜田選手でこのラインの前受け。3番手に平原選手,6番手に小嶋選手,8番手から坂本選手で周回。残り2周のホームに入るところで坂本選手が上昇すると小嶋選手が続き,バックで浜田選手を叩きました。早めに引いた平原選手が外から巻き返しに出ると,小嶋選手がこれに併せ,打鐘から小嶋選手の先行に。3番手は平原選手で坂本選手は6番手に。バックから平原選手の捲り。小嶋選手も抵抗しましたが,直線入口では平原選手が捲りきり,そのまま抜け出して優勝。直線を鋭く伸びた紫原選手が2着に入り,山田選手のブロックで浮いた太田選手の外を踏んだ武田選手が3着でした。
 優勝した埼玉の平原康多選手は昨年1月の大宮記念以来となる記念競輪3勝目。今日は3車で後ろが同県の先輩ということで,先行するつもりであったと思われ,その意味では作戦失敗でしたが,3番手を取れたのは早めに動いたからで,自身に関していえばその積極性が幸いしたということではないでしょうか。力からすればもう少し優勝してほしい選手ではあります。

 おしゃれ心というのは僕にはまったく無縁です。着るものは着られればいいというくらいの感覚で,本当に必要となった場合しか新しいものを買うということはしません。またアクセサリーの類は一切身につけたことはありません。髪は,これは後で説明しますが現在は坊主頭で,自分で刈っています。それ以前も,子どもの頃からずっと通っていた近所の床屋で切ってもらっていましたから,美容院というところへは行ったことがありません。この方面のことに関しては,少しのこだわりもないといえます。僕がこういう方面に努力をしても,それは力の浪費にすぎないように感じるのです。
 ただし,靴だけはちょっと別。といっても,デザインとかにこだわりがあるわけではもちろんありません。僕がこだわるのは靴の重さ。僕にとってよい靴とは軽い靴であり,悪い靴というのは重い靴です。つまり軽ければ軽いほど,それはいい靴であるということになります。
 これは僕がよく歩くということと関係しています。よく歩きますが,体重が軽いことから分かりますように,足も太くはない,というか細いわけです。このため,重い靴で歩きますと足が疲れて疲れて仕方がありません。だからとにかく軽いものを選ぶことになります。
 ある程度の重さのある運動靴で歩くより,軽いサンダルで歩く方が僕にとってはずっと楽です。実際,夏の暑い時期などはサンダルで歩くということもしばしばでした。こういう選択は,たとえば膝への負担などを考えますとあまり好ましいことではありませんのでお勧めすることはしませんが,やはり僕の場合には,膝への負担よりも,足元の軽さの方がずっと重要なことなのです。
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アンティックヴァリュー&人間の尊厳

2009-04-24 19:05:10 | 血統
 ベガの母は1979年にアメリカで産まれたアンティックヴァリューという馬で,この馬がこの一族の日本での母系祖先になります。ファミリーナンバー9-fファンシミン,アマゾンウォリアーなどと同じです。
            
 最初はアメリカで繁殖生活を送り,アメリカでの最後の産駒は輸入され,ニュースヴァリューという名で日本で競走生活を送りました。重賞は勝てなかったものの,オープンで1勝,札幌スプリントステークスで2着するなどそこそこ活躍しました。
 ニュースヴァリューを産んだ後で輸入され,最初に産まれたのがベガ。この後,1997年まで日本で繁殖生活を送り,その1997年,最後の産駒がマックロウで,この馬は1000万条件の身で果敢に挑んだ京都記念で,大レースの勝ち馬2頭を豪快に差し切って穴をあけました。つまり日本での最初の産駒と最後の産駒が共に重賞の勝ち馬になったということです。
 とくにベガの活躍もあり,この一族は,競走馬としても繁殖牝馬としても何頭かが輸入されました。しかし重賞の勝ち馬は,アンティックヴァリューの直仔2頭と,ベガの直仔の3頭のみ。ベガ以外の重賞勝ち馬はすべてが牡馬ですので,この一族がさらに枝葉を広げられるかどうかは,ベガ以外の系統からどれだけ活躍馬を出せるかが鍵となってきそうです。

 僕は満員電車のような人ごみは大丈夫なのですが,学生時代の友人にはそれが苦手という人もいました。そしてその人は,満員電車に揺られていると,人間の尊厳とは何であろうかということをふと考えてしまうということを言っていました。僕には人間の尊厳などという大仰な抽象概念と,満員電車という日常風景とがあまりにかけ離れているように感じられましたので,このことばも今でも印象に残っています。
 実際のところ,人間の尊厳などというような概念notioは,あまりに抽象的すぎるようなきらいがあったからでしょう,別に満員電車などとは一切の関係なしに僕は考えたことがありませんでした。またその後,今に至るまで考えてこなかったといってもいいかもしれません。しかし,もしもスピノザ主義者らしく,人間の尊厳というものをある具体的なものとして考えようとするならば,なるほどそれはこのときにこの友人が言ったように,たとえば満員電車について考えることなのかなあというような気はします。ただ,これは尊厳ということをどのような意味に解するのかということも問題になるかもしれず,僕はやっぱり人間の尊厳というのを,何か具体的なものとして考えることはできません。そして具体的なものとして考えることはできないというのは,それについて考えることができないということを僕の中では意味しています。
 これは観念ideaの連結connexioと少し関係しています。たとえば友人の精神mensのうちで,人間の尊厳という概念は,満員電車の観念と連結するわけです。しかし僕の精神のうちでは,人間の尊厳という観念が,ほかの一切の観念と連結することができないのです。いってみれば人間の尊厳という概念は,第三部諸感情の定義四のパニックadmiratioに僕を陥れるような概念であるといえるかもしれません。この友人の発言があったから,僕の精神のうちでもかろうじて満員電車の観念と連結しているにすぎないのです。
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ネオユニヴァース&人ごみ

2009-04-23 19:40:36 | 名馬
 日曜の皐月賞を勝ったアンライバルドは,そこで紹介したように母がバレークイーンで,この一族から3頭目の大レースの勝ち馬となったわけですが,父はネオユニヴァースで,これも紹介しておかなければならない名馬の1頭です。
 2歳11月のデビュー。初戦を勝ち,2戦目のオープンは破れましたが年明けに自己条件を勝つと,きさらぎ賞,スプリングステークスと連勝。さらに皐月賞もインの苦しいところを伸びて優勝しました。つまりアンライバルドの皐月賞制覇は父子制覇であったわけです。
 さらに続いてダービーに出走。これも一旦は抜け出した2着馬を内から差して優勝しました。よってアンライバルドのダービーは,フサイチコンコルドとの兄弟制覇と,ネオユニヴァースとの父子制覇が同時に懸かるレースとなります。
 ダービー馬,まして二冠馬ともなればこれで秋まで休養するのが定跡ですが,この馬は宝塚記念に出走。しかしさすがにこの時期の古馬の一流相手は厳しかったか4着でした。
 おそらくこの疲れが完全には抜けきらなかったのでしょう,秋は3戦するも3,3,4着。菊花賞は3着で,残念ながら3冠達成はなりませんでした。しかし春の活躍は文句なく,最優秀3歳牡馬に選ばれました。
 休養して4歳4月の大阪杯で復帰。これを勝利し天皇賞に進みましたがこれはこの馬の生涯唯一の大敗。結果的にこのレースが引退レースとなりました。
 現3歳世代がファーストクロップ。いきなり皐月賞馬が輩出したわけですから,順風満帆の種牡馬生活といえるのではないかと思います。

 再び散歩そのものの話に戻りましょう。歩く速度のことをいいますと,僕は人が歩く平均的な速度よりも早いと思います。実際,これはとくに散歩をしている場合とは限らないのですが,歩いていて,同じ方向に向って歩いている人を追い抜くということはよくありますが,追い抜かれるということはあまりありません。
 だからといって,これは無理してそういうスピードで歩いているというわけではなく,それが僕自身のペースであるといえます。というのは,いつも歩いているのよりも速いスピードで歩けば,それだけ疲れるのは当然でしょうが,いつもより少し遅めのスピードで歩いた場合にも,同じ距離であればむしろ疲れたと感じることの方が多いからです。あるいは正確にいいますと,そういうスピードでは,散歩ないし歩くことによって本来は得られるような爽快感が得られないということなのかもしれません。
 そういう意味では,歩いていて僕がストレスを感じるのは,自分のペースで歩けないような状況の場合です。したがって人ごみとか人通りの多いような場所はなるべくは避けるということになります。それが僕の散歩にとっての最大の敵であるといえるでしょうか。このような外的状況によってペースを乱されることは,たとえば上り坂よりもずっといやなものです。
 ただし,誤解なきように付け加えておきますと,これは散歩をしている場合,あるいはそうでなくても歩いている場合に限った話であって,そうでないなら僕は人ごみというのはほとんど苦になりません。たとえば満員電車などというのは過度のストレスを感じられる方もいらっしゃるのではないかと思いますが,僕はまったく平気です。
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羽田盃&ナウシカ

2009-04-22 21:03:38 | 地方競馬
 南関東クラシック3冠の初戦となる羽田盃
 何が何でもといった感じでディアテクノバトルの逃げ。好発だったスーパーヴィグラスは2番手に控え,3番手にはワンダフルクエスト。最初の800メートルは51秒0。頭数が少なかったこともあり,ミドルペースに落ち着きました。
 最後尾からのレースになったワタリシンセイキが向正面で進出。被せられるのは御免とシャレーストーンも動き,コーナーでは捲る形となり,直線に入るとすぐに先頭に。2頭が動いたあたりでは内で反応が鈍いように見受けられたナイキハイグレードでしたが,外に出されると再び追ってきて,叩き合いに持ち込みました。ゴール前で出たのは追ってきたナイキハイグレードの方で優勝。シャレーストーンが2着。2頭の後から追い込んだ牝馬のモエレエターナルが,5馬身離されましたが3着に入りました。
 優勝したナイキハイグレードは前哨戦の京浜盃からの連勝で,南関東重賞3勝目。少し厳しい競馬になったように思うのですが,前走は先に抜け出し,今日は追ってきて,いずれも小差ながら勝っていますので,実力上位といっていいのでしょう。父はアグネスタキオン
 鞍上は大井の戸崎圭太騎手。京浜盃に続く南関東重賞優勝で,羽田盃は初制覇。管理するのは船橋の川島正行調教師で,2005年以来の羽田盃2勝目となっています。
 この後は東京ダービーになりますが,上位2頭の力が抜けているとみてよさそう。少なくとも今日のメンバーに逆転される可能性はかなり低いように思えます。
 
 茂垣産婦人科というのは,発声してみた場合には,あまり芳しくないような名前にも聞こえるわけですが,茂垣という姓の人が町で医者をやるという場合には,ごくごく普通の,何のてらいもないような名付け方であるということはできると思います。そしてある意味においてはこのネーミングと対照的だと思えるような名前の医院を,僕は千葉県内で見つけたことがあります。ただしこれは散歩中の出来事ではなく,友人とドライブをしていたときのことでした。ちなみに僕は免許を持っていませんので,運転していたのは友人の方ということになります。
 それはナウ歯科という歯医者。正確にいうと,見つけたのは歯医者でなく,この歯医者の看板でしたが,この場合は歯医者そのものを発見するかどうかは重要ではありません。もちろんこれは風の谷のナウシカあってのネーミングだと思います。一応は歯科であり,ナウというのも,現在は死語のような気がしないでもないですが,意味は通じることばですから,ぎりぎりOKといえるでしょうか。ナウ歯科と名付けるセンスには賛否があるでしょうからこれは別として,このネーミングは,そのまま茂垣産婦人科と名付けることに比べれば,医院としてはやや凝った,あるいは工夫を凝らしたネーミングであるとはいえると思います。
 ところでこのとき,自分が開業する医院の名前にどちらの名前を付ける医師を好むかということは,わりと意見の分かれるようなところではないかと思います。つまり,聞こえる感触の悪さは気にせずごく普通の名前を付ける医師か,開業する医院に考えた名前を付ける医師かという選択です。そしてその答えは,答える人間が医師に対してどのようなことを期待するのかということと,多少なりとも関係してくるような気が僕にはします。
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ベガ&名前

2009-04-21 19:13:29 | 名馬
 昨年のマイルチャンピオンシップを勝ったブルーメンブラットの父として紹介したアドマイヤベガは,母のベガが名馬にして名牝です。
 3歳1月のデビュー。2戦目に勝ち上がり,桜花賞トライアルのオープンを連勝。続く桜花賞も勝ち,4ヶ月のキャリアで早くも大レースを制覇。さらにオークスも連勝しました。
 この後,順調さを欠いてしまい,当時は3歳牝馬限定であったエリザベス女王杯に直行。さすがにぶっつけでは厳しく負けましたが,それでも3着に頑張りました。続いて有馬記念に挑むもさすがに相手が強く9着。しかしこの年の最優秀3歳牝馬に選出されました。
 この後,4歳の春に2戦しましたが,これは牡馬の一流どころ相手で大敗。そのまま引退となりました。
 アドマイヤベガは初仔。翌年の産駒がキャリア僅か2戦で挑んだセントライト記念を勝ったアドマイヤボス。さらに1年置いての産駒が大レースに7勝,JRA賞にも3度にわたり選出されたアドマイヤドン。競走生活と同様に,繁殖生活もあまり順調とはいえないのですが,それでもこの繁殖成績は競走成績以上というべきだと思いますし,近年でも1,2を争うような名牝といえるでしょう。

 木村石材店は,漢字の並びによって僕の印象に残りました。実はこの店の看板の文字は少し字体を崩してあって,そのためによけいに村という字が材という字に錯覚しやすいということもあります。しかしこれとは別に,文字の並びでいえばごく普通なのだけれども,それを発声してみるといささか珍妙にも聞こえる店の名前というものもあります。
 日本武道館で全日本プロレスを見た後,いつもではありませんが東京駅まで歩いていくということもありました。また,そうでなくても,学生時代は映画の試写会をよく観に行っていましたので,週に1度は東京都心に出ていました。なので当時は横浜を歩くのと同じくらい,東京も歩いていました。そしてそのようなときに都心を歩いていて,木津ガラス店というガラス屋を発見したことがありました。木津さんという方が営まれているガラス店なのでしょう。そういう意味ではそのままのネーミングといえます。しかしこのガラス店は,声に出して読むならばほぼ傷ガラス店と聞こえてしまうのではないでしょうか。そしてそう考える限り,ガラス店のネーミングとしてはまずいのではないだろうかという感じがして,今でも強烈な印象として残っています。
 似たようなのがもうひとつ。これは僕が見つけたのではなく,永久欠番となった友人が,電車の車窓から偶然に見た医院だそうですが,茂垣産婦人科。これも茂垣さんという医師の町医者なのでしょうが,もがき産婦人科と声に出されてみると,どうも難産になりそうな産婦人科に聞こえないこともないような気がします。こうしてみると,木津という苗字がガラス店にはあまりそぐわないように,茂垣という姓と医者の相性も,どうもいまひとつであるようです。
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共同通信社杯&木材と石材

2009-04-20 19:05:13 | 競輪
 今年からこの時期にも施行されることとなったのが共同通信社杯競輪。昨日が決勝でした。
 並びは,伏見ー斉藤の北日本,平原ー武田の関東,浅井ー永井ー坂上の中部,石丸ー井上の西国。かなり牽制し合う発走になりましたが,インから順に誘導を追うことになり,前受けは石丸選手。3番手に伏見選手,5番手が平原選手で,後方が浅井選手。残り2周のホームから浅井選手が上昇。平原選手が続いたので後方となった伏見選手がバックで動き,4番手を取りに行くと平原選手は車を下げて6番手。このまま打鐘から浅井選手の先行に。8番手となった石丸選手がホームから巻き返していき,バックで前に追いついてきましたが,永井選手に満を持して発進されジ・エンド。結局このまま永井選手が後ろを振り切って優勝。マークの坂上選手が2着で,このラインを追い,ふたりの間を突いた伏見選手は3着まで。
 優勝した岐阜の永井清史選手はこれがビッグ初優勝。記念競輪優勝の経験もありません。ここは展開に恵まれたものですが,昨年の北京オリンピックの競輪で銅メダルを獲得したほどの選手ですから,記念もビッグもまだまだ勝てる筈だと思います。

 散歩が趣味という人はわりに多くいるのではないかと思います。そしてそういう人に散歩の楽しみを尋ねますと,美しい景色を鑑賞することというのが上位にくるのではないかと思います。
 僕自身も,それが散歩の楽しみのひとつであるということは否定しません。ただ無目的に歩くとき,僕は高い方へ高い方へと向うことがありますが,これなどは高台から眺める景色が好きだからというのが最大の理由といえるでしょう。もちろん上り坂というのはそれだけ疲れるわけで,途中でギブアップしてしまうこともままありますが。
 しかし,散歩に関連して僕の印象に強く残っているのは,景色ではなくて,ある意味ではどうでもいいと思えるようなことです。たとえば,WINS横浜から自宅へ歩く途中に,木村石材店という店があります。ごく普通の石屋さんです。そう分かっているのに,これが僕には木材石材店と感じられてしまうのです。
 実は僕は物心ついた頃からといっていいと思うのですが,目に映るもの,あるいは絵に描かれるようなものよりも,文字にされたもの,読むものの方がずっと好きでした。美術館へ絵画鑑賞に行くのと読書をすることのどちらかを選ぶなら,僕は迷わずに後者を選びます。僕は絵画とか彫刻などの美術品を見てもよく分からないし,あるいは感動するということもほとんどありませんが,小説を読んで感銘を受けるということはままありました。だから,美しい風景を見ることは散歩の楽しみのひとつではありますが,木村石材店のような名前の店の方が,強い印象として残ってしまうのではないかと思っています。
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皐月賞&散歩

2009-04-19 19:18:59 | 中央競馬
 三冠レースの初戦,第69回皐月賞
 先手を奪ったのはゴールデンチケット。アーリーロブストがこれを追い,ミッキーペトラ,メイショウドンタク,リーチザクラウンまでが先団。前半の1000メートルは59秒1で,淀むところがないミドルペースになりました。
 中団に待機していたアンライバルドが,3コーナー過ぎから外のシェーンヴァルトと併せるように内の先行勢を一捲り。このためこれより前に位置していた馬はすべて沈められてしまいました。追ってきたのはぽつんと最後尾を追走していたトライアンフマーチでしたが,直線に入ってすぐに抜け出していたアンライバルドは,並ばれることなくゴール線を駆け抜け優勝。トライアンフマーチが2着で,勝ち馬の直後という位置取りだったセイウンワンダーが3着。
 優勝したアンライバルドは,前走で前哨戦のひとつ,スプリングステークスを勝っていた馬で,これで5戦4勝。大レースは初制覇。ロジユニヴァースとリーチザクラウンは不可解な敗戦という気もしますが,今日のレース内容は非常に強く,現時点では3歳のトップに立ったといっていいのではないでしょうか。無事ならおそらく次はダービーでしょうが,勝ち負けは間違いないところだと思います。母はバレークイーンですので,フサイチコンコルドの弟で,リンカーン一昨年のこのレースを勝ったヴィクトリーの年下の叔父になります。
 鞍上は岩田康誠騎手で昨年の朝日杯フューチュリティステークス以来の大レース制覇。管理するのは友道康夫調教師で,昨年の春の天皇賞以来の大レース制覇。皐月賞は共に初優勝です。

 長く歩くことが苦にはならなかったとはいえ,高校時代まではあえて歩くということはほとんどしませんでした。しかし大学に入学すると,それまでよりもずっと時間に余裕ができましたので,休みの日などに外を歩くようになりました。この頃から僕の趣味のひとつに散歩が加わり,それは今でも続いています。
 僕のする散歩には2種類あります。ひとつは行き先を決めてそこまで歩いていくもの。あるいはどこかから家まで歩いて帰るというもの。WINS横浜から家まで歩くというのはこの種類の散歩になります。この散歩にははっきりとした目的,ないしは目的地というものがあるといえるでしょうか。
 もうひとつはそうした目的が一切ない散歩で,ただ家から気が向くままに歩き続けるというもの。この種類の散歩は大抵は昼食の後に家を出て,日暮れ時になると終るというのが常。日暮れ時間が近くなると,最寄の駅やバス停から電車なりバスなりに乗って帰るということになります。この類の散歩というのははっきりとした行き先がありませんから,自分でも思わぬところで終りになるということがあります。かつて1度,最寄のバス停から出ているバスの行き先が相模鉄道の和田町駅だけということがありました。僕が和田町駅を利用したのはこれがただ1度きりですし,今後もたぶんないのではないかと思います。
 実際のところ,いくら持久力があるといっても3時間も4時間も歩き続けていればさすがに疲れてはきますし,苦しいとも思います。もう2度とこんなことはするまいと思うことだってあります。ところが家に帰ってくると,なぜかまた行きたいと思うのです。散歩は僕にとって中毒に近いものがあるようです。
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中山グランドジャンプ&ウォーキング

2009-04-18 19:17:43 | 中央競馬
 オーストラリアから1頭が参戦してきた第11回中山グランドジャンプ
 好発は外のグランツーリズモでしたが,内からコウヨウウェーブがこれを抜いての逃げ。メイケイグリーンを含めた3頭が前半は後ろを離す展開になりました。
 人気のキングジョイが大竹柵のあたりで前に接近。大障害コース後の向正面に出たところで,スプリングゲントが動いて,キングジョイもこれを追い,2頭が先頭に。最後の1000メートルはこの2頭のマッチレース。馬体をぶつけるような激しい競り合いでしたが,先に前に出ていたスプリングゲントが最後まで凌いで優勝。キングジョイが2着で大差の3着にオープンガーデン。
 マッチレースは追うものが強そうですが,長い距離になると先に出たものが有利というのが競馬の定説で,その通りの結果。優勝したスプリングゲントは2006年2月に障害入りした後,重賞3勝を含めて6連勝。その後,屈腱炎による2年弱の休養があった馬。復帰後の初勝利をこの大一番で決めました。大レースは初制覇。
 鞍上の白浜雄造騎手は2005年の中山大障害以来の大レース2勝目。またこれが障害重賞16勝目で,歴代単独トップになりました。管理するのは野村彰彦調教師で,1997年の桜花賞以来の大レース2勝目となっています。

 中学時代の陸上部を除けば,僕は運動らしい運動はしていないのですが,こと歩くことに限るとこれはやや別かもしれません。僕はわりに長い距離を歩くということ自体はほとんど苦にならないのです。したがって,とりたてて運動するということを目的としているわけではなく,生活の一部としてごく自然に歩くということはありました。というか,今でもそれは続いています。
 たとえば,僕は中央競馬の馬券はWINS横浜で購入するのが常です。このとき,買いに行くときはバスで行きますが,帰りは歩くということがありました。というより,あるときからは,その後で何か用事があるとか,あるいは雨が降っているとかいった事情がない限り,必ず歩いて帰るようになりました。30分くらい掛かると思うのですが,これは苦にはなりません。ただし,おそらく病気が発症したと思われる頃は,これが辛く感じられることもありました。このことは後でもう少し詳しくお話しします。
 僕は瞬発力はほとんどありませんが,持久力はあったのだと思います。マラソンランナーなどのイメージにも少しありますが,体重が軽い痩せ型の人間は意外にスタミナがあるものですし,長距離走だけは人並み以上にできたのもこれに合致しているといえるでしょう。
 実をいいますと,誕生日に例の宝くじを僕にプレゼントしてくれた友人も,歩くことがわりと好きでした。この友人とは,渋谷から友人の家があった品川まで歩いたこともありました。また,宝くじが当たった後,別の友人たちとも明治神宮から新宿まで歩いているわけで,僕は歩くことを苦にしないような人間だけを友人に選んできたともいえそうです。これは本当にほかの友人たちのことを考えても思い当たるところです。
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テイエムオペラオー&森林公園

2009-04-16 19:09:19 | 名馬
 2月の金盃を勝ったバグパイプウィンドの父はテイエムオペラオーで,これは近年の日本競馬でも屈指の名馬の1頭といえます。
 3歳2月に3戦目の未勝利を勝つと,特別,重賞と連勝。追加登録料を払って皐月賞に出走するとこれも勝って一気に大レースを制覇しました。しかし続くダービーではアドマイヤベガの3着。
 秋は古馬相手の京都大賞典から復帰。3着とまずまずのスタートでしたが菊花賞は2着。ステイヤーズステークス2着を挟んだ有馬記念は,グラスワンダー,スペシャルウィークに続く3着と,3歳馬にしては健闘したともいえますが,この秋は勝ち星を上げられませんでした。しかし安定した成績から,最優秀3歳牡馬に選出されています。
 この馬の真骨頂は4歳時。2月の京都記念を勝つと,阪神大賞典も勝ち,さらに天皇賞,宝塚記念と大レースも連勝。秋も復帰戦の京都大賞典を勝つと,天皇賞,ジャパンカップ,有馬記念と大レース3連勝。この年8戦8勝,大レース5勝という特筆すべき成績で年度代表馬に輝きました。
 翌年も現役続行。大阪杯4着で連勝が途切れましたが天皇賞は勝って大レース7勝目。しかし続く宝塚記念は厳しい競馬となり,2着に破れました。
 秋初戦の京都大賞典は2着入線でしたが,1着入線のステイゴールドの失格により繰り上がり優勝。しかし天皇賞はアグネスデジタルに差されての2着,ジャパンカップもジャングルポケットに差されて2着。有馬記念も5着に破れ,引退の花道を飾ることはできませんでした。2004年に殿堂入りしています。
 血統構成が重厚なタイプで,こういう馬は何頭かの非常に優れた産駒と多くの凡庸な産駒を出す傾向があります。まだ代表的な産駒は出ていませんが,いずれは数は少ないでしょうが活躍できる馬を出してくるものと思います。

 中学時代の陸上部での主な練習の舞台となった根岸森林公園ですが,実はここは競馬場の跡地です。戦前は根岸競馬場として,大レースも行われていました。現在もJRAでは根岸ステークスという名のレースが,フェブラリーステークスの前哨戦として行われていますが,これは根岸に競馬場があったからです。
 僕たちが走ったコースというのは,したがって競馬場のコースを模したものだろうと思います。ただし現在のコースは馬が競走できるほどの広さはありませんし,カーブもいささか急すぎるような感じもあります。スタンドは一部が保存されているのですが,その中に入ることはできないようになっています。
 馬の博物館が併設してありますが,ここは博物館として期待していきますと,もしかしたら期待外れになるかもしれません。というのはここは基本的にその名の通りの馬の博物館であって,競馬の博物館ではありません。ですから馬という動物に興味がある人が行くべきところで,単に競馬が好きという理由で行くところではないかと思います。ただ,博物館だけが施設としてあるわけでなく,広大な森林公園の一部としてあるという感じですので,散策などの目的と同時に行く分にはまったく問題ありません。シンザンの銅像もあります。
 稀に日本最古の近代競馬場といわれることもあるようですが,少なくとも横浜にはこれ以前,現在の元町から中華街にかけての一帯に競馬場はあったようです。ただし,何をもって近代競馬というのかは見解が分かれるところかもしれません。
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クラウンカップ&練習内容

2009-04-15 21:00:29 | 地方競馬
 かなり難解なメンバー構成となった今晩のクラウンカップ
 逃げたのはサプライズゲスト。これをチョットゴメンナが追い,少し離れた3番手以降にワールドベアハート,ケイアイジンジンなど。向正面あたり,見た目にも早いラップと感じられましたが,前半の800メートルは48秒7で,やはりハイペースでした。
 サプライズゲスト以外の先行勢は早々にばて,直線入口では外のホットロッドと内のブルーヒーローで3頭の競り合いに。ここからは真中を割ったブルーヒーローが抜け出したのですが,3コーナーまで殿に構えていた同厩舎のサイレントスタメンが追ってきて,ゴール前ではこれを捕えて優勝。ブルーヒーローが2着で3着はサプライズゲスト。
 優勝したサイレントスタメンは,ここではどちらかといえば既成勢力にあたる馬。これまでの南関東重賞ではやや苦戦していましたので,今日のメンバーの新興勢力には,そうも強力な馬がいなかったということではないかと思います。ただし,展開にはやや恵まれましたので,2着のブルーヒーローとの比較では,こちらが強いとは一概にはいえないかもしれません。父はレギュラーメンバー,日本での母系祖先はフラストレート
 鞍上は川崎の金子正彦騎手で,クラウンカップ初制覇。管理するのは川崎の足立勝久調教師で,こちらはクラウンカップ2勝目です。

 陸上部の練習は,ローテーションで校庭が週に1度しか使えませんでしたので,顧問がついていける限り,例の森林公園で行われました。長距離走の練習にはちょうどよい場所だったのです。中学校は横浜市立根岸中学校で,これは小学校よりも海側にありましたが,ごく近い位置。そこでウォーミングアップがてらに森林公園までジョギングで行き,それから体操をして練習というスケジュールでした。もっとも,階段を一応は走って上っていくわけですから,それ自体もそれなりの運動であったとは思います。もちろんそれで疲れてしまっては元も子もないわけですから,本当に軽いランニングでした。
 練習のメニューは日によって違いましたが,走るだけです。1日に1周だけの日もありましたし,8周走る日もありました。曜日ごとに決められていたような気もします。基本的には,たとえば4周なら4周と決めて,学年には関係なく部員全員が一斉に走りましたが,たまにふたりずつがチームを組んでのリレー競走のようなこともやりました。面白いものでこういうリレーのときの方が何となく勝負というのを強く意識するような感じになり,全員で一斉に走る場合には,他人との勝負そのものよりも,自分のベストタイムを更新することを目標とするようなところがありました。
 夏休みなどにも練習はありましたので,雨の日以外はほとんど毎日走っていたといっていいと思います。ただし,僕にとって長距離走は,ただ平均点以上することができる唯一の運動であったというだけで,走ること自体が好きだったわけではありません。なので,3年になり部活をやめてからは,走っていません。よってこれが僕が定期的にはっきりと運動をしたといえる唯一の期間であり,かつ,最も速く走ることができた時期だったということになります。
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高知記念&長距離走

2009-04-14 19:16:19 | 競輪
 年度が改まり西日本最初の記念競輪は高知記念で,今日が決勝(動画)でした。
 小林大介ー小橋ー小林潤二で折合った上越,石毛ー平沼ー戸辺の混成東日本,池田ー小野ー城戸崎の西国で3分戦。小林潤二選手も出て行きましたが,Sを取った石毛選手の前受け。池田選手が中団で上越勢は後方で周回。打鐘前のバックで小林大介選手が上昇していくと,池田選手が先に動いて石毛選手を叩き,ホームに入るところで小林大介選手がこれを叩きました。さらに外から下げた石毛選手が発進して,このラインの先行に。後方に置かれる形になった池田選手の捲りは中団まで。小林大介選手もほぼ動けずで,番手から発進した平沼選手に有利でしたが,高知の直線は長く,5番手から追い込んだ小橋選手がこれを交わして優勝。平沼選手が2着で,このふたりの間を割った小林潤二選手が3着でした。
 優勝した新潟の小橋正義選手は2006年7月の弥彦記念以来となる久々の記念競輪優勝で,通算30勝目。この開催は中1日で共同通信社杯が控えるため,メンバーがそうも強力とはいえず,そういう部分に助けられたところはありますが,ビッグを何度も制している大ベテランの優勝となりました。もうさすがに全盛時の鬼脚は期待できないのかもしれませんが,こういうチャンスをものにするのはさすがに一流選手だと思います。

 新しくできた陸上部の顧問が,原則的に長距離走のみに的を絞ったのは,僕にとっては少しばかり好都合といえる面がありました。
 少し話は遡ります。僕が通った小学校は,横浜市立根岸小学校でした。学校の北側が小高い丘になっていて,学校の裏手からこの丘に上っていく階段があり,それを上りきってしばらくいくと,根岸森林公園という公園がありました。というかこれは今もあります。学校から歩いて行かれる距離ですので,写生大会などの行事がここで行われることもしばしばでした。
 これは小学校5年か6年のことになりますが,僕たちはクラスだけでこの公園に行きました。小学校5年6年はクラスも同じ,担任も同じだったのですが,この担任はこうしてよく僕たちを外に連れて行ってくれる人だったのです。
 森林公園という名称から分かるように,公園の大部分は森林と芝生で構成されていて,池などもあったのですが,中を1周できるようにアスファルトの道路が拵えてありました。1周しますとおおよそ1.3キロほどだったでしょうか,起伏あるコースで,ジョギングをしている人なども多いところです。で,このときは,なぜそうなったのかはまったく覚えていないのですが,ここを1周する競走を全員でしたのです。すると僕はクラスで5番目くらいになりました。
 僕は100メートル走などは苦手でしたから,この結果は実に意外であり,また驚きでもありました。何度もいいますように僕は運動というのはほとんどが人並みにできなかったのですが,この長距離走,持久走だけは,取り立てるほどのものではないのですが,平均以上にはできたのです。だから陸上部の中心が長距離走であったことは,僕には好都合でした。
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サウスヴィグラス&部活動

2009-04-13 19:10:40 | 名馬
 正月の船橋記念スパロービートが勝ちました。この馬の父は日本で競走馬生活を送ったアメリカ産のサウスヴィグラスという馬です。
 2歳11月デビュー。2戦目で初勝利を上げると3戦目も連勝。続くオープン特別で2着の後,芝の重賞にチャレンジするも大敗し,3歳春シーズンを終えました。
 競走馬はレースを走るときに,着地する脚の順番を変えます。これを手前を変えると表現しますが,これがあまりうまくない馬というのがいまして,この馬もその1頭。そのため手前を変えずにレースを終えることもしばしばだったようですが,これはスタミナに問題を来します。いいスピードで逃げたり先行したりしながらもフィニッシュ前に差されるというレースも多く,5歳の4月になってようやくオープンで初勝利を上げました。
 しかしこの馬が大きな変わり身を見せたのはようやく6歳になってから。根岸ステークスで重賞を勝つと,明らかに距離の長かったフェブラーリーステークスはアグネスデジタルの6着に破れましたが,黒船賞,かきつばた記念,北海道スプリントカップ,クラスターカップと怒涛の重賞4連勝。しかしこの年はこれでキャンペーンを終了してしまいました。
 翌年は前年の反省を踏まえ,根岸ステークス連覇の後,北海道スプリントカップまで休み,さらに休養を挟んで東京盃に。この東京盃で連勝こそストップしてしまいましたが,続くJBCスプリントでは見事に巻き返し,7歳にして大レースを制覇。これを手土産に引退しました。
 典型的なダートのスプリンター。そういう意味ではスパロービートはこの馬の特徴をよく受け継いでいるといえそうです。

 僕が人生の中で定期的に運動をしていた時期があったとすれば,それは中学校時代の3年間,より正確にいうなら中学校1年の初めから,3年の10月くらいまでです。これは次のような事情によるものです。
 僕は運動は苦手でしたし,好きでもありませんでしたから,本当のところ,運動部に入るということはしたくありませんでした。しかし僕の両親は,中学校の3年間は運動部に所属しなければならないという考え方であったのです。どちらかといいますと母親の方がこのことには強い考えをもっていて,父親は,そうした方がいいという程度のニュアンスでした。それで僕は仕方なしに運動部に入ることにしたのです。
 さて,運動部といってもその種類は様ざまですが,僕にはほぼひとつの選択肢しかないというような状況で,陸上部に入りました。というのは,野球とかサッカー,バレーボール,バスケットボールというような球技は,人並みにはできないということが分かりきっていましたが,走るだけであれば,運動それ自体に何か技術が伴うというものでもありませんから,まったくできないということはなかったからです。そこに違いがあるとすれば,早く走ることができるかどうかだけだったといえるでしょう。いい方を換えますと,多くのスポーツというものはそれをうまくやる技術というのを有する必要があり,僕はそれが苦手なわけですが,ただ走るだけであれば,技術的なうまさというのはそうも問われないのです。
 実は僕の通っていた中学校にはそれまで陸上部というのがありませんでした。この年,ほかの学校から転勤してきた先生が作ったもの。今から考えますとこの先生はちょっと変わった考え方の人だったと思いますが,それはおいておきましょう。で,この先生の方針で,この陸上部は原則的に長距離走一辺倒でした。
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桜花賞&運動

2009-04-12 19:17:17 | 中央競馬
 春のクラシックシーズン到来を告げる第69回桜花賞
 各馬が一斉の発走。まずはヴィーヴァヴォドカが先頭に立ち,サクラミモザは控えたのですが,コウエイハートが外からこれを交わしての逃げ。前半の800メートルは46秒9のミドルペースになりました。
 断然の人気に推されたブエナビスタは,注文をつけたアンプレショニストだけを後ろに置く位置。しかしこれはこの馬にとっての安全策といえるのでしょう。直線に入るところでレッドディザイアとジェルミナルの間を割ろうとしたものの入れず,大外に立て直すというロスがありましたが,最後はこの3頭の争いになり,ジェルミナルが脱落し,レッドディザイアも交わして優勝。レッドディザイアが2着でジェルミナルが3着でした。
 優勝したブエナビスタは初戦を負けた後,これで4連勝。昨年暮れの阪神ジュベナイルフィリーズに続いて大レース2勝目。能力に秀でた馬というのは,逃げてしまうか,後方から外を回って追い込むかが,最も不利を受けにくく,この馬は後者のパターン。それはこの馬の力がそれだけ抜きん出ていることの証明でもあります。まだこの勝利もこの馬にとっては通過点でしかないと思われます。父はスペシャルウィーク,母はビワハイジで,日本での母系祖先はアグサン。馬名はスペイン語で素晴らしい眺め。
 鞍上は安藤勝己騎手。昨年の有馬記念以来の大レース優勝。桜花賞は一昨々年一昨年に連覇していてこれが3勝目。管理するのは松田博資調教師で,大レースは阪神ジュベナイルフィリーズ以来,桜花賞は2勝目です。

 詳しくはまた後で説明することになるかと思いますが,糖尿病という病気には運動が大きく関係してきますので,この点についても少しばかり記述しておくことにします。
 端的にいいますと僕は運動は苦手です。たとえば,小学校のとき,僕の学校の通信簿はABCの三段階評価,たぶん相対評価でしたが,僕はBというのを1度か2度取ったことがあるだけで,あとは常にCでした。通信簿は年3回,6年間で18回もらうわけで,そのほとんどがCだったわけですから,僕がどれほど運動が苦手であったかはこれだけで理解してもらえるのではないかと思います。短距離走だろうと球技だろうと水泳だろうと体操だろうと,まあ小学校時代の体育というのはこれですべてであったと思うのですが,どれもこれも僕は人並みにはできませんでした。
 小学校時代がずっとこの調子だったわけですから,これが中学校に入って急激に改善されるというわけもありません。中学校に入ると同じ相対評価でも5段階評価となります。さすがに1を取ったことはありませんが,これは保健の試験も成績に反映されるからです。それでも普通は2で,3が取れればよい方だったのではないかと思います。
 高校は今度は絶対評価の5段階評価。これはクリアすべき基準というのがそうも厳しくありませんでしたので,必ず3は取れました。ただしこれはあくまでもそうした基準下での絶対評価であったからで,もしも相対評価であれば,僕が3を取るのはやはり厳しかったのではないかと思います。
 普通に考えれば分かると思いますが,このように自分自身が苦手であるようなことを好きになるということはありません。ですから僕にとって運動というのは,基本的には面倒なものであり,少なくとも自ら進んで行うようなものではありません。なので僕は基本的にはずっとそういう生活を送ってきたということになります。
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