スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東日本大震災復興支援しらさぎ賞&認識論と実在論の問題

2011-04-29 18:57:03 | 地方競馬
 斤量差を生かして格下馬が活躍する傾向があったしらさぎ賞
 先行争いが激しくなりましたが逃げたのはスズリスペクト。エロージュが続いてその後ろがザッハーマイン。ネオグラティアは中団の内でハーミアは後方。最初の600mは35秒7のハイペース。
 向正面でもピッチは落ちず,ついていけない馬も出始めました。ザッハーマインは3コーナーで2番手に上がり,逃げたスズリスペクトと並ぶと,後ろとの差が開きました。手応えには差があり,直線に入ってザッハーマインが楽に抜け出すと,後方から1頭だけ追ってきたプリマビスティーとの差はむしろ縮まりましたが,並ばせるところまではなく2馬身半の差をつける圧勝。プリマビスティーが2着で,逃げたスズリスペクトがさらに7馬身も遅れたもののぎりぎりで3着を確保。
 優勝したザッハーマインは暮れの東京シンデレラマイル以来の南関東重賞3勝目。ここははっきりと能力が上位でしたので順当といえば順当な勝利。もう少し長い距離もこなしていますが,本来的な適性はこのくらいにあるものと思われます。今年度も南関東ではこの路線の中心でしょう。同じ一族にはグラスワンダーなどがいます。
 先日,地方競馬のみの勝利数で現役トップに立った大井の的場文男騎手は先々週のクラウンカップに続く南関東重賞制覇。しらさぎ賞は今の条件になる以前の1999年に勝っているので記録上は2勝目。船橋の出川克己調教師は現在の条件となったこのレースとの相性がよく,2007年,2009年に続く3勝目です。

 結局のところ第一部定義四の立場というのは,それ自体だけでみるならば,実在的と名目的の問題は解決し得ず,むしろ『エチカ』での論述において属性ということばがどのような観点から用いられているのかということに依拠して,両様に解釈することが可能であるということを僕自身の結論として,この問題に関する探究を終えることにします。よって今度はこの定義に残されたもうひとつの問題,すなわち認識論と実在論の問題へと移ることにします。
 この問題は,実際にスピノザの哲学の研究者たちの間で論争の焦点となりました。しかし僕が理解するところでは,その結論というのはすでに出てしまっています。それは,確かにこの定義というものは認識論的にしか読解できないように書かれているけれども,実際はその字義以上のものを含んでいる,すなわちこの定義は実在論的な定義であるということです。そして僕自身の結論に関しても先にいってしまえば,僕もまたその解釈が妥当であると考えています。
 実をいうと,この問題に関しては,実際には論争の焦点になるのにも相応しくないような問題であると考えている学者もいます。たとえばドゥルーズは,僕の理解ではそういう考え方に近いです。彼は『スピノザと表現の問題』においてこのことにも少しだけ触れていますが,そこではスピノザの哲学における知性というものは実在するものだけを知覚する,つまり認識するような知性なのであるから,たとえこの定義が認識論的に書かれているにしても,これを実在的に理解しても構わないと,そもそも問題自体を一蹴するような感じで結論付けています。
                         
 しかし,僕はこのような理由に依拠して,この定義は実在的定義であると結論することには,やや懐疑的です。というのは,スピノザが知性というのは,たとえば第二部定理四九系でスピノザ自身が明らかにしているように,ある思惟の個物が形成するような個々の観念の総体のことです。そして第二部定理二四とか第二部定理二五とかいった表象に関連するような諸々の定理が示していることは,現実的に存在する人間の知性の一部は,混乱した観念によって形成されているということです。だから,単に知性は実在するものだけを認識するといってこれを片付けてしまうことは,『エチカ』の理解にとって危険な側面があると思うのです。
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棋聖戦&第一部定義四の立場

2011-04-28 20:00:07 | 将棋
 おそらく契約金の減額があったためでしょう,序列が3位から7位へと降下した第82期棋聖戦の挑戦者決定戦。公式戦初対局の一戦でした。
 振駒で佐藤天彦六段の先手。深浦康市九段の4手目△3三角戦法。角交換から後手の中飛車に。先手が変則的な構えから玉頭位取りのような形にすると後手はそれを目標に銀を進出。互いに角を打ち合うことになりました。その後,歩の交換がないまま今度は銀交換。先手がその銀を後手陣に打ち込み,桂馬と交換する代償に馬を作りました。そして後手玉頭を目指して飛車を8筋に転換。後手はその間に馬金交換に成功して駒得を拡大。その角を先手陣に打ち込みました。
                         
 今日はここから観戦。金は逃げるだろうと思いましたが△5六歩。金は取るだろうと思いきや▲3五金。実はこれはないだろうと思っていた手。当然の△5七歩成に▲6六金。以下△5六と▲7五金△同銀▲同銀までは予想した通り。そこで△7六角成と思っていましたが△6七角成(第2図)と王手に成りました。
                         
 逃げるわけにはいかないので合駒ですが,金や銀で馬に当てても△7六馬でまた銀当たりなので節約して歩を打ったのは自然に思います。しかし次の△7九金はまったく考えていなかったので驚きました。△4六飛だと▲6一角で▲3五金が生きる展開となるので避けたのでしょうか。これがあるなら合駒は何でも同じだったかもしれないと思いました。まあこう指せばさすがに▲同玉△5七馬▲8九玉△7五馬(第3図)までは予測できました。
                         
 ここで▲7ニ桂成と金を取りました。どうやるか分かりませんでしたが最も有力だろうと思っていた手。△同玉はこの一手で▲5二金も最有力に思えます。ただこれは詰めろではないので手番が後手に。△7六桂は予想通り。▲7九銀は苦渋の手という印象。対して△3五歩はいかにも悠々とした手で,どうやら後手がはっきりと勝ちになったようだと思い,ここで検討を終りにして,あとは観戦のみ。▲4一金△6九金と進み,▲5二飛から最後の攻撃。ただ後手玉は詰まず先手玉も受けられませんので,後手の勝ちで終っています。
 深浦九段が二年連続で挑戦者に。羽生善治棋聖との五番勝負は6月11日に開幕とのことです。

 第一部定義三というのは名目的定義としか考えられません。一方,第一部定義六というのは,神に関する唯名論的観点というのを別にするならば,それ自体で実在的定義であると僕は考えます。よって,第一部定義四についていうならば,もしもそこで示されている実体というのが,第一部定義三でいわれている実体であるならば名目的定義であるとしか考えられませんが,第一部定義六でいわれている絶対に無限な実有というのを意味するのであれば,むしろ実在的定義であると考える方が妥当であるというのが僕の結論です。いい換えれば,属性ということばが『エチカ』における文脈において,どのような意味で用いられているのかという観点によって,第一部定義四の立場というものは,名目的に理解されるべきか,それとも実在的に理解されるべきなのか変わってくるのだろうと思うのです。したがって第一部定義四というのをただそれ自体で考えるならば,この定義のうちには,名目的な意味と実在的な意味との両方が含まれていると考えるべきなのだろうと思います。
 たとえば第一部定理二においていわれている属性というのは,それを認識論的に理解するにせよ実在論的に理解するにせよ,明らかに第一部定義三で定義されている実体の本性を構成するとされる属性に関係するような論証であるといえます。それはこの定理が,実際には実在するわけではないふたつの実体に関する論証であることから明らかでしょう。よってここで属性といわれているものを第一部定義四に訴えるのなら,第一部定義四は名目的定義であると理解されなければなりません。
 一方,たとえば直接無限様態に関する論証である第一部定理二一でいわれている属性は,その文章からも明らかなように神,すなわち絶対に無限な実体の本性を構成するものとしての属性についての言及です。よってこの属性の意味についてこれを第一部定義四に訴える場合には,第一部定義四は実在的な意味として理解されるべきであると思います。ましてこれは神の実在が論証された第一部定理一一よりも後,つまり仮に第一部定義六を名目的に理解した場合でも,すでにそこに実在的意味が付与された後ですから,なおさらそういえるのではないかと思います。
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女流王位戦&神の観念

2011-04-27 19:44:38 | 将棋
 昨年とは立場が入替っての再戦となった第22期女流王位戦五番勝負第一局。対戦成績は甲斐智美女流王位が5勝,清水市代女流六段が7勝。
 振駒で清水六段の先手。▲7六歩△3四歩に得意の▲6八玉。後手も構わずに△5四歩。角交換はせず▲7八玉と寄ったので後手の中飛車に。2筋を突いていないのを生かして先手は飛車を5筋に回って中央の位を奪還。さらに互いに飛車を7筋に回るという意表の展開から先手が端攻めを敢行。これがうまく決まって龍を作ることに成功しました。
                         
 先手が二手スキを掛けたところ。ここで△9八飛▲7八歩を決めてから△5七歩と叩きましたが,これが逆転を呼び込む一手となったと思います。第2図に。
                         
 ここは観戦中。▲7九玉と金を取られない方に逃げたのには驚きました。△9九飛成▲8九香と使わせたので△8三歩と打つのは,後の▲5四香がないので有力だったと思いますが単に△5五角。ここは後手がよいと思って観戦していましたが,詰めろが続かなくなり,先手の反撃を受ける展開に。ただ先手もそれまでの過程で受けに駒を投資したので,簡単には攻めきれないという,どちらが勝つのか分からない将棋に。最後は先手が下駄を預ける形で後手玉を受けの難しい形に追い込みましたが,後手が鮮やかな即詰みに討取り,熱戦を制しました。
 甲斐女流王位の先勝。第二局は来月18日です。

 僕はそれがどんな神であれ,それを信仰の対象とはしません。しかし,神,すなわち絶対に無限な実体というものが実在するということは知っています。これが僕の立場であって,重要なのは,その絶対に無限な実体が神といわれるという唯名論的観点の方にあるのではなく,絶対に無限な実体は確かに実在するということの方だと考えるのです。やはり僕もスピノザと同様に,ことばというものは表象にすぎないと考えていますから,絶対に無限な実体が何ということばで示されるのかということは,さしたる問題ではないと考えるのです。
 ことばと対峙させていうならば,重要なのは観念の方です。あるいはことばは表象,すなわち混乱した観念ですから,正しくいうならば十全な観念の方であるといった方がいいかもしれません。絶対に無限な実体というものがどういうことばで示されるかということとは関係なく,もしもそれが十全な観念としてある知性のうちに形成されるならば,それが実在するということもまた正しく理解される筈です。そしてその理解は,ただその絶対に無限な実体の十全な観念のみを十全な原因として,いい換えればそれ以外のどんな観念にも依拠することなく,必然的に出てくるのです。僕が第一部定義六をそれ自体で実在的定義であると理解するのはまさにこの部分においてなのであって,それが神ということばで示されているからというわけではありません。別に神が不在であると考えるのだとしても,絶対に無限な実体というものは,それが十全に認識される限り,その不在は疑い得ないからです。そしてだからこそ僕は,神がどういうものでなければならないのかということは,単に唯名論的な問題にすぎないのであり,それは解決されるべき重要な課題ではないと考えているのです。
 第一部定義四に戻れば,このような観点から,それは実在的定義であると考えることも可能であると僕は思います。そして,少なくとも後の『エチカ』の論証の過程において,この属性が神,すなわち絶対に無限な実体の属性であるという観点から訴えられるときには,この定義を実在的定義として理解しなければならないと考えます。そして実際に『エチカ』の中には,そういう部分が含まれているといえるのではないでしょうか。
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東日本大震災被災地支援競輪がんばろう日本in西武園&無神論

2011-04-26 19:00:34 | 競輪
 23日から予定されていた西武園記念は計画停電の懸念があったために一旦は中止が決定。しかしその心配が排除されたので,がんばろう日本という名称のGⅢが同じ日程で開催されることになり今日が決勝。日程も施行場も同一ですから,事実上の西武園記念としてこのブログでは扱います。並びは長塚-平原-飯嶋の関東,浅井-加藤の中部,中村-村上-市田の近畿で新田が単騎。
 浅井の前受けとなり3番手は長塚。新田がここを追走して中村が後方で周回。中村は上昇するも前は叩かず,長塚を牽制。打鐘前のバックで長塚がインを上昇。ちょうど打鐘のあたりで加藤をどかして番手に。一旦は連結が途切れたように見えましたが,平原-飯嶋-新田もつけ直しました。ホームから浅井が成り行き先行。村上が新田をどかすと,浮いた新田がバックで単独の捲り。いいスピードでしたが十分に引きつけてから長塚が発進すると新田の方がスピード負け。直線は関東勢の争いとなりましたが追撃を凌いで長塚が優勝。平原が2着で中を割ろうとするも飯嶋は3着まで。
 優勝した茨城の長塚智広選手は昨年11月の花月園メモリアル以来のGⅢ優勝。それ以来ずっと好調を維持し,強力メンバーのここも制しました。地元の平原に前を任されたものの,自分の競走に徹しての勝利。普通は新田が捲っている筈のレースで,やはりダッシュ力は驚異的。今年はビッグにも手が届くのではないかと思います。

 まず僕自身の立場というものを明らかにしておけば,僕もまたスピノザと同様に,唯名論の立場を採ります。そしてその唯名論に対する姿勢というものは,もしかしたらスピノザ以上に徹底したものであるかもしれません。というのも,スピノザは第一部定義六において,絶対に無限なabsolute infinitum実体substantiamについては神Deumというということを,一応は定義したわけですが,僕はなんとなれば,絶対に無限な実体に関して,それを神ということばで表現しなくても構わないくらいに考えているからです。いい換えれば,第一部定義六を単に神に関しての定義Definitioであると考えるならば,僕にとってはこの定義自体が不要なのです。もちろん僕も,もしも神というに相応しい何かがあるのだとすれば,それは絶対に無限な実有ens absolute infinitumをおいてほかにはないということには同意しますが,だからといってそれを神といわなければならないというようには思いません。別のことばでそれを表現することが可能であるなら,それでもいいだろうと思うのです。
 おそらくスピノザの哲学,ないしは『エチカ』に著されている思想というものを,こうした仕方で考えているのは僕だけではないだろうと思います。たとえば上野修さんは,スピノザの『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の解説書に,「無神論者」は宗教を肯定できるかという副題を付しました。ここでいう無神論者というのが,スピノザのことを意味しているのは明白です。すなわちスピノザは神を定義し,かつそれが実在するということを証明しているにも関わらず,上野さんはスピノザを無神論者と規定しているということになります。そしてこうした規定というのは,第一部定義六における神というものが,唯名論的な観点から,いわば任意的にそのようにいわれているにすぎないと考えているのでなければ,出てこないのではないかと思います。
                         
 ただし,僕自身はスピノザがことばの真の意味において無神論者であると考えているわけではありません。もしも神が信仰fidesの対象objectumであるのなら,スピノザは間違いなく無神論者でしょう。しかし神が知性intellectusの対象subjectumであると考えた場合には,スピノザは無神論者ではないと思いますし,僕自身も無神論者ではないです。ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheが「神は死んだ」というとき,それは信仰の対象としての神が死んだという意味と同時に,知性の対象としての神が死んだという意味も含んでいると僕が考えているということは,以前に説明した通りであり,その場合には僕もニーチェよりスピノザの立場に立ちます。
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皐月賞&唯名論的観点

2011-04-24 18:42:00 | 中央競馬
 中山競馬場での開催が中止になった関係で,日程が1週順延され,東京競馬場で開催された今年の第71回皐月賞
 ダッシュがよかったエイシンオスマンの逃げ。向正面でかなり後ろを離していき,2番手はベルシャザール。サダムパテックは中団やや前目のインで,並ぶようにナカヤマナイト。オルフェーヴルはその後ろ。前半の1000mは60秒3.前後半が完全一致のミドルペースですが,1頭が離して逃げてのラップですから,実質は超スローペースに近かったと思います。
 各馬が余裕をもたせてのレースでしたから脚を残した馬がほとんど。このために直線坂下あたりではではずらっと並ぶ混戦模様。しかし狭いところをオルフェーヴルが割って出ると,一気にこれを断ち切って抜け出し,3馬身もの差をつけて快勝。勝ち馬が抜けた後の進路を通ったサダムパテックが2着を確保。外をじわじわと伸びたダノンバラードが3着。
 優勝したオルフェーヴルは阪神で実施されたトライアルのスプリングステークスを優勝しての参戦。1度だけ大敗がありましたがそれ以外は堅実に走っていて,有力候補と目された1頭。瞬発力の勝負になったのはプラスだったと思いますし,少し早めに動き出したのも,結果的に絶好のタイミングだったと思います。父がステイゴールド,母の父がメジロマックイーン。全兄が2006年JRA賞最優秀2歳牡馬,2009年JRA賞最優秀4歳以上牡馬で現役のドリームジャーニーという血統ですから,無事なら長期にわたっての活躍が見込めるでしょう。Orfevreはフランス語で金銀を細工する職人。
 騎乗した池添謙一騎手,管理している池江泰寿調教師は共に一昨年の有馬記念以来の大レース制覇で皐月賞は初勝利。

 第一部定義六自体のうちに,神Deumの存在論的証明がすでに含まれている,いい換えれば第一部定義六は実在的定義であると考えるならば,第一部定義四もまた実在的定義である可能性は残ります。僕は第一部定義四に関しては現時点では明快に答えは出しませんが,第一部定義六については,ドゥルーズGille Deleuzeとは異なり,第一部定理一一を待たず,すでにその時点でも実在的定義であると考えています。ただし,このときに次の点にはよく留意しておく必要があると思います。
 実際のところ,第一部定理一一において,その実在が証明されているのは,絶対に無限なabsolute infinitum実体substantiamなのです。それが『エチカ』において神の存在論的証明となっているのは,第一部定義六において,神が絶対に無限な実有であると定義されているからです。しかし,絶対に無限な実体,ないしは絶対に無限な実有について,それを神といわなければならない根拠というのは,第一部定義六のうちにはありませんし,第一部定理一一のうちにあるというわけでもありません。
 スピノザは第二部定理四〇備考ニで,ことばを表象imaginatio,すなわち混乱した観念idea inadaequataと示していることからも理解できるように,ことばそのものに対してはほとんど信用をおいていません。これがスピノザが唯名論的立場に傾斜していく大きな理由であると僕は考えています。そして第一部定義六のうちにも,僕はスピノザのそういう立場というものが含まれていると考えています。すなわち,第一部定義六でスピノザが神についていわんとしていることは,絶対に無限な実体は神といわれなければならないということではなく,もしも神というに相応しいものがあるのだとすれば,それは絶対に無限な実体をおいてほかにはないという程度のことだろうと思います。つまり正しく理解するなら,第一部定義六が実在的定義であるということのうちにある意味は,絶対に無限な実有の実在であって,唯名論的な観点から考えれば,神の実在ではないと思うのです。そしてこうした観点からいうなら,おそらく神というものを実在的に定義すること自体は不可能ではないかと僕は考えます。
 これは解決するべき非常に重要な課題であると思われる方がいらっしゃるかもしれませんが,実は僕はさほどのものでもないと思っています。そこでここからはその理由を説明していくことにします。
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マイナビ女子オープン&存在論的証明

2011-04-22 19:01:06 | 将棋
 驚きの大逆転という結末での開幕となった第4期マイナビ女子オープン五番勝負の第二局。
 甲斐智美女王の先手で中飛車。ここも居飛車を選択した上田初美女流二段は穴熊に。先手から仕掛けて第1図に。
                        
 5五の歩を伸ばしたところで,この手は好手だったようです。ここから△6七と▲同銀△5六歩▲同銀という不思議な手順。しかし,この後で先手が一気の攻めを躊躇ったため,後手は飛車を成ることに成功しました。第2図に。
                        
 ここで▲6六歩と打ちましたが,たぶん5五に打った方が,実戦の進展からみて得だったと思います。△3六歩▲6五歩△3七歩成▲同馬のとき△5五歩(第3図)と打たれ,馬と飛車の両方を遮断されました。
                        
 はっきり後手がよいというほどでもないようには思えますが,どうもこの後はあまり先手に楽しみがないような展開だったと思います。途中からは大差になったようにすら感じられ,後手の勝ちとなりました。
 上田二段が連勝で初タイトルに王手。第三局は来月10日です。

 繰り返しとなりますが,ドゥルーズの考え方というのは,第一部定義六はその時点では名目的定義であって,それが第一部定理一一に至って実在的意味が付与されるというものです。この考え方というのをさらに詳しく分析するならば,第一部定義六そのもののうちにはそこで定義されている神の実在を確証するようなものは何もなく,それは第一部定理一一においてようやく明らかにされるということだと思われます。実際にスピノザが第一部定理一一において神の実在をわざわざ証明している以上,この理解は妥当なもののように思えます。確かに,もしも第一部定理六自体の中に,神の存在がそれ自体で確証されているならば,それをわざわざ証明する必要というものがないように思えるからです。
 しかし本当にそうであるのかどうか,つまり第一部定義六はその時点では名目的定義であって,実在的定義として解釈する余地がないのかと問われるならば,僕は必ずしもそうであるとはいいきれないようにも思えるのです。これは,スピノザが第一部定理一一で,神の実在というものを証明する,その証明方法に関連します。
 スピノザは自分の哲学を神から始めることを意図していましたから,神が実在するのかどうか,というよりも,神が実在するということを証明するということは,根本的な意味で最も重大な問題であったといっていいだろうと思います。実際に第一部定理一一には,その重大性が明らかとなっていると僕には思えます。スピノザがこの定理を多面的な角度から,いくつかの方法を用いて証明しようと試みていることが,その証拠ではないかと僕には思えるのです。
 それらの証明のうち,第三の証明,いわゆる存在論的証明というのが,最もよく,また最も簡潔に神の実在を証明し得ていると僕は考えています。しかるにこの証明というのは,第一部定義六に依拠するだけで可能なものです。すなわち神が絶対に無限な実体である以上,神が存在するか,それとも何も存在しないかのどちらかでなければならないが,何も存在しないというのは不条理であるから,神は存在するというのがこの証明だからです。そしてこの証明方法のうちには,絶対に無限な実体が必然的に存在しなければならないということが含まれていて,よって第一部定義六で定義されている神は,この定義のうちに,あるいはそう定義されていることによって,すでに実在が確証されていると考えることが可能ではないでしょうか。
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東日本大震災復興支援東京スプリント&実在的条件

2011-04-20 19:12:32 | 地方競馬
 上位拮抗という形容がぴったりで,馬券的には難解なレースとなった東京スプリント
 逃げ候補は2頭と考えていましたが,ポートジェネラルの発馬が悪かったため,ジーエスライカーがさほどの苦労もなくハナを奪いました。コアレスピューマが2番手につけ,ナイキマドリード,セレスハント,ティアップワイルドといったところが追走。ヤサカファインは中団の内目から。前半の600mは34秒1のハイペース。
 前に行った馬たちがほとんどばてず,直線はこれらと追ってきた馬たちが横に並んで激しいせめぎ合いに。これを制したのは内から捌いたセレスハント。外を回ったティアップワイルドが2着で,コアレスピューマが大健闘の3着。
 優勝したセレスハントは昨夏のサマーチャンピオン以来の重賞2勝目。相手関係は今日の方が上だったと思いますので価値ある勝利。ただ,もう1度走ればまた結果も変わると思えるメンバー構成で,今日は枠順などでも恵まれていた面があったことは確かだと思います。
 騎乗したのは福永祐一騎手で管理しているのは松永幹夫調教師。揃って東京スプリント初制覇です。

 第一部定義六の立場が,少なくともその時点においては名目的なものであるとすれば,この定義が意味しているところは,そうしたものが実在するのかどうかは不明ではあるけれども,実体のうち,無限に多くの属性によってその本性を構成されているものがあるとするならば,それをとくに神という,というほどの意味となります。そしてこの場合には,今回のテーマとして設定した第一部定義四についても,これを名目的に理解するべきではないかと僕は思います。
 確かに第一部定義六がその時点では名目的定義であったとしても,第一部定理一一でその実在が証明されることにより,そこで実在的意味が付与されます。そこで第一部定義四の方からこのことに着目するならば,そこでいわれている実体というのは,そのように実在すると証明されている神のことであって,だから第一部定義四は名目的定義ではなく,実在的定義であると主張することは可能なことだと思えます。しかし,第一部定義六で属性といわれているものは第一部定義四で定義されている属性でなければならないというのもまた一面の事実ではないかと思われます。そこでもしもその属性というものが実在的に定義されているのであるとするなら,第一部定義六もまた実在的な意味を含んでいなければならないだろうと思うのです。よって第一部定義六が名目的な定義として理解されなければならないのであれば,第一部定義四もまた名目的に理解されなければならないであろうというのが,僕のひとつの結論になります。
 このことから,第一部定義四をもしも実在的な定義として理解するためには,第一部定義六が名目的に理解されてはならない,つまり第一部定義六に実在的意味があるのでなければならないということがその条件になっていることが分かります。というのも,第一部定義四が実在的定義であるためには,何らかの実体が実在的でなければならないのですが,『エチカ』においては,第一部定理一四において,実在する実体は神だけであるということが証明されています。つまり第一部定義四がある実在的な意味を保持するためには,そこで定義されている属性というものが,神の属性である,しかも実在的な意味において神の属性であるという意味を保持しなければならないのです。
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被災地支援競輪in岸和田&第一部定義六の立場

2011-04-19 18:36:50 | 競輪
 先月19日から予定されていた岸和田記念は開催を自粛。今月の16日から予定されていた川崎記念は,計画停電の心配があったので早々に中止が決定。こうした経緯から川崎記念出走予定の選手が岸和田に集結し,被災地支援競輪in岸和田という名称のGⅢが開催されることとなり,今日の決勝を迎えました。並びは武田-神山の茨城栃木,海老根-五十嵐の南関東,深谷-山口の中部,村上には伏見で坂本が単騎。
 迷いなく五十嵐がSを取って海老根の前受け。3番手に武田,5番手に村上,7番手に深谷となり,坂本はこのラインを追走。残り2周半で深谷が徐に踏み上げていき,打鐘前のバックで先頭に。村上はこのラインを追走する構えも,前の海老根が引かず,4番手を取り合うような形で外に浮いてしまい万事休す。後方となった武田がバックから捲っていくと,好回転で深谷を捕え,直線も詰め寄らせずに優勝。神山を捌いた山口が2着。外を強襲した伏見が僅差の3着。
 優勝した茨城の武田豊樹選手は先週の共同通信社杯から連続優勝。これを記念競輪とみなすかどうか難しいところですが,1月には和歌山記念を制しています。後方ですからあまりいい位置取りだったとはいえないと思うのですが,好調なのでしょう,鮮やかな捲りでした。今年はこれまでで最高の活躍を期待できるのではないかと思います。
                         

 第一部定理一から実体の実在を証明することが可能であったにも関わらず,スピノザはそれをしませんでした。昨日もいった通り,僕の想像では,その理由はスピノザがそれを必要とはしていなかったからです。実在的と名目的の問題の発生について示したように,スピノザにとって本当に必要であったのは,神の実在の証明なのであって,何らかの実体の実在の証明ではなかったと思われるからです。逆にいえば単に実体といわれるものについては,別にそれがただ名目的なものにすぎなくなってしまっても,一向に構わなかったのだろうと思います。したがって,第一部定理一は確かに実体が実在的であるという意味を含有し得るような定理であると僕は考えますが,だから第一部定義四は実在的な定義である,いい換えるなら第一部定義四で示されている実体というのは,そのような実在的な意味での実体であって,名目的な意味を保有するにすぎないような実体ではないと主張するのは,根拠としてはいささか薄弱すぎるように思います。
 ということで,今度は神という実体の実在,そしてそれがどのように論証されるのかという点に問題が移ります。神の実在は,第一部定理一一で証明されることになります。これは第一部定理一一に関しては,少なくともこれを名目的な定理であると理解することはできないということを意味します。そしてその後,第一部定理一二と第一部定理一三,およびその系までは名目的なものと理解できないことはないと思いますが,第一部定理一四以降に関しては,明らかに神の実在というものが論証された上で記述されていると理解するべきでしょうから,それ以降の『エチカ』はすべて実在的な意味だけを有していると考えるべきだろうと思います。
 第一部定理一一で必然的に存在するということが証明されている神,この神は,第一部定義六で定義されている神です。そこでもしも,これはそのように定義されているものが必然的に存在するということが証明されているのだと考えるなら,第一部定義六の立場は,少なくともその時点では名目的である公算が高くなります。ドゥルーズの考え方はこれに近く,第一部定義六で名目的に神といわれているものに,第一部定理一一で実在的な意味が付与されると結論しています。
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京急電鉄賞東日本大震災復興支援京浜盃&実体の実在

2011-04-18 18:47:14 | 地方競馬
 社会情勢を考慮したため中止となった先月31日に予定されていた南関東クラシック最大の前哨戦である京浜盃が,日程を繰り下げて今日,行われました。サティスフェールが返し馬の段階で故障したため除外となり,15頭でのレース。
 発馬で躓くアクシデントがあったように見受けられましたが,クラーベセクレタが先手を奪いました。リアンローズとゴーディーの2頭はほとんど差がなく続きました。隊列が決まってからはずっと200mを12秒台の一貫したラップ。ミドルペースだったものと思います。
 3コーナーを過ぎるとゴーディーは後退。リアンローズがクラーベセクレタを単独で追い掛ける形になりましたが,直線に入るあたりでもう手応えには差があるように感じられ,実際にその見た目の通り,危なげなく逃げ切ってクラーベセクレタの優勝。コーナーでやや強引とも思われるくらいに外を追い上げてきたキスミープリンスが直線ではリアンローズを捕えて2着。リアンローズが3着。概ね現状の力関係を反映した順当な結果であったと思います。
 優勝したクラーベセクレタは2月にユングフラウ賞を制した後,桜花賞が中止となってしまったため,こちらに回ってきました。仮に羽田盃から東京ダービーという牡馬相手の路線を選択しても,今年のレベルなら最有力候補になるものと思います。馬名はスペイン語で秘密の鍵。
 騎乗した大井の戸崎圭太騎手はユングフラウ賞以来の南関東重賞制覇。京浜盃は一昨年,昨年と勝っていて3連覇となる3勝目。管理している船橋の川島正行調教師は一昨年以来2年ぶりの羽田盃3勝目です。

 第一部定理一が名目的な内容であるとするなら,これに伴って第一部定義五も名目的な定義であるということが出てきます。第一部定義五が実在的であるとするなら,第一部定理一は実在的でなければならず,その場合には第一部定義三の立場も実在的でなければなりませんが,第一部定義三をそのように読解することはできないということがすでに明らかになっているからです。したがって第一部定義五の意味というのは,もしもほかのものによってそれが存在し,またほかのものの観念によってそれが考えられるものがあるとするなら,そうしたものを実体の変状,ないしは様態ということにするというようなことになります。
 これが『エチカ』の全体を貫く論証過程であることになるのですが,そうしたことを省いて,第一部定理一だけを注視するならば,これとはやや異なった結論を得ることが可能ではないかと僕は考えています。つまり第一部定理一というのは,神が実在することを論証するための前段階として名目的に論証されている事柄であるということは否定し難いのですが,しかしこのような仕方で論証された第一部定理一というのは,実はそれだけで,実体の実在を意味として含有し得ると僕は考えるのです。
 これは次のような事情に依拠します。第一部定理一自体は,実体の実在も様態の実在も論証しているわけではなく,ただ様態が実在する必要条件として実体はあるということをいっているにすぎません。しかし,第一部公理一は,すでに,もしも何かが実在するとしても,それは実体か様態のどちらかであるということを示しています。したがって,もしも様態が実在するために実体が必要であるのならば,実体が実在するか,そうでなければ何も実在しないか,そのどちらかでなければならないということをそれ自体で明らかにしているといえるでしょう。しかし,何も実在しないと主張することはそれ自体で不条理な筈です。これはスピノザ自身が第一部定理一一の第三の証明で用いているのと同じ論理ですから,少なくともスピノザがこれを否定することはできません。よって実体は実在することになるでしょう。実際にスピノザはこのような仕方で,少なくとも何らかの実体は実在するということを証明し得た筈だと僕は思っています。それをしなかったのは,おそらくスピノザにとっては,それが不要であったからだと思うのです。
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渡る世間は鬼ばかり&第一部定理一

2011-04-17 18:24:12 | 歌・小説
 僕は大学を卒業して就職した後,少しの期間になりますがその勤務先に併設されていた宿舎で生活をしていました。もう20年近く前のことになります。ここは2人部屋で,隣の部屋で生活することになった同僚のひとりが,テレビドラマの「渡る世間は鬼ばかり」を視ていました。大学を卒業したばかりの人間が視るようなドラマであるという印象が当時の僕にはなかったので,この話を聞いたときにはびっくりしたのですが,物は試しだからと,興味本位ではありましたが,僕も視てみることにしたのです。しかし何回か視ているうちに,どうしてもおかしくなってしまい,すぐにやめたのです。
 僕がこのドラマを視ておかしくなってしまった理由というのは,とにかく登場人物がよく喋る人ばかりだったからです。人間というのはこんなに喋るものではないという気がしまして,アンリアルなものに感じられたのです。
 ドストエフスキーの小説が濃密な理由のひとつとして,会話の分量が多いということを僕は示しました。それでいうなら,ドストエフスキーの小説もまた,アンリアルでおかしなものと感じそうなものですが,実際にはそうはなりませんでした。ではどこに差異があったのかといえば,それは冗長の理由というところにあります。つまり,ドストエフスキーの小説の登場人物の冗長には,僕には確かにある理由というか必然性が感じ取れたのですが,「渡る世間は鬼ばかり」の登場人物の冗長には,それが少しも感じられなかったのです。
 実際に,よく喋る人間が現実的に存在するということ自体は僕も認めます。「渡る世間は鬼ばかり」のように,だれもかれも喋りまくるというのは,本当はおかしいことは思いますが,それ自体は許せないことではありません。しかし,たとえばドストエフスキー小説の登場人物が,自らの考えや情念を的確に表現できないがゆえに冗長になる,そして僕はここにある種のリアルさを感じ取るわけですが,対して「渡る世間は鬼ばかり」の登場人物は,非常に的確に自分の精神に浮かんでいることをことばとして表現しているのです。
 人間というのはこんなに喋るものではない,そしてそれだけではなく,人間というのはこんなに正しく自分の気持ちをことばにできるものではない。僕がこのドラマをおかしいと感じたのには,そういった理由もあったのです。

 一方で,第一部定義三の立場が名目的であるからといって,直ちに第一部定義四も名目的定義であると理解しなければならないというわけではないと僕が考えていることは,すでに説明した通りです。なぜなら,はっきりと名目的部分としか考えられない第一部定理五とか第一部定理六に示されている実体substantiaというのは,第一部定義三で示されている実体であると考えるほかありませんが,第一部定義四に示されている実体というのは,それを認識論と実在論のどちらの立場から解釈するにせよ,第一部定義三で示されている実体ではないと考える余地があると思われるからです。そこでこちらの方の考え方を補強するための議論を進めていくことにします。
 まず,第一部公理一というのは,第一部定義三と第一部定義五から,自然Naturaのうちには実体と様態modiだけが存在し,ほかのものは存在しないということを意味します。しかし同時に,様態はほかのもののうちにあるといわれていて,様態のほかのものは実体しかないといわれているのですから,つまりは実体と,実体のうちにあるものとしての様態だけが存在し,ほかのものは存在しないということも,単にこの公理Axiomaから明らかになっているといえるでしょう。そしてそうであるならば,もしも様態が存在するのであれば,その様態をうちに含むものとしての実体もまた存在していなければならないということ,つまり様態の存在existentiaには実体の存在が必要条件であるということが,すでにこの公理から導かれていると理解できます。これを示しているのが第一部定理一です。
 「実体は本性上その変状に先立つ」。
 すでに上述のことでこの定理Propositioは証明されていますから,ここではそれ以上の説明はしません。
 次に,この証明Demonstratioは,名目的定義である第一部定義三を証明のために必要としています。よってこの定理が実在的であると考えることは不可能です。つまりこの定理の意味は,実体が様態よりも先立って実在しているということではなく,もしもそれらが実在するとしたら,様態の実在には実体の実在が先立っていなければならない,ということになるでしょう。つまり,この段階ではまだ,実体および様態の実在というものが明示されているはいえないということになります。
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東京中日スポーツ賞クラウンカップ&第一部定義三の立場

2011-04-15 19:04:38 | 地方競馬
 およそ1ヶ月の自粛を経て,今週火曜から再開された南関東競馬。当初は13日に予定されていた第17回クラウンカップは日程を繰り下げ,今日の施行となりました。
                         
 最内からマルヒロブライティの逃げ。タイセイヴィグラス,ナターレ,ドラゴンウィスカーの4頭はほぼ一団でのレース。1コーナーを回ったあたりで後方集団にアクシデントがあったように見受けられました。あるいはマニエリスムにも何らかの不利があったかもしれません。前半の800mは50秒3で,今日はこれでもハイペース。
 4コーナーを回ってマルヒロブライティは一杯。自然とタイセイヴィグラスが先頭に立ちましたが,外のナターレは手応えに余裕があり,騎手が後ろを確かめてから追い出すと先頭に。ドラゴンウィスカーが必死に追ったもののなかなか差は詰まらず,大外に持ち出したヴェガスが鋭い伸び。3頭の接戦でしたが一杯に凌いだナターレの優勝。2着にヴェガスで3着がドラゴンウィスカー。
 優勝したナターレはデビューから連勝。1戦を挟んで年明け初戦となった前走の桃花賞で2着。牝馬では上位の力の持ち主。牡馬相手でどうかというところはありましたが,今年は相対的なレベルは牝馬の方が高いようです。父はクロフネ,母の父がダンスインザダーク。祖母の姉にセントウルステークスを勝ち,重賞の勝ち馬を3頭産んだエリザベスローズ。ナターレはイタリア語でクリスマス。
 騎乗した大井の的場文男騎手は昨年暮れの東京シンデレラマイル以来の南関東重賞制覇。管理している川崎の内田勝義調教師とともにクラウンカップは初勝利です。

 第一部定理五や第一部定理六というのは,明らかに『エチカ』における名目的部分だと考えられます。ところで,これらの定理というのは,実体についてある事柄を証明しようとしているという点で,共通しています。しかるに『エチカ』では,実体というのは第一部定義三で定義されています。つまり,第一部定理五と第一部定理六というのは,第一部定義三で定義されているものについて,名目的な方法で証明しているのです。よってこのことから,第一部定義三もまた,名目的に定義されているのだという結論が出てくると思います。なぜなら,もしも第一部定義三が実在的な意味で定義されているなら,それについて証明している第一部定理五も第一部定理六も,やはり実在的な意味を伴わなくてはなりませんが,これらの定理は実在的であると考えることは不可能だからです。このことから,『エチカ』における名目的部分というのは,単に第一部定理一一に至る論証の部分,すなわちそこまでの定理や系の部分だけではなく,定義の部分にも生じているということが理解できます。よって,今回のテーマである第一部定義四も,実在的ではなく名目的であるという可能性があるということは確かなことだといえるでしょう。すなわち実在的であるか名目的であるかという問題は間違いなく発生しているのです。
 第一部定義三が名目的定義であるとすれば,それは次のような意味をもつことになります。すなわち,実体なるものが実在し,それはそれ自身のうちにありまたそれ自身によって考えられるという意味合いでこの定義を解釈することはできません。むしろここでいわれているのは,そうしたものの実在は不明であるが,もしもそれ自身のうちにあってそれ自身によって考えられるもの,いいかえればそれの観念を形成するためにそれ以外の観念を必要としないものについては,それを実体ということにするという程度のことです。
 第一部定義四が,こうした立場を保持していると考えられる実体の本性についての定義であると仮定するなら,認識論と実在論のどちらの立場で考えたとしても相違があるわけではありません。したがってこの観点に立つ限り,第一部定義四もまた名目的にしか読解し得ないということになるでしょう。
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ディープインパクト&名目的部分

2011-04-13 18:27:34 | 名馬
 日曜の桜花賞マルセリーナの優勝。父は日本の競馬史上の最強馬,ディープインパクトです。
                         
 2歳12月のデビュー戦を勝つと続くオープンを驚異的な末脚で圧勝。一躍スター候補に。弥生賞が思いのほかの辛勝だったため,皐月賞はほかのレースほどの支持は集められませんでしたが,発走後の不利をはねのけて優勝。ダービーは大外を回って楽勝しました。
 夏場も放牧には出されず厩舎で過ごし,秋初戦の神戸新聞杯を快勝して菊花賞へ。ライバルの乾坤一擲のレース運びに見た目はピンチを思わせましたが,結果的には2馬身差の快勝でした。これだけの馬なので個人的にはジャパンカップ出走を望んでいましたがパスして有馬記念に。しかしここで追い込み届かず2着と,初の敗戦を喫しました。弥生賞や皐月賞も,ほかのレースほどのパフォーマンスは披露できていなかったので,中山コースはあまり向いていなかったのだろうと思います。ただ,無敗で三冠を達成したのですからJRA賞では年度代表馬に。
 翌年はステップの阪神大賞典を勝利して天皇賞に。後方待機から4コーナー先頭という無謀にも思えるレースぶりながら3馬身半もの差をつけて圧勝。宝塚記念は馬場が悪くなりましたがそれも関係なく4馬身差で大レース5勝目をあげました。
 渡仏して凱旋門賞へ。しかしいつものようなレースができず3着入線。しかもレース後にイブラトロピウムという禁止薬物が検出されたために失格。みそをつける形で負けられなくなった帰国初戦のジャパンカップを優勝すると,引退レースの有馬記念でも前年の雪辱を果たして大レース7勝目で有終の美を飾りました。JRA賞では2年連続の年度代表馬に。また,2008年には殿堂入りを果たしています。
 現3歳世代が初産駒。これだけの成績を残した馬ですから繁殖相手には恵まれる筈。マルセリーナの桜花賞制覇は,この馬の種牡馬実績のプロローグにすぎないものと思います。

 スピノザが『エチカ』を神Deusから開始するためには第一部定理一一まで待たなければならなかった。これは別のいい方をするなら,神から哲学を開始するためにそれだけの手続きを経なければならなかったということだと思います。そしてその部分にこそ,実在的realiterと名目的という問題の発生の鍵があると僕は思っています。つまり神が実在的であるということが,第一部定理一一まで至って初めて証明され得るならば,そこまでの部分に関しては,必ずしも実在的な意味でいわれているのではなく,単に名目的な意味だけをもたされているということは十分に可能だからです。そしてもちろん今回のテーマである第一部定義四というのは,第一部定理一一よりも前の部分に該当するのです。
 しかし,このことはあくまでも可能性という段階にとどまります。現実に『エチカ』の中に,名目的な部分,あるいは名目的にしか解釈することが不可能であるというような部分があるのでない限りは,実際にはこうしたことは問題にならないでしょうし,問題として措定する必要もないでしょう。ところが,『エチカ』には現実にそうした部分があるとしか僕には思えません。だからこそ,この実在的と名目的という問題が確かに生じていると僕は考えているのです。
 そこでまず,第一部定理一一に至る手続きの中で,確かにこれは名目的にそのようにいわれているのだとしか考えられないような代表的な部分を紹介します。これは,そもそも名目的であるということがどのような意味を有するのかということを理解する上でも役立つのではないかと思います。
 ここではだれでもそう納得できるような部分ということで,第一部定理五を採り上げることにします。この定理Propositioというのは明らかに名目的であるとしか考えられません。これは背理法によって簡単に証明できます。なぜなら,もしもこの定理が実在的であるとするなら,実際にふたつあるいは多数の実体substantiaが存在し,それらの実体は同一の属性attributumを有さないということになります。しかし第一部定理一四が述べていることは,自然Naturaのうちに存在する実体は神だけであるということです。つまり実際には複数の実体が存在するわけではないのです。よって第一部定理五は,実際に複数の実体が実在し,それらは同一の属性を有していないというように実在的に証明されているのではなく,仮に複数の実体があり得るとしても,それらが同一の属性を有することはないと,名目的に証明されていることになります。同様のことは次の第一部定理六を例にしてもいえると思います。
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東北地方太平洋沖地震被災地支援共同通信社杯春一番&問題の発生

2011-04-11 18:24:18 | 競輪
 東日本大震災の後,競輪は開催を自粛していましたが,今月に入って西日本を中心に再開。武雄競輪場で予定されていた共同通信社杯春一番も7日から予定通りに実施され,昨日が決勝でした。並びは平原-武田-長塚-芦沢の関東,松岡-合志-井上の九州で,岩本と浅井は単騎。
 牽制となりましたが誘導の後ろには松岡が入って前受け。4番手に平原,8番手に浅井で,岩本は浅井を追走するレースに。残り2周半前後から芦沢が上昇し,平原がこれを追う形に。残り2周のホームで芦沢が前を斬り,平原以下を迎え入れると,浅井が外を上昇して5番手。松岡は引いて7番手で打鐘。一列棒状のままホームから平原が先行。浅井の捲りは3番手の長塚が牽制。直線から武田が踏み出すと抜け出して優勝。マークの長塚も続いて茨城のワンツー。直線で内目を突っ込んだ松岡が3着。
 優勝した茨城の武田豊樹選手は2月の東王座戦を優勝していて今年のビッグ2勝目。通算では7勝目。粘られる危険性はありましたが,芦沢のアシストでうまく避けられました。結果的にやや単調な展開になりましたので,レース自体は楽だったのではないかと思います。茨城も被災地で,ワンツーはいいニュースでしょう。
                        

 第一部定義四に含まれていると僕が考えているふたつの論点のうち,認識論と実在論の問題に関しては,スピノザがこの定義を記述するときに,それを字義通りに理解しようとするならば,認識論的な意味でしか読解できないという点から発生しています。よって,これについてはそれ以上の特別の説明というのは不要であると思います。しかし実在的と名目的という問題がどうして生じてしまうのかということについては,少なくともこの定義自体から明らかになるとはいえません。そこでまず,なぜこうした問題が発生してくるのかということを考えておくことにします。
 これは岩波文庫版の『エチカ』冒頭の訳者である畠中尚志さんの解説でも触れられていることですが,スピノザは同時期の哲学者であったライプニッツと会見した際に,世間一般の哲学は被造物,すなわちスピノザの哲学でいうところの実体の変状ないしは様態から始まり,デカルトの哲学は精神から始まるが,自分の哲学,つまりスピノザの哲学ですが,これは神から始まるのだという主旨のことを述べたと伝えられています。
 しかし,実際に『エチカ』を読んでみればすぐに分かることですが,『エチカ』の冒頭,すなわち第一部定義一というのは自己原因についての定義です。したがってこれでみれば,『エチカ』は神から始まるというよりも,自己原因から始まっているといった方が正しいようにも思えます。そして『エチカ』に初めて神Deusという単語が登場するのは,いうまでもなく第一部定義六なのです。
 しかも,ことはこれだけにはとどまりません。スピノザは第二部定義六で,事物の実在性と完全性を等置したことからも理解できるように,実在的であるということに,別のいい方をするなら事物が有であるということについて,ある特別のこだわりを有した哲学者でした。したがって神についてもまずはその実在ということが当然ながら最初の,そして最大の問題となってくるのですが,実際に『エチカ』において神が確かに実在するといわれるのは,実に第一部定理一一まで待たなければなりません。つまりスピノザは自分の哲学は神から始まると述べたとされますが,実際の『エチカ』は,第一部定理一一になって,ようやくその開始地点に到達したといえるのです。
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桜花賞&注意点

2011-04-10 18:49:41 | 中央競馬
 この路線の絶対的王者と目された存在の戦線離脱で一転して混戦模様となった第71回桜花賞
 事前の宣言通りにフォーエバーマークの逃げ。ダンスファンタジアが先行勢の内目,マルセリーナとホエールキャプチャは後方に控えての競馬。前半の800mは46秒7のミドルペース。ただしフォーエバーマークはいくぶん離しての逃げでしたので,実質的にはスローのレースだったかもしれません。
 楽に逃げられたこともあり,フォーエバーマークもかなり粘りました。ホエールキャプチャは直線に入るところで大外に持ち出し鋭い伸び。一旦は先頭に立つかに見えましたが,ほぼ同じ位置から馬群を捌いてきたマルセリーナも同じような伸び。結果的に通ったコースの差もあったかマルセリーナが優勝でホエールキャプチャは2着。最後尾からトップの上がりを記録したトレンドハンターが3着。
 優勝したマルセリーナは昨年12月の新馬を勝った後,牡馬相手の重賞で3着。そして牝馬オープンを勝っての参戦。出走メンバーの中では最も底をみせていなかった馬で,分からない面もありましたが,順当ともいえる勝利。この路線では大きく崩れることは考えにくいように思います。父は2005年に皐月賞,ダービー,菊花賞を勝ってJRA賞年度代表馬,2006年には天皇賞,宝塚記念,ジャパンカップ,有馬記念と勝ってやはりJRA賞年度代表馬に選出されたディープインパクト。マルセリーナは人名ですが,どこからとったものかは不明です。
 騎乗した安藤勝己騎手は昨年のNHKマイルカップ以来の大レース制覇。桜花賞は2006年,2007年,2009年と勝っていて,2年ぶりの4勝目。管理している松田博資[ひろよし]調教師は昨年の阪神ジュベナイルフィリーズ以来の大レース制覇で,桜花賞は2009年以来2年ぶり3勝目。
                         

 実在的と名目的を巡る問題を考察していくにあたっては,次の点に十分に注意しておいてほしいと思います。
 第一部定義四は単に名目的に定義されているのではなく,実在的な意味も含まれているという場合には,定義されている属性は実体の本性を構成すると記述されているわけですから,実体もまた実在的なものでなくてはなりません。これは説明した通りです。ところで実体というのは,今回のテーマとして設定している第一部定義四のひとつ前の第一部定義三で定義されています。したがって,第一部定義四が実在的であるためには,第一部定義三もまた名目的ではなく実在的な定義でなくてはならないとお考えになる方がいらっしゃるかと思うのですが,僕は必ずしもそのように考えているというわけではありません。仮に第一部定義三が名目的な定義であるにすぎないとしても,第一部定義四は実在的な意味を含み得る場合があると僕は考えているのです。
 これは次のような事情にあります。
 第一部定義四が実在的な定義であるための条件は,何らかの意味において実体というものが実在的であるということです。しかし,何らかの意味において実体というものが実在的であるために,実体の定義自体が実在的なものでなければならないというようには僕は考えません。というのは,仮に実体というものが名目的にしか定義され得ない,あるいは現実的に名目的にのみ定義されているようなものであるとしても,ある実在的であるもの関して,それが名目的に定義された実体であるとみなすことが可能であると僕には思えるからです。とくに『エチカ』の場合,このことは第一部定義三および第一部定義四とは無関係に,第一部公理一を用いるだけで可能です。したがって,たとえばAというものがあり,このAは第一部定義三における実体であると導き出すことができ,それは単に名目的な意味を有しているにすぎないのであるとしても,Aは実在的であるということが何らかの方法によって可能となるならば,要するにある実体は実在的であるということが証明されたことになります。しかるにこの実体の本性を構成しているものが属性ですから,この場合には属性もまた実在的であるといい得るということになります。つまり論理的可能性としては,第一部定義三が名目的であっても第一部定義四は実在的であり得ると僕は考えるのです。
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ジャパンプロレス&実在的と名目的

2011-04-09 18:33:42 | NOAH
 全日本プロレスに1987年のピンチをもたらしたのはジャパンプロレスだったのですが,このジャパンプロレスと全日本プロレスが提携するようになったのは1984年の暮れのことでした。
 全日本プロレスの暮れの風物詩といえば世界最強タッグ決定リーグ戦。『馬場伝説』に掲載されている年表で調べてみたところ,この年の最強タッグの最終戦は12月12日。それまでは国技館で行われていたのですが,この年は横浜文化体育館。僕の生年月日については以前に記しましたが,誕生日プレゼントということでこのチケットを買ってもらい,アリーナで生観戦しています。プロレス観戦ということならそれまでにも経験がありましたが,全日本プロレスはこの日が初めてであったと記憶しています。メーンは鶴田,天龍組とハンセン,ブロディ組の公式戦で,鶴田組が反則勝ちでリーグ戦の優勝を決めました。
 おそらくはテレビ局同士の契約があったためだろうと思いますが,ジャパンプロレス勢の試合が日本テレビの全日本プロレス中継で放映されるようになったのは翌年になってから。ただ,ジャパンプロレス勢はそれより前から全日本プロレスのリングには上がっていまして,実際にこの日もジャパンプロレスのエースであった長州は試合をしています。
 全日本プロレスはずっと日本人選手と強力外国人選手の対抗という形でストーリーが展開していました。つまり日本人選手同士の対戦というのはほとんどなかったわけです。しかしこれを機に,ジャパンプロレス軍団と全日本プロレスの対抗,そこに外国人選手も絡むということになり,だいぶ様変わりしました。
 天龍が鶴田に対して反旗を翻したのも,あるいは三沢が打倒鶴田の旗を上げたのも,この日本人選手同士の対抗という路線に沿ったものであったとはいえます。そういう意味では,実は全日本プロレスがピンチをチャンスとすることができたことの要因の一端は,このときの全日本とジャパンによる対抗という面があったのだということも可能かもしれません。そう考えれば,後に全日本と訣別し,新日本にUターンした選手たちにとっては,皮肉な結果であったともいえるでしょう。

 第一部定義四のうちに含まれていると僕が考えている認識論と実在論を巡る問題とは別の問題ですが,これについてはドゥルーズGille Deleuzeが『スピノザと表現の問題Spinoza et le problème de l'expression』で用いているいい方に倣い,実在的realiterであるかそれとも名目的であるかを巡る問題と規定しておきます。ただ,ドゥルーズは著書において,実在的とはどういう意味であり,名目的とはどういう意味であるのかということを具体的に説明しているわけではありません。そこでまず,この両者の差異を,この考察では僕がどのようなものとして理解するのかということを説明しておくことにします。
                         
 もしも第一部定義四が実在的な定義Definitioであるとするなら,属性attributumというのが実在的なものであるということが前提されます。具体的な意味としては,この定義を認識論的な定義と理解するのか,それとも実在論的な定義として理解するのかによって異なってきますので,それを明らかにすることは,少なくとも今の段階ではできません。ただ,そのどちらの場合であれ,この定義を実在的な定義と解する以上は,何らかの意味で実体substantiaというものが実在的なものであるということもまた前提されなければなりません。というのは,属性というのは実体の本性essentiaを構成すると知性intellectusが認識するcognoscereもの,ないしは実体の本性を構成しているところのものですから,属性が実在的であるためには実体もまた実在的であるということが必要条件となってくるからです。実在的ではないもの,あるいは実在的であるかどうかが不明であるものについて,認識論的な意味であれ実在論的な意味であれ,その本性は実在的であるということが不可能であるということは,それ自体で明らかだと思います。
 一方,もしも第一部定義四は実在的な意味は含まず,単に名目的なものとして定義されているにすぎないのであるとすれば,属性は実在的である必要はありません。したがって実体についてもいかなる意味でまた同様です。よってこのような仕方でこの定義を理解するのであれば,実体というものは実在的なものであるかどうかは不明であっても,もしもその実体の本性を構成すると知性が知覚するものについては,それを属性というというのが認識論的な理解の場合の意味になりますし,同様にその実在性realitasと関係なく,実体についてその本性を構成するものを属性というというのが,実在論的に理解する場合の意味となります。
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