スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&第三部定理一

2011-08-16 23:10:49 | 将棋
 1組トップ2の対戦となった第24期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第一局。
 振駒で久保二冠の先手。石田流を目指しましたが丸山九段が4手目に角交換。先手がいきなり仕掛けて乱戦となり角を打っては取り合うような力戦。先手が居飛車,後手は袖飛車という形になりました。また角を打ち合って時間を投入しての難解な中盤戦。後手はじわじわと盛り上がっていき,駒落ちの上手のような指し方だと感じました。このあたりは僕も後手ペースであったように思います。こういう将棋は先手がどこかを食い破るか,後手が完封してしまうかが焦点となります。本局は先手が2筋方面から手を作ることに成功,少なくとも完封されるおそれはなくなりました。第1図から観戦。
                         
 陣形が違いすぎるので,先手の方が勝ちやすそう。とくにゆっくりしていれば後手はどんどんチャンスを減らしていきそうです。☖7六歩と叩いて☗同銀に☖7三銀と角に当てました。角を逃げれば金に逃げられますから☗4四桂と取るだろうと思いましたが先に☗2四歩と突き出しました。☖同金は当然でそれから☗4四桂。☖7四銀も当然。検討する間もなく☗3二桂成でしたがこれは☗3三金~☗2四飛を狙った厳しい手。歩は足りているので連打かと思いましたが☖2八歩☗同飛に☖2六歩(第2図)でした。
                         
 手番を得て先手は☗7三金。飛車は渡せないと☖9二飛。☗7ニ金は当然で☖同飛は目から火が出ますので☖4三銀と引きました。☗4二成桂は自然な一手。ただこれでも☖7二飛とはできません。そこで☖6四桂と攻め合いましたが,質駒をひとつ拵えた意味もあり,損得は微妙だったと思います。☗4三成桂は検討の第一候補。ここで☖7二飛と取りました。いろいろ考えましたが☗4四銀は最もシンプルに思える手ですから,これで勝てれば最善だと思います。☖7六桂は攻めるならこれしかないところですが☗3三銀成☖2五玉☗5八角(第3図)で外されてしまいます。これははっきり先手の勝ちになったと思い,検討は終了しました。
                         
 この後,攻め合って勝つことは望めない後手が入玉を目指して猛烈に粘りました。実際に僕が考えていたよりかなり難しかったと思いますが,最後は捕まって先手の勝ちとなりました。
 久保二冠が先勝。第二局は31日です。

 これでスピノザの哲学における能動actioおよび受動passioということを僕がどのように理解するのかということについては説明することができました。よって今回の考察の内容として僕が企てている事柄のうち,第一の部分に関しては,そのほとんどが終了したといえます。ただし,もう少しだけ述べておきたい事柄が残っていますし,後では,人間の精神mens humanaの能動および受動に関して,具体的に説明するという意図を有していますから,まずそこの部分についてのスピノザの言及というのがどのようになっているのかということを詳しくみておくということにします。
 このあたりのことは別の考察の中でも何度か触れたことがあるのですが,ここでは改めてそれらの事柄を分析します。まず第三部定理一です。
 「我々の精神はある点において働きをなし,またある点において働きを受ける。すなわち精神は妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きをなし,また非妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きを受ける」。
 まず,ここでも我々ということばが出現していますが,この定理Propositioにおける我々に関しては,現状の考察から離れ,単に人間のという意味に理解することにします。したがってこの定理は人間の精神に関するある言及であると理解することになります。これを一般的に理解すると,また精神とは何であるかという別の問題が生じてくることになるので,その煩雑さを現時点では回避することがその目的です。また,妥当な観念idea adaequataとはこのブログでいうところの十全な観念idea adaequataであり,非妥当な観念idea inadaequataとはこのブログでいうところの混乱した観念idea inadaequataであるということは同じです。これは各々のラテン語をどう日本語に訳するかということの相違でしかありません。
 次に,この定理の前半部分ですが,これは現実的に存在する人間の精神には能動と受動が現実的に生じるという意味に理解できると思います。僕はすでに,現実的に存在するどんな個物res singularisにも,能動と受動が必然的にnecessario発生するといことについては証明しました。人間の精神というのは,神Deusの思惟の属性Cogitationis attributumの有限様態,すなわち個物にほかならないわけですから,そこの部分についてはすでに証明されていると考えます。よってこれについてはそれ以上の証明はしません。
コメント
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